・・Ocean Bright・・ ◆黒猫が往く◆

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13.覚悟

 その眠りは、とても心地良かった。
 ──『何も考えずに……』──
 その声も、心地良く、すんなりと隼人の脳裏に滑り込み、なにもかも……自分の全てを休息へと誘ってくれた。
 夢も見なかった。

 このまま……目覚めなければ、本当に、こんなに楽な事はないと思える。
 このまま……。
 このまま……。
 もう、眠ってしまっていたい。

 

『……さ?』
「?」
『…わ…む……中佐? 気が付いたの?』
「?」

 とても懐かしくて恋しい声の様に聞こえる。

「ん……」

 目を開けてしまった。
 眠っていたかったのに……その声に誘われるように、目覚めてしまったのだ。

「……」

 そこは灰色の鉄の天井。
 そして船が動く音。
 ぼんやりとした灯り。

「──!」

 空母艦の中だと、気が付いた。
 と、言う事は!?

「澤村中佐?」
「!?」

 懐かしい女性の声で目覚め、意識がくっきりと鮮明になると、そこにはよく知っている『ウサギさん』がいた。

「……気が付いたわね」

 彼女のホッとした顔。
 隼人が横たわっている医務室ベッドの横──そう、葉月がパイプ椅子に座って微笑んでいた。

「ちょっと待っていてね──」

 彼女はそう言うと、直ぐ背後の白いカーテンを、そっと片手で隙間を空け覗いている。

「あの──ウチの中佐、気が付いたみたいで──」
『ああ、そうですか。お待ち下さい──』

 そんな男性の声も。

(……確か……)

 目覚めたは良いが、まだ眠気を感じる上に、頭が重く……暫くは、何があったか思い出せているのに言葉には出来なかった。
 あの金髪の彼に、最後に嗅がされた『薬品』の匂いが、鼻の周りにまだまとわりついているような? その匂いを思い出しては、まだ眠い、そんな気分だ。

 そんな事で、一生懸命、自分の身に起きた事を『どう言うか』と考えるのだが……考えているうちに、白衣を着た軍医がやって来てしまった。
 葉月と同じ様な栗毛の中年男性だった。

「あの……俺は、その──」

 『不審侵入者と揉み合った』と素直に言えるのなら、業務的には由々しき事なのでそう言うが……これは直ぐ側にいる葉月という女性に関わっている『私的な事』──『知らせるべき』か『否か』は、判断できない。
 だが、聴診器を首にかけた軍医は、葉月より前に出てきて、隼人の方へと身をかがめる。

「もう一度、横になって下さいね。サワムラ中佐──」
「あの……俺は……」
「……」

 隼人が着ている赤いメンテ服の胸元を開け、軍医はそのまま聴診器を隼人の素肌にあてがった。

「……運ばれてきた時は、ホソカワ中将も、ご心配そうに付き添っておりましたよ」
「中将が?」
「ええ──。スタッフと共に私も駆けつけたのですが、中将の側近であるカジカワ少佐があなたを介抱していたようで──」
「梶川少佐が──?」
「はい。一緒にいた『エンジン室の整備員』から事情を聞いて、引き取ったとの事でした」
「……事情?」
「ええ──。配線板の鋭利な角で、不用意に切ってしまったんですよね?」
「……え、はい。その……」
「おや? ご記憶にないのですか?」
「いえ? その通りです──」

 その『エンジン室の整備員』と言う事は……?

──『わたくし、金猫ではなく……ジュールと申します』──

 彼『ジュール』の事だと、隼人はすぐに思い出した。
 彼がどう梶川とやりとりをして、上手く誤魔化したか分からない為、隼人は自分がどうしてこのような有様になったのか……。
 つじつまを合わせなくてはいけないと思ったので、口数を少なめにし、ただ……医師が探るまま身体を任せていた。

 右手には、傷の上にだけ包帯。
 五本指の動きの邪魔にならないように、それなりに巻かれているだけだが……痛みはある。

「ホソカワ中将もおっしゃっていましたが、どうも貴方は少しお疲れのようですね──。傷は縫うほどではありませんでしたが、絆創膏では事足りない傷でしたので、消毒をした上で少し大げさですが、そのように処置致しましたよ」
(栗毛の彼が見立てた通りだ──)

 栗毛の部下猫さんが、隼人の傷を見て、咄嗟に呟いた事と同じ事を、目の前の医師も口にしている。

「化膿止めの軟膏と、念のため、飲み薬を処方しますので、陸の医療センターにて受け取ってくださいね」
「……はい。その……疲労で気を失ったんですか? 私は……」
「そのようですね。急激な痛みと疲れが重なって、流石のあなたも我慢できなくなったと言う所でしょうね。少し、睡眠時間を増やされた方がよろしいかと思いますよ。ホソカワ中将からも、同じ事をあなたに注意しておくようにとのお言葉でした」
「……そう、ですか……」
「に、しては……あなた、とっても気持ちよさそうに眠っていましたよ? 痛みでの失神なら直ぐに気が付きそうですが……」
「……」

