業務中の葉月を呼び出して、ロイの連隊長室は暫し……そんな『オチビちゃん』を挟んでの楽しい笑い声が響き渡っていた。
「本当にー。兄様ったら突然なんだもの!」
「嬉しいだろ」
「なによっ。せっかく一緒にお食事をと思って、予約していたのに、予定台無しっ」
「あはは!」
栗毛の従兄妹同士が、そんないつものやりとり。
生意気な口の従妹に、それをなんなく笑い飛ばす従兄。
「それにロイ兄様まで! いつもはお仕事には厳しいくせに、呼びつけたりして」
「だってなぁ? 右京。俺と一緒に御園大佐室に行った方が、葉月は怒るよなぁ?」
「そうだ、そうだ!」
「そりゃそうだけど!」
三人がいつもの親しい会話をしている中、リッキーも時折笑い声をこぼしながら、葉月の手前にロイヤルミルクティーを運んできてくれる。
「まぁ、レイ。そう怒らない、怒らない。右京先輩がせっかく早めに来てくれたんだから」
「リッキーも何とか言ってあげてよ? まともなのはリッキーだけよ?」
「あはは!」
いつもの『オチビちゃん』の減らず口。
それを30後半の男達が、楽しそうに笑い飛ばす。
いつもの──光景。
「食事は、予定通り明日でいいぞ。今日はゆっくりとホテルの温泉につかって、日頃の疲れを癒すさ」
おかわりのミルクティーを、誰よりも優雅に悠々と足を組んで味わう右京。
「何が日頃の疲れよ。お兄ちゃま、さぼるの得意なくせに──」
「……ぐっ」
小さな従妹が冷めた目つき。
流石に右京も、飲んでいたミルクティーを喉で飲み干しきれずに吹き出しそうになり、つんのめった。
ロイとリッキーは『言えるかも、言えるかも』と、これもまた大笑い。
「右京兄様? この前、薫姉様から連絡があって怒っていたわよ」
さらにしらっと、目を細めた葉月の視線。
「な、何の事だ?」
おませで鋭い従妹のそんないつもの『切り込み』に、右京は水玉の紳士ハンカチで口元を拭きながら姿勢を整える。
「私、薫お姉ちゃまに言われて……ある『激写スクープ週刊誌』買ったほどだったんだから」
「おっ。葉月、それは俺も買ってしまった! あれだろ? あれ!」
葉月が始めた話に、ロイまで乗ってきた。
「俺も見た見た!」
リッキーも可笑しそうに話に入ってくる。
「ち。薫のヤツ……」
右京も何の事か気が付いたらしくて、小さく舌打ちをする。
「まったく。兄様がどのような女性とおつきあいしても『オチビ』は口出し出来ないけれど、なにも『女性アナウンサー』はないでしょう?」
「本当、あれは俺も驚いた! 右京の顔……ここ、目の所が、黒い帯印刷で目隠しされていてさー!」
「制服じゃなくて、良かったですねー? 右京先輩」
「制服でデート? 冗談じゃないぞ。俺はいつも私服と決めている」
「そうじゃないでしょ! お兄ちゃま! 制服だったら大問題よ!? お兄ちゃま、気を付けてよ! それでなくても『資産家御曹司?』ってかかれちゃって! ねぇ!? ロイ兄様? 兄様だって、同じ軍の人間として、隊員が激写スクープされたら連隊長として困るでしょう?」
「あはは! そうだけど……あはは! あの写真は笑えたっ」
「もうっ、ロイ兄様? 私、本気でびっくりして、恥ずかしかったんだから!」
「しかし、右京先輩も『華のアナウンサー』にまで、手を出すとはねぇ。いいなー本島にいると、そんな出会いもあって」
「リッキー?」
真剣にお小言をこぼすオチビちゃんとは対照的に、『連隊長室兄様ふたり』にとっては余裕の笑い話のようだった。
「うるさいなっ。言っておくが数回、食事をしただけで何もない! ちょっと軍隊に取材に来ていた所を案内役を頼まれて出会って、それなりの約束をしただけで『激写』されただけじゃないか? そりゃ、親父の耳に入って怒られたけどなぁ? みっともないってさ、ああいう昔気質な親父には、女性との『それなりの社交』ってやつ通じないんだよな。軍隊のイメージを良くしようとしただけなのにぃ。これが亮介伯父さんだったら、笑い話で流してくれるのに、俺の親父は同じ兄弟なのにどうして、どうして?」
