・・Ocean Bright・・ ◆黒猫の影◆

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6.子猫、挑む

『Hayato=Sawamura』

(ハヤト……サワムラ?)

 アリスが手にしている書類一枚の、最初の1行にそう記してある。
 アリスが読めるのはローマ字部分、『澤村隼人』とあるが、それはただの文字にしかみえない。

 さらに目で追うと……。

「たった一年で? 大尉から中佐になっているわ!」

 彼の経歴を読み進めて、たとえ無頓着なアリスであってもそこは驚いた!

「ああ……あなどれない男でね」
「ふぅん? この男、軍隊で何か悪いことでもしているの?」

 アリスは少なくとも、純一の仕事は『正義』だと思っている。
 実際に──アリスは『死のう』とした時に、『悪商売』をしているような『パトロン』と一緒だった。
 そこで純一と出会ったのだから──。

 だから……この中佐男が『不正』を軍内でしていて、請け負ったと思ったのだ。

「さぁな……」
「これから調べるの……? 『オガサワラ』って基地は何処にあるの?」

 彼がフッと微笑みながら……バルコニーの向こうを指さした。

(ジュンが見ていた方向だわ──)

 アリスはヒヤリと酔っていた頬の熱も下がってきた。

「日本の南の島?」
「ああ。悪いが……日光と北の都に行った後は暫くその島へ行く」
「私も一緒でいいの?」
「構わないが……その島では隠れ家生活になる」
「……いいけど……」
「その男は大佐付きの側近だ」
「すごいのね……」

 アリスはやっぱり、その地位を利用して何か不正をしている男だとしか思えなかったのだ。

「その男、良く覚えておけよ」
「何故?」
「いずれ……判る」
「なに? 私は仕事には関係ないじゃない?」
「ともかく──俺のことが気になるなら覚えておけ」
「……」

 アリスは困惑した。

(じゃぁ……ジュンの部隊の仕事と言うよりかは? 個人的な仕事という事?)

「安心しろ。そんなに危ない男じゃぁない──」
「……そうなの? でも──」

 アリスが戸惑いながら純一を見守っていると、彼は残り数枚の書類を、二度、三度めくっては読み返していた。
 そして──それをフッと突き放すように、テーブルの上に放り投げる。

 純一の顔つきが変わった!

 彼は煙草をくわえて……ジッとバルコニー向こうの闇海へ視線をスッと向けられる。

「ジュン……?」
「なんでもない。それだけだ──」

 彼は煙草に火を点けると、そのままキッチンへと向かっていった。

 

(解らないわ?)

 いつもの彼らしくないような気がしてきた。

(この男の何を狙っているの? それに──何のために、私に見せたの?)

 アリスには純一が南の島へ行くという意志は良く伝わったのだが……『暗殺』という言葉はなんだか腑に落ちなかった。

 だって……アリスはもう一度……純一が急に見せた中佐の経歴書を眺めて……彼が置いている茶封筒の上へと返す。

(私には……悪い男には見えないんだけど?)

 中佐の目は……どこか純一に似ている。
 透き通っている黒い宝石のような大きな瞳。
 悪いことをしている目には見えなかった……。

『これは様子見ね──』

 純一に踊らされているのかも知れない。
 彼の言葉を鵜呑みにしていると、からかわられていたなんて事はしょっちゅうだ。

 

 すると彼がキッチンから戻ってきた。

「ど……どうしたの?」

 彼の腕の中には調理用の大きなボウル。
 それを手にして、テーブルの茶封筒も手にした。
 そのまま彼はバルコニーに向かっていく。
 アリスはなんだかその勢いが彼らしくないようで、茫然と見守っていると──。

 純一はその茶封筒をボウルの中に放り投げ……

──カチッ!──

……持っていたジッポーライターで、それを燃やし始めたのだ!

