・・Ocean Bright・・ ◆黒猫が往く◆

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4.シャム猫嬢

 ──ゴゥゥゥ──

 その日の朝も、この父島に来てから日課になったように、アリスは渚で空を見上げた。

(あれ? あれがそうなの?)

 この島へとやって来ては、空高い位置で旋回して向島に戻っていく戦闘機。
 何故? 朝のフライトだと予測が付いたかというと……。

「今日もやっているようだな──」

 渚側にあるキッチンからの勝手口。
 そこにシャツの裾を出した彼が、どんなにぐうたらした生活をしていても、この時間には渚に出てくるからだった。

「……」
(あれがそうなの?)

 そう言いたいけど、聞くのも怖いアリスは、そのまま黙ってしまっていた。

──ゴゥーー……──

 そして、その気になれば、ジュールも二日にいっぺんは眺めに渚に出てくる。
 勿論、双眼鏡を手にして──。

「今日は高度が高いですね──。私の肉眼では確認できません」
「まぁ……だいたい解る」
「おや? さすが──」

 なんだか平気でフランス語で話している。

「こうしてみると……母艦が見えますよ。ほら……空母の上空で……あらあら──今回はそう言う事ですか」
「なに? 貸してみろよ」

 二人がいつなく無邪気な兄弟のように、双眼鏡を取り合いっこしているのだ。

「なるほど? これまた無茶を……監督のおじさんは呆れながら、でも、やらせているようだな」
「ちょっと、私の双眼鏡! どの程度仕上がっているか確かめようとしているのに!」
「おーおー!? 三回転! まだ行こうとしているぞ!?」
「もう! 返してくださいよ! それを見たかったんですから!」

 目の前で、珍しく明るい二人に、 アリスは唖然としていた。
 が、すぐに踵を返し、勝手口からキッチンに戻ろうとする。

 変にはしゃいでいる男二人の珍しき姿も、素っ気なく反応しないように。
 ウェーブがかかっている金髪をひるがえしながら、スッと素通り。

「お前もジュールに見せてもらったらどうだ? キャプテン機とサブキャプテン機が前代未聞のアクロバットにチャレンジしているぞ」

そんな純一が呼び止める声。

「あっそう? そのコックピットに乗っている素敵なパイロットが眺められるなら、目の保養になるかもしれないけど?」

 近頃は女性としては相手にしてくれず、さらに──自分自身も倦厭している為に、アリスはシラッとした目線を残してキッチンにあがった。
 すると──男二人がなんだか面白そうに笑っていたのだ。
 アリスはムッとしつつも、振り返る。

「そりゃー素敵なパイロットですよね? ボス?」
「素敵かどうかね? いうなれば暴れん坊というかねぇ」
「ひどいな。ちょっとは素敵な例えで褒めてやっては?」

『……』

 男がパイロットが格好良いと言うならともかく、素敵、素敵というのはなんだかアリスも腑に落ちない。
 これ程の男達が『ファン』であるには、何か一パイロットではない理由が見え隠れするのだ。

 すると──双眼鏡を眺めていたジュールの顔つきが変わった!

「ボス──。こちらに来ますよ」
「!」

 アリスの目で見ても、二機の戦闘機が真っ直ぐにこちらに向かって来ているのが解った。
 その途端だった。

「アリス──こっちに来い」

 純一に手首を捕まれて、無理矢理、キッチンへと押し込まれる。
 彼もジュールも、慌てるようにして、勝手口に身を潜めたのだ。
 そう……いつも周りを警戒している『黒猫』の身のこなしだった。

──ゴウゥーー!──

 戦闘機が一機……隠れ家の上を横切っていく。

「ビーストーム1ですね」

 それでも勝手口の影から、結構低空飛行をしてる戦闘機をジュールが双眼鏡で確かめる。

──ゴゥーー!──

 その『1』とかいう戦闘機の後に続いてきたもう一機。
 なぜか……二人の男の息が止まったように、そして、眼差しが空に釘付けになった。

「貸して!」
「あ!」

 胸が騒いで、アリスはジュールの手から双眼鏡を奪い取って渚に出た!

