ロイと細川の自宅前を通り過ぎ、車は繁華街も通り抜けた。
また……民家がまばらな郊外に差し掛かる。
このあたりに来ると、養殖場などが多い。
水平線の縁がうっすら細い筋でオレンジ色に染まり始めていたが、空はまだ青々としている小笠原の遅い夕暮れ。
延々と続く海際の道。
もう少し行くと、マリンスポーツなどを楽しむ若者を対象とした、リゾートペンションの地域に差し掛かる。
先日、隼人が早退した日に訪れた喫茶店がある界隈だった。
「もう、ここら辺で良いかな?」
「……」
防波堤が道路脇に続いている中で、車が停められるスペースがある場所が、隼人の目に飛び込んだ。
車のスピードを落としてみる──。
葉月は黙っていた。
そう……停めたら、いよいよ話す気でいるのだろう。
すると──。
「兄様はね」
急に葉月が呟いた。
「兄様は……」
隼人が停めようと目に止めた路肩が過ぎてしまった。
「なに……?」
隼人はそのまま運転をした。
車がスピードを上げると、また……葉月が黙り込んだ。
隼人の手も汗ばんできたが、何処かには車を停めたくて、先に見える景色から路肩を目で探す。
「──真一の本当の父親なの」
「──!!」
隼人の心臓のドクリと脈打って……そしてそこから流れる血液が、フッと冷たく身体中に巡った気がした!
(やっぱり──!)
驚きはしたが、取り乱す程ではなかった。
だが『予想』は『確定』した。
あの男は真一の……『本当の父親』だと──。
「それで……」
眼鏡の端に見える葉月の唇が震えていた──。
「それで……」
そしてタイトスカートから覗いている膝小僧の上を葉月は爪を立てていた。
「待った……ちょっと待て!」
「……」
隼人は片手で葉月を制して、運転に集中する。
葉月がホッと一息ついたのが伝わってきた。
やっと砂利地と雑草が見える路肩を発見。
隼人はウィンカーをあげて、そこにサッと車を無造作に停めた。
エンジンを切って、サイドブレーキを固定する。
隼人も葉月の様子に、もう……既に息が詰まりそうだ。
なので、窓を少し空かした。
「……実は、俺、なんとなく解っていたんだ」
隼人は葉月を見ずに、ハンドルを撫でながらフロントガラスに広がる海原を見つめる。
「!? 解っていたの? シンちゃんが真兄様の子ではないと?」
「ああ……途中からね」
それが何がキッカケであるか、いつの時期気が付いたかは、隼人は伏せることにした。
──『達也がフォトスタンドを倒したおかげで、真一にそっくりな男がいると知った』──
それキッカケで葉月がずっとほのめかしてきた『兄様』だとすぐに解ったなんて言えば、達也も知っていることを気付かれてしまうからだ。
だが──それが真一との縁者とは予感する前から、『疑問』を持つ出来事は沢山あった。
「春に……寮に帰るはずだった真一が頬に擦り傷を作って、マンションに戻ってきた事があっただろう? あの時、お前は誰かを捜すように……なりふり構わずに『裸足』で飛び出した。あの時から……『何かを隠している』と思っていた」
「……そう、やっぱりあの頃から?」
葉月は意外と淡々として落ちついていた。
隼人に何か勘づかれる素振りを何度かしてしまった事は自覚している様子。
