あれから、葉月の耳には『キャプテンが何故、チームを抜けるのか……』という話題が、メンバーから聞く事がなくなってしまった。
デイブが、彼等に釘をさしたように、『お嬢のせいじゃない──』と気遣っているのか?
はたまた……本心では言えない事を、葉月がいない場所で、良き論、悪き論を囁いているかもしれないが?
だが──葉月にとっては、『もう、こうなっちゃったんだもん。仕方ないじゃない』──なんて、以前通りの『無感情振り』がこんなところで、多いに役に立っていたりするのだ。
この件についてだけは、隼人がさり気なく気遣っているのも伝わってくる。
「大丈夫そうだな──。気にするなよ」
「なんにも。誰も何も悪く言っていたとしても、耳に入ってこないんだから、幸いと思うとか、それでも皆が気遣っていると感謝している方が、良き理解力? というか、煩わしくなくて気が楽ね」
いつだったか……いつでもそうであっただろう冷たさで言い放つと、隼人が笑い出した。
「違う意味で……なんだか強くなっていない? 安心したよ。その調子──それが大佐嬢だ」
「有り難う──」
そこも冷たく言い放つと、これまた、隼人は満足そうに微笑み……そんな葉月を見守るように優しく見つめているのだ。
(そんな目で……私を見ないで──)
その眼差しは、いつだって……日中のオフィスでも、夜のテラスでも、『葉月の物』であり『あって当たり前』の物だった──つい最近までは。
その滲むような穏やかな瞳に、葉月は吸い込まれそうになる。
今にも、『小さなウサギ』に戻って、つい最近までそうだったように……葉月の眼差しは緩くとろけて、彼にすがってしまいそうだった。
「俺がいなくても……やって行けそうだな」
「──!」
隼人が、ちょっと寂しそうに……でも、そこには全ての想いを噛み砕き終えたという達成感を込めたような、暖かい眼差しを向けていたのだ。
「隼人さん──。あのね……!」
──まるで、これでお別れみたいに言わないで!!──
そう言い続けたかったが……葉月は、口をつぐんでしまった。
『サヨナラ』をするのは……隼人じゃなくて、自分かもしれないではないか?
まだ……何も考えていない。
だって……予想がつかないのだ。
ああ……『お兄ちゃまが会おうと申し込んできたら?』……どうしよう?
ああ……それでも、『お兄ちゃまではなくて、私は隼人さんの側が良いわ』……と、思うかもしれない。
その狭間に揺れつつ……そして、優柔不断な事に答が出せない。
葉月の今までの予想では、『決まった相手がいれば、兄様は絶対に寄りつかない。俺の役目は何もないとばかりに……現れない』だった。
それが──数日前、隼人は『ただのミス』とばかりに、訓練中に失神しただけの事と済ましているが、葉月は『絶対に兄様が彼を確かめに来た』と予感していた。
何故なら……あの厳しい細川のおじ様が、隼人が『うっかり失神』した事すら、普段なら『だらしがない!!』と叱りつけそうな所を、『お前は疲れているのだ』とか『そう深く事情聴取はしなくて良い。澤村がただうっかりしていただけ』とか……。
葉月から見ると……なんだか、あのおじ様が『あちこちに、手を打ち、うやむやにした』様に感じたのだ。
あの細川が、水面下で何かをもみ消そうとしている?
そういう事をするのは、いつだって……細川の言葉を借りるなら『お騒がせ一族』である『御園家』に関わる事ばかりだったからだ──。
(兄様が……そこまで来ている!)
その予感は、さらに葉月の心を大きく揺らし、惑わせていた。
『まさか』と思っていた事、いつだって望んでは諦めていた事……それが隼人が願った通りに、『現実』として葉月の身に降りかかろうとしている。
──『お前が困っている姿を見たら、絶対来る』──
そんな予想で、マンションを出てしまい、別居を決した隼人が言った通りの事が、本当に起きようとしているのだ。
(お兄ちゃま……どうして? 今頃……)
──『今更』──
葉月がやっと、義兄とかいう鎖を自覚し……そこから抜け出す為に『もう、この鎖を取り払って、隼人さんと向き合う』と決めたのに──。
(どうして……こうなってしまったの?)