 表情を灯さない、淡々とした医師の言葉は何か腑に落ちない事を探るようで、隼人は胸の鼓動が早くなってきた。
 そして彼は、隼人の目の下、そして口の中まで小さなペンライトをあてて、妙に丹念だった。
 隼人は胸がドキドキしてきたのだが……もう聴診器は外されていた事には、ホッとしていた。

「余程、お疲れで──ついでに眠ってしまったという所でしょうかね〜」
「たぶん? 確かに……私、近頃、寝不足でしたので──」

「あの……私からも良く言い聞かせます。私が上官として彼を使いすぎていたんです。私も反省しておりますので……あの彼と陸に帰っても構いませんか? ドクター」

 隼人と医師のやりとりを、無言に眺めているだけの葉月が、急ぐように割って入ってきた。

「え、ええ。よろしいですよ?」

 飛行服姿の女性パイロット。
 基地では誰もが知っている女性だ。
 その彼女が、滅多に来ない母艦の医務室で話しかけたせいか、急に医師の顔が温和に崩れた。
 いつもの事だが、隼人は起きあがりながら、白けた眼差しを静かに差し向けていたのだ。

「では、お大事に──」

 医師が『意味深な笑顔』を葉月に向け、白いカーテンをくぐって去っていった。
 葉月のふてくされ、そして、呆れたような顔。
 それを見届け、隼人はいつものように可笑しくなってしまい、微笑んでしまっていた。

 葉月と……二人だけになる。
 何を話せばよいのか、隼人は途方に暮れた。
 彼女はこの出来事をどう感じているかは分からないが……葉月も、同じく途方に暮れているようだった。

 医務室の──狭くて固い白いベッドで俯く隼人。
 隼人の右手には包帯が巻かれていて、何故、その傷を負ってしまったのか──その時の『光景』も蘇ってきた。
 そして──その手傷をじっと見つめている葉月の視線にも──。

「帰りましょう──。次に出る連絡船で……。もう、起きられるわよね?」
「え? ああ……」

 なんだか葉月は、この場所が居にくいかのように、直ぐにでも出たそうな様子。
 隼人も何処が悪いという訳でもなく、ただ単に……薬で眠らされただけだ。
 だから──直ぐにベッドを降りる。

 医務室を出る際に、先ほどの軍医から『処方箋』を受け取って二人は一緒に連絡船乗り場へと向かった。

 その間、隼人は葉月の後を歩く。

「あのドクター。まるで私があなたを『寝かせない』みたいな顔していたでしょ? 失礼ね。ちょっとしたセクハラだわ」
「あ……そういう意味だったんだ」

 医師の意味深な笑顔や、妙な言葉尻……その違和感の意味と、葉月がふてくされ、早く医務室を出たがっていた訳も判り、隼人は苦笑いをこぼす。
 だが……葉月が、言葉を発したのはそれだけ──。

 彼女は振り向かないし、隼人に何かを追求するよな姿勢も、何故このように気を失う体調だったのかも問いただす素振りもなかった。
 ただ──葉月は真っ直ぐに、歩いている。
 それはまるで……独りのように。
 そしてその背は、心なしか凛としているように隼人には見えて、少しだけ違和感を持ったのだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 連絡船に乗ると、次なる訓練開始時間とは、ずれていた為、乗船者は葉月と隼人だけだった。

 朝から晴天の空……少し雲が出てきて、光が照らしていた海原に、陰っている部分も見られるように──。
 隣で船窓を覗いている葉月は、そんな海の波を黙って見つめているだけだった。

 医務室で気が付いてから……二人はろくに言葉を交わしていなかった。
 ──の、だが──。

「……義兄様が、あなたの何かを確かめに来ていたの?」
「え?」

 外を眺める視線を変えず、波と光を真っ直ぐに見つめている葉月から、そんな突然の一言。
 そして──その顔は、隼人が以前……いや、一年前……何を考えているのか気を揉まされたあの『無感情』で『平坦』な……心の模様が見えにくいと思う顔つきだった。
 静かで……温度が感じられない『氷』と思っていたあの顔。

 その顔を……するようになってしまった。
 それも仕方がない──。
 隼人は『別れてくれ』と言う事に等しい事を、葉月に突きつけてしまったのだから──。
 どんなに『戻ってくる事を信じている』と言っても、それは隼人の心構えであり、葉月に『待っている』という保証を与えるように安心させ『だから、好きなように行っておいで、やってみろよ』と言ってみたところで、やっぱり状態的には、今は『恋人解消』なのだ。

