55.誇り

 最初に動いたのは『林』!

やっと我に返ったのか、拾い直してあった銃を純一に真っ直ぐに向けた!

だが──

林が引き金を引こうとしたその瞬間!

『シュッ──!!』

風を切るような鋭い音が林の手元を襲う。

純一の長くて細い黒い足が真っ直ぐに……的確に林の手元に飛んできたのだ!

『あ!』

当然、林の手元から拳銃が宙に舞った。

そして──

「良い事をお前に、いくつか教えてやらないとな!」

林はすぐさま、純一に対して『構え』を整えたのだが……

『元・ボス』が一枚上手!

既に向こうは構えから、攻撃の態勢に移っていて、林の顎に一発! 拳が命中!

「ガハッ──!!」

口が切れて彼の美しい肌に紅い血の筋が流れた。

林はそれでも踏みたえて、拳で口元を拭い、態勢を整えようとしたのだが……。

やっぱり──『武道』の腕前は『元・ボス』には敵わないのか!?

すぐに懐に入り込まれて、気が付くと顎の下には

悠々と微笑んでいる『黒猫ボス』が拳を握っていて

今度はそれが……ミゾオチに天井に向けられるように打ち込まれた!

『グフ……!』

林の細い身体が、前につんのめって二つに折り曲がる!

「お前──そこの『チビ』の事、かなり気に入ったようだなぁ」

「ゴホ──……それがどうした……」

ミゾオチから拳を離した純一がそこでさっと……構えを整えながら

林から離れて『間合い』を取った。

林もそこを見計らって、咳き込みながら構えをやっと整える。

「そこの『チビ』の『最高の男』はどんな男だったか……な?」

ニヤリ──と純一が林に微笑みかける……。

林は一時……葉月の言葉を頭の中で反芻して……

そして──純一を見つめて『ハ!』と表情を固めた!!

『ベルサーチの男』

そう──林が嫌いな『黒いベルサーチを好む日本人』

それが!? もしや??

そして、林は葉月の側に控えているエドの様子を肩越しからチラリと確かめる……。

「知り合いなのか!?」

林が驚きの声を上げると……純一が片手の指を3本立てて林に突き出した。

「?」

訝しそうな林に──純一はさらに口元を曲げてそっと微笑んだ。

「お前に教えてやらねばならない事が『3つ』」

「なんだと?」

純一が立てた3本の指の一つ、人差し指を折り曲げた。

「一つ……その女は『俺の義理妹』だ」

「!? だから……側に控えていたのか?? 何故!? 助けに入らない?」

その林の問いに純一は答えることなく……今度は二本目の指中指を折り曲げた。

「二つ……義理妹だが? 『俺の女』だ」

「!? じゃぁ──??」

さらに林が驚きの声を……

そう──『ベルサーチの男の正体』

黒いスーツを好み……女にブランドの時計を贈り……

なおかつ老舗ブランドの高級時計『モナコの華』を贈る男なんて……

『黒猫ボス』なら、出来て当たり前。

林は葉月の『はったり』とはいえ……

女軍人らしく『黒猫ボスが育てた』──つまり、『身体も訓練した』

そう、簡単に『思い込む』事が出来てしまった。

だから、林は否が応でも納得するしかないようだった。

そして──最後……純一が最後の薬指を折り曲げた。

「俺の義理妹は……」

そこで……純一が言葉を躊躇う……だが、彼はすぐに口を開いた。

「お前──馬鹿だな。その女がその若さで、連合軍隊の『中佐』で

しかも『将軍の娘』ときて『ピン』と来ないほどに成り下がったとはな?

まぁ──仕方がないだろう……

『幹部』とはいえ必要外の『組織構成』は俺も伏せていたからな」

そこで林が不安そうに眉をひそめた……。

彼も何かが引っかかるのだろう……。

僅かな救い……林がそんな『予感』だけは『感じる』感性を残していたからだ。

 

「……そこの『栗毛のチビ』は……『ばあやの孫娘』だ」

 

純一の『最後の教え』に……林の白い肌は、血の気が引いたように青ざめたのだ!