銀色の指輪は……今はもう、ない。
夢のようで、短い『幸せ』だった様な気がする。
葉月はあれで、充分、満足していたのに──隼人が納得してくれなかった。
葉月を信じてくれないのではなくて……『鎖は、それだけじゃぁ……外れないだろう?』とばかりに『それはもう、俺では外せないよ……外すには、余所に行かなくちゃ……待っているから、外しに行っておいで』と言い出しているのだ。
葉月は……隼人と向き合えば、『いずれ自然と外せる』と思っていたのに──。
だが──葉月も、隼人と別居を始め……再度、『一人暮らし』になると急に『自分の事』を良く見つめるようになった。
その間に、気が付いた事がいくつもあった。
隼人の狙いは、こういう事もあったのだろうか?
向き合いたい相手と、向き合って言葉を交わし合っていても『平行線』だった事が、相手と離れた途端に『違う方向性の思考』とやらが、浮かんでくるのだから──。
いわゆる、『冷静になる、自分に対し客観的になる』というのだろうか?
『その鎖は、葉月が外そうと試みても、最後の錠は兄貴にしか外せない』
(……と、隼人さんは言いたいの?)
……とか、そんな事を思ったり……。
『ここに至るまで……本当に私は──』
ここまでに『至った』という事は、葉月が幼き頃から次々と積み重ねてきた『数々の鉄板』……葉月的に言うと『願っていた事が叶わない為に、諦められるように塗り込め、着込み始めてしまった“偽りの鎧”』が、この一年で、かなりの枚数、隼人によって壊され……裸にされてしまった。
その『鎧として着ていた鉄板』は、葉月の『心を満たしてきた』から、『もう、脱いで捨てちゃおう』と思えるようになった──つまり、『隼人が葉月の叶うはずない無謀な数々の願い……それを、叶わずとも、上手に満たしてくれた』のだ。
今度は、隼人的に言うと……『糸が解けた』という事なのだろう。
『ここに至るまで……本当に私は──』
……葉月は、もう一度同じ事を、心の中で呟く。
『……本当に私は、隼人さんにうんと甘えさせてもらっていたんだわ!』
『甘えさせてもらった』という意味は『我が儘に──』という意味も含まれているが、『存分に甘えさせてもらい、心の隙間が埋まった』と言った方が良いかもしれない?
一人きりの眠れない夜。
一人きり、夢にも怯え──薬を使う防御にて、警戒してきた夜。
誰にも解ってもらえないと、一人きり、心を閉ざし、本心を隠してきた自分。
本当は泣きたいくせに、突っ張り続けてきた自分。
彼は、葉月の眠れない不安な夜に、安心感を与え、そして……安眠を取り戻してくれた。
家族にすら……黙っていた心の不満を、上手に引き出して、葉月の疑問を一生懸命、一緒に糸解きをしてくれた。
泣きたい時は、思いっきり、素直に泣かせてくれた──。
そんな事を繰り返し、鎧は脱がされていく。
重い鉄板を、彼は『重い』と不満を漏らすことなく、まるで『父親か兄のような』根気強さで『ほら、ダメじゃないか……ちゃんとここ、腕をあげて、さぁ……脱ぐんだよ。重いだろう? もう、外した方が葉月は楽だと思うよ?』と、葉月に笑いかけながら、ちゃんと外してくれた。
最後に残ったのは、『妙な鎖』で、それにはがっちりと錠がついていた。
二人で外そうとしたけど、ダメだった。
葉月が力一杯、その鎖をひっぱり──『外そうと思っているの! 外せるのよ! 待ってね! もうちょっと待ってね!』と、優しいお世話をしてくれる彼に元気良く笑いかけても……彼は暫くは穏やかに待っていてくれたが……その葉月の懸命に動かす手すら、彼は笑顔で止める。
『無駄だ──。鍵を持っている人の所に行かないと──』
そこまで、来た──という事が、『ここまでに至った』という事……。
すると──自然と、涙がこみ上げてくる。
この『大佐席』という大事な職場でも、今までどれだけ『この席では、なんでも我慢』で、『私は隊長』という顔をモットーに頑張ってきた葉月であっても──涙が出てきたのだ。
「……大丈夫か? 葉月……」
