人影ない陸部訓練棟の武道鍛錬場。そこの廊下にある飲料自動販売機の側にある椅子に夫妻で並んで座っている。
妻がおもむろに取り出し、広げた紙を隼人は眺める。
基地中の棟を網羅した地図。第一中隊と二中隊がある一号棟から、三中隊棟、カフェテリアと将軍室がある高官棟、四中隊棟、五中隊棟、六中隊教育部隊棟。そして今いる陸部訓練棟。他にも体育館などの棟舎群衆とは独立している建物の図もあった。
そしてその棟舎図のあちこちに赤く記されている部分と青く記されている部分、そして何かを移動させたと意味しているだろう赤い矢印もあった。
「まさか。これ……。基地中の自販機がある位置か」
どうやら正解のようで、いま妻と一緒にいる武道鍛錬場の位置を確認すると、以前あった場所に青い正方形の印から、いま自分達が座っている位置に矢印が引かれそこに赤い印が書き込まれていた。しかもなにかの数字も記してある。
「この数字は?」
「売り上げ推移ポイント。私の勝手な感覚で作ったルールなんだけれど、換算しやすいようにポイントをつけることにしたの。移動して売り上げがあがったかどうか。業者さんから許可をもらって一緒にデーター化しているところ」
「なんで、何でお前がそんな業者さんの仕事をデーターにしているんだよ!」
興味があって遊びでしているにしては懲りすぎだった。だが葉月はまだまだ余裕の微笑みで次なる紙をポケットから取り出した。
「業者さんと取引したの。私の考えた場所に自販機を移動して売り上げがあがったら良し、もし売り上げが落ちたら『好きな場所に10台納入してもいい』と」
この奥さん、大佐室を飛び出して、いったいなにしているの? それって営業だか販売をゲームとして楽しんでいるのか? もう流石の旦那さんも唖然とさせられるしかなく……。妻が楽しそうに夫に見せている地図と売り上げ表を取り上げた。
「お前、いい加減にしろよ。それに勝手に『10台納入』なんて約束していいのかっ」
だが奥さんも負けない。彼女もにっこり微笑みながら、旦那さんに奪われた紙をばさっと取り返し言い放った。
「勝手じゃないわよ。ロイ兄様にはこれを見せて『面白いからやってみろ。結果が出たら俺もみたい』と言ってくれたもの」
「え! 中将がそんなことを」
いや、それよりも! 夫の俺に教えてくれず、義兄妹の間柄であるロイ兄さんに先に相談して見せていたことに隼人は愕然とさせられた。
「なんで……俺には教えてくれなかったんだ」
「いま教えたじゃない。それに本格的に取り組んでいる仕事じゃないし。こうしてふらっと出てきた時に積み重ねてきた『実験』みたいな気持ちで。それにデーターがまとまってきたのも結果が出てきたのも最近なんだもの」
「いつからやっていたんだ」
「去年の秋から。ロイ兄様に『こんな実験をしているから許可と協力をして欲しい』とお願いしたのは、年明けぐらいかな」
隼人はもう一度、妻が作り込んだ地図と売上表を眺めたくなり『見せてくれ』と再び手に取った。
「単なる遊びじゃないだろ。何が狙いなんだ」
「小笠原基地の、吹きだまり」
「吹きだまり?」
地図の上、移動させた自動販売機を次々となぞるようにして葉月の指が動く。隼人もそれを目で追った。
「散歩をしているとね、それぞれの部署で人が集まるところがあることに気が付いたの。自販機の前とか休憩ブースとは別のところにね」
「もしかして。その目に付いた『吹きだまり』に自販機を移動させたのか」
「そう。そうしたらもっと人が集まるのではないかと思ってね。集まって話すということは、そこで一息入れるということ。自販機をその場所に移動させれば、買う買わないはともかくとして、それを証明させるひとつの方法になるのではないかと思って」