「アリス──!」

 身を潜めなくてはいけない所を、アリスが飛び出した為……ジュールが叫んだ。
 しかし──。

「まぁ……子猫が見えたぐらいでは、なんとも思わないだろう。放っておけ」
「そうですが……」

 丁度良い──。
 彼等が出てこれないのなら、今はアリスの自由だ!
 アリスは双眼鏡を向かってくる戦闘機に向ける!

──ゴウゥゥ!──

「もう!」

 過ぎ去るのが速くて……ただ戦闘機が大きく見えるだけだった。
 だから──何にもハッとする手がかりはない。
 だけど、これでフライトチームの『1、2』というパイロットには素性を隠したいという事が解ったような?

 そのうちに、この島の上空で旋回したのだろう?
 また一機、戦闘機が轟音をとどろかせながら、向島へと帰って行く。
 そして……その先に行く戦闘機の後をついていくように、また……一機……機体を斜めにしながら態勢を整えて、真っ直ぐに飛び去っていった。

「返してくれ」

 勝手口に戻ると、ジュールに双眼鏡を奪われた。
 アリスは溜め息をついて……ジュールに奪われるまま力無く返す。

「……」

 そして純一は、そんなやりとりを横目に、これまたのんびりとしたあくびをしつつ、キッチンへとあがってしまった。

 こうして朝のフライトチーム確認を終えると、純一はフッと書斎に籠もって、昼まで出てこない。
 ひどい時には、夕方まで出てこない……。

(また、寝てしまうのね……)

 そうして白いシャツをくしゃくしゃにして、裸足で過ごしている彼の背中をアリスは毎朝、見送っていた。
 だが……この日は違ったようだ。

「さて……今日は午後から出かけるか」
「……本当にお一人でよろしいのですか?」
「!」

 妙に爽やかな顔つきになっている純一が、笑顔で出かけると言い出したので、アリスは驚く。
 しかも……『一人で』
 さらに……昨夜からだろうか? 純一とジュールはアリスの前でも隠すような日本語を使わなくなったような気がする?

「ああ……だから、散歩だと言っているじゃないか?」
「ですけど……余計な事しないでくださいよ?」
「解っている。夕方には帰る。もし──帰ってこなかったらロイに捕まったと思ってくれ」
「ご冗談を……ここでボス捕獲じゃ、勝負も何もなくなっちゃうでしょう? 私の黒星をあなたのせいでついただなんてなったら、許しませんからね!」
「あはは!」

(ロイに捕まる!?)

 しかも『勝負』!?……と、きたもんだ?
 それに聞いた事もない男性の名が出てきた。
 なにやら……向島にいる男だとアリスにも解ったし、その男が純一とジュール……つまりは? 『黒猫』にとっては『警戒すべき敵』の様な感じだ。
 そんな所に、お供もなしで、純一が出かけるというのだ!

「ジュ、ジュン……!? 大丈夫なの?」

 なんだか心配になって、アリスは彼の背中に久しぶりに飛びついた。

「俺を誰だと思っているんだ?」
「だ、だって──!」

 心配顔のアリスの金髪を、彼が笑顔でふわっとかきあげる。
 いつにないすっきりとした顔に、笑顔。
 滅多に見せてくれない彼の爽やかな顔……。
 その顔で、何処か行っちゃう!?──そんな風にも思えてしまう。

 すると、純一はスッとアリスを静かに身体から離してしまう──。
 それも、とても柔らかい仕草で、アリスがいつも安心している柔らかい物。
 だけど……いつも以上に優しい仕草に感じられた。

「ボウズに会いに行くだけだ」
「──!?」

 アリスの青い瞳は、見開いて……そして直立不動になった!
 だけど……彼はそれも解りきっていたアリスの反応と心得ていたかのように、そのままスッと書斎部屋に戻ってしまった。

 アリスは……そのまま廊下の中央に突っ立っていた。

(ボウズって……ジュンの坊やが……向島に!?)

 これはとても大きな『ヒント』だ!
 この一言で、あらゆる事がアリスの頭の中を駆けめぐっていく!

 ボウズが向島にいると言う事は、『義妹』も向島にいる!
 そして、ジュンを追い込んだ変哲もない『若中佐』もそこにいる!

(じゃぁ……若中佐と義妹は……)

 『同じ島にいる──!』

 それでアリスの女の勘が『ピン!』と逆立った!