「それから、岬の任務の時。真一が熱帯魚が入った瓶を手にして帰ってきただろう? 葉月は『真一に買い物を頼んだ』と言い、真一は『葉月は止めたが、自分の我が儘で飛び出した』と、言い分が食い違っていた。お互いにかばうように……。そして、まだ見知らぬ外国の土地を一人で歩けない真一が飛び出したわけも。真一はどちらかというと『感情的に行動をとる』ような子には見えなかったから。それに──その熱帯魚も、俺に手出しさせないほど、真一は一人で世話をする事に、とても神経質になっていて、まるで葉月の見舞い品というよりかは、自分が誰かから大切に委ねられ、育てる責任を任された様に俺には見えた」
その熱帯魚二匹は残念な事に、真一の多忙な訓練スケジュールと、隼人と葉月のフロリダ滞在で不在の間にあっけなく死んでしまって、もう水槽は片づけられていた。
だが……真一はそれを知って、多少は『責任』を果たせなかった自分を責めていたようだが……
『でも、俺が今、一番すべき事、大事な事──解っているから。だけど……面倒が見切れなかったこの魚二匹の事は絶対に忘れないし忙しいのに安易に生き物を飼っちゃいけない事は良く解った』
……なんて──結構、あっさりとしていて引きずることはなかった。
だが、大事にマンション前の海沿いに花を手向けて、亡骸を海へと帰した様だ。
「……」
葉月は目も合わさずに、隼人が今までに感じた『ひっかかり』を述べる様を、緊張した様子で眺めているだけ。
隼人は続ける。
「──誰かがいる──。そう思った。そうしたら葉月が『忘れられない男がいる』と言ってくれた。それがフロリダでさらに告げてくれた『兄様』という位置にいる男である事も。そして──それが想い届かぬ『姉さんの恋人だった人』である事も。だけど、それだけで──真一の縁者であるかもしれないけど、父親であるとは思いつかなかった。ただ……もしかすると、そういう事もあり得るかもぐらいに思っていた」
「!!」
隼人は、どうあってもフロリダで葉月が隠して飾っていた写真の事は伏せた。
なんだか、葉月の隠し事を裏から探った様な気がしたし──葉月がそこまで隠している事だから、『悪いけど先に見てしまった』という事を、葉月が知ると……上手く説明できないが彼女が傷つくような気がしたのだ。
だけど──葉月はそれは知る由もないから、そこまで読みとった隼人の『勘』に、驚いてしまったようだ。
多少、心苦しいが隼人はそうしておく事にした。
「私と兄様は……」
葉月の眼差しが、どこを見ているのか解らないほど彷徨って固まっていた。
さらに膝の上の手は更に爪を立てていて……唇も震えている。
隼人がそっとそんな彼女を眺めて……何を言い出すのか待っていたが。
「……葉月」
そっと彼女の栗毛の生え際に手を伸ばすと、しっとりと熱がこもっていた。
緊張のあまり、汗ばんでいるのだと。
「その……解っていると思うけど……」
「ああ、解っているよ」
肉体関係の事を言いたいのだろうと思って、隼人はそう答えた。
「別に恋人でもないし……」
「だろうね……」
「……」
葉月は今度は、指を口に運んで……その指を噛み始めた。
見たことがない葉月の仕草。
その指を噛みながら、葉月はとても苛ついているように見える。
「──どう言えばいいのか、解らない!」
「──!」
途端に葉月は普段は見せない追いつめられたような顔に歪めて
両手で栗毛を掻きむしり始めた!
「──解ったから、葉月!」
フランスで『抱いて!』と隼人に飛び込んできた時も、拒む隼人に対して、葉月が見せたあのせっぱ詰まった感情的な表現と同じだった!
