──『黒猫部隊』──
何処かで暗躍する組織の話などは、外国では良く耳にしたものだ。
だが──それが……自分が愛している女性と深い関係となると、真実味があるようで、逆にまったく実感がない。
そんな関わりが自分とも近くなることなど、隼人にはまだ受け入れられない──。
「でも……」
葉月がフッと呟く。
「私もどのようなことをして義兄様が生きているか本当は良く知らないけど。表ではたくさんの企業を持っているみたい──」
「表稼業があるのか?」
葉月がこくりと頷いた。
「私にもシンちゃんにも……飛んでもない金額だろう贈り物をするから──」
「あの時計とか?」
「義兄様は昔から腕時計が大好きで、よく集めていたから──。シンちゃんには毎年、違うモデルの『ロレックス』」
「葉月には──?」
「色々──」
「……財力も半端じゃないって事か?」
「たぶん──。人に出来ない事を簡単にしちゃう人」
『人に出来ない事』
葉月の儀式もしかり……そして、行方不明になって闇部隊を持ちながら企業を持つ男。
隼人は愕然とした。
そんな……葉月よりも10歳以上も年上で、それだけの『力』を備えた男が、葉月の心を鷲掴みにしている事に……。
自分はただ……彼女の側にいることだけが『勝てる事』。
そんな気がした。
初めての男。
彼女を絶対に見捨てない男。
お嬢様である彼女を満足させることが出来る器量を持った男。
「くそっ!」
──プァ!──
握り拳をハンドルに叩き付けると、クラクションが単発的に響いた。
「隼人さん……でも! 私の話も聞いて? お願い!!」
打ちひしがれる隼人の腕へと葉月が再び挑んできた!
「もう、解っているの。もう……いいの!」
『なにが──!?』
隼人は言葉には出来ずに、葉月の掴む腕を払って顔を背けた。
「何年も待ったけど、義兄様は結局、帰ってこない。ロイ兄様も右京兄様も──闇世界に浸かっている男の事は忘れろっていつも言っていたけど、私は聞く耳持たなかった──。そして義兄様も……絶対に、私をこっちに帰しちゃうし──。だから……こっちの世界で気があった男性と頑張ってみたけど、やっぱり駄目で……」
「当たり前だろ──!!」
「!!」
隼人が怒鳴ると、さすがに葉月が息を止めて退いた。
彼女は茫然として動きを止めてしまったほど。
「──! ご、ごめん……。その……」
「……隼人さんが言いたいことも、解っているわ」
葉月は力無く微笑みながら、栗毛をかき上げてそっと俯いた。
「結局……私の義兄様に対する気持ちの自覚が足りなくて……。中途半端に他の男性に身を委ねて、皆、傷つけたのは……私が、変わろうとか前へ進もうとかいう気を持つ気もなく、義兄様の事をいつまでも引きずっているとか……。そんな気持ちのまま、中途半端に男の人と付き合うから……『駄目になって当たり前』と言いたいのでしょう?」
「……」
隼人は『そうだ』と心で頷いて、唇は言葉が溢れ出ないように噛みしめて閉じるだけ。
「そういう事も……隼人さんが教えてくれた」
葉月が悲しそうに唇を歪めて、俯いた。
「──? 俺が?」
「勿論、達也ともロニーとも大佐とも……。皆の事は、側にいてくれている時は幸せだった。彼等は私をとても大切にしてくれた。 だけど……私がいつまで経っても……素っ気ないから、疲れてしまって……でも、見捨てたりはしなかったもの。そんな彼等がいつも別れる前に口にしたのが『結婚』。それが怖かったの。結婚は……その男の人に全てを委ねることでしょう? 二人でなんでも一緒に進むことでしょう? 兄様になんでも守ってもらっていた私が、違う男の人に守ってもらう事でしょう? 兄様となんでも進んできた私が、その人と一緒に今度は進むことを意味するのでしょう?」
ドキリと隼人の胸の鼓動が波打った。
まさに隼人は今、『過去の彼等』と同じ状況に辿り着いている。
「出来ないと……思ったわ! 彼等に義兄様の存在を隠して結婚することも。彼等に義兄様の存在を打ち明けたとして、『義兄の事を認めて欲しい』なんて! そんなの絶対に無理に決まっている──だから、黙っている事も、打ち明けることも……怖かったの──!!」
「──!!」
彼女がある程度の関係まで達して、それ以上を乗り越えられない壁は『男嫌い』に始まって、それを解こうとした『兄貴』が、何よりも邪魔をしている事を隼人は初めて痛感した!
