『ねぇ……純兄。私を見てよ、抱いてよ、触ってよ……? 見えないの? 私が──』
月明かりの中、自分の狭い部屋に彼女が全裸で立っていた。
一糸まとわぬ姿で──。
『私……綺麗じゃないの? どうやったら純兄に喜んでもらえるの? ねぇ?』
大きな茶色の瞳を潤ませて、輝かせて、煌めく涙の滴を目尻に溜めて……。
彼女から香るような花の匂い──。
むせるような……目がくらみそうな──。
『サッチ、帰りな』
そう言うのが男としては、精一杯だった。
『サッチ』というのは、彼女『皐月』の『幼名』みたいな物だった。
そういえば、彼女はすぐにふてくされて怒ったり、ムキになったりして、こんなしっとりしたムードはすぐに彼女の手で壊されると思った。
だが──壊したのは、彼女でなく……。
『兄貴? 皐月が来たような気がしたん……だ・・・けど……』
向かい部屋で、寝込んでいた病弱の『弟』だった。
夜中なのに、眠れず、『サッチ』が来たのに気が付いて無理に起きあがったらしい──。
『真──』
『マコ!』
皐月も当然驚いて、すぐに純一の背に隠れた。
『……』
茫然とした弟の表情から血の気が失せる。
『違うんだ。真──! これは……』
純一が慌てて制服の上着を皐月に被せると……真はスッとドアを閉めて
向かいの部屋へと閉じこもった様だった。
そして──皐月も、脱いだ服を手早く身につけて、サッと『谷村家』を飛び出していった。
無言で。
純一の部屋を出ていくとき……あの気強い彼女が、涙を流しながら──。
『待って! 純お兄ちゃま!』
夕暮れの川沿いの道。
そこを自宅へと向けて自転車を押していると、そんな愛らしい声。
『葉月』
白いワンピースに水色のリボンがワンポイントあしらわれていて……。
小さな彼女は、輝く笑顔をこぼしてちょこんと首を傾げていた。
右手に提げているのは『ヴァイオリン』
『レッスンの帰りなの! お兄ちゃま、遠くから見てもすぐ解る!』
彼女はいつでも無邪気で、純一が何度素っ気なく接しても、なんら変わらない愛嬌で引っ付き回る。
彼女はすぐに純一が押している自転車の荷台に、許しもしないのに乗っかってくる。
今日習った曲なのだろうか? 横向き座りで、サドルに掴まり鼻歌でご機嫌だった。
『オチビ、重いから。のけ』
『フンフフフ〜フン♪』
冷たい純一の声など聞こえないかのようで──。
だけど、小さな彼女はよく心得ている。
純一がどんなに冷たく意地悪くしても、本気で叱らないうちは『ただのひねくれ』だと言う事。
だから、いつもこうしてお構いなしだった。
『右京の迎えはなかったのか?』
『お兄ちゃまは、今日は遅くまで音楽隊のお仕事。横浜で公演会だって……』
『そうか──』
『でもね! 今日はお迎えが出来なかった分、お土産を買ってきてくれるって! 私が大好きなピンクのばらの飾りがあるケーキ♪』
彼女はピョコピョコと荷台で動いて、いつだってご機嫌だ。
お迎えなんて、葉月はこうして一人でちゃんと帰ってこれるのに……。
小さな従妹を猫可愛がりしている右京の『過保護』な行動なだけで、それが出来ないから『お土産』とは……これまたなんと『甘々兄貴』と……純一はいつだって呆れてしまうが──。
実は少しは羨ましいとさえ、思っている部分がある。
それほど、小さな彼女は本当に愛らしかった。
『ねぇ? お兄ちゃま』
葉月が肩越しに、自転車を押す純一に振り返る。
『なんだ』
『お姉ちゃまと、喧嘩したの? お姉ちゃま、この前、夜遅く泣いて帰ってきたもの』
その時の『オチビ』は、変に艶っぽい『おませな眼差し』をする。
この時ばかりは純一もドッキリした。
『オチビ』は結構賢く、大人達をよく観察している。
末っ子で、年上の人間にばかり囲まれているせいか、時々大人びた事を言って驚かしたりして、結構『あなどれない』事がある。
『知らないな』
『ふーん。お姉ちゃま、とっても元気がないの』
『知らないな』
『真お兄ちゃまも、お見舞いに行っても口も聞いてくれないし。皆、変なんだもの?』
『……』
葉月は、解っているのか? いないのか?
