・・Ocean Bright・・ ◆黒猫が往く◆

TOP | BACK | NEXT

3.兄貴と殿下

 穏やかな夏日が続いていた──。

 木の香りがする一室、窓際には古ぼけた机。
 その机の上には、今時の小型ノートパソコンと積み上げられたバインダーファイル。
 そして黒い携帯電話。
 片隅には、書店の紙カバーがかけられている文庫本も積み上げられている。

 白いカーテンがサッと渚側から吹いてきた潮風を通し、机の横にある古い木のベッドで寝ている男の身体の上を優しく通り抜けていく。

 胸元までボタンが開けられている白いシャツと、自宅用のくたびれた黒いスラックス。
 彼は、シャツの裾を出した砕けた姿で寝入っていた。
 寝ている彼の腹部には……小さな文庫本、日本の文庫本だった。

──コンコン──

 ドアからノックの音。
 彼は聞こえないふりで、白いシーツのベッドの上……寝返りを打つ。

──コンコン──

 二回目──部下ならこれで去っていくだろう。
 彼がたとえ眠っていたとしても、小さな音にも反応できないはずがない。
 そういう神経が埋め込まれている訓練された身体だ。
 そんな時は、『今はそっとしておいて欲しい』というボスの無言の答えだと知っているのだから。
 ところが──。

「お邪魔致しますよ──」

 弟分である金髪のジュールが、珍しくドアを開けてしまった。

「なんだ……」

 純一は、ジュールに背を向け面倒くさそうに、壁際に寝返る。

『はぁ……』

 そんなボスの様子に、ジュールの溜め息。
 そして、ジュールはツカツカと、黒い戦闘服パンツ、タンクトップ姿で部屋に入ってきた。

「ったく、なんだ? 何もないなら入ってくるな」
「ったく。は、こっちの台詞ですよ。毎日、毎日、ごろごろと……ファミリー外の幹部達には見せられない姿ですね!」
「ったくは俺の台詞だ。たまの空き時間をのんびりして何が悪い」
「ったく。空き時間にしてしまったのは貴方でしょう? ほんとうにもう……」

 どう言い返しても、減らず口で迎え撃ってくる弟分に呆れ、純一は黙り込んだ。
 ジュールは、そのまま古ぼけた机に向かって、窓辺のカーテンをサッと開けてしまった。
 海辺の眩しい光が純一の目元に刺さった。

「眩しいだろ?」

 日光はあまり好きではない純一。
 手でかざして、また……壁際に寝ころんだ。

「いい加減に、少しは健康的に過ごしてくださいよ。貴方のそんな姿は俺は嫌いだ」

 急に……子供のような口調でジュールが言い放ったので、純一は唸りながら半身起きあがった。

「ふぅ……厳しい弟だな」
「なぁにが厳しいですか? 俺が貴方と一緒になった時、貴方は俺には散々口うるさかったくせに──」
「お前が手のつけようのないガキだったからじゃないか?」
「ガキの時の話でしょ。それに貴方は大人でしょ?」
「ああ、もう……解った。起きればいいのだろう?」

 純一は渋々しながらベッドの縁に座るよう起きあがった。

「エドは……?」
「食材の買い出しと、医薬品の仕入れに朝から出かけています。本当に、アイツが働き者だから……貴方もすっかり甘えてしまって──」
「ふぅむ……。アリスは……」
「……」

 するとジュールがきゅっとした横目で純一を見つめた。

「貴方がだらだらしている間に、彼女も一生懸命家事。エドから日本食の指南を受けたり?」
「ほぅ? 良い心がけじゃないか?」
「家事をしたり……『毎朝、フライトチームを渚で待ったり……』、『島の地図を眺めて基地の位置を確かめたり』、『俺のパソコンでネットがしたいから教えてくれと言い出したり』──ですよ」
「ほぅ? パソコンを触る気になったか……良い心がけだ?」
『──ったく』