つい先ほどまで、『一人でも大丈夫そうだな』と安心していた隼人が、そんな葉月の『急激な感情の変化』に眉をひそめていた。
だが──彼は慌てず、頬杖をついて、眼鏡の奥から瞳をそっと細め、溜め息をついただけだった。
「近頃、情緒不安定なのかな……」
隼人の言う通り──葉月は近頃、情緒不安定で、訳もなく涙が浮かんだり、先ほどのように無感情に突っ張れたり、それでいて、馬鹿みたいに大笑いをして仲間と笑い転げたり……色々だった。
笑う事も突っ張る事に関しては、ある程度は以前のままかもしれないが、一番困っているのは『訳もなく出てくる涙』だった。
本当に他愛もない事で出てくる。
乙女過ぎる──と、人は笑うかもしれないが、それが『澄んだ青い朝の空』だったり、『静かな昼下がりにひっそり揺れている真っ赤なサルスベリの花』とか『オレンジから紫に染まるグラデーションの夕闇』だったり……それを目にすると、独り立ち止まり……独りで涙を流している。
こんな自分は『初めて』の様な気がする。
今までも、ある程度は自然の中の『美しさ』に『感動』はあった。
だが……こんな風に、涙になって出てきたり、胸をキュッと締め付けたり、深い吐息が漏れるほどの『感情と平行する身体的現象』など伴う事はなかった気がするのだ。
そうして涙を流す葉月を、隼人は時々見つけているようだった。
それもそうで、大佐室の大窓から見える景色に、独り涙ぐんでしまっている事もあり、目撃はされていたようだ。
それは、隼人だけでなく、達也も気が付いているだろう。
だけど──二人は揃って、そんな葉月をつついたり、近寄って慰めるとか……そんな事はせずに、そっとしておいてくれている。
そして、今──大佐席に座ったまま、急に涙ぐんだ葉月を見て、溜め息を落としていた隼人がこういった。
「なんだかさ……。そういう涙ぐんでいる葉月も……可愛いねぇ」
「!……な、なによ?」
頬杖をしている隼人は、これまた余裕の眼差しで、楽しそうに笑っているだけ。
『可愛いねぇ』なんて、からかっているのかと思い、葉月はいつものようにむくれてみる。
「いや……そういう敏感、繊細っていうのかな? まるで思春期の女の子みたいでさぁ? どうしちゃったのかな〜。今、触ると、葉月はくすぐったいとかいって逃げ回りそうだな」
なんて、ニヤニヤと笑っているのだ。
当然──葉月としては、真剣そのもの、敏感そのもので、大揺れな気持ちでいるのに──そんな風に軽く笑われると、ムッとするではないか。
そして、やっぱり、むくれている葉月を、可笑しそうに笑っているだけなのだ! この兄様は──!!
(もう……だいたいにして、私をここまで追い込んだのは、隼人さんじゃないの!)
葉月も思っていた。
まるで今の自分は『思春期の女の子みたいじゃないか!』と……この歳になってのこんな感情変化に自分で笑いたくなったぐらいだ。
葉月の十代には──こういう事はあまりなかった。
『あった』としたら……たぶん『ほんの僅か』であり、ある事を想ってせつなくなるのなら……『谷村のお兄ちゃま二人』を思い出す時か、『姉と義兄達との輝かしい少女時代』を思い返す時……それは『胸の奥で独りきり』で想う物であり、その想いは『辛いからすぐに忘れるよう、かき消す』という『手順』の中で抹消され、今の葉月のように、心の外、身体の隅々にまで滲み出てくる……なんて事はなかった程度だった。
そんな葉月を『可愛い』と笑う隼人。
葉月は、そこは今までの自分らしく──涙を拭って、書類に向かう。
「そうそう──大佐嬢はそれでよし」
そして、隼人も真顔でノートパソコンに向かった。
乙女としても、大佐嬢としても──隼人は側にいれば『まだ、見守っている』し『お世話はかかさない』。
ただ……四六時中、葉月に付き添う『恋人兼側近』をやめただけ。
今は……大佐嬢を見守るだけの『側近』であって、そこは全うしようとしているのだ。
葉月はそんな隼人に突き放されてはいたが、独りにされて……徐々にそんな感情変化が、隼人の手添えなしで、感じる事が出来るようになった感触を得ている所だった。