 金属製のボウルの中でワッと炎が沸き上がって、書類が燃えて行く……。
 黒い瞳の軍人の『彼』の姿がブワッと炎に溶かされていった──。

「ジュン? 良いの? ジュールが調べた大切な資料だったんじゃ?」

 アリスはなんだか彼が『正気』じゃないような気がして不安になって駆け寄った。

「別に……。あってもなくてもたいしたことない物だ」
「──!?」

 なんだか正気でないように見えるのに……彼の口調はいつも通り。
 でも、それ以上に──彼の眼差しに妙な『生気』が灯ったように見えた!
 いつも揺らぐ事ない硬くて冷徹な彼の眼差しが……急に鮮烈な感情を灯したよう……。

「ジュン……」
「悪いが──。一人にしてくれないか?」

 彼はそのままリビングに戻った。
 そしてキッチンからブランデーグラスとボトルを手にしてソファーに落ちついた。

 ブランデーが注がれたグラスをゆっくりと傾ける彼。

 だけど──眼差しはジッと何かを捕らえ、活き活きと彼らしく燃えているように……アリスにはそう見えて仕方がなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 次の朝──。

 

「今日は皐月様の命日だな──。ジュール、日光行きはどうなった?」

 今日も白いワイシャツに黒を基調にしたネクタイをエドは締めながら……既に着替えて、いつものパソコンにらめっこ中のジュールに尋ねる。

「今日は無理だな──。明日からだ……」

 いつも彼はキーボードの指は止めず、画面から目も離さずに、さらりと返事をくれる。

「ボスの今日の予定は──?」
「なにもしないだろうな──。墓参りも済んだし、小笠原へ行く気もなし──」

 そして、ジュールの声は素っ気ない。
 でも──返事は返ってくる。

「しかし──驚いたな」

 エドはネクタイを締め終わって、袖口に黒い石に銀縁のカフスを留める。
 それが終わって、溜息をついた。

 

それというのも──。

『エド、半月後、父島の別荘に行くぞ。あの男を確かめるそうだ』

 昨夜、ジュールが満足そうにそう告げたから……。

『解った。俺も興味があるから、従う──』

 エドは昨夜、ジュールにハッキリとそう告げた。

『お前も色々気になる事があるだろうし、俺もまた……ボスとは違う意味で思うところがある』

 

 昨夜、ボスとジュールが結託した『今回の作戦』にエドは少し戸惑っている。
 戸惑っているけど……『いつかこの日が来る』とは覚悟はしていた。
 それがついにやってきた。
 なにも──『お嬢様の男と対決』という『この日がやって来た』ではない。
 なんというか……『ボスの心の決着の日』とでも言えばいいのだろうか?

 ジュールの心積もりは良く解らない。
 ジュールは数日前まで『サワムラ』とかいう若い中佐の事は気にしつつも、さほど重要な人物とは見ていなかった。
 けど──お嬢様の結婚となると、ジュールは独自の調査で動き出した。

(──つまり、それは男を追い払うって事なのか?)

 いや……ジュールの場合は、ボスのように『他の男は認めない』という信条の奥に、『ボスはもっと違う事に気が付くべき』というような? そんなボスとは違う『視点』を持っているような気が、エドは少なくともしているのだ。

 ボスよりもジュールが何を思っているのか、それがエドには分からない。

(まぁ……どうあがいても……俺は従うしかないからな)

 それに──。

『叔母と一緒にその人と頑張るんだ!』

 真一のあの言葉──。

(本当に任せて大丈夫な男なんだろうな?)

 エドはお嬢様より、若様の方が気になる。
 とにもかくにも……真一が持っている全て、思っている全てを理解してくれる男であれば言う事なし。
 エド的には──だが。

 若様がボスの一粒種である事、お嬢様を慕っている事、御園の跡取りである事。
 全てを自分の良きように否定して、路線を変えるような男だと困る。

──『俺が真一の父親だ』──

(──なんて……堂々とほざいてみろ!?)

