・・Ocean Bright・・ ◆黒猫の影◆

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4.ご主人様と……

「あはん♪ エドのおかげで楽しみが増えたわ」

 ゆったりとした大型ソファーで、アリスはエドが持ってきた美容会社のプリントを手にご満悦中、ご機嫌だった。

 足元に赤いリボンをした『サッチ』が丸まって寝ている。
アリスの膝の上に青いリボンをした『レイ』は、ゴロゴロと寝転がって甘えていた。

「……」
「ジュン?」

 ご主人様の『ボス』は、大きな窓辺に立ち煙草を口にくわえている。
 彼は……目の前に見える『フジ』とかいう日本一高い山と、『アシノコ』とかいう湖を眺めていた。

 テーブルの上には、細長い白い箱。
 先程、彼が部下の泊まり部屋から帰ってきた時に、溜息をつきながら、無造作に置いた物だった。

 いつものアリスなら……『私へのプレゼント!?』と、言われもしないうちに飛びつくのだが……どうも、それを置いた時の彼の様子がとても重く見えたので、知らぬ振りをしてしまったのだ。

 エドが部屋を出ていった後……それから彼はずっと窓辺で無口になって考え込んだまま。
 アリスの『楽しみ〜♪』とか『早くやりたーい』とかいう騒がしさも、聞こえないかのようだった。

「これ! 開けてもいい?」

 アリスはなんだか無性に腹が立ってきて、ついにその白い箱に興味示した。

「……どうぞ」

 背を向けたまま彼がそう言ったので、アリスは逆にビックリ。
 箱に伸ばした手を止めてしまう。

「本当に開けちゃうから」
(まさか……義妹への贈り物?)

 そう思えてきた。
 それを見透かしたように彼が一言。

「男物だ」
「え? 本当にぃー?」

 アリスは彼が見てはいないが、疑わしい目を向ける。

「ボウズへ渡すように頼んだが、エドが持って帰ってきた」
「!!」

 そんな事、サラッと言われてアリスは硬直した!

「そ、そうだったの……」
「ああ……」

(しまったぁー)

 アリスは朝方、純一が『出かける』と言った時に、ついていかなかった事を、初めて後悔した!
 彼等が揃って、何処かに出かける。
 それがなんであったとしても、アリスは一人で色々と調べたい事があったから!
 ワザと疲れて起きられない振りをして、彼等を送り出したのだ。

 叱られると分かっていて、『彼等』のノートパソコン等を触った。
 だけど……どこもかしこも厳重になっていて、アリスが見ても解らない表計算とか、データーとか仕事関係の物ばかり。

 これは一番恐ろしかったのだが、情報把握の量は半端じゃない『ジュール』の機材に、一番興味があったし期待した。
 だが……やっぱりジュールのパソコンはただものじゃない。
 あちこちロックされていて、何でもかんでも『パスワード・パスワード』と出てくる始末。
 結局、ただのお留守番で終わった──。

「ボウズの母親の墓参りに行ってきたのだが……」
(ああん! そういう事だったの!?)

 アリスは拳で、自分の頭をポカポカと叩く。
 背を向けている彼にはそんな姿は見えていない。

「もうすぐ命日なんでね……」

(それで!? 毎年……この時期に『お参り』に行っていたって事!?)

 ある程度……『九月隠密旅行』の理由がこれで判った。
 だけど──それで息子の母親の墓参りをして、息子に会う。
 それだけなら……もう、これで純一の『隠密旅行』の用事は終わったはず。
 なのに……今回は長期滞在を、彼は希望している

『何故?』

 アリスの脳裏を過ぎる物は、一つしかない!

(義妹と会うつもりなのね!?)

 解っていたが……こうして徐々に明確になりそうになるとなんだか気が滅入ってくる。
 いや──。

(この私が滅入る!?)

 『とんでもない!』と、アリスはシャンと背筋を伸ばす。

 滅入った時点で『負けている』という事である。
 アリスは思うまま、自信を持って今後もこの滞在を堪能し、成功させれる事を考えればよいのだ!