(じゃぁ……じゃぁ……!? もしかしてジュンがあんな姿になったのは!?)

『若中佐と義妹は今は……恋人同士!?』

 だから、あの静かに強靱で揺るがない彼が……変貌した?
 つまりは──!?

 アリスはそれが解っただけで、自然と足が動き出していた!

「ジュン──!」

 そう、書斎へと向かおうとしたのだ!
 だが……。

「止めても無駄だ。もう……ボスは動き出した」

 書斎へと飛びつこうとしたアリスの肩を、ジュールががっしりと止める。

「離して──! 私……解るんだから!!」

 とても強い力が、アリスの肩を捕らえている。
 それを髪を振り乱してまで、アリスは振りほどこうとしていた。

「だって──! 彼女に恋人がいるとしたら何をしようって言うの? ねぇ……! 離してよ! 彼女はジュンなんて望んでいないって事じゃないの!」

 そう叫んだ途端だった──!
 ──パシンッ!──

 アリスの長い金髪が、サッと空に流れた。
 そして……頬に熱くひりひりする感触──。
 頬を押さえて見上げると、毎度の如く冷たく鋭い眼差しをしたジュールが、険しくアリスを見下ろしていた。
 そう──ジュールに頬をはたかれていた!

「……なにを、何をするのよ!」

 我を忘れて、ジュールの襟首にアリスは挑みかかっていた。
 だが……次の瞬間には、自分のつま先が床から離れるような宙に浮いた感触……次には、首元から苦しさを感じていた!

「血迷ったか、子猫! お前……自分の立場を解っていないな!?」
「──!?」

 そのジュールの形相に、アリスは『ひっ』という声を漏らしたかったが、恐怖でこぼれもしなかった。

「そこまで予想できた『勘』は流石だが、なんだ!? お前の有様は──! 最初から、ボスと約束していたはずだ。『忘れられない女性がふたりいる、だから、お前は抱けない』……それでも良いと身体を駆使して突っ込んでいったのはお前だろ!?」
「……そ、そうだけど……」

 喉元の力を緩めてくれない彼には、そういう短い言葉しか出せなかった。

「ジュ、ジュール!? 何しているんだ!」

 廊下での騒々しさに気付いたのか、昨夜、番をして寝入っていたエドが部下寝室から飛び出してきた。

「エド──。解っているなら、邪魔するな」
「けど──! 苦しがっている!」
「こいつを見くびっていた! 覚悟して見届けると言ったのに、もう取り乱しやがって……!」
「ジュ、ジュール!」

 それでもエドが、先輩が言っている事を理解しつつも、ジュールの手元をアリスから解こうと割って入ってきた。

『くそっ!』

 やっとジュールが手を離してくれ、なんだか……彼じゃないような息づかいで、激しく胸を上下させていた。

「ど、どうしたんだよ? ジュール……お前らしくない……」
「……」

 解放されたアリスをエドはいたわってはくれなかったが、それよりも冷静沈着な先輩が取り乱した事に、エドはショックを受けているようだ。

「……近頃、無性に腹が立つ。この子猫の勘違いにな──」

 ジュールが憎々しそうにそう言い放った時──。

「そのへんに、しておけ──」

 書斎から再び、純一が出てきた。

「ボス──」
「アリスを責めるな。俺に責任があると誰が言ったのだろう?」
「──!」

 純一がそう言うと、ジュールが急に俯いた。

「アリス──。暫く、黙っていてもらおうか? お前とどうなるにせよ。俺は義妹と片を付けなくては、前に進めないんでね。お前だってそうだろう? 俺との先を望みたいのなら、俺のけじめってヤツ……見届けてもらわないとな」
「──けじめ!?」

 ついに出た、純一からの言葉!
 またアリスは硬直した。

「だが……今日は本当にボウズに会いに行くだけだ。義妹も今は望んでいまい?」

 それだけいうと、純一は面倒くさそうに、そしてけだるそうに黒髪をかきながら書斎に戻っていく。

 元の自分に戻ろうと、深呼吸をするジュール。
 ただ……そこで見守っているだけのエド。
 そして──茫然としているアリス。

 その三人を残して、ボスは昼過ぎに出かけていった──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 (あーあ……まさか、そういう接点の男だったとはねぇ──)

 昼下がり……クルーザーを一人で操作して出かけていった純一。
 そんなご主人様を見送って、アリスは一人……リビングにいた。

(サワムラと義妹が向島にいるのは解ったわ? だけどねぇ……そのサワムラが空軍にいて、フライトチームとどう関係あるのよ?)

