土曜日──。
御園四中隊は、本部端末メンテナンスにより、午後は休日出勤。
「では、フランク中佐の監督端末からシミュレーションを行います」
晃司がジョイの席に座って、本部端末全体への情報伝達具合を確かめる作業を始めた。
ジョイと、テッドを始めとした総合管理官の男の子達が数名──。
晃司とジョイの指示の元、テストを行う。
「うん──。異常はなさそうだな」
デスクに座って監督端末を見張っている晃司の背中には、和之が立っていた。
その隣で、隼人も眺めている。
この手の事は葉月はまったく無知であって、それを眺めているだけ。
勿論──葉月の隣に控えている達也もそうだった。
昨夜、起きたことなど……二人とも微塵もちらつかせなかった。
午後からの集合だったが、目があっても『ご苦労様』といつもの挨拶。
目があって一瞬だけ、お互いに探り合う眼差しになったのが解っただけ。
それも長年の付き合いから来る『アイコンタクト』?
『兄さんと大丈夫だったのかよ?』
『平気よ』
葉月の脳裏には、達也の眼差しから、そんな会話が浮かんだ。
達也にもそれが通じたと信じたい。
信じた証拠に、達也はいつもと変わらなかった。
それよりも、今朝の葉月は満たされていた。
昨夜──随分と自分らしくない姿で隼人にぶつかったが……。
それを、ガッチリと受け止めて愛してくれたから──。
──『キス、一つ……それがどうした? キス、一つ以上の事を俺達は誰にも邪魔されず……』──
その隼人の言葉が良く解ったような気がした。
あの程度、それだけの事。
もっと熱くて心も焦がれて、身体が燃えるようなあの分かち合い。
それに比べたら……他愛もない『小さな表現』じゃないか……と。
達也にしてみてもきっとそうなのだろう。
ちょっとした『告白の表現』の『一種』であって……身体で確かめ合う事に比べると……序の口である『触れ合い』だったに違いない。
それに対して、泣いたり、怒ったり、狼狽えた自分は……。
二人の側近男に比べると……男女間の問題で言えばまったくもって『子供』であった。
でも──葉月はそれで達也が言いたい事も、丁度良く……解ったような気がした。
それでも、葉月は横から香ってくる『サムライ』の匂いに敏感に昨夜の事を思い出し……ひとつ溜息をついて、スッと一人、大佐室へと入った。
「……おや? 葉月君は、どうしたのかな?」
即座に葉月の様子に気が付いたのは和之。
父親がすぐ後ろにある大佐室の扉に振り返ったので、隼人も気が付く。
「どうかした?」
隼人は後ろでシステム班の作業を見守っていた達也に尋ねてみた。
すると──。
「知らねぇよ──」
達也は隼人が声をかけるなり、ふてくされたようにして大佐室ではなく……本部の外廊下へと出ていってしまった。
「……」
隼人はその背中を見送る。
だが──。
「達也」
何処へ行くとも解らない彼を追って、隼人は声をかける。
「なに?」
達也が無表情に振り向いた。
「何処に行くんだよ?」
「別に──。俺は役に立たないから、差し入れでも買いに行こうかと思ってさ」
「ああ、そういう事」
隼人が少しホッとした顔でもしたのだろうか?
