昔と変わらぬ、口うるさい同期生達也の『お説教』
いつもなら、鬱陶しいはずなのに、何故か葉月はすっかり聞き入っていた。
それもやっぱり達也が『大人の男』として帰ってきたという降参をしているからだろうか?
「要するに──」
すっかり無言になった葉月に、達也がまだ続けた。
「男女の駆け引きも知らないお子様だから、今後はもうちょっとそれを勉強して欲しいって事」
「つまり、テッドに隙は見せるなと言う事ね──」
達也がいうところの『広い範囲』での『警戒するツボ』は、今は良く解らないが、一番、身近に即刻注意すべき事は、近頃、側に来るようになった後輩への注意だと──。
それは解った。
「ま、手近な所ではそういう事かな。アイツは良い人材だから、変な惑わしで芽を摘みたくないからな──」
「私が悪いみたい」
葉月は、唇を尖らせながら……不満げに達也を睨んだ。
「悪くはないと言っているだろ? 自覚をしろと言っているんだよ。お前は、そこにいるだけで『惑わす』のだと自覚していないからな。ま、そこが良いところだけど? もうちょい、一般女性的な『自覚』を持って欲しいんだよ。お前じゃない、普通の女の子だって、小さな『駆け引き』ぐらい知っているぞ? それもやっぱり『女心』とか『乙女心』あっての自然な行動であるだろうけど、お前は、その部分を『無視』しすぎ。だから、隙を見せたときに男に喰われるんだよ」
葉月は、ぐうの音もでなかった。
だって……隼人が『お前はそこにいるだけで誘惑』と良く言う事。
同じ様な事を達也が言った。
──『お前はそこにいるだけで惑わし』──と。
そんな風に傲りたくないが……実際、そうであって……そして葉月は『男女の駆け引き』には確かに『無関心すぎた女の子』になるのだろう。
「お前は、弱くなった時こそ危なっかしい上に、いつだって男が手を差し伸べてくれる。そういう所が『男心をくすぐる』ワケ。俺はそれも葉月の魅力だと思っているぜ? 変に駆け引きばかり達者な女なんて疲れるけど、お前の無関心はある意味『ナチュラル』だからな。だけどな──。そうして、男が手を差し伸べた時にこそ……『選び間違えるな』と言っているの! これから兄さんと何があるか解らないだろう? 俺は兄さんは『すごい男だ』と思っていたけど、あの兄さんにも限界があると……小笠原に来て、日も浅いうちに目の当たりにしちゃって、余計に心配になったんだよ。兄さんに支えられっぱなしのお前だろうから、兄さんが弱くなった時にも『確固たる』……『女としての自分』を強めて欲しいんだよ。それだけ!」
「……」
反論が出来なかった。
振り返れば、そういう事ばかりだった。
「この際、ついでに言ってやる」
まだあるのかと、達也らしい『延々説教』を大人しく聞いていたのに、葉月は、もうそろそろ『ウンザリ』してきたのだ。
「なによ──」
「あのキザ男だよ」
「!」
葉月はそこまで来たかと、さすがに後ずさりたくなった。
「お待たせ〜! ゆっくりしていってよ!」
そこへ、マスターがトレイ二つを手にして、テーブルにやって来た。
そこで一端、話が途切れる。
「お! 美味そう!」
達也が懐かしいとばかりに、嬉しそうにアメリカンサイズのサンドに飛びついた。
(もう、忘れて)
葉月はそう願いながら……まず最初に、サラダを一口、無口に頬張る。
「あの男とも付き合っただろ」
「……ぐっ」
やっぱり達也の追求の手は緩まない。
さすがの葉月も、食事が喉に通りにくい感触で詰まった。
「あーあ。やっぱりね」
サンドを包んでいた紙を、達也が空に向けてパッと放って、ふてくされる。
「……だったら、どうなのよ!」
もう、否定する気もなくなった。
いずれは隼人の口からでも、ばれるかと思うと、変に否定するのもおかしい気がしてきたのだ。
「よく兄さんと仕事をさせたな。この小悪魔」
「仕事は仕事じゃないのよ? 見てよ、あの二人。今じゃとっても息があっているんだから!」
「……」
達也がまた……何か探るようにジッと葉月を見つめている。
「な、なによ──」
「なんていうか、仕事面に置いては、お前のそういう割り切り。俺は好きだけどね。だったら……俺にもそれぐらい割り切ってくれてもいいじゃないか?」
「!」
葉月の脳裏に、ある日の言葉がフッと浮かんだ。
そう……隼人が初めて『達也が欲しい』と打ち明けたあの晩の彼の言葉だ。
『……俺とロベルトを向かい合わせた時、お前、何を考えていた?』
『プラスになると思ったら、何でも上手く事を運ぶ……って、俺はそうお前の事、思っていたけどね?自分のことになると、怖じ気づくのはフェアじゃないと思うぞ?』
『お前は、もう一度達也と向き合うことが怖いんだ。日常という時間の中で……毎日、側で……達也に見つめられることが怖いから、それなら……別れた形のまま、今のようにもう目の届かない所にいた方が、気が楽って事なんだろうね?』
隼人がそう言った様に……達也も『仕事なら割り切れ』と言っているのだ。
男女の事は二の次であって……。
ロベルトと隼人を向き合わせたぐらいの『度胸』はないのか?
