夜になると随分と肌寒い風が、澤村家のダイニングに入ってきた。
「さすがに……本島は初秋という気配だな」
隼人は家族とダイニングテーブルにて夕食中であった。
「確かにな。小笠原は暑かったな」
父の和之も、帰宅して皆で食卓についたところだった。
「まぁ……どんな所なのかしら? 十月にご招待を頂けるみたいだけど? やっぱり十月も暑いの? お兄ちゃん──」
「ああ、沖縄みたいに一年の平均気温も20度といった所かな? 春先の格好で良いと思うよ」
「勿論! 俺も行って良いでしょ! 親父!」
和人も大人達に置いて行かれまいと会話に入ってくる。
「おお、勿論だ。連れて行かねば、葉月君に叱られそうだ」
「やった! 車庫を見学させてくれる約束なんだ!」
「和人? その前に偏差値をあげなさい」
美沙がツンとした顔で米を頬張ると、和人が肩をすくめる。
「ほう……車庫か、私も見学したいな」
和之がやんわりと助け船を出すと、和人も満足そうに……
「解っているよ! ちゃんと行けるように受験勉強も怠りません!」
……急に張り切りだしたので、夫妻と隼人は揃って笑い出した。
こんな団らんも今回の帰省で初めて得た感触だった。
「はぁ……それはいいけど。向こうに帰ったら、また忙殺されるな」
「兄ちゃんのチームは、いつから始動するんだよ? キャプテンとして、カタパルトの側に立つんだろ? すっげぇ! 俺、学校で自慢できる!」
「あはは……。そうだな? メンバーも揃ったし、休暇が終わって一度、全員で動いての感触を確かめて……それを……第一中隊のメンテキャプテンにお願いして……」
「まぁまぁ、お兄ちゃん? 暫くはお仕事は忘れなさいよ」
「そうだぞ、隼人」
仕事の話になると、急に頭は大佐室にいるかのように延々と考え込む隼人。
そうなると父と美沙が苦笑いで、団らんの世界に引き戻そうとする数も多々。
「兄ちゃんが、こんなに仕事人間だとは思わなかったな」
「お? なんだと? 和人。いかにも今までがテキトー軍人だったみたいにいうなぁ?」
「私も和人に同感だな。まさにお前は今まではのらりくらりの教官だったからな。ここまでやるとはね? これも葉月君の采配かね?」
「なんだと? 親父」
いつもの如く静かにチクリと指摘する父を隼人はじろりと睨んだ。
──プルル! プルル!──
「あ、電話だ」
手元に置いていた携帯電話が鳴った。
着信画面を確かめると表示は『葉月』。
「え? 何かあったのかな?」
時計を見ると、もう20時頃になっていた。
隼人は席を立って、キッチン外の廊下に出る。
「はい、俺だけど。葉月?」
『隼人さん? 私』
「ああ、どうした? 何かあったのか?」
チラリと肩越しにキッチンを見ると、3人とも箸を止めて隼人の様子をうかがっている。
隼人は苦笑いで、さらに姿が見えない壁に身を隠した。
『どう? ゆっくり休んでいる?』
「ああ、もう……退屈で仕様がない」
『あら? じゃぁ、ゆっくり出来ているのね?』
「まぁね? それよりなんだよ? 電話までして──」
内心嬉しいのだが、この大佐嬢が仕事以外でかけてくるとは思えず、隼人は先をせかした。
絶対に『業務連絡』に決まっている。
『今日の夕方ね。コリンズ中佐が来て──それで……』
隼人はデイブの名が出て、『まさか!』と予感した。
その予感は的中!
『航空ショー』への選抜が決まったとの知らせだ!
