1.梅雨の記憶

 

 鬱々とした梅雨時…雨上がりの河原を真一は走る。

 元気いっぱい、さわやかな風の中…。青空が少し広がっている。

 ザワザワざわめく、竹林の裏道を通って近道。

 

 『ただいま!!』

まず、帰ってきて行くところは…『診察室』

近所のお婆ちゃんやお爺さん…。

風邪をひいているお兄さん…。おばさん…。

待合室の患者の中をぬって、診察室を目指す。

受付でいつも事務をしているおばさんが

『シンちゃん。お帰り♪』と微笑んで迎えてくれる。

でも…真一が一番好きな笑顔をくれるのは…。

『しのさん。血圧ちょっと高いかなぁ??

最近・お通じはどう?薬だしておこうか?』

彼がお仕事をしているときは、優しいお婆ちゃんを見ているときでも

『声はかけちゃダメ』

彼との約束。

真一は彼との約束を守ってそっと…診察室隣の小さな事務室に入る。

事務室には…背の高いお祖父ちゃんが…

『お!お帰り!一人で帰ってきたのか??』

お祖父ちゃんの笑顔も大好き。でも…真一はお祖父ちゃんには

『うん!』とだけ答えて。黄色い肩掛けバッグをスチールのデスクに放り投げる。

事務室と診察室をつなげている扉をそっと開ける。

『じゃ。お大事にね。しのさん』

『まこちゃん。アンタ結婚しないのかね?

シンちゃんをそんな若さで一人で育て上げる気かい?

皐月ちゃんだって、アンタとシンちゃんを心配しているよ?天国で…。』

毎日来る『しの・お婆ちゃん』はいつも彼にそう言う…。

真一にはちょっと難しい話…。何のことか解らない。

でも、彼はこの話になると一瞬…眼鏡の奥の瞳を悲しそうに伏せる。

でも、すぐにいつもの真一が好きな笑顔を浮かべてこういう。

『その話は昨日も聞いたよ?そんなことばかり言うと

呆けてしまった…って事にするからね。』

『まったく。まこちゃんは昔から体は弱かったのに

立派で優しいお医者になったけど、

口は相変わらず、達者だね。…………。ジュンちゃんがいたらねぇ…。

アンタももっと安心なのにね?任務に出て行方不明だなんて…。

まこちゃんこそ、身体は大切にしないとシンちゃんだって…。』

自分の名前が出てきたので真一は興味が湧いて

彼の横にあるついたてからそっと…顔を出す。

すると。彼も、しの・お婆ちゃんもビックリしたようにしておしゃべりを止めた。

『さて。私は帰るとするよ。シンちゃん。パパの言うことはよくお聞きよ?』

『うん。しのお婆ちゃん。バイバイ♪』

真一が手を振ると、しのお婆ちゃんもにっこり目尻を下げて診察室を出てゆく。

白衣を着た黒髪で眼鏡をかけた『パパ』

真一は父親の真が、窓辺の机でカルテを書き終えるのを待った。

彼がペンを置く。

日差しが降りかかる窓辺のデスクからやっと椅子を反転させて振り返る。

『真一。お前また、竹林の小道を通ってきたな?』

にっこり…やっと待っていた大好きな笑顔をこぼしてくれた。

自分とは違う黒い髪。黒い瞳。でも・顔はそっくり。

『うん!ちかみち!トシオちゃんのママと帰ってきてその後ちかみち!』

『言っただろう?雨上がりの竹林は泥だらけになるって。

なんだ・もう…ソックス真っ黒じゃないか??』

文句は言うが真の笑顔は始終穏やか。

真一はそっと…白衣のパパに近づく。

『さぁ。もう少ししたら父さんも終わるから。

お祖母ちゃんの所行って、おやつでも食べてきな?』

やっと栗毛を撫でてもらって、『ただいまの儀式』に真一は安心。

パパの言いつけを守って、診察室を出て

事務仕事ばかりしているお祖父ちゃんを横目に繋がっている自宅へ向かった。

『おかえり。シンちゃん。』

お祖父ちゃんと一緒で結構すらっと背の高いお祖母ちゃんは

パパにそっくりな笑顔で迎えてくれる。

『また。小道を通ってきたの?お父さんに叱られたでしょ?』

早く脱ぎなさい…と、お祖母ちゃんにソックスを無理矢理脱がされて

真一はいつもの家族の間、和室風の居間へ向かう。

『お祖母ちゃん!おやつ何?』

早速・テーブルに付くと『手を洗ってからよ』といういつもの声が台所から。

真一は渋々…洗面台に向かって手を洗いに行く。

ちょっと高いところにかけてあるタオルで、つま先を立てながら手を拭く。

『プップー』

外から聞き慣れた車のクラクション。

『しんいちー!いるかぁ??』

聞き慣れた声!真一は玄関へダッシュ!!

