「あー、もう! 何がなんだか解らなくなってきたわ!」
葉月は手元で書き記していた書類を『クシャリ』と握りつぶし、両手で栗毛を掻きむしる。
金曜日の夕方の事である。
フライトチームのミーティングから帰ってきてから、彼女はこんな様子だった。
「あのなぁ──。お前、鬱陶しい」
同じく、夕方の業務に入っていた達也は、そんな大佐嬢の様子を横目に事務作業を進めていたが、葉月がずっとこの様子なので、とりあえず素知らぬ振りで放っておいたようだが、ついに横やりを入れてきた。
「はぁ……」
葉月は足元にあるくず籠へと、うっぷんを晴らすかのような勢いで、丸めた書類を投げ捨てる。
そして──達也の横やりには無反応で、また書類に向かったが……。
「はぁ……」
また、溜息を落として、今度は頬杖──。
そのままジッと空気を彷徨うような眼差しで、ぼんやりとしはじめる。
「あのさ……」
「なに?」
達也も業を煮やしたのか、眉間にシワを寄せながら、大きな木造の席に君臨している栗毛の彼女に呟いた。
「お前、2、3日前からおかしくないか?」
「そぉ?」
「ああ、そうやって苛々しているというのかな?」
「頭の整理がつかないだけ。航空ショーにメンテチームのデビューに式典ホストに合同研修」
「そりゃ、なぁ……。でも! お前、一人だけで進める事じゃなくて……それぞれに担当補佐がいるんだからさ! メンテの事が動かないから苛ついているのか? それなら、もうすぐ兄さん帰ってくるじゃないか? そうしたら、すぐに事が動くだろ? ホストの事だって、もっと俺を信用して任せてくれたらいいし! 合同研修だって、まだ、いつ始まるかも、連隊長の承認を取ることからだろ? べつに実行すると決まった訳じゃないし、今のお前は航空ショーの事だけ考えていたらいいんだよ」
「……」
葉月は頬杖をしながら、スッと横目で達也がいる席の方へと視線を流した。
「な、なんだよ?」
「そうね。そう思っているわよ」
葉月はそれだけ答えて、またペンを握り直す。
「……はぁ!」
今度は達也があからさまに、溜息を落とした。
「なんだよ。せっかくお前が安心するようにと一生懸命、助言しているのに」
熱く助言をしても、相手の大佐嬢は素っ気ない反応。
「そういう所、変わってない!」
達也は、結局……奥底で何を思っているのか教えてくれない葉月に苛立っている様だった。
──『相談してくれたらいいのに!』──
葉月は彼がそう思って、この2、3日……葉月の思うところを引きだして、助言して、そして落ちついてもらおうと考えている『熱意と努力』には感謝している。
そして……彼はきっと隼人がいない間……『俺だって頼れる男とみられたい!』──と、そんな風に躍起になっている事も……昨日ぐらいから見え始めていた。
(言えたら、私だって……)
葉月はふてくされながら、書類に向かった。
達也に相談できるなら、葉月だってしている。
彼のこの気遣いには、感謝しているのだが──出来ない相談。
だけど──葉月のこの『状態』は、『苛立ち』でなくて『緊張』だった。
「あ、来たな……。横須賀からの定期便」
大佐室の大窓に、夕方便の横須賀からの定期便小型ジェット機が着陸しようと、空に姿を現したところだった。
その便には『隼人』が搭乗している予定である。
今日は金曜日。
隼人が休暇を終えて……今、帰ってきたのだ!