 お昼の休憩で寝室に行ってしまったジュールがいない隙に、アリスは一人悶々と、また……インターネットでマウスをカチカチ動かしている。
 だけど──何をどう調べても、それらしき物が検索で引っかからない。

(それとも? たまたまサワムラが、ファンであるフライトチームのメンテナンスをしているだけなのかしらぁ?)

 しかし、ジュールの取り乱しようも……純一の言葉も、全て……サワムラと義妹が近い関係であるのは明白だった。

「もう、やーっめた!」

 アリスはマウスを放り投げて、ジュールがいつも座っている椅子の上であぐらをかいた。

「……」

 仕事を放って休憩に入った彼のデスク周りには……純一がそうしているようにファイルバインダーの山。
 それを一冊、手に取ってみる。
 だが……開いても訳の分からない東洋漢字ばかり──。

「けど……これが解れば、これからも今までも色々と気が付けたり、蚊帳の外にされたりしなかった訳よね?」

『ボウズちゃんも読める字なのねぇ……義妹も……そう、サワムラも、ジュールもエドも……』

 自分だけ……解らないもの。
 それをアリスは意味もなく眺めている──。

 お昼の日差しが、すっぽりとアリスを包み込むだけ。

 とても静かなリビングに一人きりだった。

 

 その頃ジュールは、エドと共にしている寝室で、煙草を吸っての気分転換をしていた。
 エドはまた、ボスのお遣いでお出かけ。
 なんとも鬱陶しい事に、気を乱されたあの子猫と留守番中だった。
 エドが作り置いてくれたランチ、そしてエスプレッソ、そして煙草。
 そんな誰もいない空間で、日差しがある時間帯で一人きりになる一日の内で唯一満喫できる時間だった
 その時間を過ごし終えて、部屋を出る。
 異様な静けさが……いつもと違うような気がして、ジュールは首を傾げた。

(俺とした事が……)

 ああも取り乱した自分を、恥じてみたり──。

(昨日、ボスとあんな話をしたからだ──)

 ……母親の事を思い出して仕方がない……。
 そうしてリビングに戻ってみると──。

「──!? アリス、何しているんだ!」
「きゃっ!」

 ダイニングテーブルに備えてあるノートパソコン……ではなく、その周りに広げていた書類各種をアリスが眺めていたのだ。

「だって……だって……」
「ああ、もういい。今から使うからあっちに行ってくれ」

 今まで見向きもしない企業書類をアリスが触っていたので驚いたが、どうせ──訳の分からない日本語だ。

「ごめんなさい……」
「近いうちにお前専用のノートパソコンをエドに仕入れてもらうから、あまりいじくらないでくれ」
「ウィ……ムッシュ……。メルシー……」

 ジュールに見つかってしまった為、アリスはシュンとしながらリビングを出て行こうとしていた。

「──そんなに知りたいのか? ビーストームのこと。だけどな……軍の情報は、一般経路では、アクセスできない。一般向けの軍公式サイトにはビーストームは掲載されない」
「──! そうなの……」

 何を調べていたかも見抜かれてしまったアリスの顔。
 そして、がっかりした顔。

「それに……俺の企業書類に、そんな軍物があるわけないだろう?」
「わかっていたんだけど……ただ、日本語ってこういう文字とか、形とか……それを眺めていただけなの」
「まぁ……そうだろうがね……」

 ジュールは解りきっていたから、溜め息だけついて、椅子に座った。

「あの……」

 ジュールがキーボードを叩き始めて、数分後……鬱陶しくもリビングの入り口でそんなジュールをじっと見つめているアリスが話しかけてくる。

「なんだ。用があるなら早く言え。鬱陶しい──」
「カフェオレ……入れようか?」
「──?」

 彼女が純一以外の男に、そんな風に個人的に気遣うのは珍しい事だった。
 こと、厳しく接しているジュールを、彼女は恐れて避けているし、好みにうるさいジュールにはエドが入れた物しか口にしないと解っているようだったから──。

