4.十五年
彼女が俺を置き去りにして一週間が経とうとしていた。
その日。週末とあって、俺は久しぶりに『ミシェールパパ』の家に
『里帰り』をする事にした。
基地の隣町にある訓練校…つまり俺の母校の側にパパがママンと住んでいる。
「ミシェール!?マリー?? ただいま♪」
海沿い。地中海の側の白い家。ブルーベリーと杏の木が目印。
俺が15歳から20歳まで過ごした下宿…ホームステイをした家だ。
「オウ!ボウズ おかえり!」
「さぁ…。お腹空いたでしょ?隼人…」
俺のフランスの父と母。
俺はこの二人に支えられて単身フランスでやってこれたと言っても過言ではない。
「ゴメンよ。俺が帰ってこなくちゃ別荘でのんびりするはずだったんじゃないの?」
「何を言っているんだ。お前が帰ってくるから今週はここにいるんだ。」
ミシェールパパが豪快に笑い飛ばしてくれる。
「そうよ。うちの子も皆独立してハヤトも独立したから…。
パパと二人で暇つぶしにひっそり老後を別荘で過ごしているだけのことなのよ?」
ママンの優しい微笑みとささやき…。
俺はマリーのこうゆう…優しさにはめっぽう弱いし…崩れてしまう。
「そうだ!お前はここの『末息子』なんだぞ!」
そう言って、二人はにこやかに暖かく俺を抱きしめてくれる。
この地中海に面した家に帰ってくるとホッとする…。
「あなたの部屋。ちゃんとベッドメイクしておいたわよ。」
「メルシー。ママン♪」
小柄なマリーにキスをすると彼女も嬉しそうに微笑んでくれる。
(こんなおふくろだったら良かったのに…)
マリーからは全面的母性を安心して感じることが出来た。
何の一点の曇りもない母としての彼女への揺るがない信頼が持つことが出来た。
俺の…生みの母は二歳の時に病死した。
だから。俺は母親に甘えた記憶がない。
小学校に上がるまでは、父方の祖母が同居していて甘えさせてくれたが
俺は仏壇にある若い女性である母の写真をいつも眺めて恋しがっていたらしい。
それは物ごごろつく前のことで俺自身はおぼろげなことでハッキリは覚えていない。
俺は女性の美しい母性を知らない…。
祖母は小学生になったときに他界した。
それまでは、父がマメに遊んでくれたので寂しくなかったはずだった。
ところが、父は俺が十歳になったとき二十歳も年下の若い女性と再婚した。
父は一会社の社長で彼女はその秘書で…。時折、俺の所に遊びに来て可愛がってくれた。
彼女が二十歳の時だ。俺とは十歳しか離れていないが
その時はまだまだ「綺麗なお姉さんと子供」でいられたのだ。
語学力が達者で年齢よりしっかりと見える…でも何処か儚げな感じがする、
おそらく母のような女性に父は『妻』として選んだのだと思う。
そして俺の継母として…。
英語は彼女に教わった。毎日・毎日・彼女から少しずつ。
中学に上がるときには俺はすっかり英会話はマスターしていた。
彼女が参観日に来てくれる喜び。お弁当を作ってくれる喜び。
おやつを作って俺の帰りを心待ちにしてくれている喜び。
小学校を出るまでは、彼女と俺はそれは素晴らしい日々を送っていたのだ。
俺は彼女から、初めて若い女性から感じる初々しい『母性』を知ったのだ。
ところが…。
いつしか…俺は、その継母に『恋』をしていると知ってしまった…。
中学生になってすぐのことだった。
それと同時に、彼女は子供を産んだ…。俺の異母弟だ。
小さな弟を挟んで家族は明るく暮らしているように見えたが、
俺の恋心がそれを壊そうとしていた。
恋をした女性が父との間でどのようにして子供を持つことになったか…
解る年頃になっていただけに…。
弟が生まれるのは楽しみだったが…。それなりにショックだった。