 葉月は──それを良く理解している。
 だから──もう、隼人にも『今の顔』は垣間見せない。
 それが……葉月だった。
 彼女はもう、独り……違う方向を隼人によって『目を向け見つめる事』を始めているのだろう。
 それはきっと──『義兄の事』へと眼差しが向かっているのだ。

 そんな彼女に、いつ? あの雲のように何処へと飛んでいくとも判らない、ゆらゆらとしている『義兄』が会いに来てくれるか……。
 彼女にしてみれば、こんな風にじっと待っているのも、一年か……半年か……判らない中、義兄が思ったより早く来たのなら、知りたい所に違いない。

 だが──隼人は、膝の上で……負傷した右手の包帯を見下ろしながら、その手を握りしめた。

「──いや? 何故、そのように? 本当に俺……焦っていたんだ。キャプテンになってから、あんなトラブル初めてだったから……慌てていたんだ。俺もまだまだだよな……」

 そんな風に笑って誤魔化している。
 別に、あの純一と葉月の再会を邪魔しようとか、そういう事でもなく……義兄が直ぐ目の前に来ている事を葉月が知って動揺させてはいけないとか……そんな気遣いでの誤魔化しではなかった。

 もう、義兄が葉月の為に、そこまで来ている事は『判明』したのだ。
 隼人が黙っていても義兄は、やってくる。

 もう……二人だけの世界の問題に突入しているのだ。
 隼人も突き放したからには、傍観するのが筋なのだと思ったのだ。
 それは黒猫の兄貴も『黙って見ていてもらう事になる』と言っていたから、こういう事を言っていたのだと、それは隼人にも充分に通じているし、同感の所だ。

「そう──だったら、良いのだけど……」

 隼人の誤魔化しを、葉月はなに疑う様子もなく……無表情な横顔で受け止めてくれただけ。
 だが、なんだかふてくされた様子で、こう言い出したのだ。

「もし、そうなら……お兄ちゃまのバカって殴りたい気分だわ」
「!」
「何故、隼人さんが何を悪い事をしたって言うの?」
「いや……だから……」

 あんな風に渡り合い、揉み合った『宿敵』ではあったが……実際に会ってみた経過を思い出す最後には『どこか憎みきれない人』と言うのが、隼人の中で最終的に残った印象だった。
 そして──悪ぶっているだけの『不器用さん』……自分もそういう所があるので、そんな風にも感じ取れた。

 きっと──少しは隼人に『悪い』と思っていたのだろう?
 隼人からすれば『余計なお世話』なのだが、そう思ってしまう人なのだろう。
 弟の真に遠慮ばかりしてきたようだから……兄弟に限らずに、『俺なんか』とか……誰にも解らない劣等感なども持っているのかもしれない?
 そんな風にも思える兄貴だった。

 だから……葉月は『隼人を脅した』と思っているようだったが、隼人は『会っていない』と主張したため、『それは違う』とも言い出せずに口ごもるだけ。

「失礼なやり方だと思うわ。なんだか……そんなにコソコソとしないで、もっと堂々としてくれたらいいのに!」
「……」
(それは、葉月の女の気持ちからすると、ごもっともかもなぁ?)

 隼人は無言にて、心ではそう呟いていた。

 葉月にとっては、『無敵の義兄』『完璧な男性』なのかもしれない?
 そんな『お兄ちゃま』が、葉月の日常に寄り添う男を、わざわざ確かめに来るなんて……『俺がこんな事をしても良いのだろうか?』なんて格好悪い『迷い』をさらして欲しくないという前に、『私を好きなら、周りなんか気にせずに、真っ直ぐに会いに来てよ』とかいう女心なんだろう?
 隼人にしても『俺なんか眼中にない、自信たっぷり、余裕ぶっている』と、今日まで思っていたのだし『葉月に一番に会いに行けよ』と言ったぐらい、予想外の接触だったのだ──。

 だが──隼人は、予想済みである葉月の言葉を裏返すように、先ほどの主張を貫こうとした。

「思ったより……痛かったんで、驚いて……余計に動転したのかな?」
「そう。解るわよ? 私もほら……あなたの実家で、負傷した肩の傷の痛みで、気を失ったじゃない?」

 彼女が笑った。
 そして、隼人の方へと向いてくれた。
 それだけで、やはり心が和むし、安心している自分がいる事も、改めて感じた隼人……。
 そんな自分を再確認してしまうと、次に襲って来た気持ちは……とても虚しい物だった。

「あ、ああ……そんな事も……あったな……」
「うん、あったわね……」

 つい最近の事なのに……数ヶ月前の事なのに……。
 とても遠い日のように隼人には感じた。
 そして、そんな過ぎ去っていった日々を思い起こして、何故? こんなに感慨深く、熱く感じ、思い出しては、せつないのだろう?

