灯りが消えているリビングのテーブルの上には、片づけ終わっていない皿に、彼が土産で買ってきた赤い中華模様の箱。
そこに今、二人はいなかった。
そしてこちらの部屋にも灯りは点いていない。
何処の部屋も夜灯りが差し込んできているだけ──。
水色のシーツにくるまって、そこには素肌になった二人が、横になって語らっているところだった。
何かを確かめ合うように、思うままに素肌を合わせた二人の顔は、とても落ち着き、瞳は互いに輝いている。
「俺は……会った方が良いと思うな」
隼人の肩の上には、小さな彼女の頭がもたれかかっていた。
そして……隼人は彼女の丸い肩を抱き寄せたまま、そう呟いた。
「どうして──?」
葉月は、その腕に包まれたままそっと寝返って、尖った顎を隼人の肩に乗せて見上げる。
「そうだろう? お前が俺に伝えたままの事を、兄貴にも伝えるんだ」
「……そうね」
葉月が溜息をついた。
「でも、本当に会いに来る時は突然で……勝手なのよ。それに……私にお付き合いしている男性がいる時は絶対にこないわ。情報収集力も半端じゃなくて、私が報告する前でも良く知っているし──」
葉月はそういうと眼差しを伏せていた。
でも──やっと彼女がなんでも話してくれている。
彼女のホッとした顔。
隼人に全てを話せるという『解放』を彼女は噛みしめている。
隼人は思った……葉月は今まで誰にも相談が出来ずに一人で抱え込んでいたのだろう。
普通の恋愛とは違う。
家の事情も、全てが絡んでいて……。
(これでは、簡単には言えないはずだ──)
聞いてから思った。
だから……まだ『全ては終わっていない』と位置づけている。
『これから……どうするべきか』
それを今、一緒に模索している。
そう……『模索』する事が出来るようになったのだ。
今までは彼女が一人で模索してきた、たった独りで。
それをもどかしく見守っていた隼人が踏み込もうとすると、彼女が頑なに拒む。
だが……少なくとも今日、それは『終わった』。
だから……終わっていなくても『一緒に前進』を約束したのだか『これから』を考える。
一番最初に思い浮かんだのは『彼女の未練』だった。
未練と言っても、彼女は『決着を付けたい』と決心している。
『後戻りはしない』
その気持ちは今日よりちょっと前の彼女の様子からも充分、伝わっているし、隼人は受け止めて、理解もしているつもりだ。
『今までの葉月の中途半端さ』を客観的にみて『評価しろ』というなら、やはり腹は立ち、散々批判したり、注意をしたり説教したい気持ちは、隼人にも湧き起こったのは確かだった。
だけど……後から来た隼人に、自分がいないときの彼女を責める権利なんてあるだろうか?
隼人自身も『間違い』から人を傷つけた事など沢山ある。
自分の勝手で、踏みつけた事もあるだろう。
意識をしていなくても、知らずに人を傷つける事なんて、誰でもある事だ。
間違いを犯さない人間はいないはずだ。
過去の隼人も然り、これからの隼人も間違いを犯さない、犯していないという保証はない。
それなら、葉月も同じではないか?
『問題』は──。
今、一緒にいる『俺と彼女』が……どれだけ『真っ直ぐ進む』には、どういう姿勢で挑んで行くかが『大切』なのだ。
終わった事に捕らわれていても、時間が無駄に過ぎて行くだけ。
償うというなら、今からだ──なにもかも──。
だから、隼人は『また』考えている。
『今ある状況』で終わっていない事をどう押し進めるか……。
だから……彼女の話に耳を傾けている。
隼人はそんな葉月をそっといたわるように、肩の上にいる彼女の栗毛をかき上げた。
まるで毛並みを撫でてもらっている小動物のように彼女は満足げで大人しい。
小さな生き物を胸に抱いたときのような……。
頼りなげで柔らかい暖かさが、今……じんわりと隼人の肌に伝わっている。
彼女は今、時間も世界も隼人の腕の中。
心も身体も『裸』になって、ここに存在している。
「だから、隼人さんと『決めた事』……。その内に知って、姿も現さなくなっちゃうわ」
「そう──」
隼人はここでこの話はやめる。
なんだかそこが『引っかかる』のだ。
(どうかな?)
