壮大な波の音が聞こえるバルコニー。
オーシャンビューのスイートルームのリビングで、アリスは子猫二匹の世話をしていると、夕食後の姿のまま、ジャケットを脱いで煙草を吸っている彼の姿がそこにあった。
すっぽりと闇に包まれた白浜。
結構、波が大きい。
数日前──この部屋に入って、明るくて大きなバルコニーにアリスは大感激。
真っ先に、そのバルコニーに飛び出した。
その時……後ろにそっとついてきた彼に尋ねた。
『この海の向こうは何処になるの? 私達のイタリアはある?』
またそんな物知らずな事を呟くと、純一は顔をしかめたが、直ぐに優しく教えてくれる。
『イタリアはない。この先は南半球で、オーストラリアだな──』
『なんにもないの?』
『グアムとかインドネシアとか……ああ、まだ日本領域の島が幾つか……』
そこで彼が、言葉を濁したように聞こえた。
『島があるの? 南の島みたいな?』
『そうだな……』
『ふぅん。ジャポンにもそんな所があるの』
『ああ──』
今、その時に二人で眺めた『南』をジュンは一人で見据えていた。
彼が見ようとしている『南』に何かがあるかのように、彼が結構、長い間そこを動かない。
そして、アリスも声をかけられなかった。
そんな何も見えない海に……彼が何かを求めているようで──。
──プルル──! プルル──!──
珍しく部屋の電話が鳴った。
ホテル側からの連絡は全てジュール達の泊まり部屋に入るようになっているのに……。
バルコニーにいた純一も一時、首を傾げたがゆったりとした歩みで向かって行く。
「はい……」
彼の低い声。
「なんだ、ジュールか。え? ああ……構わないが?」
それだけ言うと、純一は受話器を置いた。
「なぁに? ジュールだったの?」
「ああ、今、帰ってきたが話があるとの事だ。隣の部屋に行って来る」
「そう……解ったわ」
アリスは『別にここでも構わないのに……』と、思った。
自分に知られたくない事なら、『日本語』で言えば良いのだから。
──バタン──
純一がドアを閉めた音──。
「……」
アリスは暫し、考えて……
「ごめんね? ちょっとだけお利口さんにするのよ?」
……『サッチとレイ』を両方胸に抱き上げて、立ち上がる──!
なんだか『そんな予感』がしたのだ。
──バタン!──
アリスも部屋を飛び出した!
・・・◇・◇・◇・・・
「なんだ、話とは……」
純一が、隣の部下泊まり部屋に姿を現す。
部下二人──エドは窓辺で規律正しく純一を迎える格好でいたが、ジュールは今帰ってきたばかりなのか、リビングのソファーでジャケットを脱いだ所だった。
「エド、エスプレッソ」
ジュールは後輩に指示を出す。
エドはやや緊張した面もちで、素直にこの部屋に備え付けられているキッチンへと向かって行く。
「どうぞ……おかけ下さいませ」
ジュールも無表情。
純一をソファーへと促した。
純一も素直にソファーにゆったりと腰を落とした。
「お前、随分と忙しそうだな?」
「ええ……お陰様で」
ジュールは微笑まなかった。
そして、気だるそうにジュールも腰をかける。
「大切なお話があります。お聞き下さいませ──。まず、こちらを……」
「なんだ……?」
ジュールが大きめの茶封筒を純一に差し出した。
「ご確認下さい──」
ジュールの硬い表情に促されつつも、純一は訝しく首を傾げながら開けてみる。
「!?」
純一が一瞬息を止める──。
すると、ひとつ溜息をついて……その出した書類をしまおうとしたのだ。
「最後まで、ご確認いただけますか?」
「その必要はない。なんだ……お前はこんな事に奔走していたのか?」
純一がザッとテーブルの上に、茶封筒を放った。
だが……部下の表情は一向に変化は見せずに純一を真っ直ぐに見つめるだけ。