達也がちょっと納得できないようにして、眉間に僅かなシワを寄せた。
まるで……何か悔しがっているかのように。
隼人は達也のその素直な表情に……昨夜の事を暗示しているのがすぐに解った。
だが、切り出したのは達也だった。
「──解っていて、平然としているのかよ?」
「……なんのことだ」
達也の形相が険しくなる。
「解っているんだろ? アイツと俺の昨夜の事」
「……」
隼人は黙った。
葉月が口紅を直して帰ってくれば、決して『判明しない』はずの事だった。
だが、達也は覚悟していたようだ。
──『葉月に口紅を直す余裕はない。絶対に、あのまま帰宅した』──
イコール……『隼人は気が付いた』。
さらに……『俺の宣戦布告に対して、態度はその程度』。
きっと達也は隼人が顔を合わすなり、目が合うなり、怒らずとも、多少の『悔しさ』を滲ませる事を『期待』していたのだろう。
隼人が『悔しがる』ということは、葉月と隼人の間に僅かでも、『達也』という『男としての存在価値』が生じるのだから──。
それが……昨夜の事などまるで最初からなかったかのような『平穏』に、達也は、葉月にも隼人にもふっかけた『宣戦布告』の意味が成し遂げられなかったという無感触に、自分の無力さを感じている。
それが隼人には解っていた。
だが──隼人にしてみても『これもお返しのつもり』。
ここで、達也の思うつぼに狼狽えるつもりもなかった。
そこで達也が『無力感』をたとえ感じ取ったとしても、なにも気負う気持ちは一欠片もない。
それが達也が叩き付けた『宣戦布告』に、まっとうに応える形であり、それが隼人と達也が臨んでいる『フェア』だと思っている。
だから……達也も悔しいようだったが、それだけのようで彼もそれ以外は狼狽えたりもしていない。
暫く──二人の男は視線を静かに絡ませる。
「達也」
隼人は向かい合っている彼の所へと、静かに歩み寄った。
そして、達也の肩を叩いて横に並ぶ。
彼の耳元側で囁いた。
「今、『俺のウサギ』はとても敏感でね──。ちょっと触っただけでも、もの凄く感じて堪らないらしいんだ。あまり過激な大人の『触れ合い』を教え込んで、『泣かせないでくれよ』──。子供みたいにワンワン泣くんだからさ……」
「!」
達也とはすれ違うような形で、目線は合わせていない。
だが、彼がちょっと過剰に反応した息づかいは感じ取った。
隼人の今の言い分が……『心が敏感で』とも取れる言い方にしたが『まっとうな男』なら、すぐに『思い浮かべられる場面』をほのめかす様な言葉選びをした。
達也はきっと──隼人と葉月の夜の睦み合いを、すぐに連想したのだろう。
そうでなければ、今……隼人が強く掴んでいる彼の肩が息づかいと供に、びくりと反応はしないはずだ。
「へ、へぇ……。そうなんだ。それは俺も益々、興味が湧いたな」
達也はなんだか引きつり笑いで、なんとかさらなる悔しさに耐えている様子。
「だろ? 今までのウサギさんは、抵抗心いっぱいで鈍感を自ら務めていただけだ」
隼人はさらに……余裕いっぱいに微笑んだ。
心も身体も抵抗心で鈍感で無感情を務めていた。
だけど今は、葉月本来が持つ『敏感』な状態にある。
これも心に関してか身体に関してかは、達也の判断任せだ。
「離してくれよ」
今度の達也は笑っていなかった。
余程……シャクに障ったのだろう?