 最後にジュールは業を煮やしたように、舌打ち。

「そう思って私もパソコンの操作を教えたのですが? 私が使っていない時間に使わせろ、使わせろと……何を調べているのかと思ったら……『フライトチーム・ビーストーム』をこっそり検索していましたよ。検索履歴が残る事をまだ知らないようで、それで跡が残っていたのですが──」
「ふぅむ?」
「フゥム……じゃないでしょっ! 本当に──貴方がする事で、私もエドも……子猫の模索にあれやこれやと」
「変だなぁ? アリスに冷たいお前が……アリスの思うままに力になるなんてなぁ?」
「本気で怒って良いかな? 俺──!」

 何を言ってもとぼけ続ける純一に、ジュールが素を垣間見せると、純一は笑い出す。
 やっぱりジュールはむくれて、いつもの無言になってしまった。

「……十日経ったか、随分、のんびりできたな」
「私とエドは表稼業がいつでも手放せないので、いつだって暇にはならないから構いませんが? 慣れない異国で隠れ家生活のアリスが、買い物にも行けない、外も渚と庭以外は散歩が出来ない。それで? だったら何が先立つかなんて、『煽った貴方』が蒔いた種そのままムクムクと芽が育って、もうすぐ爆破開花してしまいますよ? 彼女──」
「……爆発開花……あっはは!」

 ジュールの例えが可笑しかったのか、ベッドに座っている純一が膝を叩きながら大笑い。
 勿論、ジュールが睨んだのは言うまでもない。

「……ボス、貴方……本当にアリスにありのまま知られても良い覚悟なのですね」
「……今までもありのままのつもりだが?」
「いい加減、『おとぼけ』は通用しませんよ」
「……」

 急に、純一が神妙に黙り込んだ。
 ジュールも首を傾げる。

「……いつまでも続かないと思っていたんだ」
「……ですが、貴方、責任はありますよ。彼女をあのまま逝かせられたのに、助けて拾って、挙げ句に『愛人』にしたのですから……」
「……そうだな。解っている」
「……」

 今度はジュールが神妙に黙り込む。

 そう──ジュールも解っている。
 あの時彼が子猫を拾った心情も、愛人にしてしまった心情も──。
 そこまでしてしまうような行為はジュールには絶対に無い物で、出来ない物で……。
 そしてその彼の『余計な優しさ』も、兄貴ならではであって……彼のどうしようもなく『おバカ』で、どうしようもなく『良すぎる所』なのだと──。

「そうですね──いつかは……全てをお話ししないと続かない、だから……今度は彼女に明かす。彼女の性格──貴方が言葉で説明しても『嘘だ、作り話だ』と信じないし、受け入れがたいだろうから……目でみせてやると……そうなのでしょう?」
「……」

 いつもの通り、見透かされた事には無言で微笑むだけの兄貴。
 無言だが、それが返事だった。
 長年の付き合いがあるジュールだからこそ解る彼の動作……。

「本当に……貴方って余計な物ばかり背負い込んで……だから、重くなって動けなくなったり……」

 いや? ジュールはそこで言葉を止めた。
 背負い込んでも『動ける男』だから、こんな事になってしまったのかもしれない。
 彼はそんな自分を過信していないが、自然にそれをしてしまう性癖……。
 そう思って、ジュールは言い直した。

「重くて動けなくなるのではなくて……貴方ならではで背負い込んでは、遠回り」
「……そうだな」

 意外とあっさり笑顔で認めたので、ジュールは柄にもなくおののいた。

「近頃、時々……素直で驚いちゃうのですが?」
「……お前だから……」

 彼が名前の如く、純粋で無垢で……透き通る眼差しを見せる。
 ジュールはさらにおののいた。
 何が一番苦手かというと、いつも憎まれ口たたき合いの……兄貴がそういう顔をした時だ。

「……ど、どうしちゃったんですか?」
「見えない物が、見えてしまって……俺はいつも時間が経ってから後悔する『愚か者』だってね……。そういう時々襲ってくる『嫌な時期』に差し掛かっている」
「ああ……まぁ。そういう事、今までも貴方にはありましたよね。まぁ……俺もありますが」
「お前は俺にもそうは見せないな。そういう姿……いや? むしろ、お前は余計な物は上手に避けて器用で羨ましい。良き合理化が出来上がっている」
「……前にも言ったでしょ。そういう自分が恨めしい時もあると……。時には貴方のような不器用でも、気持ちの通りになってみたいと思う事だってあるって……」
「……人、それぞれだな」
「……ですね。それで? 何を後悔しているのですか? やっぱり、アリスの事……」
「昔の事さ──」
「皐月様との約束……」