「こんな事、今更調べてどうなんだ? とっくに一年前に調べたではないか?」
「ええ。おおざっぱに──。『彼』の経歴と軍内の評判と家庭環境のみ……」
「……」
「今度は彼の『プライベート』の軌跡と、お嬢様とのお付き合いの軌跡をお調べしました」
「余計な事を──」
「余計? それは何故、余計なのですか?」
ジュールは妙に真剣に突っかかってくる。
純一も、そんな妙に力んでいるジュールを見下ろした。
「調べても、調べなくとも……同じ事だ」
「見てみないと解らないと思いますが──」
ジュールは溜息をつきながら……放られた封筒を手にしてもう一度差し出した。
「いらん──」
それを純一が手で払い除ける。
「本当に宜しいのですか?」
ジュールはただ淡々としたまま、もう一度、純一に差し向けた。
「こんな無駄なことに部員を使ったのか。バカモノ」
「調べるに値しない『男』だと思っていらっしゃる──」
「ああ」
「随分な自信ですね──」
ジュールがそこは歯ぎしりをしたように、ギリッと頬を歪めたのだ。
「……お前、俺をからかっているのか?」
「どう思われても構いませんが? 私はお調べして『正解だった』と思いましたよ」
徐々にジュールの眼差しが、純一を突き刺してくる。
彼の眼差しは、純一に挑んでいるかのように──。
「……」
純一は、大きなクッションに頬杖……足を組んで暫く黙り込む。
「エド──。まだか……」
エドのエスプレッソを純一は待っていた。
「ただいま──」
キッチンにいたエドは、純一が振り返るとハッとしたように動き始めた。
先輩が勝手にした事をボスがどう受け止めるのか……ハラハラしているようだった。
エドはトレイにカップをふたつ用意して、サッとリビングに戻ってくる。
ところが──。
「──」
エドが玄関へ続く廊下へと、視線を馳せたのだ。
「……いるな」
「ええ、先程から──」
そこは純一とジュールも呆れながら、揃って溜息をついた。
「日本語だから、解りませんでしょう」
「……」
だが純一は、なにやら考え込んでしまったようだ。
エドも何事もないようにして、純一とジュールの前に硬い面もちでカップを置いた。
「エド──部屋に連れ戻してくれ。俺が帰るまで付き添って欲しいのだが──」
「かしこまりました──」
エドが一礼をして、純一の指示通りに外に出ていった。
『うーん。話し声は聞こえるけど?』
アリスはドア前にしゃがんで耳を引っ付けていたのだが──。
「ミャウ〜」
「ミャーウ」
「しっ! 皆、耳が良いのよ? 部屋に、おいてけぼりにしちゃうからね!」
アリスは胸の中の黒子猫二匹を睨み付けた。
だが──。
──カチャ……──
ドアが開いて、アリスはビックリ──! 後ろに尻餅をついてしまった!
「お前。盗み聞きするならもっとマシに出来ないのか? バレバレだぞ」
目の前には、ネクタイ姿のエドが、呆れた眼差しでアリスを見下ろしていた。
「……無駄な抵抗だったわね」
アリスは『チッ』と、密かに舌打ちをしてぼやいた。
「ボスの命令だ。部屋に戻るぞ──」
廊下に座り込んでいるアリスの腕をエドが掴みあげた。
アリスも抵抗する気はない。
気付かれなければ……聞けるところまでという心積もりだったから、素直に立ち上がった。
「私……解っているんだから」
子猫達を胸に抱きしめて、アリスは渋々エドの後をついて隣部屋へ向かう。
「そうか」
エドの素っ気ない受け答え。
彼に、部屋に押し込められた。
彼まで部屋に入って、出ていこうとしない。
「何故? 戻らないの?」
「ボスの命令だ」
「どうせ日本語でしょう? 私には解らないのに。それでもああしたかったの……」
「……」
