・・Ocean Bright・・ ◆黒猫が往く◆

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11.僕の覚悟

『ビーストーム3! 発進──!』

 小笠原の海上、上空へと次々に飛び立っていくホーネット。
 しかし、隼人には、その慌ただしいフライト発進の声は、もう届いていなかった。

 隼人の目の前には、自分より背が高い長身の黒髪男。
 静かな眼差し。
 思っていたより潤んでいるような? 麗しく、黒い大きな瞳の持ち主だ。
 そう──大きな瞳と、くっきりとした眉──それが印象的──。
 少しだけ伸ばしている黒髪は、すっきりと頭の形通りにまとめられているが、毛先は癖があるようで……そう長く伸ばす事は出来ないと思わせる髪型だった。
 真一も、栗毛であり、今時の男の子らしく少しは伸ばしてはいるが、葉月と違って髪質は癖がある。
 そして、涼やかな眼差しの葉月と違い、真一の瞳はくりくりとしていて、とっても大きく輝いている。
 顎の線も、輪郭も──近頃、大人びてきた真一と違和感なく重なった。

『……やっぱり、真一に似ている!』

 この男と真一は、紛れもなく『父子』──!

 それが隼人が持った印象だった。
 そんな彼をまじまじと見ていると、なんだか彼の方が耐えられなくなったのか、フッと一瞬、隼人の視線から顔を逸らした。
 そこで、隼人も茫然と眺めていた所、元の状況に引き戻された感じに──。

 その状況に戻されて、すぐに湧いた気持ち……。
 隼人は彼を下から睨み付け、拳を握っていた。

「順番が……違うじゃないか?」
「順番?」
「俺なんかどうだっていいだろう? そう、最初からアンタは俺なんか眼中になかったはずだ。そのまま放って、何故? 葉月の所に、一番に行ってくれないんだ!」
「オチビの所にねぇ?」
「……!」

 純一のとぼけた口調に、隼人はムッとした。
 握っていた拳が、足の横で、さらに強く握りしめられる。

「アンタがそんな心積もりだから、葉月があんなに苦しんでいるじゃないか!」
「おい。『僕』──」
「! なんだよ!」

 どんなに隼人が葉月の心情を訴えても、彼は動じそうにもない。
 その上、見下すように、高い視線から『僕』などと隼人を呼び、ぐっと強い眼差しで……静かに見下ろしているだけだ。

「そちらこそ……何か勘違いしていないか?」
「勘違い?」
「そっちこそ、本当に義妹を思ってくれているなら、どうして手放す。どうして、捕まえておかないんだ? 義妹が結婚を決したのは本気だ。彼女を幼い頃から知っている俺には分かる。あのオチビは、そんな大事な事を軽々と決しないし、自分からは言い出さないはずだ。だったら? 『僕』から申し込んでくれたのだろう? 今までの義妹なら逃げ出したいほど迷う事を、『僕』が承知させたんだろう? その『言い出した僕』が他の男に、手渡したいなんて……おかしな話じゃないか?」
「……」

 隼人には、『彼』純一が言いたい事も、充分に分かっている。
 誰でも、そう思うだろう。
 実際に達也にも『兄さんは、人が良すぎる。おかしい。考え直せ』と別居を始めた夜に散々言われたのだから。
 次の朝には、達也から聞かされたのか? ジョイにまで『隼人兄は間違っている。誰の為でもなく、もっと自分の事を大切にしなくちゃ、哀しいだけじゃないか。お嬢も望んでいないのにどうして?』と、突っかかられた。

 そう──『誰もが』隼人が始めた事を、『おかしい』と言うのだから、目の前の彼もそう考えても全く言い返す気はない。
 そして、達也とジョイの口を止めたのは、葉月の『態度』だった。

『私、隼人さんが言っている意味と、私の為にそうしてくれた事……理解しているわよ』

 例の如く、何事にも取り乱さない、何事にも無関心なあの『無感情令嬢』の顔で、二人の男に言い放ったそうだ。
 勿論、葉月の『無感情』を特に理解している『長年の付き合いがある男二人』は、納得しなかったとの事。

『葉月、もっとよく考えろ! また、お前はそうやって投げ出して!』
『そうだ! お嬢! いつものように、流れに任せてお終いにするつもりなんて、俺、隼人兄の為に許さないからね!』

