「あら……お兄ちゃん? 寝ているの?」
九月のそよそよとした風が、隼人の身体の上を流れていた。
出窓がある元沙也加母の部屋。
そのベッドで隼人は横たわって、身体の上には開きっぱなしの書籍が乗っていた。
「ああ……美沙さん。うん、気持ちが良くて寝ていた」
部屋のドアを開けて顔を覗かせているのは継母の美沙だった
彼女はちょっとしたカジュアルなスーツを着込んで、今から出かけるようだった。
「今からお父さんの会社に行って来るわね」
「ああ……行ってらっしゃい」
「ゆっくりしていたらいいわ。でも? 少しはお外に出かけてみたら?」
昼間から、うたた寝ばかりしては『退屈そうな』隼人に美沙は少しばかり心配そうだ。
「そうだなぁー? 本屋でも行こうかな?」
「また本? たまには百貨店へぶらぶらでも良いから歩いたら? 離島では目に付かないものも見られるかも知れないじゃない? 葉月さんにお洒落なお土産でも見つけるつもりで……」
「あーうん……」
半身起きあがったが、唸りながら額を押さえる隼人に美沙がちょっとたじろいでいた。
「ご、ごめんなさいね? 相変わらずお節介って言いたいのでしょう?」
「え? そんな事思わなかったよ……。うん、そうしても良いかなとは思ったよ」
隼人が素直な笑顔を美沙に向けると、彼女はホッとしたように胸をなで下ろした。
「美沙さん、行ってらっしゃい」
「有り難う。じゃぁね? 19時までには帰ってくるからね」
「うん」
美沙はニコリと微笑むと、そっとドアを閉めて去っていった。
「あー」
隼人は大きなベッドの上で伸びをした。
弟の和人も学校でいない。
父は勿論の事、父の会社への手伝いと秘書と英会話の講義などをするようになった継母も……。
会社へと出払って、隼人は休暇になってもこうして家で一人『退屈』していた。
「なにもしなくて良いことも……休養の一つとね……」
朝、そり損ねたヒゲが伸び始めている顎を隼人はさすった。
ベッドから降りると壁に掛けてある『姿見』に自分が映る。
休暇になってから、三日は経っていたが……一歩も外に出ていなかった。
その間に、普段はしない『無精』をしている。
「あー。確かにすっげぇ格好だなぁ?」
隼人は思わず……姿見の前に歩み寄って自堕落な自分を眺めた。
これでは継母が一言、言いたくなるのも無理はないと納得する。
だが、三日も無精をすれば……もう充分だった
『退屈』で仕方がない。
「うーん、百貨店ね?」
隼人は首を傾げる。
横浜は大きな都市。
そんな都市が自分の故郷でありながら……隼人はマルセイユから小笠原と田舎生活に浸かっていた。
人が沢山いる『スポット』に独りで出かけるのも億劫な気分。
家の事は美沙が全てしてくれるし、隼人は出る幕がない。
楽ではあるが、気が抜ける。
『如何に……日頃、目が回る程の忙しさに紛れているか』
それが帰省して身に染みた。
今度は、ベッドサイドに置いてある携帯電話を手に取ってみた。
時間は13時。
(今頃、訓練が終わって……カフェでランチ、大佐室に戻った頃だな?)
