辿り着いたのは六中隊棟より端にある陸部訓練棟。基地のオフィスビルが建ち並ぶ端の端の……。
「なんで、ここなんだよ」
妻のサボタージュに付いてきたら、こんな人気のない部署に連れてこられた。
部署名は『陸部訓練科訓練班』。ここは連隊長主席秘書官であるリッキー=ホプキンス中佐の管轄のはず。そうここは『秘密隊員』の架空部署を設置している事務室。
「リッキーに色々と頼んでおいたの。隼人さんが今、一番気にしていること。私も気になっていたしね。きっと教えてくれないと思ってダメモトだったんだけど、どうしてか今回だけリッキーもその気になってくれて」
それを聞いて、隼人は驚かされた。
「それって、横須賀の……」
「しっ!」
口元に『静かに』と指を立てた葉月。人気がないが、こう言う時の警戒には敏感になるようだった。
一斑、二斑の事務室のドアが開いていて、そこでデスクに向かっている隊員の姿が見えた。どの隊員も人の気配に敏感なのは言うまでもなく、鋭い視線を一瞬だけこちらに見せる。だがそれも一瞬。
廊下の前を通ったのが『御園大佐嬢とその夫』と知って、彼等は会釈か敬礼を見せてあとは知らぬ振りをしてくれている。
「緊張すんな〜」
葉月から『ここ』に秘密の架空部署が設置されていると聞かされていたが、実際に訪れたのは初めて。
こんな空気がピリピリしている男達が待機しているところなど、興味本位で覗きにこようだなんて思ったことなどない。その通りで、やはり迷い込んだら追い返されそうな雰囲気の場所だった。
ついに葉月が立ち止まったのだが、それが一番奥の『三班』。そこのドアをノックした。
「はい、どうぞ」
リッキーの声だった。ドアと開けると、デスクに向かっている彼が待っていた。
「あれ、旦那さんも一緒なんだ」
「そこで出会ったの。どうせ後で報告するんだから一緒でもいいでしょ」
「勿論。さあ、どうぞ」
いつものにこやかさで自分が座っているデスクの向かいに用意してある椅子へと、葉月と隼人を促してくれた。
二人揃って腰をかけると、すぐさま、リッキーが葉月の前に数枚のプリントを差し出した。
「大変なことになりそうだよ」
いつも余裕の笑みを柔らかに見せているホプキンス中佐の表情が少しばかり曇ったのを隼人は見る。
それを耳にした葉月も、何かを覚悟したかのような引き締まった表情で、リッキーが差し出したプリントを手にとって眺めた。
「……これって。リッキー、本当なの!?」
あの葉月が、いつになく取り乱した顔に豹変した。
「本当だよ。俺も覚悟はしていたんだ。いつかは……って。それが来ただけだ」
「でも、じゃあ……! リッキーはどうするの?」
その顔に声は、この基地で保っている『大佐嬢』ではなく、『レイちゃん』だった。
隼人は気になって、葉月が握っているプリントをさっと手元に引き寄せた。
なにかの調書、報告書のようにまとめられている。いくつか報告の項目があり、一番最初の項目が『フランク小笠原連隊長のフロリダ転属』と記されている。
それを目にして隼人は流石に息を止めてしまった。つまり、ロイ兄さんがフロリダに行ってしまう、この小笠原を出て行くという報告だったからだ!
「ホプキンス中佐、これ、本当なのですか!」
「ああ。本当だよ。これを断ると、ロイの今後の出世はなくなるだろうね。若くして中将になったから、その実力が伴うまでこの小笠原に留まっていたけど、それも必要なくなり、今後はフロリダ本部でその力を使えってこと。つまり栄転で喜ばしいことなんだ」
隼人だけじゃない。既に葉月も呆然としていた。
それだけじゃない。先程、葉月が真っ先に問いつめたように、ロイの側近でもあるリッキーもここから出て行くということになる。
「リッキーも行っちゃうの?」
葉月の再度の問い。だがリッキーは困った顔をしたまま黙っている。
「それが。俺はまだ決めていなくて――」
「え、ロイ兄様についていかない気持ちもあるの?」
葉月も驚いているが、隼人も『意外な返答』だと思った。
訓練生時代から、ロイの為の最高の側近になると突き詰め磨き上げられてきたリッキーだから、真っ先に『当然、主席側近としてついてく』と言うと思ったのだ。
「まあ、まだ転属まで時間があるしね。ただまだ内定なのでロイの転属はこれから騒がれると思う。それより……。次の報告を見てくれるかな」
転属の答はまだ出していない。リッキーにそのままそのことは保留にされ、先を確認するようにと促され、二人揃って次の報告を確認する。
次の報告は、転属してくる副連隊長候補の男の名がハッキリと記されていた。
その男の名が隼人の目に飛び込んだのだが、知らない男だった。でも隣の葉月はそれだけで『ひぃ』なんて息引くような声を漏らし非常に驚いている。そしてリッキーも致し方ない同情するような緩い笑みを見せている。
葉月が知っている男? 隼人はもう一度、その名を確かめる。
「あの、横須賀の大本部業務隊長、大佐……とありますが」
だが隣の葉月は、リッキーの報告書に顔をひっつけてまたなにやら穏やかにはなれない様子で息を荒げているではないか。
そんな葉月を見てリッキーが苦笑いをしながら教えてくれた。
「横須賀業務大隊本部隊長、大佐。元秘書官。管理能力に優れている手腕をかわれて、秘書室から横須賀基地の事務という事務を取り仕切る業務大隊本部隊長に抜擢。横須賀基地のことなら、隅から隅まで彼が把握し管理している。彼が横須賀基地の流れを維持している。徹底した管理は定評があり、無駄なことは容赦なく切り捨てる。ものすごいシビアな男だよ」
「現役の業務隊長が、小笠原の副連隊長になるってことですか」
「っていうか」
まだ横で葉月が妙に緊張したまま黙っているのが気になる。リッキーもそれを気にしていたが、よく分かっていない様子の隼人に丁寧に教えてくれる。
「というか。とりあえず副連隊長に据え置く予定だけれど、ロイが転属したら連隊長になってもらう予定だそうだ」
「れ、連隊長!?」
副連隊長候補が、あっという間に連隊長候補になっていることに隼人も驚かされる。そしてリッキーはまた『その報告書の先に、それも記してある』と指さした。
もどかしくなり、隼人は葉月が握りしめたまま離さないプリントを、ついに取り上げてしまった。
そこには、業務隊長の業績を評価し、小笠原の副連隊長退官後の後任、只今計画中の小笠原連隊部署編成替え整理の指揮を執ること、そして現連隊長が転属後、連隊長の後継もする――とある。
つまりこれからの小笠原基地を整理し作り上げるための使命を任された男ということらしい。
「この人選について、ロイも永倉少将も異存なし。むしろ大歓迎で『適任の男が選ばれて良かった』と胸をなで下ろしている」
リッキーも『俺も異存なし』と満足そうだった。
だけれど、隣の葉月がずうっと黙っている。そして見ると、隼人の隣で緊張したまま……。
そんな葉月を見て、リッキーは可笑しそうに笑うのだが?