学校で男子同士でふざけて話す『異性話題』
そんなことに敏感だった年頃だったからよけいだった。
彼女が…優しいママ姉さんから…急に『女性』しか感じなくなり…。
彼女が汚れた気がした。『裏切られた』と思った。
俺は血の繋がった父に嫉妬するより血の繋がりがない優しい彼女に嫉妬心を向けたのだ。
彼女が『家族面』をすると、心に憎しみがこみ上げた。
父を『パパ』と呼ぶのに腹が立ち、弟を心から叱っている姿を見て俺は…『異物』と感じた。
俺の無口な抵抗は『思春期だから…』と、皆が見ていたが
俺の中でも、彼女が『女』であることが消せなかった。
『このままでは…俺はこの家をメチャメチャにする』
『俺はこの家では異物だ』
『彼女を欲する前に何とかしなくては!!』
それで俺が決心したのは幼少の頃から夢だった『パイロット』への道…。
目が悪くなっていたので、それは諦めたが、『メカニカル』の道へゆくことにした。
それで…出来たら近場の『横須賀基地』とか『浜松基地』なんかより
ずっとずっと…。家族とは会わない遠いところに行きたかった…。
フランスは『航空学』が発展している。
だから…フランス留学を決意した。
継母の彼女だけが本気になって反対した。俺がいなくては『家族』にならないからだ。
自分が追い出したと、負い目を追うからだ。
反対したのは本当は彼女の思いやりだと解っていながら
ひねくれた俺は彼女の弱みを突いて彼女を傷つけた。
『追い出した継母って言われるのが嫌だから必死になって反対しているんだろ?』…と。
彼女自身のために引き留めるのであって俺の為じゃないと言ったのだ。
その時初めて彼女にひっぱたかれた…。
それきり彼女は…一切反対しなかった。
今でも…あの時力無い背中を向けて俺の部屋を出ていった彼女が目に焼き付いたまま…。
それは…今思えば、本当の『母』としての愛だったかも知れないが
俺は…受け入れることが出来なかった。彼女は母でなく『女性』だったからだ。
父親が軍とのツテがあって俺は軍人になることに決めた。
民間の航空会社でもよかったのだが、軍の方が細かく勉強が出来ると思ったのだ。
父がメカニカル関係の仕事をしているとあって、父は自分と同じ道にゆく息子の選択には
さほど反対はしなかったが、一つ条件…。
しっかりした家に預けること…。
それがミシェールの家だった。
後から知ったがミシェールは葉月の祖父の友人。
その祖父さんの息子は…いま、神奈川訓練校の校長…彼女の叔父『御園准将』
父はこの准将の所に昔から出入りしていたのでその繋がりで
ミシェールを紹介してくれたらしいのだ…。
そう思うと…。彼女ともいつかは出会っていたのかな?と『縁』と言うものを考えてしまった。
ミシェールは『親日家』だったので父も安心して預ける決心をして
俺を『男の独り立ち』として快く見送ってくれた。
継母は…。最後まで納得はしてくれなかったようだ。
こうして、俺の単身フランスでの生活がミシェール一家の元で始まった。
フランス語は独学で学んだつもりだたが、日常会話でも支障があったので
最初はミシェールにナショナルクラスの放り込まれた。
夜は長女のアンジェリカが英語を通して仏語を叩き込んでくれた。
日本語はミシェールが片言でほんの少し喋れるだけ。
困ったことは、父親代わりのミシェールにしか話せなかった。
現役で忙しく留守が多かったミシェールがいないときは
困ったことがあっても、無口になって耐えるしかなかった。
マリーが何とかして…アンジェリカが英語を通してなんとか『何を困っているの?』と
必死になってくれても…英語すら細かい表現が出来なかったから
伝えたいことが通じないと俺はすぐに部屋にこもった。