隼人はふと……葉月が今何をしている時間帯か考える。
彼女からのメールもない。
昨夜、一通届いただけだった。
『こちらは順調だけど、やっぱり手が足りません。隼人さんがいないと大変』
そんな事だった。
だが、仕事に関して緊急の電話連絡が入ってくることはない。
「仕事の事だけ。まぁ……葉月らしいかな」
隼人はフッと微笑みながら、携帯を置いて、もう一度ベッドに寝ころんだ。
部屋の丸テーブルの上には一輪挿し。
美沙が添えた小さなピンク色の薔薇が差してある。
出窓には揺れる白いレースのカーテン。
そこから小笠原より柔らかい気温の風が入り込んでとても麗らかだ。
ほのかに香る芝庭の匂い。
窓の向こうには港町の横浜の街。
「……」
こうして独り寝ていても、思うのはやっぱり『小笠原』だった。
少しばかり、距離を置きたかった『小笠原』。
なのにうたた寝でもしなければ、いつも頭にあるのは『小笠原』。
うるさいほどの戦闘機の飛行音。
油の匂い、潮の匂い。
波の音。
どこもかしこも響く英語の声。
多人種の通路に、やかましい汗くさい男達。
そして──『じゃじゃ馬』
「そうだな、どうせなら……探しに行ってみるか!」
隼人はガバッと起きあがって、部屋にあるバスルームに向かった。
そこで入浴を済ませ、身を整える。
フロリダで登貴子に見繕ってもらったサマーセーターを着込んでジーンズを穿く。
それで澤村家を飛び出す。
車はない。
父も美沙も乗っていってしまったから──。
「まぁ……たまにはいいさ。どうせ暇なんだ」
隼人は坂道をのんびりと徒歩で降りながら、最寄りの駅まで目指す。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
「うーん、変わったな。ここらあたりも……」
繁華街に出たが、隼人が少年だった頃とはだいぶ街並みが変わっていた。
昔はなかった進出の百貨店にショッピングモールが目に付く。
正直、目が回りそうで何処へ行って良いのか解らない。
以上に……『目的無し』なのでよけいにたちが悪い。
『帰ろうか』と思ったぐらいだ。
しかし、時間をかけて出てきたのだ。
ここで帰っては勿体ない。
「仕方がない。本屋ぐらい覗いてみるか──」
隼人は繁華街を歩きながらなるべく大型店でありそうな本屋を探した。
そこにとりあえず入ったが、専門書は少なそうだ。
ネットで取り寄せたり、軍の販売ルートの方があるのではないか? と、眉をひそめた。
つまり──隼人の興味をそそる書籍とはそういうものだったようだ。
本屋もたいした時間つぶしにはならなかったのだ。
(もう、帰る!)
何故か出てきた自分に腹を立てながら、隼人は駅へと向かう。
近未来的な港町──横浜。
空を仰ぐと15年前には、なかったような高層ビル。
街の外観。車の騒音、電車の音。雑踏。
美しい珊瑚礁の海はここにはない。
何処からも聞こえてくるようなさざ波の音も。
騒々しい戦闘機の音も。
今いる場所は、周りを見渡せば、どこもかしこも日本人。
日本で暮らしていれば、当たり前の風景のはずだった。
だけど──『違う』
『俺の場所じゃない』
ひどく居心地悪さを感じずにはいられなかった。
やはり広々と何も遮らない空と海、油、潮、異国籍、軍服、作業服。
これらの『セット』が如何に自分の身体に染みついているかを痛感した。
急に恋しくなってきた。
金髪に栗毛に黒髪の汗くさい奴ら──。
騒がしい英語のやり取りに、いつも不安にさせる『ウサギ』。
「しょうもないな……俺ときたら……」
街並みに圧倒されながら、溜息をつきつつ駅へと向かう途中。
美しい外観の百貨店の前を差し掛かる。
一階は婦人雑貨のフロアであり、どこの百貨店でも目にする光景。
何故か……ふと、足が止まった。
ウィンドウにディスプレイされている靴にバッグに、マネキンの姿。
それがどうして葉月に見えるのだろう?
ウィンドウ内は早々と秋のコーディネイトだ。
「赤い靴か……葉月には似合わないな」
マネキンの足元に枯れ葉や銀杏の飾りに囲まれている赤い靴を見て隼人は微笑んだ。
彼女なら……何色が似合うだろう?
