・・Ocean Bright・・ ◆子猫の願望◆

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2.追う幻は……  

『ねぇ……純兄。私を見てよ、抱いてよ、触ってよ……? 見えないの? 私が──』

 月明かりの中、自分の狭い部屋に彼女が全裸で立っていた。
 一糸まとわぬ姿で──。

『私……綺麗じゃないの? どうやったら純兄に喜んでもらえるの? ねぇ?』

 大きな茶色の瞳を潤ませて、輝かせて、煌めく涙の滴を目尻に溜めて……。
 彼女から香るような花の匂い──。
 むせるような……目がくらみそうな──。

『サッチ、帰りな』

 そう言うのが男としては、精一杯だった。
 『サッチ』というのは、彼女『皐月』の『幼名』みたいな物だった。
 そういえば、彼女はすぐにふてくされて怒ったり、ムキになったりして、こんなしっとりしたムードはすぐに彼女の手で壊されると思った。

 だが──壊したのは、彼女でなく……。

『兄貴? 皐月が来たような気がしたん……だ・・・けど……』

 向かい部屋で、寝込んでいた病弱の『弟』だった。
 夜中なのに、眠れず、『サッチ』が来たのに気が付いて無理に起きあがったらしい──。

『真──』
『マコ!』

 皐月も当然驚いて、すぐに純一の背に隠れた。

『……』

 茫然とした弟の表情から血の気が失せる。

『違うんだ。真──! これは……』

 純一が慌てて制服の上着を皐月に被せると……真はスッとドアを閉めて
 向かいの部屋へと閉じこもった様だった。

 そして──皐月も、脱いだ服を手早く身につけて、サッと『谷村家』を飛び出していった。
 無言で。
 純一の部屋を出ていくとき……あの気強い彼女が、涙を流しながら──。

 

 

『待って! 純お兄ちゃま!』

 夕暮れの川沿いの道。
 そこを自宅へと向けて自転車を押していると、そんな愛らしい声。

『葉月』

 白いワンピースに水色のリボンがワンポイントあしらわれていて……。
 小さな彼女は、輝く笑顔をこぼしてちょこんと首を傾げていた。
 右手に提げているのは『ヴァイオリン』

『レッスンの帰りなの! お兄ちゃま、遠くから見てもすぐ解る!』

 彼女はいつでも無邪気で、純一が何度素っ気なく接しても、なんら変わらない愛嬌で引っ付き回る。
 彼女はすぐに純一が押している自転車の荷台に、許しもしないのに乗っかってくる。
 今日習った曲なのだろうか? 横向き座りで、サドルに掴まり鼻歌でご機嫌だった。

『オチビ、重いから。のけ』
『フンフフフ〜フン♪』

 冷たい純一の声など聞こえないかのようで──。
 だけど、小さな彼女はよく心得ている。
 純一がどんなに冷たく意地悪くしても、本気で叱らないうちは『ただのひねくれ』だと言う事。
 だから、いつもこうしてお構いなしだった。

『右京の迎えはなかったのか?』
『お兄ちゃまは、今日は遅くまで音楽隊のお仕事。横浜で公演会だって……』
『そうか──』
『でもね! 今日はお迎えが出来なかった分、お土産を買ってきてくれるって! 私が大好きなピンクのばらの飾りがあるケーキ♪』

 彼女はピョコピョコと荷台で動いて、いつだってご機嫌だ。
 お迎えなんて、葉月はこうして一人でちゃんと帰ってこれるのに……。
 小さな従妹を猫可愛がりしている右京の『過保護』な行動なだけで、それが出来ないから『お土産』とは……これまたなんと『甘々兄貴』と……純一はいつだって呆れてしまうが──。
 実は少しは羨ましいとさえ、思っている部分がある。
 それほど、小さな彼女は本当に愛らしかった。