紅茶をとぼけた様子ですすっては、おちゃらけてばかりの従兄に、葉月は益々しかめ面になるばかり──。
「なにが社交よ。叔父様が怒って当然だと思うわよ! きっと叔父様が話が大きくならないように手配したに違いないわ!」
「そうだ。お前の『食事』と『社交』には『夜のロマンス』は不可欠だな。誤魔化すな。本当の事を言えよ? どうせ横浜の一等ホテルに連れ込んだんだろう? だから、京介おじさんは怒っているんだ」
「俺も知りたいな? あの綺麗なアナウンサーと本当のところはどうなったのかって、真相!」
「もう! ロイ兄様もリッキーも! まじめに怒ってよ!」
本気で小言を言っている葉月に対して、『兄様達』は茶化しの一方。
葉月がプンプンと怒っていても、ロイもリッキーも軽く笑い飛ばし、右京はなんのその、へっちゃらな余裕で紅茶をすすっているだけ。
そんな賑やかな会話が続いてた。
すると、そんな『突かれ話』から逃れる為か、右京が風向きを変える。
「葉月、澤村は元気か?」
「え? ええ……元気よ」
コトリとティーカップを静かに置いた従兄の顔は、もう……いつもの大きな兄様の顔に戻っている。
だから、葉月の熱もスッと下がる。
「それ……澤村から貰ったのか?」
「う、うん……そうよ」
右京の視線は、花柄のハンカチを握っている葉月の左手、薬指。
小さな従妹が、先ほどまでの勢いも何処へやら? そっと恥ずかしそうに俯いた。
「どれ? 見せてみろよ」
「うん……」
いじらしく微笑む葉月の手先を、右京はそっと掴んでしげしげとその銀色の輪っかを見下ろす。
「へぇ……澤村もセンス良いじゃないか? お前にピッタリの華奢なデザインだな。ちゃんと誕生石も入れてくれたのか」
「うん。私の名前とピッタリの色だって……」
「へぇ! なんだ、なんだ! 澤村も意外と粋な事、思いつくじゃないか?」
従兄の顔が輝きながら、そして──葉月の恋人を褒めてくれる。
葉月はそっと頬を染めたまま、にっこりと嬉しそうに右京を見上げていた。
その笑顔に、右京もこの上なくにっこりと満足そうな笑みを返す。
ただ、その隣で……金髪の兄様も微笑ましく見守りながらも、やや腑に落ちない顔をしていた。
「ロイ兄様?」
そんなちょっとの満面でない表情を訝しそうにして気が付いてしまった『オチビ大佐嬢』の顔に、ロイはハッとして、今度こそ満面の笑顔を向ける。
「いや……お前があまりにも幸せそうなので……」
「……有り難う、兄様」
少しばかり『不審』を含めたようなロイの『幸せそう』の一言……しかし、葉月は本当に嬉しそうに微笑んだ為、ロイはそこで黙り込む。
そして、左手を包み込みながら、兄様達の祝福に満足げな小さな彼女が一人噛みしめている中……ロイとリッキーはフッと、何かを確かめ合うように視線を合わせた。
そして、右京も何かを探し当てるようないつにない鋭い眼差しを、従妹に気が付かれないように向けている事にロイは気が付く。
ロイが……『ひやり』とするそんな眼差しだ。
しかし、それは一瞬……葉月に悟られない為に、右京はすぐにいつもの笑顔に戻った。
「そうだ……葉月。これがな、楽譜を整理していたら出てきたものだから。懐かしくて持ってきてしまった」
笑顔に戻った右京が、妙なにこやかさで葉月に差し出したのは──先ほど膝に置いていた『写真集』だった。
「……なに?」
葉月は何の警戒もなく、従兄が差し出した二冊の本を笑顔で確かめようとしている。
「──! それ……」
「……」
右京だけでなく、『遠い夕暮れの話』を先ほどまで交わしていたロイもリッキーも、葉月の反応に固唾を呑んだ。
「ほら……あれだ、あの時の……」
「……」
さらに右京は、一瞬の鋭い眼差しをまたもや反転させて満面の笑顔で、いかにも懐かしい品に自分も驚いたといった風に明るく葉月に突き出すばかり。
葉月は……困ったように固まってしまっている。