 ジュールは言葉を濁す。
 その先の言葉は、やっぱりどんなに憎まれ口、そして……真っ正面に物が言える相手でも躊躇う物だった。
 だが──ジュールは決して口を開く。

「事件当日に、皐月様との約束を守らずに、別荘に行かなかった事です……か?」

 流石にジュールも怖々と……語尾が弱まった。

『純兄! 赤ちゃんが出来たの! それでね? フロリダのパパとママに報告したら、葉山の別荘に来るって言うから……純兄も来てよね! パパとママは驚いていたけど、純兄との子供ならって喜んでいたから──!』

 昔──兄貴の過去を聞いた時、彼の今の原点である事件で皐月が言ったという『言葉』を思い返す。

『嘘だろ? 子供は出来ていないに決まっている。常々、御園の婿になって欲しいというアイツの我が儘な仕掛けだ』

 彼……純一はそう思ったのだそうだ。
 だから……そっぽを向いて別荘には出向かなかった。
 そうしたら……帰国が遅れる事になった両親と純一を待っていた姉妹が、『予定を知っていた犯人学生』に襲われた。

 それが……彼の『罪』。
 それが……彼が背負った『後悔』。
 それが……彼が烙印を自ら押した『愚かしさ』。

「……いや? 皐月の事は……もう、随分昔から身に染みついているが……俺は……」

 急に……彼がらしくなく、苦しそうに額を押さえて、うなだれたのだ。
 その姿も、ジュールには何度も見せてくれている。
 それを口にしてしまったジュールには心苦しい兄貴の様子。

「すみません……その」
「いや? こういう話には避けて通れない俺のした事、消える事のない事だからな……」
「……俺は、21歳だった貴方のそういう答えの出し方を、決定的に非難したり、徹底的に責めようだなんて、一度も、思った事はありませんよ……だって……たまたま事件当日と、貴方がたまたま軽々しく約束を破った時が、悪い具合に重なっただけ……まぁ……だからこその運命としか言いようがないと何度も、俺は貴方に言ったのに……」
「そうじゃなくて……」

 そんな彼を見て、ジュールはいつになく……自分も同調するように悲しい気持ちになり、側にある彼の机の椅子に腰をかけた。

「解っている。俺がなんと言っても、兄貴は自分を責めるってね……。そんなのもう十何年もあんたを見てきた俺なんだから……」
「ジュール……」

 椅子に腰をかけ、窓辺から差し込む直射日光に……ジュールは金髪を輝かして、でも……悲しそうに微笑んでいる。
 純一の長年の小憎たらしくも、一番信頼できる『相棒』。
 その弟分の彼が時々見せる『素』。
 昔の生意気で反抗的で、そして、世の中の全ては敵だと眼をギラギラとさせていた少年の頃のように……。
 そんな時は、喧嘩ばかりして今の関係を築いてきた二人が、滅多に交わさない『真っ正面の向き合い』の姿勢だった。

「あんたと姉妹の話を聞いて、俺が怒った事を覚えているかな?」
「ああ……お前の義母……皇后も……」
「そう……俺と義姉と第二夫人だった俺のおふくろさんをかばって……クーデターを起こした軍幹部に女性的にいたぶられてね……。戦争になると必ず起こる、男が一番『馬鹿生物』になる典型的な現象? 笑っちまうな。抵抗無き女と解れば、何が何でも『怪物』? 人間じゃなくて低知能生物だな。俺もこういう仕事はしているが、絶対にそんな『低知能』だけは使いたくないね」
「……」