先程まで訳がわからなくて呆れた隼人だったが、今度はかなり感嘆、言葉を失う。
そして葉月が何故、このようなことをしたのかも徐々に見えてきた。
「各部署の情報交換場所ってことだな」
「そう。休憩室は公式交流所、吹きだまりは非公式交流所。自販機の横に椅子なんか置いたら、腰を据えて話したくなる時は便利よね〜」
買ったレモネードをくいっと飲みながら、葉月は今二人で座っている椅子を叩いた。『私がこの椅子を置いた』というのは、そういうことらしい。
妻の実験に唸りつつ、隼人はもう一度地図をひと眺め。
「売り上げがあがっているところと、あがっていないところがある。データーとしてはばらつきがあるな。証明するには……」
「証明は要らないのよ。ただ単に、人の動きや流れを知りたかっただけ。自販機なんて邪魔なものが出来て、非公式交流所を移しているグループもあったわね。余程、聴かれたくないんじゃないの?」
また隼人は驚かされる。そんなところを彼女はふらふら散歩している中で、しっかりチェックして観察していたようだ。
そして隼人は唸る。これは……まるで大佐嬢の訓練のようだと思ったのだ。
人の動きを観察する。どうなると人がどのような行動に移すか知る。自分が担当する場所の隅々までチェックする。それは上に立つ者として大事な情報収集ではないか。
「お前の散歩を怒る気がなくなった……」
「やだ、怒ってよ。隼人さんが怒るから、まだ誰も私のことは放っておいても旦那さんがビシッとやってくれると思っているんだから」
「そんな、女房がこれだけのことをしているのに、知らないで怒るだなんて俺は間抜けな旦那じゃないか」
がっくり項垂れ、ついに隼人は降参してしまっていた。
やはり妻は歴とした『大佐嬢』。見かけはお嬢ちゃんでも、あまりキリキリとした印象を部下には与えず、自分は『なに遊んでいるんだ』と見られながらも人に知られないよう自分なりの情報収拾をして把握する。その上、上に立つ者として下の者はどのような時にどのように動くかを知っておくことも大事だろう。
「間抜けだなんて言わないでよ。今から貴方の出番なんだから」
ん? 俺の出番だと? 隼人は顔を上げ妻を見た。
「私の適当なこの地図とか、あと売り上げ推移のポイント化をもっと確かなものに置き換えて欲しいの。誰が見ても解るように。そしてデーター化。感覚だけでやっている私には苦手なことだと知っているでしょ」
そうだった。このポイントの付け方も葉月の感覚であるだけで、誰が見ても解るというような付け方ではないと隼人は既に判断していた。
「わかった。地図もきちんと製図して売り上げ推移の図式化と、表記データーに置き換えればいいんだな」
「そう。移動前と移動後もお願いね。それからこれ……」
さらに葉月が紙を一枚取り出し、広げた。それは地図に比べると小さく、今度は図式ではなく小さな細かい字で何かが書かれている。
「これは自販機ではなくて、『各部署の吹きだまり』があった場所と、自販機を移動させてどのように居場所を変えたかのメモ。図にしないで文章で場所をメモしているの。わかるかしら」
たぶん、それが葉月が一番収拾したデーターで結論なのだろう。神妙に隼人もそれを受け取って眺めた。
確かに。細かくその場所が記されている。きちんと読めば隼人にもそれがどこか解った。
「これを自販機の地図の上に重ねると一目で移動具合と現在集合地点がわかるように透明なシートに記して欲しいの」
「わかった。それをロイ兄さんに提出するってことだな」
「そういうこと。下の自販機の地図は後で業者さんにあげるから」
もしかしてロイ兄さんが葉月に『やってみろ』と泳がせたのも、最初から『これは指揮官としての目を養う訓練』と見抜いてのことだったのだろうか。そんな気がした。