(そうそう!)

 アリスは自分で自分を励ましながら、また、エドが持ってきた美容の為のプリントを眺める。
 純一が煙草の火を消すために、ソファーに戻ってきた。

「なんだ? 開けないのか──」
「男物なんて興味ないし」

 アリスはツンと彼の言葉をはね除ける。

「男物だと信じたのか?」

 アリスは、ニヤリと微笑んでいる意地悪なご主人様に、片眉をピクリと動かしたが……。

「もう興味ないわ」
「俺のボウズにも──?」
「秘密主義の『おじさん』の相手なんて、いつまでもしているのは時間の無駄だから」
「あはは!」

 アリスの口悪い言い分にも、純一は大笑いをしただけ。
 でも……『いつもの事』であるので、アリスはさらにツンとそっぽを向く。
 その内に、純一がそっとアリスの横へと腰をかける。

「お前は……俺のボウズが幾つぐらいの子供か分かるか?」

 アリスの膝の上で丸まって眠り始めていた『レイ』を純一がそっと手にした。
 彼は抱き上げた『レイ』を鼻先にくっつけて、変に穏やかな顔になる。

「さぁ──?」

 その顔が……気になる。
 それにそんな事を尋ねる彼も珍しく、アリスはそうとしか反応が出来なかった。

「興味ないか」

 その一言に、アリスはムッとした。
 『興味ある』と解っているくせに!
 そういってアリスに『興味がある』という反応を呼び起こそうとしているし!
 『興味ない』と言えば、『もう言わなくてもいい』という事にさせられる!
 非常に……『いけすかない』やり口ではないか!?

「さぁね? 子供は子供でしょ? 何歳でも関係ないわよ」
「17歳──リセ、ハイスクールの年頃だ」
「え!?」

 純一がスッパリと答えたので、アリスはおののいた!
 それ以上に──! アリスの想像を絶する年齢で、これも驚いた!

 だって! 純一は今年39歳──まだ若い男性になるだろう?
 アリスの想像では、ぜいぜいまだ10歳程度のオチビちゃんぐらいだと思っていたのだ!
……と言う事は? アリスは指折り数えてみる──。

「え!? 22歳の時に父親になったの!?」
「まぁ……そういう事だな」
(うっそ!?)

 そのボウズ……純一よりもアリスと歳が近いじゃないか!?
 8歳ぐらいしか離れていない!?

「母親は……20歳だった」

 彼がフッと眼差しを伏せて、手に撫でていた『レイ』をサッと床に解き放った。

「……若かったのね。二人とも……」
「ああ、若かった。……ボウズは俺の弟が育てた」
「弟!? ジュン……弟がいるの!?」

 これにもビックリ仰天……! アリスは思わず、横にいる純一から後ずさった。

「身体が弱く……若くして病死した」
「え……」

 彼がまた……眼差しを哀しそうに伏せる。

「そ、そうだったの……」
「ともかく──弟が亡くなって暫くは両親が手元に置いていたが、義妹が社会に出ていたので、預ける事にした」
「それは……ジュンが頼んだの?」
「ああ……俺は両親に会える状態ではなかったが、『知り合い』に頼んでな……」
「ジュンが……それを望んだの?」
「そうだ、俺から望んだ。ボウズも望んでいたと思ったからな──」
「ママンの……妹だから?」
「そうなのだろうな? ボウズは非常に慕っている様子で、義妹が仕事でなかなか顔を見せないと、よく拗ねては駄々をこねていたと聞かされているな」
「そ、そうだったの……」

「ボウズは……医者を目指している。俺の弟は軍医だった。弟からの良き影響だと俺は思っている」

 そこは純一は嬉しそうに……そして満足そうに微笑んだのだ。
 父親の顔だと……アリスは思った。

「お医者の卵? それでエドを?」
「話が合う日がやってくるだろうし、エドなら解るだろうからな」
「そう……弟さん、ドクターだったの──」

 見えてこなかった彼の『過去』
 アリスも、彼に同調するようにフッと眼差しを伏せた。

どうして彼が闇世界に身を置いて、素性を隠して表事業を部員を使って動かしているかは……解らない。

『両親に会える状態じゃなかった──』

 これも少し、引っかかる。
 弟も亡くなって、息子を預けていたジュンの両親。
 健在なのに会えない訳はなんなのだろう?
 それも聞きたいけど……正直、これ以上を聞くのはアリスは怖くなった。
 そして──彼も口を閉ざした。
 重くなった空気を変えようと、アリスはそれらしく話題を切り替える。