そして──林は身を翻して、エドの側、意識を無くして横たえている葉月をジッと見下ろす。

「お前が『気に入った訳』──それは、お前が慕っていた『女性』の孫娘だからだ」

茫然としている林の背に、純一は静かに呟く……。

「あの人の……孫娘!?」

「似ているだろう? ばあやに……『お前の恩人』に──」

「…………」

純一は、そこで肩の力が抜けたかのように立ちつくし……

血塗れになっている葉月を見つめている林に……何か諭すように静かに呟き続ける。

林は……手に握りしめていた『二つの指輪』を、そっと眺め始める。

「幼少から……その体格と運動能力を買われてお前は『祖国のスパイ』として

厳しい訓練を強いられてきた……『北朝鮮』だったな?

その国の組織から……命からがら『亡命』してきたお前と『孫』を

誰が救ってくれたかは……忘れてはいまいな??」

純一がそう言うと……林は見つめていた指輪を『ギュッ』と握りしめたのだ。

そして──純一は続ける。

「ところがどうだ? お前は、ばあやを『母』と心から慕って立派な働きを積み重ねてきたのに……」

「それ以上──言うな!!」

林が拳を握りしめて、叫んだ! だが、純一は構うことなく、さらに続ける──。

「ばあやが亡くなった途端に、急にすさんだ生活を始め……

挙げ句の果てに……俺を裏切り……

『捨てた祖国』に、再び金でそそのかされて……戻ろうとしたのだろう?」

「生まれた国に帰りたい事がいけないことなのか!?」

純一に背を向けていた林が振り返って、さらに叫ぶ。

「──『ラム』──……」

純一は、そっと哀れむように『元・部下』を見つめた。

「お前はな……『居場所』が欲しかったのだろう?

それから……二度とばあやに恩返しが出来ないと、気持ちのやり場がなく……

そして──『ばあや』と繋がりが近い俺に嫉妬した。

悪いが……部下には今でも黙っているが『女長=マザー』と俺が近かったのは……

要は……『親族』だからだ。」

「──親族──!? この孫娘……と『義兄妹』といったな? どういう繋がりなんだ!?」

純一が黒猫部隊の『隊長』であり……それの『女主』だったレイチェルとの繋がりは

組織内では、ジュールとエドしか知らないことに純一は収めていたのだ。

だから──林のその驚きは当たり前と言えば、当たり前……。

そして、一族の『末娘=オチビ』である葉月などは、

『祖母の成し遂げた仕事』を知る由もない事。

純一は、エドの側で義妹が意識を無くしているのを確認して……

そっと静かに……林に告げる。

「そこの『チビ』には、昔、『姉貴』がいてな。その姉貴との間に俺との子供がいたりする」

「──!? 『ボス』……に『子供』!?」

さらに林が驚く。

「そういう訳だ。だから俺は『レイチェルばあや』の一家の……『婿』みたいなもんでな。

ただ──姉貴が若くして死んでしまったから……『結婚』などはしてないし

『闇の男』には、既に関係のない事。今は『ばあやの意志』を引き継いでいるだけだ」

「…………」

幹部として、ボスの顔を見るのもやっとの地位にいた『林』

すべてを知って、かなりの驚きのためか……すっかり言葉を発しなくなった。

「林──ばあやの『主人』が軍人だと言うことは、良く知っていたはずだ。

黒髪の日本人だった『じい様』にもお前は尊敬の念を抱いていたのに

何故? こんな犯行に及んだ?

ばあやに声を二度とかけてもらえない日々は、そんなに『辛い事』だったのか?

それほど、『ばあや』に思慕を抱いていたお前が最後に決めたのはこんな事なのか?

ばあやの『孫娘』を痛め付ける結果になった事になにも感じはしないのか?

それで、お前は黒猫部隊に見切りをつけて、『祖国』に帰ろうとした……だか、違うな?」

「違うだと!?」

「ああ──お前のそんな『感傷心』など『ただのこじつけ』だ!

本当に『ばあや』の為に一心に生きているなら……

この『誇り高きレイチェル私設組織の黒猫部隊』を抜けだし、裏切り……

『テロリスト』に成り下がろうなど思うはずがない!

お前はただ……『金』に目がくらみ……俺を裏切り……

『闇名声』に目がくらみ……『軍隊』を相手取り……

さらに! 『ばあやの身代わり』を見つけて『俺の妹』を痛めつけた!