 エドはグッと鏡の中の自分を睨み付けた。

 お前なんて、お嬢様のおかげで『中佐』になった『ただの男なだけ』じゃないか? 自分の力で『御園の権力』を手に入れたと思うなよ──!

──と、エドは思っているのである。

 とにかく……エドもジュールもボスも『それぞれの思惑』にて、『父島行き』に意見一致。
 エドはジュールに言い付けられた『準備』にて今日から行動開始をする。

 

「何か食べたか?」

 エドはキッチンへ向かいながら、集中しているオーラを放っている先輩に声をかける。

「いや……。先に勝手に食べてもいいぞ」
「いや……何か作る」
「悪いな」
「……」

 なんだかパソコンのモニターに食い入るように顔を引っ付けている先輩が……いつにない『気迫』で仕事にのめり込んでいるような気がしてならない。
 エドはそんな異様な空気を放っている先輩を横目に、フライパンを手にした。

──ピンポーン──

 玄関からチャイムの音──。

「俺が出る」
「悪いな……」

 もの凄い気迫の先輩の邪魔にならないようにと、エドはフライパンを手放して、玄関へと向かった。

(誰だ──?)

 ボスなら内線で呼ぶだろうし……ホテル側もそうして連絡してくるのに──。

 エドはやや警戒を高めて、ドアノブに手をかける。
 その前にスコープを覗いてみると──。

「アリス──?」

 レエス調のカットソーにジーンズと言ったラフな格好のアリスが、子猫を抱きしめたまま……妙に元気のない顔で突っ立ているのだ。
 そのまま警戒なしにドアを開けてみた。

「どうした……? ボスは?」
「寝ている……」

 だた一言それだけ……胸元の子猫にフッと顔を埋めたアリスが泣きそうな顔をしている。

「それで──?」
「一緒にいても良い?」

 消え入るような声でアリスが呟いた。

「は?」

 エドは眉をひそめる。
 いつだってボスと一緒じゃないと気が済まない彼女が……普段は邪険にもされている部下の方へと頼ってきたからだ。

「ジュン……昨夜から変なの」
「!……ボスが?」
「昨夜、お酒を呑んだまま、リビングで着替えもしないで寝ちゃったみたい。朝起きたら、ソファーで寝ていて……それで起きないんだもの」
「……いつもの調子で起こしても、お前なら怒られないだろう?」

 エドは、なんとか返そうと思った。

「でも……声をかけたけど、起きたくないみたいで……」
「……」

 アリスの様子を見る限り……なんだかいつもの強い姿勢で『我が儘』が出来ない状態に、陥っているように、エドには見えた。

「ちょっと、待っていろ」

 エドは一端、アリスを外に残したままドアを閉めた。

 

「ジュール、アリスがこっちにいさせて欲しいと……」
「……それで?」

 ジュールは相変わらず、キーを打ちつつ淡泊な対応。

「ボスが変だという事らしくて。昨夜、酒を呑んだままリビングで寝てしまって、アリスが起こしてもそのまま起きないらしい……」
「それぐらい、放っておけ。『うちの子猫』がそれぐらいでしょげるなんておかしな話だ」

 やっぱりジュールは、すっぱり切り捨てた。

「……だよな」

 エドもそう思うのだが……無駄な質問だったとエドは溜息をつきながら、もう一度玄関に向かった。

──だが。

「おっと……エド。訂正──アリスを連れて来いよ」
「え?」

 エドが驚いて振り向くと、白いロココ調の小さなデスクで仕事をしていたジュールが、ゆったりと腕を上げて伸びをしていた。

「そうそう──今日は『命日』だったよな……。ボス一人にしておけ」
「あ、ああ……なるほど。解った」

 ジュールの言いたいことが解って、エドはアリスを迎え入れに行った。

 

「ごめんなさい……」

 リビングにつれてくると、アリスはパソコンに向かっているジュールに一言。

「……」

 ジュールの返事はなかった。
 なかったが……ジュールはキーボードから手を離して、やっと立ち上がった。

「アリス、そこに座れ」

 ジュールはめくっていたワイシャツの袖を元に戻しながらソファーにやって来た。
 アリスが子猫を抱えたまま、素直に逆らうことなくジュールに従う。
 アリスが座ると向かい側にカフスボタンを付け直しながらジュールが座った。

