12.雨のお迎え

一眠りした葉月は、髪を整えて隼人の部屋の洗面台で化粧をする。

少し……いつもより念入りにした。

制服を着込んで……彼の机の上にある目覚まし時計を手にする。

机の上にある、彼が以前試験勉強で使っていただろう……

インデックスの付箋を一枚剥がして……

『起きたら支度してね? 迎えに来ます……』

サラッと走り書きをして目覚ましの上に貼り付けて……

時間はお昼前にセット。

スヤスヤと、寝息を立ててよく眠っている彼の頭にそっと置いた。

彼のスラックスから、キーをこっそり拝借。

それを手にして玄関を出て、鍵を閉めた。

先ほど、風呂場の小窓から見たときより

激しい風が、官舎裏の雑木林の葉々を揺らしている。

『降りそうね……。』

青空には、雲が激しく流れている。

葉月はその空模様を仰ぎながら、階段を下りた。

時間は10時。

少しばかり、出かけるには早い時間だが

こうして恋人との向き合いが終わると急に本部が心配になる。

奥様方も、今は朝の忙しい時間を終えて小休止なのか

官舎の外はあまり人が出ていないようで葉月はホッとしながら

官舎の横に付けた赤い車に足を向ける。

『さぁ。 次は隼人さんの番よ。』

葉月は運転席に乗り込んで、

フロントミラーに映る、綺麗にメイクされた自分を見据えた。

唇には、美しい艶が照っている。

葉月の微笑み。

夕方には、隼人の父親がやってくる。

「どうしたのお嬢!?」

本部の入り口をくぐると、ジョイがビックリ……

意外と早く戻ってきた葉月を見上げた。

「隼人さんよく眠っているから……。私は落ち着かなくて……」

『まったく。お嬢は相変わらず……』

ジョイと山中は、相変わらず軍人肌の葉月に呆れていたが

隊長の葉月が戻ってきたのでホッとした節もあるようだった。

その証拠に、すぐに『出動準備』で手間取っていることについて

葉月に報告、相談を持ちかけてくる。

「解ったわ。私から、他中隊に相談してみるから。」

冷たい、いつもの葉月の顔にジョイも山中も

この時ばかりは、『助かる』とホッとしたようだった。

「ジョイ?」

「何??」

「お昼から帰っていいけど……。夕方私に付き合って。」

「? 何を??」

「お客様が来るの。 エスコートはジョイの専売特許。」

葉月がニヤリと微笑むと、ジョイが一瞬おののいた。

「なんだよ?? こんな忙しいときのお客なんて!」

「さぁね……。夕方のお楽しみ。」

「また。始まった! お嬢の『さぁね』が!!」

ジョイはプッと膨れたが、葉月は余裕でニッコリ……。

「あら? ジョイもきっと喜ぶ事よ?」

「だったら! 今教えてくれてもいいジャン!」

「それはダメ。 トップシークレット♪」

葉月はニヤリと微笑んで、洗い立ての栗毛をなびかせて中佐室へ。

肩越しに振り返ると、ジョイが『ンベ!』と舌を出していたが

葉月は、クスクスと笑って中佐室の自動扉が閉まるのを眺めた。

(さぁ……。 今から頭の中、整理しなくちゃ……。)

中佐室に差し込む、朝日に向かって葉月の瞳はより一層輝いた。

昼前に、隼人を迎えに行く。

綺麗にヒゲを剃った隼人の笑顔は輝いていて

今から危険な任務に行く『怯え』は一つも伺えないほど……。

彼は、葉月をジッと見つめて満足そうだったが、

葉月は、なにやら気恥ずかしいだけでいつもの冷たい顔。

『それでもいいよ。その方が葉月らしい。』

隼人はそう笑って、再び通信科メンバーの演習実習に戻っていった。

 

