2.初夏の記憶
朝、目が覚めるとお祖母ちゃんのお部屋で…お祖母ちゃんの横だった。
真一はハッとして…すぐに二階に駆け上がる。
『お父さん!?』
ドアを思いっきり開けると…お祖父ちゃんに付き添われて眠っているパパを確認…。
点滴をうたれた姿で、朝日がこぼれる中穏やかそうに眠っていた。
『大丈夫だよ…。』
付き添っているお祖父ちゃんがにっこり笑ってくれたが、
彼の笑顔もどことなく…疲れているよう…。
真一の不安は消えなかった。でも…。
『ん…。真一?』
真パパがうっすらと目を開けた。
『お父さん!大丈夫?昨日お薬も飲めないほどだったんだよ?』
真一が小さな身体で駆け寄ると、急に彼の頬に赤味が差す。
嬉しそうに真一をベッドに登らせてくれた。
『大丈夫だよ。夜苦しくなっても…いつも朝は大丈夫になっているだろ?
父さんは何処にも行かないよ…。本当に行かないから…。』
真一は優しいパパの笑顔にも、今度は安心しなかった。
パパはこのごろか細くなって…まるで消え入りそうな肌の色をしている。
シーツにしがみついて真一はパパの胸に顔を埋める。
『幼稚園行かない!父さんと一緒にいる!!』
『何言っているんだ。お祖母ちゃんと一緒に行っておいで?』
『やだ!いかない!!』
駄々をこねる真一をパパは厳しい目つきで引き離す。
『行くんだ。幼稚園に!』
かすれるような声でも…真一はびくっとした。
優しいパパが本気で怒るときの目だったからだ。
クシュッと表情を崩して泣きわめきそうになると…
『いいじゃないか。真。真一だって心配なんだよ。一日ぐらい…。』
孫には甘いお祖父ちゃんがいつもの助け船を出してくれたので、ピタッと涙が止まる。
お祖父ちゃんが助け船を出すと、パパは時々折れてくれるのだ。
しかし…
『親父。俺は真一を…からだが弱いパパがいるからよく休む子にはしたくないんだ。』
『俺は父親だ!』
体が弱いパパでも言うことは何処か強かったりするのだ。
『しかし…』
強い姿勢の息子に…お祖父ちゃんが折れそうになる。
真一はまた…泣き叫ぼうとすると…。
そっとパパが栗毛を撫でて…今度はいつもの優しい笑顔を浮かべる。
『行って来るんだ。帰りに幼稚園の本を借りておいで。読んでやるから…。』
『ほんとう!?』
『ああ…。』
このごろパパは自分の本ばかり読んでなんだか考え事ばかりしていて近寄り難かった。
本を読んでくれるのはお祖母ちゃんか右京おじちゃんだった。
だから…久々に相手にしてくれる嬉しさの方が勝って真一は出かける気になった。
『さぁ。お祖母ちゃんに着替えさせてもらいな?』
優しいパパに背中を押されて真一はベッドを降りて部屋を出る。
『親父…。フロリダの登貴子おばさんが手配してくれるって言う…手術…やってみる。』
そんなパパの声が聞こえた。
『決心付いたのか?いいのか?体力がガタッと落ちるかも知れないぞ?』
お祖父ちゃんの不安そうな声。
『解っている。コレでも俺も医者の端くれ…。解りすぎるほど解るのが悲しいな。
でも…このままでは…悪くなっていく一方だ。賭けないと…真一と離れたくない…。』
真一には難しくてまた解らない話…。
でもパパの真剣な声になんだかまた・不安になる。
おまけにお祖父ちゃんまで声を詰まらせて『真…』と、泣きそうな声…。
『親父。葉月…今どうしているかな?』
『さぁ…。訓練生になってからまた…偉く鬼気迫ったように前に進んでいると聞いているが?』
『アイツの邪魔はしたくないけど…。アメリカから呼んでくれないか?
アイツとアメリカに渡る…。真一が会いたがっているんだ…。
真一の夏休みに合わせて向こうに行く…。真一も連れていく。
きっと…亮介おじさんも喜ぶよ。滅多に会えない孫が遊びに来るって…。』
『………。右京君に言ったらいいだろう。葉月ちゃんなら…
お前が呼んでいると言えば何を置いてもすっ飛んでくるさ。
大好きなお兄ちゃんの言うことだからな…。』
『いや…。真一に会わせたいんだ。それから、葉月にもいくつか言っておきたいことが…。』
『………。そんなこと言うな。そんなふうに…』
パパの思い詰めた声にお祖父ちゃんが今度こそ泣いたような声を…。
でも…
(ハツキ…ってなに?)