「マジかよ!?」
隼人が声をあげると、和人がドアまですっ飛んできてそっと覗き込むのだ。
「だったら、俺のチームも動かないと行けないじゃないか? そっちのフライトチームと噛み合わないと。え? 佐藤大佐はそこも見込んでいるって? そりゃ、そうだろうけどよぉ!」
「なんだか、兄ちゃん……慌てているみたい」
和人はダイニングに振り返って両親に報告。
「俺、明日帰るよ。のんびりしていられない!」
そんな隼人の声が廊下に響いて、美沙と和人は残念そうに顔を歪め、和之はいつもの落ち着きで、様子を見守っている。
『何言っているのよ! 今、休暇を堪能しておかないと、帰ったらとんでもない忙しさよ。まだ決まったばかりなのだから、今は腰を据えて休んでよ。だから……連絡しようかどうか迷ったのよね!』
でも、知らせたくて電話をしたのだと、葉月はいつもの調子で反論してきた。
「解ったよ、ちゃんと休暇は消化する。でも──退屈なんだよ。家で出来る事でも良いから、何かないか?」
『まったく……』
葉月の呆れた声。
「お互い様だろ? お前だってフロリダ帰省しても基地で散々動き回っていたくせに」
『あーもぅ。解ったわよ! 明日のミーティングでキャプテンと色々と話すから。それを連絡するわ。たぶん……どのような飛行をするかとか……その程度よ』
「ああ、構わない。決まった事は全部連絡してくれ」
『そんなに暇なら、もう一つお仕事あげるけど? 横須賀まで出る気ある?』
「お。行く行く♪」
また葉月の呆れた溜息が聞こえた。
『右京兄様にお願いしておくから、ファーマー大尉が皆と決めたローテーションと、他メンテチームの補助要請、それから源中佐が提案したチーム全体の訓練スケジュールをもらっているの。中佐が帰ってきたら渡すと約束しているけど? それを見て……色々と検討してくれる? ファーマー大尉も不安そうだったから。兄様の手元に、書類のコピーを転送するから』
「解った! 行く!」
『もぅ──。隼人さんも相変わらずね』
最後には葉月が笑い出していた。
「兄ちゃん! 帰らなくちゃいけなくなったのかよ!?」
電話を切って、ダイニングに戻ると和人がすぐさま詰め寄ってきた。
そして美沙も父も……うかがっているのだが──。
「休暇を消化しろという大佐命令だったよ」
「そう、良かったわ」
美沙はホッとしたようだった。
「何かあったのか? 葉月君が連絡をしてくるなんて……」
和之は硬い面もち。
「ああ、そうそう! 葉月のフライトチームが式典の航空ショーチームに選ばれたんだよ!」
「マジ!? 兄ちゃん──!」
「じゃぁ……私達が行くときは、葉月さんの飛行が見られるの!?」
「なんと!? それでは、空軍を管理しているお前がいないと大変ではないか!?」
家族が揃って驚きの声を揃えた。
隼人はちょっとたじろぎながら、椅子に腰をかける。
「と言っても……式典はまだ一ヶ月半先だし。勿論、早めに管理側の手も回したいけどね。休暇は取れときつく言われたよ。ただし、俺も落ち着かないから……明日、横須賀へ行って来る」
「そうか。それなら、私の車を貸すぞ」
「わ、助かるよ。明日、右京さんの所にメンテのスケジュールを届けてくれるというから……。目を通して、帰ってからすぐに動けるよう心積もりを暇な間に練りたいし……」
「うむ。それが良いだろう。お前のデビューは、大変な任務になりそうだな」
「うん……前々から、キャプテン達から『そうなりそうだ』とは念を押されていたから──」
「わー。ワクワクしてきたっ! 葉月さんってどんな風に飛ぶのかな!」
父と兄の真面目なお仕事のお話に、絶えられない和人が割り込んできた。
「そりゃ、もう……お前、死ぬ気かという程、荒いね」
「わーわー! 俺、デジカメ持って撮りまくる!」
「私もドキドキしてきたわ……。目が回ったらどうしましょう」
「あはは、美沙は大袈裟だな」
和之が心配性の妻を笑い飛ばしす。
「あら? 事故なんて嫌ですからね! 隼人ちゃんの大切な人なのに!」
「だ、大丈夫だよ……。戦闘じゃないんだから……。葉月が所属しているチームは、そんなの朝飯前のパイロットばかりだよ」
隼人も苦笑いをこぼした。
(しかし……コリンズ中佐はとびっきり危ない飛行パターンを練りだしているからなぁ?)