葉月は、この際『コソッ』と責任者である老先生に手回し。

「大佐? 夕方……澤村少佐を一時間でも良いので貸して下さいませんか?」

この申し出は、この緊急時に受け入れてもらえないことは

重々承知の上で葉月は申し出たのだ。

『何故?』 マクティアン大佐は当然、葉月にそう返してきた。

「彼の父親が夕方来られることになって……」

これも『私情の用事』……そこも解って葉月は言っているのだ。

「……」

老先生は一時、困ったように黙り込んだが……

「夕方は無理かな? 彼等に食事の時間は与えるからその時なら。

一時間ほどの休養ぐらいは取らせるつもりだよ。

時間は……19時頃になると思うけどね。」

「そうですか……それなら構わないのです。」

葉月は、そのような事なら……と、一応ホッとして微笑んだ。

「……。この前から言おうと思っていたけど。」

穏やかな微笑みをくれる老先生に葉月も『?』と首を傾げた。

「お嬢……最近、とっても綺麗になったね? 誰のお陰だろうねぇ?」

ニヤリと微笑むおじ様大佐にそう言われて葉月は……

今朝の出来事も頭に駆けめぐって急に顔がボウ!と赤くなったのが解った。

「ははは! お嬢がそうして女性として一生懸命なのも結構見物かな♪」

「ち! 違います! 上官として!!」

葉月は真っ赤な顔で、老先生に食らいついたが……

父親より年上の老大佐にはかないっこないのだ。

「まぁまぁ……。いいとして……

私も、君の叔父さん、校長の元で澤村君のお父さんには会ったことあるから。」

「え!? そうなのですか!?」

「おやおや? 意外と彼氏のこと知らないのかな?

この基地にいて……いや。 日本にいて『澤村精機』を知らないのは

ちょっと、物知らずッってところなんだよ?

私が本島の横須賀に行って彼の父親に会ってみたいって気持ち……

工学肌じゃない人間には解らないかも知れないね。

君の叔父さんに無理言って会わせてもらったことあるのだよ?」

葉月は、そんな話……初めて聞いたので

今から会う『工学社長』に初めて畏れを抱いたのだ。

「この前の、講義で講義生を試したとき……

澤村君の問題の解き方見て、『血筋』って物に感心したぐらいだ。

さすが……澤村一族ってところかな??」

(えーー! そんなにすごいの!?)

葉月は、隼人がなんにも言おうとしないし……

彼が家族の話は避けるから、葉月も聞かないようにしていた。

だから……

余計にビックリ!!

そんな父親に葉月は、いつもの『じゃじゃ馬根性』で

彼に内緒で、彼の父親に『こっそり提案』をふっかけてしまったのだ。

一瞬……自分の向こう見ずにさすがに『ヒヤッ!』としたぐらい……。

そんな葉月を見てマクティアン大佐も、

ニッコリ……何か見抜いたらしい笑顔。

「はは! なんだか、お嬢はまたなにやら一人で始めたのようだね?

彼の父親も、あんな立派な息子が基地にいるなんて一言も言わない人でね?

フランス基地でお世話になっているぐらいしか言わなかったのだよ……。

今回、澤村君が島に来て私も彼が講義に出てくるのを楽しみにしていたし。

父と息子かな?? そこで何かあるようだね? 解らないでもないなぁ。」

「解らないでもない……とは?」

「うちも息子がいてね? アメリカにいるが……

なんだかんだ反発しあいながらも。

息子も結局は、工学男。ただし……軍外だけどね?」

それが『父子』だと、老先生は葉月にそう教えてくれた。

最後に先生……マクティアン大佐は

『休憩前に、御園中佐の元に戻るよう言っておくよ。』

にっこり……葉月に微笑んで協力してくれるようだった。

『有り難うございます!』

葉月も、頭を下げて御礼を述べる。

彼も細川同様『現場』をひかない『職人』の様な大佐だった。

葉月の父より歳は上。 退官前……。

地位は父より下だが、いつまでも教育科にて

生徒を育てる、工学の一任者……。

葉月は、その初老の男の背中を見送った。

その後、葉月は本部にて大わらわ!