隼人はそんな葉月の両手首をそっと掴んで、静かに静かに頭から離そうとした。
「解った。俺が質問するから、それに答えられるだけ答えて、他に付け加えたいことは葉月の意志で説明してくれ」
「……」
まだ困惑気味の葉月の痛々しい歪んだ顔を、隼人は静かに見下ろしながら
離した両手をサイドブレーキの上でしっかりと握りしめた。
やっと葉月の瞳が柔らかく緩んで、隼人をジッと見つめる。
「……うん」
子供のように葉月が頷いた。
「その兄貴が真一の父親ならば、何故? 真さんが父親という事に?」
「兄弟で、真兄様が弟だから──」
「つまり? 真さんの兄……?」
葉月がこくんと頷きながら、そっと隼人を見上げた。
隼人が驚かないのが不思議だという眼差し。
当然──隼人はフロリダであの写真を見て達也とそこまでは予想を立てていたから、驚くことは出来なかったが……。
『繋がらない線』が今の疑問として一番大きいのだ。
「驚かないのね」
「……ああ。真さんと真一は似ている。似ていて父親が彼でないなら、本当の父親は真さんと兄弟だという理由はしっくりするから」
隼人はそう誤魔化した。
葉月も納得したようだった。
「なぜ? 真さんが育てていた?」
「……」
葉月がまた……固まった。
暫く……沈黙が続いたが、隼人は葉月が落ちついて言葉を探しているのを、気強く待つ。
「姉様が亡くなって直ぐに、義兄様がいなくなったから」
「いなくなった?」
「どうしていなくなったかは、大人達は教えてくれないし、誰も知らないのかもしれないし。そこは10歳だった私には誰も教えてくれない。それに義兄様の事は『行方不明になった』と言うように、パパにも右京兄様にも言われたわ。谷村のおじ様も、おば様もご近所には『軍の任務で外国に出向いて帰ってこない』と言っているみたい」
「だったら……真一にそういう帰ってこなくなった父親がいるとか真さんという父親に『行方不明の兄弟』がいたとか……誰も説明せずに、真さんが一人っ子の父親だと押し通そうとしたのは何故?」
「……」
葉月が黙り込んだ。
その時、葉月の顔色が変わって、非常に緊迫したように身体中が固まった。
そして、隼人が握っている手も、また……凍りついていた。
「解った。それは後でいい。……それで? 弟である真さんが兄貴の子供を自分の子供として育てたんだ」
「うん……真兄様も皐月姉様を愛していたから……」
「それは、兄弟で同じ女性を? 姉さんは兄貴の方を愛していたのか」
「うん……でも、兄様は弟である真兄様の方が想いが強いから……って、弟と姉様を付き合わそうと、ワザと姉様を避けていたみたい」
「……そう」
「だけど、姉様の想いの方が通じたみたいで、結局、兄様が姉様の想いを受け止めたみたい」
それで真一が出来たという事らしい。
兄弟で想いを譲り合っていた光景が目に浮かび、そして……皐月が揺れていたこともうかがえる話。
(なんだ、結構な兄貴じゃないか?)
弟の為に身を引こうとしていた事は感心できた。
だが、それだけじゃまだその男の事を飲み込めない。
「じゃぁ……その兄貴が行方不明になった訳は葉月は知らない。そして、真さんが愛した女性の忘れ形見を大事に育てた事は俺も解る。それで……その後、その兄貴は何処に行ってしまって、葉月の前に現れるように?」
「……それは」
また葉月が凍りついた。
だが……今度は先程の様に『それは後でいい』とは、隼人は退く気はなかった。
そのまま葉月を訴えるように見つめた。
「葉月……それが今大事な事だと思わないか? 何故、兄貴とお前が繋がったのか……繋がり続けているのか、俺はそれが知りたいんだ。それさえ、教えてくれたら、後はもういい」
「……解っているわ」
だが、葉月はまだ言い出そうとしない。
隼人の胸の鼓動が早くなる。
ここが一番……一番……葉月と隼人を隔てている大きな『理由』であるはずだから!
「訓練校に入校した時、私がすごく荒れていたの知っているでしょう?」
「え? ああ、よくそう聞くね。特にフロリダにいた先輩からは……」
ロベルトも然り、フロリダ空部隊メンテ本部で出逢ったドナルドも、そう言っていた。
そして、葉月が男と喧嘩ばかりしていた気持ちも、隼人は理解しているつもりだった。
「私は別に姉様の様に、立派な御園の跡取りを目指す誇り高い軍人になるつもりなんてなかったの」
「……だろうね。とにかく男を痛めつけて仕返しをしたかったんだ」
「そう……」
葉月が力無く頷いた。
顔はずっと伏せていて、瞳も伏せ、隼人を見ようとはしなかったが、身体と顔はしっかりと手を握っている隼人の方へと向けていた。
「あんまり私が暴れるから、義兄様が止めに来たの」
「止めに? アメリカまで? どこから?」
「何処から来たかは知らない。でも、入校三ヶ月ぐらいして──突然、私の部屋に来たの」
「突然? それは……あの御園の家に訪ねてきたのか? お父さんはその時どうした? 行方不明になっていた姉さんの恋人、孫の父親が訪ねてきたんだろう?」
「……」
また、葉月が黙り込んだが、隼人はまた気強く待つ。
そして、今度は言葉でせかさず、ただ……葉月の両手をさらにきつく握った。
葉月がフッと顔を上げた。
額にはうっすらと汗をかいている──。
今にも泣きそうな顔で、でも……隼人にすがるように。
逃げるような素振りは見られないが、躊躇っているのが解る。
『葉月!』
心で叫んで、隼人はまた手を握り直した。
「その時。パパとママはいなかったわ。お祖父ちゃまがいただけ。お祖母ちゃまも外国にお出かけしていたし」
「……お祖父さんは? 彼が来てどうした?」
「お祖父ちゃまは義兄様にはその時会っていない」
「え? 葉月だけが会ったという事?」
「夜……私の部屋の窓から入ってきたから」
「部屋の窓から?」
隼人は眉をひそめながら、あの水色のリボンで留められているカーテンの部屋を、フッと思い出した。
それになんて怪しげな侵入だろうか?と、少しばかりゾッとしてきた。
「義兄様に……その時、抱かれたの」
「!!」
隼人の心で『バチン!』と、ゴムが切れて弾いたような衝撃音が響いたような気がした!