それだけ呟くと、また元のご機嫌な鼻歌を楽しんでいた。
『悪かったと一言……言っておいてくれ』
『……』
葉月の鼻歌が止まって、不思議そうに首を傾げているのが解る。
『お兄ちゃまから言った方が、いいと思うわよ?』
ほら、こういう所が変に『生意気』なのだ。純一は顔をしかめた。
『うん、でも言っておいてあげる』
『あげる』とはまた恩着せがましいと、純一は葉月の口調に呆れたり。
『葉月!?』
『あ! 丁度、お姉ちゃま!!』
河原沿いの若草の向こう──。
短い栗毛の女性が心配そうにたたずんでいた。
葉月がピョコンと荷台から降りて、元気良く駆け寄っていく。
『お姉ちゃま、お仕事からお帰りなさい♪』
葉月が姉の足に甘えるように抱きついて、頬を擦り寄せていた。
『もぅ。家に帰ったら、右京が公演会だっていうじゃないのよ! 迎えがないって知って慌ててきたんだから!』
皐月は葉月の目線に座り込んで、ホッとしたように妹の長い髪を撫でている。
(ったく、どいつもこいつも……)
純一は皆の過保護さに呆れながら溜息をついて、軽くなった自転車にまたがった。
サーとこいで、夕暮れに染まる姉妹の横を素っ気なく通り過ぎようとした。
『純兄?』
『……』
そのまま通り過ぎる。
我ながら『素直じゃない』と思うが、それが『俺』だと充分に解っていた。
あまり関わりたくない。
あまり……こじれたくない。
俺なんかより、弟の方が立派で気だてがよい。
なんでそれがお前には解らないんだ?
弟がどれだけお前を愛しているか知っているのか?
こんな俺の何処が良いって?
絶対におかしい!
『お兄ちゃまがね? お姉ちゃまにごめんねって言っていたわよ』
葉月がワザとなのか……通り過ぎた純一にも聞こえるように元気良く姉に告げていた。
それを背中で聞いた純一は、顔をしかめる。
(ったく、チビのくせに──!)
『純兄──!?』
サッチが叫ぶ声。
純一は思いきりペダルを踏んで、自転車のスピードをあげた。
『ジュン、だぁーいすき♪』
輝く青い瞳。いつもまばゆい無邪気な笑顔。
『おにいちゃま! 大好き♪』
ちいさな『オチビ』の、何疑う事ない無邪気な笑顔──。
『どうして? どうして、私が抱けないの? ただの女で良いの! 抱いてよ! ジュン──! お願い──!!』
青い瞳にたくさんの涙を溜めて、『私は死ぬ、もう一度死ぬ』と懇願する女。
『純兄──私に触ってよ……それだけでいいから……』
茶色の瞳にいつもの気強さはなく……どこまでも甘い香る眼差しで、涙を溜めて懇願する『サッチ』
何故? あそこまで避けねばならなかったのか?