そして、その『壁』がなによりも……今の隼人に立ちはだかっている大きな『障害』!
だけど、一つホッとした点があった。
葉月が『結婚』という意味を、『義兄と決別して他の男と供にすることだ』と捉えている事。
曖昧な気持ちで、義兄への未練もうやむやにして、言われるまま結婚はしないという、気持ちと意味と意志は持っていたから──。
「でも……私は義兄様とは縁は切れない」
「……どうして?」
『どうして!!』と、本当は強く言いたいところを、隼人は堪えに堪えて、優しく問いただしてみる。
「だって……義兄様と一緒にここまで来たんだもの。義兄様はシンちゃんの本当のパパだもの。私の身体を操っているとか、姿を消して息子を捨てた男だとか……好きなときに現れて、適当に私を弄んでいるとか……闇の男だから、死んだと思えとか……。いずれ話したとしても皆、『忘れろ』と言うに決まっている。そう思われても仕方がない関係だけど。それは私と『お兄ちゃま』だけが知っている、私達だけの関係だもの。たとえ、今後──男と女として会うことがなくても、私は義兄様の義妹でありたい──。もし、義兄様がこっちに帰ってきても少なくとも妹として待っていたい……。もし、義兄様が帰ってこなくても……私は『お兄ちゃま』の無事を祈っている。私は……お兄ちゃまの最後の味方でいたい。どんなに『彼は悪者だ』と言われても──」
「葉月──」
拳を握って……隼人はうなだれた。
彼女は本気で彼を『愛している』。
こんな冷たそうで凍えた心を見せていた彼女の奥底で、こんなに『熱い純愛』が隠されていたのを、隼人は今知って愕然とした。
──『私達だけの関係』──
隼人すらも入る隙がない、誰も理解できない、理解も望まないという彼女の、一番大事な持っていたい『関係』。
誰も邪魔は出来なくて、誰も壊すことは出来ないのだと葉月は言っているのだ。
葉月は始終、涙に暮れていた。
見たこともないほど、涙で顔をクシャクシャにしている。
化粧は取れて、彼女の顔は人には見せられないほど、まぶたを腫らして目は赤くなっている。
今……葉月が本気で泣いている。
「言えないから……黙っていると彼等は私を焦れったく感じて『結婚』と言うの。それだけ、愛されている事も良く解っていたわ──。でも、隼人さんだけ……」
そこで葉月は黙って、また……声をしゃくり上げて泣き始めた。
だが……葉月は懸命に唇を動かして何かを言葉にしようとしている。
その彼女の今まではありえない『懸命さ』を隼人は見届けようと思う。
だから──ジッと待っていると……。
「達也も遠野大佐も……その言葉を口にした途端に変な出来事が起きて、別れざる得なかった理由があったけど……。ミャンマーの事もなく、大佐が無事に遠征から帰還してきたとしても……私はたぶん、逃げていたと思うわ。もし、万が一、結婚したとしても……。今まで以上に達也も大佐もロニーも困らせていたと思うの。だから……ロニーが結婚を言い出した時に、『別れよう』という話になったの。これも偶然だけど……私が丁度、フランスへ出張へ行くことになって、その間に、ロニーは、私にはその気がないのだと悟ってくれたんだと思うわ」
葉月は涙を流しながら……一時黙り込んだ。
彼女の息が切れている程、一生懸命に『本心』を語ってくれている。
隼人は黙って見守っていた。
そして──。
「でも……隼人さんだけには、黙っていられなくなったの。本当の私を知って欲しかったの……。あなたが一生懸命だから──。今までみたいに……『駄目なものは駄目なのだ』なんて──。結婚という関係がちらついた時に戸惑う私が逃げてきたように……。そんな事は隼人さんには出来ないと思ったの。『駄目なものは駄目、受け入れてもらえない』と、最初から向き合いもしないで諦めていた……ううん、自分勝手に放棄していた私の『本当の身勝手さ』を、隼人さんは見える位置まで、私を連れてきてくれた。だから……だから……余計にお兄ちゃまの事を『忘れられない自分がいる』と知ることも出来たの。だから……だから……辛いけど、その自分を認めて、怖いけど──。嫌われるかも知れないし、許してもらえないかも知れないけど──。『このままじゃ、同じ事の繰り返しだ』って……思ったから……」