葉月としては『義兄は大人で割り切っていて、私の片想い』と言っているが?
(兄貴が、葉月が幼いからと思ってワザとそう思わせているとも……)
……思える。
だとしたら?
彼がもし? 『義妹を心より愛している』と言うならば?
『絶対に来る!』
それが最初の隼人の『挑戦』だ!
「どうしたの?」
葉月の肩を抱いている隼人の手……そこに力がこもったようで、葉月がフッと隼人を覗き込む。
「いいや──? それより、もう一度どう?」
腕の中の葉月を、もう一度シーツの上に寝かせた。
「……いいけど、その……」
戸惑う彼女の唇を塞いで、そのまま奪うように激しく絡める。
「お前の身体中、心中……俺が全部染みつくまで……」
彼女の白い肌に、筋を描いて行く隼人の長い指──。
「あ……」
「丁度、週末──。真一も帰ってこないし、休みの間、たっぷり……」
「だめ……そんなに……」
「もう、駄目とは言わせないからな……」
「あ、いや……そんなダメ!」
指先一つで、頬を染めて燃え上がる葉月を、隼人はニコリと微笑んで眺める。
今夜は愛の誓夜。
彼女が『これが隼人の愛』と刻みつけるまで──。
隼人はやめない。
これも『挑戦』。
「あ……そういうの隼人さんっぽい」
「そうか? 光栄だな」
『んっ』
彼女の身体、言葉、感情、仕草──。
毛先から、吐息から、指先、足の指、伏せたまつげも、唇も全部。
『俺』が染み渡るまで──。
・・・◇・◇・◇・・・
「あの……官主。お願いがあります」
「どうした? 御園君」
医学生寮の監督管理人事務所の前。
そこで管理官の夏目が、就寝前の事務作業をカウンターでしていると、制服に着替えた真一が、妙な表情で立っていた。
もうすぐ22時、門限前。
その30分後が消灯。
週末とあって、外に出かけている寮生も多く、夏目はそこで帰宅を待ちかまえているのだ。
外出先には『制限』がある。
勿論、外出は『制服』だった。
外出先は必ず伝える。
酒場は禁止、夜間の飲食店入店も禁止。
狭い島だから、そんな事をしていると直ぐに見つかる。
ただし、上官や保護者と言った正隊員や家族と同伴ならOK。
なので……本島の訓練校よりかは門限の規制はゆるい方だと、真一は聞かされている。
それもそうで……夜間の外出を進んでする寮生は少なかった。
軍人にも善し悪しがあって、目を付けられると手込めにされる事も時々聞く話で、寮生は田舎の夜道を好んで出歩く者もいなかった。
出て行くとしたら、真一の様に島内に『家族』がいるという二世っ子がほとんど。
それでも『規則』は『規則』。
だから『連絡にて外泊許可へと変更』しない限りは、夏目はこうして、帰りを待ちかまえているのだ。
その一時間前になって真一は出かける格好……医学生の夏制服である薄い水色の半袖シャツ、紺色のスラックス。
その姿で夏目を見つめる。
「直ぐに帰ります。どうしても叔母に会って確かめたいことがあって──」
「電話でも駄目なのかな?」
夏目は父親のつもりのような優しい眼差しで、真一に微笑んだ。
「あの……大事な事なんです。どうしても叔母の顔を見て確かめたいんです。直ぐに! 門限までには帰るし、何かあって帰れなかったら外泊の為の連絡をします!」
「……」
真剣に詰め寄る真一に、夏目はちょっと戸惑いながら首を傾げた。
そして──スッと手元にある帳簿を真一に差し出した。
「君の事だから間違いはないだろうね。いつも通りに頼むよ」
夏目が差し出したのは『外出申請連絡表』
そこに何時に出て帰ってきたか本人が記す為の帳簿だった。
「有り難うございます!」
真一が頭を下げると、夏目は寛大な微笑みをくれた。
「えっと……」
真一は名前を書き込んで、外出先……つまり『叔母宅』と記して、その電話番号も記す。
出る時間と外出という名目で、帰寮予定時間を書き込む。
「……明日は鎌倉に帰るのだったね。週末の早朝便に乗り遅れないようにしないとね」
「はい、なので今夜はなるべく寮に帰って来るつもりです」
「……お母さんのお墓参りかい?」
「え? あ、はい……」
夏目は葉月から色々と事情を聞かされているはずだ。
何処まで御園の事情を知っているかは……保護下に置かれている真一には判らない。
「毎年、偉いね──」
「いいえ……それしか出来ませんから」
「気を付けて行っておいで」
「はい……」
なんだか夏目の目が、いつになく真一を慈しむように見つめているような?