葉月は、皮椅子に座ったまま……唇にギュッと力を入れた。
ずっと……ずっと……。
『何から話そう。どうすれば……上手く伝えられる?』
そんな頭の整理をしながら……彼の帰りを待ちかまえていた。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
「ただいまー。どうだった?」
業務終了、定時前──。
隼人が沢山の荷物を抱えて大佐室に現れた。
「お帰り! 兄さん!!」
達也もある程度は、隼人がいなくて落ち着かない日々だった様子。
隼人を見るなり席を立ち上がって駆け寄っていった。
「……」
葉月も席を立ったが……言葉が出なかった。
「これ、本部員にお土産──。配ってくれよ。それとこれは達也に『シュウマイ』。この前は親父に中華まんを持ってこられちゃったからさ」
「やった。これ、俺の今夜の夕飯! サンキュー、兄さん。ゴチになるぜ♪」
達也は中華風の箱を隼人から受け取ると、頬ずりをして喜んでいた。
「じゃぁ、配ってくる!」
達也は、葉月をちらりと肩越しに確かめながら、隼人から受け取った菓子箱を手にして、大佐室を出ていった。
まるで『気遣うように』──。
隼人がソファーにたくさんの荷物を置く。
そして、そっと大佐席に向き直った。
「ただいま……」
「……おかえりなさい」
彼と目があって……葉月は何故かスッと目線を下に降ろしてしまった。
「休暇、有り難う。もらって正解だった……のんびりできたよ」
「そ、そう……良かったわ」
目の前に、いつもの穏やかさを滲ませている彼の顔。
葉月は再び、顔を上げて微笑んだ。
「この前、中華まんを土産にする事……親父に先を越されたからな。シュウマイ、俺達の分も買ってきたよ。今夜、一緒に食べよう。葉月は海老が好きだったよな?」
「有り難う、楽しみね!」
「ああ、それから──真一にも買ってきたんだ。寮で食べてもらおうと思って。真一……野外訓練から帰ってきただろう?」
「ええ──。隼人さんが出かけた夕方にマンションに寄ったわよ。あなたがいなくて驚いていたわ」
「そうか──。じゃぁ……やっぱり寮まで届けた方が良いかな?」
一度、帰宅して出ていくと、真一はなかなか帰ってこなくなっていたのだ。
「そうね……。あ、そうそう……あの子、明日、鎌倉に帰省する予定なの。渡すなら今夜が良いと思うわ」
「え? そうなんだ? 俺と入れ替わりか」
「うん、あの子、来週17歳になるの。それで……」
そこで葉月は口ごもった。
その後に言いたいことは『姉様の命日だから……お参りに』と言いたいが、今、隼人との会話で『姉の命日』は……お互いに敏感なキーワード。
真一の『誕生日』と皐月の命日は『セット』になっているから……。
すぐに『本題』に入るのではないかと……今は業務中で他人もいるから避けたかった。
だが──隼人から気遣ってくれる。
「ああ、そっか──。お母さんのお参りを兼ねているって事か。俺も、和人と一緒に……おふくろの墓参りも行ってきたぜ」
「そう、良かったわね」
葉月は僅かに微笑んだだけ。
本当に『良かった』と思っている。
隼人の顔色は良くなっていたし、とても穏やかで……以前通りの彼に戻っていると解ったから。
でも──何故か顔が強ばる。
「……俺、真一の寮に行って来るよ」
隼人も解っているようだった。
彼もそんな葉月から視線を外す。
隼人は、シュウマイの箱を二箱と、ナイキのロゴが描かれている紙バッグを手にして、大佐室を出ていこうとしていた。
「そうそう、確か、ルームメイトは一人だったよな? その子の分も買ってきたんだ」
「エリックに? 真一が喜ぶわ。有り難う」
「寮の受付カウンターで寮管理官に呼び出してもらうか、預けたら良いんだよな?」
「ええ……『夏目さん』という大尉がいるわ」
「解った。行ってくる──」
隼人はそういうと、葉月にもう一度微笑みを見せ、大佐室を出ようとして……。
「あ、忘れていた。ジョイと兄さんにも買ってきていたんだ」