「よし。じゃあ、後は俺に任せてくれるんだな」
「うん、よろしく。だから言ったでしょう。貴方にも言うつもりだったってこと」
「そっかあ? 俺としては始める時に教えて欲しかったなあ」
貴方、こんなこと考えているの。どう思う? ねえ、こんなこと手伝ってよ――。そう、相談して欲しかった。
でも不満げに妻を見つめていると、そんな葉月がちょっと恥ずかしそうに頬を染めて俯いていた。
「だって。失敗したら嫌だったんだもの。私……貴方にだって大佐嬢として、お前よくやったて言われたいし……。こんなお散歩ついでの実験を貴方に認めさせたら、他の隊員にだって示しがつかないだろうし……黙っていて、ごめんね」
思わず、その妻の顔に釘付けに……。お前、ずるいな。ここで、俺達の家の二人だけの場所である寝室じゃないこの場所で、そんな可愛い顔するのか――と。この場所じゃなかったら今すぐ抱きしめてしまいたくなる、そんな隼人だけが見られるはずの顔だったのだ。
だがぐっと堪え、隼人は咳払いひとつ。心を落ち着けて言う。
「別に、お前が失敗する出来ない大佐嬢だって俺は応援するよ」
「うそ、ちゃんと出来るようにといつも願っているでしょう。だから私」
「だから、失敗しても良いから、ひとまず旦那の俺にも教えてくれよ」
また、そんな『ウサギの顔』で『ウサギの瞳』ですっかり『葉月ちゃん』へと力を抜けきっている弱々しい顔で隼人をじいっとみている。ううーん、なんで抱きしめられないんだーという男として旦那としての葛藤。もうこの女性の部下で中佐であることなど、すっかり忘れかけ……。だがそんな隼人を、いつのまにか柔らかく包み込む感触。見ると……葉月が隼人に抱きついてきていた。
「貴方、有り難う。駄目な私でも大丈夫って……すごく嬉しい。だから私、頑張れる」
夫なのに。何度も抱きしめて抱き合ってきたのに。何故か、隼人はそのままカチカチに硬直してしまっていた。
ここが寝室なら間違いなく抱きしめ、押し倒し、葉月が困るぐらいに自分のものにして、互いの気持ちを互いの肌と身体にぶつけ合えるのに。
それにこの奥さんが、冷たい大佐嬢が、こんな素直な……。
その上、この可愛い奥さんが最後にその気充分になっている旦那にトドメを、
「貴方も、ふらっと歩いていろいろな隊員とお話営業に出かける時に、役に立ててね」
「もしかして……。お前がこれを始めたのは、俺の、コミュニケーション営業の為?」
やっと、葉月が一人でこの実験みたいな散歩を始めた意味を知った気がした。するとやっぱり照れたウサギの顔がそこにある。
「貴方だって知っているでしょう。私がコミュニケーションが苦手だって。だから貴方が他の隊員と親しくして『御園夫妻』として皆から信頼を得られるよう頑張ってくれているの。だから冷たいと言われている私にも貴方の信頼で助けてもらっている。だったら……私が出来ることは、自分の目で見たことで貴方を助けることだもの」
……そんなことを、一人で噛みしめて、そして夫のためと動いてくれていただなんて。しかも半年も前から! 隼人は驚かされ言葉が出なくなった。
本当に、ここで抱きしめてやりたい。もう我も忘れて。自分の頬がもの凄く熱くなっていることを隼人も自覚する。それだけもう、奥さんを襲う?奪う?一歩手前。だからぎゅっと拳を握り、隼人はつい……妻の顔を見てはいけないと葉月から顔を背けた。
「隼人さん? ……私、なんか余計なこと言った? 貴方の営業のお手伝いなんて勝手にと……」
「んなわけないだろう……」
「だって。私……いつも貴方がいなくちゃ、貴方がいて、貴方のおかげで」
やめろ!