「どんな弟さん? ジュンに似ているの?」
「周りの人間は顔は似ているが、中身は違うと良く言っていた」
「お医者さんなら、頭が良くて? 優しいのかしら?」

 エドは優しくないけど……と、アリスは胸の奥で呟く。

「そうだな。気だてがよい弟だったな。人に好かれる性格だった」
「あは♪ ホント。ジュンと反対だわ!」

 可笑しそうに笑ったアリスを見て、純一も楽しそうに微笑みを浮かべた。

「ああ……ただし、こうと決めた事には一歩も譲らない頑固な所があったな……」
「ふぅん? それはジュンと似ているんじゃないの?」
「そうか? 子猫がそういうなら……そうかもな」

 彼がニコリと微笑む。
 アリスは知っている。
 彼は時々、突然そんな風に『奥底』を垣間見せる。
 その時にアリスがすんなりと受け答えをすると、とても嬉しそうに微笑むのだ。
 きっと……ほんの一瞬、気を緩めている珍しいひとときなのだ。今──。

 

 アリスは目の前にある箱をそっと手に取った。

「いらないって言われたの?」
「ああ」
「本当は欲しかったと思うわ。私──。ただ……代理でエドが届けに来たのが気に入らなかっただけだと思うわ」

 九月に毎年……共通の女性の命日を挟んで、父子が接触する機会。
 それがアリスには、毎年、なんらかの方法でこれを届けていたのが今解ったから──。
 だから……パパに会えるのを期待していたボウズちゃんの心が、透けて見えたような気がしたので、そう言ってみた。

「エドもそんな事を言いたそうな顔だったな……」

 途端に純一はいつもの素っ気ない顔になる。
 クッションに頬杖をついて、アリスから視線を逸らした。

「私だったら……やっぱりパパが持ってきてくれたら、とっても嬉しい」

 白い箱を撫でながら、アリスが呟くと……頬にかかっている金髪を一束……彼が指に絡めてそっと見下ろしていた。

「お前がそういう事をいうとはな……」
「私、この子の気持ち、ジュンより解るつもりよ? だって……私は孤児だもの。パパとママンはずっと昔に私を一人置いて天国へ行ってしまったんだから……」
「……そうだったな」
「たとえ、離れていなくちゃいけないジュンなりの訳があっても、生きているなら……『会える時』は『会って欲しい』と思うのが素直な気持ちだと思うわ。ただ……反抗しているだけよ……行ってあげてよ、ジュン」

 アリスはその白い箱を、スッと純一に差し出した。
 ちょっとだけ……アリスはそんな事を言った自分を自分で恨めしく思った。

 だって……ジュンがこれを『ボウズ』に届けに行くというのは、預けている『義妹』の所にも行くことを意味していることを、アリスは解っていたから──。

 でも……アリスはそんな女の気持ちより、ボウズちゃんの方がずっと痛々しいと、素直に思ったのだ。
 だから……。

 そして──彼がすっと、その箱を受け取った。

「そうだな……」

 彼はフッと微笑むと、そのまま黒いベストの内ポケットへとしまった。
 そして、スッと立ち上がり、また……窓辺へとたたずむ。
 彼の細長い背中。
 アリスはその細い背中をジッと見つめる。
 黙って彼が景色ばかりを眺めて思っている事は……息子の事。

(ジュンにも怖い物があるの?)