まるで……そこに『その贈り主が現れた』かのように──。
『そう来たか──』
右京の企みが『なんとなく』だが、分かったロイは思わず息を呑んだ。
「……えっと、なんだったかしら?」
「覚えていないのか?」
「う、うん……」
『!』
またもや──葉月のそんな反応に、流石にロイも驚いて、リッキーと顔を見合わせてしまった。
「そうか……覚えていないか。お前、『大切にする』とあれだけオチビの時に言っていたのにな。俺の本棚に大切にしまっては、時々眺めていたじゃないか?」
「フロリダに行くまでの話は……もう、そんなに覚えていないわ。でも、有り難う……ちょっと思い出したわ。仔犬が欲しくて眺めていたって……」
「そうだったな。思い出したか──」
『……』
ロイは驚いた。
確かに、自分と葉月との間では『純一』の名を出すと、毎度すれ違いになるので葉月が警戒をしてる部分もあるだろうが?
しかし、ある程度は味方になってくれる右京が擁護してくれる事を知っていても、『思い出の品』を目の前にして、ただ小さな幼い時に『貰った物』とも『純一が買ってくれた』とも、それらしき一言がいっさい出てこなかったのだから。
「せっかくだからと思ってさ……。俺の本棚にあってもなんだからお前に返そうと思って──」
「……」
突き出すばかりの右京の笑顔。
それとは対照的に、本当に葉月は困り果てたように俯いてしまった。
それを『受け取りたくない』というように、ロイには見えて仕方がない。
「そう……頂くわ……」
葉月は……そう、いつも自分達を悩ませてきたような、つい最近までの平坦な表情でそれを受け取った。
「……」
そこに、今の葉月の心情を、ロイは見た気がした。
(右京のヤツ……)
ロイは唸る。
こういうさりげなさで、最大限、その相手の心情を暴くかのような『やり口』は右京ならではだった。
「思い出せないのも仕方がないか──。思い出したくないなら持って帰っても良いが……」
「──どういう意味?」
途端に右京の眼差しは、ロイが恐れている険しさに変わり、小さな従妹である葉月は、それに恐れつつも『触って欲しくない』所へと近づかれた為か非常に警戒した顔に変わる。
その顔は葉月が『大佐嬢』として、日々、厳しく保っている『強さ』のような顔だ。
「どれだけ大切か忘れたような品なら、持っていても仕様がないだろう?」
「懐かしいから、頂いておくって言っているじゃない」
「忘れたのではなくて、今は……思い出したくない? そうじゃないのか?」
「なんの事? これを眺めていた事は覚えているわよ」
栗毛の従兄妹同士が、妙に緊迫したやりとり。
流石のロイも右京の隣で座っているが、ヒヤヒヤしてくるが、いつもの冷静を保っていた。
「そっか──。だったら、お前に返したからな」
「有り難う」
つっけんどんな従兄に、素っ気ない受け答えの従妹。
そこで、その話は片が付いたようで、向かい合っている栗毛の従兄妹同士は、息が揃ったように紅茶を一口……静かになる。
そして、葉月は何事もなかったように、背中に受け取った写真集二冊を、さっと隠してしまった。
「葉月、澤村とはどういった話になっているのだ?」
「え? ああ……まだ、詳しくは……」
「そうか……向こうの、横浜のお父さんはどうなんだ?」
「彼の話では、賛成してくれていると聞いているわ。でも、それに安心せずに、年内にご挨拶に伺おうとは思っているわよ」
「そうだな……」
「勿論、フロリダのパパとママにも……式典の招待客で来日するみたいだから、その時に報告するの」
「喜ぶだろうな……伯父さんと伯母さん」
「うん! 驚かそうと思って、今は黙っているの!」
一時、何かを含み合ったような険悪なやりとりをしていた右京と葉月。
しかし……従兄の『幸せな結婚への道』への質問に、葉月の様子も徐々に明るく変わっていく。
だが、元気よく両親を驚かすと言い放った葉月の一言を聞き届けた右京の顔が……途端に、誰から見ても判るように厳しい顔に変わった!