交代で、補佐の二人、山中とジョイが昼過ぎに自宅療養に帰宅したので

側近の隼人がいない隊長・葉月は……

同期生のデビーとどつきあいながら、本部員を

出動準備に向けて動かせる。

他中隊に行ったり……連絡を取ったり……

五中隊に呼び出されたり……

アッという間に夕方がやってきてしまったようだった。

その時間に気が付いたのも……

「ただいま〜……。ふぁあ! お嬢の企みが気になって眠れなかった!」

ジョイが眠たそうな目をこすって、中佐室に入って来たからだ。

『もう? そんな時間!?』と、葉月は慌てて時計を確認。

時間は15時45分……。

横須賀発の飛行機が滑走路に着くのは16時……。

「いけない!! 私、お迎えに行ってくる!!」

「行くって……どこに行くの?」

脱いでいた上着を颯爽と羽織る葉月に、

ジョイがまたまた眉をひそめて尋ねる。

「横須賀から来るチャーター便にお客様が乗っているの!」

「本当に……誰が来るの??」

「いい? ジョイ……コーヒーの準備してね!」

姉貴らしく命令されたので、ジョイは益々膨れた。

「まったく……。なんだよ!」

「相手は、社長様よ! しっかりやってね!!」

『社長様』の一言にジョイが『びく!』と反応……。

「なに!? もしかして……隼人兄の父親とか……!?」

その一言で、お客の正体を暴いた弟分に葉月も驚いて

机を整理する手元を止めてしまった。

「知っていたの?」

すると……ジョイは呆れて、両手の平を上の向けて振り落とした。

「やだな。これでも俺って結構情報通だよ?営業にはかかせないっしょ?

どこの誰が、どんな人か……これを知って初めて人との接し方変わるのだから。

そうでなくても……横浜の実家に帰省しないから誰だって疑問に思うよ?

ロイ兄に聞けばなんだって解るし……。

山中の兄さんと言っていたんだ……。

お嬢も言わないなら、何かがあるだろうからそっとしておこうね……って。」

いつもは『お坊ちゃん』でも……

実はしっかり者の弟分に葉月は、久しぶりに感心のため息……。

「ジョイはしっかり者ね……。だから……私も助かる……。」

葉月の笑顔に、ジョイは急に照れて金髪をかき始めた。

「でも……そうゆう事なら、解った!

なんだぁ……! お嬢も結構やるジャン♪」

やっと容認して、協力してくれると言うジョイに葉月も安心……。

『行って来ます!』と笑顔で出てゆくところを、

「おっと! お嬢……さっき雨が降り出したから傘持っていた方がいいよ?

俺の傘、入り口の傘立てにあるから持って行きなよ!」

気が利く弟補佐に感謝して葉月も『有り難う……』と中佐室を出る。

ジョイが『グッドラック♪』と笑顔で送り出してくれた。

葉月が出かけて、ジョイもハッ!……と我に返って

中佐室のキッチンに入る。

お客様へのお茶入れは久々……ジョイも気合いを入れたのだ。

『お疲れさまです! 中佐!』

滑走路の警備口……つまり、外へ出るゲートに来た葉月は

傘を差して、ゲートを通ると、航空警備員に敬礼をされて

葉月も、敬礼を返す。

『雨で少し到着が遅れているようですよ。中でお待ちになっては?』

外人の警備員が親切にそう教えてくれたが

葉月は、落ち着かないので待合室には戻らずに滑走路に出る。

時計を見ると、16時が来ようとしていた。

紳士用の大きい紺の傘をさして、葉月は雨空を見上げた。

(風もないし……霧もかかっていないから……着陸に問題はないわね)

つい……パイロットとしての『空読み』をしてしまいながら……

まだ、轟音がなりそうもない空を

雨の銀色の筋を眺めながら、航空便の到着を待つ。

16時を少しすぎて滑走路の上に、

オレンジ色の雨用パーカーを着たメンテナンス航空員達が動き出した。

滑走路のアスファルトに着陸誘導ラインのランプが灯り始める。

空から轟音は響きだした。

ヘルメットをかぶった航空員がランプラインの先端に立ち

誘導ランプの棒を持って旗の代わりに着陸点誘導のため

上空に姿を現した航空機のコックピットに向かって振り始める。

チャーター航空機はそのメンテナンス員をめがけて降下してくる。

『キュキュキュ!……ゴーー!』

車輪がアスファルトをこすって着地。そのまま徐行で滑走路を走ってゆく。

メンテナンス航空員めがけてゆるゆるとスピードを落として停止した。

コックピットには、金髪のパイロット。

戦闘機パイロットの葉月達とは違って

民間の航空会社のような、肩章付のカッターシャツを来て

ヘッドホンをしたパイロットが二人。最後の操作確認をしている様子を眺めた。

数分して……小さなセスナのような航空便のハッチが開く。

オレンジ色の航空員が降りるための『タラップ』をセッティング。

葉月の緊張が高まる。

(どの人かしら!? 解るかしら!?)