「抱かれた?」
「初めて、男の人と……」
「抱かれた?」
「13歳だったわ……。『男はそんなに悪い生き物ではなくて、女を愛する生き物だ』って……」
「13歳……だった?」
「私が暴れたりしたら、教えてあげて欲しいと……姉様の遺言だったと……」
「遺言……?」
喋り始めた葉月とは違い……隼人は茫然としていた。
目の前にいる彼女が……急に隼人が知っている彼女ではないように見えてきた!
今、現実離れした信じられない事を語っているのは俺の『葉月』なのか?
そんな風に、隼人の視線は、フラフラと定まらなくなってきていた。
葉月がユラユラと揺れているように見える。
「ちょっと、待った──」
隼人は、ついに握っていた葉月の両手を離して、運転席に深く身を沈めた。
額を押さえて、オレンジ色に染まり始めた水平線をジッと見つめた。
今度は視線は定まっている。
海の凪は静かで、外の夕暮れはじんわりと穏やかだ。
「あの……それで」
葉月の消え入るような声が聞こえた。
彼女は、俯いたまま……うなだれていた。
予想はしていただろうが、隼人が大きな反応を見せずとも、『衝撃を受けている』事が良く伝わっている様だ。
「ごめん──。ちょっと、黙ってくれないか?」
隼人は額を抱えたままうなだれ、もう片方の手で葉月が喋り出すのを制した。
「あの……」
葉月はすぐにでも何かを弁明したい様だが、隼人にはその後の言葉を聞く余裕は、もうなくなっていた。
まず、整理をしたい──。
(葉月の初めての男が誰だったなんて──)
『考えた事もなかった』と隼人は今更ながらにそう思った。
いや? そうじゃなくて、最初に葉月が『真との子供を宿したことがある』と教えてくれた時に、勝手に隼人が『それが葉月の初体験だ』と思い込んでいたのだ。
それ以前に──?
13歳なんて、子供じゃないか!?
遺言? そんな言葉が通用するのか?
そんな子供の葉月に『男は結構悪くもない生き物だ』なんて『身体』で教えた感覚が、『理解できない』!
何も解らない葉月に対して、彼は……彼は『無理強い』をしたのか!?
いつの間にか、隼人は唇を噛みしめながら、さらに拳を握って震えていたようだった。
「違うの! 義兄様は──」
そんな隼人に早く何かを理解してもらいたいとばかりに、葉月が隼人の片腕にしがみついてきた!
「隼人さんは今! 『子供』である私に対して大人である義兄様が無理強いしたと思っている!」
「……」
言葉は返せなかったが心では『そうだ!』と叫んでいた。
「まだ年端も行かない私に、姉様の遺言という一言だけで、無茶をさせたと、男として怒っているのでしょう?」
『そうに決まっている!』
葉月が握りしめている隼人の片腕を揺すってきた。
それを振り払いたい衝動に駆られていたが、隼人はそれをする力は起きなかった様で、ただ──葉月に揺すられていた。
それもそうだろう?
