3.夕闇の記憶

 

 『ふぁぁ…』

いけない・いけない…と思いつつ、何とか間に合った朝一の授業でも

真一はあくびをそっと噛みしめていた。

(だって…隼人兄ちゃんが映画見ようって言うんだモン)

葉月は細い身体で頑張るパイロットだけあって、夜寝るのは早いのだ。

それで、隼人の方が宵っ張り。

夜遊びは葉月とはほとんどしたことないが、今は隼人が相手をしてくれる。

女性と男性の体力の違いなのか、

はたまた重力を受けるパイロットとそうでないメンテ員との差なのか?

隼人は多少遅く起きていても、次の日の訓練に差し支えることはないようなのだ。

それで、隼人は葉月の部屋に入って眠り、朝は葉月より早く起きているのだ。

朝ご飯はほとんど隼人が作っていて、晩ご飯は早く帰ってきたどちらかがしている。

隼人は試験が終わったから、自宅では悠々とした生活を送り始めたが

今度は、葉月より遅く残業することが多くなった。

それも、『空軍管理』のすべてが葉月とジョイの手から

隼人に任されたからと言うことは、真一にも良く解っている。

それでも、さすが…葉月が引き抜いた男というのか…。

サラッとリーダーの座に納まって、まるで以前からいたかのように

すっかり、第四中隊に馴染んで、少佐の威厳を備えてしまったのだ。

仕事も葉月が信頼するだけあって、全くの余裕ぶり。

たまに丘のマンションの書斎部屋で軍事オンラインのデーターを眺めて

パッパと仕事をすませて、手が空いていれば葉月に言われなくても進んで家事をこなしてしまう。

ふたりが一緒に住み始めたからと言ってふたりが変わることはなかった。

『なんで。一緒の部屋じゃないの?』

葉月には聞けない事。女性に伺うのは失礼?と言う感覚が備わってきて

どちらかというと、同性の隼人に聞く方が気が楽なことも増えてきた。

隼人に聞けば上手に答えてくれる。

『え?うん。お嬢さん寝るの早いし。俺は自分でやりたいことあるし。』

それだけ…と、隼人は言う。

全く違う部屋でふたりは一緒に住んでいながら、

以前と変わらない個々の一日のサイクルで暮らしていた。

ふたりが甘い生活をしているかと思えばそうでもないようで

葉月のライフスタイルは真一が今まで見てきた時と何ら変わらない。

隼人も『フランスではこうだった』とか言って。

家事が終わればテラスでノートパソコンに向かってビールを傾けて…。

一人の夜長を楽しんでいるようだった。

勿論…。真一がいない夜は『甘い夜』を過ごしているのも解っている。

ふたりが妙な触れ合いは見せないものの…

息があった目の合わせ方も、会話も、言い合いも、微笑み合うのも。

すべてが上手くかみ合っているのを真一は肌で感じていた。

隼人が来た5ヶ月前の秋の頃から

かなりふたりは『進展』していて、まるきりパートナーの生活ぶり。

(今度は子供か?)

と…真一は何処かで期待したが、葉月がピルを服用しているのは知っている。

なんで…辞めないかについても真一は知っているので…

また…重い物思いが襲ってくるので考えるのをいつもここでやめる。

だから。ふたりの子供への期待は今は薄い。

(でも…葉月ちゃん…煙草はやめたなぁ…意外だったなぁ)

時たま。隼人がいないときに吸っているし、隼人も見ずとも知っているようだが

口うるさい干渉は一切葉月には挟まなかった。

そんな落ち着いたふたりに挟まれ、可愛がられて真一も

一頃よりかは落ち着いた楽しい生活を送るようになっていた。

(隼人兄ちゃんが小笠原に来なかったら…葉月ちゃんと二人きり…

おれ…どうしていたかな?葉月ちゃんに当たり散らしていたかな??)

だからといって…葉月に当たり散らせないのも解っている。

『たった一人の生き証人。左肩に傷を負って』

それを真一は知っているから…。

葉月の傷は小さい頃から、本人と大人達が教えてくれたとおり…

『昔ね?湘南の海で遊んだとき…崖から落ちて怪我したの』

その言葉をまるきり信じていたのだ。

だが、初めて一緒にお風呂に入ったあの初夏のこと…。

真一には衝撃はなかった。

葉月の左肩の傷は、初めて見た時から葉月の肌の一部にしか見えなかった。

それ以上に…白くて透き通るような美しい肌が何もかも消して行くほど…。

『ママ』と重ねた肌だから。

そんな葉月に当たることもできなかったが気持ちのぶつけ場もなかった。

そんなときに隼人がやってきて気が紛れた上に

真一の乾ききっていた父性への焦がれを癒してくれたのだ。

だから…かろうじて今までと同じ日々を過ごせた。

(まったく…あの黒い人…が来ないからいけないんだ!)