フランスで葉月と康夫が組んだあの『飛行訓練』。
危ない『タッククロス』の『重奏』。
隼人は急に思い出して、ふと、眉を歪めた。
和人はすっかり興奮していて、両親も式典へ招待される話に花を咲かせていた。
隼人は食事をしながらも、やっぱり頭の中は……もう『小笠原』に戻っていた。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
「お兄ちゃまにも連絡しておかなくちゃ──」
葉月はすぐさま右京に協力を仰ごうと、隼人との電話を切っから直ぐに、右京の登録を探す。
ボタンを押そうとして、ふと……葉月の頭に過ぎった物が。
(右京兄様……純兄様と会う約束をしているかも……)
真一にも『見かけたら教えてくれ』とは頼んだが、どちらかというと右京に頼んだ方が確実ではないか? と、急に思えてきた。
だが──。
『純兄様に会いたいの。お兄ちゃま、純兄様に会うなら伝えて』……なんて、それを大きなお兄ちゃまである右京に率直に伝えてどうなる? そんなの……。
真一に頼むより、かわされるに決まっている。
葉月は溜息をついて、携帯電話をテーブルに置いてしまった。
(会ってどうするつもりなの? 私──)
隼人と一緒にいる、やり直す。
そう決めた──!
その心積もりは変わらない。
それを『義兄』に伝えたい。
そこまでの気持ちに辿り着いて、葉月はいつも……ふと我に返る。
『何故? 義兄様に──決めた気持ちを伝えなくてはならないの?』
彼は……自分の事など義妹としてしか見ていないのに。
ロイが『きっと葉月を愛しているに違いない。皐月とは別人として愛している』と教えてくれた。
悪友の純一のその気持ちを見抜いているから、ロイは葉月と純一を引き離したいと──。
そんな素振り、義兄は一切……葉月には見せてくれなかった。
それもそうだ──。
例えば、義兄がロイの言うとおりに、自分を女として愛しているとして考えてみても──。
今までの葉月の何処に? 『兄様を愛しているの。一番なの。側にいて欲しいの。私を置いていかないで──』なんて──そんな熱い気持ちを義兄にぶつけた事なんてあっただろうか?
どんな熱い一夜を供にしても、そんな『分かち合い』をした事など一度もない。
悪く言うなら『ただの戯れ』と表現した方がしっくりくる。
それなら、むしろ──隼人との方が『分かち合い』としての実感が残っている。
だけど──葉月は隼人と付き合って初めて知った。
『他の人に任せられる? 義兄様以外の男の人の胸に飛び込める?』
そんなせっぱ詰まった『境界線』まで、葉月を誘ったのは他ならぬ『隼人』。
隼人をこれ以上愛したい、愛すのが怖い、今までの私では無理。
それを知ったから、義兄への『思慕』を初めて味わった。
──『義兄様以外の男の人が、私を揺さぶるの!』──
そんな恐怖におののいた時期は、とっくに過ぎた。
だから──隼人といると決めた。
だったら……義兄はあっさりと承知するだろう。
──『お前の好きにしろ。俺は関係ない闇の男だ』──
そんな義兄の素っ気ない口振りが、サッと頭に浮かぶほど──解りきっている事。
葉月の周辺はいつも把握している義兄なら、葉月から告げなくても、何処ともなく……身を隠し、退くだろう。
それで良いではないか?