肩を強く掴んでいる隼人の手を、荒っぽく払いのけた。
「確かに昔の俺が到達できなかった状態なんだろうな。横取りをするつもりはないが? 俺もそれだけの事はいずれ出来ただろう自信はある」
今度の彼の目は真剣だった。
隼人も負けずに、その輝く視線を見据える。
「感じる葉月ね……。それは俺も知りたいね。心もベッドの方もね──。今すぐは無理そうだけどな──」
今度は達也が余裕いっぱいに微笑み……行くはずだった方向へとスッと去ろうとした。
彼はスラックスのポケットに両手を突っ込んで……落ち込んだように背を丸めていた。
隼人は……その気持ちが男として痛いほど解るが同情はしない。
その背をジッと見送っていると、達也が立ち止まった。
「……そんな兄さんだから、改めて言っておく」
「なんだよ」
すると達也がフッと肩越しに振り向いた。
「俺はもう結婚はしない。俺なりの愛情表現で突き進める所までとことん行くぜ」
「……」
「葉月とマリア。俺の中で言い切れる愛は二つ。だけど、側にいると決めたのは葉月だと……。それはもう知っていると思うし、気が付かせたのも兄さん自身だ」
「解っている」
「だけど……」
「だけど……?」
達也の眼差しの強さが一瞬、弱まった。
「そんな兄さんだから、兄さんがいない間は、兄さんの代わりにアイツを守る。俺達の『フェア』を無粋に壊すためにここに来たんじゃないって事は約束する。だから──安心して、横浜に帰れよ。もう、あんな事で葉月を惑わせないから」
「そんなの解っているさ」
隼人は真顔で達也への『信頼』を伝える。
「ま、そういう事……」
達也はそれだけ言うと、今度はスッと背筋を伸ばして堂々と前へと歩き出した。
カフェへと向かう達也の背中を隼人は見つめる。
彼が決めた愛情表現。
それはひたすら側にいる事。
結婚なんて『絆』は、もう……離婚経験者の彼には関係ない『形』のようだ。
隼人は少し、羨ましく思った。
本当は一人きりでも彼女の側にいる事を決した彼の方が『強い』のではないだろうか?
そう思ったから……。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
夕方近くになって、晃司とジョイの総合管理班が実践した端末メンテナンスは終了。
17時半発、横須賀行きの便が出る時間が近づいてきた。
「じゃぁ──葉月、達也。悪いけど、後はよろしく」
隼人が荷物を手にして、父親の和之と晃司と並んで大佐室を出ていこうとした。
「気を付けて……ゆっくり休んでね」
「兄さん! みやげ忘れるなよ♪」
「アハハ! 任せろよ!」
「じゃぁ……葉月君。突然来て騒がせて申し訳なかったね。でも、君の元気で綺麗な姿が見れて嬉しかったよ」
和之がニコリと葉月に別れの挨拶。
「まぁ……お父様ったらお上手は相変わらず」
隼人がしらけた目線で父親を見下ろしていたのが、また可笑しくて葉月はそっと微笑んだ。
「あ。お父様? 十月末の式典には、ご家族でご招待しようかと思っていますの」
「ああ、隼人からも聞いたよ。是非、楽しみにしているよ。美沙も和人も喜ぶだろうしね」
快く受け止めてくれて、葉月もホッと頬を緩ませた。
「じゃぁ、行ってくるよ。来週の週末まで行ってきます」
「行ってらっしゃい」
葉月と達也は笑顔で、隼人兄さんを送り出す。
澤村父子が仲良く肩を並べて大佐室を出ていった。
「はぁあ」
葉月はすぐさまグッタリと大佐席に座り込んだ。
そんな葉月を達也が眺めている。
葉月は、また昨夜の事を思い出して……何気なく達也から視線を逸らす。
「寂しそうだな」
「べ、別に?」
「まぁ……昨夜みたいな事はもうしないから、安心しろよ」
「……」
達也がちょっと気まずそうに呟いた。
「兄さんにたっぷり仕返しされたし」
「仕返し!?」
葉月は喧嘩でもしたのかと、皮椅子の上でちょっとビックリ飛び上がりそうになった。
「まぁ。お説教を食らったくらいだよ。あまり葉月を虐めるなってね」
「ああ、そうなの──」
そんな事も隠さずに教えてくれるのも、開けっぴろげな達也らしかった。
「でも、まぁ。よく考えたら、私も馬鹿よね」
葉月はそんな達也だから、もう変に避けずにこちらも素直に反応した。