「あの……夏目さんは、失礼ですがお歳は何歳なのですか?」
真一はふと気になって聞いてみた。
すると彼がちょっと退いたように見えたのだが? それも一瞬。
「あはは! 43歳のおじさんだよ」
「勿論……子供さんもいますよね?」
「ああ、中学生だけどね。島内の学校に通わせているよ」
「そうですか」
真一は、ふと、もう一度夏目を見つめた。
「──? なにか?」
「いいえ……そのおかしな事を言うかも知れませんけど……。僕の父親が今いるなら……夏目さんぐらいの年頃だなと……」
真一がそういうと彼がちょっと驚いた顔をした。
「──そうだね。私と一緒でおじさんになっているだろうね」
真一の質問に、夏目は何事も感じなかったように月並みに答えてくれた。
「すみません……突然」
「良いのだよ」
夏目はいつもの笑顔を見せてくれる。
「行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます!」
(夏目さん……親父とも真父さんとも、同世代ぐらいなんだ)
ロイは変に偉すぎるし美形なのでどうも『父』とは重ねられず、やっぱり『若いおじさん』だった。
右京に至っては、あの通り……いつまでも若々しいので、どちらかというと『お兄ちゃんおじさん』で葉月を叔母とも姉とも思う気持ちと似ている。
そしてリッキーもそう。
独身でなんだか生活感がない凛々しいお兄さんという感触。
ロイは家庭持ちだが、皆……生活感がない『おじさん』ばかり。
だから真一は、エリックの父親や夏目を見ると『家庭のお父さん』を連想してしまう。
夏目の事は大好きだ。
本当に寮に置いては『頼れる親父』であるのだ。
だから……なんとなく、今まで聞きもしなかった事を思わず今夜は聞いてしまった。
(俺……今、敏感すぎ)
真一は溜息をついて、駐輪場に向かう。
『なんか、胸騒ぎがするんだよな!』
部屋でそわそわしている真一を見かねて、ルームメイトのエリックが後押ししてくれたのだ。
『そんなに何かが気になるなら行って来いよ』と──。
真一は自転車にまたがって夜道を飛び出した!
夏目はカウンターで、その少年をガラスドア越しに見送る。
「……眼差しが彼女に似てきたな」
彼は真一が書き記した氏名の欄を見下ろして一人微笑む。
「髪の色も目の色も……思い出す」
遠い昔、目にしたあの女性をフッと思い出していたのだ。
・・・◇・◇・◇・・・
真一が丘のマンションの上り坂を登りきって三階を見上げると──。
「真っ暗だ……」
リビングにも葉月の部屋にも灯りが灯っていなかった。
(やっぱり──隼人兄ちゃんが帰ってきて、葉月ちゃん告白しちゃったのかな?)
それで二人が何処かでもめているかも? と、冷や汗が出てきた。
「!」
だが……駐車場には『赤い車』がある!
(……いるのかよ?)
絶対に隼人が驚くに決まっている。
たとえ、あの隼人でも……いつもの素知らぬ余裕で受け流せるわけがない。
受け入れるのに時間がかかるだろう。
それに……意外と不器用そうなあの叔母。
真一はあの日『相談』と言って、色々と話してくれた葉月のあの戸惑いと躊躇い……あの苦悩の顔が忘れられない。
真一にだって、何を言葉にして伝えたらいいのか本当に『出来ない』という、弱々しいあの姿。
後で考えた。
あの叔母は、いつも平気な顔をしているが、本当はそうじゃなくて、本来の姿になると、とても不器用なのじゃないかと?