「いいか? 葉月。そうと決めたからには、決して迷惑をかけるな」
「──!? お兄ちゃま?」
「右京──?」
皆の困惑した顔。
しかし、右京は確固たる様子で続けた。
「結婚は最後は当人同士の物だろうが、当人同士の家族がしっかり関わっている事を忘れるな。俺たちはいい。お前という末っ子がどういう苦しさを味わってきたか解っている。勿論──あちらの家族もそうだろう理解は寄せてくれているから、賛成をしてくれたのだろう。だが……だからこそ、その『理解』を無にするような……今までのような『勝手』は通用するとは思うなよ」
「──勝手……って。お兄ちゃま……」
いつもはどんなにも甘い従兄の、時には厳しい大人の教え。
それは葉月にもずっしりと伝わった様だった。
しかし……それと共に『今までは勝手』に、随分と衝撃を受けた様子で、葉月は硬直していた。
「ま、そう言う事だ。ロイ……お前もそう思うよな?」
「あ、ああ……。その通り、右京が言うとおりだ」
それはロイがいつも葉月に伝えたくて、嫌がられても口を酸っぱくして言い続けてきた『正当な道』である。
それを……いつもはそんな『ありきたりな正当論』を『それだけじゃつまらない』とでも言いたそうに、くらりとした発言ばかりしていた右京が言い放ったので、ロイは正直困惑した。
なのに──右京は最後の一言を、こう締めくくった。
「今なら、引き返せる。よく自分と向き合え──それだけだ」
『!』
その一言に、葉月が驚愕の表情を現し、ロイとリッキーは『なかなか触れられない一言』を難なく言い切った右京に息を呑んだ。
「わ、私……仕事の途中だったから……これで──」
いつにない葉月の様子。
その慌て振りは、見るに明らかだった。
「悪かったな、呼び出して──。しっかり業務に励めよ」
「……」
何食わぬ顔で、再び紅茶をすする右京。
足を組んだまま、悠々と──葉月の様子を心配することなく余裕そのものだった。
ロイとしては、今から葉月がどんな変化をするかハラハラしているのに……。
「じゃぁ……お邪魔致しました」
葉月は、その写真集を小脇に抱え、連隊長室を足早に去っていった。
「ふぅ……なんていうか、やっぱりお前は最強の兄貴だなぁ?」
流石のロイも、詰め襟に指を入れて緩め、深い溜め息をつきながら身体からやっと力が抜けていく。
「レイ──大丈夫かな」
リッキーまで、心配そうな様子で葉月が飲み残したカップを片づける。
「……今からだな。葉月は……。まぁ、ああいう顔が出来るなら正常かね? やっと『気持ちの入り口』に立っているようで?」
そして……右京は勿論、『あれぐらいなんだ』という様に、ゆったり構えているだけ。
「……葉月、やっと感じたか……。これはママゴトじゃないんだ。ママゴトなら今のうちにやめておけ。嘘で固めるなら徹底的に固めればいい。それもある意味の真実となるだろう。しかし……俺はそういう従妹は望んじゃいないだけだ──。それに葉月にはそれは絶対に出来ない。このままいけば、葉月は二度と──こういう道は選ばなくなるだろう。俺は、真実を見落としてこれ以上『自分を騙す事』はして欲しくないだけだ──」
そんな右京の真剣で険しい眼差し。
ロイも黙って見つめているだけだった──。
「真実を見落とす事か……」
ロイの青い瞳が狭まり、うっすらと夕日を吸い込む──。
・・・◇・◇・◇・・・
『はぁ、はぁ──』
連隊長室を飛び出してきた葉月──。
夕暮れてきた高官棟の階段を、足早にただ……駆け下りる。
「はぁ……」
やっと足が立ち止まったのは──あの中庭だった。
夏の日差しに、中庭の庭池がキラキラと輝いている。