真一は日差しが入り込む窓際の席で白いノートにシャープペンの先っぽを

コツコツ…ブツブツ…叩き付けた。

真一に『青天の霹靂』を運んできて、それでいて安定を保ってくれていたあの男。

(あーあ。肝心な時に現れないなんて…無責任なやっちゃなぁ)

短くなった紺詰め襟制服の袖…。

頬杖を付くと白いカッターシャツの袖がたくさんでてくる…。

四階の教室からはキラキラと輝く真っ青な小笠原の海が見渡せる…。

先生の授業は、まだお医者の域に来ていない。

解りきっている数学の授業は退屈。

(昨日隼人兄ちゃんに教わったからなぁ)

真一は、ノートを取る振りをして横目で美しい海を眺める。

この海の向こうにあの男がいる。

この空の向こうには…もういない真がいる。

そんなことにため息をついていた。

(どうせ…俺なんて…どうだって良いんだよ。あの人は。

今の俺には…隼人兄ちゃんがいるモン…)

でも…否めない事実が生む空虚は隼人には悪いが埋められない。

その空虚だけは…。

 

 

 真が死んだ。

アメリカで楽しい夏休みを送っていたある日突然だ。

葉月や御園の祖父母に囲まれていた日々は楽しかったが。

一緒にアメリカに遊びに来たはずのパパは病院に入ったきり。

一日だけ、御園のフロリダファミリー三人と一緒に

パパに付き添って一日中病院にいた日を覚えている。

その時は…鎌倉の祖父母も右京も遅れて日本から来ていた。

『成功だよ。後は真の頑張り次第だな。体力がだいぶ落ちている…。

もう少し遅かったら…もうこの手術もダメだっただろう…。』

緑っぽいお医者の服を着た白髪のお爺さん先生がそう言った。

皆が泣いたり笑ったりしていたのを真一は覚えている。

でも…その後どれぐらい日が経ったか忘れたがパパはあっけなく死んでしまった。

『死別』を理解するには時間がかかったし…理解する頃には受け入れてしまっていた。

葉月曰く…

『シャロル先生でも…ダメだったんだもの…。

あの時は成功したと思ったのに突然の死で信じられなかった…。』

今でも…大好きだった『おにいちゃま』のことを思い出してはため息がでるらしい。

シャロル先生は今は真一が通うこの小笠原の医療センターで

大御所の教授として君臨している名医だった。

おまけに葉月の主治医だったりする…。もちろん…真一の主治医でもある。

真一が医者を目指したのは…

父・真への憧れもあるが…パパを奪った病気をやっつけるため…。

後は…

『ふたつ…』

真のあの声がずっとこびりついている…。

助けたかったパパへの『初めての使命感』

それが一番のきっかけかも知れない…。

 

 

 真の死から数年が経って、父親がいない生活も慣れてきた頃…。

真一は十歳になっていた。

真が亡くなった後は右京が今まで以上に可愛がってくれるし、構ってもくれた。

勿論…。大好きだった父は恋しかった。

でも…右京を始めとする鎌倉の大人達がいたので気は紛れたが…。

(葉月ちゃん…今度いつ来るのかな?)

葉月は20歳になり…フロリダの訓練校を卒業して、横須賀ではなく…

新しくできたという遠い島の基地に『大尉』となって日本に帰って二年が経っていた。

彼女は鎌倉が近い『横須賀』に行くか…最新基地の『エリート基地』に行くかで悩んだとか。

でも…

『御園の人間なら、島へ行け!』という右京の押し言葉に

葉月は『小笠原』に勤務する切符を手に入れて東京湾の向こうに行ってしまったのだ。

それでも、基地と基地とを繋ぐ航空便があるので休みがあれば鎌倉に良く帰ってくる。

フロリダにいた頃とは違って葉月とは良く会えるようになった。

でも…。

男手はいっぱいある鎌倉の親族だったが…

真一にとって女親と言えば。祖母の由子か、

御園鎌倉家を守る京介お祖父ちゃんの妻…『瑠美おばちゃん』だけだ。

若い男は右京がいたから、友達には恥ずかしくない父親分はいたが

友達のお母さんのように若い母親分はいなかった。

葉月は運動会などは良く来てくれたが、参観日には来なかった。

『どうして葉月ちゃんは横須賀の基地じゃないの?

死んだお父さんは葉月ちゃんが勤めたいのは横須賀って言っていたのに!』

右京は『アイツはな?その内お前と暮らすために今頑張っているんだよ』と言い含める。

『一緒に暮らせるの?』

『ああ。お前、真のような医者になるんだろ?だったら小笠原に良い学校があるからな!』

『ほんとうに!?』

右京からこの話を聞いて、父親のような医者になる志は加速した。

それでも…葉月が側にいると思うと、遠くにいたときとは違って諦められないものがあった。

寂しい夜は葉月に電話をする。

『葉月ちゃん。今度いつ来るの?』

『うーん。今…訓練が詰まっていて…新人だから…。』

『明日来て!』

『今度の日曜日ね』

『やだ!明日じゃなきゃイヤだ!』

夜…寂しい夜。

小笠原の葉月に電話をしてはそうして困らせていた。

『ごめんなさいね…葉月ちゃん…。気にしないでいつもの駄々よ。

それより…訓練気を付けてね?実戦に近い訓練をしているのでしょう?』

真一がふてくされるとすぐに由子に受話器を取り上げられてしまった。

『いい?真一。お姉ちゃんは今。大切な時期なの。危険な訓練しているんだから…ね?』

外人のお兄さんがいっぱいいる『フライトチーム』に配属されたばかりで

お姉ちゃんは追いつこうと必死な時期…そんな由子の言い含め。

(………みんなのバカ!)