「秋なら……グレイッシュトーンのグリーンかな?」
そんな事で足を止めていた。
「ヒールより、ロングブーツが似合いそうだ」
あのスラッとした長くて細い足なら、ロングブーツが映えるだろう……そう思った。
そんなうちに、まるで彼女でも探すかのように……重厚な入り口のガラスドアを隼人は押していた。
きらびやかな店内に圧倒されながら、隼人はガラスケースが並ぶジュエリーコーナーを歩く。
頭が痛くなりそうなまばゆさに、サッと歩き去った。
「ああ、そうだ。ここなら色々あるかもな?」
急に思いついたのは『紅茶』
葉月が何かと揃えているが、それも右京から送ってもらったりと、何かと茶材揃えには気を使っている。
通販で取り寄せたりもしている様だった。
特に『大佐室』の材料は切らさないようにと……。
隼人は早速、地下に向かった。
そこで、コーヒー豆に、紅茶葉を数種類。
それからハーブティに可愛い形をしたシュガーなどが色々と目に付いた。
「へぇ……今はこんなものも日本にあるのか」
フランスでも良く目にしたような洋雑貨が増えている。
これなら、葉月も喜ぶだろう……と、思う物を数種類買い込んだ。
なのに今度は洋菓子に目が行った。
「おー。これはウサギさんも喜びそうだな!」
先日、父親が葉月のお土産にと買ってきたような洒落た洋菓子も溢れている。
日持ちがする箱入りを見繕う。
買い出すと色々と思いつく。
本部へのお土産など、色々だ。
「メンテチームには日本菓子にしてやろう」
今度は和菓子コーナーに行ってみる。
……などと──なんやかんやと揃った。
「はぁ……美沙さんが言ったとおりだ」
日頃、目にしない物にすっかり引き込まれてしまっていた。
結構な手荷物になったので、もう帰ろうと決めてエスカレーターに向かった。
登りのエスカレーター前は、服飾品のコーナーだった。
もう、ショールなんかが出ていたりする。
ふんわりとしたブルーグラデーションのエレガントなショールに目がついた。
(葉月の色だな……)
そう思って、つい寄っていったのだが……。
小笠原でマフラーなんて不必要だった。
「早くないか?」
外はまだ暑いのに……と、隼人は小笠原体質では余計に考えつかなく顔をしかめる。
横にはスカーフもあった。
「制服だからスカーフなんてしないしな……」
するとしたら、むしろ美沙の方が重宝してくれそうだ。
「お……そうだな」
隼人は数枚眺めて、華やかな顔立ちの美沙に合いそうな渋めの色柄の
スカーフを一枚購入。
そうなると……今度は父親の事が頭に浮かんだ。
「し、しかたがないな……」
ちょっと苦笑いをしつつ紳士雑貨に向かってみると……あるではないか……『アスコットタイ』。
数は多くないが、今度はそんなに考え込まずに一枚手に取った。
地味な茶色の光沢生地で出来た物だった。
それも躊躇うことなく包んでもらう。
「も、もう……帰るぞ!」
隼人の両手は、もう塞がっていた。