結局、弟も苦しめた。
『自分の真実』を表現するときは、既に遅かった。
事件後だった──。
『お前が……もっと早くに素直になっていれば良かったんだ! 一度愛したくせに、それをなかったように突き放そうとしたのは何故だ!!』
皐月と葉月が痛手を負ったと聞いて、ロイがすぐさまアメリカから駆けつけた。
その時、目が合うなり、彼は純一を全力で殴った。
『私……私……初めて。男の人にこんなに丁寧に優しく愛してもらったの初めて。やっぱりもうジュンじゃなくちゃ生きていけない』
『男は皆、野獣だった』と言ったアリスが……初めて純一が抱いた後、憑かれていた物が取れたかのように泣きに泣いた。
アリスの過去は知っている。
『暗殺業務』を請け負ったときに、その女の事も調べたから。
なにもかも……なにもかも……。
何処かで誰を見ても、『姉妹』がまとわりつく──。
『純兄……後は……頼んだわよ』
血塗れで逝ってしまった女。
『兄様……私、待っているから──!』
涙を溜めて……去って行く純一をいつも引き止めて、待って、引き戻そうとする妹。
『兄様は……シンちゃんのパパだって事は絶対に忘れないで──!!』
ガラス玉の瞳。
彼女と別れるときは、彼女はいつも泣いている。
「ジュン? ジュン──?」
「!」
フッと目を開けると、そこには子猫二匹を抱きしめている金髪の美女が、心配そうに見下ろしていた。
「……なんだ」
ネクタイを解いた後、書斎のベッドで横になった事を思い出す。
純一は、おもむろに起きあがった。
今日着ているグレー色のワイシャツがシワだらけになってしまった。
ボタンを開け放している首周り。
そこに汗が滲んでいた。
「……あの、エドがご飯が出来たから呼んできて欲しいって……」
「わかった、すぐ行く」
「……」
アリスは、いつもそう──。
うなされている純一を良く知っていながら何も追求しない。
いつもはお構いなしに引っ付き回って『小うるさい』ぐらいなのに──。
(そんな目で、俺を見るな)
純一はアリスのしんなりとした眼差しを避けるように、額に手を当てて唸った。
「あのね……ジュン」
「なんだ……」
「あまり自分を責めないでね──」
アリスの憂うサファイア色の瞳。
アリスはそれだけいうと、子猫を豊かな胸にギュッと抱きしめて、逃げるようにサッと書斎を飛び出していった。
『姉妹』は今……女神の胸の中。
あの黒子猫はどう育って行くのだろうか?
「サッチとレイか……」
あんな名前を付けて、純一を『煽っている事』なんか『お見通し』だった。
純一の子猫が今、思っていることも。
知っていて……また『無視』をする事も──。
彼女は気が付いているだろうか?
そんな彼女がとても羨ましいと思っている『愚かな男』の事を──。
・・・◇・◇・◇・・・
「ねぇ! ジュン!! 聞いてよ!!!」
リビングへと向かうと、途端にいつもの騒々しい『子猫』がキンキンと、フランス語で喚いていた。
「エドったら、全然、思ってもいない物を作っちゃうんだもの!! 私はオリーブオイルたっぷり、ハーブたっぷりのカルパッチョを作ろうと思ったのに!!」
テーブルに夕食を並べているエドは、シラっとしながら準備をしていて、ジュールは毎度の如く、子猫のまくし立てなど最初からないかのように、淡々とパソコンと睨み合っているだけだった。
「騒々しい。エドに任せているから、喚くな」
「だって〜! こんなもの、食べたことないもの!!!」
アリスがビシッとエドが作ったメニューを指さして叫ぶ。
「食べたくなければ、食べるな」
エドが『盆』を手にして言い放ち、スッとキッチンへと去っていった。
そう──エドが手がけた今夜のメニューは『和食』だった。
「ほぅ……エドも、やるようになったな?」
タコの刺身に、タコ飯だった。
それに冷酒の器が用意されていて純一は唸った。
エドは近頃『和食』に凝り始めていて、それが出てくるたびに純一は唸るばかり。
「エド、俺は『シャブリ』でいい──」
やっとジュールがノートパソコンを閉じた。
そして、手元に書き溜めた『メモ』を、純一にサッと渡した。
「今日のご報告ですよ」
「ご苦労」
あらゆる事に関する報告だった。
『表』も『裏』もすべての『事業』に関して──。