頬杖を付いて溜息をこぼすと、達也がちょっと可笑しそうに笑い声を立てた。
「狼狽えるお前も、結構な見物だったな」
「そうね……私らしくないって?」
「いいや? そんな葉月もあるんだなって……良かったというか……」
「そう?」
「ああ。きっとこれからは……葉月はアレで良いんだよ」
「……そう?」
達也がニコリと穏やかに微笑んだので、葉月は少し頬を染めた。
「うん……。そんな葉月に変わっていた事が嬉しかったかな」
「あの──」
達也があまりにも穏やかなので、葉月はちょっと戸惑う。
「ん? なんだよ。 あ、俺……早く帰らないと! 夕飯の買い物をしないと、冷蔵庫に何もないんだよな!」
彼が手早くデスクを片づけ始める。
隼人がいない夜こそ……何か言い出すだろうかと葉月は構えたのだが……。
どうやら昨夜の食事は本当に『言いたいことがあって』の誘いだったようで、隼人がいない隙を狙うような達也のそんな下心は何処にも感じられない。
「あの──」
「ああ、そうそう! 俺も車が欲しいんだよ。葉月の良いツテがあったら紹介してくれないか?」
「え? ああ、うん。それなら右京兄様に聞いてあげるわ」
「助かり♪ でも、兄ちゃんみたいな外車じゃなくて国産車で良いから!」
達也はデスクを綺麗に片づけると、ポケットに僅かな所持品を詰め込んで、今にも帰りそうな勢い。
「あのね……」
「……」
なにやら言いそびれてばかりの葉月の事など……達也は解っていたようだった。
葉月が何を言いたいかも解っているかのよう……。
それで万が一を避けるために、ワザと早口で遮っていたようだった。
「お前のそういう所が時々焦れったいんだよ! 言いたいことあるならサッサと言え! 仕事の時は、スッパリと発言するのに、どうして私事になるとお前はそうなんだよ!」
「うん、ごめん……」
情けなく俯く葉月を見て、達也がもどかしそうに黒髪をクシャクシャとかいた。
「なんだよ! 昨日の俺の反則に対して、マジギレした事を気にしているのか?」
「そうじゃなくて……」
「お前は、ふいを突かれた側なんだから、謝ったりしたら怒るぞ!」
「……そうじゃなくて!」
「だったら、なんだよ!」
葉月は顔を上げて……意を決するように深呼吸。
「食事には二度と行かないって言ったけど、そんな風には思っていないから!」
「……」
達也が面食らった顔をして静止した。
「そりゃ。あんな風になると困るから警戒しちゃうけど……。達也のことは信じているし……それに私もお付き合い下手だと認めるし……。別に……例えばだけど、もし今夜誘われても行く気は……あるし……。でも……やっぱり彼がいないことは……ちゃんと考えて……」
これからも警戒はしないから、今まで通りの『同僚』として、仕事面でも私事でもそつなくやっていきたいという事を、葉月は歯切れ悪く、しどろもどろに伝えてみる。
すると──。
「アハハハ!! ばっかじゃねーの、オマエ!!」
達也が指さして、大笑いをしたのだ。
「な、なによ!?」
達也は葉月が真剣にやっと伝えられた事に、まだ……お腹を抱えて笑っている。
「そういう所を真剣に考え込んで、わざわざ伝えるところが『お子様』だっていうんだよ!」
「どうして!? 私は真剣よ!」
「ワハハハ!!」
さらに達也が大笑いをしたので、葉月は今度は途方に暮れてしまった。
眉をひそめていると……。
「あはは。まぁ……いいや。そんな事、葉月から言ってくれなくても、ちゃーんと心得ていますよーだ」
「そ、そうなの!?」
葉月が本気で驚くと、達也がまた笑い出した。
今度は葉月は頬を膨らませた。
「いやー、面白いな……。さっすがリトル・レイとなると……。あはは、そういう訳ね」
「なによ??」
「あー。もういいや。そういう『可愛い葉月』もいると解ったからさ」
「可愛い!?」
「じゃぁな! 月曜日から『留守番』を頑張ろうぜ!」
達也は首を傾げる葉月をお構いなしに放って。二本指の敬礼で大佐室を出ていってしまった。
「な、なに? どういう事??」
葉月としては、昨夜のことは一生懸命考えた上で……達也とはわだかまりにならないように、どう対面するか考えていたのに?
