朝は慌ただしい。
共働き夫妻の朝は、まず子供二人をアメリカキャンプにあるナショナルスクール内の保育園に預けるための支度に追われる。
「ママ、杏奈を頼む」
洗面台で歯磨きを終えた娘を、側で髪飾りを揃え髪結いを待っていた葉月に渡す。
そして次は、それなりに自分で磨けるようになった息子の仕上げ磨き。
「よっし、海人の番……」
そこで『まだ、ボク、まだ』とパパの側で待ちかまえていた息子が忽然と消えていた。
「あれ、海人は」
「え、貴方の横に……」
ママが妹のリボンや髪留めを探している間にさっと洗面所を出て行ってしまったようだ。
「まったく、時間がないっていうのに!」
親子四人で身支度をしていた洗面所から廊下に出て、奥のキッチンとリビングへと向かう。
「海……」
海人と呼ぼうとして、隼人は言葉を飲み込んだ。キッチンの入り口の壁に静かに身を潜める。
そこには小さな踏み台を用意して、シンクの流し場にてコップ片手に自分で口をゆすいでいる息子の姿があった。
まだおぼつかない磨き方だから、本当はまだ親の目でチェックしておきたい。だけれど、もう……。五歳になった息子は自分でやって済まそうとしている。
「よっし、つぎはきがえ、きがえ」
踏み台をちょんと降りるとリビングにまっしぐら。ママがまとめて用意しいてたシャツにズボンを並べ、自分で着替えようとしていた。
だから、隼人ももう声はかけない。
「パパ、海人いたの?」
可愛いポニーテールになった娘と葉月が出てきたが、隼人は『しっ』と指を口元に立てた。どうしたのかと葉月も夫の側にくると静かにリビングを覗く。
「まあ、いつもは騒いでボクもボクもて言っていたのに」
葉月も驚いたようだった。
「その前に、キッチンだったけど自分で口をゆすいでいたんだ」
「本当に? そう……そうなの、海人が」
葉月ママもそれを知ると嬉しそうな顔。
パジャマを脱ぎ、座って靴下を履いている息子を見て、パパとママは顔を見合わせ微笑み合う。
「海人なりに、私達を手伝ってくれているのかもしれないわね」
「こうやって、いつの間にか大きくなっていくんだな」
ずっと見ていたい気持ちになったが、葉月の側にいた杏奈が『アンもやる』とお兄ちゃんの元へ飛んでいってしまった。
「困ったことがあったら言ってね。その時はママがちょっとだけお手伝いしてあげるから」
頑張っているところに、ママが優しい微笑みで側に行くと、それだけで子供達はきらきらの笑顔。
「こっちをずっと見ていたいなあー」
ママになった恋した彼女に、栗毛の息子と黒髪の娘が『ママ、ママ』と取り巻いて楽しそうな姿に隼人は釘付け。
やはり葉月はママだなと思う。日頃忙しくてキャンプ保育園へのお迎えもパパや達也おじさんに泉美ママ、そして海野の八重子お祖母ちゃんがほとんど。いちばん帰りが遅いのもママ。だから葉月が『こういう家族形態だから大佐嬢でいられるけど、実際に母親を優先させたら中隊長大佐は出来ない』と言いながら『ぜんぜんママになれない』とぼやいていることも多い。
でも、それは夫の隼人も、そして隣の海野夫妻も望んできたことだから。だから二家族で子育てをしていこうと暮らすようになった。
逆に泉美が入院したら、葉月が晃と海人と杏奈と子供三人のママをちゃんとやってくれている。
そう皆で言うのだが、それでも葉月は『ママとしてはまったくダメ』と落ち込んでいることが多い。
だけれど、こうしてみるとやはりママだ。
そして子供達も……。本当はママに一番見て欲しいんだなと、感じる。
隼人もあの冷たい恋人だった彼女の、こんな柔らかい母親としての姿を見られるようになったのは至極なのだが。
「おーっす。そっちは支度できたかー」
子供も親もバタバタ支度をしているうちに、キッチンの勝手口から制服姿の達也と晃が現れた。
「ふたりとも、はやくしろよー」
長男格の晃がいつも子供達のリーダー。一番上のお兄ちゃんの登場に、海人も杏奈もカバンを背負って出来上がり。
「よっし。今日は達也父ちゃんが送り迎え当番だからな。車に集合ー!」
『おーっす』と、男の子組は達也の後をすぐについていったのだが。
「どうしたの、アン……」
黒髪のポニーテール、小さい杏奈がママ葉月の目の前でたちつくしていた。しかもいまにも泣きそうな顔。隼人も気になって葉月の隣りに。
「杏奈、どうした」
彼女の目線に跪いて頭を撫でてみた。ぶすっとした顔が、パパに似た顔なのに表情はママにそっくりだなんて……。そんな娘の不機嫌な顔。さっきまでお兄ちゃんとキャイキャイ騒ぎながら支度をしていたのに。
そんな杏奈の目は目線を合わせているパパではなくて、制服姿のママを見上げていた。
「アンちゃん、おいで」