 そんな風に、二人は葉月にも食ってかかったそうだ。
 だが──そこで、葉月が哀しそうな眼差しで、宙を見据え、こう言ったそうだ。

『私もね──。彼を待たせているから、行かなくちゃいけないの。隼人さんがしてくれた事、無駄にしないわ……。私も、早く、隼人さんが居る所に行きたいの』

 彼女が言っている意味が『解らない』と、達也もジョイも思ったそうだ。
 そして──達也が暫くして、隼人にこう言ってきた。

『あれから、考えたけど──。葉月と兄さんがいる位置って……違うんだな? 位置じゃなければ、場所かな? 葉月の言葉でそう思った。それを葉月は良く理解していたみたいだ……。いる場所が違うなら一緒にいてもお互いに辛いだけって事なのかな? てね……。そういう“必ず来るべきだった状況”まで登り詰めているって事かなぁ?』

 それから、達也もジョイも……不満そうではあったが、二人を見守る姿勢に変化してくれた。

 そういう『意味』を、目の前の『兄貴』は解ってくれていない。
 だから……隼人はさらに拳を握りしめた。

「アンタが言いたいのは……俺が葉月を『放った』事について、気に入らないと?」
「ああ、全く……その通り。よくも義妹を弄んでくれたな? それでも、すぐに『別居取り消し』をしてくれるなら、俺は言う事はない──」

──『俺は言う事はない』──

 最後のこの一言。
 これを聞き届けて、隼人は奥歯をギリッときしませ──。

「そうじゃないだろ!!」

 次の瞬間には、隼人が最初から徐々に力を込めていた拳。
 それが、自然と純一の片頬へと直進していった!

──ドカッ!──

「!」
(嘘だろ!?)

 隼人が放った鉄拳は、見事に……『彼』の頬に命中したのだ!
 隼人も、目の前の相手が『どのような男』かは、理解しているつもりだ。
 岬任務中に、葉月をタイミング良く『潜入サポート』をして、自分達の一隊を救う手引きをしてくれた男──『プロ』だ。
 その男が……隼人如きのメンテ男の拳なんか避けられるのも当たり前──そう思っていたから、避けられる事を解った上で振るったのに!?

 目の前にいた男が、一歩だけよろめき、それでもダメージは片頬をはたかれた程度に、横に俯いている程度だ。
 それでも……彼の唇が少しだけ切れたようだった。

『プッ』

 彼は拳で口元を拭いながら、唾を吐き捨てた。

「僕、そうじゃないとは? どういう事なのだろうか?」

 殴られても、彼は殴られなかったかの様に平然としていた。
 それが余計に、隼人を苛立たせる。

「まったく……アンタがそんな男だと思うと、期待はずれで俺もがっかりだ!」
「俺はこういう男だが……」
「あの彼女が……アンタみたいな男を……どういう気持ちで何年も……いや? 子供の頃から、どれだけアンタを慕って、愛し続けてきた事か──。あの……感情には乏しい彼女が……彼女がずっと隠し持って大事にしていた気持ちの相手が……こんななんて……」

──『いたたまれない』──

 そっと隼人がうなだれると、まったく動じていない『彼』は、やっぱり静かに隼人を見下ろしているだけ。
 その表情──まるで『無感情令嬢』と言われている葉月の『何も感じない』という顔とよく似ていると、隼人はふと思ったぐらいだ。

「だろ? 『僕』が腹立てるほど、俺はどうしようもないクズ野郎だ。どうだ? それでも俺に義妹を任せたいのか? そりゃ、ないだろう? オチビには『僕』のような立派で誠実な男がお似合いだと、俺は思うがね?」
「アンタ、俺にそんな事を言いに来たのか?」
「ああ、義妹が幸せを目の前にして、手放されたのかと思うと『兄貴』として見ていられなくてね……」
「俺の説得──?」
「ああ、そうだ。考え直してくれ。頼むよ──オチビが泣いているじゃないか?」

 不敵な微笑みを浮かべた『彼』が、そこはニヤリと隼人に胸を張ったのだ。

 そこで──隼人の『脳中枢神経』に電気が走った!