隼人はさらにシュウマイの箱を付け足そうとソファーに戻ってきた。
葉月はそれを眺めながら席に座った。
彼に聞こえないように小さく溜息をして俯くだけ──。
「……」
彼が紙バッグを探る音が、ガサガサと響く。
「葉月?」
「え、なに?」
葉月は慌てて顔を上げる。
「一緒にマンションに帰れるだろう? 俺も実家で計画してきた事を少しここで処理したいし」
「そうね。良いわよ」
「俺が車を運転するから……」
「──有り難う」
そこに、『俺が連れて帰る』という、葉月を捕まえておきたい隼人の気持ちが、現れているように思えた。
だが──葉月も『覚悟』は固まっている。
逃げるつもりなんて……もう、ない。
「そうそう、もう一つ……忘れ物があった。葉月? ちょっと手伝ってくれよ」
隼人が手招きをしたので、葉月は首を傾げながら席を立って側に向かった。
「なに? 何か大きな物でも買ったの?」
紙バッグを探る隼人の手元を葉月は覗いた。
「これ、大佐室に……。紅茶とか可愛らしいシュガーとか、コーヒー豆とか」
小振りの紙バッグを渡されて葉月は覗いた。
紅茶の葉が数種、葉月が好きなアールグレイも入っていた。
まだ挽いていないコーヒー豆。
そしてハートの形をしたパステルカラーのシュガー。
「わ。これ、可愛いけど? これはなぁに?」
角砂糖も入っていたが、その砂糖の上に小さな砂糖菓子の飾りが一個、一個についている。
「砂糖が溶けると、その飾りだけ紅茶の水面に浮かぶんだってさ」
「ええ!? ぷかぷかって?」
「ああ、ぷかぷかって浮かぶらしいよ」
さくらんぼの飾りに、音符、ひよこ、ウサギ、犬とか……ファンシーな飾りがついていた。
「大佐室ではちょっと使えないだろうけど、葉月専用に使えるかなと思って」
「有り難う──。明日から、私のお茶入れで使ってもらうわ!」
葉月が嬉しそうに胸に抱きしめると、隼人がホッとしたように微笑んだ。
「やっと、いつも通りに笑ってくれた」
「え?」
「ただいま……ウサギさん」
「……」
隼人の指がそっと……葉月の頬をなぞった。
「おかえりなさい──。隼人さん」
彼を見上げた途端に──。
彼の両腕が、葉月を勢い良く胸に押し込んでいた。
「あの……業務中」
彼の胸の中で、ふと呟いたが……そんな事は何となく出た照れ隠しなだけ。
葉月はそれだけ呟くと、後は何も言えなくなり彼の腕に抱かれるまま任せてしまっていた。
「葉月」
隼人の胸から、顔をそっと上げると……隼人はもう、目をつむっていた。
「……」
長い腕、片腕だけで……葉月の両肩は包まれてさらに胸に引き寄せられる。
彼の長い指が、葉月の顎をツイッと上へと誘う。
「う・ん……ハヤ・トさ……ん」
隼人の熱い唇が触れたかと思うと、そっと葉月の唇がこじ開けられた。
二人だけの大佐室で口づけをするのは滅多にないことで。
そして互いに『タブー』としてきた。
それを固く守っていたのは、むしろ隼人の方。
だけど──今日は彼がそのタブーを破った。
でも……そんな事、どうでも良い。
葉月は今……隼人が問いかける事には必死に答えたい気持ちが強いから、彼の口づけに必死に応えた。
「うん……帰ってきた実感が湧いてきた」
その柔らかくて熱い戯れは、ほんの十数秒の事。
隼人はさらに安心したように微笑んで、葉月の唇を解放してくれた。
「大袈裟ね……。まるでずっと離れていたみたいに」
「あ、急に葉月らしくなったな──。あんな電話をしてくるから、すごく心配していたのになぁ?」
隼人は黒髪をかき上げながら、呆れた顔。
「えっと……その」
葉月は可愛らしい角砂糖をギュッと胸に抱きしまたまま、頬を染めて俯いた。
「ま、今夜は覚悟しておけよ」
「え?」
また顔を上げると、隼人はニヤリと微笑んでいる。
葉月はさらに頬が熱くなっていくのが解る。
「あはは! じゃぁ……『忘れ物完了』。『手伝ってくれて』メルシー。医療センターに行って来るよ」
「え? ああ!」
『手伝ってくれ』とは……最初から葉月に触るのが目的だったのかと今、気が付いた!
