『純一は葉月の事が一番なんだ。アイツの一番の心の支え』
『皐月じゃなくて葉月だったんだと……』
ロイが教えてくれた、隼人からは見えない『彼等』の心情。
『俺はレイと先輩を会わせた方が“早道”だと思っている』
『……“お兄さん”と“オチビ”の時代には決して表に出る事もない“二人の潜在意識”だったかもね』
二人の小笠原兄貴の声が繰り返し、隼人の頭の中を巡る。
『会わせたら……アイツ、本気になって葉月をさらっていく危険がある。アイツのコントロールとやらが、今までの質が悪い行ったり来たりではなくなる』
『お前は甘いな……。欲しい物は、絶対に手放さない事だ』
『それでも……お前は葉月とあの兄貴を会わせたいと』
ロイの引き留めようとする声。
『相手が悪い……。君も“普通の男”なら、絶対に傷つくだろうし、後悔する……』
リッキーのそれは絶対だとも言いたそうな断言する声、顔。
「それで……葉月は、連隊長から『ジュンイチさん』の本当の気持ちを、兄貴陣営側として語って……彼女は受け入れられなかった様子だったんですが……」
「……葉月にとっても衝撃だったようだな。当然、子供だった葉月からすると、子供をもうけた『兄姉』の姿は『愛そのものだ』と純粋に信じたい気持ちもあるだろうし、姉に嫉妬する醜い妹という自分から逃げたい気持ちもあっただろうし」
「なるほど……」
確かに、そこは葉月らしい感じ方だと隼人も妙に納得できた。
「それに、絶対に側にいてくれない兄貴が、何故? 葉月を受け入れないかとなると、愛しているのに側にいてくれないは……あのように、複雑な感情から逃げてばかりいた子供のような『リトル・レイ』にはどうにも受け入れがたい『何故? どうして』だったんだと思う。受け入れられないほどショックだったようだから、逃げられた。そして……この事はそのまま、また次の機会という事でリッキーと見守っている所だったんだ」
「……そうでしたか。そこまで、葉月の感情に振幅していたんですか……」
隼人は俯きながら……やっと声にして、衝撃に耐えていた。
『俺は……俺なりに、皐月とは別に、皐月の代わりでなく純一はしっかり葉月を一人の女性として愛していると伝えたんだが……』
ロイが思い切って、春の任務後、そう伝えた所……葉月は受け入れられないほどショックだった様子で、連隊長室を飛び出してきた所を、隼人は偶然目にしていた『あの日』を思い返す。
葉月は、その時……『あの事件がなければ、自分はこんな風な目に遭う事はなかった』と言いたげに、泣いていた。
彼女が本当は、そんな経過で泣き崩れていたとは知らずに、隼人は『今お互いに向き合っている意味』を彼女に説いていたのだ。
葉月は……隼人の言葉を受け入れてくれた。
そして、彼女はその泣く闇から抜け出してきた。
『その男がいて、その人と触れ合ってきた葉月があるから、今の俺たちがある』
隼人は今だって、そう思っている。
きっと……葉月も……。
しかし……今日聞いた話では、どうも? もう、隼人と葉月がどうこう……と、いう問題でもなくなってきた。
ロイですら『連絡方法』も知らないという、途方もない所に『対峙する相手』がいるのだ。
その男……。
今の隼人をどう見てるのだろう?
『……お前、誰だ? 相手じゃない。葉月は絶対、俺から離れない』
そんな風に、自信たっぷり余裕げに微笑んでいるに違いない。
(だから……会いに来ないのか!?)
そのまま……隼人の右手は堅い拳になり、スラックスを握っていた。
しかも、自分で気が付かなかったが、奥歯を壊れるくらい噛みしめていたようだ。
気のせいか……血の味がしたというと大げさだろうか?