サルスベリの赤い花、白い花……ピンク色の花が風に揺れていた。
葉月は強く差し込む西日の中、緑と明るいコントラストの花を見上げる。
「どうして? どうして? 皆が……お兄ちゃま達が言っていた通りの道を決めたのに──。どうして──!?」
兄達にしろ、隼人ですら──。
『今のままでいいのか? 忘れても良いのか?』
「何故? 会っちゃいけないって言っていたじゃない……。隼人さんだって……会わないでくれって言っているもの!」
その写真集を胸に抱え、葉月は静かな勤務時間中の中庭の渡り廊下に座りこんだ。
『そうだな。葉月はヴァイオリンを愛していけばいい』
『うん、それがいい』
思い出す、あの時の輝いていた日々と、優しい義兄の声。
失っても、ずっと欲していた物──もう、戻らない物。
心の奥にそっと大事に大事に取っておいた、葉月の秘密の宝物。
すべて──だった。
「忘れるわけないじゃない──。きっかけがあれば、いつだって……」
いつだって鮮明に蘇る……思い出してはいけない日々、想い出──。
「取り返せないんだって……解っているから……だから──!!」
──バシッ!──
立ち上がった葉月は……胸の中に急に渦巻いた気持ちを振り払うように、想い出の写真集を地面に投げつけた!
夏の日差しに乾ききった白っぽい土砂が、舞い上がる。
古ぼけた写真集……表紙には白と黒い毛の仔犬が、変わらぬ愛嬌ある眼差しで葉月を見つめている。
「……好きよ。大好きよ──忘れたくないわよ」
そんな仔犬達にしてしまった事を詫びるかのように……葉月は目尻に浮かんだ熱い涙を感じながら、喉の奥からそんな声をやっと出していた。
「でも──解ったの。知ってしまったの……」
再び、葉月は座り込む。
そして白っぽい砂にまみれた仔犬達を、そっと指先でいたわるように、謝るように汚れを優しくぬぐった。
「あなた達を欲しいと思った時と一緒──。ほんのちょっとの『夢の時間』……愛は一つじゃないって……マイクがイザベルが教えてくれた。だから──隼人さんは違うの。本当の時間なの……」
もう一度、想い出の本を胸に抱きしめる。
「だけど──どうして? こんなに苦しいの?」
「お兄ちゃま……私、会いたい。会って、お話ししたい……」
それが……『素直な気持ち』だと今気がついた。
ほんのちょっとの間の嘘。
皆は知っていて、葉月が認めなかった嘘。
でも──。
「でも、私は……あの人といたいの。だから──」
会えばきっと……義兄に惹かれてしまうだろう──。
なんの抵抗もなく、今まで通り、感じるまま……抵抗はしないだろう。
「それはダメ……。絶対ダメ──。あれはその時だけの……幸せに過ぎないの」
『私のもう一つの愛は……』
そう心で呟きながら、葉月は空を見上げた。
真っ白なサルスベリの花──。
それが眩しく輝いている。
「その愛は、ここには存在しない。……しちゃいけない……そうでしょう?」
自分に言い聞かせるように、葉月はただ……真っ白い夏の花に問いかけただけ──。
初めて──『愛』という言葉に向き合って口にしている事に葉月は気が付かない。
・・・◇・◇・◇・・・
「ボス──よろしいですか?」
基地がある母島の向いにある『父島』。
その島のはずれにある小さな木造の別荘。
昭和全盛期の雰囲気を放つ、家具に囲まれた一軒家。
その渚側に位置する一室、窓辺にある机にはノートパソコンと向き合っている黒髪の男性。
その彼が、白いシャツ一枚、黒いスラックスでゆったりと事務をしている部屋に、金髪の男性が現れる。
「なんだ──」
「リビングに来て頂けますか?」