『ねぇ? お兄ちゃま』

 葉月が肩越しに、自転車を押す純一に振り返る。

『なんだ』
『お姉ちゃまと、喧嘩したの? お姉ちゃま、この前、夜遅く泣いて帰ってきたもの』

 その時の『オチビ』は、変に艶っぽい『おませな眼差し』をする。
 この時ばかりは純一もドッキリした。
 『オチビ』は結構賢く、大人達をよく観察している。
 末っ子で、年上の人間にばかり囲まれているせいか、時々大人びた事を言って驚かしたりして、結構『あなどれない』事がある。

『知らないな』
『ふーん。お姉ちゃま、とっても元気がないの』
『知らないな』
『真お兄ちゃまも、お見舞いに行っても口も聞いてくれないし。皆、変なんだもの?』
『……』

 葉月は、解っているのか? いないのか?
 それだけ呟くと、また元のご機嫌な鼻歌を楽しんでいた。

『悪かったと一言……言っておいてくれ』
『……』

 葉月の鼻歌が止まって、不思議そうに首を傾げているのが解る。

『お兄ちゃまから言った方が、いいと思うわよ?』

 ほら、こういう所が変に『生意気』なのだ。純一は顔をしかめた。

『うん、でも言っておいてあげる』


 『あげる』とはまた恩着せがましいと、純一は葉月の口調に呆れたり。

 

『葉月!?』
『あ! 丁度、お姉ちゃま!!』

 河原沿いの若草の向こう──。
 短い栗毛の女性が心配そうにたたずんでいた。
 葉月がピョコンと荷台から降りて、元気良く駆け寄っていく。

『お姉ちゃま、お仕事からお帰りなさい♪』

 葉月が姉の足に甘えるように抱きついて、頬を擦り寄せていた。

『もぅ。家に帰ったら、右京が公演会だっていうじゃないのよ! 迎えがないって知って慌ててきたんだから!』

 皐月は葉月の目線に座り込んで、ホッとしたように妹の長い髪を撫でている。

(ったく、どいつもこいつも……)

 純一は皆の過保護さに呆れながら溜息をついて、軽くなった自転車にまたがった。
 サーとこいで、夕暮れに染まる姉妹の横を素っ気なく通り過ぎようとした。

『純兄?』
『……』

 そのまま通り過ぎる。
 我ながら『素直じゃない』と思うが、それが『俺』だと充分に解っていた。

 あまり関わりたくない。
 あまり……こじれたくない。
 俺なんかより、弟の方が立派で気だてがよい。
 なんでそれがお前には解らないんだ?
 弟がどれだけお前を愛しているか知っているのか?
 こんな俺の何処が良いって?
 絶対におかしい!

『お兄ちゃまがね? お姉ちゃまにごめんねって言っていたわよ』

 葉月がワザとなのか……通り過ぎた純一にも聞こえるように元気良く姉に告げていた。
 それを背中で聞いた純一は、顔をしかめる。

(ったく、チビのくせに──!)

『純兄──!?』

 サッチが叫ぶ声。
 純一は思いきりペダルを踏んで、自転車のスピードをあげた。

 

 

『ジュン、だぁーいすき♪』

 輝く青い瞳。いつもまばゆい無邪気な笑顔。

『おにいちゃま! 大好き♪』

 ちいさな『オチビ』の、何疑う事ない無邪気な笑顔──。

『どうして? どうして、私が抱けないの? ただの女で良いの! 抱いてよ! ジュン──! お願い──!!』

 青い瞳にたくさんの涙を溜めて、『私は死ぬ、もう一度死ぬ』と懇願する女。

『純兄──私に触ってよ……それだけでいいから……』

 茶色の瞳にいつもの気強さはなく……どこまでも甘い香る眼差しで、涙を溜めて懇願する『サッチ』
 何故? あそこまで避けねばならなかったのか?
 結局、弟も苦しめた。
 『自分の真実』を表現するときは、既に遅かった。
 事件後だった──。

 

『お前が……もっと早くに素直になっていれば良かったんだ! 一度愛したくせに、それをなかったように突き放そうとしたのは何故だ!!』

 皐月と葉月が痛手を負ったと聞いて、ロイがすぐさまアメリカから駆けつけた。
 その時、目が合うなり、彼は純一を全力で殴った。

 