隼人自身が、そんな自分が自分でないような様子を醸し出しているのに気が付いたのは……ロイとリッキーが、いつらしからぬ心配顔で、しん……と、隼人を見つめていたからだ。
だから、すぐに……慌てて、いつもの顔に戻そうと思ったのだが……。
「……隼人、心中を察するが、今はどうしようもない。せめて、葉月をしっかりと捕まえておくようにとか……」
なんだか、ロイがいつもの冷徹な上司でなく、それこそ……いつも心より慕ってくれている兄分のように困った顔で戸惑っているのが伝わってくる。そして……リッキーも。
「そうだよ。捕まえておくが、腑に落ちないなら……君たち二人がこの一年、人並み以上の関係を築いてきた事を噛みしめて、お互いの誰にも邪魔できない関係を、噛みしめて……もっと大事にしようと心を強くするんだよ。レイにもその気持ちは、今だって絶対に通じているよ。嘘じゃない、そうだろう? 澤村君……」
そうしてリッキーがいつもの穏やかな笑顔で指を差したのは……隼人の左手だった。
そこには、銀色のリングが光っていた。
「……こんなの、ただの印です」
昨夜、思ったままの事を隼人は、致し方ない笑顔で囁いた。
「そうかな? 確かにただの印とも思えるけど……それを渡したかった気持ちとレイが受け取ってくれた気持ちは変わらないと思うよ」
「お前も、良い事いうなぁー」
一生懸命励ましてくれるリッキーの隣で、ロイが茶々を入れて笑い始めた。
当然、リッキーは冷めた目つきでロイを横睨みし、ロイはそっぽを向き知らぬ顔。
なんだか、隼人も少し、ホッとしてきた。
「……こんな悔しいのは久しぶりでした。俺自身の悔しさもありますけど……」
やっと落ち着いた隼人は、ホッと微笑んでいた。
そして、それを見たロイも……今まで見た事もないような眼差しを、青い瞳から柔らかく滲ませてくれる。
「ああ、解るぞ……。俺もそうだった。皐月の眼差しが純一にまっすぐに向かっているのに、純一は素知らぬふり。アイツ、気が付いていたはずなのに……。俺は、そんな皐月を見ているのが辛かった。彼女の届かぬ想いを、俺が受け止めて和らげてあげたかったが、逆効果だった……」
「中将……」
彼の伏せた青い眼差し。
それは、とてもしっとりとそして悲しげだった。
地位を極め、そして家柄も美貌も完璧な彼のそんな顔を……こんな風に見る事になるなんて……。
そこに今の隼人を心から心配してくれるのも、同じ気持ちを知っているからなのだろう。
しかも──また、対峙する男が一緒とあっては……。
「……勿論、純一にとっても皐月は魅力的な女性であったのは解る。アイツだって女性云々の前に、一人の幼なじみとして皐月の事は妹のように気にはかけていたのは俺も知っているから……」
「妹のように……」
それを聞いて隼人は、ふと……『ジュンイチ』のカラクリのような物に触れたような気がした。
「真一にとっては、間違いなく父母。純一と皐月も昔からの縁で切っても切れない関係で、真一が生まれたのは間違いないし。そこに愛があったと俺も思いたい。これは……俺だけの我を通したいという男としての気持ちは別として、そう思いたい。だから……」
なんて『せつない気持ち』だろうか……。
隼人はそう思った。
恋い焦がれた女性の眼差しが、どうにも勝てない彼女の幼なじみに向けられ、そして、さらわれたのか彼女が去ったのかは知らないが、それを易々と見届ける結果になり、そして、彼と彼女の間に生まれた結晶の為に『その愛は真実だった』と信じたいと言い切る彼が……隼人には急に、上官ながら愛おしく感じてしまうほどの──。