まるで……そんな事、一生懸命考えるだけ『無駄』であって、考える方が『お子様だ』という達也の言い分が良く理解できない。
それとも? 何事もなかったかのように、上手にあしらえる自然体。
つまり、今の達也のような自然体が大人の『駆け引き』だとでも言いたいのだろうか?
(そういえば。隼人さんも何事もなかったように平然としていたわね?)
そのくせ、しっかりと達也に『仕返し説教』を見えぬ所でしていた様子。
そういう二人の男が取り交わし始めた『駆け引き』。
葉月はなんだか一人……『特別扱いのお子様』として取り残されているような? 出遅れているような? まだ二人の男性が登った土俵には、上がる資格がないような?
そんな出遅れている気分になっていた。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
基地の警備口からしばらくの地点から続く金網フェンス。
金網の向こうは芝が取り囲む道路に小道に、小さな白い家が並んでいる。
──『アメリカキャンプ』──
家庭持ちのアメリカ隊員が、生活を営んでいる『街』。
その向こうは土地は日本であっても、お国は治外法権の『アメリカ』。
真一は医療センター側にある寮を飛び出して、そのフェンス沿いを自転車で走っていた。
走っている対向車線側のガードレールの向こうは青い海。
「真夏の訓練はさすがにきつかったなー。今年に入って何回目だよ?」
真一の隣には、同じ栗毛の『相棒』、エリック=マッキンレイが、寄り添うように自転車で走っていた。
「うーん、でも、段々……慣れてきたかな?」
真一は、泥だらけになった顔に伝う汗を笑顔で拳で拭う。
「そうだけど。もう、ウンザリだぜ? まぁ……今度はレスキュー訓練があって、医療的なメニューもあって、面白かったけどさ」
隣のエリックも……同じく泥だらけだった。
二人は今──野外訓練を終えて自転車で『自宅』を目指しているところだった。
暫く走ると、金網フェンスが切れた。
アメリカキャンプの警備口がある所。
そして……隣は軍の独身官舎と日本人官舎が並んでいる地域だった。
「じゃぁな、真一。21時に戻る約束、忘れるなよ!」
「解っているって! ケントパパとエリザベスママによろしくね!」
「お前も姉さんにしっかり甘えてこいよ!」
「なんだよ、それっ!」
真一がムキになってむくれると、エリックは笑いながら手を振ってキャンプの警備口へ向かっていった。
「ふぅ……丘のマンションは確かに久し振りだな」
真一は再び、ペダルに足を乗せて漕ぎ始めた。
春から医療的な授業が増えて、野外訓練も増えた。
今回の野外訓練は、陸訓練生との合同演習だった。
小笠原のジャングルのような山間地域に入っての野外訓練は、今までの室内だけの授業や基地内の体力訓練とは違って、なかなか厳しく、そして……本格的になってきていた。
それでも真一の毎日は充実している。
『早く……親父を驚かしてやるんだ!』
春にマルセイユで父と対面してからの真一の『思い』は、そこへ真っ直ぐと突き進んでいるから……。
『親父みたいな、ううん──アイツを唸らせる軍医になるんだ!』
頭ではそう言いつつも、心の中では……
──『真のような医師になれよ』──
亡くなった弟、真一を育ててくれた叔父の様にと望んでいる『父親』に、『よくやった』と言わせたいためであることは……感じているが、なんだかそれを認めるのも腹立たしい気がするので……『唸らせる』と置き換えているのだ。
真一は海沿いの道を深緑色の訓練着姿で懸命に自転車を漕ぐ。
徐々に顔が緩んできた。
エリックにはムキになって反論したが……。
『ああ……葉月ちゃん、どうしているかな〜』
あの麗しい若叔母の笑顔を思い浮かべると、やっぱり頬が緩んでしまう。
子供に戻っていってしまう。
どんなに若叔母の背丈を超えて、身体が逞しくなろうと──。
それはどうにも捨てられないし、捨てようもない真一の気持ちだった。
丘のマンションに辿り着いて、真一はセキュリティロックを解き、自転車を押しながらロビーに入った。
エレベーターのボタンを押す。
すると……? 二階から誰かが降りてくるようだった。
(わー。俺……泥だらけで汚い!)