「結局──葉月に役立つ雑貨なんてあるはずないんだ!」
隼人が買わなくとも、葉月はクローゼットの肥やしにするほど持っている。
それなのに使いやしないし、使う事ない『軍人』なのだから。
「まぁ……あいつは食い気で充分だろう?」
両親にも丁度良く『孝行品』を見つけることが出来たから、それなりに意義があったと
隼人は結果付けた。
一番最初に通ったジュエリーコーナーに向かった。
「!」
ふと、目に止まったのは『ペアリング』だった。
「いらっしゃいませ、如何ですか?」
紺色のスラッとした制服を着こなしたスタッフがにこやかに隼人に笑いかけた。
隼人は繕い笑いをお返しして、スッと通り過ぎる。
その後は、どこのブランドのショーケースを覗いても、同じ様な物を探していた。
近頃の若い男性が好んでいるような重厚なデザインから様々。
隼人が夢中になって、『似合いそうなデザイン』を探していると……シンプルで華奢なデザインのブランドを見つけた。
それが……
「あら……」
どうやら一巡りしていたようで、先程の女性と再び目があった。
「あの……それ、ペアリングですよね?」
「はい。好きなお言葉を刻印できますよ?」
「ああ、ポージリングみたいにですか?」
「ええ──今は女性のリングにだけ小さな石をはめ込めますわ」
「へぇ! あの誕生石とかも?」
「ご希望であれば」
ニコリと微笑んだベテランそうな中年の女性だった。
綺麗な若い女性スタッフより妙に安心感を誘ったのだ。
髪を引っ詰めているその女性は、しなやかな手つきでウィンドーの中から、隼人が目に留めていたリングを、ビロードのトレイに乗せて上に置いた。
「よろしかったらどうぞ?」
「あ、有り難うございます」
「お相手の女性の指のサイズは解りますか?」
「ええっと……」
「お電話を頂ければ、後からでもサイズを合わせて発送いたしますけど──」
「小笠原でも?」
隼人がそういうと、女性がちょっとおののいた。
「お客様、もしかして軍人さん?」
「あ……ええ、そこの海空員です」
「まぁ……パイロット!?」
「いいえ? 整備です。ああ、そうだ……。小笠原が無理なら横須賀基地へ届けて下さい。そこから軍便で小笠原に届きますから──」
「そうですか。どちらにせよ、刻印をするとなれば、1〜2週間お待ちいただくことになりますし」
「そうですか──。あ、でも……今、品定めして購入したいんですけど。できれば……大袈裟な物でなく普段に付けられるカジュアルな感じで……」
「どうぞ? ご相談致します」
ニッコリと優しく微笑んでくれたその女性に隼人はホッとして、とうとう……ガラスケースの前に寄ってしまった。
「彼女、八月生れなんですけど」
「でしたら……『ペリドット』ですね」
彼女が八月の石をはめ込んでいる他のアクセサリーを見せてくれた。
「若草色だ」
「はい……彼女がお嫌いなお色かしら?」
隼人は首を振った!