・・・◇・◇・◇・・・
同じ日の昼下がり──。
葉月はいつも通りに、空軍ミーティングに出かけた。
あと三日と迫った『小笠原総合基地記念式典』。
この日はこの小笠原基地が開設された日を祝う日であり、一般民間人の入場を解放する日でもある。
以前の『御園四中隊』であるなら、今頃の葉月は『愛だ、恋だ、自分が、彼が』なんて考える余裕もないほど、駆け回っていただろう。
そこで──葉月はまたもや独り……管制塔へと向かう途中の連絡通路の窓辺に立ち止まった。
青い空──。
滑走路には、誘導されて、移動走行をしている輸送機。
そして──沖合の空には、午後訓練中のフライトチームの戦闘機が飛び交っている。
こんな風に……ふと、『立ち止まって、景色を眺めている余裕』が今までにあっただろうか? と、葉月は首を傾げる。
いつも一人きりで走っていたのに……。
いつの間にか……葉月が『右に走らなくちゃ!』と、言う事は……隼人が走り、『左に行かなくちゃ!』と、思っていた事は……達也が走り、『後ろも気をつけなくちゃ!』と、言う事は……ジョイと山中が万全にサポートしてくれるようになっていた。
だから──今回は『フライトショー』一点に、『集中できた』と、葉月はその手応えも、そして……『四回転達成できなくても、やる事は全てやった』という満足感と、充実感を得ていたのだ。
その『お隣』に、急に湧いてきたのが『義兄と自分と隼人』の事だった。
青空を眺め──葉月は、またフッと歩き出す。
今日は『ショー用の衣装』が、手元に届けられる日であった。
先日、サイズを測り、総括課が手配をしたとの事。
以前、三年前の参加では、普通の飛行服でのショーだったが、その後、見物客が増えてきているとの事で、ロイがパイロットに紺色の素敵な衣装を作ってくれるようになったのだ。
その受取日とあって、今日はメンバー達も朝から嬉しそうだった。
さらに歩きながら……葉月は『フロリダの両親』との久しぶりの会話も思い出していた。
『やぁ! 元気かな? ウサギさんは!』
父・亮介がいつの間にか、葉月の事を『ウサギ』と言い出したのには、驚いた。
まぁ……大きなうさぎのぬいぐるみを、誕生日にと贈ってくれてから、父の中でも『ウサギになってしまったか』と、葉月はすぐに飲み込めたのだが──。
『元気よ。パパも驚く事を、コリンズ中佐とやるから、お楽しみにね』
『おや? 何かあったのかな? 声が、この前の元気な声と違うように感じるが?』
『!』
これまた……声だけで、葉月の今の現状を嗅ぎ取ろうとしている父親に、葉月はおののいた。
それもそのはずで、この連絡が葉月の自宅に入った時……既に隼人は出て行った後で、葉月は一人きりの夜を過ごしていたのだから──。
『この前、お前とお話した時は……なんだか“パパも驚くお楽しみがあるのよ”と、とっても元気だったのにな〜?』
『……ああ……あれは……』
その時は『隼人と結婚したい』という話を、報告しようと張り切っていた頃だったのを葉月は思い出し……口ごもった。
『あれはね……そのコリンズ中佐とやる事でね……驚かそうと思って。でも、もうキャプテンがやり通そうとしている演目、知られちゃったわよね?』
なんて──そんな風に誤魔化す事になってしまった今の状態に、葉月はがっくりとうなだれながらも、亮介に悟られないように元気いっぱいの声を努める。
『……ああ、コークスクリューの四回転だって? 前代未聞だねぇ』
父の応答に、やや間があったのだが──亮介も、そこは楽しそうに努めてくれたのか? 合わせるように元気だった。
『そう言えば……昔、良和が“三回転”を試みて、それを達成した途端に、引退したんだよなぁー』
『──! それ、本当!?』
急な昔話に、葉月は飛び上がった。
あの怖いけど、昔はとっても素敵だった葉月の『憧れのパイロット』である男──細川のおじ様。
そのおじ様の『引退話』が出てきて驚いたのだ。
あんな風に『馬鹿無茶』とばかりに、デイブと葉月がする事を呆れていたあのおじ様が!