 強靱な彼しか見たことがない。
 なのに何故なんだろう?
 近頃……ごくたまにではあるが、彼が弱々しく見えて仕方がない時がある。
 この九月の旅行を『ファミリーで行こう』と皆を驚かせたあの朝食の日から……時々。
 アリスは青い瞳で彼から視線は外さない。
 そんなジュンはジュンらしくないけど……愛おしかった。

 そんな彼も見逃さず……一時も離れず見ていたい──。

 

 二時間後、ジュールが戻ってきた様で、この緑に包まれた山間のホテルを出ることに。

「静かで空気が綺麗な所だったわね。湖がキラキラで、線が綺麗な山が見られて。フジって、線が綺麗──。緩やかで優しい感じがするわ」

 今度はしとやかに感想を述べると、一緒にベンツに乗り込んだ男三人が、なぜだか、そろって穏やかに微笑んでくれた。

「ハコネ、ハコネね?」

 アリスは想い出に残るように、一生懸命、唱えてみる。

 窓に過ぎる緑を見上げながら、濃い色彩を思わすジャポンリゾートを後にする。
 次に向かうのは『ボウソウ』とかいう半島だと言う事だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 次に連れて行かれたのは、またトウキョウを越えて……白浜が広がる海辺のホテルだった。

 今度はゆったりとしたスイートルームでアリスは満足!
 ジュール傘下のこのホテルは『会員制』。
 ざわめき人が行き交うばかりのホテルでないのが良いところ。
 出会う人も少なく、同じように宿泊しているのは品格高い紳士に夫人ばかりで、外国人も他にいた。
 アリスが出歩いても、違和感もなく開放感はある。

 ただし……『会話は社交辞令程度』とジュンにもジュールにも厳しく釘を差されている。
 違う名前と何処からどうして誰と同伴で来たかも……。
 そんな会話の『準備』もバカンスの度に彼等が用意し施され、アリスはそれに絶対に従っている。

 ファミリーの三人男衆は相変わらず、お仕事ばかり──。
 ジュールに至っては『行って参ります』、『ただいま戻りました』の連続だった。
 エドは純一のアシストに徹しつつ、彼も時折、ノートパソコンを開いていた。

 でも、今度の会員制ホテルは退屈はしなかった。
 外には海、ホテルが所有するプライベートビーチで人は少ないし、ゆったりとくつろげるデッキが浜辺にあった。
 そしてエドが手配してくれたエステもしてもらったし、ネイルもしてもらった。

 

「エド! 髪も綺麗にしたいの! なんとかしてよ!」
「俺で良いなら、今夜、してやる。もう出張は勘弁してくれ」
「いいわよ? 私、エドの腕を馬鹿にしたことある?」

 具合良く、美容の腕も持つエドに髪の手入れは良くお願いしていたから──。
 エドは、いつも渋々了解だが、その日の夕方に純一が見える場所で、髪をカットしてセットまでしてくれた。

 今から、純一と供に『ディナーホール』に出かけるのだ。
 彼が人前にスーツを着込んで『出る』と言ったのは、来日後、初めて──。
 それまでは、出来た料理は部下の二人が部屋まで運ぶようにしていたから……。

『お前も息が詰まるだろう? 俺もそろそろ引きこもっているのはウンザリしてきた』

 彼がそう言って、上等のスーツを取りだしたのだ。

『さぁ……やっと出番だ。上等に着飾れよ』

 それで、エドが夕食前に、綺麗に髪をセットしてくれたのだ。

 

「みってー♪ どぉん?」

 真っ黒なロングドレスは縁にはラインストーンをきらりと沿わせているシックなデザイン。
 長い裾はアリスの膝から二枚に別れて、白い足がスラリと見え隠れする。
 銀色のラメショール。
 出かける前に純一と見立てたオートクチュールだ。
 そして、エドがセットしてくれた『巻き毛ヘア』は、60年代の女優をイメージしてのセット。

「なにかの魔法使いみたいだな」

 純一がカフスボタンを付けながら、ポツリと呟いた感想にアリスは膨れた。
 エドまで笑っているではないか?