「葉月……」
隼人の心の奥に、ふわっとした何か……暖かいものがポツンとさしたように思えた瞬間。
「それで……話しても駄目なら、やっぱり私は駄目な女で……。そしてもう、『中途半端』はやめて、どちらか一つに『真っ直ぐにならなくちゃ駄目だ』と思ったの」
「……だから? 『やり直す』とか言い出したのか?」
「────。そうよ……」
喉から絞り出すように……涙声の葉月がやっと答えた。
だが、ここで隼人はまだ腑に落ちないから思うまま彼女に問う。
「どちらか……一つに真っ直ぐになると言ったな? 何故? やり直すのが『兄貴』でなくて『俺』の方を選んだんだ?」
「……兄様への想いは私の『片想い』 ただ、私が引きずっているだけ」
「……」
隼人は『そうかな?』とふと思ったが、ここで彼の気持ちは的確には想像し難かった。
「兄様とは……義理兄妹という関係にプラスアルファで肉体関係があるだけ。兄様は割り切っているのよ。私が外でちゃんと立てるように……それだけ。困ったときだけ、来てくれるだけ。それが一番心強かったのは本当よ。辛くても頑張っていれば、困ったときこそお兄ちゃまは来てくれる。それだけ考えて今までやって来たんだもの……。お兄ちゃまと過ごす時間は、別世界だったわ」
「どんな……時間と世界?」
隼人は怖いが聞いてみた。
「別世界よ。ここにいる私じゃない私がいる世界よ」
「俺が知らない葉月とは?」
「ううん……隼人さんも少しは知っている私よ。でも──違うの。そこにいる私は……昔のままの私だと思う。そして……お兄ちゃまも昔のままのお兄ちゃまに戻れるんだと思う。私達──なくしてしまった姿を二人だけで取り戻していたんだと思う。いつも無口で冷たくて怖い顔をしているお兄ちゃまが、微笑んでくれたり。声を立てて笑ったり……ふざけたり……。外の人には怖い顔をしながらも、私にはそっと笑ってくれて、茶化したりとか……。そんな楽しそうなお兄ちゃまを見るのがとても幸せだった。お兄ちゃまが、私の事をみて笑ってくれるのが好きだったの。我が儘を言っても、ちょっとぶっきらぼうに冷たい振りして……後で叶えてくれて驚かすの。海辺でお散歩をする時に、手を添えてくれる優しいお兄ちゃまを見られるのは……そんな時だけ──。私も、そんなお兄ちゃまを見て、微笑むの──。短くて、直ぐに終わって──また、お別れ。お兄ちゃまは闇夜に私は光とかいう表世界に」
『その繰り返し──』
最後に葉月が切なそうに呟いた。
隼人はまた……愕然とした。
今、隣にいる彼女は……隼人が知らない『恋する女の子』そのものだったから。
隼人には……勿論『一年』という時間は比べものにならない程短い期間だが、そんな素直に『人を真っ直ぐ見つめる彼女』なんて見たことがない。
何処かで立ち止まって、何かに怯えて、焦れったいほど内に籠もっている。
そんな葉月しかしらない!
──『そんな楽しそうなお兄ちゃまを見るのが、とても幸せ』──
それは……葉月だけの『純愛』ではないか!?
そんな想いを自覚無しでたった独りで何年も抱えて、そして目覚めたのは……『俺』と出逢って『見えるところまで来たから』……と、言う事らしい。
なんて皮肉な事なんだと、隼人はうなだれた。
でも──!
隼人は拳をハンドルに当てたまま、スッと顔を上げる。
目の前のフロントガラスには、青い空が徐々に赤く燃える夕焼けに染まり、広大な海が広がっていた。
(俺も……ここまで来たんだ!)
その『自信』はあった。
彼女の口から、彼女の意志で……『本心』を伝えてもらった。
(これからどうする──!?)