「きっと皐月には家族めいた気持ちが強く、守りたいという気持ちも本当だったと思う。だが──アイツの『男としての真の熱愛』とやらは、やっぱり……『失ってから強くなった』のかもしれないし、失う前から幼なじみではない、女としては想像も出来なかった『オチビちゃん』に潜んでいたのではないかと……それは俺の憶測だが、その感が、どうも拭えなくなってな……ある時から……」
今度はロイが脱力したようにうなだれた。
リッキーもそんなロイを静かに……そして、いたわる眼差しで見守っているだけだった。
自分より大人である彼等の若き日々。
隼人が想像できない沢山の愛情とすれ違いが飛び交っていた様子だ。
その彼等が長く見据えてきた『お兄ちゃまとオチビ』の姿。
今日……ここで違う形で、隼人の目の前で浮き彫りにされた。
隼人はスッと深呼吸。
目を伏せた。
「やっぱり、俺は彼が許せません……」
「隼人──?」
「澤村君……」
「あんなに彼女が一生懸命、彼を大切に思っているのに……。あらゆる理由はともかく、彼女を放って置きすぎというか、ないがしろと言うような気もするし……なによりも……」
少し、まぶたが震えた。
「……なによりも、葉月が可哀想で……。あんなに信じて、待っているから……可哀想で。勿論、手放したくないけど、どうなるにせよ彼女なりの決着を付けさせてあげたいです。彼女がそう望めば……俺は彼女の後押しをします。今までも……そうしてきたから、これが最後でも、投げ出したくないです」
「──!」
ロイも……リッキーも今度こそは言葉を失い、そして……息が止まったかのようだった。
「そうか……そうなんだ」
気のせいか……ロイの青い瞳が潤んでいたような気がする。
「流石……ロイがフランスへ、レイ自身に『行ってこい』と押しつけた人材だけあるね! 俺、少し考えを変えるよ。俺は合理的かもしれないけど、そういう不利に向かう相手は大歓迎。応援するよ」
リッキーのその笑顔は、もう……隼人が畏れた底知れない笑顔ではなかった。
「……有り難うございます」
自信はまったくなかったが、隼人は穏やかに微笑んでいた……。
「失礼致しました──」
連隊長室を出て行こうと、入り口で挨拶をすると、二人の小笠原兄様はにこやかに送り出そうとしていた。
その後、隼人が肩越しに振り返ると……ロイは窓辺へと向かっていく。
『リッキー、白い薔薇はどうしている?』
『ああ、真理がせっかくもらってきたのにロイが赤だけ好むからとぼやきながら、秘書室に飾っているよ』
『そうか……』
『何故、赤ばかりと真理がぶつくさとね……』
『そうか……』
『花の例えまで、対立しなくても……』
『そうだな……』
そんな会話を耳にしながら、隼人はそっと音を立てないように連隊長室の大きな木の扉を閉めた。
「きっと……ロイ中将の皐月さんは……赤い薔薇なんだな……」
彼の憂う眼差し。
白い指が、狂おしそうにビロードの赤い花びらをなぞっていた姿。
その背中……。
それが、隼人の眼に妙に残った一場面だった。
『黒猫さん』は……皐月嬢をどんな花に例えているのだろう?
やはり……葉月と一緒で『真っ赤なチューリップ』?
隼人には、そう思えた──。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
『ふぅ……』
それから暫く経った、ある夜の事だった。
その時、隼人はいつもの彼女の寝床で……荒っぽい『行為』の後で、裸で寝転がった所だった。
身体中に、水色のシーツが張り付くほどの汗。
肺から切れそうな息。
隣では、クタリ……と、白い裸体を横たえている彼女が、ぼんやりと天井を眺めているだけだった。
「……嬉しいけど……怖いわ」
「え?……」
ぼんやりとした眼差しの彼女が、ぽつりとそう言った。
実は、彼女が何を言いたいのか本当は解っている。
何故かって……?