実は、鬼おじ様もそんな『無茶』をしてた事は、葉月としてはとっても意外だった。
でも──今は、見守るように、そして──厳しく指導してくれる『その裏の心情』が、少し見えてきた気がして、葉月は驚きながら黙り込む。
『ああ、引退の素振りも見せなかったのに、そのショーが終わった途端に言い出して、周りの反対も押し切って、コックピットを降りたんだよ。なんだろうね……最高の記録を最後の栄光にして去りたいって所かな? 勿論、今でもアイツは甲板で現場職務を頑固に捨てないが、パイロットとして、コックピットを降りる決意って言うのは……そういう事がきっかけでないと思い切り付かなかったんじゃないかな〜。私も歳を取ってそう思う事もあるけど、パイロットの現場引退は、早いからね──。コリンズ君も現役引退ではないけど、それに近い事を……意識するように持って行かれちゃっているみたいだね。残念だな──指導力も優秀なだけに、早く“指揮側陣営”への人材として欲しがっているんだろうね──』
将軍として、つらつらと語ってくれるパパの社説のような話には、流石に葉月も黙って聞き入ってしまっていた。
『お前も──女性という身体故に、今回は上手く“指揮側”に引き寄せられているようだね……。葉月自身も、コリンズ君同様に、コックピットを降りたくないという気持ちは、プライドあるパイロットなら当たり前だろうけど……。パパはちょっと安心かな? それに指揮側に引き抜かれる事は、実力を認められている証拠。光栄な事だよ……』
『解っているわ……パパ』
『いやはや! 急にどうして、こんな話になっちゃったのかな? いかん、いかん──ウサギさんとはもっと、楽しいお話をパパはしたかったのに!』
葉月はそんなパパに、笑い出していた。
『大丈夫、そういうパパのお話も参考になるから、大好きよ』と、いうと、亮介は楽しそうに笑いつつも、式典へ行く準備で母と大騒ぎをしている事を、面白可笑しく話しながら……今度は、母に代わってくれる。
『どう? 身体は大丈夫? ママが送ったビタミン剤、飲んでいるの? 夜更かししていない? ちゃんと栄養あるお食事しているの?』
『当たり前よ。毎日、空を飛ぶんだから、早寝、早起きは欠かさないし……ママのサプリメントもちゃーんと服用しています!』
母親は絶対に、まず──娘自身の身体や状態を嫌という程、尋問するように聞いてくる。
そして……なんだか、この頃、そんな母の言葉が、とても有り難く感じるようになってきていて、葉月はつっけんどんに返事をしながらも、そっと微笑む。
『隼人君は、元気? そこにいるの?』
『──』
母のちょっと彼を優しく気にする声に、葉月の表情は強ばる。
『……今、官舎にいるの』
『──官舎? まぁ……一緒に住んでいると言っていたのに?』
『──ああ、ほら。今、私の中隊は達也がホストを引き受けたから忙しいの。隼人さんと達也は今、そんな事で、一緒にいる時間が必要で──それで……』
『……そうなの』
葉月の咄嗟の嘘。
父は勘が良いのだが、母は人間的行動の先々を予想する『閃き』が誰よりも素早い事を、葉月は知っていた。
それが父や葉月の勘より『的確』だから、二人とも『最後はママには頭があがりません』と、いう口癖みたいな物が、親子三人の中で出来ているぐらいだった。
その母が──置いた『……』という間に、葉月はヒヤリと額に冷や汗を感じながらも、母の思惑は計り知れなかったが──。
『隼人君と達也君は仲良くしているみたいで、安心したわ。二人に会うのも楽しみよ。お土産を用意しておくからと、二人にも宜しく伝えてね』
そんな母の明るい声に、『久々の一人暮らしの夜』に関して、妙に勘ぐられなかった事に、葉月はホッと胸をなで下ろしたのだ。
その次の日に、葉月は隼人をひっつかまえて、『両親とこういう話をしたから、合わせてくれ』と頼んだ。
当然──隼人も余計な心配はさせまいという葉月の意向もさることながら、今回のそういう両親に『知られたくない』という葉月の態度には否定的になれるはずもなく──『ああ、いいよ。達也にもそう言っておく』──と、了解してくれ、『隼人は仕事の為に、官舎に戻っている』という事になったのだ。