「隼人さん──」

 そんな思い出を、引き留めたい気持ちで鮮明に思い出そうと噛みしめていると、葉月がそっと……隼人が握り拳にしている包帯の右手の上に、そっと白い手を柔らかな仕草で乗せてきた。

「葉月──」

 先程まで、出会った当初に良く見せていた、あんなに冷たい顔つきであったのに。
 今、目の前には……隼人がいつしか『特権』のように手に入れていた、熱く潤む眼差しが……海原の光を吸い込んで、ガラス玉のように、キラキラと輝きを見せていた。

「この一年──。絶対に、無駄じゃなかったわよね? ね?」

 何かを強く求めたがるような、すがるような葉月の瞳。

「勿論──。無意味じゃ哀しすぎる」
「私も──。何があっても……絶対に、私とあなたが一緒にいた事は間違っていなかったわよね?」
「ああ。だから──『こうなった』のではないのかな?」
「──だから『こうなった』……のよね?」
「ああ……」
「絶対よね?」
「ああ……俺と葉月の一年は……間違っていない」
「うん……そう思いたい。ううん……思うわ」

 近頃、葉月とはそつない相変わらずの『日常会話』と職務的なやりとりだけで、お互いの気持ちを探るような駆け引きもなければ、男女としての特別な意味深な言葉遊びなどのやりとりはいっさいなくなっていた。

 その中で──葉月は、隼人に何があったのか見通してしまったのだろうか? 勘の良い葉月の事、そして、素知らぬ振りも上手の彼女の事……それもあり得るとも隼人は思えてきたのだが。
 そんな事を思わせるように、ここに来て急に……何かを確かめたがるような、切羽詰まった言葉の数々だった。

 だが……葉月がもし? 隼人と義兄が接触したと確信していたとしても、こうして彼女は、隼人が『違う』というまま、流してくれたのだ。
 だから……隼人もその確信についての『真相』には、触れようとは思わなかった。

 そして──また、言葉が途切れ、葉月の顔は平坦な横顔に……。
 眼差しは冷たく海原に向けられた。

 だけど──隼人の右手に添えた彼女の白い手は、離れていかなかった。
 そして……その彼女の白い手は、心なしか……そこだけ汗ばんでいるかのように熱く湿っているように、包帯の上からでも感じられる。
 そこだけ……葉月の熱が、そこからだけ……隼人を繋ぎ止めている彼女の『僅かなで小さな力』が伝わってくるのだ。

 隼人は──その小さな手の上に、そっともう一つの手……指輪がなくなった左手を乗せ、優しく包んだ。
 隣にいる彼女の表情は、変わらない。
 だが……少しだけ、ガラス玉の瞳が潤んでいるように見えたのだ──。

「もう式典も来週末ね」
「ああ……やっと、忙しかったな」
「頑張りましょうね」
「ああ、頑張ろう──」

 二人を今、確実に繋げている目標は、それだけだった──。
 もう、他にはなにもない──。
 戻ってくるのを待つだけになったのだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「ああ、何とかというフランスの女の子だろ?」
「! なに? ロイは知っていたんだ!?」

 『居場所を突き止めた!』と、リッキーは意気揚々と制服に着替え、連隊長室へと帰還し、上官であるロイに報告した。
 勿論! そこでリッキーでも見慣れない『美女』が黒猫ファミリーと同行していた事も報告したのだが……!

 ロイの反応は、あっさり……そして、『そんなの知っている』と平然なので驚いたのだ。

「ちょっと、ロイ……いいかな?」
「なんだよ。怒るなよ──」

 ロイが面倒くさそうに……そして、リッキーから逃げるように連隊長席から、窓辺へと身を翻したのだ。
 だが……リッキーとしては、これは見逃せない。
 何故かと言えば、当然ではないか!? ロイという『中将』を完璧にサポートする『主席側近』として、リッキーは同級、同僚、最高の部下として、なんでもロイとは包み隠さず打ち明けあって『やってきた』のだから。
 いや……『一つだけ』リッキーでも、どうにもならない『触れない部分、触らせてもらえない部分』がある。
 その『一つだけ』が、今回、久しぶりにぶつかってきた!