 そんな悪魔の申し子のような顔に口調になった弟分を、純一は見守るように黙って聞く態勢に。

「皇后に娘である義姉と王位継承権がある俺を任されて、一足先に逃亡できた俺のおふくろさんは、その話を報告されてから後、精神的にショックを引きずって、そのまま死んでいった。義姉と俺を守ってくれた義母。親父は即殺されてさ……」
「……第一とか第二夫人とか……そんなの関係ない素晴らしい家族の形を成していたと、ばあやが言っていた。お前にとって、皇后も母であり、おふくろさんも母であり、義姉も……本当の姉弟の様だったと……」
「母も綺麗な人だったが、皇后ママンも美しく……それでいて義母の心映えはとても素晴らしく、俺とおふくろさんの一番の味方だった。その人の最後を……最期を……!」

 ジュールの眼差しが、太陽にぎらりと輝いた。

「あの獣達が汚したんだ。あの聡明な人の最期を……汚したんだ! 俺の手で殺してやりたかったのに……助けに入ってくれた第三国の首脳陣に処刑されるなんてね。やりきれない俺のこの気持ち──」

 せっかく暖かい茶色の瞳なのに、ジュールの眼差しは、その暖かさを殺すようにいつも冷たい。
 そんな彼の眼差しが燃えた。
 そして……純一の前で、躊躇うことなく、唇を噛みしめていた。

「そんな男、奴らは……俺の敵だ。この世でそういう男がいるなら、俺の……『恰好の獲物』──覚悟してもらわないとな……だから『林』にトドメを刺す事には躊躇いはなかった」

 その眼差し──。

「……葉月にそっくりだ」
「……」

 そう言った途端に、ジュールの眼差しがスッと涼やかに戻った。

「……だから、あんたは悪くないんだよ。悪いのは……そういう獣さ──。奴らさえいなければ、なにもあんな事は……」
「……」

 いつなく、内に隠している『殿下』であった彼を見せられて、純一は黙り込む。
 そうして彼は、見せたくない本性を開いてまで、純一の過去を慰めてくれるのだが──。

「けど……やっぱり貴方は自分を責めるだろう。ばあやがそうであったように……俺のおふくろさんが、自分だけが無事に逃げられた事に苦しんで死んでいったようにね……」
「……」

 ジュールの幼き記憶は、純一の過去より『凄惨』である。
 そして──そんな共通点があってこそ、結束できたのかもしれないし、ばあやに『悪ガキ殿下』を任されたのかとも思う。

『私の……古き友人の子息なのよ。姉弟だけになって非道い扱いをされていたのを知って、引き取ったの……』

 ジュールに引き合わされたその日の事を純一は思い出していた。
 もう……レイチェルばあやが、息を引き取ろうとしている間際の事だった。

『ジュン……貴方なら、この子の気持ち……きっと解ると思って……この子もきっと貴方の事を理解してくれる……。それから、貴方を指導してくれている“黒猫”に今まで任せていたので、ある程度、訓練しているから──良いパートナーになれるわ。お互いに──』
『ばあや……逝かないで……俺を置いていかないで──!』

 ジュールは20歳だった。
 会うなり鋭い険悪な目つきをしていたが、レイチェルを慕う姿は、あどけないばかりの少年のようだった。
 側には、同じく金髪の女性がいた。
 ジュールの腹違い、皇后の娘である義姉で、ジュールとは歳が5歳離れてる純一と同い年だった──。
 彼女もばあやに抱きついて泣いていた……『ばあや……逝かないで』と。

 彼女は聡明で、反抗的なジュールをいつも叱っては、純一を擁護してくれた女性だ。
 暫くは、その彼女とジュールと三人で暮らしていた事もある──。
 ほんの短い期間だった。
 何故なら……彼女がすぐに結婚をしたからだ。

 彼女はその後……今はイギリスにいる。
 純一の配下にいる部員……と、言ってもこちらは『表稼業』を取り仕切ってもらっている実業家としての部員と気が合い、結婚したいと申し出て来た為、そうさせた。
 ばあやが亡くなってしまった為、姉弟のすべては純一が守ってきたから、彼女の結婚は、すべて純一が後ろ盾となりサポートしたのだ。
 義姉の夫である部員は、純一にとっても信頼おける『儲け頭』であり『企業面での片腕』と言っても良い。
 主に、小型航空機を生産させている会社だ。
 若い頃、彼と共に純一が興した企業であり、今は全ての権限を彼に任せている。
 最終的所有は、純一にあるが、彼の自由にさせている。