お前に『ばあやから受け継いだはずの誇り』など……微塵も残っていないからだ!」

純一の最後の『説教』に林は指輪を握りしめて……顔を歪めた。

だが……

「ハハハ!! そうか──確かに……良い事を聞いた!

その嬢様が、『ばあやの孫娘』か! それでこんな大層な指輪を持っている訳か!」

林は……純一から『真実』を聞いて驚きはしても……愕然と崩れることはなかった……。

純一は……そんな『元・部下』を見て……呆れたため息をこぼし……拳を握る。

「おい……黒猫さんよぅ! お前をもう一度、始末して……

『嬢様』は俺がもらい……今の『組織』を乗っ取りしてやる!!」

林が……再び目を輝かせて……今度は純一に向けて『ナイフ』を差し向ける!

「……救いようのない奴だな……。

少しでも……ばあやの為に思い直すなら、『逃げ道』も考えていたのだがな」

「誰がお前の言う事など……もう、お前の命令には従わない!」

「そうか? 俺もな……『組織構成の根本』を口にしたのは……

まぁ──何も知らずに『ばあや』の所のに行かせては、ばあやに叱られると思って

『冥土のみやげ』に喋っただけだしなぁ」

拳を握って、構えを整えた純一の瞳が……今まで以上に輝いた!

黒く輝く──『黒猫の目』

その眼差しを向けられた林は……ナイフを構えつつも一瞬後ずさりしたほど……

薄暗い部屋で輝きを鋭く放つ『黒猫の目』

「ばあやに教えられた『誇り』を忘れた奴などに『同情』は感じない」

ナイフを向けている林にお構いなしに……純一は大きく一歩前に踏み出した。

林も素早く反応……! ナイフを純一の頬に向けて突き出す!

だが──フッと顔を背けられて純一には交わされてしまい……

『ドカ──!!』

『クッ──!』

左頬に一発、純一の『カウンター』が命中──!

また、林はよろめいて……なんとか踏み耐える!

どうしても、敵わない。

いつだって敵わない。

この男を越えて……認められたかった『一番の女性』はもう、何処にもいない。

林がそう思いながら、よろめき頬を押さえて……

どうにも勝てない悔しさを胸に純一を睨み返す!

だけれども──

素早い……上手の『ボス』は、よろめいた林に既に近づいてきていて

林はコートの襟首を掴まれていた!

そして──

「林──安心しろ……『ばあや』は、優しい女性だ

向こうで会って『懺悔』をすれば、優しいばあやはお前を一緒に

良いところに連れていってくれるさ」

グイッと力強く襟首を引っ張られて……純一の長い足が

大外刈り、林の足を外から引っかけて、向き合っていた態勢から身体を反転させられた!

同じ背丈の長身の男が、窓辺に向かって身体を合わせる。

窓辺に無理矢理身体を反転させられた林は、純一の長い腕ですぐさま首を固められる。

「クソ!」

同じ様な力で抵抗しているのに!

純一に首は固められ……腕は片手で後ろに拘束された!

足は、純一の長い両足が内股に入り込んだ肩幅に固定される!

まるで『黒猫』という十字架に貼り付けられたかのように、

林は純一の身体に身動きできない姿勢に整えられた!

林の頭に──嫌な予感が走る!

「……俺を……軍隊のスナイパーが仕留めたように見せかけるつもりか!?」

「正解だ……さすが、俺の『部下』。黒猫の手口は良く知っている。

『ジュール』が待っているからな」

「ジュールが!?」

「ああ──お前と同じ様な『境遇』を持ち合わせているジュールがな……

お前とジュールはそういう点では『親しい同志』だったはずだが?

今回の犯行と俺への裏切りで……ジュールはだいぶ、お前に怒りを燃やしていたぞ?

俺を『裏切った』というよりかは……お前は『ジュール』を裏切ったとでも言うべきか?