アリスに読まれないように日本語で。
「ちぇ。ジュールは相変わらずワインか」
エドは日本製の冷酒瓶を手にして、口元を曲げていた。
表稼業のルートを使って、エドやジュールが気遣い、日本製品を輸入して、こうしてこの自宅にも保存してくれたりしている。
和食が食べたくなれば、今までは純一自ら調理をして、一人だけで食していた。
たまに『美味しそうですね? 私にも下さいよ』と、ジュールが欲する事があり、一緒に食してくれる事もある。
その内にエドも──。
それで近頃、エドも和食のイロハが気になってきたのか、こんなメニューが出てくるようになった。
エドはとても器用で、手先ですることは大抵短時間で物にしてしまう。
だからこそ……この家にいられるようになったというのもある。
アリスが拗ねながら、純一の隣に席を取る。
純一の向かい側はジュール、アリスの向かい側がエド。
それがいつもの『位置』。
「うまいな……驚いた。タコメシなんか何年ぶりだ」
純一の和んだ微笑に、エドがホッとした笑顔をこぼした。
「本当だ。いつだったか日本で食べた物と一緒だ」
ジュールも太鼓判でエドは益々得意そうだった。
拗ねているのは『子猫』
しかも箸が未だに上手く使えないので、スプーンで食べているのだ。
「……」
何か『企み』があったのか、まだぶすっと拗ねているのだ。
先程の純一を憂う瞳で心配していた『女性』の面影はない。
見る限り『子猫ちゃん』で子供のような顔をしてエドを睨んでいるのだ。
「お前の口には合わないかもな……悪かったな」
茶碗を持って箸で一口、米を運ぶ時にポツリと呟くと、隣に座っているブロンドの子猫がびくりと背筋を伸ばした。
「ううん! 美味しいわよ! ほら──!」
彼女はスプーンで一生懸命、口に米を頬張った。
「ジュンの……大好きな味だから、私も好き!」
ピンク色の日本茶碗はジュールが彼女用に買ってきた物。
『ジュンとお揃いって……ジュンの国の食器だって!』
その時ばかりは、アリスはとても嬉しそうにジュールに引っ付いて、一日中、『メルシー』を連発していた。
あの時のジュールの照れくさそうな、どうしようもない顔を純一は思いだして、そっと一人で微笑みを噛み殺す。
頬に一杯飯をためこんで、モゴモゴとアリスが口を一生懸命に動かす。
「無理はするな」
彼女のふっくらとした唇に米粒が一粒、張り付いていた。
本当にまばゆいばかりの女神のような容姿なのに……中身はまったく無邪気なままだ。
「行儀悪いぞ、アリス」
向かいのエドが、口元を指さして米粒がついている事を教える。
「ったく。品がない」
ジュールは眉間に皺。
アリスが品のないことをすると、ジュールは嫌悪感を存分に表に出して、目をそらす程だ。
この男達は、無骨だが……いざというときは『一流』の品と仕草を放つことを、アリスは知っていた。
それをとても『コンプレックス』にしている事も、純一は知っている。
「そのうちだ」
シュンとしているアリスに純一がそう呟くと、彼女はホッとしたように微笑む。
「ところでボス──」
ジュールが途端に日本語で話しかけてきた。
それが『業務に関する事』と解って、アリスが退屈そうにため息をつく。
「なんだ」
「そろそろ……『恒例の日』が近づいてきますが、今年は如何致しますか?」
──『恒例の日』──
それは皐月の命日の事をいう。
毎年、チューリップの花束を抱えて日本に数日滞在するのが恒例だ。
昨年は、純一が林に裏切られて殺されかけた。
死に際を彷徨っていて出かけられず、今年の早春にその穴埋めに出かけたばかりだった。
「行くつもりだが──。その為に暫くは集中的に企業の仕事を片づけたい」
純一が冷酒をすすりながら呟くと、ジュールとエドが顔を見合わせる。
「今回はどちらを……」
エドが躊躇うように、純一に尋ねる。
前回はジュールをお供に連れて、エドにはアリスとの留守番を任せた。
エドがすっかり親日家になり、日本へ行きたい訳も知っている。
エドは、純一の『ボウズ』の成長を、とても生き甲斐にしている。
それは彼の過去にも関係があるが……なんといってもエドの本業は『医師』。
同じ『医師』を目指す『坊ちゃま』を、誰よりも見守りたい気持ちも。
もう一つ。アリスとの留守番は『骨折り』と言う事もあるだろう?