いつもの怪しいにっこり笑顔の弟分に、純一は少しばかり不審を含めつつ言われるまま部屋を一緒に出た。
『ミャウ……』
部屋を出るなり、ジュールの足下には黒子猫が一匹。
「アリスはどうした?」
「渚で洗濯物を干しておりますが──」
「こいつを放って?」
「放っているのではなくて、好きにさせているだけでしょう? 先ほど、渚に連れて行く為と、篭に入れようとして、うるさかったですよ。けど……この子は飛び出してしまって、アリスは『好きにしなさい』とおかんむりでしたからね──。まるで……母親みたいで……」
そこでジュールは、可笑しくて堪らなかったのかクスリとこぼした。
「特別触れるわけでもないお前にまで、なつくとはなぁ……」
「失礼な。私だって動物愛護精神はありますよ」
ジュールの毎度の呆れたような眼差しに責められて、純一はスッと誤魔化すように視線を逸らしたが、純一もそんなジュールが可笑しくて笑いをこぼした。
「特に……この青いリボンの子は私も大歓迎」
「意味深だな……。本当にお前は時々、俺をからかっているのか、それとも──?」
「ご想像にお任せ致します。私は私なりなので──」
「ああ、そうかい」
ふてくされながら黒髪をかくボスに、ジュールはニンマリと余裕げに微笑んだ。
「それよりなんだ──」
「いえいえ、揃ったので……。見て頂こうかと……」
そうしてジュールとリビングの扉をくぐり抜ける。
板張りの古ぼけたリビングには、イタリアでそうしているように大きなダイニングテーブルがある。
そこでエドも待ちかまえていた。
彼は、テーブルに広げられている数々の品を点検しているようだった。
「ほう……豪勢に揃えたな」
「……でしょ? 後はボスの使い方次第ですが……」
そこには……薄いグレーの詰め襟制服から、夏服の白い半袖シャツ、そしてスラックス……。
真っ赤なメンテナンス員の作業着、紺色の空軍キャップ。そして……深緑色の飛行服。
さらに──紺色の海陸員の訓練着に、その他作業員のアイボリーベージュの作業着。
すべての服装が取りそろえられていた。
「問題はIDカードです。『偽造』の準備は出来ておりますが、どのような隊員として入るかです」
「……」
無精ひげが伸び始めているあごを、純一がさすり、暫く考え込む。
そして、彼はそのテーブルにある服を、一点ずつ手にとって一回り眺めていた。
「はぁ! けっこう日差しが強いわね! ボウソウやニッコウはもう涼しかったのに!」
そこに籐の洗濯篭を抱えたアリスが、ラフなティシャツ姿で戻ってきた。
「なにっ! これ!」
アリスもテーブルに揃えられている数々の『衣装』に驚いたのか、入り口で立ち止まった。
「ジュール、これとこれ……それとこれだ。……俺たち三人分、揃えられるか?」
「勿論──海陸員の紺訓練着ですね。それと……母艦船員の白い作業服と赤いメンテ員作業着……他には?」
「IDは考えておくが……必要ないかもしれないな」
「しかし……万が一、提示を求められた場合はどうされるのですか?」
「……」
暫く、黙り込む純一──。
「……空母艦から潜入する」
「はい?」
「だから……空母艦に潜入して、連絡船に紛れ込んで基地に入ろうかと──。しかし、それは基地にはいるなら……だ。その前に基地外でやっておきたい事がある」
「はぁ……それなら、外で『彼』をひっつかまえるお考えで?」
「誰が、男をひっつかまえると言った?」
「え!」
流石のジュールが驚いたので、従っていたエドも驚いたようだった。
そして──アリスも……。
(男じゃなくて……誰をひっつかまえるの……!?)