葉月の後ろにいた航空警備員がゲートの先に出てくる。

彼等が、この軍内への入場をチェックするのである。

まず最初に出てきたのは、軍人。制服を着た外人男性だった。

おそらく、横須賀基地に出張にでも行っていたのだろう……。

荷物はアタッシュケース一つだけ。

彼は慣れているのか、傘も差さずにゲートに早足で向かってくる。

その次は、スーツを着た若い日本人男性。

彼は折り畳み傘を差して、これも足早にゲートに向かってきた。

その民間男性。

葉月の横をすぎると……

『お世話になります』と言いながら、外人の航空警備員に書類を差し出していた。

『こちらにサインを……音楽隊にご用の方ですね?』

『はい。楽器の調整に……呼ばれまして。』

日本語がやや話せる外人警備員だったらしく、民間の男性は

言われた通りに、窓口にあるバインダーにポールペンでサインをしていた。

『川崎の楽器会社』の営業マンのようだった。

そのやりとりを背中で聞きながらも、葉月は航空機の出口に集中する。

やはり……本島に出張に出かけていた軍人がほとんど。

外人も日本人の隊員も取り混ぜて数人が雨の中

傘も差さずにゲートに向かってくる。

営業できたのは、先ほどの川崎の楽器店だけだったらしい。

(どうしてーー。 もしかして……忙しくてやっぱり来られなかったとか??)

一向にそれらしき男性が現れないので葉月は少しうろたえた。

それなら、それで葉月の元に『来られない』旨の連絡はあるはず。

葉月が、うろたえ始めたその時……。

一番最後に、アタッシュケースを持った初老の男性がハッチに現れた。

誘導している航空整備員が、雨に濡れるのを躊躇っているその男性に

心配そうに駆け寄っていったのだ。

『傘はお持ちではないのですか?』

『いや……降っているとは知らなくて。これは不用意でしたなぁ。』

『アハハ!』と、明るく笑い出したその男性は

品の良いスーツを着ているにもかかわらず外に出ようとしていた。

そのスーツの身なりが普通の民間人ではないと悟ったのか……

オレンジのパーカーを着た整備員が男性を止めた。

『警備から傘を借りてきましょう。お待ち下さい?』

『いえいえ。構いません……』

葉月は、それを見て……『お父様だ!』と解り……サッと走り出した。

航空員とやりとりをしているタラップの下に

栗毛の女性が現れたので、その男性が言葉を止めて下を見下ろした。

その視線にヘルメットをかぶっている航空員も振り返った。

「中佐のお客様ですか?」

航空員は、葉月の客と知って益々……腰が低くなったようだ。

「ご苦労様。私がエスコートしますわ。作業に戻って……。」

「あ……了解……。」

航空員は、葉月直々お迎えの客ならば……と言うことでタラップを降りてきた。

「素晴らしい気遣いだったわ……。有り難う。」

航空員にもかかわらず、民間の訪問者に丁寧な応対をした彼に一言。

彼のネームプレートを葉月はチェックしておいた。

彼は、思わぬ令嬢からの言葉に照れてサッと敬礼をして去っていった。

葉月は、彼と入れ替わりにタラップをあがる。

「いらっしゃいませ……。澤村社長……。」

葉月が恐る恐る声をかけて彼の頭に傘を差し出すと……

「初めまして……。ご招待有り難う……御園中佐。」

そう返事が返ってきて、葉月は今になって身体が硬直、緊張が高まった。

グレーの三つ揃いのスーツ。パリッとしたジャケットにベスト。

袖にはカフスまで止めてあった。

葉月が驚いたのは、ありきたりなネクタイでなく、

カッターシャツを開けた襟元は

アイスブルーに金の縄模様が入ったアスコットタイ。

(お洒落ーー!)と……唸ってしまたのだ。

60歳の男性である『品』がこの上なく漂っていた。

顔は隼人には似ていなかった。

やはり……隼人はあの亡くなった『母・沙也加』に似ているらしい……。

でも、細身で葉月より少し背の高いすらっとした体型は

隼人に似ているし、顔の輪郭骨格はやはり『父子』を思わせる男性。

瞳は澄んでいて、社長らしく活き活きと輝いている。

葉月は、『仕事人』として今でも現役だということを肌で感じたのだ。

だから……余計に緊張したのだ。

なのに……

「いやー。 本当に叔父様にそっくりだね?