そんな風にジッと黙り込んでいる隼人を、葉月は不安そうに見つめていた。
ハンカチを握りしめて、目元を拭きながら──。
だが、隼人はそんな葉月の様子は視界の端にも見えなかった。
「……お兄ちゃまとは供にいられないのだと解ったから」
「……」
葉月の言葉も聞こえてきたが、隼人は反応しなかった。
「だって、お兄ちゃまの所へ行くという事は私もこの世から姿を消して、闇の中で暮らすという事だもの。昔は後先考えずに、それでも良いと思っていたけど。もう……それも出来ない。そんな勇気もないくせにいつまでも未練を持っているのはおかしいもの」
「……」
「隼人さん?」
「……」
隼人が動かずに水平線ばかりをジッと見つめている姿を、葉月がさらに不安そうに見つめる。
「隼人さん……」
もう、自分の正直な気持ちは伝え終わったのか、葉月は隼人の反応を待っている。
でも……『解った』とも『もうこれで終わりだ』とも言い出さないので余計に不安になったのか、葉月はまた……すすり泣き始めた。
「いままで──有り難う。私、隼人さんの真っ直ぐな姿が好き。優しく心の絡まりを解いてくれる声も好き。私がちょっとだけでも前に進むと、とても喜んでくれるあなたがいると、とても嬉しい。泣いていると、直ぐにでも側に……私の心の側にいてくれる。どれだけ……あなたの声が私に届いたか解らない程、たくさん残っているわ。だから……もう、黙っている事が出来なくなって、そして私を許して欲しくて……。そうじゃなければ……今日だって今までの事は話さない」
「私……嫌われても、サヨナラを言われる前にこれだけは言いたかったの。隼人さんが見えるところまで連れてきてくれて知った事だから……『知った自分』を、教えてくれた隼人さんに……考えさせてくれた隼人さんに……。だから……無駄にしたくないの。今日までの事──」
「私……あなたのように真っ直ぐになりたい」
「……」
黙っていても、途切れ途切れに語りかけてくる葉月。
「解った」
隼人はそれだけ淡泊に呟いて、サッと運転席を降りた。
『隼人さん……』
絶望に滲んだ彼女の声。
それに構わずに、隼人は運転席のドアを『バタリ』と締める。
『う……う……』
葉月の嗚咽が閉じたドアの向こうから漏れて聞こえてくる。
肩越しに振り返ると、葉月は助手席で崩れて泣いていた。
だが……隼人はそのまま、海が広がる目の前の防波堤に向かった。
車の先、コンクリートの防波堤。
下を覗き込むと直ぐ下は波打つ海水。
ザッパン!──と、コンクリートの壁にぶつかっては、白い飛沫を空中に散らしている。
「……っしょ!」
隼人は、その上に立ち上がった──。
もう一度、後ろにある赤い車に振り返ると……葉月がそんな隼人を、訝しそうに眺めている。
だが──怖くて外に出られない様もうかがえた。
隼人はもう一度、海原に向かって水平線を睨み付ける。
「──何もない」
頭の上には、潮風に煽られるまま翼を風に任せている海猫が、夕暮れの空に乱れ飛んでいた。
隼人はそこを降りる。
──コンコン──
向かった先は、葉月が動かぬ助手席。
その窓を叩いた。
泣きはらした目のまま、力無く……降参したように葉月がドアを開ける。
「おいで……ウサギさん」
「……」
真顔で手を差し伸べる隼人を、葉月が怯えたようにして見上げる。
「……うん」
差し伸べた隼人の手に頼らずに、葉月が助手席を降りた。
「この上に立って」
「え?」
隼人は今し方、自分が立ち上がった防波堤の上に、葉月を登らせようとした。
「いいから……立って」
「……うん」
そんなに高い場ではないので、葉月は片足を乗せてスッと……バランスを上手に取りながらコンクリートの上に立ち上がった。
隼人ももう一度、登った。
二人で一緒に広がる海原に向かう──。
「大島まで行けと言われたら、どうやっていく?」
「え?」
急にそんな事を言いだした隼人に、葉月は面食らいつつ隼人を見上げてきた。
「船も飛行機もなしだ」
「……それなら……泳ぐしかないじゃない?」
「無理だと思うか?」
「うん……無理よ。父島なら色々手を使ったらいけるかも?」
「物理的にはね」
隼人はフッと微笑んだ。
「どうしてそんな事を聞くの?」
首を傾げる葉月に隼人はニコリと微笑む。
葉月は、その笑顔に安心するどころか、さらに身を固めて怯えたようだ。
訳が解らないと言ったところだろうか?
「──いいか? 葉月」
「え? ええ?」
隼人は不安定な防波堤の上のまま腰をかがめて……
「きゃぁ!」
……腕を肩にかけ、足をすくって……葉月の身体を宙に浮かせる。
「おっと……!!」
葉月の身体を抱き上げると、不安定な防波堤の上、さすがによろめいた!