ジュールに『詫びる』なら、今のうちだ」

そして──純一は……口元の交信マイクに話しかける。

『ジュール……こっちはOKだ。お前はどうだ?』

 

そして──ひっそりと一人で向棟の屋上で待ちかまえていたジュールは……

「勿論──私の心積もりも準備万端ですよ」

ジュールの手には……ベストの奥から出した……

『金色の弾丸』が一つ……。

ジュールが軍持ち込みの弾数を合わせるために、達也が持っているだろう『機種』の弾丸を

そう──前もって、持参してきていた物だ。

朝日の中……ジュールの手の中で、長い金色の弾丸が光り輝く。

そして……ジュールはその弾丸を、達也が置き去りにしたライフルにセットし……

コンクリートの上に、寝そべってライフルを構える。

スコープに茶色の瞳をひっつけると……

狙った先には……ボスに身体を固められた『元・同志』の顔が見える。

「ラム──もう、遅い……お前は俺が一番嫌がることをした」

ジュールは頬を引きつらせて……引き金に手をかけた!

 

「ああ……そうだ、林。言い忘れた、ジュールに詫びるならもう一つ。

実は、ジュールも当然……うちの『栗毛のオチビ』が大のお気に入りだ

お前……ジュールの目の前で、何をしたか解るか?」

純一は、身動きを押さえ込んだ林の白い頬の側で『ニヤリ』と微笑んだ。

「可哀想に──こんな力無い女性に卑劣なことを!」

林の目の前で……葉月を見守っているエドが……

ジュールの代わりの如く、悪あがきの最中の林に呟いた。

「…………」

林の頭に……あの金髪の同志の声が過ぎる。

『もう少し、堪えて頑張れよ……いずれボスに認められて……

お前も『ファミリー』の一員になれる。

そうすれば、お前にも……俺が今感じているような『生き甲斐』が見つかること保証する』

そのジュールの『生き甲斐』とは!?

(この嬢ちゃん……の事か!? お前はこの娘に命を懸けて……ばあやの為に?)

耳を貸さなかった元・同志が言っていたことがやっと解った気がした。

(そう教えてくれれば……俺だって!)

だが──その事はトップシークレットだったのだろう……。

ボスに子供がいたように……。

第一級のプロの男が、例え親しい友人にも漏らすなど……しないのは当たり前だ。

「林──『お迎えの時間』だ」

そんな事……そんな『知らない事実』や『自分の愚かさ』を認め始めたその時。

林の首を押さえていた純一の手が……林の口元を塞いで首を頭を彼の首元に押さえつけられた!

『ボス──避けて下さいよ?』

屋上からそんなジュールの声。

「俺のことなど良いから、外すな」

その純一の静かな声に……林は覚悟した。

(ジュールは絶対に外さないだろう……)──と。

『ジュール……お前の好きにしろ』

純一の手元の中でそう──呟く。

『ボス──俺は疲れた……ばあやの所に行きたい』

そうも──呟いた。

すると……純一にもそれは伝わっていたようで……

彼は黒い瞳を潤ませたように哀しそうに林を見つめていた。

「林──悪いが……お前は罪のない人間を殺しすぎた……

償う義務がある……。それから……」

(それから?)

「心清らかにばあやの所に行け。お前の『死』

『主犯格の死』はそこのチビの『礎』となるだろう──。

俺達の『葉月』は、じき──『若き大佐』になるだろうからな」

『最後に……俺の死が、ばあやの孫娘の役に立つと?』

「ああ──だから、俺は葉月が危機に陥っても最後まで助けに入らなかった

軍人として……立派に自力で事を成し遂げる為には必要以上に手は貸さない主義だ」

『ハヅキと……いうのか……』

「ああ──緑の葉の季節という意味だ、日本語でな」

林の身体から……徐々に力が抜けてくる。

純一の手元で林がそっと目を閉じた。

 

「ラム──」

ジュールは、ボスが林に告げる『処刑宣告』の言葉に……少しばかり胸を詰まらせていたが……

「俺を裏切らなかったら……お嬢様ともう少し違う出逢いをしていたはずなのに……」

そう呟きながらも……スコープの照準は林の左胸に……。

葉月の左肩であろう位置を定める。

「だが──『誇り』を捨てたときから……俺とお前は……『さよなら』だったんだ」

そして……ジュールの指が引き金に差し掛かる。

 

『ボス──行きますよ』

「ああ……」

『悪かったな……ボス……』

『カチ──!』

ジュールの指が引き金を引いた。

『ボス──行きましたよ! 避けて下さい!!』

ジュールのその声が聞こえて……純一は……

『1……2……3……』

そこで、林の腕を拘束している左手を離して……

純一はサッと……林の背中から身体を翻した!