 彼女も心に闇を持っているが、相手が純一が信頼している男だけあって……彼によって幸せに暮らしている。
 ジュールも賛成した結婚だった。
 ジュールのその時の輝く幸せそうな顔が……純一には忘れられない。
 後にも先にも……そんなジュールの『無邪気』とも言える幸せそうな顔を見たのは、義姉の結婚式の時だけだ。

『兄貴──有り難う。これで俺は……いつでも死ねる』

 これも後にも先にも……ジュールが頬を染めながら、純一に素直に笑顔で言ってくれた感謝の言葉。
 それから……ジュールは憎まれ口をたたきつつも、純一をたてて忠実にサポートしてくれる最高の相棒になった。

『死ねるなんて言うなよ? お前を死なせたら、姉さんに俺が叱られる。見守ってくれる家族がいるんだ。姉さんの事を思いながら……生き延びるんだ……』
『貴方もね……ジャポンで家族が待っているんでしょう? ええ、俺……いつ死んでも良いけれど、苦しめられた奴らには絶対羨ましがられる程、生き延びるさ……。だから……だから……兄貴も生き延びなくちゃね……』
『……そうだな』
『兄貴の家族ってどんな家族なんだろうなぁ……俺、見てみたいな……』

 本当に弟のように、彼が笑顔で甘えるように尋ねたのだ。

 その話が出た際に……『鎌倉の家族』と『御園姉妹』と……『息子がいる』事、結婚しようとした女性が死んでしまったすべてを打ち明けた。
 その時の……ジュールの青ざめた顔。
 なにせ、助けてくれたレイチェルの家族にそんな悲劇があり、それを自分の過去と重ねたようだった。
 怒りに震え……そして、皐月の悲劇を一緒に共感してくれた瞬間だった。

 義妹・葉月との異性関係にいては……この時は話には出さなかった。

 まだ……葉月とは肉体関係を持って、あまり時間が経っていない頃の話だった。
 そこまで、ジュールに言えず、言えたのは、ジュールと葉月が初めて対面した時。
 葉月の十六歳の誕生前夜……ジュールに御園嬢とは教えずにさらって来いと、頼んだあの日、あの晩──の事。

 そう──純一が……なんの衝動だったのだろう?
 あの時の若い自分の『葛藤』の中、その気持ちの末、選んだ事は……『二度目……義妹を抱く事、今度こそ大人の女性として愛す事』だった。
 ジュールに見届けてもらったつもりだった。
 そして、その弟分は……純一がしている事に『呆れた』ようだった。

『何故? 真っ向から愛してあげないのですか?』
『お嬢様……貴方を真剣に待っていますよ』
『……また、他の恋人が出来たみたいなのに、貴方はなんでそんなに平気な顔でいられるのですか?』
『ああ……解りましたよ?──絶対に自分の所じゃないと義妹様はダメなんだって……そういう自信でしょ? 可哀想な葉月様──。あんな目に遭ったお嬢様に対して、貴方にあんな風に身も心も良い思いを味あわせてしまって……彼女、このままでは貴方の力なしでは生きていけなくなりますよ!』
『私の話……聞いているのですか? 私は貴方の為にも、彼女の為にも……』
『心より、愛しているなら──闇でも何でも手元に置いてあげればいいじゃないですか! 亡くなった方の意志ばかり優先しても、生きているのは貴方とお嬢様なんですよ!』

 急にだった。
 葉月と対面した時に、ジュールはなんらかの『衝撃』か『感動』を植え付けられたらしく、こと葉月に関しては変に口出しをしてくる。
 純一でも手を焼いた悪ガキをこうも魅了した義妹に驚かされたぐらいだ。
 それがジュールの『初恋』なのか、そうでないのかは……今でもお互いに解りつつ、確認しないようにしていた。
 実際に、ジュールは徹底した『部下振り』と『第三者』としての囲いを堅く守っていて、怪しげな発言で純一をからかっても、赴くままに葉月を欲しはしない。
 そんなジュールの口うるささに対しては……。