訓練は5日間だった。
その間、風呂など入れる訳がなく、住民の人に見られるのがちょっと億劫だった。
それでもここの住民は真一が軍医を目指していることを知っているから、こんな姿を見ても嫌悪感を示すはずはないと信じてはいるのだが──。
──ゴトン──
エレベーターが一階に辿り着いた。
真一は、ソソとした顔に整えて、笑顔を浮かべて愛想良い挨拶をする順番を思い描く。
エレベーターの扉が開くと──。
「あれ? シンじゃないか……」
「あ、リッキー? 珍しいね?」
「ああ、たまにはね。ダディとママに顔を見せないと、うるさいから」
降りてきたのはロイおじさんの側近……ここの管理人の息子。
リッキー=ホプキンスだった。
「うわぁ……泥だらけじゃないか? 野外訓練だったんだね?」
「うん! きつかったよー! ヘビも食べさせられた!」
真一がウェッと舌を出した途端にリッキーがクスクスと笑い声を立てる。
「もう、レイも帰ってきているみたいだよ? 早く行ってあげなよ」
「うん。実は寮の風呂が今満員で……外出許可をもらって、こっちの風呂に入ろうと思って」
「そうなんだ。解るよー? 男ばっかり、きったない風呂になるんだよな」
「わー! リッキーもそうだったの?」
「勿論。俺だって訓練校を通って軍人になったんだから」
キラリと艶やかな濃い栗毛をリッキーはサラッとかき上げた。
いつも優雅で上品で落ちついているリッキー。
ロイの事はおじさんと思っているが、何故かリッキーはお兄さんと言いたくなる程。
そんなリッキーが、今の真一のように泥だらけで男臭いムンムンとした汗臭さなど……到底、想像が出来なかった。
……が──そうであったのだろう。
「じゃぁ、レイに宜しくね」
「うん!」
リッキーが砂埃にまみれた真一の栗毛を臆することなく、サラッと撫でてくれた。
真一が、開いたエレベーターに乗ろうとすると、管理人専用の階段がある扉から、金髪の女性がスッと出てきた。
「リッキー!」
「あ、ママ……なんだよ?」
スラッと背が高くて金髪の髪を綺麗にまとめ結いしている初老の女性。
リッキーの母親である『アリソン』だった。
「あら? シンちゃん! お帰りなさい」
いつものお祖母ちゃんのような暖かい笑顔で真一に微笑みかけてくれた。
「ただいま! 野外訓練の帰りなんだ」
「まぁ……頑張ったみたいね? 泥だらけだわ。早く、お風呂に入りなさい?」
「うん!」
アリソンは真一に優雅に微笑むと……
『リッキー。さっきのことだけど……』
……息子の肩にそっと手を添えて、なにやら耳元で囁いていた。
真一は、それを目の端に止めてエレベーターに乗り込んだ。
『解った。一緒に確認するよ』
『……でも、そこまでしなくて良いと思うのだけれど?』
『ロイが気にしているんだ。頼むよ』
『そうね……』
真一にはそんな風に聞き取れた。
母子はマンションの玄関を出て……周りの雑木林を指さしながら見上げていた。
(なんだろう?)
真一は気にしている事を悟られないうちにサッとエレベーターの扉を閉めた。
見上げた方向からすると?