やっぱり『荒っぽい』からだろう……。
「……なんだか、隼人さんじゃないみたい。嬉しいけど……」
『嬉しいけど──』
近頃、彼女の語尾にそんな言葉が付くようになった。
「嬉しいなら、そのまま受け取っておいてくれ」
「うん……」
そっと、彼女がいる壁際に寝返ると……シーツに桃色に染まった頬を埋めながら、フッと柔和に微笑んでいる葉月がそこにいる。
彼女の湿った栗毛が、じっとりと額と首筋に張り付いていた。
そっと手を伸ばすと、その白い肌もしっとりと湿っている。
「そう言うけど……葉月も近頃、一生懸命だって……思うけどな」
「……動き過ぎって事?」
これまた、無邪気な笑顔で彼女が笑い飛ばした。
隼人は呆れた顔で、彼女を軽く睨みとばす。
「そういうおませちゃんは、ご健在のようで。私は安心致しましたよ」
「なに? その言い方──。やめてよね。ここ、大佐室じゃないんだから!」
そしてお嬢ちゃんは、またもやむくれながら、シーツを身体に巻き付けて、壁際に寄って逃げてしまう。
「……俺、やっぱりおかしいか……。ここずっと……」
この前──コントロールできなくなるほどまでには陥っていないが、今までの自分とは随分違う事は自覚している。
「……私も、やっぱり違うんでしょう?」
壁際に話しかける葉月の声だけが……耳に入ってきた。
「お嬢さんの大進歩って事で──」
「まるで、私が小さなティーンの女の子だったみたいに……」
「それっぽかったけどな……お兄さん、もどかしくて」
「あはは──!」
隼人の茶化す言い方が可笑しかったのだろうか?
葉月はついに、笑い転げながら隼人の側に寄ってきた。
「いいの……それでも。これからは、本当に私……隼人さんの言う事聞く」
「聞くどころか、俺を苛めている時があるぞ」
「嫌なの?」
「……」
『いや? 大歓迎』と言いたいところを、時々顔を覗かせるようになった『生意気お嬢ちゃん』を避けるために、隼人は押し黙った。
「私は……今夜の隼人さんも好きよ……」
そっと肩先に、頬を埋めてきた彼女。
引き寄せられるように、隼人の手先は、彼女の栗毛をなでていた。
「もっと……私を見て?」
「もう……どこもかしこも、見た」
「そういう言い方って……エッチね」
またむくれて葉月が、壁際に行ってしまう。
けど……隼人も笑っていた。
『私、絶対に会わないから!』
ロイの連隊長室で、色々な話を聞いたその晩の事だった。
葉月にはロイの元へ行った事はばれてはいないようだったが……その前に、大佐室で彼女に隼人なりの『本心』を伝えてしまった為に、その後も葉月は念を押すように、隼人に面と向かって断言していた。
『そう……解ったよ』
もう、葉月がどうこうじゃないと解った隼人は、今のところはすんなりと葉月の気持ちだと……とりあえず、受けておいた。
その時の葉月の『ほっ』とした顔……。
きっと……いつものパターンで行くと、隼人が兄貴面で『こうするべき──』と、前を向かそうと躍起になり説得するに違いないと、葉月は思っていたようだ。
(何故? ホッとするんだ?)
隼人にはその反応が……やっぱり、葉月が何か逃げているようにも思えてしまう。
しかし、隼人が『毎度の躍起』にならなかった為か……葉月はそれから安心したように、はつらつとし、いつもなら隼人が安心する程の『落ち着き』を見せ、とても明るかった。
逆に……それが腑に落ちない隼人の方が、『妙』だと感じるほど。
葉月は安定している。
勿論、隼人も前ほどのアンコントロールにもならないし、ガタガタに落ちたりもしなくなった。
腑には落ちないが、やっぱり元気いっぱいに……『隼人にぶつかってくる彼女』に救われているのは間違いないから。
振り出しに戻った気持ちだった。
しかし……あの時、自分が心より感じた気持ちをさらに噛みしめさせられた気持ちが、痛いほど隼人の心に刻まれた。
(やっぱり……兄貴が来たその時。……もう、その時にどうにかするしかないんだな……)
目の前のあるがままの彼女を愛してゆけば、それで良いはずなのだ。
いや……愛してゆく事だけを積み重ねていく事しか、今の隼人は出来ない。
(そうする内に……その兄貴の事、薄れてくれるかもしれないしな……)
フッと深い溜め息をついた。
そこは、先ほどのベッドの上で、窓辺からはさざ波の音が聞こえる彼女の部屋に……隼人の意識は戻ってきた。
「……時々」
葉月のか細い声。