「では、今宵の女優様、参ろうか?」

 上等の黒スーツを着込んだ彼がスッと片腕をアリスに向ける。

「うふふ♪」

 アリスは間を置かずに、スッと純一が向けた腕に掴まった。

 颯爽とした長身の彼が、この時は『一等の紳士』になってくれる。
 彼の顔は、昨日から無精ヒゲがない。
 何故剃ったかは知らないが、そんな事はイタリアの隠れ家でも時々あることで気にはしなかった。
 そのつるりとした彼の顔は、とても普段のうさんくさい顔ではなくて、品良く威厳もある何処から見ても、アリスもうっとりする『精悍な実業家風』だった。

 

「いってらっしゃいませ」

 エドが見送ってくれる。

(彼等も一緒に、お食事が出来たら楽しいのに──)

 外に出かけると、彼等の『部下』としての割り切りは半端ではなかった。
 部屋も別だし、食事も二人だけで質素に済ませている様子。
 絶対的に『ボス優先』。
 どのバカンス先でも気軽な場所へ行けば、一緒に取ることもあったが、今回はまだない。
 イタリアの隠れ家での『団らん』は、外出すると途端に消え失せるのが、アリスはちょっと不満に思うこともあった。

「おっと、エド? 今回、ジュールが用意した俺の『肩書き』だが……」
「アメリカの日系三世で、近頃急に業績を上げた不動産王でしたっけ?」
「今度は日系三世か……」

 純一がちょっと面倒くさそうに、とぼけた顔をした。
 エドに見送られて、二人は優雅にディナーホールへと向かった。

 

「ハコネでは、イタリアで成功した中国人だったわね?」
「ああ……確か、ここでは『フジタ』さんになるらしいな俺は」
「……なんだかね? 私も夫人になったり、知り合いの妹になったり、色々だけど?」

 そうしてジュールは、大元オーナーであるが部員にオーナーを任せているので、いつだって『特別招待客』の振りをして潜り込むらしいのだ。

 しかし……どういう手を使っているか知らないが、ホテル側の対応は非常に緊張した様子。
 それで純一がうろうろしないのも、部屋で食事を取るのもアリスは心得ていたが……。
 とにかく今夜は『フルコース』のお食事で、アリスもウキウキだった。

 

「それが新鋭ネイリストが施した爪か?」

 食事が始まる前……、ワインを注文したばかりのジュンがアリスの爪を見て尋ねた。

「そうよ。綺麗でしょ? ジャポン風に……と、エドに通訳してもらって頼んだの」

 アリスの爪は漆黒をベースに、サンプルにあったとおりにサクラを金色に描いてもらった。

「芸術的だな」
「うん! 私も気に入ったの。それに……ちょっとずつ……ジャポン風景のニュアンスも伝わりつつあるところ」
「そうか……」

「でも、ジャポンってエドが雑誌で見せてくれた木造の館ばかりかと思っていたけど」
「戦後はアメリカの参入で、だいぶ変わったからな」
「え? アメリカとジャポンって戦争した事があるの!?」

 アリスが驚くと、純一が顔をしかめた。

「お前……歴史の勉強はしたことあるのか?」
「え? 私──リセの時も、オーディション受けまくっていたし」
「なるほどな。近頃の日本の若者も、戦争があったなんて知らない者も多いらしい──。数十年しか経っていないのにな……」

 彼は呆れたを通り越して、致し方ないという渋い顔。

「そうなの……でも、今度は覚えておく♪ 忘れない、忘れない!」

 アリスのカラッとした笑顔に、純一は一瞬呆れた顔をしたが
 すぐにいつものように、可笑しそうに、そっと微笑んだのだ。

「でも……やっぱり見たかったわ。サムライとかいう雰囲気のある所」

 アリスはディナーホールを見渡した。

 丸い半円広間の窓際は曲線になっていて、大窓から広大な薄い青緑色の海。
 海の色彩はヨーロッパとは違ったけど、いつも行くバカンスのリゾート地に良く似ている。
 エドが雑誌で見せてくれた『リョカン』というのがアリスのジャポンイメージだったのだから。