『右京おじちゃん♪』

玄関にはパパよりずっと背の高いすらっとした栗毛の男性。

にっこり微笑んで片手にケーキの箱を持っていた。

『バンドマーチに行った帰り、近くの店に寄り道。お前がそろそろ帰ってくると思ってさ。』

近所の大きなおうちに住む、御園のおじちゃん。

真一には難しくて良くは解らないがパパ曰く…『死んだママのいとこ…』

とにかく、パパと同じ、真一に近い家族だというのは解っている。

ちょっとママに似ているおじちゃんは真一を本当に良く可愛がってくれる。

『おじちゃん。今日も楽器のお仕事?』

その帰りなのか、真っ白な制服を着ている。

『そうそう…。雨が上がって良かったぜ。』

慣れたようにこの『谷村家』の玄関で右京は黒い革靴を脱ぎ始めた。

『由子おばさーん。あがるぜー!』

『あらー。右京ちゃん…帰ってきたの?』

遠くからお祖母ちゃんの声。

由子も慣れているのか出迎えもしないが、右京もお構いなく上がり込むのはいつものこと。

『さぁ。お前、手洗ったか?』

『うん!』

『よっしゃ。じゃぁ。ご褒美だ。お前の好きなババロア買ってきたぞ。』

白いケーキ箱を掲げて、真一と同じ栗毛のおじさんは、

いつものように真一の小さい手を握ってひっぱてくれる。

右京おじさんは、パパと違って偉く格好いいおじさんだった。

背が高くて、ハンサムで、ヴァイオリンが上手で。

でも…ウンと可愛がってくれる格好いいおじさんでも

やっぱり真一は、黒髪の優しい笑顔の『真・お父さん』が一番好きなのだ。

いつもの夏がくる。

真一・5歳。真・25歳。右京が27歳の夏だった。

 

 

 真一はいつも、パパの部屋でベッドを並べて眠っていた。

『グ……。ハァ…うう…』

そんなうめき声は初めて聞くものじゃぁなかった。

どうしたことか真一はこの声が聞こえるとほぼ目が覚めてしまう子供だった。

それもそのはず。初めて目にしたのはいつのことか解らない。

でも初めて見たその日から。

その光景は恐怖とすり替わりすぐに起きるように子供の本能にインプットされたのだ。

『お父さん!?』

真一はチャイルドベッドを一生懸命降りて少しはなしてあるパパのベッドに駆け寄る。

慣れている。

胸を一生懸命押さえているパパは手をのばすのがやっと。

ベッドの枕元の棚にある、小さな瓶を苦しそうなパパの代わりに小さな手で開ける。

『お父さん!手出して!』

苦しそうに顔をゆがめる真父さんがやっと、手を差し出す。

『ふたつ…』

パパはいつからか真一にそう頼むようになった。

幼稚園に入って数の数え方を覚えたから。

真一の初めての使命感。

パパの大きな手に瓶から薬を二錠急いで出す。

パパがキチンと飲むまで緊張は解けない。

真がやっとそれを飲み込むと…暫くして息を切らしながらも

いつもの穏やかなパパに戻っていゆく。

『お父さん…。』

こんな時はいつだって泣きたくなる。

『大丈夫。治ったよ。さぁ、おいで?』

夜中にこんな風になったときはパパはいつも真一を隣に寝かせてくれた。

大きな胸に包み込まれて栗毛を撫でてくれるパパ。

パパの荒い息づかいが静かに整ってくると

真一は真の胸の暖かさに安心してまた深い眠りにつくことが出来た。

こんな事があっても…パパは毎朝起きるし、笑っている。

だから、苦しそうなのは一時だけ。

それがいずれ、『永遠の別れ』を運んでくるなど、五歳の真一が予想することなどはなかった。

だが…いつもと違う夏。

真はこのごろ良く…この状態に陥ることが多くなっていた。

宏一お祖父ちゃんが言った言葉。『発作』

その言葉を覚えた夏でもあった。

 