それで……義兄は……純一は葉月の前から姿を消すだろう。
隼人と別れない限り。
『そんなの嫌!』
そう思った時に……やっぱり隼人にはまだ全てを委ねていないのだと自覚する。
(これでは駄目……早く……早く……割り切らないと)
『割り切る?』
隼人の胸に心より素直に飛び込む気持ちに『割り切る』なんて気持ちは生じてはいけない物。
葉月はそこでまた頭を抱える。
つまり──。
「私は嘘つきなの? 今のこの気持ちは見せかけ?」
隼人の事を責められた義理ではないと、自分の身勝手さに腹が立ち、どうにもコントロールできない、自分自身の気持ちにじれったさを感じ──そして、それが今のどうしようもない自分だから、余計にどうして良いのか混乱するのだ。
「でも、義兄様と一緒になるなんて……もう、考えられない」
葉月の答は……本当は出ている。
どうすれば良いかも──。
迷ってはいるが…『もう……義兄に会う必要はない』だった。
だけど──彼との繋がりを切ることが耐えられないのだ。
彼と一緒に……義兄と一緒に……姉を弔い、そして事件後の時間を噛みしめ、そして……真一を見守ってきた。
その『関係者』の中で……葉月が一番『強く繋がっている』と思っているのは、誰よりも『純一』。
比べようもない程……隼人ではなく『純一』。
何年も積み重ねてきた『関係』。
これを『忘れる』なんて事が『瞬間的』に出来る事など、出来る人間がいるなら聞いてみたい。
『気持ちは直ぐに切り替えられるものなの?』
グラデーションの様に、なだらかにゆるやかに──そんな風にしか変える事が出来ないなら。
もう少し時間が欲しい。
これからは、『隼人』と噛みしめて行く事は出来ても……。
葉月の『歴史』の中には、あきらかに『義兄』の存在は、現時点では『鮮やか』すぎる。
──『すぐに忘れろ』──
それは今すぐには出来そうにない。
義兄に会って……これからを伝えたい。
そして──義兄に気が付いた自分を教えたい。
もう、お兄ちゃまではない男性と、光ある世界で前を向く。
闇ではなくて……表の世界で。
きっと義兄は微笑んで送り出してくれるだろう。
それを葉月は見たい、知りたい……『許して欲しい』
(許して欲しい?)
葉月はそこまで考えて……ふと、また我に返る。
「お兄ちゃまなんて……私が何をしても何も言わないわ? 何を許してもらうの?」
葉月は小さく微笑んで、額を抱えた。
無駄なことばかり頭に浮かぶ──。
葉月はそっとテラスに出て、いつも隼人が座っている椅子に座った。
サンテラスの窓から吹き込む静かな風。
肩まで伸びた髪がそっと葉月の頬をくすぐった。
今夜は一人──。
こんな風に彷徨っても、声をかけてくれる人はいない。
いたとしても……『彼を苦しめるだけの私の勝手な思い』。
葉月は頬杖をして夜海に散らばる漁り火を眺める。
「もう限界だわ……」
また額を抱えてうなだれる。
一人でこんな風に抱え込むのなら──。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
『良ければ、右京さんの連絡先を教えて欲しい』
隼人はそんなメールを打っていた。
夕食が済み、家族と話しに花を咲かせて一段落。
二階の部屋へと隼人は戻る。
頭の中は、もう……式典へのスケジュールを組むことでいっぱいだった。
葉月に右京の連絡先を聞きそびれたので、メールを送信した。
携帯電話をベッドサイドに置いて、隼人は丸テーブルにセットしたパソコンを広げる。
そこで自分なりのスケジュールを早速、作成し始めた。
一時間経っても、葉月からの返信は来ない。
(風呂でも入っているのかな?)