二人の男がそう葉月に突きつけている。
──『同じ土俵に上がる』──
隼人は達也を引き抜いたら、三人一緒に土俵に上がる。
そういう事も言っていたような?
つまり……既に『土俵上の取っ組み合い』は始まっていて……達也と葉月の『取っ組み』は、今、こうして始まっているのだ。
それに対しての葉月と来たら……。
達也が誘ったら怖じ気づく、隼人に行ってこいと許可されても怖じ気づく。
二人の男は既に『フェア』に取り組んでいるのに対して、葉月は逃げ腰なのだ。
それに気が付いた。
「いつかはさ──。俺が『二人でショットバーで飲もうぜ』と誘っても、『あら、そうね』と大人の笑顔で、サラッと受け止めつつ……。一緒にカクテルを飲んでも、俺の危うい誘いにも『なんのその』交わしてくれるような、格好良い女になる事を祈るね。今日の具合じゃ、まだまだ『お嬢ちゃん』だって……ガッカリかな。昔のお前はそういう所があったけど、それも『みせかけ強がり』。兄さんに化けの皮を剥がされて、本来の葉月ちゃんになったら……こういうワケね?」
達也が溜息を落とした。
そう言う点でも『葉月はお子様、駆け引き負け』していると達也は言いたかったらしい。
「兄さんも、そんなんじゃ……いつまで経っても『お兄さん気分』だろうなぁ? まるで怖がる妹を、後押しして『これは仕事なんだから行っておいで』みたいなさぁ? 男としてヤキモキするどころか、『ああ、これなら達也も手出ししない』なんて思っただろうな? なんだか『勝負』も気抜けするな」
「勝負なんてしなくていいでしょ?」
(私はもう──隼人さんと一緒にいると決めているんだから)
葉月はそこは言葉にせず、独り、心で言い切った。
「それは俺と兄さんの間の勝負事。お前は関係ないの」
「あっそう──。もう、勝手にして!」
男同士の訳の解らない『約束事』なんて、葉月にはまったく理解が出来ない。
「おお、勝手にしているぜ? お前はお前の道を爆進すればいいさ。隼人兄さん、一筋で頑張りな。俺は俺で考えているから、気遣わなくていいから──」
達也も、言いたいことも言い終えたのか、それで締めくくって……やっと食べることに集中し始めた。
(ロニーの事──忘れたわね)
あれだけの追求でホッとしたが……。
改めて──彼との日々を今夜は思い出した。
なんて身勝手だったのだろう?