「いいえ……名前に葉がつくのでピッタリです」
「まぁ……素敵なピッタリね」
それから……一時間もその女性と相談をしてしまったのだ。
隼人はすっかりそのリングに魅入られていた。
これがウサギさんへの『お土産』と決めた!
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
「ただいまー」
隼人が両手いっぱいに手荷物を抱えて帰ってきた時には、日が暮れようとしている18時だった。
「わ! 兄ちゃん、スッゲー! 何を買ったんだよ!」
キッチンから、和人が顔を出して驚き駆け寄ってきた。
黒髪に戻った和人は、すっかり普通の高校生らしい身なりになっていたが、口は相変わらず生意気だった。
息子の声につられるようにして、同じくキッチンから美沙も顔を覗かせた。
「まぁ……お兄ちゃん。私も今帰ってきたのよ?」
母子が仲良くキッチンで語らっていたようで、隼人もニコリと微笑む。
「美沙さんが言ったとおりになったよ。なにもかも買いたくなった」
「わー! 俺のお土産もある!?」
「ああ、残念──。格好いいナイキの靴を見つけたけどサイズが解らなかった。帰る前に一緒に見に行こうぜ? 真一にも買ってあげたいから」
「マジ!? シンとお揃いにしてくれる!?」
「あ、それいいな。メル友同士で」
「でも、最近。シンは忙しいみたいで返事が来ないよ。解っているからいいけどさ」
「こら……和人? あなたはこの前、お兄ちゃんからお小遣いをもらったばかりでしょう?」
兄には素直におねだりをする和人に、美沙が目くじらを立てた。
「いいんだよ、美沙さん。たまにしか帰って来れなくて、こんな事しかしてやれないから」
「でも……隼人ちゃん」
「出たな、それ」
隼人が指さすと、美沙がハッと口を手で塞いだ。
「なんて……和人は後日として、美沙さんには……」
隼人は紙袋から包みを一つ取りだした。
「日頃の御礼」
「え? 私に!?」
美沙が驚いた顔でちょっと後ずさったが、戸惑いで頬を染めていた。
「ああ、これぐらい受け取ってくれるだろう? 親父にも買ってきたんだ」
ちょっとたじろぎながら照れている母親を和人がニヤニヤと眺めていた。
美沙はそれに気が付いて、スッと凛々しい母親の顔に戻した。
「有り難う、隼人ちゃん……。勿論、葉月さんにも見つけたのでしょうね?」
そこは隼人よりお姉さんとばかりに、美沙がシラっとした目線。
「ああ……リングをね」
「リング!?」
母子が揃って声をあげた。
「兄ちゃん、やるぅ〜!!」
「リ、リングって……隼人ちゃん、サイズ判ったの!?」
「え? ああ、だいたい……。合わなければ、後で交換してくれるっていうから」
「兄ちゃん! それって婚約指輪!?」
「え? 違うけど……普段用のペアリングにしたんだよ」
「ペア!?」
また母子が揃って声をあげた。
隼人は苦笑いで、やっと玄関を上がった。
「葉月には内緒だからな。和人も真一に教えるなよ」
「内緒なんだ! 兄ちゃん、格好いい〜♪」
和人は、リビングに向かう兄に、やんやとまとわりついて大はしゃぎだった。
美沙は茫然としていた。
リビングのソファーに荷物を置くと、それを和人が物色する。
「ちぇ。俺でも、もらえそうな物はないじゃんか」
「だから……帰る前にもう一度、一緒に街へ行こうと言っているじゃないか」
「本当に、靴を買ってくれるのかよ?」
「ああ、勿論──」
「やったぁ♪」
同じ様な背丈になった弟が、ソファーでクッションを抱えてゴロゴロと転がっている姿は、まだ無邪気に見えて隼人はニッコリと微笑んだ。
対面式のキッチンに戻った美沙が、また『和人はメッ!』という目つきを送っていたが、和人は何のその、知らない振りをして隼人の側を離れない。
「和人、ご飯までお勉強なさい」
「なんだよ。また……」
「塾に行っていないんだから、解るでしょ。お母さんが言いたい事」
「せっかく兄ちゃんがいるのに!」
進学問題はなんとか折り合いがついたようだが、そんなごく当たり前な母子のやり取りを、隼人はそっと眺める。
そして──。
「そうだなぁ? 俺がいるから勉強できないじゃ、明日にでも帰らないと」
隼人はとぼけた顔で空を仰ぐと、和人がぎくりとしたように固まった。
「ええっと、兄ちゃん……後でね」
「あはは、頑張れよ」
素直に和人が二階の部屋へと向かっていった。
「有り難う、お兄ちゃん。和人はお兄ちゃんには素直ね」
「いえいえ……これから大事だろうからね」