 それは──ロイが表面上の振る舞いも、心の中の一部でも『反発』している『純一という認めがたい男』に対して、本当はどことなく『戦友』の様にして、リッキー以上の『暗黙・無言の信頼』を持っているという事だった。
 だが、ロイはそれを真っ向から『本当は信頼しあっているんだ』というと『何を言っているんだ? そんな事あるはずない!』──なんて、誰にでも否定する。そう……このリッキーにでもだ。
 そこがリッキーでも、相棒上官に触らせてもらえない部分。

「別に、純一の『女関係』なんて、俺は興味はない」
「それでも、何故? あの金髪のニャンコちゃんがいると判った時点で、俺に教えてくれなかったんだよ」
「だから──純一の女関係程、『あやふやな物』なんてないって……リッキーだって知っているだろう?」
「……聞いた時点で、『いつかは別れる仲だ』とロイは確信したんだ?」
「ああ。いつもそうじゃないか? それに純一は、『連れ愛人』なんて作らない主義だったからなー」

 ロイのとぼけた顔。
 リッキーはムッと唇を歪める。

「あのニャンコちゃんがいる事を知ったのは? いつだったんだよ!? ロイ!」
「さぁー。三年前?」
「ふーん、三年も前なんだ。その時も当然、ロイは怒っただろうな……。レイ以外の女性を側に置き始めるなんてどういう事だと」
「まぁな。しかし……まだ、別れていなかったのか。ま、純一らしいと言えば、そうなるかね? あいつ『物持ち良すぎて、捨てられない性分』でさ。いつまでも、古くさーい流行遅れの物も引き出しの奥に使いもしないのに取っておくんだ。捨てる時に、これどうするかな? なんて首を傾げては、またしまい込む奴なんだよな」
「……」

 例えが『物』であるなら、そういう性格は、どこでも誰かが持っていそうな性分だが、これが『対・人』となるとそうはいかない。
 しかし、ロイとしては、『聞いた時から、こうなるだろうとは予想済み』という所なのだろう? だから、驚かないのだとリッキーには思えた。

「それで、そのニャンコちゃんを『捨てるに捨てられない状況』に、先輩は陥っているという事なんだな?」
「あの時聞いた『関係』が未だに続行されているなら──純一の性分的にそうなんだろう? アイツが勝手に『拾った』そうだ。ジュールなんかは、かなり困り果てて、距離の置き方に扱いに戸惑っていたようだな。後にも先にも……ジュールが俺に頭を下げて……『相談したい』なんてこっそりと、小笠原に来たのは、そのニャンコちゃんの件のみだったしな」
「あの坊やが……ロイに『相談』!?」

 それも三年も前の事なので、リッキーはそれすらも教えてもらえなかった事にショックは受けたが……それよりも、あの黒猫坊やが、ロイを頼りに来たという方が数倍の驚きだった。
 あの金髪の坊やは、どちらかというとリッキーと立場が似ている。
 『ボス』を完璧にサポートするという点では、このリッキーがとても意識している男としては彼以外はいないと思っているほどだ。
 だが──だからこそ……金髪の彼が『苦渋の決断』として、敵対はしているが、『ボス』を知り抜く『戦友』を頼りに来た心情が、リッキーには通じた。
 だから、そこは驚きつつも、すぐに受け止められた。

「それで、ロイは……彼になんて?」
「ああ……。『現世に上手く返したい。あのままでは、ボスが自分を自身で追い込んでいくだけで、先が不安だ』とね? 俺の力で引き取ってもらうか、上手く返せるように請け負ってくれないかとかね?」
「それで、何か手助けを?」
「そりゃー。あのジュールがわざわざ単身で出向いてくれたんだ? 俺だって力になりたかったが……純一がいつもの仕様もない『無駄骨な事』に対して、今まで注意して言う事を聞いた事なんてあるか?」
「ないねー。しかも、ロイの口から言われたら、余計にそっぽを向くんじゃないかな〜?」
「だろ? ジュールもその性格は重々解っている上で、来てくれた程、困っているのは解っていたのだが……。断ったよ──。それは、『個人的な異性の関係』であって、純一と彼女が二人だけで解決する物なのではないかとね? ジュールはそれですんなり退いてくれたから良かったのだが?」
「確かに……。なるほどね──」

 リッキーもそれはもっともだと、溜め息をついた。
 それは、ロイも同じようで、当時の事を思い出し、『断った』事が心苦しかった様子だった。

「──拾ったとは? 気に入って? 信じられないな……あの先輩が、御園姉妹以外の女性を、『戯れ』以外で側に置くなんて、あり得ないよ」
「気に入って……拾ったのではないらしい──」
「──!? そこまで聞いているんだ? じゃぁ……何故?」
「……」