「それでも聞かれたくない事がなんだか解っているんだから……」
アリスは猫達の頭に顔を埋めて、俯いた──。
「解るときはやってくるし、解らない時は、それで良いと思う──」
エドはそれだけ呟くと、アリスから離れるようにキッチンへと行ってしまった。
「カフェオレでいいか?」
「ううん──。マティーニ……が飲みたい」
「かしこまりました。マドモアゼル──」
エドは無表情にキッチンに籠もってしまったが、アリスにはその気遣いは充分通じていた……。
そしてまだ、こちらの兄貴と弟分は、切り込むような冷気漂う『眼差し』だけの攻防戦を続けていた。
エドがいなくなった事で、一気にお互いの冷静に保っていた顔に色が灯る。
「ボス──。余計な事と私も解っておりましたよ。今までは……」
「それが、なんだここへ来て……。日本に来ただけで充分じゃないか?」
「ボス……明日は皐月様の命日ですが……今年は如何されるおつもりで?」
「別に? これと言って何をしようだなんて予定は立てていない」
「では? 何のために、私達を付き合わせてまでの長期滞在を? こういう事だったのではないのですか?」
ジュールは茶封筒を、今度は思いっきり純一の手前に投げつけた。
それはもう部下としてでなく、長年の付き合いがある『兄貴』への態度だった。
そして純一はもう一度、その封筒をジュールに投げ返した。
「解っているなら、俺の好きにさせろ」
「いつ動くおつもりだったのですか? 『手遅れ』という事、もう一度されるおつもりで?」
「!」
『手遅れ』の一言に、純一の片眉がピクリと反応。
「何が言いたい」
「あなたの為に『衝撃』を与えないようにと思って? 書類形式にしたのになぁ? そんなに私の口から『言わせたい』のなら……もう、言いますけど? エドもいないし? 私の前ならどんなに『驚いても』遠慮はいらないでしょう? 一人でこっそり驚く『チャンス』を与えたつもりなのになぁ?」
ジュールが生意気に腕を組んで、ニヤリと勝ち誇った微笑みを浮かべる。
「……」
途端に純一が黙り込み、ジュールをジッと見つめるだけ。
「解ったぞ──『何が起きたのか』 やっぱりな、思った通りの展開だ」
純一が悔しそうにやっと、ジュールが差し出した書類を手にした。
「やはり──『予感』あっての来日でしたか……」
素直になった純一に、ジュールもやっと姿勢を正して、真顔で純一に尋ねた。
「……余計な事をお前達は考えなくて良い……」
「──『俺に従っていれば良い』──と、仰りたいのでしょう?」
「解っているなら、これ以上余計な事をするな」
「もどかしくて──」
「お前らしくない。大抵は他人事と傍観しているくせに」
「ボスの思い込みでしょ。そんなのは──」
「そうなのか?」
ジュールのツンとした顔を、純一が今更気が付いたように見上げたのだ。
「あなたはやっぱり鈍感かも」
「昔からな」
あっさり認めたので、ジュールは笑いたくなったが堪えた。
そう……本当は彼は自分がどんな人間か良く解っているのだ。
だけど……だからこそジュールはもどかしい。
彼は自分自身を解っていながら、一向に前に向こうとしない。
そして前を向かない自分の事も彼は良く解っている……。
そして自分がどれだけ馬鹿なことをしているかも解っている……。
ジュールの『もどかしい』は、彼がそこまで解っているくせに『馬鹿なまま』でいる事だった。
これでも『尊敬』もしている男なのだ。
だからこそ──耐え難い。
ジュールはやっと書類を開けた純一の様子を見守った。
「──屈折しているな。ま、誰でも若い時にはそれぐらいあるか……」
彼がどこの箇所を最初に確認したのか、ジュールにも直ぐに解った。
「客観的に見ればですね。あなたに言われちゃ彼が可哀想だ」