「ボスから何処まで聞かされている……」
「え?」
「色々と聞かされて戸惑っているから、向こうに居づらいのだろう?」
「……」

 アリスが俯く。

「これで解ったか? ボスのこの時期の滞在旅行は『いつでも敏感』だ」
「うん──」

 アリスは神妙にこっくりと頷いている。
 エドも初めて気が付いた。
 『命日』のボスに触れるのはアリスは初めてなのだ。
 だが──確かにこの時期のボスは日本へとやって来て『しんみり』はしているが?
 『酒に呑まれる』なんて事はジュールやエドの前でも見せることはなかったが──。

「お前も覚悟をして、見届けろ──。ボスはそれを承知で、今回はお前も連れてきたと思う」
「うん……それも良く解ったわ」
「……」

 神妙なアリスを、ジュールはちょっと瞳を和らげて黙って見下ろしていた。

「覚悟しているのか?」
「……している」

 自信がなさそうだが、アリスはハッキリとジュールに答えた。

「そうか……だったら今日は騒がずに大人しくしていろ」
「命日って日だからでしょ……? でも、それだけじゃない気がする」
「ふぅ──」

 アリスのしょげた一言に、ジュールが顎をさすりながら溜息を一つ。

「……ま、仕方がない『現象』だがね」
「それってなに? 昨夜ね……ジュンは私に『サワムラ』とかいう軍人の経歴書だけ見せてくれたの」

 エドは『え!?』と驚いたのだが……

「へぇ……」

……ジュールは、またもや顔色も変えずにそう呟いただけ。

「他の書類は見せてくれなかったけど、『俺の今回のターゲットだ』とか言っていたわ。それでその中佐は『オガサワラ』とかいう南の島にある基地の男で……オンセン旅行が終わったら、『チチジマ』へ行かなくてはいけないから……って私に」

「へぇ」

 今度はジュールとエドが揃って呟く。

「それでその内に判るから、私にその中佐の事を良く覚えおけって……」
「なんだって?」

 そこはジュールも、純一が何故そうしたのか分からなくて、眉をひそめた。
 そして……エドも同じだ。

「そう教えてくれたかと思ったら……その書類を燃やしちゃったの。その後、一人で暗がりの中ずっとお酒を呑んでいたわ。『一人にして欲しい』と言うから、私は寝室で先に寝たんだけど……。朝起きたら、リビングがすごくお酒くさくなっていて、ジュンはそこで寝たまま起きないの。なんだか……ジュンじゃないみたいにだらしがなかったわ──」

「……」
「……」

 今度はジュールとエドは、訝しい表情を揃えて顔を見合わせた。

「なるほどね……。まぁ、昔の事を思い出したのだろう?」

 ジュールは呆れたようにソファーから立ち上がった。

「昔って?」

 アリスが立ち上がったジュールを目で追う。

「そりゃ……ご子息の生みの母。あの人が昔、愛した人」

 ジュールは少しばかり誤魔化し口調だったが……

「!」

 アリスの方は、ジュールがハッキリと言うので、さすがに固まった。
 エドはちょっとハラハラ。 

 だが──ジュールはそのまま大きなオーシャンビューの窓辺に立って、シャツの胸ポケットから煙草を取りだして口にくわえた。

「そう気を落とすな。もうその人はいないが、ボスにとってはこの日だけは『思い出しておきたい人』なんだ。許してやれ」
「うん……それは解っているわ」
「後、その中佐の事だが、それも……今はそっとしておけ」
「……何かあるの?」
「ボスが言うとおりだ。『その内に判る』としか俺達も言いようがない」
「危ない男じゃないとは言っていたけど? 何故? 私に教えてくれたのかしら?」
「さぁな? とにかく……アリス」