真一はパパが逢わせたいと言っている名前に首を傾げた。
『シンちゃん?幼稚園行くのでしょう?早く来なさい。』
階段を下りている途中でお祖母ちゃんに呼ばれて
真一は次の瞬間にはパパに読んでもらう本のことで頭が一杯…。
元気良くお祖母ちゃんの所に向かった。
真っ青な空。入道雲。カラッカラのお天気。
お友達と近くの公園で蝉取りをしたり、砂場で思いっきり遊んで
真一はまた…今度は爽やかにそよぐ竹林を抜けて谷村のおうちに帰る。
『ただいまー!』
診察室に行ってももう・パパはいないのでちゃんと裏の玄関から帰る。
でも…シン…とした空気…。
お祖父ちゃんは診察室。お祖母ちゃんは買い物?
パパはまた…ぐったりおねんね?
真一はそう思いながら一人で靴を脱ぎ捨てていつもの居間に向かう。
『おじ様。診察はいいの?私は少し休んでいますから行って来て?』
聞き慣れない声が居間から…。
真一はお客さんが来ていると思って…
知らない人は怖いからそっとお祖母ちゃんがいない台所に入る。
台所から居間をそっと覗いた。
白衣を着たお祖父ちゃんと向かい合わせに座っている『おにいちゃん』がいる。
紺の制服を着たほっそりとして…
右京おじちゃんのように栗色の髪をした少年だった。
『そうかい?疲れただろう。一人でフロリダからでてきて。』
『ううん。慣れているし。兄様も良く休んでいるから暫くシンちゃんを待ってみます。』
開け放している窓から笹の葉がそよぐ音…。
その爽やかな風が、彼の栗毛を柔らかくながす。
お祖父ちゃんは彼に『ゆっくり…』と優しく微笑んで白衣のまま居間をでていった。
彼が一人…。正座で出されていた麦茶を一口飲む。
彼は微動だにせず、ジッとしていた。
いつになったら動くのかな?そんな真一がじれてしまうほどの間。
しかし…真一がそっとふすまによってもっと彼を観察しようとすると
彼が外の庭の方へと、横顔を向く。
スッとした鼻筋。凛々しい瞳。柔らかい前髪。短い栗色の髪。
格好いいお兄ちゃん…。
違和感がないのは何故か解らない。
(右京おじちゃんに似ている?)
と、五歳の真一はそこまでは言葉で思い浮かばないが直感で頭が感じている。
御園の誰かかと思った。
そこで…ちょっと安心感。だから…
『お兄ちゃん誰?』
ふすまの影に半分隠れてジッと彼を見つめながら小さい声で囁いた。
すると…彼が正座をといて、後ろにいる真一に振り返った。
正面を向いた彼の顔。
真一は息が止まった。
雰囲気は全然違うが写真のママにそっくりだった。
その彼が真一を見つけてこの上なく柔らかく微笑んだ。
『こんにちは。大きくなったのね?お利口さんにしている?』
柔らかそうに微笑んだピンク色の唇から、甘い声が流れた。
『あ…飛行機のお姉ちゃん…?』
『わぁ♪覚えていてくれたの!?』
嬉しそうに立ち上がった『彼女』はパパのように背が高かった。
戸惑ってふすまに隠れた真一の所に構わず寄ってきて…
そのうえ。軽々と抱き上げられた。
ビックリして硬直すると…彼女と同じ目線で目があった。
同じ…茶色の瞳…。同じ栗色の髪。
『あら…重くなったこと…』
クスリ…と微笑んだ彼女の笑顔。美しいとさえ思った。
『お姉ちゃん…ママの…いもと…』
彼女の髪に触れるとかいだことない甘い匂いが漂った。
『うん!そうよ。ほら…シンちゃんと同じ髪…。』
彼女がもっと微笑む。
抱き上げられて…今まで感じたことない感触に陥る。
祖母の由子からも感じたことない、柔らかさと優しさと優雅さ。
若い女性の肌の柔らかさ。パパからもお祖父ちゃんからも…感じたことない。
初めてママに寄り近く近づいたと思った。
『は・づ・きって言うの。覚えてる?』
『はつき…ちゃん?』
『そう…葉っぱのお月様…』
さっきまで…『お兄ちゃん』と思っていた感覚は何処にもなくなってしまった。
背が高くて、柔らかい短い栗毛のおねえちゃん。
ママにそっくりなお姉ちゃん。
優しい笑顔のお姉ちゃん。
柔らかく抱っこしてくれるお姉ちゃん。
『おねえちゃん。幼稚園来てくれる?』
『うん!いいわよ?でも…今夏休みでしょ?パパと遊びに行こうね?』
『ほんとう!?』
嬉しくて彼女の白い首に抱きつくと彼女も嬉しそうに真一を包んでくれた。
一番古い葉月の記憶。初夏の日の記憶…。
紺の制服を着た短い髪の…お兄ちゃんのような格好の葉月。
でも…ママに近づけた日…。
『こら!真一!!いつまで寝ているんだ!学校だろ!?』
(はぁ!?)