『私……私……初めて。男の人にこんなに丁寧に優しく愛してもらったの初めて。やっぱりもうジュンじゃなくちゃ生きていけない』

 『男は皆、野獣だった』と言ったアリスが……初めて純一が抱いた後、憑かれていた物が取れたかのように泣きに泣いた。

 アリスの過去は知っている。
 『暗殺業務』を請け負ったときに、その女の事も調べたから。

 

 なにもかも……なにもかも……。
 何処かで誰を見ても、『姉妹』がまとわりつく──。

『純兄……後は……頼んだわよ』

 血塗れで逝ってしまった女。

『兄様……私、待っているから──!』

 涙を溜めて……去って行く純一をいつも引き止めて、待って、引き戻そうとする妹。

『兄様は……シンちゃんのパパだって事は絶対に忘れないで──!!』

 ガラス玉の瞳。
 彼女と別れるときは、彼女はいつも泣いている。

 

 

「ジュン? ジュン──?」
「!」

 フッと目を開けると、そこには子猫二匹を抱きしめている金髪の美女が、心配そうに見下ろしていた。

「……なんだ」

 ネクタイを解いた後、書斎のベッドで横になった事を思い出す。
 純一は、おもむろに起きあがった。

 今日着ているグレー色のワイシャツがシワだらけになってしまった。
 ボタンを開け放している首周り。
 そこに汗が滲んでいた。

「……あの、エドがご飯が出来たから呼んできて欲しいって……」
「わかった、すぐ行く」
「……」

 アリスは、いつもそう──。
 うなされている純一を良く知っていながら何も追求しない。
 いつもはお構いなしに引っ付き回って『小うるさい』ぐらいなのに──。

(そんな目で、俺を見るな)

 純一はアリスのしんなりとした眼差しを避けるように、額に手を当てて唸った。

「あのね……ジュン」
「なんだ……」
「あまり自分を責めないでね──」

 アリスの憂うサファイア色の瞳。
 アリスはそれだけいうと、子猫を豊かな胸にギュッと抱きしめて、逃げるようにサッと書斎を飛び出していった。

 『姉妹』は今……女神の胸の中。
 あの黒子猫はどう育って行くのだろうか?

「サッチとレイか……」

 あんな名前を付けて、純一を『煽っている事』なんか『お見通し』だった。
 純一の子猫が今、思っていることも。
 知っていて……また『無視』をする事も──。
 彼女は気が付いているだろうか?
 そんな彼女がとても羨ましいと思っている『愚かな男』の事を──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「ねぇ! ジュン!! 聞いてよ!!!」

 リビングへと向かうと、途端にいつもの騒々しい『子猫』がキンキンと、フランス語で喚いていた。

「エドったら、全然、思ってもいない物を作っちゃうんだもの!! 私はオリーブオイルたっぷり、ハーブたっぷりのカルパッチョを作ろうと思ったのに!!」

 テーブルに夕食を並べているエドは、シラっとしながら準備をしていて、ジュールは毎度の如く、子猫のまくし立てなど最初からないかのように、淡々とパソコンと睨み合っているだけだった。

「騒々しい。エドに任せているから、喚くな」
「だって〜! こんなもの、食べたことないもの!!!」

 アリスがビシッとエドが作ったメニューを指さして叫ぶ。

「食べたくなければ、食べるな」

 エドが『盆』を手にして言い放ち、スッとキッチンへと去っていった。
 そう──エドが手がけた今夜のメニューは『和食』だった。

「ほぅ……エドも、やるようになったな?」

 タコの刺身に、タコ飯だった。
 それに冷酒の器が用意されていて純一は唸った。
 エドは近頃『和食』に凝り始めていて、それが出てくるたびに純一は唸るばかり。

「エド、俺は『シャブリ』でいい──」

 やっとジュールがノートパソコンを閉じた。
 そして、手元に書き溜めた『メモ』を、純一にサッと渡した。

「今日のご報告ですよ」
「ご苦労」

 あらゆる事に関する報告だった。
 『表』も『裏』もすべての『事業』に関して──。
 アリスに読まれないように日本語で。

「ちぇ。ジュールは相変わらずワインか」

 エドは日本製の冷酒瓶を手にして、口元を曲げていた。
 表稼業のルートを使って、エドやジュールが気遣い、日本製品を輸入して、こうしてこの自宅にも保存してくれたりしている。