「随分と歩き回ったのね。街並みも変わっていたでしょう?」
「ああ……あまりにも目が回りそうで最初はすぐに帰ろうかと思ったけど」
「疲れたでしょう? コーヒーでも飲む?」
「うーん、冷たいお茶が良いかな。帰る前に一休み、喫茶に入ったから」
「そう。お茶ね? いいわよ」
美沙がニコリと微笑んで冷蔵庫へと向かった。
「はい、麦茶だけど──」
「うん、有り難う」
美沙が向かい側のソファーに座り込んだ。
麦茶をすする隼人をジッと見つめている。
「お父さんから聞いたわよ? 葉月さんと結婚をしたいと……」
「あ、やっぱり……もう、聞いていたんだ」
そこはさすが夫妻だな──と、隼人は別段、驚かなかった。
「心配はしていないわ。隼人ちゃんの事はね。だけど──」
美沙がフッと不安そうな眼差しを伏せる。
隼人も美沙が心配している事は何か、解っていた。
そっと麦茶の器をテーブルに置いた。
「心配は解るよ。美沙さん……。でもな、やっぱり彼女の側にいたいんだ」
「澤村の家を出て、婿養子になるかもしれないとお父さんが……」
「それが? 親父は、フロリダのご両親が承知してくれたのなら、構わないと言ってくれた」
「ええ……お父さんも、葉月さんは『御園』のままが良いと……。あれほどの資産家のお嬢さんでなければ、澤村にもらう事を推していたけど。と言っていたわ。隼人ちゃんが、そんな大きな資産家のお家の……しかも跡継ぎ筋であるお嬢様の夫になる。これが心配でもあるのよ? 思った以上に大変だと思うわ?」
「それも考えたよ。だけど、きっと葉月は自分が継ぐというよりかは……姉さんが残した息子に全てを譲ろうと全力を注ぐ。これをいつも念頭に置いているように俺には見えるな。勿論──真一が跡継ぎの力を蓄えるまでは葉月に負担がかかるだろうけど。それに──鎌倉のお従兄さんがいるから、そこも大丈夫かと……」
「そうね……でも、本当に婿養子になるつもりなの?」
「うん……まぁ、まだ双方で話さないと、俺の意向だけでは決められないね」
「だったら……早く葉月さんと相談しないと」
「うん……」
「リングも早く渡すのよ? それは恋人として渡すの? それとも婚約として?」
「……」
隼人は少し考えた。
でも──。
「婚約だよ」
はっきりと真顔で言い切った隼人に、やっぱり美沙が面食らっていた。
「私、思うのよね? 反対じゃないけど……」
彼女らしく、やっぱり何かと心配性で、隼人は少しばっかりウンザリしたのだが。
「隼人ちゃんは……『こうと決めたら』なんだか、思い詰めるタイプというか……」
「俺が!?」
「他の人から見たら、『頑固』と言うかも知れないわ?」
「……」
長年、避け合ってきた継母だが──。
誰よりも隼人を見守ってきた近しい女性、家族である。
隼人は、即座に否定できなかった。
「勿論──。隼人ちゃん自身もよく考えたと思っているわ。それに……覚悟を決めている事も。決めたことの先に辛いことがあっても、簡単には曲げない性分であることもね? だから──心配なの。それから……葉月さんは隼人ちゃん以上に……心配だわ」
「葉月の事は──俺に任せて欲しい」
「そりゃ、口出しはしないわ。でも……同じ女性として……。五月に会った時も、ふと思ったの──。あの子は無理して『強い振り』をしている……。本当は一度は、泣いて叫んで誰かに崩れてみても良いと思うけど……。もう、それをすべき時期をずっと昔に逃してしまって、あの様な状態になったのではないかしら?」
隼人は『ズバリ』と言い放つ美沙の見解にドキリと胸がうごめいた。
「お兄様とかいう人が周りに何人かいるみたいね? 鎌倉のお兄様も。そして──連隊長もそうですって?」
「あ、うん。すごく頼りにしているな、葉月。俺も敵わないくらい」
「それに勝たなくちゃ駄目ね。結婚ときたら誰とあってもそうだけど──。他人と向き合って歩む事を誓う事よ? 全てをその人と共に進めていく事よ? お兄様達が一番頼りじゃ、隼人ちゃんと誓う意味はないわ」
美沙の目が真剣に隼人を貫いた。
それが出来なくちゃ、本当の関係は築けない『難題』に隼人は挑んでいるのだと──。
「そんなの……去年から解っている」
「その上で、結婚を?」
美沙の真剣な眼差しが、隼人の中に渦巻く『迷い』を呼び起こすようだった。
一度は『昇華』させたつもりの……隼人の心の迷い。
だけど、こうして胸が騒ぐのは、やはり……まだ『恐れている』のだろうか?
隼人の背筋に汗が滲んだ。