まだ祐介も忘れられなかった自分を、あんなに全面的に受け入れてくれたロベルト。
そしてフランスに行ったまま帰ってこなかった葉月をそっと手放してくれたロベルト。
自分なりの幸せを見つけたロベルト。
あの時、彼の事を振り返らなかった自分の事を。
なんだか今夜はもの凄く『身勝手』と……切々と自己嫌悪が襲ってきたのだ。
そんな葉月を、またもや達也が、そっと見つめていたこと。
葉月は気が付かなかった──。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
その後は、まったくの『仕事話』に展開した。
その方が葉月も葉月らしく達也と意見を交わし合った。
でも──席を立つ時、達也が一言。
「お前って仕事となると、水を得た魚みたいだな? 変なの。そういう感覚で、葉月らしい『魅力』にも反映させろよ?」
もう──『余計なお世話』としか言い返せなかった。
なにはともあれ……。
どうにも達也には『先を越された気分』だった。
そんなむくれた葉月を見て、達也がニヤリ。
「俺って伊達に結婚生活を経験したワケじゃないから」
もう本当に『大人』ぶって勝ち誇った笑顔。
葉月は悔しくて仕方がなかった。
帰りは葉月が車を運転した。
「色々言ったけどさ。最後に一つ気になっている事を聞いて良いかな?」
助手席の達也が……そこは気にするように呟いた。
「なぁに? もう、なんでもお答えするわよ」
結局、昔ながらの同期生、元相棒には、隼人の様に手玉に取られて、なんでもお見通し。
葉月もかえって『隔たり』がない事を知って、気負いがなくなった気がした。
「そのさ……俺達の四中隊は、突き詰めると遠野大佐の部隊じゃん? 俺もあの先輩の仕事ぶりは、生前に今の大佐室で会ったことがあるからさ──。尊敬はしているんだよな? なんたって同じ横須賀校のOBだし」
達也はブラウン少将のお付き側近で、小笠原の式典に会議に何度か顔を出していたことも。
その時に、祐介と顔を合わせていたのだ。
「それで?」
「兄さんは知っているのかよ? 遠野大佐の事。お前との事──。この小笠原に戻ってきて、時々、あの先輩の事を思い出すんだよな? 最近。それで思わず口にしそうになって……兄さんの顔を見てハッとしたりして」
「ああ……知っているわよ? 誰よりも」
葉月があっさり答えたので、達也が驚いて運転席に詰め寄ってきた。
「え? え? 不倫だった事も?」
「うん。だって……隼人さんは、遠野大佐のフランス時代の後輩だもの。知らなかったの?」
「マジ──!? 知らないよ、そんなの! 康夫と働いていたことぐらいしか!?」
「あ、そうだったの? とても仲が良かったみたい。その話は、お二人の間でしても全然OKだと思うわよ? むしろ、隼人さん喜ぶと思うわ? 大好きな先輩だったみたいだから──」
「……そうだったのかぁ……」
達也はとても驚いていた。
でも──。
「なんだかむかついてきた! そういうご縁だったわけな!」
「え? まぁ……そうね?」
淡々としている葉月にも、達也は悔しそうだった。
巡って巡って……お互い関わり合っていた人を通して、出逢った二人。
達也はそれに即座に気が付いた様だ。
「気遣って損した! 明日から遠野大佐話題、解禁!」
拳を振るった達也に、葉月は可笑しくて笑い声を立てる。
「そうか──。そういうご縁もあるわけだ」
でも──達也は最後はシミジミと……微笑みで噛みしめてくれているようだった。
彼もどこかで『遠野大佐』の後輩なのだと、葉月はそう思えてきた。
達也が今、住んでいる官舎へと葉月の車は辿り着く──。
日本人棟舎である奥の棟。
山中が住んでいて、そして隼人が置きっぱなしにしている部屋がある棟と一緒だった。
「俺、兄さんと同じ階段。3階なんだ」
その階段の下に辿り着いて、達也が隼人の部屋の上を指さした。
その隣の階段、四階に山中が住んでいる。
「今は時々、山中の兄さんの所にお邪魔したり、ジョイのアメリカ棟の方にも遊びに行く」
「そうなの。慣れた?」
「ああ、元より、俺が住んでいた官舎だろ? 懐かしいぜ? その時は四階だったけど」
「そうそう! 上まであがるのが大変で、忘れ物を取りに戻るのが面倒くさかったわ!」
「そうそう! それで俺が、窓から下にいるお前に向かって落としたりとか!」
「あった、あったわ。そう言うこと!」
なんだか昔の想い出で、急に盛り上がった。
すると──。
「覚えてくれているんだ……。色々あったけど、ホント、お前が訪ねてくると嬉しかった」
達也が……とても穏やかな笑顔で葉月を見つめたので……急に葉月も懐かしさに胸が締め付けられた。
「……通っても、そんなに気にしなくても良い程、若かったわね」
「そうだな──。時々、泊まってくれたもんな、お前」
「……」
葉月はさりげなく視線を逸らした。
「じゃぁ……ご馳走様。今夜は色々と教えてくれて有り難う」
葉月はそこで締めくくって、早く帰ろうと思った。
「有り難うなんて、お前らしくないな? さっきまでの『余計なお世話』と突っぱねてくれる方が……」
何故かそこで……達也の言葉が止まった。
「?」
葉月が、ハンドルを握りながら俯いていた顔を上げると……。
「葉月──俺……」
熱っぽい達也の眼差しに気が付ついて、葉月は咄嗟に身体を退いたのだが!