「この──バカ兄貴!」

──ドカッ!──

 今度は後先考えずに、拳を放っていた。
 なのに……また! 見事に同じ位置に命中した!
 今度こそ、『彼』がよろり……と、苦痛の表情を刻みながら、倒れそうになった程。
 思わぬ力が、隼人にも湧いていたようだ。
 しかし、隼人は……首を傾げながら、そんな自分の拳を見つめた。

「ボス──!」

 不屈のボスが……一般男子にあまりにも無力なばかりに殴られたので、エドが飛び出そうとしていたが──。

「やめろ──エド。やらせておけ」

 そこで、先輩ジュールが飛び出そうとしたエドを、片手で制する。

「しかし──!」
「ボスは殴られて当たり前じゃないか? 俺は……彼の気持ち、解るね──」
「ジュール……」
「殴られて当然なんだよ。あの人は」
「……! まさか、ボス……」

 黒髪の日本人男性の向き合いを、ジュールは静かに、目を見開いて見守っている。
 そして──そんなボスの事は、兄貴とも時には言わせてもらえる仲である先輩の言葉で、エドも目が覚める。

『わざと──殴られた!?』

「解ったなら、邪魔するな。見ろ? 俺が今まで言いたかった事、彼がボスに言い放っている……」

 その時、エドが見た先輩の顔は……見た事がないような……? 諦めたような? いや? 哀しそうな? そんな例えられないぐらいの力無い笑顔を浮かべていたのだ。

「ジュ、ジュール?」
「いや……俺とした事が。これからだな──」

 エドの横で、また……先輩は気を抜かない厳しい顔に戻った。
 エドには、彼が何を感じたのかは、計り知れない。
 だが……金髪の先輩が言いたい事は理解でき、飛び出そうとした姿勢から、エドもスッと静かに元の位置に退いた。

 そして──殴った『僕』は、自分が振るった拳を不思議そうに眺めている。
 二人の部下男が、驚いたのは次の瞬間だった。

「……アンタ。わざと?」

「!」

 ジュールとエドは、一緒に顔を見合わせた!
 毎日一緒にボスといる自分達なら、ボスのひねくれや、素直じゃない『やり口』はお見通しだ。
 もっと言うと、エドでも『先輩の注釈』が必要なぐらい『ボスのおばか』な行動なのに!?

 それを……初めて対面した彼が、そう感じ取った事が驚きだったのだ!

「……なんだ。俺を殴りたい気持ち、言いたい事、山ほどあるだろう? これだけか?」

 そして──純一もそんな『僕』に心底を見透かされた事に、やや動揺した様な目つきに変わった。
 それを誤魔化すが如く、まだ口悪を叩いていたが……。
 もう、隼人が拳を力無く降ろしてしまっていた。
 そして……暫く、『僕』が茫然としているので、ジュールとエドが見守っていると──。

「アハハ! そういう事なんだ! アハハハ!!」

 まるで、気でも狂ったかのように隼人が笑い出す。
 さらに、ジュールとエドは顔を見合わせ、眉をひそめた。

「何がおかしい──」

 そして──ボスも、何かに構えるような、いや? 怯えたような感じで、問いただす声がやや小さくなってた。

「馬鹿な事をした」

 そして、大笑いをしていた『僕』隼人は、急に真顔に戻った。

「殴るんじゃなかった──。アンタの思い通りになってたまるもんか! 俺に殴られたら、アンタは葉月を連れて行く事も、俺から奪う事も……そして、今までの自分に対する後悔も、葉月に対する申し訳ない気持ちも、少しは軽くなると思ったんだろう!?」
「──そうではないが……」

 純一が口ごもる。

「アンタは殴られて気が済むかもしれないが、俺は、殴った所でまったく気は済まない。殴らせてもらえても、殴らなくても! 俺の気が済むのは……」

 そして、隼人は収めた拳を……グッと握って自分の目の前で見据えた。
 今度は殴る為の拳ではなかった──。

「俺の気が済むのは……葉月自身が納得して、女性という心が綺麗になって……それで……」

 隼人はそこまで言うと、その先の言葉を躊躇っていた。
 そして、拳が隼人の目の前から、力無く降ろされる。

「いや──彼女が今までの事を『忘れるほど』幸せになれば……それで良い……それだけで……良い」

『!』

 その『僕』が独り言のように言い放った一言に、ジュールの横にいたエドが……驚愕の表情を浮かべてた。
 しかし──ジュールとしては『それぐらい考え抜いていた事』は解ってここまで来たのだ。
 『まだまだ』──エドのように心は動かされない。 