そんな両親も、明日の夜までには『小笠原入り』する予定になっていた。
(今回は……マイクは来ないと言っていたわね〜)
父の小笠原来賓としての今回のお供は──マイクの一番後輩である『ロビン』が側近として来ると聞かされた。
葉月は、いつも父を心配してひっついているアメリカのお兄ちゃまが来ない事に、がっかりしたが……。
『近頃、マリアと待ち合わせしては……ねぇ?』
なんて! 父の意味深な言葉に、葉月は驚いてしまったのだ。
『いやいや? 妙な仲ではないんだけど……信頼し合っている『同僚』という良い感じだよ。うん……でもぉ? 近頃、マリアはまた妙に女らしくなって、以前とは全然違う雰囲気なんだよ。マイクはね〜あの理工系の隊員が集まるバーに出入りしているらしいよ〜。理工系の他の青年とも仲良くしているし、近頃、楽しそうなんだよね〜』
パパのニタニタしたような顔を思わせる、そんなからかうような声。
でも──と、葉月は目をそっと伏せる。
つい数ヶ月前、懐かしいフロリダで、沢山、走り回って……沢山、楽しい思い出を残した帰省を思い出す。
『皆……あの“計画”の事、真剣に考えて、進めてくれているのね!』
『ああ。パパはまだ、知らぬ振りだけど──。そろそろ、マイクからお勧め話として、報告が届く頃じゃないかな? 葉月も大丈夫かな?』
『とりあえず──。発案者はマリアさんかもしれないけど、始動の言い出しっぺは、私だから──。でも、パパと一緒で、私もまだ、言い出したとはいえ、動く役はまだ先みたい。今は、隼人さんや達也が動いてくれているから──パパと一緒で、まとまり待ち』
『お。もう、下の者を信頼して、ヤキモキしつつもジッと構えている事を覚えたな? さっすが大佐嬢〜♪』
『からかっているの?』
褒めると言うより、小さな娘をからかうような父の声に、葉月はむくれたのだが──。
(そう……もう、動くのは私ではないのだわ)
ふと……そんな『寂しさ』が襲ってきたような気が、一瞬したのだ。
その『寂しさ』を感じてから……色々と今までになかった変な『マイナス思考』が、瞬時的に葉月を襲う事がしばしばあるように──。
私はどうして此処にいるのだろう?
いつから、此処にいる事が当たり前になったのだろう?
何故? パイロットになったの?
何故──コックピットを降りる日が来ると、解ろうとしなかったのだろう?
何を──空に求めていたのだろう?
今回の挑戦の果てには──何が残るのだろう?
コリンズ中佐との『思い出』?
大佐嬢としての『栄光』?
そして式典が終わった果てに、また続くだろう──『軍職務としての挑戦』、『仲間との挑戦』。
何故? ここまで来たのだろう?
これが終わったら──『私なんかいなくても……』
自分のような大佐は、沢山いるだろう。
自分のような、パイロットは山ほどいる。
自分のような──。
急に──そんな事がぽっかりと心に穴を開けるように襲ってくるのだ。
今は、ほんの一瞬──。
それが徐々に、回数が増えているのを葉月は自覚し始めていた。
そのせいもあるのだろう。
涙が溢れてくるのは──訳もなく、別に考え込む事ではないはずで、今までの葉月にはない『思想』だった。
また──葉月は溢れてきた涙を、黒いカフスで拭いながら、『管制塔』へと目指す。
「お嬢──」
「?」
まっしぐらにミーティング室を目指している途中、各部屋が並んでいるフロアへとあがる鉄階段を上りきった時だった。
「ウォーカー中佐」
「やぁ。こうして話すのは久しぶりだね」
そこには目尻にも、口元にも笑い皺を穏やかに刻んでいる黒髪の男性がいた。
目尻や口元の皺もさることながら……黒髪は、やや灰色がかるように見せる白髪も混じっている。
だが──背丈はスッと細く……にこやかに手を振っている姿は、葉月から見ると『穏和な40代なりたての、おじ様?』という雰囲気だ。