ジュールなら、アリスが喚こうが騒ごうが、なんなく『無視』するのだが、まだ情が表に出やすい若いエドには、ストレスになることも解っていた。
「……」
純一は暫く考えた。
なんだか『嫌な予感』が以前から付きまとっていて、そして──『恒例の来日』が迫ってきた事を、いつも以上に嫌に思っていた。
冷酒を注ぎながら、透明なお猪口に揺らめく酒をジッと見つめた。
「ボス……先日の報告を気にされているのですか?」
ジュールがいつも通り『遠慮もなく』、ずばっと切り込んできた。
いつもの淡々とした整った調子の声だが?
その声にはちょっとした『期待感』を含めた『嫌味』が混じっている。
それを感じ取れたのは長年の付き合いがある純一だけだろう。
「……もう少し考えさせてくれ」
そういって冷酒を飲み干し、箸でタコの刺身をつまむ純一に、ジュールが呆れた溜息をこぼす。
彼はワイングラスに白いワインを注いで、ジッと窓辺に目を凝らしていた。
弟分のジュールが今、考えていること。
──『随分と怖じ気づいたもんだ』──
嫌味を含めつつ、彼も純一を煽っている。
純一の脳裏に……弟分に見届けてもらった『11年前』の義妹の誕生日が過ぎる。
「お前達も……どちらが行ってもいいよう日程が空くようにしておいてくれ」
「イエッサー」
最後に二人が『イエッサー』と言ったので、訳の解らない日本語の会話に、大人しく知らぬ振りをしていたアリスがパッと復活する。
「ねぇ! ジュン! また何処かに連れて行ってよ〜♪」
「そうだな」
「もう、南の島は飽きたの!」
マルセイユの軍隊任務に関わった後、ファミリーは彼女の希望で、思う存分『タヒチ』で、のんびりバカンスを楽しんだ。
その後は、闇部隊の依頼をこなしながら、暫くずっと表稼業の仕事に追われる日々だった。
もうすぐ、西洋国で言うところの『九月年度スタート』、区切りも良いところだ。
ボスと兄貴達の忙しい間、彼女も家の事はサポートしてくれていた。
最初の頃は彼女の家事は散々だったが、今はエドに追いつけ追い越せの勢い。
めざましい進歩を五年で遂げている。
「そうだな……」
恒例参りが終わったら、そうしても良いかと……純一は、脳裏にかすめる。
ところが──。
「私、ジャポンへ行きたいの! トウキョウ! トウキョウでいっぱい買い物したいわ!!」
「!!」
純一が驚く前に、部下二人が揃って、動きを止めて顔をしかめた。
「駄目だ」
ジュールが即却下。
「そうだ! ダメだ!」
エドが兄貴分のジュールの念を押す。
「どうしてぇ〜? こういうご飯をもっと食べたいんだけど!」
アリスがピンク色の茶碗を、二人につきだした。
「ジュールとエドばっかりずるい! 私だってジュンのお国を知る権利があると思うわ!!」
アリスがいつもの行儀悪で、長い足をジタバタと派手に動かして騒ぎ出した。
「……」
純一はそれを観察するだけ。
ジュールの眼差しに、いつもの炎が宿る。
「お前にその権利はない」
本当に純一が感心するほど、キッパリしていて情けもない。
ジュールはこういうところは本当に、アリスに対して情がない。
純一が言えないことを言ってくれて有り難い時もあるが、アリスに対してだけはジュールは本当に手厳しい。
その上……。
「お前、日本なんてっ! と、いつも言っているのに。青い海とか、豪勢なホテルとか……そういう西洋的な高級感を好んでいるくせに。いつだったか……日本の温泉旅館の記事をみせたら『地味だ』って言っていたじゃないか?」
(そうだったのか──)
純一はエドとアリスの歳近い『若い感覚』の会話を知っていた。