 

 このパパが、梅雨が明ける頃、急に『診察室』でお仕事をすることがなくなった。

宏一お祖父ちゃんが元通り…患者さんを診察するように。

パパは何をしているかと言えば、縁側で本を読むか。

お部屋でジッとして…時にはぐったりと寝込むようになった。

その度に心配そうに御園の右京おじさんがお見舞いに来る。

真が相手をしてくれないときは、右京がめいっぱい可愛がってくれるが

やっぱり真一はパパじゃないと安心しない。

子供心にも…さすがにコレには不安を覚えた。

そんな初夏のある夜…。

お祖父ちゃんと一緒に入ったお風呂上がりに二階のパパとの部屋に戻ると。

寝込んでいたパパが起きあがって窓辺にある机を整理していた。

彼の手元にいろいろな物が散らばっている。

『お父さん…何しているの?』

『ああ。うん…いろいろね…。』

ちょっと彼らしくない…思い詰めたような顔。

でもすぐに笑って真一の濡れた栗毛をいつものように撫でてくれる。

その中に…綺麗なカードの束を発見…。

『これ…なに!?きれい!』

パパがゴムで束ねているカードの束を真一が手に取ると

真はにっこり微笑んで真一を抱き上げてくれた。

『きれいだろ?覚えていないのか?』

真一がこくりと頷くとパパは呆れたように笑って、机の写真立てを手にした。

そして…パパのベッドの縁に抱き上げられたまま連れて行かれる。

抱っこをされたまま。パパの腕の中。頭の上から優しい声が降りてきた。

パパの手に…真一が良く目にする写真立てと綺麗なカードの束。

パパは写真立ての中に写るある人を指さす。

『コレは…誰だったけ?』

白い制服を着た…短い髪の勇ましい笑顔の女性。

『ママ』

真一がそう答えると、パパはにっこり…頭を撫でてくれる。

『じゃぁ。コレは誰だ?』

ママの腕に捕まって、可愛く微笑む長い髪の女の子。

ピンクのレエスが付いた白いワンピース。

ママと違ってかなり女の子らしいお姉さん。

でも…ママと同じ『栗毛』 茶色い瞳。顔はママにそっくりだった。

でも。雰囲気が全然違う。ママは強そうだったが彼女はまるきり女の子だ。

『ママの…いもと…。』

教えられたとおりに…ただ答えてみる。またパパがにっこり…

『そうだよ。い・も・う・と。』と微笑む。

真一は『いもと』にあった記憶がない。

大人達は『いもと』が真一が小さい頃どこかから遊びに来てとっても可愛がってくれる…と

そうゆう話は聞かされていたが、ハッキリ言ってもの心付く前で覚えていない。

『そう。『皐月ママの妹』お姉ちゃんは…今。アメリカ。』

パパがそっと話し出す。

『あめりか?御園のお祖父ちゃんがいるところ?』

栗毛のお祖父ちゃんと、眼鏡をかけた博士のお祖母ちゃんは良く知っている。

時々、日本に飛行機でやってきて真一に会いに来ては

いろいろなものを買ってくれるし、何処だって連れていってくれる。

アメリカのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんがやってくるのは真一も楽しみにしていた。

でも…ママの『いもと』は良く知らない。

『お姉ちゃんは今、ママみたいに軍人さんになるお勉強中。

飛行機に乗るお勉強をしているんだ。覚えていないのか?』

真一はパパの説明にまた、こくりと頷く。

『お姉ちゃんは…すごく優秀で…ママみたいに人より先に訓練生になって…』

と…難しいこと言われても真一には解らないが

ママはかなり偉い先生だった…というのは聞いている。

『ぶじゅつ』が御園のお祖父ちゃんみたいに良くできると。

栗毛のお祖父ちゃんはヒゲを生やしていて、鎌倉に来ると

必ず、真っ白い道着を着て真一に演舞を披露してくれる。

格好いいお祖父ちゃんだった。

お祖父ちゃんはママと雰囲気は似ていたがとても優しい笑顔のお祖父ちゃん。

近所にいる右京おじさんのパパもアメリカのお祖父ちゃんに似ている…

外人さんみたいな顔つきで鎌倉の御園おじいちゃんとアメリカのおじいちゃんが並ぶと

そこの雰囲気がぱっと独特の雰囲気で華やぐほど…。

大人達は彼ら兄弟を『ハーフ』と言っていた。