 そんな事を考えていると、ソムリエがやって来てワインを持ってきた。
 純一に英語で説明をしている。
 純一は小さく頷くだけで、ソムリエがワインを注ぐのを黙って見つめ送り出した。

 

「行ってみるか? 温泉、旅館に侍に将軍……」
「え!?」

 

 彼がグラスを掲げた。

「またジュールに叱られるかもしれないが? 日光という寺院もある観光地がある。ここからも直ぐにいける位置だ。日本の歴史の一部がよく見られる所で外人にも人気が高い」
「本当に!?」

 アリスは顔一杯に笑顔をほころばせた。

「二人で駄々をこねたら、ジュールもあるいは?」
「ジュンと一緒に駄々こねるの? 面白そう!」

 アリスは急に彼が活発になったようで、心がワクワクしてくる。

「まだ来たばかりだし、時間は充分ある」

 二人で白ワインのグラスをかちりと合わせた。

 

 ホールにいる他の客も、皆……純一とアリスに一度は振り返る。
 誰もアリス以上の豪勢な身なりはしてない。
 そしてここにいる紳士でジュンは一番若くて、精力がみなぎっていた。
 そんな若い『ブルジョア』の二人。

 でも……アリスにはそんな周りの様子は見えない。
 窓辺の美しい海ももう、見えない。
 見えるのは、いつになく楽しそうに食事を楽しませてくれる『私の最高のご主人様』

 素敵なご主人様の『楽しい提案』に魔法にかけられたように……幸せだった。

 明日起こりうるだろう不安なんて……考えられない、思い浮かばない。
 それほど──幸せだった。

──今はそれでいいの……私──

 頬を染めて、アリスは目の前の黒紳士を熱く見つめ続ける。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

──プルルルル……プルルルル──

「おい、珍しく葉月の席で内線が鳴っている! 兄さん!」
「ええ? 俺、今は手が放せないんだ」

 いつもの日々が戻ってきて達也と隼人が大佐室で二人きり……。
 そこで午後の業務をこなしていると、大佐席の内線が鳴った。

「ヤダよ! 葉月の席に直接かかってくるのは小うるさいオヤジのクレームか、もしくは、お偉いさんからの内線に決まっている!」

 達也はおののいて取ろうとしない。
 その通りで、大佐で隊長でもある葉月に堂々と内線を入れてくる隊員と言えば、上官や、葉月でも頭が上がらない『業務厳しき中高年隊員』がほとんどだった。
 それ以外の業務連絡等は全て『補佐』を通じて報告する形。
 ジョイが取って、隼人、もしくは達也に回す。
 葉月自身が聞いた方が良いと判断した場合は葉月がいれば、そのまま代わる……と、いうのが少なくとも御園大佐室の『形』だった。

 それで達也が嫌がっているのだ。

「なんだよ! 達也だって俺と同等の『側近』じゃないか? それに俺より、口が上手い」

──プルルル……プルルル──

 これで切れてくれたら気が楽だ……と、隼人もいつになく拒否。
 というか……忙しいのだ、本当に。

「兄さんの方が説得力がある! 早く取らないと、この大佐室には側近はいないのかと言われるよ! これが細川のおっさんだったら俺、知らないぞ!」
「あー、もうっ!」

 ここにも我が儘っ子が一人増えたのかと顔をしかめて、隼人は致し方なくマウスから手を離した。

「お待たせいたしました。第四中大佐室、澤村です」

 出たからには気構えてのご挨拶。

『お疲れ様、中佐。忙しいところ申し訳ないね。カフェ雑貨店の店長です。大佐嬢はお留守みたいだね』
「あ、オーナーですか?」

 思わぬ連絡主で、隼人は逆に驚いた。

『うん。まさか仕事連絡でもないのに、補佐官を通すのも仰々しいと思ってね。御園嬢の許可もあったから、直接大佐席にかけさせてもらったんだけど──』
「うちの大佐嬢が何か?」

 葉月は良く雑貨店で『取り寄せ注文』を利用している。
 それが化粧品であったり、生活雑貨であったり色々だ。
 だが、毎日カフェに通っているので連絡は滅多に入らない。
 ランチの行き帰りに大抵は話や連絡が取れているようだったから。