アリスとエドはそういう『近い距離』があり、そこはどうしても純一には真似が出来ない事もある。
「……それは、あの時はそう思ったの! 今はリョカン・ホテルって奴に興味があるの!!」
アリスがまたジタバタ喚く。
こういう『おねだり』をする彼女をなだめるのに、男三人はいつも一苦労。
彼女が来るまで静かな生活だったのに、時々こうして振り回される。
純一は溜息をついた。
暫く放っておけば、諦めるだろう。
そう思うのだが……。
ここでも『嫌な予感』がしたので眉をひそめた。
それを向かい側のジュールがジッと見つめていて内心焦る。
弟分が気が付いた事。
それに対して純一は、そっと視線をそらして誤魔化す。
「アリス──。ボスは日本ではあまり動けない立場にある。解っているだろうな? 旅館は無理だ。俺達がオーナーであるホテルなら別だが」
ジュールの淡々とした説教。
「トウキョウで買い物だけでもいいの!」
それに対して、アリスの熱のこもった騒々しい反抗。
「お前がいつも欲しがる『ブランド』の買い物なら、ここ……イタリアで本場物は手に入っている」
「……そういう買い物じゃないの!」
「欲しい物があるなら、俺とエドが輸入で調達する。何が欲しい?」
「……日本が見たいの! ジュンが生まれた国が見たいの!!」
「我慢しろ」
最後にジュールがやっぱり冷たく切り捨てた。
エドはジュールに賛成のようで、ウンウンと力強く頷く。
チラリと子猫が隣にいるボス猫を見上げた。
助けを求めて、そしておねだりの眼差しだ。
「……エド、美味かった。悪いが刺身と冷酒はあとで書斎に持ってきてくれるか? ゆっくり楽しみたい」
純一はスッと席を立った。
「あ、はい。かしこまりました」
「……」
逃げるようなボスをジュールが呆れた眼差しで責めてくる。
(俺にいつもこういう『悪役』をさせる)
……と……弟分が責めているのが伝わってくる。
純一が立ったので、アリスが諦めたようにしょんぼりとした。
「アリス、後で子猫を見せてくれ」
彼女のつむじのあたりを、スッと撫でてリビングを出た。
目の端にご機嫌を直して、微笑んでいる彼女を確かめて……。
『ボス。ご存じでしたか? 近頃、アリスがあなたの持ち物を探っているのを』
少し前にジュールからそんな報告。
『ああ……引き出しの物が違う位置に動いている。だが、俺の素性を知られる物は一切、ここには置いていない』
息子の写真も、姉妹に関する事も、両親に対する物も。
純一は何一つ手元には置かない主義だった。
いつ何が自分を襲うか解らない生活をしているから。
ただし、レイチェルと亮介に預かった『鮮血の花』という、極上のルビーの指輪だけ置いている。
『そんな事は私も一緒です。ただ……限界という物がありますでしょう? 貴方が勝手に側に置いている女性も、生きている一人の女性だと言う事をお忘れなく──』
純一の上に、さらに『大ボス』はいるのだが、なにぶん老体だった。
実質的にボスという頂点を極めた純一に、苦言を呈してくれるのはジュールだけ。
その弟分の彼がさらに一言──。
『ボス──。私も“彷徨ってしまう幻”は持っていますけど。ですけど……貴方の場合は、なんの幻を追っているのか自覚された方がよろしいですよ』
ジュールは冷たくそれだけいうと、それ以上は何も言い出さなくなった。
『……』
どの幻を追っている?
純一は初めて……弟分に言われたことに理解が出来なかった。
初めてだった。
それに、子猫の願望──。
それが日増しに大きくなって、純一に切に訴えてくる日が来たようだ?