 ジュールはジッポーライターでカチッと煙草に火を点けると、くわえ煙草で振り向いた。

「覚悟があってきたなら……ボスに従え。嫌なら今すぐイタリアに帰ることを勧める。今までの『愛人生活』の方がもどかしいことがあっても『幸せ』であるだろうな? だが──もどかしい事が嫌でここに来たなら……ボスと別れる覚悟もしておいた方が良い」
「! 何? それ──」
「ジュ、ジュール……!」

 そこまでハッキリ言いきる先輩にさすがのエドも驚き、アリスが不憫になってきた。
 だが──煙草をくわえた先輩の顔はいつも通りに冷たい。

「お前、ボスを愛しているのか? 愛しているんだろう?」
「あたりまえじゃない──!」

 アリスも『解っていながら、目を逸らしていた』事をジュールに突きつけられ、感情を荒く揺さぶられたが為に、泣き声で叫んだ。

「だったら……『戦え』」
「──!」

 アリスの動きが止まった。
 大きな瞳に溜めていた涙も……止まる。
 くわえ煙草のジュールが、座っているアリスを立っている姿勢から、鋭く見下ろした。

「お前なりの真実を得たいなら、目を逸らさずに見届けるんだ。そして……全てを見届けて、ボスとも自分とも『戦う』んだ──。それを恐れていては、今までと一緒だ──」
「……」

 アリスがジュールに術をかけられた様に……彼の眼差しを真っ直ぐに捕らえて茫然としていた。

「義妹に会える? 私は妹さんに会える?」
「さぁな……それはボスの意志であって、俺達はまだその意志すら告げられていない」
「そうなの……」

 アリスはガックリと、首を折ってうなだれた。

「とにかく……今日のボスはそっとしておけ」
「それは解ったわ……。ボウズちゃんの事や、ママンの事を思い出したいことぐらい。それぐらい……私にも受け入れられる……」

 子猫を抱きしめて、寂しそうにアリスが呟いた。

「俺達の仕事の邪魔をしないこと。気晴らしに、プールでも入ってきても良いが、着替えとシャワーだけはボスの部屋で済ませてくれ」
「うん」
「テレビも見ても良い。俺達は音などにはさほど敏感にはならないから、気にしなくて良い」
「ありがとう……」

 ジュールの『部下部屋滞在』での『約束事』に、アリスが素直に頷く。

「朝食はまだか?」
「うん……」
「解った──」

 煙草をスッと、テーブルの上の灰皿へともみ消したジュールが、サッと動いた。

「エド、朝食は作らなくても良い」
「え?」

 ジュールが向かったのは、電話機。
 彼が片手で受話器を取り上げて、その手でボタンを押す。

「アリスの激励モーニングだ。豪勢にルームサービスで行くぞ」

 ジュールがニヤリと笑って、受話器を耳に付けた。

「ジュール。有り難う……」

 アリスが感極まったように立ち上がって、青い瞳から涙をこぼしジュールを見つめる。

「……ま、頑張れよ」

 エドも一言。
 それだけ呟いて、エドはキッチンに戻った。

「エドも有り難う……メルシー」

 そんな彼女の声が、背に届いたがエドは知らぬ振り。

「ね。ジュール? 私、ちょっとだけ地理の勉強したいの。それとジャポンの歴史とか……」

 そんな事を言いだしたアリスに、ジュールとエドは揃って口を開けた。

 だが……ジュールが笑い出す。

「いいだろう? エド……丁度良い。今から行く日光と能登の資料でも作ってやれ。それと日本地図な──」
「オーライ」

 エドもちょっと呆れつつも、そういう『健気さ』はなんだかアリスの憎めない所だった。

 

 その日、一日。

 アリスは部下部屋のリビングで、エドが作った旅行先の歴史などを真剣に眺めながら、のんびり過ごしていた。
 ボスの『お呼び付け』もなければ、ボスのアリスの『呼び戻し』もなかった。