あ……叔父様と言うより、本日、私を迎えに来てくれたあなたの従兄。

右京君とも瓜二つ……。今一目見てあなただと解りましたよ?」

「従兄が? 迎えにですか??」

「ええ。横浜の会社まで……白いBMWで迎えに来てくれましてね……」

(うー! おにいちゃまったら……)

従兄ご自慢の白いオープンに出来るBMW……。

葉月は兄が迎えに行ってくれたのは感謝だが……

いかにも御園の『御曹司』とばかりに

ご自慢の愛車で颯爽と迎えに行ったかと思うと

顔から火が出るくらい恥ずかしい感じがした。

「ランチまで……丁寧に横須賀基地のカフェでご馳走になりまして。

立派で素敵なお兄様ですね。 かえって気遣っていただいたこと申し訳なく……。」

穏やかな笑顔は、隼人にそっくりで細面の社長はニッコリ……

『あなたが濡れますよ?』と、傘を差し出す葉月の手を

優しく葉月の頭へと傘の軸を葉月の方に寄せ返すのだ。

葉月もその気遣いに余計に『緊張』

ハッとして、もう一度傘を彼の父親の頭へと戻した。

「足元、滑らないようお気をつけ下さい……。」

「有り難う……。 葉月君」

名前で呼ばれて益々硬直……。

葉月は、余裕いっぱいの社長紳士を緊張しながら

タラップから警備口にエスコート。

彼の父親も、葉月を気遣ってか傘には半分と入ろうとはしない。

結局、二人そろって肩は半分濡らして警備口に辿り着いた。

航空警備員も、葉月の横に立派な紳士がいるので

なにやら先ほどとは違う背筋の伸ばし方で立派に敬礼。

『御園の客』と言うことで、ただ者じゃないと感じたようだった。

「私のお客様です。フランク中将から許可頂いておりますから……。」

葉月は胸ポケットから、入場許可の書類を警備員に差し出した。

警備員は……書類を眺めて驚いたように澤村社長を見上げた。

「An……。OK……。」

とっさに日本語が出てこなくなったようで……

無言に社長に向けてサイン用のバインダーを差し出したのだ。

「お父様。こちらにサインして下さいますか?」

葉月がボールペンを差し出すと社長は、

『澤村和之』……とニッコリ快くサインを始めたが……

「面会人……これは……御園嬢の名を書けばよいのかな?」

「いえ……。ご子息のお名前を……」

葉月がそう言うと、『そうかい?』と言って社長は

スラスラと息子の名前を面会人の所に記した。

それを確認した警備員は益々確信したのか驚いたようにして……

「An……。。。少佐のお父様でしたか……」と、戸惑い笑い。

しかも、慌てていたのか英語で尋ねるので葉月は『あらら』と苦笑い。

なのに……

「おや? 息子をご存じで?」

英語で警備員に返事を返す社長に葉月も警備員の彼もビックリ……。

そこに一時、空気が止まってしまったのだ。

しかし……

一介の警備員が息子を知っているとあって父親として嬉しそうな笑顔。

葉月も思わず……父親だな……と心が和んで微笑んでしまった。

「勿論……。そちらの中佐の側近ですからね。知らない隊員はいませんよ。」

英語が通じると解った警備員も、遠慮なく英語で彼の父親を持ち上げる。

その返事に、父親として本当に嬉しそうに微笑んだのだ。

葉月と和之は入場の手続きを済ませてやっと基地の建物の中に入った。

「やぁ……。さすが……あなたの下にいるって事はああ言う事を言うのだね?

先ほどの整備員もあなたを一目見て『御園中佐』と解ったようだし……。

それほどのポジションに息子がいるなど夢のようですなぁ……。」

和之の穏やかで余裕な笑顔に葉月は、戸惑うばかり。

その余裕……威厳。

どこか隼人にも受け継がれている……『父子』を感じずにはいられず

なかなか、いつものじゃじゃ馬言葉も素直に出てこないので

『そうですか?』と、微笑みを浮かべることしかできなかった。

外人が行き交う通路も、彼の父親はなんのその。

少しも、動揺せず、キョロキョロともせず、堂々と葉月の横をついてくる。

「横須賀よりアメリカ人が多いと聞いていましたが……

本当にここはもう……日本じゃないようだね?ちょっと緊張してきたましたな?」

『はは!』と笑いながらの彼の父親。

(緊張しているとは思えないけど〜)

葉月は、結構余裕な彼の父親に苦笑い。

アタッシュケースを持って品の良い紳士を連れる葉月を

すれ違う隊員が皆振り返る。

それでも、澤村和之は穏やかな笑顔で葉月についてくるのだ。

エレベータに乗り込んで葉月は本部へと……

雨の中やって来た澤村和之をエスコート。

いよいよ……隼人と彼の父親が『対面』する。

葉月の中に、今度は違う緊張感がみなぎってきていた。