「出会う前は随分と荒れた時期もあったようだな? それに最初の女とは随分な別れ方だな」
それは純一も『予想外』だったのか、ガッカリしたように眉をひそめていた。
「女はまだフランス航空部隊におりまして。彼の過去の中で一番最悪の付き合いですね。業績も特にありません。讃えるなら横須賀から女性大尉としてフランスに転属した。これぐらいでしょう──。はっきりいって仕事も最低。恨みを抱えたまま、盲目にどん底を這ったまま。評判最悪でした──」
「妊婦を突き飛ばした? すごい執念だな」
「きっとお嬢様も恨まれている」
「始末がなっていない」
「あなたもね──」
ジュールの冷たく素っ気なく切り込む返答だが、純一はまったく気にしていない様子で続ける。
「その妊婦だった女性隊員とは親しき付き合いを続けているのか……。今は美容院経理勤務か……。そのオーナーともコイツは付き合っていたのか……」
「その最悪女大尉以外の女性とのその後は上手く付き合っておりまして。その後の彼女達は、彼のリードで明るき道を行き、そして友情もあるご様子。それからお嬢様も、先の任務後、顔合わせをしたようですね。部員を客として潜らせました。オーナーの腕はなかなかのようで……。マダムはつつがない結婚生活を続けてお幸せそうにご活躍中──」
「ふぅむ……」
純一はさらに先を目で追っている。
「ブラウンの娘とも和解したのか……」
「お嬢様にとっては、大きな収穫であったようです」
「あんなに避けていたのにな……。昔、俺も一目この子を見たことがある。明るくて、ませていて、それでいて奔放な少女という印象があるな……」
「あなたはパーティ体質ではなかったから、ご存じかどうか知りませんが。ブラウン嬢は皐月様を大変慕っているようで……」
「そうだったのか……。それでオチビと親しくなりたかった訳だな」
「お嬢様──ドレス、着たようですよ」
「──葉月が?」
純一がやっと、それらしく驚いた……。
「ええ……あなた以外にドレスを着せる人間がついに現れましたねぇ? ブラウン嬢もしかり? 彼もね──」
ジュールはニコリと微笑む。
純一はフンとした様子で目線は先を進めていた。
「しかし……パーティの途中で、パイロット同期生にいちゃもんを付けられて、お嬢様はいつもの如く、制服に着替えたようです。心よりと言うよりかは『ドレスを選んでくれた彼のため』のようでしたね」
「随分、細かく調べたな?」
さすがの純一も、そこまでは気にかけていなかったようで、急に感心し始める。
「ええ。フロリダ付近にいる部員を軍内カフェに潜らせました。あちらでも『話題』になったパーティだったようで、お嬢様がヴァイオリンを弾いたという話も聞こえたそうです。記憶に新しい所でしょう?」
「オチビが人前で? ヴァイオリン?」
純一はさらに眉をひそめた。
彼だけのヴァイオリニスト──。
彼がなによりも愛している一番の『姿』。
それを……他の者が目に出来るようになったのだ。
しかし……純一はそれだけで、特に変わった反応はしない。
ジュールは『もっと驚けよ』と内心思いつつ……彼が何を思ったのか……ちょっと解らなくて苛ついてきた。
でも──落ちついて最後まで純一に目を通させようと続ける。
「招待された隊員に近づいて、それとなく『噂を知りたい』という軽い感じでやらせましたよ。招待された隊員は皆、親切に教えてくれたとか? 心に残るほどのパーティだったようで」
「まさか──マイクには近づいていないだろうなぁ?」
「いいえ。あそこの秘書官はさすがで、当たり障りない程度しか口を割らないようで……。メンテ本部あたりに狙いを定めましたよ。それに『話題』になった様だったので、ある程度一般隊員もそれなりに耳にはしていたようですね。御園家がそれだけ注目されている証拠です」