「随分と気前が良いな……僕は」

 純一が感心したような一言。
 それでも隼人は、その言い方が、まだ見下されているような、余裕ある言い方に聞こえて仕方がない。
 もう一度、純一を睨み付けた。

「アンタ……昔、真兄さんにも同じように『殴ってもらった』のかな?」
「なに?」

 途端に、純一の表情に異変が表れた。

「俺、今なら……真さんの気持ちが解るような気がする──」
「!」

 純一の目の前にいる『僕』の表情が……達観したように透き通り始めた気がする。
 そして、その哀しそうな黒い瞳までが──何もかもを見通すように、透明感を放ち始める。

「真さん──。兄貴に遠慮されている事、どれだけ苦しく思っていただろう?」
「!」

 また、動じなかった純一の顔が強ばり始める。

「アンタも、男として──そういう遠慮って『余計なお世話』だと思わないか? 俺は──アンタがわざわざこうして俺に挨拶かなんだか知らないけど……ちょっとは気が引けて会いに来た事……すんげぇ腹立ててるぜ──」
「……」
「もういいから……葉月の所に行ってやってくれ……。俺も彼女も覚悟は出来ている。彼女──アンタが来るのを待っているから……」
「……」

 純一から見る『僕』の眼差しは、真剣だった。
 そこに『男同士の駆け引き』のような裏ある言葉は感じられない。
 心の底から、『僕』が、自分の為でもなく『彼女』の為に『覚悟』が出来ているという事──。

「彼……本気なんだ……」

 まず、エドが一番にそれに感動したようだった。
 しかし──ジュールは頬を引きつらせる。

(まだだ──。それぐらいの覚悟、なんだ! 現実的にはそうはいかないんだ、人間って奴は!)

 心の中で『僕』に向かって、言い捨てていた。
 そして、ジュール同様に、少しは『本物の覚悟であった』と見極めただろうボスも、やや動揺した様から立ち直ったようだ。

「そうかい。“お前さん”の気持ちはよーく解った。なるほど──確かに俺の弟、そのものかもしれないが? 困るな──俺の弟の気持ちは、もっと超越されていたが、それも並大抵の心情でなかった事は、この『兄貴』がよく知っている。それを易々真似されるのはねぇ?」

 いつもの口悪で立ち直ったボス。
 ジュールもニヤリと微笑んだ。
 そう──そうだ! 良い子ぶっている『僕』の心をもっと振り乱してやれ!
 今のジュールはそういう心境だ。
 それを見届けるまでは……エドのように『すぐに人情的』にはなれないのだ。
 なんと言っても、ジュールの『姫様』の相手というのは、それだけじゃ認めれらない!

 しかし──そんなボスの口悪に、今度の『僕』は、もう怒ったりせずに、ただ呆れた顔、しらけた眼差しでボスを直視していた。

「そりゃな。俺は真さんと重ねられるのが一番嫌な事でね。何もアンタや葉月に好かれたくて、真似しているつもりなんてないね」
「ほう?」

 今度はどちらも譲らない『平静』な様子。
 だが、今度の純一が変えた表情──それは今までの『小馬鹿』にした目線ではなく、静かに隼人を慈しむように見つめる眼差しだった。

「澤村──だったな……」
「……? ああ、そうだ、俺は澤村隼人だ」
「……」

 そんな純一の変化に、隼人も気が付いたようだ。
 気が付いたが、その変化を訝しそうに小首を傾げ、純一を見上げている。

「──本当に、葉月がお前さんの日常から姿を消しても、本当にそれでも良いのか? お前さん、理論で賢く理解している事と、現実で起こる事を心で感じるのは違うと俺は思う」
「!」

 それを聞いた隼人の息づかいが止まる。

「今まで、何の為に葉月を愛してきたんだ? そりゃ、俺にもお前さんの心意気は素晴らしいと感心している。それを猫ばばみたいに持っていかれて悔しくないのか?」
「……」

 隼人は黙っている。
 それを鉄扉の前で、エドとジュールは固唾を呑み、見守る。
 ついに『ボス』が『お試し』などという『おちゃらけ』をやめて、本題に入ったからだ──。