「あはは! じゃぁな! おっと、口紅、拭いておかないと」
隼人は拳で口まわりをゴシゴシとこすって、可笑しそう大佐室を出ていった。
「もう!」
なんだか、隼人の手のひらの上にコロコロっと転がされた気がして、葉月は急に我に返る。
葉月は暫く、ぼうっとしていた。
あんなに緊張していたのに……隼人が帰ってくる事。
(隼人さん……私が固くなっている事、見ていられなかったんだわ)
だから……あんな風に茶化したに違いない。
葉月はそう思いながらも……やっぱり彼の温もりが手元に戻ってきて、心も体も柔らかく暖かくほぐれて行くのを否定できなかった。
『大好き──』
そう思った。
このまま……あんな事言わなくて済むなら。
ずっとこの狂おしくて堪らない快感の中に浸っていたい。
でも……自分がずっと前に隼人にほのめかしてしまったからには、自分でけじめを付けないといけない。
もし……ずっと前にほのめかしていなくても、葉月は一人で抱えて……抱えきれなくなった頃、相手の男性を突き放す事になっていたに違いない。
だけど、隼人にはそれが出来なくなっていた。
結局、自分の中で……すべてを『知って欲しい』と葉月は欲しているのだ。
今までの自分を誰かに許してもらいたいのだ。
受け止めて欲しいから……黙っていられないのだ。
そんな器用には生きられない。
感情を持った『私』は、無感情な自分とは違うのだ。
『本当の葉月』は、たとえ不器用と言われても、要領が悪いと言われても、せめて、隼人にだけは『今までの自分』を知って欲しいと思っている。
だけど──。
──『お兄ちゃまが初めての男性なの。そして……私はただ言われるまま従っただけ』──
あの『初めての夜』の事まで言うべきか? 言わなくても良いことなのか?
そして隼人はどう思うのか?
その夜のことは幼い葉月の『ただの過去』と隼人は見てくれるだろうが……。
そんな13歳の出来事よりも、何故? そこまで義兄と深くなっていったか……。
これをどう見てくれるのか──。
それが不安なだけ。
そして、今の義兄の姿も。
「兄さん、真一の所に行くって出ていったな? マメだなぁ? 真一にまで」
「!」
葉月はぼうっと彼の温もりに浸って、そして思いあぐねている世界から、フッと達也の声で引き戻された。
「……どうした?」
「え? なんでもないわ」
そんな葉月のなんとも言えない、らしくない顔は、達也に気が付かれてしまったようで、彼は眉をひそめつつ葉月をジッと見つめている。
「さて……早く片づけて帰ろうっと」
葉月はフイッと身を翻して大佐席に戻った。
「今夜はあつくなりそうだな」
達也も、何喰わぬ顔で中佐席に戻る。
「え? そう? 夜はだいぶ涼しい風が吹くようになったと思うけど?」
真面目に答えた葉月に、達也がしらけた眼差しを向けてきた。
「? なに??」
「……気候の『暑い』じゃない方だよ。お前、口紅……いつとれた?」
「!」
葉月は思わず、唇に指をあてた。
「やれやれ……『口紅』に関しては、暫くは兄さんに虐められそうだな」
達也は『ふん』と鼻息を飛ばすと、それ以上は何も触れずに事務に戻った。
葉月はまた……頬を染めて、何食わぬ顔で元の書類作成に慌てて戻った。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
「失礼いたします。あの……第四中隊の澤村と申しますけど……」
誰もいないのだろうか?
ふと気が付くと、隼人の手元にはリングゴングのような小さくて銀色の押しベルが。
医療センターの隣の敷地、そこに官舎風の棟が一棟ある。
基地の警備口を出た道路際に入り口はあるが、寮の玄関までは木々に囲まれた一本道で、奥まった場所にあり、割合、閑静な所。
真一をこの玄関先まで送った事は何度もあるが、中を訪ねるのは初めての事だった。
ロビーはシンとしているが、奥からは青年達の声が時々響き渡る。
それに食堂で夕飯の支度でも始めているのだろうか?