「そうか──さすが、マイクだな。部下の教育も立派な物だ」
「──ですね。私も感心です。ご主人様のお供として安堵しております」
「もしかして……ブラウン嬢との『和解』だが……。葉月は喋ったのだろうか? 自分の事を……」
「私はそう見ております。この事はさすがに口を割らないでしょう。ブラウン嬢に近づくことは避けさせましたが、隔たりの原因はおそらく『女性としての在り方』で、すれ違っていたとボスもお解りだったのでしょう?」
「ああ……オチビも一時俺に嘆いていた時期はあったがね。フロリダを出てからは、彼女とも触れなくなったから忘れたようだったが──」
「しかも皐月様を慕っていたと言うならば、妹様であるお嬢様と親しくしたいのに、突っぱねられていた『理由』、『心情』──。しかも離婚をした夫はあの海野中佐ですよ? そこまで揃ってお嬢様と向き合わないまま終わらすなんて事をしたとしたら……ブラウン嬢もあのようなご性格、納得できなかったのでしょう? ご覧頂けましたか? ブラウン嬢は『彼』と繋がりを持ちたくて、職務的に突っ込んできて、それをお嬢様と彼が懐大きく受け入れていますでしょう? その後、海野中佐を含めて四人が仲むつまじくなった中で……ブラウン嬢だけ『真意』を知らないと言うのは不自然だと……私は見ましたが。その間に常にあったのは『彼』ですね──」
「うむ……」
「──彼、いったいどうやってあのお嬢様ふたりの仲を上手く取り持ったのでしょうね? そこまではさすがに解りませんが、パーティにしろ、供にした職務にしろ……。ブラウン嬢の良き変化は、この頃、フロリダ基地では評判上々のようで……」
──『彼は、お嬢様を前に進ませている。少しずつでも確実に……』──
ジュールはそう言いたかったが……。
純一はそこまで読み込んで、急に黙り込んだ。
言わずとも……この人ならもう解っていると思って、ジュールは口をつぐんだ。
そして最後の一枚に辿り着く──。
「結婚か……」
「はい。先日……エドが真一様からお聞きしたそうです」
「直ぐに報告しなかったのは、お前がこれをするために差し止めたのか」
「はい。お叱りにならないで下さい、エドの事は。私の事は〜」
そこでジュールは純一をからかうようにクスクスと笑いだしたのだが……
「解っている──お前は昔から嫌味な弟分だ」
「フフ……」
ジュールはそっと微笑んで、目を閉じた。
「ったく──」
そういうと純一はその封筒に書類をしまい込み、立ち上がった。
「ボス──」
ジュールは、そのまま立ちはだかる彼を見上げた。
「参考になった。ご苦労だったな──」
いつもの無表情な彼。
だが……いつも以上に『冷気』が漂っているようにもジュールには見える。
「お前──自分が『作戦』を立てるとき、どうする?」
「は?」
彼が前置きもなく脈絡ない事を尋ねてきたので、ジュールは首を傾げた。
「明日が無理でも今週中に数泊、日光へ行きたい」
「……明日は……しかし……」
「だから、言っているだろう。お前は作戦を立てるならどうするかと……。明日は皐月の命日。そんな事、誰でも知っている」
「──! ボス、あなた……!」
ジュールにもやっと解って、驚き立ち上がる。
「敵は今ピリピリしているだろうな。そこへ突っ込む馬鹿な事をお前は出来るか?」
「……それで!? 時期をずらすために? 長期滞在を?」
「──だとしたら? お前は俺をどう思う……」
純一が真っ向から、ジュールを試すように凄んできた。
「──本気? なのですね……?」
さすがのジュールもこれは予想外だった。
だけど──彼の『決意』をこれで見定めた!