「……う、ンぐっ」
彼の広い胸が、葉月の身体を全面的に覆い、唇を素早く塞がれていた。
「……たつっや」
両手で、すぐに達也の肩を押しのけたが、彼の大きな手がその手首を両方掴んだ!
そしてその押しのける力は、やっぱり海兵の男。
葉月の両腕は、運転席のシート、頬の横にいとも簡単に押さえつけられてしまった。
「葉月──俺は……やっぱりお前の事……」
達也がそんな事を囁きながらも、顔を背けて抵抗する葉月の唇を執拗に追いかけてくる。
捕まっては、唇を奪われて……そして、奥まで愛されて……達也は吸い上げるだけ、吸い上げて……葉月は息も出来なかった。
車内にたちこめる……アランドロンの香り。
「やめて!!」
やっと達也が唇を解放してくれた時、葉月は彼の頬を、まるで叩く様に押しのけた!
「なぁに! これも私が『隙』を見せたっていうの!?」
「いや? これは俺の反則かな?」
達也はシラっと落ちついていた。
「なんでこんな事をするのよ! 私は……今は……」
「解っているさ。兄さん一筋、俺が入る隙もないってな。むしろ、お前の全力投球は、誰にも邪魔できない事も知っている」
達也が前髪を指でスッと流しながら、ふてくされた。
でも、態度はまったくと言って良いほど落ちついていて、ふてぶてしい。
「帰って……もう、二度と達也とは食事に行かない!」
葉月が怒ると──達也がフッと呆れた溜息。
「お前、ちょっと変わったな。前なら、それがどうした? 男と女がしている事だとは意識もなくて、シラっと何事もないように人形みたいな顔をしていたのに」
「!」
そこで達也は助手席のドアを開けて、外に出ていった。
ドアを閉める時──。
「俺は謝らない。反則だったけど、それが俺の気持ちであって、これから続けていく事だから」
「……」
葉月は唇を噛みしめた、何故だか、解らない。
涙がとにかく流れそうだったが堪えたのだ。
「そして、反則をした事は謝る。でも、お前を奪ったことは謝らない。じゃぁな──」
そこで達也がバタリとドアを閉めて、階段へと颯爽と去っていった。
葉月はすぐにギアを握って、マンションへ帰りたいと心が急いだ。
だけど──ギアを入れて、クラッチを踏んだが……『エンスト』を起こした。
「もう!」
ハンドルを拳で叩くと……。
『アハハ! エンストしてやんの! 気を付けて帰りなよ。お嬢ちゃん♪』
……階段の踊り場から、達也が指さして笑っているのだ。
「……」
それで、急に涙が溢れてきた。
そう──やっぱり自分は、こんな事で狼狽える『子供』なのだと。
昔の『なんのその』であった自分は全部、『嘘』、『仮面』、『鎧』、『取り繕い』、『無感情』。
今、葉月は初めて原点に戻ってきている『幼い女の子』。
それを大人になった同期生に、こんな風に女として手玉に取られたショックも……。
そして……そんな彼が変わらぬ愛情を抱いていることにも……。
そんな渦巻く、説明が付けられない初めての気持ちも。
なんだか『ショック』だった──。
やっと車を発進させて官舎を飛び出す。
一直線に、葉月はマンションを目指した。
そこには、安心させてくれる人がいる。
そこには、笑顔で待っている頼もしい人がいる。
でも──笑顔で迎えてくれるだろうか?
葉月は嘘を付かなくてはいけないのだろうか?