 今度はロイが黙り込んだ。
 そして、苦々しい表情で、窓辺でうなだれている。

「本当に……なんていうか、『やっかい事』ばかり背負う大馬鹿者だからなぁ? 純一は……。だから、呆れて物も言えなかったんだが……」
「……何処で拾ったんだよ?」
「あれだ……あの『依頼』をした時だ」
「あの依頼?」
「表稼業はフランスで商事をしていた闇ルートの武器商が、スペインに潜り込んでいるのを探し出し、暗殺して欲しい──俺が軍とは関係ない事で依頼したアレだ」
「──! 五年前の!」
「軍では表だっては追跡できなかったあの『犯行グループ』と繋がっている『商人』を、純一と協力して探した果てに、居場所を軍より先に突き止められただろ?」
「ああ……だけど、時間がないから、ロイの財力で『裏依頼』にしたあれだな? それと彼女が何か?」
「──その時の頭であった男の……『愛人』だったそうだ」
「え!? 愛人も一緒に片づけたんじゃ!?」
「純一も最初からそのつもりだったらしいがね……」
「それが? まさか!? 殺すのが惜しくなる程、気に入ったとか!?」

 あの純一が『一目惚れ』だなんて信じられない! と、ばかりにリッキーは珍しく声を張り上げたぐらいだ。
 だが、ロイが苦笑いをこぼしながら、首を振った。

「まさか──。あのスローな感受性な男が、一目惚れなんてするもんか? 慣れた女、親しみ慣れた女じゃないと、心が開けない臆病者じゃないか」
「そこまで、言うかな?」
「ああ、言うぞ。そこはきっちり、『あいつは臆病な男』だ!」
「うーん……じゃぁ? 何故?」
「彼女……死ぬ事を恐れていなかったらしい。むしろ……今から死ねるのだという落ち着きを見せていたそうだ」
「……哀れみで?」
「……になるんだろうな? 俺が、拾った女と関係を持ったと聞かされて、逆上したのは言うまでもないが? 依頼をした際に、当然──側にいる愛人の事も調べたらしいのだが……『悲惨な過去』だったらしいな……」
「悲惨な過去?」
「まぁ……色々あったそうだ。女性としての虐待を結構受けていたらしくてね……」
「……! じゃぁ……御園姉妹と同じに見えたという事で、捨てられなかった……って事か!?」
「……なんだろうな? 『死んでもいいという姿が、葉月と重なった』とさ? それを聞かされたら……俺もすっきりはしないが、純一らしすぎて、何も言えなくなった……」
「──なるほど!」

 リッキーも飲み込めてきた。
 飲み込めてきたのだが──!

「いや──それだけで、愛人にするかな!?」

 リッキーは再び、ロイに食ってかかる。
 すると──また、ロイが頭を重たそうに垂らし、額を指で支えるようにうなだれたのだ。

「だから……そこが純一の『質悪い所』だろ?」
「あーー。もう分かった」

 リッキーも渋い顔で、納得した。

「つまり、彼女が惚れ込んだわけなんだ? 先輩に」
「正解。皐月並みの猛アタックだったそうだ」
「なるほど……。それで先輩は折れちゃったと……」
「条件付きでね」
「条件?」
「──『俺には忘れられない女がいる』──とね。それ以上にはならないと言った上での『契約』だそうだ」
「契約ねぇ?」

 ロイは窓辺から見える滑走路を、笑いながら眺めていたが、リッキーも先ほどまでの『ロイの呆れる気持ち』が通じてきて、目を細め白けた眼差しを同じ空に向けた。

「……そのバランスで三年やってきたと言うわけだ? 先輩は……」
「そうか──。今回は連れてきたのか、彼女を──」
「……では、先輩は……レイとの関係を彼女に認識させる為に?」
「だろうな──」

 そこで、さらに疲れた溜め息を落としたロイは、また身を翻し……今度は、連隊長席へと戻って行く。
 リッキーもそれを追う。
 いつものように堂々と……立派な木造の机にロイが座りこむ。

「リッキー。その彼女だが……」

 ロイの人差し指が、クイッとリッキーを誘った。

「何でございましょう? 連隊長──」

 リッキーも、連隊長席に身をかがめ、ロイの口元に耳を寄せた。

「……と思うが……してくれないか? それでだな……」
「……かしこまりました。連隊長」

 リッキーは一瞬だけ、ニコリと微笑み、直ぐに表情を引き締めた。

「それなら……彼等と共に直ぐに準備を始めますので……私はこれで──」
「ああ、頼んだぞ。上手く見定めながら、やってくれ──」

 リッキーはいつもの従順な側近の姿勢に戻り、敬礼後、すぐさま連隊長室を出て行った。

「たまには恩を売っても損はないだろうとね……。感謝しろよ、純一……その代わり……」

 そして……煙草を口の端にくわえたロイの青い眼差しが、キラリと冷たく輝く。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 日が落ちて、すっかり闇に包まれた大佐室の明かりが灯った頃──。
 御園中隊本部は、まだ、ざわついた様子で青年達が忙しそうに駆け回っている。