 ボスの『おちゃらけ』は、自分は今までこういう曖昧でいい加減な態度で義妹を弄んできたいけ好かない野郎なんだ──と、いう姿勢を見せ、彼が『がっかりだ。やっぱり、葉月は渡せない』と、考え直してくれるか、言い出した『葉月の為の別居』が口先だけだったと見極め、やはり『己の為の愛だった』という彼の化けの皮を剥ぐ作戦だったのだろう?
 実際に、ジュール側から見ても、純一という義兄は『そういう見せかけ』ばかりしてきた男だ。
 しかし──純一も、『がっかりした』と言われても『葉月に逢って欲しい』と切望する『僕』の姿に、やっと本気になった様だ。

「猫ばば……したのは、俺の方じゃないかと……」

 隼人がフッとうなだれた。
 彼のその言葉に、純一がフッと驚いたのが、ジュールにも解ったし……。
 『嘘だろ? そこまで言えるか?』と、またエドがジュールの横で驚愕しているのだ。
 隣にいる後輩のいちいちの反応は鬱陶しいので、この際放ったジュールだが……正直、ジュールも驚きだった!

「いや──。そうなるようにしてしまったのは、俺と葉月が築き上げてきた『曖昧』だ。お前さんは何も悪い事はしていやしない」
「……」

 思ってもいないボスの慰める言葉。
 それでも『僕』隼人は、その慰めを不快に受け取る事もなく、そして、快く受け取ったという、どちらの感情も表していない。

 ボスだけでなく、エドもジュールも……『僕』の反応を静かに待っていた。

「──覚悟──というものは……先の事が解らない事に対してするものだと思う。俺も解らない──。葉月がいなくなって、自分がどうなるか解らない。だけど──もう、あんな彼女とだけは『一緒にいられない』。彼女が望んでいないのに、俺が『日常を分かつ』と、そう決めたのは、やっぱりもう、自分を偽っている彼女とはいられなかったからだ……。『放った事』を責められても仕方がないと思う。本当の事だ──」
「しかし──葉月は偽ってなどは……俺は見た。マルセイユの岬の任務で──あの義妹が『愛しているから、戻りたい』と必死に叫んで、生きて帰還しようとしていた姿を見た時に……ついに義妹も、本当の愛を──」
「本当の愛を、彼女は俺に会う前に知っていた。ただ……彼女とアンタがお互いに『認知』出来なかっただけだ!」
「いや……それはだな……」
「もう、良いじゃないか! 他の兄さん達にも散々言われたよ! 葉月は本気で嘘はついてはいない。だけど、彼女の心は俺がいる事によって、益々引きちぎられて行くばかり……俺が……そうだ、俺が彼女を愛してしまった結果が、この状態であって、行き着くべき状態だったんだ!」

『!』

──『自分がいるが為に、彼女の心が引き裂かれて行く』──

 その隼人の言葉に、『黒猫衆・三名』は同時に、一気に固まった!

「アンタが、どんなに俺と葉月の今までを尊重してくれても、何も変わらないんだ! そうだろう!?」
「……」

 何故か、純一が後ずさった様に? ジュールには見えた。

「葉月の気持ちを……満たしてやってくれよ! 葉月のその気持ちが満たされたら──『答』が出るじゃないか!? 結果はどうであれ、これから彼女と先に進めるには、アンタと葉月が再会するという『過程』は不可欠なんだよ! だけど、俺は諦めてなんかいない! 彼女がきっとこの一年だけの俺との日々を、絶対に忘れない事……! そしてそれをアンタの横にいても、絶対に一人きりで思い出してくれるぐらいの存在であった事も! 一縷の望みでも──戻ってくると信じているんだ!」
「……」

 またボスが一歩……後ずさった為、ジュールとエドは眉をひそめる……。

『くそ!』
「ジュール!?」

 後ろから見守っていたジュールがついに飛び出した為、エドは驚いたが、エドの足は何故かそこから動けなかった!