「今は時期ではない。オチビの業務は今が一番大事だ。その邪魔もしたくない。それにあのマンションのセキュリティも、万全にロイとリッキーが整えているはずだ。そうでなくとも? 外す手だては色々あるが、ホプキンス夫妻の迷惑にはなりたくないから、マンションに近づかないつもりでいる事は……お前も解っているな?」
「そりゃ……勿論。ホプキンス夫妻でなければお構いなしでしょうがね?」
「あんな雑木林に囲まれた田舎マンションなんてムードがない」
「……この付近にあるホテル。よく使っておりましたよねぇ……。あなたとお嬢様、そこの浜辺で仲良く手を繋いじゃったりして」
ジュールはからかうように純一に笑いかけた。
すると……滅多になく彼が頬を染めたのだが、一瞬で……。
「まぁ……それがあって、私がこのあたりの土地を買い占めて、このホテルを企画、建築したんですけどね……。あなた達がゆっくりと過ごせるようにね……」
「……」
純一がそっと俯いた。
「それは礼を言う」
「いいえ……」
ジュールはそっと微笑んだ。
「解りました。私もお供しましょう──先ずは日光ですね?」
「ああ、アリスに日本をたっぷり堪能させたい。その次は能登に行きたい」
「アリスのネイルで思いついたのですか?」
「ああ……」
「宜しいでしょう。日光には私の系列で外国人向けの貸別荘がありますし、能登にもホテルを持っておりますから……」
「それで、この房総のこの部屋にも帰宅位置に戻ってこられるように……」
「ええ、勿論、押さえておきましょう」
「それから……」
「解っております。『父島』ですね?」
「ここは半月で出る。あとは父島でじっくりな……」
「ハウスクリーニングに清掃させておきます。あと交通手段も確保しておきましょう。ヘリとセスナで宜しいですか?」
「──『いつも通り』で良い──」
「父島へ移動しましたら、アリスが拗ねますよ。あそこでは閉じこもり生活を強いられるから」
「だから、先に豪勢に列島バカンスをする。出来れば京都も行きたい。それに……アリスもその内に父島へ行く意味を受け入れざる得なくなるだろう──」
「そこまで?……考えておきましょう」
ジュールはニッコリと微笑んだ。
さらにジュールは先読みにて提案する。
「ついでに……『小笠原関連』の制服、作業着、IDカード……。ぜーんぶ揃えさせていただきますよ? これだけ時間があれば充分、完璧に──」
「……張り切るな。まぁ……そこまで解っているなら安心した。動く前にお前とは『喧嘩』になるかと思ったがね……」
「なにをおっしゃいますやら? 私は『違う喧嘩』を想像しておりましたが、これで『意見一致』ですね?」
「珍しいことだ」
「あなたが、そういう考えを持ったことが珍しい──」
「なんだと?」
ジュールの始終嫌味なニッコリ顔に、純一が頬を引きつらせたがそれだけだった。
「? お前、なんだか楽しそうだな?」
純一は怪訝そうにジュールを見つめる。
「ええ……私も確かめたいですからね……」
ジュールはニッコリ。
『澤村隼人という男をね……』と一人心で呟いた。
純一はそのまま何事もなかったように、部下の部屋を出ていった。
ジュールは一人……笑顔を収める。
「なんだ……解っていたんだ」
少しばかり期待はずれだった。
しかし……ジュールが散々『煽り文句』でお尻を叩く前に、既に『心決めていた』事に……本心は驚きだった。
「やっぱり……俺はあの人にはまだ適わないかな……」
『おまけ付の箱』を開けた純一の決めた事に、満足はあったが……ちょっとした『悪戯心』は見事に粉砕されたようで、ジュールは微笑みながらも、グッタリとソファーに座り込んだ。
エドが入れてくれたエスプレッソは冷め始めていたが、それを一口。
開け放している窓から潮騒の音。
昔──無邪気な笑顔で兄貴の腕に引っ付きぱなしのあのマドモアゼル。
それを思い出していた。
「貴女──。胸の奥にしまっていた秘密の宝石箱。そこに誰にも見せずに隠していた大事な宝石……それを彼だけに、こっそり見せたのですね……」
そう思った。
彼女の小さくて白い両手に輝く黒曜石。
それを初めて……自分から『宝物』を見せてしまったのだと。
そして──その見せた彼の心に、ボスだけが持っていた青い宝石を作り上げてしまったのだ。
今は青い石がふたつ。
両名の男性の心に転がっている。
さて……どちらが落とすのだろう?