だが……。
「美沙さんは? 親父と結婚を決めた時に、『完璧だ、未来は安泰だ』と思った?」
「え?」
「親父と結婚するときに……『この先、何も問題はない』と確信できた?」
美沙が少し考え込む……そして……。
「……いいえ? 今だから言うけど。あなたの母親になるにはどうして良いかとか。和之さんとの年の差がいずれは大きく感じるのだろうとか……。色々と予想はしていたわよ? それでも、和之さんと一緒なら……。なんでも頑張っていけると思ったわ……。問題が起きないなんて、そんな気休めで決めた結婚じゃないわよ。実際に──色々あったでしょ? でもね……全てが私の糧になっているわ。あなたの母親に無理してならなくても良いことだって、解ったし──。母親でないなら、血の繋がりがない異性になってしまうとか……そんな事もないと解ったわ。『家族』という『枠』を皆で決めた時から……心で家族になれるとも。それは……隼人ちゃんが教えてくれたのよ?」
「それだよ」
隼人が静かに美沙を見据えると、美沙がハッとした顔になる。
「美沙さんが結婚当初に感じた問題と、俺が今感じている問題は違うけど……。俺も同じように思っているよ。全ての問題が解決してから結婚? そんな決まりはないはずだ。俺は今、『彼女の問題には結婚後も取り組む』。今まで以上に、誰よりも……俺が彼女の一番の理解者でありたい。そう思ったんだ──」
「何があっても?」
「そうだ。不安はごまんとある──。でも決めた」
「隼人ちゃん……」
美沙がやっと感動したように瞳を潤ませた。
「指輪に、言葉が刻印できるだろ?」
「ええ、私の指輪も裏に彫ってあるわ」
美沙の左薬指に、プラチナの細いリング。
彼女はそれをさすった。
「共に勇気ある前進──。そうしてもらった」
隼人がフッと微笑んだ。
それをフランス語で刻んでもらうことにしたのだ。
「まぁ……色気がないこと? 『愛ある前進』にすれば良かったのに」
美沙が眉をひそめたが、隼人は笑った。
「だから、マリッジリングには愛という言葉を使おうかなと。今度のリングは……今の気持ち。結婚を約束する申し込み書提出ってとこかな? でも──俺の独りよがり……アイツは受けてくれるかな?」
「そうね。私はそれも心配だわ──。あんな傷を肩に付けられて。余程苦しんだと思うのよね? あなたの決心は固いと思うけど。むしろ──『前進』に不安定な迷いを持つのは彼女の方だと思うし。私は同じ女性として……それをもどかしく思いつつも、責めることは出来ないわ」
「有り難う……俺の彼女の事、我が事のように心配してくれて」
「あら……可愛らしい小さな女の子よ。大佐でなければ。あの子はまだ和人の様な子供だわ、きっとね──。そんな分別も付けられない女の子に、無理強いは危険だわ」
頬に指をあてて、美沙は『ホゥ』と一息ついた。
「それが──問題だなぁ……」
隼人も……リングを手に入れた物の……。
なんと言って葉月に快く受けてもらうか……。
今になって、躊躇ってみたり……早く渡して、彼女の笑顔を期待したり……。
そんな狭間で揺れて、同じく溜息をついた。
「とにかく──上手に様子をみて、このタイミングは逃しちゃ駄目よ? 隼人ちゃんったら……一度逃したら、また何年か身を引いて、我慢しそうだもの」
美沙が茶化すようにおどけて笑った。
それが──この家を出て、何年もフランスにいた自分の事をほのめかしているようだった。
「それは……」
隼人が何かを繕おうとすると……。
「あら! もう、こんな時間! 大変だわ! お父さんが帰ってくるわ。ご飯を作らなくちゃ!」
それをうやむやにかき消すかの如く、美沙はササッとキッチンへと去っていった。
随分と話しやすい『姉さん』になったなと……隼人はニコリと微笑んだ。
(こういう点では話せる人がいる実家に帰ってきたのは意味あるな)
そう思った。
『隼人……真一君は葉月君の戸籍に入っているようだが? どうするのだ?』
小笠原で一緒に食事を取った夜。
父親が真っ先にそんな事を尋ねてきた。
隼人はそれも考えていた。
葉月が結婚したら? 真一はどのような立場になるのだろうか。
彼は皆が望んでいる『跡継ぎ息子』であるのだから──。
戸籍上『母親』の立場にあたる葉月に対して『御園』を取り払うとどうなるか?
それも『問題』だった──。
先ずは……葉月の気持ちを確かめるのが先だ。
彼女の事。
一人で急に戸惑って、『心の未解決』を思って、取り乱すかも知れない?