それと……もう一つ。
──『そうじゃないの……そうじゃないの……』──
真一の事を子供と思って、何かありそうな事情を言いたげに、伝えようとしない叔母のもどかしいあの姿。
あれから……何かを嗅ぎ取った真一はある事に突き当たった!
(葉月ちゃん……マジで親父の事!)
真一は昔……初めて時計を腕に付けて貰った時、黒猫の親父は『御園大尉に頼まれて』と言った。
そして葉月は『誰にも言っちゃ駄目』と、強く釘をさした。
あの二人だけの『秘密』。
幼心に『葉月ちゃんとおじさんは恋人?』と思った時期があった。
──『そうだったらいいな!』──
そんな風に期待したことも。
だけど──葉月は、今まで軍人の恋人が過去に幾人かいた事を目の前で見てきたので、その感覚は消え去った。
そしてあの黒いおじさんが、母親の墓石に口付けたのを見てしまってから、葉月と彼との『異性的な匂い』は消え去っていた。
でも──! それが蘇った!!
だって……いまさら『会いたい』なんて言い出す葉月の気持ちが解らない。
それは今でも解らない。
いつでも会いたい気持ちを持っているのは真一と同様、強い事は解っている。
だけど、それは『義妹』として思っていた。
裸足で飛び出した時も、義妹として慕っていた義兄に会いたい衝動で、飛び出したと思っていた。
会えない義兄を、我を忘れて飛び出した物だから、見ている隼人の元に『戻ってきて』と真一は叫んだ。
だが──真一はあの時の葉月の眼を思い出す。
彼女の瞳は真剣で、一直線で強かった。
義妹にしては……思い入れが強いように感じた。
今になって……『どうしても会いたい』?
あっちが会いに来たときに会えればそれでいいじゃないか?
真一だって会いたいが、状況的に納得して諦めている。
会えるときにしか会えない人と。
なのに葉月は『隼人に秘密を打ち明けたい』と言い……その上、『会いたい』と切願している。
隼人との関係はより深まるばかり。
それで義兄に会いたいなんて?
何か……葉月は二人を同時に見ていて、どちらも大切とせっぱ詰まっている様?
そんな時に蘇ったのが、幼き記憶と印象だった。
(そんな事まで隼人兄ちゃんに言うつもりなのか? 葉月ちゃん!)
車があって部屋の灯りがついていない!
真一は胸騒ぎのまま、部屋へと急ぐ!
暗がりの中……二人がもめてもめて……どちらも打ちひしがれているのではないか?
(でも……葉月ちゃんは親父じゃダメなんだ!)
そう思っている。
(親父なんか……に、闇世界に連れて行かれちゃ、俺が困るんだよ!)
あんな『へんてこ精神』のクソ親父に、たった一人側にいてくれている葉月を取られるなんて、絶対に許せなかった!
葉月はこっちの世界で幸せになってくれなくちゃ困る!
もし? クソ親父がこっちの表世界にいるなら、多少は真一も考える。
叔母の相手として。
だけど──そうじゃない、今の状況はそうじゃない。
昔、子供だった真一が描いていた夢のような状況はあり得ないのだ!
(だから……隼人兄ちゃんじゃなくちゃダメだよ!)
真一の心は急くまま、三階に辿り着いて、胸ポケットからカードキーを取り出す。
それを外のインターホンにスラッシュさせた。
──ガチャ……──
中玄関のドアにもカードを通して開けると、玄関も真っ暗だった。
「ただいま──!!」
声を放っても……返事がない。
その上……人の気配がない。
(……)
なんだかゾッとしてきた。
まさかとは思うが? まさかとは思うが? 思い余って差し違えたとか!?
真一は急いでスニーカーを脱いで玄関に上がった!
「葉月ちゃん? 兄ちゃん?」
リビングに入ると……灯りも点いていないのにテーブルには夕食の跡!
(え! もしかして!!)
今度の予想には……真一は頬が燃え上がり熱くなるのが解った!
気が付いたが、時『既に遅し』──!!
──かちゃ……──
「!」
葉月の部屋のドアが開いたのだ!