義兄の純一や従兄の右京と同世代で、ウォーカーの方が歳はやや上だろうが、兄たちよりもずっと『老け込んで』みえてしまうので『おじ様』と感じているのだが、『生活感』とも言うだろうと……葉月は、そんな若いがすっかり家庭的な父親を連想させる彼を見上げて、愛想良く微笑んだ。
「そうですね──お疲れ様。……あの、ダッシュパンサーは今? ミーティングが終わったのですか?」
「ああ。一足先に、済んだよ。今からだろう? ビーストームは……」
「は、はい」
葉月はやや戸惑いながらの返事。
この基地で、誰もが『ナンバーワン』と讃えるパイロット。
そしてキャプテンとしての指導力も落ち着いている、空軍では皆の『一番の先輩』。
その彼と会話を交わす事は、葉月としては珍しい事ではないが、挨拶以外に、こうして声をかけてもらえるのは珍しい。
むしろ──葉月よりも、同じチームリーダーという立場のデイブの方が、親しく会話をしている方だろう。
「今からミーティングだよね」
「はい。今日、フライトショーの衣装を受け取るんです」
「ああ、あの紺色のきっつい服ね。スカーフが長くて。暑苦しくてさ──」
「え、きついのですか?」
「ああ、こんなウエストがシェイプされているデザインでさぁ〜!? あ、お嬢はスマートで女の子だから、しっくりするかもね。男はずんどうだから!」
「まぁ……フフ」
若おじ様の彼が、身振り手振りで衣装の欠点を語る姿が、いつもの凛々しいキャプテンである彼でなくて、葉月は笑い出していた。
その衣装を一番手にあつらえてもらい、一番最初に着たのは、このキャプテンのチームだった。
いや──小笠原一のフライトチームがショーをするとなって、ロイが張り切って衣装をこしらえた……と言っても過言ではないから、この男性も衣装経験者であるのだ。
「……じゃなくてね……」
「? どうかされましたか?」
葉月を見下ろして、にこやかに話していたウォーカーの表情が引き締まり、葉月も首を傾げた。
「ミーティング後、一緒に話でも出来るかな? カフェで待っているけど──」
「!? 何か?」
「……ここではちょっと……」
彼の戸惑う表情が、尋常でないように感じ……葉月も表情を引き締めた。
「構いませんが……何故、私なのでしょう?」
「まぁ……その。色々とね──お嬢に話したい事があって……。ああ、勿論、パイロットとしてだよ」
「それは解りますが……いえ、その承知、致しましたわ。ミーティングが終わったら直ぐにカフェに伺います」
「うん、有り難う」
また目尻に、くしゃっと皺が寄る暖かい男性の笑顔。
葉月はその笑顔に、応えるように、微笑み返す。
(なんだか──ウォーカー中佐じゃないみたい)
鉄階段のてっぺんで、葉月はそこをあがりきり、彼はスッとその階段を降り始めた。
その階段を下る若おじ様の背中を、葉月は見つめる。
なんだか──彼の背が丸まっているようで、それがつい最近の『デイブ』と重なった。
そして──その姿にどことなく同調してしまうような自分もいる事に葉月は気が付いて──我に返った時だった。
「お嬢──」
「は、はい!」
階段を下りて、目の前の踊り場に辿り着いたウォーカーが、そっと見送っている葉月の目線に気付いていたかのように振り返ったので、葉月は驚いて固まる。
「……俺、引退を決めたんだ」
「──!?」
一瞬、葉月は耳を疑った。
「完全にコックピットを降りるんだ。やっと気持ちの整理がついたんで──それで、お嬢にはどうしても、話しておきたいことあるんだ。いいね?」
「……は、はい。解りました──」
そして、彼は今度は振り向かずに、颯爽と階段を駆け下りていく。
葉月は茫然としていた。
この基地、一番のパイロットが引退するなんて──葉月が驚くだけでなく、間違いなく基地中のトップニュースになるだろうから!
でも──? と、葉月は首を傾げる。
『この私如き小娘』に、わざわざ話とはなんだろう? と……。
それでなくても、妙な『虚無感』を感じちゃっているのに──。
葉月も溜め息をつきながら……ミーティング室を目指す。
その日、葉月の手に……紺色のフライトショー衣装が手渡された。