葉月の髪、指、制服……。
そこらじゅうから──『サムライ』の香りが立ちこめている。
頭が麻痺するぐらいの大人の男の香り。
葉月は運転席の窓を開ける。
そこから入ってくる潮風が、この香りも気持ちも……家に着くまでに消してくれれば良いと……。
その頃──。
達也もフッと玄関前で、鍵も開けずにドアに背を持たれて俯いた。
「バカだな……俺。今のアイツには重荷過ぎるじゃないか……」
変化してしまった『乙女』な葉月には、昔のような『素っ気ない平淡さ』が、隼人の前では取り繕えなくなっているのを解っていて、止められなかった感情。
それでも……後悔はしていなかった。
達也は、触れた唇をそっと……指でなぞった。
その感触は、昔と変わらなかったが、どうしてだろう?
以前以上に甘美な味がしたような気がして、身体が震えていた。
「えっ……!?」
なぞった指に……ピンク色の染料が付いていた。
「……まさかな? アイツ、ちゃんと直して帰ると思うけど……」
それだけ激しく、葉月の唇を追いかけた跡。
「……ま、いいか」
達也はその指先を、もう一度口付けて、鍵を開ける。
ちょっとだけ、鼻歌混じりだった。
これを『宣戦布告』と決めたから……やっぱり後悔はなかった。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
──バタン──
玄関のドアが閉まる音。
「おかえり……。俺も今さっき、帰ってきたんだ」
リビングへ向かう廊下の角から、彼がいつもの笑顔で迎えに来てくれた。
「そう。早かったのね──」
葉月は、パンプスのストラップのボタンをくるぶしで外しながら、答えた。
でも、隼人の顔は真っ直ぐに見られない。
だけど、車を降りるときに『決めた』。
こんなことぐらい、どうってことない。
わざわざ騒ぎ立てて、泣きわめくことでもない。
隼人に心配させてはいけないから、『何事もなかった』という平静を務める事にした。
……そう、決めたのだが。
玄関をあがって、側まで出迎えてくれた隼人の肩をすかすように奥へと進もうとする。
やっぱり、どうも顔が見上げられなかったのだ。
「……どうした?」
すれ違い様、隼人に肩を止められた。
「別に……?」
「……」
隼人が肩に置く手を、そっと除けて──そのままやり過ごそうとしたのに。
「……別に? と、いう顔じゃないけど」
今度は両肩をグッと握られて、今度こそ彼の正面に向き合わされる。
隼人の大きな瞳と視線があった。
「──!?」
隼人の眉がピクリと、動いたように感じる。
そして眉間に僅かなシワが寄って、何か感じ取った様子だったが、隼人は黙っている。
葉月も、そっと顔を逸らした。
「……泣いていたのか? 目が赤いけど?」
「──」
落ちついてから部屋にあがったつもりだったが、それは同居人にはばれたようだ。
「……喧嘩、したのよ……。達也といつもの事よ。久し振りに二人で言い合ったから……エキサイトしちゃったのよ」
「そう……」
隼人は真顔で、ジッと葉月を見下ろしていた。
「──大丈夫だから」
両肩をグッと掴んでいる隼人の手を振り払おうとしたのだが、もう一度……むき直されて、今度は顎を掴まれ、無理矢理上を向かされた。
「──口紅がずれている」
「!!」
その眼差しは、怒っているのでもなく、軽蔑しているわけでもなく──。
ただ淡々と、平淡で無感情な眼差し。
その視線で隼人が葉月を見据えた。
葉月は驚いて、そっと唇の端を指でなぞる。
すると──指先が、うっすらと桜色に染まった。
指が震えた!
最初から、隼人は葉月の涙と一緒に、この荒らされた唇も見つめていたのだと!
「……そういう『喧嘩』だったのかな?」
まだ、隼人は淡々としている。
「……離して!」
今度は、力一杯、隼人の手を払いのけた。
「葉月……」
葉月は、そのまま廊下を突き進んで、リビングに駆け込む。
(もう、いや!)