「葉月──。ちょっとメンテ班室に行ってくる」
「いってらっしゃい。澤村中佐──」
「30分で帰るから──」
「了解──」

 朝の訓練で澤村中佐が『気を失い倒れ、右手負傷』という情報は、訓練終了後にフライトチームにもメンテチームにも……そして葉月の本部にも駆け回ったそうだ。
 当然……葉月が隼人を連れて帰ると、本部には珍しくデイビットと村上とエディが、押しかけるようにやって来たとの事で、ジョイが大佐室で待たせていた程。

『心配かけたな。ちょっと疲れていた様で簡単に気を失ってしまったみたいで。その後、すんなり眠っていたみたいだ』

 隼人の笑顔。
 そして──それほど深刻でもない傷具合を見せてもらったデイビット達は、心配は消えなかったようだが、安堵したようだ。
 その後……隼人がメンテ員を落ち着かせる為に、自ら班室へと出向いて……皆の不安を上手に取り除き、収まったとの事。

 メンテが落ち着いた後、隼人は丁寧にも佐藤や細川と言った上官、そして、五中隊にいるデイブにも『大丈夫』という姿を見せに行き、午後からはいつも通りの機敏さで勤務に励んでいた。
 その為に……本部でも皆が驚いた『ニュース』も、隼人の平然とした様子で、中休み頃にはいつも通りに戻り、何事もなかったように落ち着いたのだ。

 そして……その隼人が、いつもの忙しさであちこちの部署へと駆け回り、たった今、出かけていった。

「ふぅ……達也? そっちの手配はどうなのよ」
「……」

 葉月も日々の隊長業務をこなしながら、ふと……二人きりになった達也に呟いた。
 が──反応がない。

「海野中佐? あと一週間だけど……どうなの?」
「うるさいな」

「うるさい?」

 葉月は、ムッとしながらやっと顔を上げた。
 近頃、分かっているが達也の態度は冷たかった。
 冷たくされるのだが、いつもなら即に突っかかってくる彼が、あからさまな文句を一つも言ってこないのは不思議に思っている。

「あっそう。いいわよ……私という『いい加減な女』……いえ? 人間とは口も聞きたくなければ、言う事も聞きたくない……って事なのね? いいわよ、それでも──。私は上手くやってくれたら言う事ないから。じゃぁ……後は『すべて』任せたから宜しくね!」
「……」

 いつもの調子で、達也に言い返しても……そこも無言なのだ。
 葉月もそれ以上は、疲れるだけなので……もう、やめて目の前の書類にだけ集中しようと、再び、俯いた。

「……今夜、食事、一緒に出来ないか?」
「!?」

 そんな消え入るような声が、達也の席にあるモニターの影から聞こえたような?

「なんか……空耳だったかしらぁ……? 男の人のちぃーさな声が聞こえたけど? 幻聴かしらねぇ? あーあ、毎日くるくると空中を回りすぎて、耳がおかしくなっちゃったのかしらぁー?」

 葉月はワザと、片手で耳を覆って、宙を見渡した。

「そういう事が言えるようになったんだな? 嬢ちゃん。その幻聴の主は『俺』だよ、俺!」

 葉月のわざとらしい反応に、達也がざっと立ち上がり食ってかかってくる。

「あら……」
「“あら”じゃないだろ!?」
「お断り──」
「あらん? やっぱり、頼りになる隼人お兄ちゃんが『行っても大丈夫』と後押ししてくれないと、男の人は怖くって……『私、行けないわ!』ってお嬢ちゃまは思っていらっしゃるのね!」

 葉月をからかう時に達也がよく使う『女言葉の切り返し』──でも、葉月は知らぬ振り。

「達也が言いたい事なんて、食事に行かなくても判っているって事よ」
「まぁ! そうなのかしら?」
「ええ、そうよ。それともなに? 『義理兄』の事で聞きたい事が、散々あるというなら、とことん付き合いますが、澤村中佐との関係については一切、ノーコメントが、わたくしの条件です。よろしい? 海野中佐?」
「……兄貴の事なんか、聞きたくもないぜ!」
「あら──そうでしたか。失礼いたしました。それなら……後はノーコメント。この前、伝えた今の私の気持ち、変わりないし、あれ以上の説明はいらないと思うから──」
「……」

 達也が黙り込んだ──。
 達也に対して、『義兄』の事を面と向かって口にしたのは、初めてだったからだろう?
 それで、葉月はそのまま放って、このままで終わるはずがないと構えながらも、固い姿勢は保ち続ける。

「葉月──」
「!」

 頭の直ぐ上で声が聞こえたので、葉月はビクッとしながら顔を上げると、大佐席……葉月が座っている革張りの大きな椅子の直ぐ隣に達也がいたので驚いた。

「やだ……達也ったら時々気配がないんだから!」
「あのな……」

 葉月でも時々気配が読みとれない様な事を達也がするのは、ずっと昔からだが、その時は、やっぱり毎度驚く。
 だが──達也は、葉月を真っ直ぐに見下ろし、葉月の視線を捕らえ続けようとしているのだ。