 和食が食べたくなれば、今までは純一自ら調理をして、一人だけで食していた。
 たまに『美味しそうですね? 私にも下さいよ』と、ジュールが欲する事があり、一緒に食してくれる事もある。
 その内にエドも──。

 それで近頃、エドも和食のイロハが気になってきたのか、こんなメニューが出てくるようになった。
 エドはとても器用で、手先ですることは大抵短時間で物にしてしまう。
 だからこそ……この家にいられるようになったというのもある。

 

 アリスが拗ねながら、純一の隣に席を取る。
 純一の向かい側はジュール、アリスの向かい側がエド。
 それがいつもの『位置』。

「うまいな……驚いた。タコメシなんか何年ぶりだ」

 純一の和んだ微笑に、エドがホッとした笑顔をこぼした。

「本当だ。いつだったか日本で食べた物と一緒だ」

 ジュールも太鼓判でエドは益々得意そうだった。
 拗ねているのは『子猫』
 しかも箸が未だに上手く使えないので、スプーンで食べているのだ。

「……」

 何か『企み』があったのか、まだぶすっと拗ねているのだ。
 先程の純一を憂う瞳で心配していた『女性』の面影はない。
 見る限り『子猫ちゃん』で子供のような顔をしてエドを睨んでいるのだ。

「お前の口には合わないかもな……悪かったな」

 茶碗を持って箸で一口、米を運ぶ時にポツリと呟くと、隣に座っているブロンドの子猫がびくりと背筋を伸ばした。

「ううん! 美味しいわよ! ほら──!」

 彼女はスプーンで一生懸命、口に米を頬張った。

「ジュンの……大好きな味だから、私も好き!」

 ピンク色の日本茶碗はジュールが彼女用に買ってきた物。

『ジュンとお揃いって……ジュンの国の食器だって!』

 その時ばかりは、アリスはとても嬉しそうにジュールに引っ付いて、一日中、『メルシー』を連発していた。
 あの時のジュールの照れくさそうな、どうしようもない顔を純一は思いだして、そっと一人で微笑みを噛み殺す。

 頬に一杯飯をためこんで、モゴモゴとアリスが口を一生懸命に動かす。

「無理はするな」

 彼女のふっくらとした唇に米粒が一粒、張り付いていた。
 本当にまばゆいばかりの女神のような容姿なのに……中身はまったく無邪気なままだ。

「行儀悪いぞ、アリス」

 向かいのエドが、口元を指さして米粒がついている事を教える。

「ったく。品がない」

 ジュールは眉間に皺。
 アリスが品のないことをすると、ジュールは嫌悪感を存分に表に出して、目をそらす程だ。
 この男達は、無骨だが……いざというときは『一流』の品と仕草を放つことを、アリスは知っていた。
 それをとても『コンプレックス』にしている事も、純一は知っている。

「そのうちだ」

 シュンとしているアリスに純一がそう呟くと、彼女はホッとしたように微笑む。

 

「ところでボス──」

 ジュールが途端に日本語で話しかけてきた。
 それが『業務に関する事』と解って、アリスが退屈そうにため息をつく。

「なんだ」
「そろそろ……『恒例の日』が近づいてきますが、今年は如何致しますか?」

──『恒例の日』──

 それは皐月の命日の事をいう。
 毎年、チューリップの花束を抱えて日本に数日滞在するのが恒例だ。
 昨年は、純一が林に裏切られて殺されかけた。
 死に際を彷徨っていて出かけられず、今年の早春にその穴埋めに出かけたばかりだった。

「行くつもりだが──。その為に暫くは集中的に企業の仕事を片づけたい」

 純一が冷酒をすすりながら呟くと、ジュールとエドが顔を見合わせる。

「今回はどちらを……」

 エドが躊躇うように、純一に尋ねる。
 前回はジュールをお供に連れて、エドにはアリスとの留守番を任せた。
 エドがすっかり親日家になり、日本へ行きたい訳も知っている。

 エドは、純一の『ボウズ』の成長を、とても生き甲斐にしている。
 それは彼の過去にも関係があるが……なんといってもエドの本業は『医師』。
 同じ『医師』を目指す『坊ちゃま』を、誰よりも見守りたい気持ちも。

 もう一つ。アリスとの留守番は『骨折り』と言う事もあるだろう?