 しかし……今朝の事をアリスは気にしているのだろう?  ムキにはなったアリスだが、言われた意味を少しは考えたのだろう?
 ジュールも後味が悪い……。だから──。

「珍しいな……そうか。じゃぁ……頼もうかな」
「うん! 待っていてね!」

 それが嬉しかったのだろう?
 アリスは、急に明るくなってキッチンへと飛んでいった。

「余程──暇なんだな」

 なんて……彼女のそんな可愛らしいとも言える気遣い。だが、ジュールにはそう思えても、ただ鬱陶しいばかりの事。
 と、少しはそんな子猫に気を許した瞬間──。

──ガッシャン!──
『きゃぁー! ちょっとサッチにレイ! おとなしくしなさい!』
──ガシャ・ガッシャン!──
『こらー!! あんた達、最近、悪い子よ!!』

「……」

 騒々しい音がキッチンから響いてきてジュールは頭を抱えた。

「もう……カフェオレはいい」

 呆れた口調にて、金髪をかきあげながらキッチンの入り口に出向いた。
 キッチンにはサッチとレイが暴走中──駆け回っている。
 そして、それに惑わされながら声を張り上げているアリス、床には洋陶器がいくつか割れて散らばっていた。

「ご、ごめんなさい……そのっ!」

 そして、ジュールに叱られると縮こまっている彼女を見下ろして、さらに溜め息を落とした。

「退いていろ。俺がやる──」

 座りこんで割れた陶器のかけらを拾い集めるアリスの横に、サッと金髪の男が座りこんだ。
 アリスの鼻先に……グレープフルーツのようなトワレを付けているジュールの香りが取り巻いて、サッとアリスは頬を染めて退いた。
 ジュールの妙な品を目の当たりにすると、アリスはなんだか訳もなく畏れ多くなって? こうして避けてしまう。

「まぁ……猫とはそんなものだ。仕方がない……。それに本当の『サッチとレイ』も、こんな感じだからな」
「──!? そうなの!」

 無表情にかけらを手際よく集めるジュールが、急にニヤリと微笑んだ。

「ああ。ボスも俺もエドも……手を焼くシャム猫さん達とでも言っておこう?」
「──シャム猫!」

 アリスは子猫。
 姉妹はシャム猫。

 その違いに、ショックを受けたようなアリスの顔。
 そしてジュールは、座りこんだままアリスに向き直った。
 ジュールの暖かい茶色の瞳が、輝く青い瞳を見据える。

「お前──。自分の事をどう思っている?」
「はぁ?」

 そんなに向き合ってくれない『お兄さん』の真面目くさった顔に、アリスは眉をひそめる。

「自分の事……最高の女だと思っているか?」
「ま、まさか!」

 アリスがブルブルと首を振る。
 自分がこのファミリーに加わるまでやってきた自堕落を思えば、そんな事言えるはずがない。

「けど……お前は最初、身体を駆使していたな」
「そ、それは……」
「だけど……お前は思い改まって、心でぶつかるようになったな……だが、そこに自信がない。そうだな?」
「……」

 この美しき身体を駆使して、純一を誘惑した。
 けど──受け入れられなかった。
 ジュールとエドにも、言う事を聞かそうと身体を盾にして小悪魔のような事もした。
 だが……全て、成功せず、彼等は動じない。

 アリスが一番……思い出したくない、そして一番『嫌悪』している自分。
 その手が通用しなくなって、初めて、自分は何も持っていない事を知った。

「シャム猫嬢は、そういう女じゃない」
「!」
「逆に、男にそっぽを向く女性だ。誰の手にも負えないね……男を逆にひっかきまわす、素知らぬ顔でね。そう、ボスですら──?」
「!」
「もし、会えたなら……その時のお前も俺と同じ事を感じるだろう──。そして、俺がいつもお前に『品がない』という事もな」