『今年も頼まれてね。なんとかチューリップを入荷したからと伝えておいてくれるかな? 店頭に出さずに取り置いているからと。すれ違ってしおれない内にと思ってね』
「あ、そうですか……彼女、花の注文をしていたのですか……」
『時期的にも難しいから、前もって日に合わせて注文をしてくれるんだよ。毎年、恒例だよ』
「そ、そうでしたか……お手数おかけしまして、彼女の代わりに御礼申しあげます」
『いいやぁ。こちらも色々とお世話になっているからね』
「こちらこそ──」
『それでは……』

 隼人はそこで、内線を切った。

「なーんだ。カフェ雑貨のおっちゃんだったのか」

 とぼけた口調で安堵する達也を、隼人はじろりと睨んだ。

「なんだとはなんだ? 俺に押しつけて」
「フッフフーンっと……。ええっと次の仕事、仕事」

 達也はさらにとぼけて、モニターに顔を隠したのだ。
 隼人は呆れてしまい、もう言葉を返すのも馬鹿馬鹿しくなり席に戻った。

 

「あれだろ? 姉ちゃんの命日だ。明日は──」

 達也が仕事をしながら話しかけてくる。

「ああ。なんだか雑貨店にチューリップを注文していたみたいだな」
「葉月は、なかなか島を出られるご身分じゃないからな、昔から──。でも、この時期には花は飾るみたいだ」

 達也はマウスを動かしながら、当たり前のように言う。

「そうなんだ……。去年の今時期は、俺はまだフランスだったからなぁ。見たことがないな」
「まぁ……そっとしておくのが一番かな? 俺はその日は会わないようにしていたね」
「そ、そうなんだ──」

 そこも達也は、さも当たり前、経験者として堂々と言い放った。
 そういう隼人より先に経験された事を言われると、隼人もちょっと悔しい。

 けど……達也は今ある隼人の為に言ってくれている好意だとは解っているので、いつもそこは上手く流すようにしているし、こういう彼とのいるが為の引っかかりも、この半月でだいぶ慣れてきた。
 それに一番良いのは、隼人にはもっとも理解得られる経験者が、こうして気遣ってくれ、側にいる事でもある。

「俺と食事に行く? 明日──。兄さんとはまだ一緒に出かけていないな」
「え?」

 やっぱり、達也はそっと気遣うように……そして遠慮がちに提案してきた。

「葉月をそっとしておくつもりならね……別に強制じゃないぜ?」
「……」

 達也の提案に隼人は暫く考えた。
 それも良いと隼人は思った。
 達也同様に、なにげなく気遣うとするなら、さりげなく『男同士』で数時間……あのマンションを留守にするのも良いかも知れないと……。

 でも……。

(これから毎年、目にする事だ──)

 『結婚』するのだから……今までのように『恋人のまま』ならば、それもしたかもしれない。
 でも、もう……違う。
 彼女の生活は、確実に隼人の一部になる約束をしたのだから……。

 それにもう一つ。
──『命日前後は葉月に単独行動はさせるな』──
 あの右京の『忠告』も忘れていない。

 『私設部隊』……そんな組織を束ねている男なら、どんな手で葉月に近づくか解ったモンじゃない。
 あのマンションは『セキュリティ』は万全だ。
 今になって不可思議に思っていたあのセキュリティが有り難く思えてきた。
 だから……葉月が家にさえ籠もっていれば、後はホプキンス管理人夫妻が目を光らせているだろう。
 そう思うのだが、ただのセキュリティで葉月は監禁されている訳でもない。
 葉月の『意志』で外に出た場合は……隼人はゾッとした。

 だけど……兄貴に会わせてやりたい。
 でも……突然は困る。
 つまり、格好良いことを言っておいてなんだが……。
──『義兄様と約束したから行ってくるわね。何時には戻るから……』──
 そんな風に……彼女が達也と食事に出かけるような感じで行ってほしいのだ。
 そういう……都合の良い事が隼人の頭に浮かぶ。