隼人はどっきりと胸を押さえる。
以前もあったが葉月の力無い声の『時々』という言葉は……しっかりと、隼人を観察している目で表現されてた時の事を思い出させる『フレーズ』として、焼き付けられていたから。
その通りだったようだ。
「時々……溜め息、ついているわね。疲れているように……」
「……そうだな」
「……」
天井へ……隼人の視線は投げ出される。
彼女の目は見られなかった。
そして、葉月も黙り込む。
その沈黙の中に、すっと潜り込んできたのはただ一つ。
黒い猫だった……。
それは、言葉にせずとも葉月も隼人も解っているようで口にはしない。
しかし──隼人は今夜は違った。
「……兄貴、何処にいるんだろう?」
「知るわけないじゃない」
当然、葉月はまた怯えたように……吐き捨てるような言い方。
裸体にシーツを巻き付けて、また……隼人の手元から遠のいてしまった。
「……会わないって言っているのに」
葉月の泣きそうな声。
「……ああ、会わないでくれ」
それも本当の気持ちだった。
妙にむしゃくしゃして、荒だった声になっていて……自分でも驚いた。
「……本当にそう信じてくれているの?」
「ああ……」
壁際から戻ってきた葉月は……夜明かりにガラス玉の茶色い瞳を輝かせながら、隼人の顔を上から覗き込む。
白い肌に月明かりが映っている。
その白い肌をそっとなでると、葉月が嬉しそうに微笑んだ。
「……愛しているから……本当よ」
「うん……」
葉月からそっと舞い降りるような口づけを落としてくれた。
彼女のまつげが、月明かりにキラキラと煌めいている。
さざ波の音が……二人を毎晩、包み込む。
葉月がギュッと、隼人の左手を握って頬に寄せる。
「私の……私だけの……光」
薬指に光る銀色の輝きを……葉月はよく確かめるようになった。
そんな彼女に満たされながらも……隼人は妙に冷めたような眼差しでそれを見つめる。
『葉月は嘘をついていないさ……嘘を付いているのは……俺と兄貴だろうか……?』
隼人の『嘘』は、彼女に心より愛されたいが為に、過去の清算をして欲しいというエゴを隠す『嘘』──。
兄貴の『嘘』は、突き放しては引き寄せてばかりいる真実の愛を語らない『嘘』──。
彼女を振り回しているのは……結局は『男』になるのだろうか?
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
(なんだか……疲れたな)
行き止まりで、振り出しに戻って……なのに、妙に上手く流れすぎる彼女との関係。
季節は十月の初旬だった。
もう……式典まで1ヶ月弱。
メンテチームも上手い具合に動き始めていた。
この前、葉月が冷たく突きつけてくれた『当日担当者への整備詳細連絡強化』も、あの後すぐに取り入れた。
『ちゃんと気が付いたね。実は、一悶着絶対にあるだろうと……意地悪いけど傍観していたんだけどね』
メンテ総監である佐藤大佐が、整備事項連絡強化を図ったメモバインダーをメンテ員達に持たせたその日に、感心し労ってくれたのだ。
それを聞いて、隼人はやっぱり自分は『ぼんやり』していたと思い知り、総監である佐藤の目線で注意をしてくれたかのような葉月の『大佐嬢』としての進言に驚かされた。
『いえ……大佐嬢が気が付いてくれまして』
『ふぅん……流石、お嬢。でもね、バインダーは澤村君の案だろう? いいね。原始的だけど、文字にして残し回覧する事も出来るから、パイロット個々の性質に好みも解る。必ずしも担当が固定するわけでもなく、誰かが欠場している時は、その穴埋めのために日常担当ではないパイロットと接する時にも役に立つだろうしね……!』
佐藤はとても満足そうで、ニコニコしていたのだ。
『ええ……班室でも、希望担当のパイロット以外の癖なんかも興味があるようで、それぞれの情報交換が盛んになったようです』
『本当に、良かったよ。気が付かなければ、私も細川先輩のような雷落とさなくっちゃって……ちょっと練習していたよ』
穏やかな佐藤は、そう茶化しながらとぼけていたが、隼人としては冷や汗モノだった。
別にそういうお叱りを恐れているわけでなく、いつか受けるという覚悟で新チームのキャプテンをしているのではあるが、あの時の隼人の状態ではすっぽりと完全にチームの細かい様子を見落としていたに違いなかったから……。
(やっぱり──。もう……式典の事を重視しよう!)