ダイニングテーブルに座り込んで、葉月はテーブルに突っ伏した。
キスをされた事も、嘘を付いたことも、誤魔化しようがなくて、そして、全てに置いて自分がとても情けなく思えて仕様がない。
「……泣くなよ」
突っ伏してすすり泣く葉月の横の椅子に、静かに隼人が座ったのが解った。
「……ごめんなさい」
「……」
隼人は黙っていた。
葉月は泣きながら顔をあげる。
「なんで怒らないの!?」
怒って責められた方が、まだ葉月も言葉を投げつけられそうな気がしたのに……。
隼人はそれでも、いつもの落ち着きでいつもの顔で、ただ葉月を見つめている。
「うーん……」
隼人は面倒くさそうに、黒髪をかいて、一時、一人で唸っていた。
そして、また、葉月を真顔で見据える。
「なに? 俺に対して罪の意識を感じて泣いているわけ?」
「え?」
「それとも、奪われた事がショックで泣いているのかな?」
「……」
どういえば良いのか、今の葉月には解らなくて途方に暮れた。
すると、隼人がにこりと微笑んだのだ。
葉月はゾクリとした。
そこで笑える神経が良く解らない。
その余裕はなんなのか? という恐れだった。
「葉月らしいな。説明が付かないけど、とにかく泣きたいから、泣いているんだ」
「……それが可笑しいの?」
微笑む隼人に対しての驚きで、葉月の涙はいつの間にか止まっていた。
「……」
また、隼人が穏やかな笑顔のまま、黙り込んだ。
そして──。
「風呂、入ってこいよ……俺は、明日帰る支度をするから」
そのまま席を立ってしまったので、葉月はなおさら驚いた!
「私!」
「?」
隼人が振り返る。
「達也に……たくさんお説教されたの。今までの事も、今の事も──。それで……こんなに自分を情けなく思ったり、それで……こんなに自分勝手で……。それで……こんなに自分の事をまったく知らなくて……。それで……」
とにかく、上手く言葉には出来ないが、思いついたことをとにかく……隼人に伝えたくて、口走っていた。
すると──隼人がまた、隣の椅子に腰をかけた。
「そうか。達也が色々と教えてくれたのか」
葉月はこくりと頷いた。
「隙を見せるなって……」
「隙?」
そして、葉月は先程の調子でとにかく達也と話した事、テッドの事、そしてロベルトの事も、最後の達也の『反則キス』のいきさつまで……。
全部、ぎこちない、整理ままならない言葉で全部、喋った。
こんな不器用なしゃべり方で、隼人が解ってくれるかも良く解らない。
なのに──隼人は、ウン、ウンと頷いて、一句漏らさず聞き入ってくれた。
そして──。
「なるほどね。それで? 葉月に散々、隙を見せるなと叩き込んで置いて、最後に隙を見せているわけでもない葉月に、『反則』を犯したと認めているんだ。アイツは」
やっと隼人が頬を引きつらせた。
でも──それだけ。
葉月は、また流れた涙を……そっと拭いながら隼人を見つめる。
暫く、隼人は足を組みながら……海を眺めて黙り込んでいたのだが。
「正直、お前の口紅がずれているのを見て……『やってくれたな』と思ったけど」
「……うん」
「それぐらいなんだ。とも、思ったかな?」
隼人がフッと面白そうに笑い出した。
「なんでそんなに落ちついているの? ねぇ!?」
葉月には、まったく理解不能だ。
だけど──隼人はまた笑った。
「お前がね。キス一つでジタバタしているから、可笑しいじゃないか」
「どこがよ!?」
「お前、今まで何人の男と、何回、キスをしてきた?」
「!」
急に隼人の顔が真顔に……。
そしてその眼差しは、澤村父子が持っているあの特有の輝き。
なにか真実を推し量る時に、輝かせる……葉月が畏れを抱いている眼差しだった。
「そんな、回数とか関係あるの?」
「じゃぁ……逆に。俺なんてもっとすごい事、やって来たし」
「すごい事!?」
「いや、男女間の泥沼は……あるケースを置いて以外はなかったけど」
『泥沼』……それがあの黒髪の大尉の事だとは葉月もすぐに解った。
「勿論、まっとうな恋もあったし、恋人もいたし」
さらに、それが……マルセイユで休暇を取った時に引き合わされた、隼人の女友達である事も、葉月は直感できた。