──『お前には関係ない。首を突っ込むな! 殿下!!』──

 と、純一はジュールが一番嫌がる言葉ではねのけてきた。
 心苦しいが、本当に純一が一番『苛々させられて』、ジュールに言い放ってしまうお決まりの一言であった。
 ジュールは当然、ふてくされ……数日は険悪な仲で会話も出来なくなるほどの殺し文句だった。
 それだけ、純一の核心に触れて……苛々させたなどとは、若かったジュールは知らないだろう。
 だから……そのうちにジュールは、『弟の真様と真一様が可哀想』と言うのをやめたように、葉月に関しても首を突っ込まなくなった。

 その代わり? 妙に手の込んだ『カマかけ作戦』がジュールは得意になってきて、時には純一がしてやられるようになるほどだった。
 それが……先日の『サワムラの動向調査』であったりである。

 そして……本心は、確かめていないから判らないが……ジュールは葉月の為なら何でもした。
 葉月が笑うなら、純一の独りよがりな『義妹との誰にも邪魔されない時間』の為に、ホテルを建てる、会う場所を確保する……何でもしてくれた。
 純一の為なんかではない。
 葉月が……笑って幸せそうに過ごすからだった。
 けど──ジュールはそれに従いつつも、『本当にあるべき姿』は決して忘れなかった。
 だから……今回、純一をたきつけたのだ。
 あのような調査を独自で行ってでも──。

 それが……ジュールが今出来る『純愛』なのかもしれない。
 そして……純一はそれに甘えつつも、確かめないように、そっとしているのだ。

『貴方の事なんてどうでもいい。お嬢様を再起不能になるぐらいなら……貴方が壊れるぐらいの選択を俺は厭わない。最後の最後に俺が願うのは──』

──お嬢様の幸せ──

 失ってしまった『美しい女性達』を守れなかった、守られるだけだった彼がしている事。
 ジュールの信念と生きる目的の全てはそこにあった。
 だから……それが純愛なのか、彼の信条なのか、目標であるのかは……未だに純一は判断できない。
 そしてジュールもはっきりとした位置決めはしていないようだった。
 いや? もしかするとジュールこそ……『遠くから敬愛している、愛している事』を認めたくないのかもしれない?
 しかし……先ほども話に出たが、ジュールは立派に割り切っていて、合理化され、余計な事は背負い込まない。
 純一のように『質悪い事』は決してしなかった。
 とにかく──『お嬢様』が、ジュールの生き甲斐である事は間違いがないようだった。

 葉月に合う男がなかなか現れない。
 ジュールはこれでも、純一を認めてくれている……だからこそ、その男であるのならば、他の男よりかは許せるとの事のようだ。
 だが、葉月が駄目になるなら、許さないが最終的なことらしい──。

「変な話になってしまった──」
「そうでした……なんの後悔かという話だったのに……」

 途端にジュールもハッとした顔つきになり、いつもの余裕ある男に戻っていた。

「まぁ……もう、いいか」
「また──上手い具合にとぼけましたね。しまったな……」

 ジュールは『皐月の話』から『自分の過去』で、いつになく兄貴を慰める為に力説した事を、我ながら後悔したよう……。
 自分がしてしまった『見当違い』だから……今度は、純一の『おとぼけ』を突こうと言う気は起きなかったようだった。

「……もしかして、アリスを表に返そうと?」
「……いつだってアイツが帰りたいと言う気持ちになれば、そのつもりだった……俺となんて……いつまでも、一緒に居たいだなんて」
「はぁ──」

 いつもジュールが呆れた時に吐く、溜め息がありありと……。

「まだ解らないのですか? 貴方はね! 『俺となんて』と言うその考え方が、そもそもおかしいのだって!」
「じゃあ……お前は、俺を『素晴らしい男だ』と断言してくれるのか?」
「ほんっと……時々、“あんた”と話しているとバカバカしくなってくるよ!」