 どちらも本心だ。

 『会わせたやりたい』けど……『きちんと俺に告げてから行ってほしい』。
 つまり帰ってくる約束をして出かけて欲しいのだ。
 葉月は、達也に手玉に取られて泣いて帰ってくるくらい……隼人に対しても申し訳ない顔をしていたほどだ。
 そんなに不義理はしないと解っている。

 だけど──正直、一人にしたくなかった。
 右京が忠告するほどの事だから、やっぱり隼人には適わない何かが予想されて、それでいて、右京が思うには『お前は側にいなくちゃいけないんだよ』と言われているのだと……そう感じていた。

 休み明けに真一が久し振りに大佐室を訪ねて来た。
 ほんの僅かな時間で、真一は達也に挨拶に来たようだった。
 二人はマルセイユでも見せていたように、会っていない時間を感じさせないほど、うち解けているし、達也は真一の成長に感慨深げだった。
 そんな時に、真一は隼人に小さなメモ用紙をさり気なく置いていった。

『親父には会えなかったけど、部下の人が現れたので伝えておいたよ。その人から親父の耳に入ると思う』

 それだけ──。
 真一は他の大人達の目もあり、いつもの無邪気な愛嬌だけ振りまいて帰ってしまったのだ。

 確実に、兄貴の耳には届いた頃だろう──。
 だから、余計に隼人は気構えている。

「ごめん……。やっぱり、彼女の側にいるよ。気遣い有り難う」
「別に……俺だって兄さんが選んだ事なら何も言わないぜ? ただ、ちょっと気になっただけだよ……」

 達也はまだ心配そうだった。
 昔なじみの彼が案ずる程の葉月がいるのだろう。
 だけど……今の隼人はそれを見届ける覚悟もあった。

 そして──葉月は?

「ただいまー。ミーティング、長かったわ」

 丁度、今……空軍ミーティングから帰ってきた所だった。

「……」
「……」

 何故か男二人揃って、笑顔で帰ってきた彼女を、ぼうっと見つめていた。
 近頃、時々こういう感覚が達也と揃って困っている。
 既に二人の間で『確認済』。
 なにを確認済かというと……

『なんだか……輝いているよな』

……葉月が──という話で、そんな所も達也とは徐々に遠慮がなくなってきていた。

「?? どうかしたの?」

 葉月がその様子に気が付くと、二人揃ってハッと我に返る。

「あ、カフェ雑貨のオーナーから花の入荷が出来たから、取りに来て欲しいとの連絡が──」
「あら! 入荷できたの? うん、じゃぁ……今から行ってくるわ」

 葉月は、嬉しそうな笑顔を浮かべたのだ。

「……」
「……」

 今度は男二人揃って、眉をひそめた。

「……どうしたの? 本当に?」
「いやいや……」

 誤魔化す隼人に、モニターの影に隠れる達也。

「じゃぁね、行ってきます! 直ぐに帰ってくるから──」

 葉月は輝く笑顔で大佐室を飛び出していった。

 煌めく栗毛に、スラッとした白い足に、大人を気取ったヒールがある黒いパンプス。

 葉月が出て行くと、達也がまた、ニュッとモニターから顔を出して、向かい側の隼人に話しかける。

「前言撤回……。意外と大丈夫かも? あんな顔の葉月は見たことがない」
「そうだな……」

 隼人も予想外の彼女の笑顔だったので、茫然としてしまったのだが──。

 

 その日の夜──。

 彼女の部屋、ジュエリー棚から紅い珠のロザリオが出された。
 葉月はビューローのアンティーク机の蓋を開けて、そこにロザリオを飾って、ガラスの花瓶に、華やかに赤いチューリップを供えていた。

「お姉ちゃま……ごめんね……」

 彼女の『ごめんね』が……何に対するごめんねかは隼人には分からない。
 葉月が飾った皐月の写真。
 隼人も一緒に覗いたが……艶めかしい輝きの本当に綺麗な女性だった。

 そして珍しく葉月がヴァイオリンの調律を始めたのも……この夜だった。

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