「でも──私は……元々良い生まれじゃないし──」
「……」

 ジュールの話で、シャム猫嬢は『良き生まれ』とアリスは思ったようだった。

「俺がお前に、一番腹が立っている事──」
「な、なに?」

 冷ややかなジュールの眼差しが、アリスを突き刺してくる。

「──女優、女優と、時に昔の経歴を胸張ってひっさげている事だ」
「……」

 でも──それはアリスにとって、一番まっとうで輝かしかった部分で誇りである事だった。
 真面目に働いたし、真面目に自分を磨いていた。
 人気をねたまれて、芸能界で良くある『罠』にはめられて転落した経過が悪いと……思っている。
 その後──立ち直れずに、そのことをきっかけに益々落ちていった自分の愚かさは認めてもだ。
 その輝かしいまっとうな経歴を、ジュールが否定した。

「──どういう事よ!」

 拳を握って立ち上がり、アリスは膝をついて床に座っているジュールを見下ろした。
 けど──やっぱり手強いお兄さんは、静かにアリスを見上げるだけ。

「お前──フランスの女優だったなら知っているだろう。『ミレーヌ=サンジェス』というフランス女優を──」
「──!? 当然じゃない! 汚れ役もどんな役もそれは魅力的に演じるという伝説的な女優でしょ! 馬鹿にしないでよ! 私だって彼女みたいになりたいって目標にしていたんだから! それに……私はあそこまでなれなかったと思うけど? 彼女は小さな共和国の王様に気に入られて嫁いだってシンデレラだもの! けど……なんだか、ちょっとした紛争で国がなくなって、それから行方不明のままで……誰もその後は知らないって。だから……伝説になって……」
「……俺の母親だ」
「──!?? ええ!?」

 暫く、キッチンで沈黙が漂った。
 しかし──ジュールは黙々と割れたかけらを拾い集めて、ゴミ箱に始末する。
 アリスだけが、茫然と立ちつくしていた。

「──うっそ! だったら……ジュールって!」
「──昔の話だ。それに母はもう死んだ」

 淡々とした顔をアリスに向けるジュール。

(ど、どうりで──! 他の二人とは違う品があると思ったわ!?)

 つまり……『元王子様』だとアリスも気が付いたのだ。
 それに……そのミレーヌの面影と、ジュールの面影が妙に重なった瞬間だった!
 彼女がとびっきりの悪女や、冷静沈着な女性役をしていた時に見せる冷たい眼差し……輝く金髪に、暖かいのに冷たい茶色の瞳! そっくりじゃないか!? と──。
 そして、そして──。

「ご、ごめんなさい! ちょっとした紛争なんて言っちゃって……あの! ジュールには大変な事だったって……そのっ」
「……あはは」
「!」

 ジュールが笑ったので、アリスはビクッと固まった。

「お前は品がないし、馬鹿だけど──。そういう事はすぐに気が付くから『おりこうさん』だな」

 彼が……彼が優しく笑ったので、アリスはさらに硬直した。
 だが──その笑顔の後に、ジュールはまたアリスを険しく見据えた。

「──俺の母親も、生まれは良くはない。どれだけの苦労があって、その地位も仕草も演技力も手にしたか……お前には解らないだろうな。お前が言っている『女優』なんて……ただ可愛ければ良いのか? 美しければ良いのか? 笑顔がよけりゃいいのか? 俺の母親の悪女役は、最高だった。王女役も、全て──役所がなんであるか把握しきっていた。だから──ひよっこで成り下がったお前が、胸張って女優、女優というと腹が立つ」
「──!」
「悔しいなら……しなやかな悪女になりきってみろよ。ただ……ご主人様に撫でられているだけで、満足じゃぁ……シャム猫嬢にも適わないだろうな。舞台は、カメラの前だけでもない、銀幕だけでもない──。お前のステージはこの世界全てだと……思えないか?」
「──!?」
「そして──本当の自分は、愛する人にだけ思いっきり見せればいいのさ……俺の母親はそうだった。それに第二夫人の立場もわきまえていた」

 それだけいうと……ジュールは静かにリビングに去っていった。

「私のステージは……世界全て……」

 その言葉がアリスを捕らえて放さなくなる。
 キッチンの窓辺から見える、渚の波をアリスは暫く茫然と眺めていた──。

『ご主人様に撫でられてるだけで満足──』

 まさにアリスはただそれだけの為に、じたばたしていた。

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