アメリカのお祖父ちゃんは道着でハキハキ。

鎌倉の御園おじいちゃんは着物を着てしっとり…茶道。

写真の中のママ姉妹もそれによく似ている印象が真一にはあった。

だから…ママみたいに軍人さんのお勉強…は、なんだか似合わないような気がした。

それに…みんなが良く話をする『いもと』の事。

真一はあまり印象にない。

そうして、漠然とパパの訳の分からない訓練とか言う話をあくびをしながら聞いていると

パパは写真立てを、ベッドに置いて持っていたカードの束を

トランプみたいに大きな手のひらの中広げ始める。

見たことがない独特の色使いの…美しいカード。

中には『サンタクロース』のカードも何枚かある。

金色でグニャグニャした文字が横に走っている。

『お姉ちゃんが、クリスマスとかお前の九月の誕生日に送ってくれたカードだよ。』

『ママのいもとが?僕に?』

『そう。シンちゃんおめでとう。また一つ大きくなったね。って…書いてある。

パパの言うこと聞いていますか?お利口さんにしていてね。また・会いに行きます。

私のこと…覚えていてくれるかな?小さいから忘れちゃうかな?だって…。』

パパが一枚のカードを開いて中に書いてある文字を横に指を流して読んでくれる。

真一がいま一生懸命覚えている『ひらがな』でもないし…

パパやお祖父ちゃんが良く書いている難しい『漢字』でもなかった。

カードの金色の文字みたいにグニャグニャした文字。

『お父さん…読めるの?』

『ああ。コレ?英語って言うんだよ。真一も大きくなったら学校で習うよ。』

『いもと…ちゃん。今度いつ来るの?』

綺麗なカードをマメに送ってくれるお姉ちゃん。

初めて強く印象に残った日。

ママにそっくりなお姉ちゃん。

真一は無性に会いたくなった。

こんな可愛いお姉ちゃんが側にいたら…

お父さん達と仲良く…右京おじさんと一緒に…ママがいなくても寂しいことないかも?

幼稚園にはお友達の綺麗なママが迎えに来てくれる。

真一には若いパパが時々来るか…若くはないお祖母ちゃんが来るだけ。

その若い可愛いお姉ちゃんが鎌倉に来たら幼稚園に迎えに来てくれるかも…と。

『真一がおりこうさんにしていたらお姉ちゃんはそのうち日本に来るよ。』

その一言に真一は飛び上がる。

『ほんとう!?』

『ああ。お姉ちゃんは右京おじさんがいる横須賀の基地で

お勤めをしたいんだって言っていたから…。

お前がもう少し大きくなったら来てくれるよ…。』

パパがちょっと元気のない声で…でもカードを愛しそうに撫でながら

優しく真一の耳元で囁く。

『ほんとう!?飛行機できてくれるのかな?

お姉ちゃん飛行機に乗るの??』

『……ああ。』

パパの膝で元気良くはしゃいだときだった。

笑顔を浮かべているパパの手から…バラバラとカードが床に落ちる。

パパは真一を膝に乗せたままドタッと後ろに倒れてしまった。

『お父さん!?』

真一が振り返るとパパはいつも以上に苦しそうにうずくまり…

着ているパジャマの胸元を握りしめていた。

いつ通り…ベッドの棚にある瓶を慌てて取り出す。

『お父さん!いくつ?』

瓶を開けてうずくまるパパの頭に寄って尋ねた。

でも…初めて返事が返ってこない。

『お父さん!!いくつ??』

この前のようにとりあえず『ふたつ』小さな手のひらに出して差し出してみるが

パパは苦しそうにうずくまたまま反応しない。

真一はこれも初めてのことで泣き出してしまった。

『やだー!!お父さん。しっかりしてーー!!』

最近抱えていた不安が大爆発。パパの身体を揺すって大声で泣いていると…

『どうした!?』

背の高い宏一お祖父ちゃんが血相を変えて二階の部屋に入ってきた。

『真!』

お祖父ちゃんもベッドに駆け寄る。

『しっかりしろ!』

お祖父ちゃんはパパを叱りつけるように仰向けにして

お医者らしい手つきで応急処置を始める。

『真一。こっちいらっしゃい。』

静かなお祖母ちゃんの声に安心して真一はお祖母ちゃんの胸に飛び込んだ。

怖くて、怖くて…。ただ。お祖母ちゃんの胸の中で泣くだけ。

後は覚えていない。