「……澤村中佐! それなら……お嬢様とお別れする覚悟は出来ているのですね!」
「ジュール──」

 飛び出したジュールは、後ずさるボスの背後からそう叫び、なおかつ、純一の背を前へと押し出していた。

「そうなると、お嬢様は絶対に、このお兄様から離れませんよ! 私、長年、見守ってきた身ですから、解るんですよ!」
「ああ……構わない。それが『覚悟』って奴じゃぁないのか? 金色猫さん──。そして……たとえ、数年経っても、彼女は俺を忘れない。心の何処かできっと俺との日々を笑って思い出してくれるってね──」
「!」

 隼人の眼差しは強く、険しい口調でジュールに突き刺してきた!
 何故か……今度はジュールが後ずさった。

 そのボスと子分が退いていく姿を見る隼人の目つきが変わった!
 その途端だった!

「逃げるなよ──!」
「──な、何をする!」

 ボスのそんなちょっとの隙をついて、隼人が純一の腰に飛びかかってきたのだ!
 そして、その飛びかかった彼が手にしたのは、ボスが腰に常備している『サバイバルナイフ』!

「俺が邪魔なら……こうでもしないとアンタは絶対に動かないだろう!?」
「──!?」

 純一とジュールは一緒に青ざめた!

 ボスの腰から奪われたナイフの刃先を光らせる隼人が、振りかざしたのは──。
 それは、ナイフを握った本人である、隼人の腹部へと迷いなく向かっていこうとしていたのだ!

「やめろ! 何を考えている!」
「離せよ! もう、俺の言いたい事、役目は終わった! それでもアンタが葉月を放って置いちゃ困る! 約束してくれないなら──!」
「やめないか!」
「もう、構わないんだ! 葉月がいなくなる事は……こういう事だって覚悟していたんだ!!」

 自分の腹部へと自刃の刃先を向かわせる隼人の腕を、純一が力一杯に引っ張り、阻止しようとしている。
 だが、隼人の力も尋常ではないらしく、流石の純一が、彼の肩を吊り上げるように引っ張りながらの必死の阻止。

 二人の形相は、本気で真剣であり……特に隼人の眼差しは、ナイフの刃先以外は何も映ってはいないように感じ、その真摯な決意は充分に通じるほど、ジュールまで硬直していた。

 ボスと彼が揉み合っているその光景を、ジュールは何か、現実に起こっていないかのように茫然と眺めているだけ。
 それは──鉄扉の見張りという、もっと入り込めない場所で、蚊帳の外にしかいる事が出来ないエドも、既にその心境に陥っているようだった。

「いい加減にしろ! 『諦めない』とほざいたからには、命を粗末にするな! 葉月を待つという言葉ははったりだったのか!!」
「つッ!」
「!」

 やはり最後は、揉み合い慣れているボスが何とかナイフを取り上げたようだが!?
 その代わりに、隼人は純一に本気で突き飛ばされ、床へと倒れ込んでいた。

「あ!」

 ジュールが我に返ったのは、倒れた隼人の状態を目にしてからだった。

「──ったく。俺とした事が!」
「本当ですよ!?」

 純一は自分がしてしまったミスを目の当たりにして、息を荒く胸で吐きながら、自分がやった事を見下ろしていたが。
 ジュールはすぐさま、倒れた隼人の側にひざまずいた。

 隼人の手の甲に、ナイフがかすったのか、スッと一筋の線、そこから、真っ赤な血が滲み始めていたのだ。

「隼人様! 整備をする大事な手なのに──!」

 『隼人様』──ジュールは無意識に、彼をそう呼んだ自分に、自分自身で驚いてしまった!
 しかし、すぐに我に返る。
 ポケットから、ハンカチを一枚取りだし、すぐさま隼人の手の甲に当て、止血を試みる。
 エドも驚いて、駆けつけてきた。

「……大丈夫、かすった程度だ。少し深いけど……縫うほどじゃない。止血と消毒をすれば……支障はないし、グローブをすれば、多少は痛みは伴っても作業は出来る」

 医者であるエドの素早い見解に、ジュールは純一を見上げて、ホッとした笑顔を見せていた。

「……」

 だが──ボスは、頬を引きつらせ、今度は彼が茫然としている。
 倒れた隼人の側には、ジュールとエドがひざまずいていた。

「離してくれ──!」

 ジュールがいたわっていた隼人の右手……その手で、振りほどかれる。

「しかし──隼人様」
「そうですよ。止血ぐらいは──」

 それでも介抱してくれる二人の男を、今度は隼人が疲れたように見つめてくる。
 二人は揃って、その透き通っている眼差しに……固まったぐらいだ。

「……長年、見守っていたって? そうなんだ──」
「……」

 隼人が微笑みかけてきたので、ジュールもエドも……スッと目線を揃って逸らし、俯いてしまった程。
 そういう逃げたくなるような、真っ直ぐで素直な……子供のような眼差しだったのだ。