もし、葉月が『小さなヒナ鳥』だとしたら、その兄貴は『親鳥』だ。
葉月は一番最初に『抱いてくれた男』から『男』を知って、今に至っている。
それがなければ、隼人も触れられなかったかもしれない。
だが? 葉月が親類以外の男性に隔たりを持つのは、その兄貴以外の男への不信感は完全に拭われないから?
つまり『ヒナのすり込み』と一緒だ。
葉月は許せる親類の男から『本来あるべき異性との分かち合い』を知っただろうが
それだけの事で、やはり外の男は『くだらない生き物』にしか見えなかっただろう。
葉月の身体が覚えているのは……その男が教えてくれた、触れてくれた感触に、与えられた感触──。
その全てが身体の隅々に染み渡っていて、他の男がすることは受けつけない。
そういう事ではないか!?
もし、皐月の遺言を実行するなら、もう少し葉月が大人になってから実行すべき事であって、そんな年端もゆかない子供に何を教えて得があるというのか?
隼人が直ぐに感じた事はそれだった。
「聞いてよ! 隼人さん!!」
葉月はもう必死になっていて、一生懸命に隼人の身体を揺すっている。
彼女はその時は、既に涙を流し始めていた。
「決して無理強いじゃなかったわ」
『同意の上!?』
隼人は葉月がそれを承知した事にも、もう少しで怒りが込み上げそうになった!
「私、その時、その手の事は『知っていた』もの! だから『子供』でも解っていたもの! 男が女にすること! 最悪の形を見てしまっていたんだもの!」
「たとえ、男女の性交渉を『事件』で知ってしまったとしても! 身体も他の精神も子供じゃないか!?」
「私、兄様がする事はどういう事か解っていたわよ! 男と女が身体を合わす事が出来るから、それを兄様は私としようとやって来て、『お前を抱く』と言った意味も解っていたわよ? それが最初は痛いことも、血が出ることも、感じたら濡れることも、男の人が大きくなった固いものを入れるのが好きな事も! 裸になってあちこち触られる事も解っていたわよ!」
「やめてくれ──!」
葉月が掴んでいた腕を思わず、振り払った。
葉月は助手席へと突き飛ばされて、力無くうなだれてしまった。
隣にいる彼女が、今より幼くて小さな身体で、それを実行した事を想像しただけで、耐えられなかった!
それ以上に、日頃は『あからさまな性的表現』を避ける彼女が、あからさまな性的交渉の物理的な事を赤裸々に口走った事も耐え難かった!
『頭で理解しただけ』の事で同意し、それを受け入れた事を、隼人は受け止めることが今は出来なかった!
だが、葉月がまた果敢に隼人の腕にしがみついてくる。
必死に訴える葉月の顔は真剣だった。
子供のように泣きじゃくりながら──。
「あんな男達がいたせいで! あんな余計な事! 人間が出来るせいで! だから、姉様は死んで、シンちゃんは独りぼっちになって、兄様もいなくなっちゃったんだもの! だから──男をうんと恨んだ! みんな、嫌いだった! 暴れるだけ暴れて……私だって死んでも良いと思っていたもの! 学校を辞めさせられたら……私も兄様みたいにいなくなってやると決めていたんだもの! 学校を最悪の形で辞めて、パパもみんな困ればいいと思っていたんだもの!」
「──!?」
隼人は……初めて葉月の素の『叫び声』を聞いた気がして、ハッと彼女に振り向いた。
「葉月……お前、死のうと思っていたのか!?」
「──!」
葉月の動きが止まった。
しがみついたまま、隼人の袖を握っている手の力もそのまま……。
揺り動かしていた力は止まり、彼女の表情もそのまま止まった。
「わからない……。とにかく、いなくなろうと思っていたわ。とにかく……めちゃくちゃになりたかった……の……」
葉月の動かぬ瞳から、止めどもない涙が溢れだしてきていた。
13歳の少女だった彼女が、決めていた事は漠然としつつも、確固たる気持ちであった様だ。
「葉月──」
隼人は息を深く吸い込んで、ひどく心を殴られた様な衝撃を受けた。
だが……これで解った。
『悔しい』が理解できた。