そう思わせる出来事でもあった。
チーム最初の『仕事』だ。
これをスムーズに出来ずとも、隼人が引っ張っていかなければチームが最初から崩れる。
何のために? 葉月と一年……先輩や新しく出会った同僚達と共に、ここまで来たかだ!
それに集中する事に決めた。
決めたけど……いつにない脱力感があるのは否めない。
けど……隼人は自分を奮い立たせる。
今も……そんなメンテのミーティングを終えて、本部に戻ってきた所だ。
充実感はある。
が、晴れ晴れとしない気持ちは続いていた。
何処かで……どうしても得られない達成感。
(解っている。今度は……どうにもならないと)
何が原因かは、自分自身で判っていた。
やはり……『葉月と兄貴』……いや……もう、『葉月』じゃなくて『兄貴』にすり替わっていた。
(……本当に結婚するぞ。いいのかよ……!)
結婚すると真一に伝えてから、二週間は経っている。
真一もあの後、またいつもの忙しいカリキュラムに戻ってしまいマンションにも来なくなった。
(聞いたのに平気な顔って事は? 結婚すらも、それほど気にならないタダの法的関係だって思っているのか?)
無法な世界にいる男だから、気にならないのだろうか?
(それとも……)
こうして隼人の頭の中は、ふと空白が出来ると『にゃおん』とばかりに黒猫がピョコピョコ横切っていくのだ。
勿論、自分で生み出しておきながら鬱陶しい事この上ない。
その時だった。
「もう! 私をなんだと思っているのよ! ジョイ、行ってくるわね! 今、大佐室……誰もいないからヨロシクね!」
本部の入り口まで辿り着こうとしている隼人の目の前から、葉月が飛び出してきたのだ。
「あ! 隼人さん……お帰りなさい」
「ああ……どうした?」
基本的に大佐室には必ず誰か一人がいるようにはしている。
どうしてもそう出来ない時もあるから、ジョイや山中に頼んで出かける事もあるが……。
達也は毎度の如く、午後は山中と訓練に出かけているか、目前に迫った式典の来賓客受け入れの手配で走り回っている事が多い。
パイロットのミーティングは夕方前、メンテは一足早く午後早めに組んでいる。
そして、葉月が一人留守番をしていた所を出て行こうとしていた。
「ほら! 右京兄様よっ!」
「え? 確か……マーチング指導は明日からだっただろう?」
「そうよ!」
葉月は何故かものすごい剣幕で怒っている。
「来ちゃったの! 今日! お兄ちゃま!」
「え? 来たって、もう……来たって事?」
「そう! 今、書類を整理していたら、ロイ兄様から連絡があって……右京兄様が来ているから来いって言われたの!」
「へぇ……そうなんだ。いってらっしゃい」
「それだけ?」
「どうしてだよ? せっかくお兄さんが来たんだから会いに行ってこいよ」
淡々としている隼人に、葉月は不満げに頬をふくらませていた。
「聞いてよ!」
「はいはい……」
自分の言い分を聞いて欲しかったのかと、隼人はまだ出かけない葉月の様子に苦笑いしながら、耳を傾けた。
「お兄ちゃまったら、『なんとなくそんな気分で』と言うだけで! 定期便の席が空いていたからヒョイッと来たそうよ! ホテルも部屋が空いていたらしくて。私が予約した『玄海』でのお食事は明日になるじゃない! どうして、そうなるのよ!」
「まぁ……玄海だって馴染みの店なんだから、融通はきくだろう?」
「そうだけど──!」
「落ち着けよ、もう……お前に会いたくて、来ちゃったんじゃないの?」
「……そうかも、しれないけど」
そこは葉月も大好きなお兄ちゃまであるから、妙に声色が弱まった。
しかも、頬を染めて俯いた。
そんな妹としての彼女をみると、隼人は微笑ましくなる。
「きっとそうだよ。行っておいでよ」
「もうっ。仕事中だって普段なら……ロイ兄様も厳しそうだけどね。来ないと二人揃って大佐室に押しかけるって脅すんだもの」
「それは、また……違う意味でちょっと大変だな」
プライベートとは言え、連隊長と……あの麗しいばかりの『貴公子』が揃ってお出ましでは、流石に本部員達も落ち着かないだろう。
そこを判っていての、ロイと右京の『オチビちゃんへの脅し』に、隼人も苦笑い。
「まったく、お兄ちゃまの気まぐれにはやられるわよっ」
(お前もそうだろ?)