それも予想済。
それをどう解らせるか。
これからの事、隼人の心積もり……。
指輪の意味。
それを隼人は考えていた。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
小笠原も夕方になり、滑走路向こうの海がオレンジ色に染まった時間帯だった。
「はぁー。忙しかったな!?」
「ご苦労様、海野中佐。今日は総合管理のお手伝いがほとんどだったわね」
大佐室には、葉月と達也の二人が終礼を終えて、供にデスクに戻ってきた所だった。
「そりゃなぁ? 兄さんの空軍管理をジョイが手がけていたら、ジョイの余った分は俺がやらないと回らないだろ?」
「でも、達也がいなかったら……もっと大変だったわよ」
「だろうなぁ? 今までよく山中の兄さんと四人でやってこれたよな? あれはジョイが一番、内勤では苦労しているな」
「ええ……ワグナー少佐がもうちょっと出来ると、山中のお兄さんの手が空くのだけど」
葉月と同い年、同期生、さらにツーステップのエリートなのに、未だに芽が出ない『デビー=ワグナー』の事になる。
「俺がいた頃は、お前より頼りない新人って感じだったよな。お前と同じ『経歴の持ち主』であるはずなんだけどなぁ」
「デビーは、達也を尊敬しているのよ。なんとかならない?」
「そうだな。もうちょっと時期を見て、陸管理にも口出し出来るようになったら、鍛え直すか」
「デビーが補佐官ぐらいの力量を持つようになってくれたら、すごく助かるの」
「そうだな。人材は良い」
「私が……言うと、同級生という感じで。達也なら威厳感を感じると思うのよね。私が上手に扱えなかったのが一番悪かったのだけど。このままじゃ、デビーの為にもならないとずっと思っていたの」
「なるほどね……。解った」
達也が真剣な眼差しで葉月に応えた。
葉月もその意志が通じて、こくりと頷くと、彼はもっと強く頷いてくれた。
「オッス! 嬢、いるか〜?」
「あ、コリンズキャプテン。お疲れっす」
「あら。毎度、いらっしゃい」
いつもの如く、残業前のティータイムのお誘いとばかりに、デイブ=コリンズ中佐がやって来た。
だが──いつもより遅い時間帯であった。
毎度の如くシラッとした葉月の迎え方に、毎度の如くデイブは顔をしかめた。
だが──。
「嬢。ちょっとここで少し話していいか?」
「? ええ……。どうかされましたか?」
いつもならドツキアイを挨拶がわりに少々やり取りして、一緒に出かけるところだが?
この日のデイブの表情は、涼やかだった。
葉月はデイブが我が場所のように、遠慮なくソファーに座り込んだので、その隣に静かに腰を落とした。
「先程、急に細川のおっさんに呼ばれてな?」
「ええ……なにか? 言われましたか?」
葉月はデイブの硬い表情に、緊張を募らせて神妙になる。
細川に訓練の事で何か文句を言われたのかと……ドキリとした。
「……なんと!」
「なんと?」
「今年の式典『航空ショー』は、俺のチームに決定したそうだ!!」
デイブが拳を握って、ガバッと立ち上がった。
「ええ!?」
葉月が驚くと、達也もデスクから拳を握って『やった!』と立ち上がった。
「どうだ! 今年の任務での活躍、これはコリンズチームが一番の今年の華と言ってくれたぞ♪」
「じゃぁ……いよいよ!?」
「おお! お前達、覚悟しろよ! ビッチリと命を縮めてやる!」
「わぁお! 俺も楽しみっス! だって、前回の航空ショー! 俺もブラウン少将が招待されて側近として見られましたけど、すんげーエキサイトだったし!」
「だろだろ? 海野! 俺達は誰もやらない『デンジャラス』がウリだ! 第一中隊の様な精密な頭良い飛行はクソ食らえ!」
「俺、そういうの大好き!」
「だろだろ!!」
茫然としている葉月を挟んで、ソファーのデイブとデスクにいる達也は息がピッタリ、大喜びだった。
「はぁ……なんとか決まってホッとした」
デイブはそういうと力が抜けたように、ソファーに座り込んだ。
すると……なんだかいつにない疲れた表情で、両手で顔をさすって、大佐室の大窓を遠い目で眺めているのに葉月は気が付いた。
「キャプテン、おめでとうございます。キャプテンの今年の活躍が評価されたのだわ」
「そうかな……。いや! お前だって、任務では空指揮体験、こなしたじゃないか!」
「あんなの……」
先輩や上官の支えがあって出来た事。
命を賭けて、空を飛んでいた仲間とは遠い位置にいただけ──。
「嬢……今日はここで一杯もらおうかな? お前のコーヒーが飲みたい気分だ」
「え? ええ……かしこまりましたわ」
葉月は、なんだかしっくりこない。
コーヒーを所望してくれた先輩のその顔が、変に力無いように見えたのだ。
葉月は首を傾げながら、キッチンへと向かう。
達也は一目散に大佐室を出て、本部事務室で大声で『発表』していた。
本部がワッと湧いたどよめき──。
自動ドアが閉まると、大佐室はシンとした。
キッチンからもう一度、ソファーにいるデイブに振り返る。
彼の背中は夕暮れの中……。
やっぱり、丸まっていて──とても寂しそうに見えて仕方がなかった。