 ジュールなら、アリスが喚こうが騒ごうが、なんなく『無視』するのだが、まだ情が表に出やすい若いエドには、ストレスになることも解っていた。

「……」

 純一は暫く考えた。
 なんだか『嫌な予感』が以前から付きまとっていて、そして──『恒例の来日』が迫ってきた事を、いつも以上に嫌に思っていた。
 冷酒を注ぎながら、透明なお猪口に揺らめく酒をジッと見つめた。

「ボス……先日の報告を気にされているのですか?」

 ジュールがいつも通り『遠慮もなく』、ずばっと切り込んできた。
 いつもの淡々とした整った調子の声だが?
 その声にはちょっとした『期待感』を含めた『嫌味』が混じっている。
 それを感じ取れたのは長年の付き合いがある純一だけだろう。

「……もう少し考えさせてくれ」

 そういって冷酒を飲み干し、箸でタコの刺身をつまむ純一に、ジュールが呆れた溜息をこぼす。
 彼はワイングラスに白いワインを注いで、ジッと窓辺に目を凝らしていた。
 弟分のジュールが今、考えていること。
──『随分と怖じ気づいたもんだ』──
 嫌味を含めつつ、彼も純一を煽っている。
 純一の脳裏に……弟分に見届けてもらった『11年前』の義妹の誕生日が過ぎる。

「お前達も……どちらが行ってもいいよう日程が空くようにしておいてくれ」
「イエッサー」

 最後に二人が『イエッサー』と言ったので、訳の解らない日本語の会話に、大人しく知らぬ振りをしていたアリスがパッと復活する。

「ねぇ! ジュン! また何処かに連れて行ってよ〜♪」
「そうだな」
「もう、南の島は飽きたの!」

 マルセイユの軍隊任務に関わった後、ファミリーは彼女の希望で、思う存分『タヒチ』で、のんびりバカンスを楽しんだ。
 その後は、闇部隊の依頼をこなしながら、暫くずっと表稼業の仕事に追われる日々だった。
 もうすぐ、西洋国で言うところの『九月年度スタート』、区切りも良いところだ。

 ボスと兄貴達の忙しい間、彼女も家の事はサポートしてくれていた。
 最初の頃は彼女の家事は散々だったが、今はエドに追いつけ追い越せの勢い。
 めざましい進歩を五年で遂げている。

「そうだな……」

 恒例参りが終わったら、そうしても良いかと……純一は、脳裏にかすめる。

 ところが──。

「私、ジャポンへ行きたいの! トウキョウ! トウキョウでいっぱい買い物したいわ!!」
「!!」

 純一が驚く前に、部下二人が揃って、動きを止めて顔をしかめた。

「駄目だ」

 ジュールが即却下。

「そうだ! ダメだ!」

 エドが兄貴分のジュールの念を押す。

「どうしてぇ〜? こういうご飯をもっと食べたいんだけど!」

 アリスがピンク色の茶碗を、二人につきだした。

「ジュールとエドばっかりずるい! 私だってジュンのお国を知る権利があると思うわ!!」

 アリスがいつもの行儀悪で、長い足をジタバタと派手に動かして騒ぎ出した。

「……」

 純一はそれを観察するだけ。
 ジュールの眼差しに、いつもの炎が宿る。

 

「お前にその権利はない」

 

 本当に純一が感心するほど、キッパリしていて情けもない。
 ジュールはこういうところは本当に、アリスに対して情がない。
 純一が言えないことを言ってくれて有り難い時もあるが、アリスに対してだけはジュールは本当に手厳しい。