それは御園の妙な血筋だな……と、隼人は胸で唱えた。
確かに……右京の『気まぐれ度合い』は、葉月より派手そうではある。
「じゃぁ……行ってくるわね」
「ああ、お兄さんによろしく」
「うん! これ、お兄ちゃまに見せるの!」
「……そうか」
葉月が嬉しそうに『見せる』と張り切っているのは……左手にある銀色のリングだった。
「あんな顔されたらな……」
彼女が嬉しそうに、大好きな従兄に報告へと軽い足取り。
それを見届けて、隼人はやっぱり微笑んでいた。
『……どうして、黒猫の兄貴だけ……こんな風に受け入れられないんだろう』
判ってはいるが……兄貴なのにどの兄貴にも属さない男。
それが……右京やロイ……今まで出会ってきた彼女の様々な兄貴達とは異なっていて、それでいて……やっぱりとっても近い兄貴だった。
そう思いながら……本部事務室から大佐室へと隼人は入る。
頭に空白が出来ると、黒猫が横切る。
だから……間を置かずに、隼人はすぐに次の業務に移行する。
何が起きているかも。
何が動き出しているかも。
何が自分に差し迫っているかも……望んでいる事が迫っているかも……隼人は知らない。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
それは──連隊長室で既に起きていた。
「……ロイ、お前……正気か?」
その時、金髪の美しい男性の目の前には、優雅にティーカップを傾けている麗しい栗毛の男性が向かい合って座っていた。
栗毛の男性は、コトリ……と、ティーカップを……金髪の彼を見つめながら静かに置いた。
「右京が驚くのも無理もないと思うが……」
「驚きはしないが、どういう風の吹き回しか?」
「別に、どうって事はない。ハッキリ言えるのは、あんなバカ猫の為じゃないってことさ」
ロイも、何食わぬ顔でカップを傾けていた。
側近のリッキーは……この日は、親しい先輩の目の前でも規律正しい側近の振る舞いを通し、側に控えているだけだった。
「……ここ数日、どうも嫌な気分で……急かされるように、予定を早めて来てしまったんだが……やっぱりなぁ」
「その勘は……御園特有だな」
「しかしな……お前がそう言い出すとはね」
「……」
右京は皮肉な微笑みを浮かべ、ロイをからかっているようでもあった。
しかし……ロイは真剣だった。
だから……いつも少佐風情の『先輩』であっても、妙に勝てないような眼差しに畏れているロイも、そこはキリッと、余裕げに足を組んで悠然としている右京を見つめ返した。
「本気だ……。純一と会わせたい。お前……会う約束していないのか?」
「ロイ……」
その窓辺に……ヒラリと赤い花びらが一枚、緩やかに落ちていった。
「もうっ! なんなの! この古い家! 信じられない──!」
こちらは、ある島内にある一つの『別荘』だった。
人影もなく、隣家もなく……ひっそりとした小さな渚がついている小さなログハウス風の家。
「安心しろよ。こんな離島だけど、ちゃんとハウスクリーニングを出張させたんだからな」
その言葉に、再度ムスッとしたのは……金髪の美しい女性だった。
そして、冷たく言い放った男性も……金髪のスーツ姿の男性。
彼は、その小さなプライベートビーチの波打ち際に、クルーザーを停泊させている所だった。
「うん……綺麗になっている」
「アリス、中は綺麗だぞ」
先に渚側にある勝手口に向かい、家の中を確かめているのは『ボス』。
中の様子に満足しているようだ。
そして、ふてくされている彼女を呆れたように呼び寄せているのは栗毛の男性。
男性は皆、黒いスーツ姿。
彼女は……リゾート風のひらひらとした黒いワンピースだった。
「なによ! 南の島っていうから来たのに、これじゃ、無人島よ!」
アリスは毎度の如く、キンキンとまくし立てた。
それでも、いつもアリスの奇声にも涼しい顔をしている『ジュン』の所へ行こうとして、アリスは小さな渚を駆けだした。
……が、買ってもらったばかりのフェラガモのサンダルが砂にもつれて、思いっきり転んだ!