「ボスをなんとかしてくれよ……。それで……彼女が戻ってくるなら、『もう一度始められる』──もう、俺と彼女の『第一過程』は……『終わった』んだ……」

 その時、『僕』の黒い瞳から……一筋の涙が光っていた。

「では……本当に……お別れするつもりで……?」
「ああ……」
「!」

 二人の部下は、一緒に固まった。
 そう──隼人が目尻に涙を光らせながら、微笑んでいたからだ。

『こんな男、初めて見た!』

 ジュールだけではない。
 きっと隣にいるエドもそう思った。
 二人は、そういう茫然とした顔を揃って隼人に向けていたのだから──。

『ビーストーム8。発進完了! キャプテン? キャプテン!?』
『おかしいな……ファーマー。澤村の応答はまだないのか?』
『あ、はい……監督』
『梶川──様子を見に行ってこい』

 そんな外の会話が、エドの耳に届いて、ハッと我に返る。

「ボス、細川中将が……不審に思い始め、側近をこちらに……」
「!」

 エドの報告に、ボスと先輩の目つきが変わり、顔を見合わせた。

「そうか……澤村。良く解った……」

 息を整えた純一が、やっと堂々と隼人に向き直り、見下ろしていた。
 ボスの顔も、もう今までとは違う確固たる表情だった。

「これで俺とお前さんの意見は一致したと思って良いという事だな?」
「……ああ」

 力無い隼人の返答に、流石のボスも少し気の毒そうに片眉を動かし躊躇ったようだったが、ボスもそこは覚悟を決めた事に深呼吸をして、間を整えている。

「……俺は既にそのつもりだ。お前さんの覚悟にはもう遠慮はしないぞ」
「……ああ」

 徐々に力無い応答に変化し、澤村隼人は、唇を噛みしめるような顔を俯かせ、それを隠そうとしているように見えるので、ジュールとエドは揃って気の毒そうに隼人を見つめる。

「……後は葉月自身に『会う、会わない』という意志に任せている。暫くは……お前さんもこちらの出方、黙ってみていてもらう事になる」
「解っている──」

 とうとう、隼人の表情は見えないぐらいに──。
 彼は倒れた姿勢から、半身起きあがって、ジュールが差し出したハンカチで手の甲を押さえ、すっかりうなだれていた。

「……最後に、ひとつだけ。“兄さん”にお願いがある……」

 なんだか子供のような口調になった隼人。
 それを純一が暫く……何か様子を見るように見下ろしていたのだが……。

「なんだ。言ってみろ──」
「式典のフライトショー。これだけは彼女とやり遂げたい。この日は一緒にいさせて欲しい──」
「解っている。その日は外す心積もりは、最初からあったから心配するな──」
「……良かった」
「!」
「!」
「!」

 『良かった』と、顔を上げた隼人のその表情は……無邪気な笑顔だった。
 その為、三人とも──あまりの驚きに息が止まったように揃って固まってしまったのだ。

「それから……真一の事。もう少し、子供として近寄ってあげて欲しい」
「……」
「俺も……母が他界しているから……真一が羨ましい。ほら……本当は生きていたんだよなんて、何度、そんな事があったら良いかなって思っていたから。きっと、真一は真実には驚いただろうけど……ものすごく、嬉しかったと思うな? それが……いないと思っている時より、何処かにいるのに会えないもどかしさの方が、後になって『諦めつかない』ような残酷さに変わってしまっているかもしれないから……。ちょっとでいいから……」

 なんだか、隼人の口調が徐々にスローになってきているので、エドがフッと覗き込む。

「痛むのですか? 隼人様!?」
「痛くはない……よ」

「ボス──少し、意識が朦朧と……痛みでの失神みたいなものかと……」
「そうか──」

 エドの報告に、やっと純一が心配そうに隼人の目の前に、ひざまづく──。

「澤村──しっかりしろ、もうすぐ人が来る」
「……兄さん?」
「なんだ──」
「さっき、本当のアンタを見たような気がして……安心した」
「?」
「命を粗末にするなって……。アンタ、すごく父親みたいな顔をして、俺に怒っていた……」
「それが……?」
「うん……これで、葉月を……任せられるかな……うん……俺は、もう……」
「こら。しっかりしろ!」