 その上……。

「お前、日本なんてっ! と、いつも言っているのに。青い海とか、豪勢なホテルとか……そういう西洋的な高級感を好んでいるくせに。いつだったか……日本の温泉旅館の記事をみせたら『地味だ』って言っていたじゃないか?」

(そうだったのか──)

 純一はエドとアリスの歳近い『若い感覚』の会話を知っていた。
 アリスとエドはそういう『近い距離』があり、そこはどうしても純一には真似が出来ない事もある。

「……それは、あの時はそう思ったの! 今はリョカン・ホテルって奴に興味があるの!!」

 アリスがまたジタバタ喚く。
 こういう『おねだり』をする彼女をなだめるのに、男三人はいつも一苦労。
 彼女が来るまで静かな生活だったのに、時々こうして振り回される。

 純一は溜息をついた。
 暫く放っておけば、諦めるだろう。
 そう思うのだが……。
 ここでも『嫌な予感』がしたので眉をひそめた。

 それを向かい側のジュールがジッと見つめていて内心焦る。
 弟分が気が付いた事。
 それに対して純一は、そっと視線をそらして誤魔化す。

「アリス──。ボスは日本ではあまり動けない立場にある。解っているだろうな? 旅館は無理だ。俺達がオーナーであるホテルなら別だが」

 ジュールの淡々とした説教。

「トウキョウで買い物だけでもいいの!」

 それに対して、アリスの熱のこもった騒々しい反抗。

「お前がいつも欲しがる『ブランド』の買い物なら、ここ……イタリアで本場物は手に入っている」
「……そういう買い物じゃないの!」
「欲しい物があるなら、俺とエドが輸入で調達する。何が欲しい?」
「……日本が見たいの! ジュンが生まれた国が見たいの!!」
「我慢しろ」

 最後にジュールがやっぱり冷たく切り捨てた。
 エドはジュールに賛成のようで、ウンウンと力強く頷く。

 チラリと子猫が隣にいるボス猫を見上げた。
 助けを求めて、そしておねだりの眼差しだ。

「……エド、美味かった。悪いが刺身と冷酒はあとで書斎に持ってきてくれるか? ゆっくり楽しみたい」

 純一はスッと席を立った。

「あ、はい。かしこまりました」
「……」

 逃げるようなボスをジュールが呆れた眼差しで責めてくる。

(俺にいつもこういう『悪役』をさせる)

……と……弟分が責めているのが伝わってくる。

 純一が立ったので、アリスが諦めたようにしょんぼりとした。

「アリス、後で子猫を見せてくれ」

 彼女のつむじのあたりを、スッと撫でてリビングを出た。
 目の端にご機嫌を直して、微笑んでいる彼女を確かめて……。

 

 

『ボス。ご存じでしたか? 近頃、アリスがあなたの持ち物を探っているのを』

 少し前にジュールからそんな報告。

『ああ……引き出しの物が違う位置に動いている。だが、俺の素性を知られる物は一切、ここには置いていない』

 息子の写真も、姉妹に関する事も、両親に対する物も。
 純一は何一つ手元には置かない主義だった。
 いつ何が自分を襲うか解らない生活をしているから。

 ただし、レイチェルと亮介に預かった『鮮血の花』という、極上のルビーの指輪だけ置いている。

『そんな事は私も一緒です。ただ……限界という物がありますでしょう? 貴方が勝手に側に置いている女性も、生きている一人の女性だと言う事をお忘れなく──』

 純一の上に、さらに『大ボス』はいるのだが、なにぶん老体だった。
 実質的にボスという頂点を極めた純一に、苦言を呈してくれるのはジュールだけ。
 その弟分の彼がさらに一言──。

『ボス──。私も“彷徨ってしまう幻”は持っていますけど。ですけど……貴方の場合は、なんの幻を追っているのか自覚された方がよろしいですよ』

 ジュールは冷たくそれだけいうと、それ以上は何も言い出さなくなった。

『……』

 どの幻を追っている?
 純一は初めて……弟分に言われたことに理解が出来なかった。
 初めてだった。

 

 それに、子猫の願望──。

 それが日増しに大きくなって、純一に切に訴えてくる日が来たようだ?

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