そして隼人は再び、唇を噛みしめて拳を握る。
自分がいない時、起きていた『御園の世界』。
どんなに悔しさを感じても、その『時』に隼人が入る隙は何処にもなかった。
(もし、俺が頼まれていたら……)
『きっと兄貴と同じ事を選んでいた──』
そう思ってしまえたから……悔しいのだ。
こんなにせっぱ詰まった状態で、なりふり構わずに突っ走り砕けようとしている義妹。
きっと彼は見ていられなかったに違いない。
──『お前が痛めつけている男の全てが罪深き生物ではない』──
それを教えに来たのだろう。
それが何故? 身体であるのかはまだ飲み込めないが……。
でも──きっと、葉月はその時に『最悪』と『最高』の違いを知ることが出来たのだろう。
「右京お兄ちゃまが言っていた。本当は自分が従妹を抱くはずだったんだと──」
「右京さんが?」
「お姉ちゃまが頼んだ兄様は……義理兄様2人と従兄のお兄ちゃまの三人だったって……。私は真お兄ちゃまになついていたんだけど、真兄様は私を抱けないって言ったから……。従兄のお兄ちゃまが決心をしたって……」
泣きじゃくる葉月の口調は……なんだか幼児返りをしたかのように幼くなっていて、隼人は困惑したが、そのまま黙って聞き入った。
「右京お兄ちゃま……とても悩んでいたって聞かされているの──。それを見て、義兄様が右京お兄ちゃまに黙って……私に会いに行ったって……」
「!」
隼人はそれにも驚いた。
兄貴三人──せっぱ詰まった状況の中。
選んだ手段は『皐月の遺言の実行』!
だが、皆が子供の葉月への『大人の儀式』を誰がするかで苦悩した。
一番は葉月が最も慕っていた血縁関係のない『真』。
それを躊躇う真を見て、決心をしたのは『家族で兄貴』でもある右京。
当然……血縁関係にあるから苦悩するに決まっている。
法律上結婚は出来る血縁だが、彼と葉月は従兄妹同士というより『兄妹』に近いから!
それを見かねて、皆がそれぞれ苦悩している中。
一人決したのが……その『義兄』──!
『──そんな!』
隼人はまたショックを受けた。
その男がする事……。
全てが『悪者役』を自ら進んでする事に──!
彼は後で責められる事も、それが間違っているかもしれない事も……。
なにもかも解っていて、『全て責めを負う』という覚悟でたった一人……挑んだような気がする。
少なくとも隼人には──。
「それで? 右京さんはそれをどのように日本で知ったんだよ?」
「え?」
途端にいつもの落ち着きを見せた隼人を、葉月が泣きはらした瞳で見上げた。
「うん……と……」
葉月もひとまず、落ちつこうとすすり泣く声を止めて、手の甲で涙を拭い始めた。
「義兄様が知らせたみたい」
「右京さんは? 怒った? それとも──」
「勿論、黙って一人でした事だと怒ったみたい」
(やっぱり──)
隼人は溜息をついた。
「それで……葉月はその事について、兄貴がした後どうなった?」
「……」
「構わない、ありのまま聞かせてくれ」
初体験後の感想を恋人に述べることを、葉月は躊躇っている様だったが、隼人も、もう覚悟したし、これを聞かずして『勇気と前進』はあり得ないと、やっと冷静になれた気がした。
ここで取り乱していては、その兄貴が葉月の為にとしてきた『決心』になど、到底、及ばない気がしたのだ。
「姉様を触ったイキモノとは違うと……思ったわよ」
「優しかったんだな──兄貴は」
「……うん」
「それで? 葉月は喧嘩をやめたのか?」
「確かめてから喧嘩をする事にした」
「……」
つまり、兄貴の『賭け』は方法はともあれ『成果は出た』という事だろう。
そうでなければ、今、隼人が知っている『大佐嬢』は、訓練校を経てここにはいないはずだ。
「それからずっと……兄貴に慰めてもらっていたのか?」
「ううん──。その一回きり。16歳になるまでは兄様はずっと現れなかったわ」
「……」
彼は本当に『儀式』ぐらいの気持ちでの一回きりだったのだと隼人は思った。
葉月が落ちついた生活を始めたから……安心してまた消えたのだろう。
でも?