時計を見上げると、もう22時だった。
出窓から初秋の夜風が入り込んできてとても心地がよい。
うたた寝を繰り返す日々だったが、この日は街へと出歩いたので、少しばかり疲れて、眠気が差しそうだった。
それでも、気を奮い立たせてノートパソコンに向かう。
「なんだかなぁ……マンションにいる時と変わらないな、俺──」
また葉月に笑われそうだと、隼人は一人であきれかえっていた。
すると──。
──プルル! プルル!──
ベッドサイドに置きっぱなしにしている携帯電話が鳴った。
「?」
予想するなら葉月だろうが、返事ならメールで構わないのにと、隼人は訝しみながら席を立つ。
携帯電話を手に取ると、やっぱり葉月だった。
「もしもし? 葉月……?」
『隼人さん……?』
「!?」
その声が、先程……業務連絡をしてきた彼女の声とは明らかに異なっていた。
「どうした? 何かあったのか?」
『ううん……なんでもないけど。メールに気が付いたから……』
「メールでの返事で良かったのに……」
そう思ったが、声の様子からして……そうではない何かが葉月を襲っていると直ぐに解った。
その声はとても憔悴し、張りがなかった。
「なんだ? 何かあったのか?」
隼人はもう一度、気強く確かめるようにして問いただす。
『あの……兄様の連絡先なんだけど』
「そうじゃないだろう?」
『……』
隼人がキッパリと話を切ると、葉月が黙り込んだ。
『ただ……あなたの声が聞きたかったの。それだけ……』
「そんなはずはない」
隼人は引かなかった。
昨日まで、仕事以外にはメールすら送ってこなかった葉月が……。
そんな声でわざわざ電話をしてくるぐらいだ。
絶対に一人で何か迷っていると隼人は確信した。
「困るよ」
『困る?』
「ああ……俺がいない時に、一人で悩んで何処へともなくいなったりすると。それが一番困る。俺の目が届かない時に、葉月がたった一人でおかしくなると困る。それなら、遠慮せずに言ったらどうだ? 何があった? 仕事か? それとも、達也とまたもめたのか? それとも?」
正直な隼人の気持ちだった。
そんな声を聞いたら、すぐにでも小笠原に飛んでいきたくなるではないか?
すぐにどんな顔をしているのか、なにを迷っているのか?
なんでも遠回しに隼人にも言葉多く気持ちを説明できない『ウサギ』が、何を思って隼人を頼ってきたのか──?
声だけでは判断が付きにくい。
隼人も胸が冷たくなるぐらい、不安になって来るではないか?
「葉月──。やっぱり、明日……帰ろうか?」
『隼人さん……』
その途端に、電話口ですすり泣く声が聞こえてきた。
隼人は益々、心が急ってしまい驚く。
「本当に……なんだ? ほら……なんでも構わないから言ってみろよ? なんでもいい。俺がどう思うかなんて気にしている事でも構わないから」
すすり泣く葉月を確認して、隼人には予感が過ぎる。
その予感は当たった!
『もしかすると……兄様が、日本に来るかもしれないの』
「!? 『兄様』……とは、あの『会えない兄貴』の事か?」
予感はあったが……隼人に『正体』を言う、言わないで悩んでいるぐらいだと思っていたのに!
『その本人が来る』との報告で隼人は、予想外に驚いてしまった!