野菜を炒めている匂いが漂っていた。
薄暗いロビーには一箇所だけ、明るい光が射し込む部屋が見えた。
その部屋の前にはカウンター。
どうやらそこが受付のようで、隼人はそこで自分の名を告げたがシンと返事がない。
手元にある呼び鈴に気が付いたので、思い切り強く押してみた。
──チン!──
『はい、ただいま!』
カウンター向こうの部屋はどうやら、事務室のようである。
「はい、お待たせいたしました」
現れたのは四十歳ぐらいの男性。日本人──。
肩章は『大尉』 そして、ネームプレートには『NATSUME』と記されている。
葉月が言っていた『夏目大尉』だとすぐに解った。
「お世話になります。第四中隊の澤村と申しますけど」
「あ! 御園君の!」
夏目は隼人を指さして驚いたようだった。
「おりますか? 不在なら、こちらを預かって欲しいのですが」
「いえ。先程、学校から帰宅してきましたよ。今、部屋で休んでいると思います。お待ち下さい。お呼びいたしますから──」
「有り難うございます」
夏目はにこやかな笑顔で、テキパキと内線を手にして真一を呼びだしてくれた。
「どうぞ、そこにおかけになってお待ち下さい」
夏目はロビーにある応接ソファーをさしてくれた。
「有り難うございます」
「初めてですね。こちらにお入りになられたのは」
「はい。そこまでは良く送っているのですが」
「ええ。ハラハラしながら私も待っていますよ。門限ギリギリで──。赤い車が玄関先に着くとホッとするのですよ。門限破りをされると、お仕置きですからね。あまり続くと外出禁止、ひどいと官主監督下に置かれて、私と供に寝起きをする事に」
「も、申し訳ありません──。気を付けているのですが」
隼人はハッとして、急に汗がドッと額に滲んだ気がした。
だが、夏目は可笑しそうに笑いだした。
「まぁ、多少は多めに見ています。夜遊びで遅い帰宅の場合は私も許しませんが。特別扱いは出来ませんからね──」
「す、すみません──」
階級は大尉だが、彼の方がやはり年上の先輩であって、言う事は堂々としている。
寮父としての貫禄が隼人にも伝わった。
「いえいえ、御園君は大丈夫ですよ。門限を思わず破ってもちゃんと連絡をしますし、居場所も大佐嬢のお宅と決まっていますしね。『今夜は外泊に変更して欲しい』と連絡もくれますし、毎回、間に合わないわけでもないですから。官舎やキャンプ内に両親がいる二世っ子も結構いますよ。うちには。その子達と同じように扱っていますから、ご安心を──」
「そうですか……ですが、確かに長居をさせてるところもあります」
「……御園君にとっては、あのマンションが一番居心地が良いに決まっていますでしょうし。大佐嬢がとても可愛がっていることも、解っていますから」
急に彼が切ないような眼差しを隼人に向けてきた。
そこに──『両親がいない子、葉月だけが頼れる身内』と解っているかのように。
「そうですね……。なので──私もつい……」
「……あなたにもとても良くしてもらっていると本人から聞いております。すみません。脅かしすぎましたね」
「いいえ……」
つい二人で初対面とあって話し込んでしまっていた。
「隼人兄ちゃん! お帰り!」
ロビーから続く廊下の突き当たり。
そこに階段があるのだが、そこに真一がジャージ姿で姿を現した。
「やぁ、久し振り! 元気そうだな!」
「うん! ビックリしたよ──兄ちゃんが仕事以外で小笠原を出ていったから」
「たまにはね──。顔を見せておかないと」
真一は紺色の軍配給ジャージの格好で、はつらつと階段を降りてくると、真っ直ぐに隼人の所にすっ飛んできた。
「また、背が伸びたな」
目の前に真一が来て、隼人はハッとした。
「え? そう? 二週間ぐらいじゃない? 久し振りと言っても……」
フロリダ出張が終わってから、一度会ったきり。
それでも気のせいか……真一の目線が隼人の目線に近づいてきた気がした。
「どうしたの? 寮にわざわざ」
「横浜の土産。生ものだから今夜中に食べて欲しかったから。シュウマイだ」