「なにするのよ! 落ちるじゃない! 降ろしてよ!」
隼人の身体は、葉月を抱き上げてグラグラとよろめき、今にも海側へと落ちそうになる。
「やめて! 怖い!」
葉月が必死に隼人に身体にひっついて首にしがみついてきた。
「ふう……」
なんとか、バランスを取り終え、隼人は葉月を見事に抱き上げたまま、防波堤の上に立っていた。
「……」
葉月は隼人の肩に顔を埋めて、目をつむっていた。
「葉月……目を開けて」
「……」
首にしがみついている葉月がそっと目を開けて、すぐ側にある隼人の顔を見つめる。
「……俺が今ある力はこんなものだ」
「──!」
葉月が何か気が付いた顔をして固まった。
「お前をこうして抱き上げてもふらつくほどで……下手すると海に落とす」
「……」
「船も用意できない、飛行機で安易に飛ばすことも出来ない。でも……」
「でも……?」
隼人の眼鏡の奥の眼差しを葉月がしっかりと捉えて呟いた。
「海に落ちるなら、俺も一緒に落ちてやる」
「隼人さん……」
「その代わり、苦しいけど一緒に泳いでもらうぞ」
「……隼人さん」
「兄貴のように、簡単に助ける力は持っていない」
「解ってる」
「途中で、お前と一緒に力尽きて溺れるかも……」
「それでもいい……」
「今から先、なにもない海の前に……お前をこうして抱き上げるのが精一杯の力しかない」
「私なんか……抱いてもらっているだけじゃない」
「なるべく落とさないよう踏ん張る」
「降ろしてよ! 私も隣に立つから!」
「生意気だな。そんな立つ力もないくせに」
隼人がニヤリと笑うと、葉月がいつものようにちょっとだけふてくされた顔。
「葉月の心は今、『裸んぼ』……生まれたての赤ん坊と一緒だな」
「なに? それ?」
「だから……今、俺が抱いてあげている。もう……裸になった葉月の心は『俺の物』だ。俺が今、受け取った。今までの曲線を彷徨っていたお前の生き方も、間違いも、まだある未練も全部。そして俺の心も……出直しだ」
「……隼人さん」
「葉月──解った。お前が『やり直す』と言ってくれた意味も」
隼人の眼差しが眼鏡の奥からスッと鋭く遠い水平線へと直線で走った!
「俺と一緒に……やり直そう」
「……はやと……さ……ん」
彼女の瞳が柔らかく崩れて行く。
珠になった涙が、キラキラと彼女のガラスの瞳からこぼれて行く──。
二人の頭の上を……海猫が舞っていた。
「隼人さんは海猫」
葉月がポツリと呟いた。
「猫にこだわっている?」
葉月がそっと微笑みながら首振った。
「ほら……」
彼女は子供のように笑いながら、空を指さした。
「隼人さんはハヤブサ。あんなふうにして大きな翼を広げて悠々と飛んでいるの」
「俺が?」
二人一緒に空に舞っている海猫を見上げた。
二人の頭の上を、ユラユラと弧を描いては海の上、陸の上、風に乗って戻っては去って行く。
「今は……海際をユラユラと飛んでいるけど……」
葉月が指を降ろして、ニッコリと隼人に微笑んだ。
「あの鳥がハヤブサになったら……隼人さんは大島まで、ううん……ずっと向こうまで! きっとすごい速さで飛んで行くんだわ。私、あの翼に捕まって、引っ付いていっても良い」
「葉月……」
まだ何もないけどきっとそうなる。
彼女は隼人を『信じていてくれている』。
そして夢だって見てくれている。
今度は、隼人の瞳が緩みそうになった。
でも……。
「お前にしがみつく力があればね……」
隼人は天の邪鬼に微笑んでみた。
「あら……私はパイロットよ? 操縦は任せて」
「言ったな!? 俺は飛ばされるだけかよ?」
「──かもよ? それが嫌なら、私なんかに舵を取らせないでね」
「なんだよ、それ──」
隼人は一瞬だけむくれたが……可笑しくて笑いだしていた。
やっぱり彼女は生意気なじゃじゃ馬だ。
彼女も笑い出していた。
「よし! 決めた──!」
隼人はそう叫ぶと、葉月を抱いたまま……サッと防波堤を飛び降りた。
突然、下に隼人が飛んだので、葉月はまた『ウッ』と声を詰まらせて、首にしがみついてきた。
「もう──。なに!? そんな乱暴に降りるなら、降ろしてよ!」
「だから……俺はこの力しかないから何処でも乱暴に連れていくかもな」
早速、いつもの調子に戻ったウサギに、隼人はツンとした呟きでお返しをする。
「葉月に、もう一つ……覚悟してもらおうか?」
「え? なに?」
やっといつもの二人に戻れたのに……隼人の硬い顔。
それを見て、葉月がまた気を改めたように腕の中、身体も顔つきも硬直した。
隼人は車の前に戻って、ボンネットの上に葉月を座らせた。
彼の腕から、『ボン』と座らされて葉月はキョトンを隼人を見上げる。
──バン!──
ボンネットに座った葉月の身体の両脇。
そこに隼人が両手を力強くついた!