「真一! どうした? 驚くじゃないか!?」
出てきたのは隼人。
彼は身体にピッタリとフィットする黒いトランクスと、カッターシャツを羽織った姿で出てきた。
髪は多少乱れていて、彼もちょっと慌てて出てきた様子だ。
(し、しまった──!)
真一は思わず……両手で顔を塞いで隼人に背を向けた!
(俺の思い込みかよ!?)
週末の……甥の自分が帰宅しないと決まっている『夜』。
しかも隼人が一週間もの休暇を取って帰ってきたばかり。
久し振りの恋人同士の時間じゃないか!?
二人が一つの部屋で、分かち合う事は一つ。
それを邪魔してしまった事に気が付いたのだ!
(告白はまだしていないって事か?)
そうでなければ、隼人とこんなに落ちついて睦み合えるはずない。
真一はそう思って、思い込みで飛び込んできた事を後悔した。
『胸騒ぎ』は大外れだ!
──パチ……──
部屋の灯りがついた。
隼人が葉月の部屋の側にある壁のスイッチを押したようだ。
「ええっと……その、忘れ物があって……。明日! 着ていきたい服を取りに来たんだ!」
そのまま隼人の顔を見れずに、スタスタと林側の部屋を目指した。
(うわー! 葉月ちゃん……困るだろうな!?)
別に二人が『そういう事』をしているのは、真一にだって判っている。
向こうの大人側が真一を子供側としてそんな素振りは絶対にちらつかせない完璧な気遣いも……良く知っていたから。
だから、彼等の気遣い通りに真一は『子供として』知らぬ振りをしなくてはならない。
隼人の部屋に入って、共同で使っているタンスを真一は開ける。
別に……忘れ物なんてないのに、目に付いた愛用ティシャツを一枚、とにかく手にとって直ぐに引き出しを閉めた。
「真一。葉月だけど──」
隼人が部屋口で、繕うように黒髪をかいていた。
「あ、うん。もう帰らなくちゃ。無理を言って外出してきたんだ。もうすぐ門限だし、ゆっくり出来ないから、そのまま休ませてあげて」
胸にティシャツを一枚抱きしめて、真一は隼人の横をスッとすり抜けようとした。
「えっとぉ……出てくるから待っていろよ」
隼人がフッとすれ違い様、囁いた。
「いいよ……きっと気にするから」
「なんだ、解っているんだ。葉月の反応──」
「男同士だと思って言うけど? 俺だってそれぐらいの気遣いは出来るよ。女性に対して失礼だろうからね──」
「……そうか、解ったよ」
隼人が頬を染めている真一に、寛大に微笑んだ。
でも……。
「シンちゃん? どうしたの……?」
黒いガウンを羽織った薄着の葉月が出てきてしまった。
「ええっと……忘れ物」
真一は何故か見慣れたその叔母の姿が直視出来ずに、俯いてしまった。
「すぐ、帰るよ──」
真一が小走りでリビングを出ようとすると……。
「シンちゃん……隼人さんに話したわよ」
「──!」
葉月の静かでしっとりとした声が背中に届き、真一は立ち止まった。
驚いて隼人に振り返る。
「葉月……今は……」
隼人が困っていた。
(え? じゃぁ……何もかも解り合って?)
真一はさらに衝撃を受けて、隼人を見つめた。
「聞いたの? 兄ちゃん……俺が……」
隼人が俯いた。
「……」
真一にどういう顔をすればいいのか解らないというような、お兄ちゃんらしくない顔。
(それでも……二人は抱き合っていた?)
「義兄様の事……話したわよ。私の気持ちも全部──」
「真一……俺、その……」
真一は葉月と隼人を交互に見つめた。
「ちょっとだけ、お茶でもしていったら?」
「でも──門限が近いし」
葉月は優雅に微笑んでくれたが、真一は俯いた。
何もかも話した葉月を、隼人が受け止めてくれた事が充分に解った。
二人がその後、さらに確かめ合うように分かち合っている所を、水を差してしまった気まずさで、真一は逃げ出したい気持ち。
「そう、だったら……気を付けて帰ってね。明日も鎌倉まで気を付けるのよ? 叔父様達に宜しく伝えてね?」
葉月は無理強いはせずに、ニコリと微笑んでくれた。
「解っていると思うけど、この事は鎌倉では言わないでね」
「解っている。俺と葉月ちゃんと決めたオチビの秘密だから……」
「……」
隼人が気まずい顔でスッと林側の部屋に入ってしまった。
(はっ! しまった!!)