ママも跪いて手を差し伸べると、娘はその腕に吸い寄せられるように行ってしまった。
ママの胸にぎゅっと抱きついて離れなくなってしまった。いつもは聞き分けの良い娘なのだが、どうしたのかと隼人も困惑。
だが、葉月はちょっと申し訳ない顔をして娘の小さな頭を撫でた。訳がわかっているようだった。
「ごめんね、杏奈。アンちゃんと約束したお迎えの日は明日なの。今日じゃないの……。ママがちゃんとお話しできていなかったのね、ごめんね」
隼人も思い出した。昨日、寝かしつける時に葉月が『明後日は、ママがお迎えに行くからね』と。その時、娘がとても満足そうに微笑んで寝付いたのを――。
どうやら娘にとっては『明日も明後日も一緒』、前の晩にママが約束したから『今日がお迎え』と思ったようだった。なのに、お隣の達也パパが『今日は達也父ちゃんが当番』と言いだしたから、機嫌が急降下――ということらしい。
「だって。ママずっとおむかえきてないもん」
その通りで。それぞれの仕事と泉美の体調を見ながら三人で調整している中で、明日のお迎えは久しぶりに葉月が当番。それは朝の送りよりもなかなか調整ができない大佐ママの珍しい当番日なのだ。
ついに杏奈がぐずぐずと泣いてしまい、益々葉月から離れなくなってしまった。
達也もわかっているだろうが、腕時計を無言で指さし『時間がない』とアイコンタクトを送ってくる。
そんな様子を見て、隼人パパはママの腕にしがみついて泣いている娘の頭を撫でる。ポニーテールの、飾りゴムのところを触って。
「杏奈。あさって――というのは、明日の次の日のことを言うんだ。だから明日はママがいくよ」
きちんと説明すれば多少駄々をこねても、理解して聞き分けてくれる。だが、今日の娘はよほど楽しみにしていたのか、直ぐには立ち直れないようだった。
可愛いからこそ、困り果てる。葉月も『説明が足りなかった』と娘をがっかりさせてしまい落ち込んだ顔。
だが隼人は葉月が結ったポニーテールを見て、またそこを撫でた。
「これ、ママが新しくつくってくれたんだな。可愛いな、杏奈」
白いラメ入りのキラキラした髪ゴムに、小さなハートのビーズがつけられていた。『ママでもつくれそうなの、つくってあげる』。手芸などやったこともないママが言いだしたことに隼人は驚き、でも娘の杏奈は大喜び。横須賀に出た際に、女二人でいろいろと材料を買ってきてデザインを楽しんでいたのだ。しかもあの葉月が、娘が寝付いても時間を忘れるように熱中し楽しそうだった。
そのうちのひとつがこれ。ママと杏奈の新作だった。
「アンがみつけたハートなの。ママと一緒にえらんだの」
「うん、可愛いな。良かったな、ママがつくってくれて。ママは忙しい大佐さんだけど、杏奈のことちゃんと忘れていないよ」
やっと娘が笑ってくれた。すると、杏奈の側に二人の男の子がやってくる。
「アン、行こうぜ」
「いこう、杏奈」
「あっちゃん、お兄ちゃん」
二人のお兄ちゃんのお迎えに、杏奈もやっと行く気になったようだ。
『いってらっしゃい』。葉月と一緒に、娘の頬にキスをする。お兄ちゃん二人に手を引かれ、やっと達也と一緒に出かけていった。
パパとママはふうっと一息。
「ダメね、大人の感覚で話しちゃ」
「本当だ。でも子供との約束は安易に出来ないな。約束したら絶対って事だ」
パパとママも失敗しながら、次ぎに活かそうと、二人で頷き合った。
さあ、こちらも急いで出勤だ。
妻はいつもの赤い愛車で。パパはファミリカーのワゴン車で出勤。帰る時間が違うから、どちらも車で出かけなくてはならない。
それぞれの車に乗る時、隼人は妻に声をかけた。
「いよいよだな」
二日後に、細川の長男、細川正義業務隊長が転属してくる。紹介がてらの会議で、即座に彼の今後の業務計画を提示するとのことだった。
「そうね。貴方は大丈夫なの。ホワイト開発に、空部隊の。正義兄様の追究は厳しいらしいわよ」
「まあな。お前こそ、トーマス大佐との計画をきちんと提示しろよ」
「わかっているわ」
子供がいなくなると、途端に大佐嬢と工学科中佐の関係になってしまう。
妻は話術があまり上手くない。そこを心配している。そして隼人も、彼が来ることでいままで密かに積み上げてきたものをひっくり返されないかと不安に思っていた。
まだ完全に足場が固まっていない。そこを隼人は特に心許なく思っている。
そして妻にひた隠しにして、密かに動いていることがあった。
赤い車が先に出発したのを確認し、隼人も運転席に乗り込む。ハンドルを握り、ひとり呟いた。
「初の女将軍の誕生。空部隊設立に合わせて絶対にやってやる」
これは達也と共に進めている秘密の計画だった。葉月も知らない。
だが、それもまだ……上手くまとまっていない。
Update/2010.11.14