「な、なに?」
彼の腕に囲まれて、彼が身体を狭めているので葉月は降りることも出来ない。
隼人の顔が目の前にあった。
彼の眼鏡の縁が……夕焼けの光にキラリと光った。
その凄んでいるような眼差しに……葉月は動く力を奪われる。
「俺と……結婚しよう」
「──結婚!?」
今まで以上、力がこもった彼の眼差しは真剣だったが、葉月は彼がつかれている両腕の間で、飛び上がりそうになった。
「ほらね──俺も、今までの男同様、ここまで辿り着いてしまったぞ? さぁ? お前はどうする? 逃げるか? それとも──?」
「……」
「俺は真剣だ。何も兄貴に取られたくなくて言いだしたんじゃないぞ」
「……わ、解っているけど……」
だが、この話の後に言い出されたのでは、彼がムキになっているとも取れる。
葉月は隼人の勢いを不安に思った。
「怖いのか? やっぱり──」
葉月は首を振る。
「……翼に捕まるから。ボロボロになっても、私が飛ばしてあげる」
そう言うと隼人が顔をしかめた。
「なんだって? そういう生意気な口は何処から出てくるのかな? お嬢ちゃん」
「い、痛い!」
隼人に真顔で、鼻をつまみ上げられた。
だけど、葉月も負けない!
「一緒に海に沈んでも……海底で手を繋いで歩くもの!」
「やっぱりお前は無茶しか知らないな?」
隼人がつまんだ指を乱暴に振り払ったので、葉月は鼻をやっと押さえて俯いた。
「嬉しいけどね──」
ふっと顔を上げると……眼鏡をかけている彼が優しく微笑んでいた。
葉月はその顔を……何かに捕らわれたようにずっと、ずっと続けばいいと見つめる。
自分の腰のすぐ側についているボンネットの上の隼人の左手を取った。
「……葉月?」
「この手も好き。私を整備して飛ばしてくれる……傷が耐えない手」
葉月はそれを手にとってジッと見つめる。
そして──その隼人の手をそっと唇に近づけた。
「──!」
「ここに……約束するのでしょう?」
葉月がそっと口づけたのは、彼の左手薬指。
「この前……私のここにキスしてくれたでしょう?」
フロリダで先に葉月の薬指に口付けてくれたのは彼だったから──。
「葉月……」
「私はあなたより、なにもない。むしろ……余計な物ばかり持っているから重いわよ」
「……ああ、メンテナンサーは力仕事だ」
「でも……今度は夢に逃げないで、現実にある私を見つけてくれたあなたと……」
「本当の私になって……飛ぶわ」
今度は葉月の眼差しが輝いた!
──『夢じゃなくて現実を……』──
彼女が……隼人を選んだのはそういう事。
それは隼人にも伝わってきた。
「……有り難う、葉月」
隼人は、葉月がまだ口付けている左手で、彼女の冷えた小さな手を握り返した。
「実は……指輪を既に買ったんだ」
「え!?」
「丁度良かった……葉月からもお印もらったから、自信を持って渡せるよ」
「じゃぁ……いつから!?」
「だから……言っただろう? 今決めたんじゃなくて、ちょっと前から決めていた」
「本当に──!?」
「それが葉月へのお土産。男が一人で買うのはちょっと恥ずかしかったぜ?」
「──うそ?」
「最高のお土産だろう?」
「……」
黙って見つめている葉月に耐えられないのか、隼人はそっと眼鏡の奥で、視線を落とした。
「うん……最高……」
空を包み始めた夕日に彼女の笑顔が輝いた。
隼人はそのまま……葉月の肩を抱き寄せる。
ボンネットに座ったまま、葉月も隼人の胸に飛び込んできた。
空には、何処までも続くいわし雲。
そして……風に舞い飛ぶ海猫の声。
その空の下──生まれたばかりの二人は見守られているかのように──。
──「これからだよ……葉月」──