そう叫んでいた。怒りたいわけじゃないのに。いつもは皆を冷めた顔で率いている大佐嬢のそんな姿……。でもそれが妻の本当の気持ちでもあると、夫だからこそ解りすぎている。そんなもどかしさからだった。
そして葉月はとても驚いた顔で硬直し、困惑した顔のまま。しまったと隼人は舌打ちをした。
「俺達、結婚して何年目だ」
「七年、次の冬で八年ね」
「たまには確認しなくちゃいけないのかもな、俺とお前」
「確認て……?」
幾分か男としての気持ちも落ち着いて、隼人はそっと妻の顔を見つめた。葉月のちょっと情けない顔がそこにある。どうして怒鳴られてしまったのか解らなかったのだろう。つい、彼女を思っての叫びだったのだが、隼人はバツが悪くて頭をかいた。
「もう一度、俺の気持ちを言っておくな」
『うん』と頷いて、今度は隼人をじいっとそのガラス玉の目で見つめてくれる妻の顔を、隼人も逸らさずに見つめ返す。
「お前がいなくちゃ、俺は小笠原にいない。全ての始まりがあの木陰でお前と出会ったからだろう。俺をマルセイユから連れ出したの、お前なんだから」
「その後……さんざん貴方に迷惑かけどおしだったけれどね」
「また、そこを言うのか? 婚姻届に互いの名前を書いた時お前が言ったんだぞ。『これからも迷惑をかける』と、俺もそれを聞いてお前の隣りに名前を書いたんだから。それに結婚後もお前が嫌になったなら、今頃俺だって他の女のところに逃げているって。で、俺は逃げたか?」
やっと……。旦那が妻のために言っている気持ちを理解してくれたのか。あの大佐嬢が目を真っ赤にして瞳を濡らしていた。
「ううん。貴方はずっと私の傍にいてくれた」
「だろう。俺だって、お前に傍にいて欲しいんだよ」
だから、それ以上。自分が負担になっているだなんて言って欲しくない。
今度は口で言わず心で呟き、葉月を見つめた。すると、やっとにっこり。あの氷の大佐嬢が、ウサギの笑顔で隼人を見てくれていた。
そうしたら、もう。抱きしめずにはいられない。
今度は隼人から、この胸の中に迷わずに奥さんを抱きしめていた。
そして奥さんも迷わずに、隼人に抱きついてくれる。
「隼人さん、大好き」
もう随分と大人になった奥さんのはずなのに。結婚するずっと前の、まだ恋や愛に怖れていてまるで少女のようだったウサギに再会した気持ちになる。そんなどこか懐かしい愛らしい声だった。
そうしたらもう、その可愛い口だって思いっきり吸っても良いだろう?
ほら。葉月だって潤んだ目で俺を見ているし、目をつむったし、唇を色っぽく半開きにして待って……。隼人の手が葉月の頬を包み込んだその時。
『なんだか蒸し暑いっすねー』
『こんな日の道場は嫌だな』
隊員達の声がふっと聞こえ、二人はハッとして互いから離れた。
「じゃ、じゃ、じゃあ……ええっと、澤村中佐、よろしくお願いしますね」
「あ、はい。大佐嬢」
隼人が慌てる前に、あの大佐嬢の葉月が顔を真っ赤にして慌てて立ち上がり、瞬く間に去っていってしまった。しかも隊員の声がした反対方向に。
隼人は暫し呆然としつつ、椅子の上に広げられている葉月が置いていった地図を急いでたたんだ。
「あ、澤村中佐。お疲れ様です」
「あれ、こんなところでどうしたんですか?」
しかも。顔見知りの陸部隊員で、隼人はちょっとぎこちない笑みを返してしまっていた。
「あはは。ちょっと調査中」
なんの? という顔をされたが、隼人も適当に愛想を振りまいてそこを去る。
「はあ。なんだ。仕事なのか逢い引きなのか。まったく……やっぱりウサギのせいだ。あいつと一緒だと……」
俺、汗びっしょりじゃないか――と、妻と一緒にいるといつだって台風のつむじの中。
この俺の身体を熱くした矛先は。そうだなあ、やっぱり夜かなと、隼人は密かに企んでいた。
・・・◇・◇・◇・・・
春の夜、窓辺からそよぐ風は未だひんやりしているが、それが心地よい。だが隼人の身体は昼間のまま火照っている。
ウサギ奥様に昼間振り回されたら、旦那さんは夜お返しをする。
「んんっ、だめだって言っているじゃない」