それに…女性が必死になってくれるのがなんだか『怖かった』節があった。
一言では表せない…何かすぐには素直になれない戸惑いが付きまとっていた。
『やっぱり…日本に帰りたい』…そうして俺はすぐに部屋にこもって
マリーやアンジェリカにはいっこうになつこうとしない時期があった。
でも…今更戻れるはずがない…。
俺が帰ると…継母を傷つける…。そして父が困る…。
可愛い弟にすら当たるかも知れない危険性があった。
でも…フランスに来て二年間…マリーは根気よく俺に丁寧に接してくれた。
混乱して部屋にこもり…一晩明けたある日…。
マリーが何処で見つけてきたのか仏語日本語訳の本を俺の目の前に広げた。
『ハヤト。ドレ?』と…日本語で…。
俺は…マリーのちょっとやつれた顔が哀しくなって…。
『これと・これ…』
本をめくって、恥ずかしげに必要なことを伝えてみた…。
『まぁ!そうだったの!?ごめんなさいね…気が付かなくて…』
マリーは優しい笑顔で微笑んで…俺も頭をそっと撫でてくれたのだ。
『ママン?ハヤトなんだったの?』
『学校で…宿泊訓練に出掛けるんですって!明日だわ!!大変!シャツとか下着とか…準備しなくちゃ!』
『そうだったの!?まったくパパったら…そんなことも言わないで出張しちゃったの!!
ハヤト…明日出掛けちゃうんだ…。』
マリーと…もうすぐ結婚をするというアンジェリカの女二人が『大変!』と
慌てて俺を送り出す支度を始めるのを見て…。
俺は初めて…女性に暖かく守ってもらうことを受け入れられた気になった。
『なんだ?ハヤト腹でも痛いのか?ママン!!ハヤトが泣いてるぞ!?』
アンジェリカの弟。長男のマシューは訓練校の教官をしていた。
アンジェもマシューも…俺を弟のように大切にしてくれた。
泣いている俺をみて、マリーとアンジェとマシューが
抱きしめてくれたあの朝を俺は今でも忘れない…。
今から十四・五年も前の少年の頃の話だ。
二人の姉弟は今は結婚して独立してこの家を出て…そして最後に俺が独立して十年が経つ。
だから、俺にとってこの家は『実家』に近かった。
だから…日本の実家はより遠くなった。
何度か帰国したが。この十五年の間、片手で数えるほど…。
歳の離れた弟の成長が気になって…、弟の恋しがる声に誘われて帰るだけだ。
『兄ちゃん?僕ね。中学生になったんだよ…見に来てよ』
『兄ちゃん?高校受かったんだ。第一志望だよ!』
『兄ちゃん?どうして側にいてくれないの?いつ帰ってくるの?お正月は?』
その声がなければ…俺は一度だって帰っていなかったはずだ。
「隼人のために今日はご馳走よ♪」
マリーの声で俺はハッと現実に戻る。
「まったく羨ましいヤツ。マリーは隼人とが帰って来るというと
急にたくさんの買い物をしていっぱい作るからな!」
ミシェールが嫌味混じりに言っても、マリーはいつもと変わらぬ笑顔をこぼしている。
ミシェールもそうは言いながら…
「隼人!新しい釣り竿を買ったんだ♪見てみるか?今度一緒に行くか??」
と、ウキウキしながら俺を書斎に連れていこうとする。
「あら?隼人はキッチンの方が好きよね?」
マリーは俺が餓えないようにと独立までにしっかり料理を叩き込んでくれたのだ。
「ごめん。ミシェール。マリーを手伝ってから、見せてよ」
俺がひょいひょいマリーの後を着いていくとミシェールは拗ねるが…。
「じゃぁ。わしは、前菜を作る!」…と、結局マリーと俺の後を着いてくる。
俺の趣味は…ハッキリ言って…『料理』だったりする…。
夕暮れの地中海が見えるキッチンで俺はパパとママンに挟まれて
やっと、子供のままの素直な姿に戻れるのだ。
それが…俺の十五年。