 昼下がりになってジュールが一度、向こうの部屋に様子を見に行ったようだが──。

『シャワーは浴びたようだが、その格好でソファーでうたた寝をしている』

──との事だった。

 夕方になって身なりを整えた純一がやっと……『アリスはそっちにいるのか?』との声。
 それでジュールの『旅行手配』が済んだので、三人揃って純一の部屋を訪ねた。

「ジュールとエドと一緒にね? 明日から行く所の相談をしていたの。私の思い通りに組んでくれたのよ!」

 アリスは笑顔で純一に笑いかける。
 確かに──ジュールはアリスに『こういうスケジュールだが良いか?』とは尋ねていたが、アリスはジュールにお任せで、うるさい要望などは一切言いやしなかったのに。

「それからね! ジュン! エドが日光の歴史を教えてくれたの! これ……一緒に見て! ねぇ……『徳川』って将軍のお話聞かせて!」

 アリスは青い瞳を輝かせて、いつも通りに純一に付きまとい始める。

『どれ……』

 さっぱりとした顔に戻った純一も、いつもの様子でアリスを隣に従えて、エドが調べた仏語翻訳した紙切れをアリスと覗き始めた。

「早く、東照宮に行って、陽明門を見てみたい! 凱旋門とどっちが大きいかしら!」

 アリスのはしゃぐ姿を、純一は穏やかに眺めていたが……。

「やっぱ、鈍感かも?」

 エドが一言。

「今頃、解ったのか? お前はボスを偉く見過ぎだ。あの人もありきたりな一人の人間だって事を、お前も今回、よーく目を凝らして見るんだな」
「うーん」

 ジュールのいつもの解りきったような冷たい一言に、エドはなんだかこの日は納得してしまった。

 日本地図を指さすアリスを、純一は静かに見守っているだけ。

 明日から『ファミリー一行』の列島バカンスが始まる。
 先ずは……『日光』からだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 小笠原は本日も快晴。
 うだるような暑い日はまだまだ続いていたが、夕方になると少しだけ、熱気も和らぐ。
 そんな時間帯──。

 

「うーん、佐藤大佐……すごい勢いだな」

 隼人は夕方のデスク作業で、佐藤が引き抜いた日本人整備員の資料片手に唸っていた。

「本当ね。アッという間に転属手続きしちゃってね……」

 葉月は大佐席で隊長業務中だった。
 達也は『管理官のホスト研修中』で、この本部室隣にある四中隊専用の小さな会議室へと、後輩を引き連れて籠もっている為、不在だった。

「いよいよ全員……揃うわね」

 葉月がペンを走らせながら、微笑みつつ呟く。

「ああ……佐藤大佐が引き抜いたメンテ員がどういう人間かは俺には解らないけどね……」

 途中から、隼人の思い通りには出来なかった事。
 そして──上官の力を借りてしまった事。
 これがまだ納得行かないが、これも自分の実力不足であり……そしてチーム編成の上の意向でもあるから、もう諦めてはいるのだが……。

「良かったじゃない。安定するまでの総監でしょう? 私は安心だわ。佐藤大佐がバックアップしてくれるなら……。私とデイブ中佐だって……細川中将のバックアップなしではここまで出来なかったわよ?」
「まぁ……そうだね」

 隼人はフッと溜息をつきながら、それもそうだとそこで納得した。

「だけど──岸本吾郎君。残念だったわ……! 私のオススメだったのに!」

 そう、葉月が目に付けていた隊員は、佐藤にあっさり却下されてしまったのだ。

 だけど──実は……。

「えっと……その……」

 隼人は佐藤に言い付けられた事を、葉月に言おうとして口をつぐんだ。

 