そんな風に驚いて固まっているアリスを純一がスッと見た。
その途端だった……。
次には、彼等は日本語での会話に切り替わってしまった。
「ボウズの件もあるしな──。そうだな……その時に、オチビの様子を確かめるか」
「確かめるとは? 確かめるだけで?」
「ああ、今は……会う気はない」
「確かめて……終わりなんて事ないでしょうねぇ? ここまでしておいて……」
ジュールの不審そうな……そして不満そうな声。
純一が再び、うやむやにして……いや? 尻込みをして『帰る』とでも言い出せば、ここまで来て準備をしたジュールも黙ってはいられない所だ。
「どうだかな……オチビ次第だなぁ……」
「まったく……しっかりしてくださいよ?」
急にすっとぼけ始めたボスをジュールは恨めしそうに睨んだ。
「とにかく──オチビは……今はショーの訓練で忙しいだろう。その邪魔はしたくない。ああ……そうだ? ショーは見たいからな。事を起こす前に、一般客に紛れ込んで見物でもするかね」
「私はですね……どうせ潜入するなら、一般公開の式典が一番だと思うんですよ」
のんびりとしている純一に業を煮やししたジュールが、渋々とした口調で進言する。
「だから……この前から言っているだろう? 絶対にロイとリッキーがその日は俺達が紛れ込みやすいと警戒してくると解らないのか?」
「警戒されていても、そこをやってのけるのが私たちでしょう?」
「ほぅ? いいのか? 相手は『あのリッキー』だぞ? お前……何敗していたかな?」
「!」
純一の冷めた目つきに、ジュールの顔つきが変わる。
「四戦・二勝・二敗だったかね……」
「そう今はイーブン。……今度、勝てば私が一つ頭が出るでしょ……」
「黒猫たる者が、軍の男に二敗。それがどういう事か、お前が一番解っているだろう。相手はあのロバートと聡明なアリソンの息子だぞ」
「……」
いつにないジュールのあからさまに悔しそうな顔。
彼が唇を噛みしめるという顔は……人目ある場ではあまりしない物だった。
「解りました。慎重にと言う事ですね……」
「そういう事だ──」
「母艦潜入……これは本当に男をひっつかまえるわけじゃないのですね」
「さぁな?」
また純一がすっとぼける。
しかし──これでジュールもだいたい判ったが、呆れた。
(まったく──。ああいう自分より弱い男をひっつかまえて試すんだって素直に言えないなんてな……)
黒猫のボスたる者が……そう名も知れていない『若中佐』をひっつかまえて『試す』。
それが言えなくて、あんな風にのらりくらり……。
ジュールとしては、先ほどの発言で『男を捕まえるのではなく、オチビを捕まえる』と聞こえたから驚き……そこまでの『強行』に追い込まれた『ボス』にちょっと胸躍ったのだが……。
これまた……純一の『からかい』に引っかけにまんまとかかってしまったのだと、ふてくされた。
「解りましたよ。ボスの指示に従いましょう?」
「しかし……このメンテ服……派手な作業着に変わったんだな。着るのに抵抗を感じる。それにこれでは目立つ。男の訓練スケジュール、調べておけよ」
純一は、深紅のメンテ服を手にして溜め息をこぼしている。
「確かに──」
『ボスには似合わないな──』
と、ジュールはそこは心でこっそりと呟いておいた。
「……ん? アリス。洗濯は終わったのか?」
「え?……ええ……」
そこにいたのを解っていたくせに、今気が付いたとばかりの純一の余裕。
でも──アリスはテーブルに繰り広げられた『軍隊服』に圧倒され、本当に純一が基地に潜り込む準備を始めている事に、気が気じゃない。
すると……いつになくにっこりと純一が微笑みかけてきたので、アリスはドッキリ硬直した。
「もうすぐ……向島にある基地で『航空ショー』がある。お前も連れて行ってやるから、楽しみにしていろ」
「そ、そう? ええっと、戦闘機のショー?」
「ああ、そうだ」
「た、楽しみね……! 私、戦闘機のショーは見るの初めてだもの!」
「そうか──。なかなかのフライトチームで俺はそのチームの『ファン』だ」
「ファン??」
「ああ。ビーストームというチームだ」
「!」
(ここに来た時に……空を眺めていたのはそういう事だったの?)
アリスはホッとしたような……なんだか腑に落ちないようなそんな複雑な気持ちになった。
その顔が可笑しかったのだろうか?