隼人がニッコリと赤い箱を真一に差し出すと、彼の目がキラキラと輝いた。
「やった! 俺、横浜のシュウマイ大好き!」
徐々に男らしくなってきた真一だったが、やっぱり無邪気な瞳の輝きは変わっていなくて、隼人はホッとしながら微笑み返した。
「じゃぁ……ごゆっくり」
そんな隼人と真一の対面を微笑ましく眺めていた夏目が、そっと気を遣って事務室に戻っていた。
隼人も会釈をして見送る。
真一とロビーのソファーへと移動した。
「海老と豚肉を二箱な。ルームメイトと一緒にわけて食べな」
「わー! エリックにも? あいつも喜ぶよ! あいつ横須賀育ちだから!」
「え? そうなんだ? 確か……第一中隊にお父さんがいるんだよな?」
「うん! マッキンレイ少佐。今は本部で教官みたいな仕事をしながら訓練管理官をしているよ」
「そうか、横須賀キャンプ育ちって事かな?」
「そうだよ」
「葉月と会ったことないみたいだけど」
「う、うん──。今まではね……でも、葉月ちゃん、今度は会うって言っていた。ほら、今までは葉月ちゃんが二十代の若い人だから。遠慮していたみたい、お互いに。今度、マンションに連れてきても良いって……」
「へぇ……珍しいなぁ」
あのマンションにはジョイすら招待をしない葉月が……人を招待するなんて。
隼人はそう思った。
「……でしょ? 俺もどうしちゃったのかと思ったよ?」
真一はそんな時はスッと涼やかな眼差しになり、隼人を下からうかがうように見つめる。
「え? なんだよ?」
「なんだか、葉月ちゃんが開放的になっているような気がして。良い傾向だと思うけど……。どうしてなのかな? と……」
「ど、どうしてだろう?」
隼人はちょっと苦笑いをこぼした。
真一が言いたいのはこうだろう──。
『フロリダで良いことでもあったのかな? きっと隼人兄ちゃんの何かがそうさせた』
──と、真一が隼人を探っているのが解ったから。
「いや、ほら……。葉月もね、自覚が出てきたんじゃないかな?」
「自覚って何?」
キョトンとしている顔は、やっぱりまだ17歳で、真一は難しそうに顔をしかめた。
「なんだろうね? 俺も良く解らないけど、俺も感じるよ。ああ、変わってきた?ってね」
「兄ちゃんでもそれぐらい?の感触しか得ていないの」
それも下からジッと試されるように見上げてくる。
「え? まぁ……そうだな」
「ふーん」
その最後の『ふーん』が何かを含んでいるようなニュアンスであって……さらに隼人から外した視線は、スッと外を眺めた。
その仕草がなんだか右京と重なった。
さらに──その眼差しの『淡泊さ』と雰囲気が写真の男と重なった。
冷たい真一の横顔。
顔の丸みが徐々になくなってきて、顎の線は男らしく角張ってきていた。
肩幅も広くなり、足を組むと……もう、立派な大人の仕草。
口調はまだ幼いが、時々──大人びる。
小さな男の子のくせに、時々ドキリとさせられる生意気な眼差しは葉月にも重なった。
隼人はそんな真一をジッと……捕らわれたように見つめていた。
「あのね──兄ちゃん」
「え? ああ……」
いつもの愛らしい声に戻った真一に呼ばれて、隼人は我に返った。
「俺、明日……鎌倉に帰省するんだけど」
「ああ、葉月から聞いた。だから……急いで持ってきたんだ」
「有り難う! それでね──」
「うん……」
「俺が帰ってくるまでは、何があってもあのマンションで待っていてね」
「え? なんだよ急に──」
真一の眼差しが急に……子供のように隼人にすがってきた。
「葉月ちゃんと喧嘩しても、口をききたくなくなっても……。俺が帰るまでは、マンションで俺の帰りを待っていてよ。約束して──」
「え? 葉月と喧嘩?」
隼人は笑いそうなったが……真一の眼差しは真剣だった。
それがすがるような子供の目ではなく、凛とした一人の男性のように──。
その視線と目があって隼人は笑えなくなった。
「葉月との喧嘩なんて──いつも他愛もない事だけだよ」
隼人はフッと微笑んで、その目線から視線を外してしまった。
(なんだ──。真一は知っているのか?)