「な、なに……」
「兄さんの気持ちも、俺は散々、官舎で毎晩聞かされたから……それはもう解った」
「そ、そう……」

 直ぐにも大騒ぎしそうな達也が、冷たい態度を取りながらも、大人しくしているのは、隼人の『言い聞かせ』があるからだと、葉月も解っていた。
 それは、達也もここ数日で、充分……理解しているようだが──。

「勿論──。兄貴の事も驚いたが、予感はあったんだ。あのミャンマーの救援部隊に参加した時に──」
「……」
「お前はあの後、それらしき『隊員』について、知らないとはぐらかしたが……それもつじつまがあった」
「……」
「右京兄さんから聞いた後、直ぐに……お前を掴み上げて、『俺と付き合っていた時も、そうだったのか』と突っかかりたかったが……そうじゃない事も、兄さんから聞いて納得したし、『終わった事』をほじくり返してまで、お前を責める時期なんて、とっくに終わっているしな──」
「……」

 達也は達也なりに『消化』しているようで、葉月は少しは安心した……。
 だが……何かを言えば、全てが言い訳になりそうで……なにも……相づちさえも返せなかった。
 でも、これだけは、言っておきたく葉月は口を開く。

「……達也と付き合っている間に、やましい事なんて一度もなかったわよ。ただ……」
「……ただ、お前の迷いは……その頃、意識はしていないが潜在的にはあった……だろ? そこは謝らなくても良い」
「──!」

 見つめ合っているその達也の眼差しは……いつも『熱血』しやすい彼らしくない、静かで落ち着いている物だったので、葉月は驚き、その視線から外せなくなった。

「その潜在意識を目覚めさせたのは、他の誰でもなく、澤村という男だった。だから……『こうなった』だろ?」
「……そう、思っているわ」
「お前……知らないだろうけど、官舎での兄さんの寂しそうな姿。一度、見せてやりたいほどだ」
「……解っている」
「そりゃ、お前も寂しいだろうけどな?」
「……」

 葉月を責めるばかりでない達也の言葉に、葉月はスッと俯いた。

「──でも、俺は……お前には絶対に『ここにいて欲しい』とそれを強く望む!」
「達也……」
「兄さんがどうこう、俺がどうこう……とかじゃなく……。お前にとって、俺達と右往左往ここまで来た事は、嘘じゃない、確かにここにある『事実』じゃないか!?」
「そう思っているわ──」
「葉月──!」
「!」

 ついに葉月の目の前に……達也のサラッとしている柔らかい前髪が降り注いできたので、ぎょっとする。
 直ぐ、そこには、切れ長でもキラリとした黒い瞳が、葉月を真剣に見つめていた。

「それでも──俺達を『捨てる』なら、別れなんか告げに来るなよ。それに……俺もお前を連れ戻そうだなんて必死な事、絶対しないからな! 行ってしまったなら……『裏切り者』だ! そんな奴、迎えに行こうだなんて絶対に思わないから、覚悟していろよ!!」

 落ち着いていた眼差しが、急に……敵対するように『ギラリ』と輝き、葉月は息を呑む。
 息は呑んだが──葉月もその眼差しには負けないように、しっかりと見据えた。

「──そのつもりよ」
「解った──」

 達也との強い眼差しが絡み合う。
 それは暫く、無言のまま続いたが、達也はスッと背筋を伸ばすと、中佐席へと戻っていく。

「それだけ──。じゃぁ、もう、食事はいいや」
「あら、そう」

 それから、暫く──二人は何事もなかったように事務作業に戻った。
 だが……それから少し時間が経った頃……また、達也が小さな声で、何か呟いた。

「お前の『忘れきれない』という気持ち、解らないでもないけどな。俺も……自分の想いって奴を貫いてマリアを置いて来ちゃったからな……。お前も早く……自分だけの『揺るがない答』が見つけられると良いな……」
「……!」

 そして……二度と、達也の言葉は続かなかった。

 葉月の目頭が自然と熱くなってくる──。
 少しだけ──くぐもった泣き声が僅かに漏れてしまった程だ。
 それは確実に、達也に聞こえただろう──。
 でも、彼はもう──なにも聞こえないように淡々と仕事をしているだけで、顔もモニターに隠れて見えやしなかった。

 裸で放り出され……徐々に葉月は独りで歩き始める。
 いや? 歩かねばならず、まだ……一人で手探りの状態だが、それでも『覚悟』は固まり始めていた。
その覚悟を、葉月が『進まねばならぬ訳』を、心ならずとも……葉月の為だけに後押しをしてくれる『彼等』の為にも──。

 『覚悟』は出来ても……『結果』と『答』だけは、まだ判らないけど──。

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