『ウッ!!』

「孫も忘れずに……ばあやの所に連れて行けよ……」

純一が離れた林の空いた背中から……一筋の線が貫通していった!

純一のすぐ目の前、胸の前を金色の弾丸が抜けていったのを確認!

純一の手から、指の隙間から……鮮血が滲み出て……床に滴り落ちた。

林の胸から血しぶきが上がり……

そして……純一の手の中にいた……

黒髪の美しい男が後ろに背中を折り曲げて力尽きる。

『カツン……』

純一の足元に……紅い石と蒼い石が、林の手からそっと落ちてきた。

純一は、力尽き……レイチェルの元に旅だった部下をそっと腕の中で抱きしめる。

 

「ばあや……俺が、不甲斐ないばかりに……こいつに優しくしてやってくれ……」

そっと……額に汗を残す林の黒髪を純一はかき上げる……。

やるせない想いで……純一は林の身体を静かに床に降ろした。

 

 「ボス──……終わりましたね」

エドも……思うところあるのか……声を詰まらせて林の遺体を眺めている。

「……葉月……」

林の遺体を一時眺めていた純一が我に返ったように立ち上がって……

飛ぶようにしてエドのとなりに跪いた。

「このままでは……出血多量のショック死の危険性が……」

「なんだと??」

酸素マスクをして荒い息をつきつづけている葉月を見下ろした純一の顔が青ざめた。

「ですが──すぐに、屋上から飛び出した『彼等』がここに来ますでしょう……」

「そんな、アイツら小僧が来たところで葉月の治療など出来るわけないだろ?」

珍しく純一が狼狽えているので……エドも困り果ててしまう……。

「だから──ボスさえ良ければ、血止めを打ちますし、痛み止めも打ちますよ?」

医者心得のあるエドがそういって、胸元から注射器を備えている銀ケースを出しても……

「いや──それは……ダメだ! 治療を始めたときに前もって薬を打ったことを

どうやって、担当する医師に伝えるのだ? お前が打ち、担当の医師がさらに打てば

葉月の身体に、適量を超した治療薬を投与したことになってしまうだろ??」

「ですから……そこを何とかしないと……」

そこはいつもの如く、上手くボスに手だてを考えて欲しいところと……エドはすがったのだが……

流石の純一も……そこまでは今、思いつかない様子で……

「葉月──しっかりしろ!?」

義妹の白い頬を、そっと叩き始める。

「お嬢様……!」

エドも声をかけると……

「……は……ぁ……」

葉月がマスクの中でそっと声を漏らした。

それを聞いて純一が、力無く横たえている義妹の身体を腕の中、越しあげる。

「葉月……しっかりしろ。お前の『男』がもうすぐ迎えに来る

お前……さっきその男になんて言っていた? 『愛している』と初めて言っただろ?

それから……なんだ? 横浜に行くとか、カフェオレ飲むとか約束していたじゃないか?」

そう言いながら……義妹の意識を呼び戻そうとするボスに……エドは『絶句』

(ボス──さっき……林に『俺の女』とかしっかり言葉にしていたのに??)

そんなボスが……義妹の為に自分の気持ちを『殺す』不器用さ……

なんだか、部下として『ため息』が出てくる。

エドもどちらかというとジュールと一緒で、ボスの不器用さに苛立ったり……

そしてボス以外の男は認めていないところがある。

(あんな日本人のひ弱そうな少佐なんて……お嬢様といつまで保つ事やら?)

そう思っているから……ボスもそう思っているだろうから……

だから……ボスは『いずれいつもと同じようにすぐに男が逃げる』と余裕なのだと従っていた。

だが──今回はなにかボスの様子も違うような気がしてならないのを……エドは見た気がする。

そして──

「葉月……おい!」

「……ちゃ……ま?」

「!!」

「お嬢様? お兄様、お仕事終わりましたよ!」

「……」

エドのその声に……葉月が閉じていた茶色の瞳をそっと朝日の中開け始めた。

そして……そのガラス玉のような瞳に……黒髪の男を映し始める。

「お……にいちゃ……!」

かすれた声でそう呟きながら……どこからそんな力が出るのか??