「16歳と言えば、葉月は既に真兄さんとの事が終わった頃だよな?」
「そう。真兄様も結局は同じ様な気持ちで私を受け入れてくれただけだと思っているわ。私は……兄様が死んでしまいそうだったから、二人で頑張ってシンちゃんを守ろうよと……。そうしたら兄様が抱いてくれたの。私から望んだのは真兄様が初めてで……。それも一回きり……それで……」
偶然子供が出来たと言うことらしい。
「それで兄貴の方は弟がいなくなって? どうして葉月の所に再び?」
「わからない。わからないけど……それからが私と義兄様の変な関係の始まりだと思うわ」
「変な関係?」
葉月がまた顔を覆った。
「でも、もう──義兄様しか考えられなかった。大人で私の話を何でも聞いてくれて、叱ってもくれたし、色々理解してくれたし、困っているときは、いつだって、私の所に会いに来てくれたし……だけど……」
「だけど……?」
「だけど……兄様はいつもいなくなっちゃう。帰ってきてくれない。私の側にはいてくれない……。兄様の側にいたいと言っても兄様は私を小笠原に帰すし」
「……どんな時に会えるんだ、会いに来てくれたんだ?」
「お付き合いしている男性がいなくて、私が追いつめられていたら、絶対に来る」
「例えば? その──ミャンマーの任務後とか?」
「うん──遠野大佐が亡くなった後とか、達也といた頃はまったく姿を現さなかったわ。ロニーと付き合い始めると、影も感じなくなったし──」
「俺と付き合い始めてからは? 裸足で飛びだした時に彼が小笠原にいると思ったんだろう?」
「あれは……シンちゃんに会いに来たのよ。シンちゃんが腕時計をしていたのを知っている?」
「──! あの時計、違和感があったけど、兄貴の届け物だったのか?」
「そうよ──。兄様はシンちゃんにほぼ毎年、時計を届けに来るらしいから──」
「マルセイユは?」
「それは──」
隼人が徐々に切り込んでいくと、そこで葉月が視線を逸らして、また躊躇った。
隼人は思いきって聞いてみた。
「お前、岬基地に潜入する前に、輸送機からスカイダイビングをして脱走したよな……。あれは兄貴の手引きか? 兄貴は……軍人だろ? 姉さんと右京さん、真さん。皆、軍人だもんな?」
隼人の鋭い真っ直ぐな眼差しに、葉月の息が止まった!
そして──葉月が覚悟を決めたようにホウッと深い息を吐いた。
「そうよ。義兄様の手引きで脱走して……『兄様の部下』のサポートで捕らわれているフォスター隊の所まで二人で潜入したの」
「!!」
『まさか』と否定したかった事が全て……事実になって行く事に隼人はさすがに驚いた。
だが……まだまだ!
「兄貴は……何処の部隊の秘密隊員なんだ」
隼人は汗ばんだ手で、ハンドルを握った。
「……軍人ではないわ」
「だったら……! なんでそんな手引きが出来るんだよ!?」
「兄様の部隊だから」
「? だから! その兄貴の部隊はフロリダか? それとも横須賀? それともイタリアとか……イギリスとか、フランスとか!」
「何処にも所属しない、私設部隊の隊長よ」
「私設部隊!?」
「黒猫……というコードネームで裏世界を飛び回っているの」
「──!?」
ハンドルを握っていた手が……するりと力無く滑り落ちていった。
──『黒猫』──
闇で飛躍している黒猫のしなやかな姿が隼人の脳裏に浮かんだ。
それは──どこにも所属しない闇部隊。
彼はそこの『ボス』
葉月が、隼人を助けに来たあの任務。
不可解な点がここで繋がった。
だから──彼は、表にいる葉月を受け入れない。
突き放しているんだと──。
それに辿り着いて、隼人は……ありとあらゆる事が沢山頭に浮かんだが……。
なにも──反応が出来なかった。
海沿いに停めている赤い車は、徐々に夕暮れに染まっていく。