 やっといつもの『大人らしい』自分に戻ったのに、逆戻りさせられたジュールは、再度、素らしい彼のふくれつらに。

「誰も自分の事を、素晴らしいなんて言い切れないでしょうけど? だけど、アリスを本気にさせたのは、間違いなく貴方……なんですからね? どんなに良くない男でも、相手が良いと言えば、相手にとっては素晴らしくなるのですよ?」
「うーん……」

 またもや珍しく、純一が額を抱えながら本気で唸っているので、ジュールは呆れる。

「──そうだな。後悔になるのだろうな……。もっと早くに『葉月』の事を話せば良かったのだろうか?」
「──と言っても……あの子猫の事、それでも貴方の側が良いと、言い切りそうですけどね──」
「……お前は解っているだろうな? 俺が子猫を拾ってしまった訳を──」
「ええ……私も同じ事を感じましたよ……アリスもお嬢様と同じに見えた……。『もう、どうなってもいい』と言う死を覚悟している姿。いえ……死が来ると言う意味も分かっていないまま、自ら消えようとしていた。だから、放っておけなかった……でしょ?」
「……」

 また、無言の返事を……ジュールは感じ取る。

「だから……アリスを利用し、得した人間全ての悪行を彼女のパトロン暗殺後に調べて暴き、警察行きになるように仕向けた。それは私も許せない所だったので協力したのですけど──」
「アリスは人が良すぎるから──あんな汚い男達の思うままになってしまったんだ」
「──そこが彼女の良い所で、悪い所……。そしてアリスが初めて出会った『親切なおじさん』が貴方だったのでしょうね? これまた子猫の刷り込みっていえば、刷り込みで?」
「……なんだ、葉月の事も、そう言いたいのか?」
「どうなんでしょうね?」

 今度はジュールがとぼける。
 まさにそうではないか? と、言われているように感じたのか、純一は渋い顔に。
 一番、言われたくない『一言』であるのはジュールも知っていた。
 だから──そこを突けば、言われるのが嫌な兄貴は本当の事を言うはずだという『いつものカマかけ』であった。
 しかし、相手も『ひねくれ者』……いつも通りに素直には言葉にしないだろうと、ジュールは予想したのだが……。

「葉月との時間に……後悔した事など一度もない。アイツを抱いた事も……全て……俺には必要な物だったんだ」
「──!」

 その声は、とても小さな消え入るような声だった。
 だが──ついにボスがそれらしき事を呟いた為、ジュールは非常に驚き、ベッドの縁でうなだれている兄貴をまじまじと暫く見つめるだけしか出来なかった。

「やっと……言いましたね?」
「……」

 純一はそのまま黙っていて、発言した言葉に対して言い直しも、取り消しするような言い訳もしなかった。

「──こうなるとはね……。こうなる日も来るかもしれないとは思ってはいても、そうなるはずがない……俺はそう思っていたのだろう。昔──お前が俺に口うるさく説教してくれた、その通りだったのだと……今頃、気が付くなんて……と、数日、また……俺の愚かしさにな……呆れるというか……。後悔というなら、それを認めなかった俺の事かね──?」
「それで、一人でごろごろしていたのですか!?」
「……」

 また、純一が無言の返事。

「何もする気力もなく、考えていたのですねー」

 兄貴のその様子を見抜けなかった事は、ジュールにとっては悔しかったが──。
 ものの見事に、『はまりこんでいた』彼のいつにない様子に気が付いて、思わず、にっこり──。

「俺を笑っているだろ?」

 兄貴の恨めしそうな視線。
 だが、ジュールはさらににっこり──。

「いえいえ……良き傾向だなぁ……と」
「そう思うなら、放って置いてくれ」
「……」

 また寝ころんでしまった兄貴。
 ジュールはフッとそんな彼を哀れむように暫し見つめた。

「解りました……失礼しますね」

 兄貴の机椅子から立ち上がって、ジュールは静かに書斎部屋を出て行こうとした。

「メルシー、ジュール」

 ドアを出て行こうとしたその時、壁際に背を向けている彼がそう言った。
 そのいつにない柔らかい声が、ジュールの背中にそっと届いて……彼は立ち止まった。

「いいえ……」

 ジュールもそんな短い反応しか出来なかった……。

 部屋の中……まるで洞窟籠もりをしているような『彼』を残して、ジュールは静かに去る。

 