先にあっさり寝てしまわれることも多々あるので、今夜は隼人から寝支度を早めに済ませ、葉月が風呂から上がってくるタイミングをベッドで待っていた。風呂上がり、まだ汗ばんでいる肌でドレッサーに向かおうとしている妻をすぐに捕まえ、ベッドの中へと引き込んだ。
「あん、まだ、終わっていない……のに」
「待てなかったんだよ」
お前の肌の手入れ、長いからもどかしいんだよ。それを待っている間に、お前が逃げてしまいそうで――。
そう言う前に、隼人の手の方が早かった。
熱い湯でほぐされしっとり柔らかになっている葉月の身体を寝かせた隼人は、一気に彼女が一枚だけまとっている白いスリップドレスをたくし上げた。
そのせいで自然と両手を降参させられるように頭上にあげた葉月の困った顔。着たばかりの白いランジェリーが、汗ばんでいる肌にひっつきながらも夫の強い力で上へ上へと引っ張られ、最後には降参させられた格好のまま乳房も小股の栗色の茂みも露わにされた姿にされ、スリップドレスを夫に脱がされてしまう。
あっという間に全裸になった妻にまたがった隼人は、即座に戸惑っているままの唇に吸い付いた。
『んっ、んく、』
夫に奪われながら、戸惑いの文句を言っているのが解る。どうしたの、ねえ、貴方、今夜は……どうしたの。
理由なんてあるもんか。ただお前がいつだって欲しい。それを今度は隼人が唇と舌先を使い、言葉にせずに妻の唇となかなか溶けてくれない舌に伝える。
すると。言いたいことを解ってくれたのか、隼人の舌先にようやっと妻の舌がやわらかに絡みついてきた。その時、漏れ聞こえてくる声は文句ではなく、力無いしっとりとした喘ぎ声に変わっていた。
唇に、乳房に、その先につんと艶めく赤い蕾。いつものバスルームから連れて帰ってくる花の香りを柔肌から漂わせ、その滑らかな肌を滑って降りていくと、優しく迎えてくれる栗色の茂み――。その奥の熱い泉。妻の身体にある『甘い路』をじっくりと舌先で通っていくと、やっと彼女もぐったりと無抵抗になる。
台風の目はどこなんだろうな。
「え、あなた……なに?」
ほのかな囁きが葉月に聞こえてしまったようだった。
台風の目、俺の身体を熱くした目。その唇か、いややっぱり乳房、だけれどその赤い胸先を吸うとウサギ台風だってもの凄く反応する。だけれど、やっぱり『ウサギの台風の目は』
「はあ……やっぱりここだよな」
妻の白い足を押し広げ、遠慮なくそこに割ってはいる夫は、一番の台風の目だろうと見定めたところに今夜の熱愛を押し込んだ。
「あん、はやと、さ……ん」
ここだよな。やっぱり。ウサギがこんなに狂おしそうによがって、とろけそうに喘いでいるんだから。そう思いながら、隼人は泉の奥の奥にあるだろう台風の目を目指すように力強くウサギの身体を押し上げた。
そうしたら、いつにない声を葉月が漏らした。
「ああん、な、なに……ねえ、あ。どうしたの?」
夫に激しく突かれながらウサギが『今夜の貴方の……、すごく熱いの』と呟いた。でも、そんなウサギの顔も。頬を桃色に染め、目を潤ませて。指を噛み官能的にとろけてしまっているのが見て取れた。
「どしゃぶりだなあ……」
「どしゃぶり?」
「ああ。熱い嵐が俺を襲っている。俺のを、ずっと奥に吸い込んでいく」
今夜は俺も熱いかもしれないけど。お前の中もすごく熱くて心地がよい。そう耳元で囁いたら、もっと頬が赤くなった。そう、まるで。昼間、すっかり妻の顔で隼人の腕の中にいたことに我に返って逃げていった時のように、真っ赤な顔。
そんな恥ずかしそうな妻の耳元を舌先で舐めて、『熱く俺にまとわりつく』と何度も意地悪く囁いては足と足の間に強く熱い塊をねじり込む。その度に葉月は『ああん、ああん』と隼人の腕の中で身体をよじり困った顔。
あの大佐嬢が真っ赤な顔で我を忘れて男に無抵抗に愛されている、女として乱れている、とろけている。
「あ、」
そしてとろけきった瞬間を見届け、身体をすっかり夫に開ききって預けている妻を見下ろしながら、隼人もそのまま台風の目の奥へと突き進みさらわれてみる。
それは本当に『この女の奥の奥に吸い込まれてなくなってしまってもいいや』――と思える程、天にも昇る極上の瞬間だった。
これで昼も夜もおあいこの二人。