そんな気がしたのだ。
(俺がいない間……また、二人だけで俺の知らない何かを……)
──『話し合った』──
そんな気がした。
話し合ったとしたら、やっぱり『謎の男』の事だと隼人は視線を外したまま……徐々に額に汗が滲んできた。
真一は『叔母がいよいよ告白する』と知っているような。
叔母が告白したら、隼人がどう感じるか解らない。
それほどの事を、真一は秘めている。
やっぱり! あの男は真一と縁がある男だと隼人は確信した!
「誤魔化さないで、約束して。今夜にでもマンションに帰りたいけど、今週だけはどうしても鎌倉に帰りたいから」
真一はずっと隼人を真剣に……無表情に眺めている。
その顔といったら……葉月が確固たる大佐であると威厳をみなぎらせるときの顔に似ている。
「解っているよ。思い入れが深い日だろうしね──。俺もおふくろの墓参りをすると気持ちがすっきりするし……」
「約束して──」
どんなに話を逸らしても、真一が求める答は一つで……。
大人の誤魔化しは通用しないようだった。
「ああ、約束しよう。たとえ、何があっても……真一が帰るまでは、葉月と殴り合いの喧嘩になっても、部屋に籠もってでも待っていよう……」
隼人はまた……大人の余裕のつもりで茶化しながら笑ったのだが。
「そうなっていたら、俺が葉月ちゃんを助けるんだ」
「……」
もう、笑えなかった。
今、真一の顔は……あの写真の男と同じ様な顔をしていた。
まさに……『男の顔』だった。
「解ったよ」
「うん……有り難う」
そうして微笑んだ真一の顔も……急に頼りがいある一人の男に見えてきて、隼人は目をこすりたくなった。
小ウサギは……ウサギさんの『弁護』をする気でいるようで?
(それほどの事?)
隼人はちょっと腰が重たくなった。
大佐室へ帰ることが……。
「あ、そうだ。和人と一緒にスニーカーを選んだんだ。お揃いでね」
隼人はまだ手元に置いていたナイキの紙バッグを、真一に差し出した。
「わ! 和人兄ちゃんとお揃い!? スニーカー欲しかったんだ! 葉月ちゃんが春に買ってくれた靴が、また、きつくなってきてさ!」
「27で良かったよな?」
「うん! 早速、明日……履いていこう♪」
無邪気に受け取ってくれた真一は、いつもの小ウサギに戻っていた。
「……」
隼人はフッと何かが過ぎった。
でも──たとえ、そうだったとして?
どうして葉月が真一と揃ってそこまで隠すのかが解らない。
『谷村の男』であって、真一の伯父であるなら、そう言えばいいじゃないか?
もし、父親であったとしても──皐月と恋人だった事を言えばいいじゃないか?