葉月は右側にいて抱きかかえる純一の黒い襟を

『ガ!』と右手で引っ張り始めた。

「どうした? 葉月……」

静かに義妹を見下ろす純一がいつにない優しい笑顔を義妹にこぼす。

義妹も……安心したかのようにそっと笑顔をこぼしたのだ。

だが──

「か……かえろ?」

葉月が何かを呟き始めて……純一がそっと耳を酸素マスクに近づけた。

「かえろう? 一緒にかえろう? おにいちゃま……

あのね? 鎌倉で……皆が待っていてね?

ほら……湘南の海に遊びに行こうって……約束したじゃない?

レイの誕生日に……お兄ちゃま……海のちっちゃなお魚を瓶に入れてくれたでしょ?

また……捕ってきてよ?……皆で……遊びに行こうよ……おにいちゃま……」

葉月のその言葉に……純一が驚いたようにしてマスクから耳を離した。

「……こうゆう時は意識が交差しますから……幻覚でしょう……

一番の思い出が……頭の中に良く現れたりするだけですよ」

妙に狼狽えているボスに……エドは医師らしく静かに言葉を添えたのだが……

純一はエドが見たこともない……情けなさそうな表情を刻んで眉間にシワを寄せていた。

そんなボス……見たくない!

そう思って……エドが顔を背けたとき……

「エド──悪いが……暫く、背を向けてくれないか」

「……あ、ハイ」

言われれた通りに背を向けたし、エド自身もそうしたいところだ。

だが──そんな人間くさい感情を隠し持っているボスだからこそ……エドもついてきている。

(ジュールはどうしたかな?)

そう思いながら……割れた窓ガラスの外を見ようと顔を上げると……

『!!』

割れた窓ガラスだから……ハッキリは映ってはいないのだが……

純一が葉月を胸に抱きしめて……『口づけ』ているように見えた!

そして──

「よく頑張ったな……俺とロイと右京が……お前を絶対に『大佐』にしてやる」

そして……見てはいけないと思いつつ……その光景がエドを釘付けにする。

純一は義妹に……小鳥がついばむような口づけを繰り返しているように見えて……

その義妹の額の栗毛を愛おしそうにかき上げて……

「だから……ここで力尽きたらいけない……皐月に叱られる……」

エドは……そう耳にしてなんだか自分が瞳に涙を浮かべそうになって動揺した。

そしてボスが胸ポケットから何かを取りだした時……

「エド──もう、いいぞ。そろそろ、小僧達が来そうだから退散だ」

そう言われても……なんだか振り返りにくかったが……

「は、はい……」

葉月の口に付けているマスクを片づけねばならず振り返った。

「パパからもらったのか? それとも? まだ、こんな物いつも持っているのか?

相変わらず……お前はいつまで経っても『オチビ』だな」

純一がポケットから出した物は……包み紙が妙にくたびれている小さなキャンディーだった。

それを……優しい笑顔で妹の胸ポケットにしまい込んだのだ。

葉月の意識は……再び無くなっていたようだった。

(ボスの愛情……解ったのかな? 伝わったのかな?)

エドがそう思いながら、酸素マスクを片づけると、純一は元の冷たい表情のボスに戻って……

躊躇うことなく、妹の身体から離れて立ち上がった。

その時──

『ドン!!』

デスクでバリケートが作られている部屋の入り口のドアを何者かが叩いていた。

純一とエドは顔を見合わせて、頷き合う……。

慌てることなく……『撤退』のため、通気口に戻ろうとその下に二人でロープを張った時……

 

「私は! 総監の『御園亮介』だ! その娘の父親だ!!」

 

 そんな叫び声が聞こえて……純一とエドはビックリ……!また、顔を見合わせた!

『どうして? ご主人様が???』

エドが動揺すると……当然……純一も……。

しかし、すぐに落ち着いたのはやっぱり『ボス』

「ジュール……さすがだ。林は旅だった……

それから、今から計画通りのルートで撤退するから、先に退却していろ」

『ラジャー』

そう告げると……エドに……

「丁度いい……葉月を迎えに来たんだな……『オジキ』も成長したなぁ」

いつもの口悪を叩きながら……エドに入り口に行こうと……指図をするのだ。

「ボ……ボス?? どうするつもりで???」

バリケードがある入り口に、自ら近づくボスにエドは不安な気持ちを抑えきれなかった。