言い聞かせるお祖母ちゃんの腕を振り払ってパパがいた部屋に駆け込む…。

ママは知らないうちに死んで…。

パパは何処にも行かないと言ったのに死んでしまった。

葉月も…側に来るね…と言ったのに遠い島に行ってしまった。

皆…優しい笑顔でその場だけ真一を慰めて、結局どこかに行ってしまう…。

十歳になると、五歳と違ってある程度はものが見える。

漠然とした悲しみは…空虚は…

五歳の時よりもハッキリと…見えて。冷たいほど心に流れ込んで突き刺すのだ。

そんな…ふてくされた日々。

今までの中で一番、荒れていた時期だと真一自身そう思うのだった。

そして…そんなある日…。

 

 

 5月の夕暮れ…。

昔、葉月と真と仲良く遊んだ近所の公園。

鎌倉の爽やかな風が公園の葉桜をそよそよと優しく撫でている夕暮れ…。

ひとりぼっち…。ぽつんとブランコに乗っていた。

お友達は皆…。

美味しい料理を作ってくれるママがいる…お土産を持って帰ってくれるパパがいる…おうちへ。

真一だけ…。

帰っても、若くはないお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが待っているだけ。

御園のおうちに行っても右京だっていない日が良くある。

葉月も…会える訳がない。平日の夜だ。

帰る気が全く起きなかった。

だからといって暗くなってもどうしようとも出来ない子供…。

だけど…せめて暗くなるまで…帰りたくなかった。

ブランコをキーコ…キーコとぼんやり漕いでいた。

もう…何も考えていなかった。

空に浮かぶ雲が夕暮れに染まって

その雲の影から、皐月ママと真パパが覗いてくれたら…。

そんな期待もありながらも…諦め加減の遠い目…。

ふてくされ続けて何かがぽっかり…なくなって超越した感覚が

早くも十歳の真一に流れ込んでいた。

明るい黄金色だった夕暮れが…徐々にやんわりと夕闇に変化して

あたりはかなり静か…だいぶ視界が悪くなった頃…。

『!?』

あまりにも『空虚』にしたり過ぎて気が付かなかったが…。

公園の金網に沿って並ぶ桜の木の下…。

葉桜のしたに一人の男がたたずんでいた。

歳は…右京ぐらい?30は越えていそうな男だ。

でも…右京のような爽やかな精悍さがない…。

短く刈り込んだ黒髪…。サングラス。

おまけに怖い無精ヒゲまで…。

白くて長いトレンチコートを着込んで…黒くて細長い足…。

サングラスの…無表情な視線が真一をジッと見つめているのが解った。

『…!!』

真一はなんだかその異様な彼の雰囲気に驚いてブランコを降りようとしたが…

彼の妙な視線に飲めれてしまってからだが動かなくなった。

彼が『人さらい』には、思えなかった。

高級な身なりをしていて物欲しそうな大人に見えなかったのだ。

でも…知らない人…おまけに感じたことない威圧感を持つ大人の男…。

暫く…お互いに見つめ合っていると…。

彼の方から長い足を一歩真一に向けて歩き出したのだ。

大股で歩く彼は真一が思っているより速い足取りで近づいてくる。

やっと真一は身体が動いた。

『にげなくちゃ!』

やっぱりひとさらいかも知れない!と思った。

慌ててブランコを降りてしまったので足がもつれて『ベチャリ!』と地面に転ぶ。

『右京おじちゃん!葉月ちゃん!』

もう…男はそこまで来ていて真一が立とうとする視界に、細長い足が近づいていた。

真一が目をつぶると…やっぱり!!

彼に軽々と片手で胴から抱き上げられてしまった。

『はなせーー!』

怖くて声にならなかった…。でも…。

「悪かったな…脅かして…。」

ヒョイと地面に立ち上がらせてくれた。

そして…土埃が付いたティシャツと膝小僧を

黒い革手袋をした大きな手で払いのけてくれたのだ。

それで…サングラスで目元は見えないし…表情も出さない男だったが

何故だか…その土を払ってくれる手に安心をしたような気になった…。

『おじちゃん…。誰?葉月ちゃんの知り合い?』

膝をついて真一と同じ目線にいる彼を見つめる。

彼も真一の質問に表情一つ変えずにジッと見つめてくる。

少し長い間がふたりの間に漂った。

夕闇に包まれたあの日…。夕闇の記憶…。