 なんだか胸のあたりがジュールまで重くなってくる。

『その気になっていたか……やっぱり今回こそ、お嬢様を──?』

 いざとなって、ジュールはそれが兄貴にとっては『けじめ』になると思ったが、果たして? ジュールの『大事な彼女』には良き事なのか迷いが生じた。

『俺──どうしたんだ?』

 胸騒ぎがした──。

『お嬢様……今はどのような心境か──』

 彼女自ら決めた結婚とやらが……『本気』か『偽り』か──。
 ジュールとしては、『サワムラ』とかいう男が、上手く葉月の心情を結婚に傾けただけだと思っていた。
 しかし──調査をした所、そうでもないという『危機感』を初めて持った。
 だから……ボスに『手遅れになる』と突きつけて、煽った。

『だが──お嬢様はどちらの幸せを望むのだろう?』

 今まで見守ってきた立場から言うと、絶対に『兄様寄り』であったから──。
 しかし──?

 そんな風に首をひねっては元に戻し、悶々としながらリビングへと戻った──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 夕方──。

「帰ったぞ──」

 エドが沢山の荷物を手にして帰ってきた。
 本島まで出かけて来たとの事だった。

「一週間分の食料だ──。上手く使えよ」

 キッチンで、気もそぞろに家事をしているアリスの目の前に、エドが沢山の買い物袋をどっさりと置いていった。

「エド〜? 世の中って解らないわねぇ〜」

 調理用のカウンターで、ぼんやりとしていたアリスが呟いた一言。

「何言っているんだ? お前……」
「はぁ……手がかりなしって……やっぱりエドが言うとおり、解る時に解るしかないのねぇ……」
「……まぁ、そういう事だろうな?」

 何の事か解ったエドは、ただそれだけ言って、純一の書斎へと向かっていった。
 アリスはそれでも……ぼんやり。
 ジュールはただ仕事をこなしていて相手にはしてくれないし、ご主人様は変にグータラしていて、声をかけると鬱陶しそうにして部屋を追い出されてしまう日々が続いていた。
 近頃は、夜の交わりも遠のいていた。
 アリスも今となっては純一に抱かれても満足感が得られなく、虚しくなるだけなので、そのままにしている。
 純一も今は……アリスでは駄目なのだろう──。
 益々……彼が遠のいていくようなこの感覚──。
 堪らなかった──。
 でも、今は……待つしかないようなのだ。
 少しでも良い──。ちょっとでもアリスが見たい物が見えたのなら──。
 そのまま……アリスはエドが去ってから、調理台に突っ伏してみる。
 もう──涙も出てこない……。

  

「ボス……戻りました」
「ああ……ご苦労だったな」

 エドが書斎にはいると、ボスは夕暮れる窓際にてノートパソコンに向かって、打ち込みをしていた。

「昨夜のご所望の物……手に入れてきました」

 エドが差し出したのは……黒猫の刺繍が入っている『何処かの会社制服』にそっくりな作業服。
 宅配業者のものだった。
 そっくりだが、独自のデザインにと頼まれてエドが手配した物。

 それを見て、純一が椅子から立ち上がった。

「お。いいじゃないか──」
「似ていてそうじゃないというのが、結構難しかったですよ?」
「よし──明日、行く」
「そうですか……真一様、驚きますでしょうね?」
「……」

 エドのにっこりに、純一はそっと微笑んだだけだった。

「……まぁ……色々と確かめたい事があるんでね。俺一人で行ってくる」
「……大丈夫ですか? 私もお供できますよ?」

 すると純一がのびをした。

「いや? 母島へ散歩と言った所だ──まずは足慣らしでもするか──」
「そうですか……ジュールには?」
「後で言う」
「解りました──」

 そこでエドが一礼をし……去っていった。

 純一は机の引き出しから、細長い白い箱を取り出す。

「ふぅむ……ボウズの追求も厳しそうだな──さて?」

 無精ひげが伸びた顎をさすりながら、純一は夕暮れる渚にニヤリと微笑んでいた。

TOP | BACK | NEXT
Copyright (c) 2000-2007 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.