「もうっ! なんなのよ!!」
毎度の騒々しさに、純一の横にいるエドは顔をしかめ……転んだアリスの後ろでクルーザーを停めて降りてきたジュールはツンとしている。
そして……彼女の『ご主人様』は……。
「何をしているんだ。ちゃんと気を付けていれば、転ぶはずがない」
「……だって……」
もう、顔を上げるとそこにいて……手を差し伸べてくれていた。
「──約束は忘れてないだろうな……」
「分かっているわ。出歩けないし、家の中でおとなしくしているって事でしょう? トウキョウでも沢山買い物……つきあってくれたし」
「そういうことだ。たとえ、この庭とも言えるビーチでも騒がない事だ」
「……」
差し伸べてくれている手先は優しいのに……その約束の念を押す顔と言葉はとても厳しく、いつもの彼らしい口調だった。
「うん……分かっているわ」
移動時間がとても長かった為に、アリスはちょとくたびれた様子で、純一の手を借りて立ち上がった。
──ゴゥーーー!──
「!」
一瞬だった……!
そんな轟音が……アリスの頭上を駆け抜けていった!
「……ビーストームはこの時間は飛んでいないでしょうね」
ジュールが何か……日本語で、純一に向かって囁いた!
(ビーストーム?)
そんな英単語だけ聞き取れた。
──ゴゥーー!──
また! 横切っているのは戦闘機だ!
『この男、覚えておけよ』
『なにか軍で悪い事でもしている人?』
『……俺の今回のターゲットだ』
半月前……ボウソウという半島にあるホテルで交わした純一とのやりとり。
そのターゲットは『軍人の男』だった。
(戦闘機……! じゃぁ……本当に軍が近いのね!)
アリスの頭の中──急にピッとした緊張が走った。
そして……ふと気が付くと、純一もジュールもエドも……空を見上げている。
ジュールに至っては、双眼鏡まで取り出したぐらいだ。
──ゴウゥゥゥ……──
何もかもを呑み込んでいきそうな轟音が再び上空を切ってゆく。
「やはり……違いますね尾翼にはパンサーが。蜂ではないようで……」
「そうか……」
ジュールがニコリと囁くと、それを聞き届けた純一はフッと吹っ切れたように別荘へと歩き出した。
そして……また轟音が上空を横切っていても、もう、見上げる事はなかった。
(ついに……来たわ! そうよ……家の感じなんてどうだっていいのよ!)
ここ数日、アリスは眠れない夜を過ごしていた。
この離島に来る日を心待ちにしていた。
先ほど、あんな風にいつ通りに騒いだのも……『いつも通りのどうしようもない子猫』と見せかけるため。
内心は……もう、純一の仕草ひとつ、言葉ひとつ、表情ひとつが気になってしょうがないが、それを隠すために騒いでいるのだ。
(何故……戦闘機を気にするの?)
アリスが見たところ、見せてもらった『サワムラ』とかいう男の経歴はパイロットではなかったではないか?
(本当に……義妹に会えるのかしら?)
溜め息をつきながら……アリスは入ってきた小さな入り江を振り返る。
アクアマリンの海。
珊瑚礁……そして、ちょっとごつくて低い崖。
遠目に、島が見えた。
戦闘機がやってきた方向だった。
その島は晴天の青空の中……白い雲の向こうだった……。
ちょっとまぶしくて、アリスは青い目を細め、手でかざし……見据えるだけしか今は出来ない。
これから……何が起きるかも解らないけど、ここに来た。