──『中佐、お願いです。大佐嬢には黙っていて下さい』──

 彼のそんな言葉が浮かんで、隼人も納得したのでまだ言えずにいるのだが──その内に葉月はすぐに元の顔で書類に向かってしまった。

「……」

 隼人は、麗しくもいつもの凛々しい横顔で書類を手早くまとめている葉月をそっと眺めた。

 今日は『姉の命日』
 だが……葉月にいつもより変わったところなどなにもなく……いつもの彼女である。

 

 昨夜、葉月はヴァイオリンを調律していた。
 一曲も弾くことはなかったが……音だけ何度も確かめていた。
 姉のために『アリア』を演奏する。
 それは毎年の事のようだが……。

 昨夜、それを遠くから眺めていた隼人に気が付いた葉月が一言。

『シンちゃんから聞いたけど……義兄様、来ていないみたい』
『ああ、そう──』

 ヴァイオリンを肩に乗せている葉月が振り向かずにそう言った。
 隼人もそれは真一が渡してくれた『メモ』を見て知っていたのだが。

『ね? 私が言ったとおりでしょう? 隼人さんとお付き合いしているから、義兄様は来ないわ。たぶん……もう、二度とね……』

 

(そうかなぁ?)

 隼人はそう思った。
 そんな切っても切れない付き合いをしていた二人が? そんな簡単に切れるか?
 今までは葉月が男とは長続きしない付き合いをしていたから……兄貴の方も『いずれまた……一人になる』と、たかがくくっていたのではないか?
 葉月の決心を聞いて、兄貴はあっさり身を引くだろうか?
 せめて……『ではもう二度と来ないぞ』ぐらいの別れの一言ぐらい……いいそうなものを?

 隼人の不安はまだ拭えない。
 『部下の人に伝えたよ』
 部下しか日本に来ていないように真一は言っていたが? そんなの部下が言っているだけではないか?
 ボスが『そう言え』と言えば、それに従うはずだ。

 とにかく隼人は今日は『警戒心』いっぱいなのだ。

 基地の中は良い。
 葉月は必ず誰かと一緒に仕事をしているから──。
 いなくなったとしても直ぐに解るし、大佐が行方不明では大騒ぎになるはずだ。

 問題は──。

「葉月、今日は一緒に帰ろうか」
「え? 隼人さん何時頃、終わりそう?」

 書類に顔を伏せていた葉月が顔を上げる。

「ああ……うーん、19時頃かな?」
「そう、じゃぁ……私もそれぐらいまではかかりそうだから、合うように片づけるわね」

 葉月のニッコリとした優美な笑顔。

「うん……俺が晩飯作るよ」
「いいの?」
「ああ……お前はゆっくりしな。今夜はね──」
「うん……」

 姉の命日と気遣う隼人のさり気ない気持ちは、葉月にも通じたようで、彼女はさらに安心したような笑顔をこぼした。

 近頃の葉月はとても穏やかだった。

 

 あの週末。
 二人の誓夜──。
 真一を送り出した後も、隼人の言葉通り、週末の休暇二日間は、じっくりと外にも出ずに二人きりで愛し合った。

 葉月が服を着る間を与えないほど……とことん時間と体力が続く限り。
 葉月はずっと黒いガウン一枚で過ごしていた。

 

 それから……葉月はとても輝いていた。

『もう──隼人さんだけよ、本当よ』

 とろけるような潤んだ眼差しをいつだって隼人に向けてくれている。
 充分に……隼人も満足している。

 だけど──。

『絶対、来る──』

 隼人はそう思っている。
 今夜はどうなのだろう?