どちらも汗ばんだ身体と熱い肌をぐったりと重ね、互いの顔を確かめ合う。
「もし三人目……できたら」
「別に。俺は構わないと思っているけど。できたら俺、もっと頑張るよ」
「私だって……。それに杏奈もお姉ちゃんになりたいって言っていたものね」
「ませた姉ちゃんになりそうだなあ」
そう言い合って、深く長い口づけを重ねる。
夫妻としてのひとときで、身体も心もほぐされ隼人も大満足でいつもの場所に寝ころんだ。
今からまた二人で肌を寄り添わせ、いつものように窓から聞こえる潮騒と、心地よい涼風を感じながら、とろけるようにまどろむ――。そう思い描きながら、葉月の桃色に染まった裸体が横になるのを待っていた。
だが、葉月はベッドのふちで背を向けたまま横にはならなかった。
それどころか、隼人が一気に脱がせた白いスリップドレスを手に取ると、瞬く間にそれで裸体を隠してしまう。まあ……それでもいいか。その格好でもいいから、早く来いよと引き寄せようと思ったら、そのまま葉月はベッドを降りてしまった。
何故だ。と、妻の行く先を眺めていると、葉月は白いスリップドレス姿のまま、窓辺にあるビューローの机に向かい急にメモ用紙とペンを手にした。
「奥さん、なにをはじめたんだよ」
暫し眺めていたが、隼人は溜め息をこぼしていた。あんなに激しく抱き合ったのに、余韻もなく妻が始めたこと、そして終わってすぐの横顔がまるで大佐嬢。
仕方なく、隼人は二人で寄り添って睦み合いながらまどろむ余韻を諦める。パンツをはき直し、隼人もベッドを降りた。
窓辺にある奥さんがずっと愛用してきた小さな机。その横にひとつの椅子を置いたのは夫の自分。妻の私生活がこの小さな机に凝縮されているから、それを見つめていたいからとその横に椅子を置いたのだ。その椅子に隼人は座った。
すると。葉月は手元でもの凄い速さでなにかの計算をしていた。……数字、弱いといいながら。本当は独自すぎるが彼女なりの立派な数式を組むことが出来るのを隼人は知っていた。そして隼人も、その速い計算を一目で理解出来る。
「あの売り上げ推移のポイントの付け方。こう直したらいいんじゃないかしら」
「いや、ここが駄目だ。この部署は人数が多いから一缶売れても、こちらの人数が少ない部署とは重みが違うからこっちのポイントを下げるべきだ」
「そんなの解っている。でも、この部署は人が外で長話をする程暇な部署ではないのよ」
「そういう環境の差や心情的事情を挟むのは、数字で表すこととは切り離さなくては駄目だ。人数と対比と比例にした方が良い」
隼人はハッとした。いつのまにか自分も半裸でペンを持って妻のメモ用紙の宇宙に引き込まれてしまっていた。
「お前ってさあ。たまーに男より怖いよな」
「え、計算が個性的すぎるってこと」
「じゃーなくてー。あっちのこと」
「あっちのことって?」
このじゃじゃウサめ。解っているのか解っていないのか、とぼけているのかそうではないのか。そのきょとんとした顔がたまに小憎たらしい。
「男の方がアレの後はあっさり淡泊に終わらせるって、聞いたことないか?」
「そうなの? そうかしら? そう感じたことなんてないけど」
隼人は白けた目で『あっそう』と呟きそれ以上聞くのはやめた。あっそう。お前を愛してくれた男達は俺と同じように大事にしてくれていたってことなんだな……と。
男女の営みを終えると、抱き合って余韻に浸りたい女性の気持ちとは裏腹に、出すもの出し切った男は既に熱も冷めていてさっさと女から離れていく――。隼人も男だから解るのだが、だからこそウサギさんを置き去りにしないようにと思っていたが。置き去りにされたのは男の旦那さんの方だったらしい?
「だって、貴方の真剣な顔を見ていたら急に思い浮かんじゃったんだもの。それにしても、人の動きと数字、どうまとめたらいいの?」
「あのなあ……っ」
言いかけ、隼人はそこで額を抱えて口をつぐんだ。真剣に愛し合っている俺の顔を見て、どうして数式が浮かぶんだよと今度はしかめ面になってしまう。
やっぱりじゃじゃウサは。旦那さんの思い通りに行かせてくれず今夜も逃げていく――。
Update/2010.8.2