真一は慌てて、隼人を追いかけた!
葉月も、そんな隼人を自室前で不安そうにただ見ているだけ──。
「勿論……! これからは兄ちゃんも『秘密』の仲間だよ!」
「有り難う」
隼人はベッドの上に置いているジーンズとティシャツに着替えている所だった。
彼は小さく微笑んでくれたが、返事は素っ気なかった。
「ごめん……その俺の為に、葉月ちゃんは誰にも言えなかったんだと思う」
「そうだな」
隼人はティシャツを腕に通して、頭に被った所だった。
「真一……葉月を助けると言っていたな」
「え? うん……こんな事知っても隼人兄ちゃんは驚くと思って」
すると隼人がいつもの余裕の笑顔を滲ませた。
「その必要はない。俺は充分に解ったつもりだよ」
「──!」
いつもの……頼りがいある笑顔だった。
真一は腰から力が抜けそうになった。
「よ、良かった〜」
ホッと一息吐くと、隼人が笑い出した。
そして、ジーンズ姿になって部屋を出ようとしている。
「その……良かったな。生きている親父がいたんだから……」
隼人は真一の前に来ると、ポン……と頭を撫でてくれた。
「に、兄ちゃん──」
「ああ、それから……もう一つ知らせたい事が」
隼人は急に思いついた様に、男同士の触れ合いを眺めている葉月の元へと向かった。
そして、隼人は葉月の横に並んだかと思うと、彼女の肩を力強く自分の方へと抱き寄せたのだ。
「……いいだろ? 葉月」
「……うん」
葉月は隼人に抱かれるまま、彼の肩に寄り添って麗しく隼人を見上げたのだ。
その熱っぽい叔母の眼差しに真一は何かドキリと胸騒ぎがする。
「……結婚する事に二人で決めたんだ」
隼人が葉月を抱き寄せたまま……照れくさそうに微笑む。
「けっ、結婚──!?」
さすがに真一も飛び上がった!
こんな急展開があるのか? と……。
いや? 二人の間でここの所、何か変動が見られたのは真一も解っている。
どんどん親密になって行く二人が『結婚』という事を考えていたから?
それがあっての『告白』で、それが飲み込めたから『やっと決心できた』という事!?
とにかく──真一は驚いた!
それも、それも……あんなに男性に頑なな若叔母が……あんなにしとやかな女性の顔をして、熱っぽく男性を見つめて……もう彼しか見えないように身を委ねているじゃないか!?
「……」
真一はそんな二人の姿に暫し、茫然として見つめていた。
「まぁ……本格的な話し合いは、これから固めるけど。真一にはその心積もりは伝えておく」
隼人の声に、真一はハッと我に返った。
「お、おめでとう……」
戸惑うが、自然とその言葉が出た。
そして──笑顔が浮かぶ。
「おめでとう! 俺は良いと思うよ!」
飛び上がると、二人が顔を見合わせてホッとしたように微笑み合っている。
「でもね。決めたばかりだから、これも鎌倉にはまだ言わないでね」
「うん、解った。黙っている!」
「それで……食事しながら葉月とも話したんだけど」
今度は隼人がまた緊張しながら……真一に話しかけてくる。
「なに?」
「葉月と真一には『御園』でいて欲しいから……俺も『御園』になろうかと思っているんだ……」
「そこまで!?」
真一は、隼人の用意周到な進行に、またまた驚いた!
ただ『結婚』を言い出したのではないと……解ったから。
真一なんて、今、隼人がそれを言わなければ、葉月が『澤村』になるんだという事すら思いつかなかった!
ただ、二人が結婚するという二人の幸せな姿しか……。
隼人が『婿養子』という事まで、決心していたなんて!?