純一がフッと笑った。
「尾翼に……スリムなスズメバチのペイントがしてあるチームでね。なんとも破天荒な飛行をするので、今回も楽しみだ」
「前回の変形タッククロスも……ヒヤヒヤでしたもんね」
エドもにっこり……なにやら自分の事のように得意そうだった。
「そうでしたね……。特にキャプテン機とサブキャプテン機の大胆さはなかなかでした」
ジュールまでにっこり……。
「もしかして……皆、そのチームのファンなの?」
アリスの問いに、三人が揃って顔を見合わせ……『勿論』と、口調まで揃えたのでアリスはおののた。
「お前も見ておかないと損するぞ」
なんだか意地悪いエドの顔。
「そうだな。お前、絶対に腰を抜かすぞ」
ジュールもニヤニヤとなんだか楽しそう……。
「そうなの? そうなの!?」
そこまで言われては、アリスも興味がなくとも興味が湧いてきた!
そして……最後に純一が……急に真顔でこう言い出した。
「ついでに……例の男がそのチームを母艦から飛ばすメンテチームのキャプテンだ」
「え!」
急に真顔になった純一の発言に、アリスはまたまたたじろぎ、ジュールとエドもなにやら意外そうな驚いた顔を──。
しかし、部下の二人はすぐに……いつもの冷静な顔つきに戻り、じっとアリスを眺めている。
だけど、そんな戸惑うアリスの何かの解釈を求めるような目線……それを避けるように、部下の二人は動き始める。
「では、数日中に仰せの衣服……ご用意致します。急がない予定でよろしいのですね? ボス──」
ボスが言いつけた作業着を、エドは手にしながら……『のんびり』としたと予定を考えている純一に、不安そうに念を押した。
「ああ……暫くは俺は休養する。東京での仕事も問題も片づいたし。やっと骨休めだ」
「かしこまりました」
ジュールはシラッと、いつもの定位置……テーブルに備えているノートパソコンの前に座る。
『ミャウミャウ──』
青いリボンをした『レイ』が何故かジュールの後をトコトコとついていき、終いには、ジュールが開いたノートパソコンがあるテーブルにあがってしまった。
「邪魔だ……」
『ニャウ〜』
片手でさっとのけようとしていた。
「……なにもなくて子猫が近づくとは思えんが……アリス、苛められないうちにジュールから離した方が良いぞ」
「う、うん……」
純一に言われたまま、アリスはレイを引き取りに行こうとした。
すると、色々な作業服を両手に抱えて部屋を出て行こうとするエドとすれ違う。
「あのままにしておけよ。実は……夜中にジュールがあの子を可愛がっているのを見てしまったんだ。だから……なついている」
「え! そうなの!?」
エドはにんまり……。
アリスは驚いて立ち止まった。
『ミャァ〜ン』
ジュールに払われた『レイ』が、ちょこんとテーブルからジュールの隣の椅子に飛び降りて、そこで丸くなる。
ジュールもそれ以上は、追い払おうとはしなくなった。
「なるほどね……そういう事か……」
聞こえたのか? 純一が呆れた溜め息をついて、リビングを出て行った。
『もぅ……なんなのよ。ここの男達は!』
アリスは混乱ばかりさせる男達に苛々してくる。
ほんと……ボスもボスなら、部下も部下である。
(それにしても! 『ファン』であるチームをメンテしているキャプテンがあの『若中佐』?)
今、新たな苛々を運んできたあの発言が、気になる!
まったく、見通しがつかない!
(ジュンを……あんな情けない姿に追い込んだ若中佐が……ジュンのファンであるチームを受け持っているって? それがなにか……ヒント?)
その男が、ジュンが大好きなチームを好きなように操っているのだろうか?
部下の二人まで『ファン』というくらいだ。そりゃ……大事な思い入れがあるのだろうが?
「義妹じゃなくて、彼等が見に来たのはパイロットチームってなんなのよ。もうっ──」
アリスはまだ……『繋がり』が見えてこない。
リビングを出ると、今度は書斎部屋に入ろうとしている純一の後を、赤いリボンをした『サッチ』がひっついて入っていった。
「なんなのっ。ママンは私よ。わ・た・し!」
渚があるこの家は、イタリアの家に似ていた。
だけど……なんだか空気が全く違う。
そう──ファミリーを取り巻く空気が何か……いつもと違うのだ。