この田舎の島には不似合いなセキュリティを誇るこのマンションに張っている『赤外線感知機』が、設置してある方向のような気がした。
管理人であるホプキンス夫妻が、そういう事まで目を配っているから……。
真一はなんだか心に引っかかったが……。
3階に辿り着くと、もう……葉月に会えることで頭がいっぱいだった。
「ただいま! 葉月ちゃん!!」
玄関を開けると、もう……目の前には葉月が待ちかまえていた。
カードキーを通せば、インターフォンが知らせるから葉月が気が付いてくれたのだろう。
「お帰りなさい。シンちゃん! 久し振り!」
もう真一からは彼女に抱きつくことは出来ない。
彼女より背が高くなったし、肩幅も……胸元も、腕の太さも長さも──ずっと男になってしまったから。
でも──葉月は泥だらけの真一に臆することなく両手いっぱいに抱きついてきた。
「葉月ちゃん、汚れるよ?」
「気にしないわよ。さぁ……上がって。お風呂に入りに来たの?」
「うん、今、寮の風呂……満員御礼なんだ」
「そう」
「隼人兄ちゃんは?」
「あ、そうそう──。今日から一週間……休暇で横浜に帰省したのよ」
葉月がちょっと気後れしたような笑顔で呟いた。
「うっそ! 兄ちゃんが休暇を取るって……珍しいね!」
真一が驚くと、葉月がちょっとだけ……笑顔を陰らしたように見えて首を傾げる。
「うん……働きづめだったから……。また忙しくなる前に取らせたの。夏期休暇も取っていないから、達也と交代よ」
「あ、俺……まだ、達也兄ちゃんに挨拶に行っていない」
叔母の元恋人が戻ってきたのは、葉月からの電話連絡で聞かされていた。
「大丈夫よ。達也は、真一が頑張っていることを喜んでいたもの」
「暫くは基地内の通常訓練になるから……暫くしたら行くって伝えてね」
「解っているわ……さ、早く」
葉月の優しい手つきに促されて、真一も履いているブーツを脱ごうと、腰を下ろして紐を解く。
「……そんなブーツを履くようになったのね?」
葉月がシミジミと見下ろしていた。
茶色の靴底が分厚くて……スケート靴のように紐を張り巡らせるガッチリとしたアーマーブーツ。
「そりゃね。山道はこれじゃないとね……」
真一は父親もこれと同じ様な真っ黒いブーツを履いていた事を頭にかすめた。
「丁度良かったわ? 私の思いが通じたのかしら?」
「え?」
紐を解いて、ガッチリと重いブーツを力一杯、足からやっと外すと、見上げた叔母の顔が妙に真剣だった。
「シンちゃんに相談したい事があったの」
「俺に相談? 隼人兄ちゃんじゃなくて?」
「そうよ……シンちゃんと二人きりじゃないと出来ないお話よ。時間ある?」
なんだか葉月の顔が徐々にせっぱ詰まっているように真一には見えた。
「う、うん……21時までの外出許可をもらったけど」
「そう、良かったわ……カレーライスが良い? それともオムレツ?」
真一がすぐに帰らないと解ると、急に葉月はいつもの優美な笑顔に戻った。
「オムレツかな!」
真一は一時、首を傾げたが……暖かい夕飯が食べられると思った途端に、そんな疑問はすっ飛んでしまったのだ。
「じゃぁ。作るから……早くお風呂に入りなさい」
「うん!」
立ち上がると叔母は、真一の顔を見上げるようになっていた。
近頃、叔母が急に……か弱い女性に見えてきた。
でも──。
「ねぇねぇ! オムレツの中身は何!?」
「トマトにジャガイモにチーズに色々よ」
「チーズいっぱいね!」
「はいはい。解っているわ」
真一には遠慮なく甘えられる相手。
でも──いつかは守ってあげたい人。
その叔母が『相談』とはなんだろう?
こんな事初めてで……頼ってくれているようで真一はドキドキしてくる。
真一は嬉しさいっぱいの中、ちょっと首を傾げるばかりだった。