「それはね? 今度、パパとママとも相談するから、安心してね? シンちゃん」
葉月も落ちついている。
「わ、解ったよ……」
真一にとっては嬉しいを通り越して……ただ、ただ衝撃だけだった。
「ええっと……やっぱり。俺、もう帰るよ」
真一はクラクラする頭を抱えて、ふらりと玄関へ向かうことにする。
心配してヤキモキしていた事など……隼人の大きな大砲でドカン!と、撃ち飛ばされた気持ちだった。
「そこまで送ろう──。葉月、そこ……片づけてくれるかな?」
隼人がサッと真一の後をついてきた。
薄着の葉月は、隼人に言われるままリビングにいる事にしたようだ。
「じゃぁね……シンちゃん」
彼女の落ちついた優雅な笑顔。
「うん……おやすみ。葉月ちゃん」
「行こう──」
葉月に笑顔を返すと……なんだか硬い表情の隼人に急かされるように、肩を抱かれてリビングから連れ出された。
自転車を手にしながら、隼人にマンション玄関まで送ってもらう。
「夜道、気を付けて」
「うん……」
何もかも知ってしまったと言う隼人と二人きりになると、何故か言葉が交わせなくなっていた。
「あの……兄ちゃん」
真一が見上げると、隼人は何もかも解っているように微笑むだけ。
「真一は、その『黒猫』の親父をどう思っている? 突然、生きていると知って戸惑っただろうけど」
ついに隼人の口から『黒猫』と出てしまって、真一は身を固めた。
「どうって……『クソ親父』だと思っている」
「あはは!」
隼人が笑ったので、真一は驚いて彼を見上げた。
「いや、俺もね──。横浜の親父の事はそう思っているから、今でも。それで良いと思うよ。ただ……思うままを……親父にぶつけた方が良い。俺は……親父には言いたいことを言わずに来てしまったから、つい最近までは、親父にすら何も伝えられなかったから──」
「そうだったんだ……」
「反抗でもなんでもいい──。感じているままぶつけてみたらいいさ。そうすれば……どんなに離れていても自然と親子になれるよ」
「兄ちゃん……」
やっぱり、彼は大人だと思った。
真一が今、迷っている事も戸惑っている事もお見通しだ。
そして不安も──。
それに……彼はクソ親父の事をどう思っているか知らないが、真一の前では『彼は父親』として話してくれる。
それも……嬉しかった。
「鎌倉に帰りたいのも、会えるかも知れないからだろう?」
「え? うん……兄ちゃんが休暇の間に俺の誕生日が来たんだけど。親父……姿を現さなかったから、次のあり得る日はこの帰省中かな?」
「で、なければ……命日か」
急に隼人の目がスッと輝いたような?
「えっと、スニーカー有り難う。あれ、本当は誕生日プレゼントだったんでしょう? 俺の誕生日は、母さんの死と繋がっているから、気を遣っておめでとうは避けてくれたんだね」
「え? うん、まぁ──敏感な時期だと思って」
そういう隼人の手の込んだ気遣いも真一は尊敬している。
「大丈夫だよ。俺──」
「解っているよ。真一には通じているだろうと思っていたから」
「うん」
真一は満足げに微笑んで、自転車にまたがった。
『じゃぁ……』と漕ぎ出そうとすると……。
「真一、もし──その『クソ親父』に会ったら伝えてくれ」
「え? なに?」
「お前の叔母と結婚する男が現れたとね──」
「──!!」
真一は驚いて、ペダルに乗せた足を降ろしてしまった!
「男同士の約束で、葉月にはこの事は言わないでくれ」
隼人の目は鋭く輝くばかりだ。
「……会えない方が確率高いけど」
「とにかく……伝える事が出来るようだったら頼む。一度──話せるなら、話したい。無視されたならそれでもいい──でも」
隼人が真っ直ぐに……真一の向こうに見える、丘の下の海原へと視線を走らせた。
「その黒猫兄貴は絶対に、俺の所に来るだろう。それを聞けばね──」
「!!」
真一はゾッとした。
その隼人の目が、闘う目だったから。
そして確信した。
やっぱり……クソ親父と叔母は繋がっていて、それを隼人が断ち切ろうとしている事!
真一の親父としては認めてくれたのに。
真一の父親としては認めていて、なおかつそれでも『闘いたい事』。
それはやっぱり???
その目は……『男』としての目だと真一は思ったのだ──。