「それで? いつ頃?」
『姉様の命日に……良く来るみたい。でも、その時期にでも私には会いに来ないの』
「そうか……」
隼人はホッとした。
向こうに『会う気がない』という事でもあったからだ。
『でも──今年は会える気がしているの、私……』
隼人の胸がドクリと脈打った。
葉月が言い出したい事も──この時点で嫌な予感として浮かんだ。
『私、会えるなら……会いたい。ごめんなさい』
「……」
隼人は暫く茫然としたが、すぐに我に返った。
「解っている。俺も、一度は葉月自身の為にそうした方が良いと思っていた」
『隼人さん?』
ほんの少し前──。
その気持ちがあったからこそ、葉月を手元に縛り付けておきたくて、彼女を必要以上に求めてばかりいたあの『激しい自分』。
その時の不安は……『葉月は兄貴とケリをつけないまま俺の胸に飛び込めるはずがない』……だから、彼女の『やり直す』という言葉を信じられなかったのだ。
その長年の付き合いがある『兄貴』とケリを付けてこそ……葉月が隼人の方に向くか、また兄貴に戻るか──ハッキリするはずだと……隼人はもうずっと前から気構えていたのだから。
『本当にそう思っているの?』
「仕方がないだろう? 葉月のその気持ちは俺と出会う前からあるんだから──」
『私ね……。それでも隼人さんと一緒にいる』
「解っている、それも──充分、伝わっているし、受け止めているつもりだよ」
『本当に?』
「ああ……」
隼人は……口惜しいがそう応えていた。
それも本当の気持ちだから。
ただ……やっぱり隼人が予想したとおりに『兄貴に会わずして解決無し』という、流れに転じた事が悔しいだけ。
不安になるだけだった。
それでも隼人は顔を上げる。
「明日、帰るよ──。すぐにお前の所に行くから」
『ううん……隼人さんに言えたら、少しすっきりした』
涙声だが、その声にはいつもの彼女の凛とした筋が通り始めていた。
『ちゃんと休暇を過ごして? もう、大丈夫』
「……葉月」
そんな彼女の明るくなった声に、隼人は胸が熱くなってきた。
「葉月……嬉しいよ。ちゃんと困っている事を俺にも告げてくれて……」
『そんな……どうしようもなくて、隼人さんが嫌な思いをする事を言ったのに……』
「いや。葉月が正直に、そうやって教えてくれたら……『二人一緒に』どうすればよいか、黙り込まれているより分かり易いし、話し合いも出来る」
『隼人さん……』
「俺に隠さずに、自分の正直な気持ちを──俺に告げてくれて、それが嬉しいよ」
『本当に?』
「ああ……」
『……』
葉月が隼人に正直に告げてくれた時点で……。
──『困っている事はあるけど、隼人さんと一緒に解決したい』──
そんな意志を無意識に持ち始めていると、隼人は思えた。
それが……影で一人解決する事より嬉しく感じていた。
『説得力ないかも知れないけど……』
「ん? なに?」
隼人は受話口を耳に強く押しつける、彼女の声が遠いから──。
でも……ハッキリ聞こえた。
『今、とても恋しいわ──。帰ってくる日が待ち遠しいわ……。愛しているわ……』
その声に気持ちがとても籠もっていると伝わってきた。
彼女の感極まったような絞り出すような声。
「ああ……俺も恋しいよ。もう、帰りたい。お前に触りたいよ」
『でも……私の立場も考えてね? せっかくの家族団らんを壊すと、お父様に申し訳ないから』
「そうだな──」
『もう、大丈夫だし──。電話……またするから』
「ああ……一人で考え込むなら、遠慮なく……」
隼人はもう、大丈夫だと思えた。
葉月は今夜……一人で悩むよりは、隼人に頼ってみるという事を覚えてくれたのだろう──。
「帰ったら、その事もよく話そう」
『うん……私も決めたわ。帰ってきたら……話すから』
「!」
隼人は一瞬躊躇した。
小笠原に帰ったら……ついに『謎の兄貴の正体』が解る!
でも──葉月が一人で抱え込むにはどうも限界のようだ。
隼人も覚悟を決めた。
「解った──。その心構えも整えておこう」
『うん……』
隼人の真剣な声に、葉月もすんなりと頷いているのが伝わってきた。
その後、右京の連絡先を改めて教えてもらい、電話を切った。
「俺も覚悟を決めたぞ。葉月──」
隼人は左手の拳を……何かを握るようにして出窓に向かった。
十五夜季節の月が、その拳を照らした。
隼人はその光に毅然とした顔で向かい合う。
そして──そっと握った拳を開いた。
開いた手の中には何もない。
何もないけど……。
今日、選んだ若草色の小さな石をはめ込んだ銀色のリングが目に浮かぶ。
『共に勇気ある前進』
隼人はそれを確信した。
彼女と一緒に……それが出来るような気になっていた。
絶対に、その男の元に戻す気はない。
たとえ、二人が再会しても……。