「それ以外に……俺も結構、遊んだから」
「……」
葉月は『やっぱり』と、顔をしかめた。
だいたいにして、隼人は元は葉月の身体に、もの凄く遠慮をしている時は、非常に不器用そうな手つきだったのに──。
『本性』を見せ始めると、それこそ、戦闘機のメンテナンスをする手先の如く、非常に『器用だ』と葉月は驚かされたのだから。
隼人の手先は、やっぱりロベルトに似ていた。
繊細で、細やかで、的確なのだ。
達也や祐介のように、熱っぽい攻め方ではなくて、二人は非常に『じっくり』……。
ロベルトは左利きで、ぎこちない不器用さは明白であったが、隼人は意外と洗練されていた。
そこで葉月は『絶対に遊んでいた』と予想していたのだ。
だから……驚かない。
けど? それで何が言いたいのだと……葉月は眉をひそめる。
「つまり、キス一つ。ただそれだけの事じゃないか? 俺とお前には『キス、一つ以上』の誰にも邪魔されない、もっと深い二人だけの愛情表現もあるわけだし? 無論。葉月が望んだ、求めた、嘘を付いて、俺をないがしろにした。そんな下心があったのなら許せないけど? こうして子供みたいに泣かれちゃ、なんともね。どうせなら、達也の前で泣いたら、面白かったのになぁ? アイツも絶対に狼狽えたぞ」
そして、隼人は『アハハ!』と高らかに笑ったのだ。
「……」
葉月は唸った。
唸ったと言うより……やっぱり理解不能だった。
「で、それでも──その『匂い』はさすがに気になるから、風呂に入って落としてこい」
その時だけ……隼人が嫉妬を含めたような厳しい眼差しを、一瞬だけ葉月に向けてきた。
後は、いつもの穏やかな笑顔でニコリと微笑んだだけ。
「うん……」
葉月は、グッタリと椅子から立ち上がって、バスルームに向かった。
シャワーが終わったら……葉月はカボティーヌをいっぱい付けたい気分だった。
葉月がバスルームに制服姿のまま、消えて行く。
「やっと、宣戦布告か」
隼人は腕を組んで、椅子の背にかかっている葉月の上着を手に取った。
そこから──あの熱っぽい男の香りが立ちこめた。
「ふん」
そのまま、葉月の上着をテーブルに放って、テラスから見える水平線を見据える。
でも、隼人は微笑む。
そして──達也の気持ちも理解していた。
同じ男として……今の達也の立場で今夜、起きた事の成り行きは……解っているつもりだった。
だけど──『受けて立つ』と、隼人は瞳を輝かせる。
「まぁ……手始めはこんなものかな?」
──と、隼人は笑ったのだが……。
ひとつだけ、予想外な事が起きた。
その夜──葉月から隼人を求めてきたのだ。
明日から一週間、離ればなれだからと二人で自然と一緒に横になった。
勿論、隼人も『そのつもり』だったのだが……。
すぐに飛びつくのではなく、元に戻った隼人は以前通り、本を読んで……彼女がまどろまないうちに『そっと、じっくり』と、進めるのが隼人流なのだが──。
葉月に読んでいる本を奪われて、眼鏡を外す間もないまま、葉月から熱烈に唇を求めてきたのだ。
その上、葉月自身が急ぐように着けている下着を取り外してしまい……。
隼人の身体の上に、妖艶な気迫をみなぎらせて挑んできた。
「今夜は、私が隼人さんを奪うの──」
身体中から、あの香り。
葉月の日常の香りが隼人を揺さぶった。
非常に驚いた──。
隼人が『もう、そこまでしなくてもいい』と言っても、葉月の強烈な愛撫の嵐は、止まらない。
この女の子に?
こんな強烈な情熱があったのだろうか?
隼人は始終、翻弄されたが、絶対に葉月一人に流されないよう合わせるのに精一杯。
「ねぇ……いつもみたいに言って?」
「ねぇ……お前は俺のものなんだって言って?」
隼人が愛している間も、葉月は汗を滲ませながら、ずっとそんな事を呟いている。
『サムライ』は、宣戦布告をしたようだが……気が付いているだろうか?
彼女をこんなに『女』として、揺さぶっていたという事を?
葉月が目覚めて行く……。
花開く──。
匂う高き芳醇な香りの花へと──。
隼人は今夜、それを見た気がした──。