がばっと誰かに毛布をはぎ取られた。
真一はビックリして起きあがる。
「おい。平日に泊まるのはいいけど、遅刻したら中原先生に誰が言い分けるんだ!?
俺が叱られるだろ!?『澤村少佐と一緒にいて遅刻ですか?』って!!」
(あれ??)
真一は夢うつつ…栗毛をかきながら起きあがってみる。
ブラインドから射し込む朝日。そよそよと聞こえる林の葉の音。
ふと・見上げると薄いグレーの制服を着た黒髪の男が見下ろしていた。
「隼人兄ちゃん…」
「ほら!起きろよ!葉月も今・支度しているから。化粧している間に飯を食え!」
「あ・うん!!」
(なんで…あんな古い記憶の夢見たんだろう??)
真一はそれが何故か徐々に解りかけてきたが…時計を見てびっくり!
(はぅ!マジで遅刻しそう!!)
パパ代わりになりつつある隼人が、担任の先生と仲が良いとはいえ
立場を悪くしてはいけないと真一は飛び上がった。
リビングにでると鎌倉の風景が一気に海の風景。小笠原に一転!
テーブルに用意されているフレンチトーストとカフェオレを急いで流し込む。
洗面所に向かうと葉月が優雅にリップグロスをぬっているところだ。
「おはよう。シンちゃん♪」
彼女と隼人が同棲を始めてから二ヶ月。いまは二月…。
彼女と彼はつつがなく幸せそうに暮らしていた。
葉月は近頃、妙に女性らしくなって輝いていく一方。
昔の爽やかな少年のような面影は何処にもない。
「どいて!遅刻する!!」
「もう!隼人さんが怒っていたでしょ。ちっとも起きないって。
昨夜、ふたり一緒に夜更かしするからよ。隼人さんにも責任アリね。」
葉月は真一に洗面台の位置をはねのけられてふてくされながら
グロススティックを化粧ポーチにしまってでていった。
ふたりが幸せそうに暮らしているから真一も前より頻繁にお邪魔するようになっていた。
平日に泊まり込むのも週に一回はある。週末はほとんどだ。
若いふたりだが、邪険にしないで側に置いてくれるし。
週末、友達と予定があって顔を見せないと逆に
『どうしたの?』という連絡が寮に入ってくるほどだ。
顔を洗って三本ある歯ブラシの…緑色は自分の分。それで歯を磨く。
また・隼人が使っている林側の部屋へ…。
真一が来たときは隼人は葉月の部屋で寝るようになっている。
そこで、紺の制服を着込む。
(あれ?)
袖が短くなっているのに気が付いた。
隼人が使っている姿見で鏡に映る自分をふと見つめた。
昔は葉月が着ていた様な制服を今は自分が着ている。
「しんいち?」
背の高い隼人がふと…動きを止めている真一の様子を見に来る。
「……。短いんだけど…。」
紺の制服の袖を隼人に見せる。
「本当だ。葉月に言って新調してもらえよ。最近…本当成長期だな。」
眼鏡をかけた隼人が優しく微笑んでくれた。
真・父に似ている彼。
黒髪で眼鏡をかけて…本を良く読む頭のいい彼。
真一の中で葉月のようにパパに近くなりつつある人。
真一の身長は急に伸びて葉月と並ぶともう一緒…と言うところまで来ていた。
(伸びなくていいよ!これ以上は…俺。真父さんと一緒の身長でいいのだから!!)
真一は『のびるな!』と手のひらで頭を押さえた。
隼人が『何しているんだよ?早く支度しろよ?』といぶかしそうに部屋を出ていく。
身長がのびると認めたくないような事実を真一は知っていた。
『あの男のようになっちゃうのかな?おれ…』
そう。あの男にあった日のことが…今度は古い記憶からまた掘り起こされる…。
葉月でさえ…あの男の事は口にしない。
知っているだろうに…。
知りたいけど、知るのが怖い…。
あのひょろ長い男…。アイツのせいで真一はとんでもない事実を知るハメになった。
でも…あの男が来ないとすごく不安…。
(そういえば…去年の九月…誕生日には来てくれなかったな…)
真一はため息をついて、林の部屋を出る。
バタバタと制服姿の若い義理母・父と一緒に出かける。
最近のいつもの毎日だった。