だが、達也とも時々話したように……『繋がらない線』はいっぱいあり、いつも二人でも途中で線が途切れてつじつまが合わない事ばかり。
何故? その男が谷村家に存在し得ない状態であるとか……
父親であるなら、何故? 真一を兄弟の真に育てさせたのか等……だ。
隼人は無邪気に新しいスニーカーを試し履きする真一を眺めながら、そんな事が急に頭いっぱいに占領し始めていた。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
大佐室に戻ると終礼も終わっていて、週末とあり本部員もちらほらと帰宅し始めている。
隼人はなんだか重い気持ちを抱えながら、大佐室に戻った。
達也のデスクは綺麗に片づいて……彼は早々に帰り支度をしていた。
葉月と一言、二言、業務の話を真顔でやり取りしながらパソコンを落としているところ。
「あ、兄さん! 次は俺が休暇。週中から宜しくな!」
達也の休暇は、平日の週中から一週間となっている。
「ああ、達也もゆっくりして来いよ」
「兄さん、ワイン呑むだろう? フランス帰りだモンな。親父から何本かくすねてくるよ」
「へぇ! 楽しみだな」
「葉月にもな。お前は白が良かったかな?」
「うん」
葉月もニコリと達也に微笑み返していた。
先程は葉月が『約束を守ろう』と緊迫した顔をしていたのに──。
今度は隼人が緊張していた。
「じゃぁ、お先に。お疲れ! お嬢様のナイトが戻ってきたから今日はサッと帰るぜ」
「お疲れ様」
気遣ってくれたのだろうか?
達也はスッと帰っていった。
「毎晩、私が終わるまで待っていてくれたの。私とジョイが20時頃まで残業していたから」
「そうなんだ……」
「私が車で官舎まで送ると言っても、一人で帰っていたのよ、達也。ジョイが残っていたら、ジョイに送ってもらったりして──。でも食事は一度だけ二人で一緒にしたわ。でも……カフェで夜勤食。外には出ようとしないの」
「……葉月の護衛をしてくれていたんだ」
「うん……」
葉月のそんな報告に、隼人は……出かける前の『反則キス事件』も、なかったかのような達也の気遣いに感心していた。
「そうか、本当に時々お騒がせだけど。達也は葉月の強い味方だな」
「ええ……そうね」
葉月はそう笑うと……急に書類をたたみ始めた。
「私達も帰りましょう」
「……そうだな」
葉月の微笑みが陰ったようにも見える。
そして隼人も──。
葉月がスッと片づけてしまったので、隼人も帰り支度を始めた。
二人で大佐室を出る。
本部ではまだ、ジョイと山中が事務作業をしていたが、快く送り出してくれた。
二人は言葉も交わさずに、駐車場まで並んで歩く。
赤い車まで来て、葉月が隼人にキーを渡してくれた。
『何処へでも行く』
隼人が運転するがまま……私は逃げないとでも言いたそうな……。
彼女が何かを決した時に見せる輝く瞳。
隼人も……緊張してキーを受け取った。
車に乗り込んで警備口を出ても、二人は言葉を交わさなかった。
(……そりゃ、言いにくいだろうな)
隼人もそう思ったし、覚悟を決めてきたのに……。
真一のあんな様子を見てしまったので……心が揺らぐ。
もうすぐ丘のマンションだ。
マンションに戻ってから葉月は話すつもりなのだろうか?
出来れば聞きたくないような気もしてきた。
あんなに気にしていたのは隼人自身なのに──。
どうせなら──。
『もう、いいよ』とも言いたかった。
話さなくても良いよと……。
でも、それもこの場をしのぐ安易な逃げでしかないのは解っている。
今、この気持ちが楽になっても、隼人はまた葉月の心の中にあるものに苦しむに決まっている。
それは葉月も一緒だから……こうして、黙って、言いたくて、でも言いにくくて。
その狭間を揺れているのだと伝わってくる。
マンションの丘へ上がる坂道の手前に来た。
隼人はウィンカーをあげる。
「真っ直ぐ……通り過ぎて」
葉月が急にポツリと呟いた。
「……解った」
あのマンションで向かい合うと息が詰まるだろう。
隼人もそう思っていたので、葉月の案に同意してウィンカーを下げた。
「……どこか、海が見渡せる路肩まで連れていって」
葉月がフッと微笑んだ。
まるで隼人に我が儘を言ってねだるように。
「いいね。たまにはドライブと行くか」
「うん──」
葉月がとても愛らしく微笑んだ。
彼女は『揺れ』を越えて、覚悟したようだ。
そして──隼人も……。
そんな彼女の微笑みに、一瞬でも心が和んで、いつもの二人に戻れた気がした。
『ドライブ、週末の夕暮れデート』
そんな気持ちで隼人も車を飛ばした。