「ボス──もう、そろそろ──!」

 エドがヘッドセットマイクのイヤホンを耳に押し当てて、そこまで交信を交わしながらやって来てる梶川の気配を感じ取ったようだ。

「ボス──先に行ってください。エド──ボスを連れて行ってくれ。後は俺が誤魔化す」
「わ、解った……」

 ジュールの指示に、エドが動き出す。

「ボス──先に行ってください」
「……ああ」

 それでも純一は……なんだか別れがたいように、『僕』を見つめていた。

「ボス──」
「解った──」

 苦々しい顔で、純一が立ち上がる。

「ボス! そこの階段まで……来ていますよ!」
「よし……澤村がちょっとした手傷で失神したという事で。頼めるか? ジュール……」
「ええ……任せてください」
「ヘマして帰ってくるなよ」
「勿論──」

 そこで、エドが開けた鉄扉を飛び出そうとした純一は……またフッとジュールの側にいる隼人に振り返った。
 隼人はもう……それが傷の為の意識朦朧なのか、気力が切れた為の脱力なのか? ジュールに支えられ、やっと座っている姿勢にまで陥っていた。
 その姿を確かめ……躊躇いを見せたボス。
 だが……ジュールにはもう、解っていた。
 純一は、また帽子を取り出し、キュッと目深に被ると、スッと前を見据えて、エドと飛び出していった──。

『もう、大丈夫ですよ……ボスも、もう……後ろは振り向かない……』

 ジュールは抱きかかえている隼人に、心でそう……優しく話しかけていた。
 ボスを動かしたのは……長年、気を揉みながら付き添っていたジュールでもなく、長年、待ち続けていた葉月でもなく、父親を切望している息子の真一でもなかった。

 この男だった──。

「金猫さん──。ここは俺に任せてくれ……どうとでもはったりするから……」
「金猫は困りましたね? そんな事、言われた事ありませんよ?」

 意外としっかりとした口調に戻った隼人の声に、ジュールは思わず笑い返してしまっていた。

「あなたも……あのボス、手を焼いているんだろう? 俺も……ウサギさんに手を焼いているから、解るよ」
「ウサギ……さん? ああ、ええ……そうですね」
「頼んだよ。彼女が側に行ったら……二倍に手がかかるだろうから……」
「……」

 また、彼の頬に涙が伝い……それが顎の先で光った。
 そして、その雫が静かに……落ちていくのをジュールは眺めていた。

「……かしこまりました。隼人様……」
「よかった──。なんとなく、あなたなら……なんとか頑張ってくれそうな人だなと思えたんで……」
「……」

 何故かジュールは唇を噛みしめていた。
 そう──柄にもなく、自分も目頭が熱くなってしまっていたのだ……!
 こんな事は……何年ぶりか解らなかった。
 こんな気持ちになった事は……。

「わたくし、金猫ではなく……ジュールと申します。後は……お任せください」

 ジュールはフランス語でそう呟いた。
 隼人の耳がぴくっと反応したように……。

「フランス人なんだ──」
「ええ……さぁ。随分、お疲れのようですね……。暫く、お休みください──」

 そしてジュールの目の色が変わる。
 そう──今から隼人の意志は、自分が請け負ったという覚悟だった。
 それは……もう、純一と葉月の為だけでなく、隼人をくわえた『三人の為』に変わったのだ!

 ジュールはズボンのポケットから、平たい銀色ステンレスのケースを取り出す。
 そこから、少し湿っている白い布を取り出した。

「少し……何も考えずにお休みくださいね……」

 それを隼人の口元へと近づける。
 隼人はそれを不思議そうに眺めつつも、ニコリと理解したように微笑んでいた。

「ウィ、ムッシュ──。メルシー……ジュ……ル」

 ジュールが口元を塞ぐと、隼人は数秒と持たずに、ガクンと力を抜き、気を失った。
 いや……眠ったと言った方がよいだろう──。

『澤村君──!?』

 ジュールの目の前に、細川の側近……梶川が飛び込んできた。

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