 定時のラッパが鳴った。

「ただいま──! だいぶ皆、様になってきたぜ♪ ついでに日本語も教えないとな〜」

 達也がバインダー片手に大佐室に戻ってきた。

「終礼しないとね」

 達也が戻ってきた事で、葉月が席を立つ。
 隼人と達也も準備をして葉月に従う。

 終礼が終わっても、四中隊本部はまだざわついていた。
 徐々に『式典』に向けての準備で、忙しく皆が動き始めたのだ。
 残業をする者ばかりだった。

 九月も下旬にさしかかり、あと一ヶ月しかない。
 隼人も予定より遅れているメンテナンスチームの訓練が来週から始まるため……

『こういう事にばかり捕らわれている訳にはいかないな……』

 葉月がこうして活き活きと式典へと向けて動き回っているのに、隼人がいつまでも胸の内にある事にこだわっているのもどうかと思い始めていた。

『せめて今夜……いや、今週……』

 葉月から目を離さないでおこうとこれだけは決めている。

 

「おーっす!」

 そうしていると毎度の如く、デイブがやって来た。

「嬢! 残業だろ? カフェに休憩いこうぜ! ほら! 例の編成の事、話そうぜ!」
「ミーティングで話し合ったじゃないですか? また?」

 忙しい葉月は、デイブはデイブで頭いっぱいの『ショー』の事に引っ張り連れ出されそうで、顔をしかめ嫌がっていた。

「なんだ? その顔は? お前、参加しないとコークスクリューの四回転やらせるぞ!」
「えー? 私は中佐のスクリューの間を背面で真っ直ぐに飛ぶ『軸』役で良いって、言われたじゃないですか?」

(四回転!?)

 隼人はそんな事をデイブが考えているのかと、ちょっと顔から血の気が失せた。

 今まで見てきても、せいぜい軸を二回転ぐらいじゃないか? しかもそれをホーネットでやるのか?──と。

「四回転も回れるの? だいたいにして細川『監督』おじ様が反対しますわよ」
「それを今から皆と検討するんだ。如何にしてあのおっさんを巻き込むか!」

 デイブは本気らしく、葉月は鼻から呆れて本気で反対はしないだけのようで、隼人はただあっけにとられてしまった。

「はぁ……じゃぁ、ちょっとだけ留守にするわね。澤村中佐」
「え、ええ……行ってらっしゃい」
「あ、その前に……お手洗い」

 葉月はふと気付いたようにして、ハンカチ片手に大佐室を出ていった。

 デイブと二人きりになる──。

「ええっと……コリンズ中佐? 四回転は本気ですか?」

 隼人は繕い笑いで尋ねてみた。

「え? ああ……出来たらスゲーなぐらいかな? まぁ……チャレンジはするつもりだが? せめて……三回転!」
「すごいですねー」

 隼人はただ……苦笑いしかできない。
 本当の『無茶野郎』だと肌で初めて感じた。

「まぁ……な」
「?」

 なんだかデイブの眼差しがいつものようにギラギラしていないような?
 彼の眼差しがフッと夕方に傾いた大佐室の日差しに陰ったように見える。
 すると──。

「サワムラ。近い内に……このぐらいの時間でも良い。嬢に悟られないように……俺と二人で話をしたいんだが……」
「はい?」
「お前には先に言っておこうかと思って……」
「何か? あったのですか?」
「まぁ──な」

 デイブはなんだか唇を噛みしめて……いつになく真剣なのだ。

「? はい……構いませんが?」
「そうか。じゃぁ……その内にサインを送るぜ」

 やっといつもの先輩顔の笑顔を浮かべてくれた。

「おまたせ」

 葉月が戻ってくる。

「お前が男だったらなぁー」

 デイブが戻ってきた葉月を見下ろしながら溜息を落とす。

「それは言わない約束──。でも、ちゃーんと中佐の回転ずれないように真っ直ぐ飛ぶから任せて!」「お前とダブルのコークスクリューが出来たのになぁ? 他のメンバーはなぁ?」
「あら? リュウはやる気だったわよ? この際、やらせてみては?」

 二人はそんな話を楽しそうにして、肩を並べて出ていった。

「ふーぅむ? 葉月は軸役なのか……」

 ちょっとホッとした。
 あのほそっこい身体で空中回転を任されて、途中で気絶でもされたら、隼人も気が気じゃない──。

「んなことより!」

デイブの話がなんなのか?
隼人にまた心配事が増えた気分で……まったくもって相も変わらず……。

『落ち着かない──!』

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