ジュールの脳裏に、そんな事が浮かんだ。
「ああ……チョコレートが食べたくなってきたな……」
昔、彼女がくれた甘い味。
そんな事……急に恋しく思い出していた──。
・・・◇・◇・◇・・・
「エド──。待たせたな」
「お帰りなさいませ……」
純一が部屋に戻ると、金髪の子猫はふてくされた様子で、ソファーにてカクテルグラスを傾けていた。
「お前も、もういいぞ」
「は……」
エドが会釈をして出ていこうとした。
「エド……」
「はい」
「ジュールの指示に従ってくれ──」
「……」
エドは困惑した顔を一瞬したのだが──
「イエッサー」
それだけいうと、静かにこの部屋を去っていった。
純一は茶封筒を手に、子猫アリスの側へと歩み寄る。
彼女の前に座り込んだ。
「エドが作ってくれたのか」
「飲まなくちゃやってられないわよ」
気後れすることなく拗ねているアリスに、純一はそっと微笑んだ。
「ジュールが日光行きを賛成してくれた。数日中に出かけるぞ」
「あっそう──」
アリスの手元にはオリーブをさしていた楊枝が、二、三本残っている。
「そんなドライなカクテルを立て続けに?」
純一がフッとアリスを見上げた。
頬は既に赤くなっているのだろう? アリス自身ももの凄く身体が熱くなっているのが分かる。
「うるさいわね」
「なんだ。あんなに日光行きを喜んでいたのにな……。ついでだが、そのお前の爪のような工芸品がある北の都にも連れて行ってやる予定だ」
「もう……何処でも良い」
アリスは最後の一滴を飲み干して、グッタリとグラスをテーブルに置いた。
「もう一杯ご所望なら……俺が作るが?」
「……もう、いい」
アリスはソファーにそっと足を乗せた。
そしてクッションを抱えて、頬を埋める。
ワインも飲んだけど、酔いはしなかった。
(あの幸せは短かったわ……)
アリスはそっと泣きそうな瞳を閉じた。
ワインには酔わなかったけど、彼に酔えていたのに──。
それがアッという間に終わった。
(一緒にジュールに駄々こねる約束だったのに……)
ジュールがきつく反対するところを、アリスを擁護するように純一が味方になってくれる。
それを楽しみにして、夕食から戻ってきたのに──。
(ジュンのバカ……)
結局、一人でジュールを説得してしまったのだから……。
ソファーに横になってふてくされているアリスに、純一はフッと溜息をもらしただけ。
彼の手には茶封筒──。
それを彼が開けて、数枚の紙束を手にした。
アリスも、おもむろにそれを眺める。
すると──?
「気になるか? 見せてやる」
別に気になんてしていないのに──。
純一はその紙束の一番上の一枚を手にして、サッと空を滑らせアリスの前に送ってきた。
「……どうせ、私が見ても分からない仕事物だと思ってからかっているのよ」
「お前、英語は解るだろう? だったら、読める」
「──?」
純一の不敵な微笑みに、アリスは顔を上げてその紙切れを見下ろした。
軍服を着た男性の写真が一枚──。
どうやら『経歴書』の様だった。
いわれるまま手にしてみた。
「誰? この人……」
黒髪の東洋人。
どこにでもいるようなよく見る顔。
だけど? アリスはふと気になって……その男性の顔写真と純一の顔を並べてみた。
「──?」
別段……似ているわけでもないのに……なんだか、似ているようにも見える?
同じ東洋人だから??
その男性に妙な違和感が湧かない?
目の大きさなんて、純一に負けないほど……黒くて大きな瞳の男性。
「俺の『今回』のターゲットだ」
純一がニヤリと微笑んだ。
アリスはビックリしてその紙切れを手から落としそうになる!
「え!? 今回は……『暗殺』も請け負ってきたわけ!?」
「フフ……どうかな?」
彼は益々楽しそうに、ニヤリと微笑んだのだ。
(そ、そ、そんな……血なまぐさい仕事の話……初めてしてくれた!?)
だから……ドアで盗み聞きしていた所を気付かれてサッと遠ざけられたのだろうか?
アリスはフッと酔いが醒めるようだった!