「葉月、この大佐を知っているんだな? どんな人なんだ」
そう問うと、益々葉月が固まったので、隼人も戸惑った。だけど、そこでリッキーがついに大笑い。
「あはは! そりゃ、レイにとっちゃ『鬼』がくるようなもんだよな」
「え、鬼って?」
隼人はまだ判らない。葉月は家柄、隼人より他基地にいる隊員にも詳しい。顔見知りの苦手な隊員が来るってことなのだろうか?
だが、まだきょとんとしている隼人に、葉月が言った。
「隼人さん。ここを、『鬼、鬼、鬼』って言いながらなぞってみて」
新しい副連隊長候補者である、横須賀業務隊長の名前がプリントされているところを葉月の指先が何度もなぞった。
よく分からないが、隼人も言われるまま業務隊長の名前をなぞった。
「なんだよ。『細川正義』、鬼、鬼、……鬼……」
細川、正義、鬼、細川、鬼、ほそ……。
やっと判って、隼人も『ひぃ』と背筋が伸びた!
「ま、ま、まさか。横須賀にいるっていう細川元中将の息子さん!?」
葉月とリッキーが揃って『正解』と言った。
「正義はおじさんにそっくりでシビアで、おふざけや軽いノリなどあり得ない『堅物』――」
隼人も青ざめた。そんなある意味ロイと正反対の、生真面目そうな若手上官が小笠原を取り仕切っていく。つまり、これから葉月と隼人の一番の上司になるだろう男が、あの『鬼おじ様の息子』!
・・・◇・◇・◇・・・
副連隊長候補が、暫く業務隊に据え置かれるのは、横須賀の大本部を束ねる現役業務隊長が候補だから。
永倉が退役するまで、小笠原の業務隊にて徹底的な管理を整えるため。
「なるほど。うちの業務隊長中佐が怖れていた訳がやっとわかった」
秘密隊員の架空事務室を後した若夫妻は、帰り道も一緒。だが最初に硬くなって緊張していた葉月は、もう軽い足取り。逆に空部隊の編成を自分の思うままにやろうとしていた隼人は、妙な予感ばかり湧き起こって、重い足取り。
「あの細川中将の長男か〜。国内でも重要基点にされている横須賀基地の業務を一切取り仕切っているという大本部業務隊長に抜擢されているだなんて。ある意味基地内での権力を半分握っているようなもんじゃないか。まさか業務系から連隊長候補が出るとは思わなかったな」
ついつい出てしまった夫の呟きに、先をのんびりと歩いていた葉月が振り返った。
「あのお兄様が横須賀で大抜擢されたって話はだいぶ前に聞いていたんだけれど、いままでお仕事では縁がなくって。まったく違う次元で仕事しているんだなって思っていたのよね」
「だよな。なんだか俺達が知っている上官とはまったく異なるエリートコースってわけか」
「冷たい人よ。同じ基地にいた右京兄様も『あの正義は親父以上に恐ろしい男だな』とか言っていたもの」
「あの右京さんまでそんなことを」
すると葉月もちょっと嫌な顔をして言った。
「子供の時の話になるけど――。私、正義兄様に会った時ちっとも喋ってくれない秀才のお兄様って思っていたのよね」
「秀才?」
「うん。兄様達より少し年下なんだけれど、兄様達は『正義はいつも首席』て言っていたから、訓練校でも成績トップだったんじゃないの? あの頃から銀縁の眼鏡をかけて、お父様である細川のおじ様そっくりの切れ長の目が冷たくて、笑いもしなくて」
それを聞いただけで、隼人は身震いをしたくなった。
これまた雷系の激しい男が来るのかと思ったら、それ以上にひんやりキリキリした男がくるのかと。怒鳴れた方がまだどうすればいいか判断できる物を、黙ってネチネチって男じゃありませんように――とか願ってしまいたくなる。
「そうそう。私、あのお兄様があんまり喋らないからこっちから話しかけたら、いきなり『姉貴と兄貴に囲まれた甘ったれ姫』て言われたことがある。今でもそう思っているんじゃないかしら」
うわー。やっぱそっちかよ。と、隼人はがっくり項垂れた。
子供の頃のそんな思い出があって、大人になってからの異例のエリートコースと突き進んでキャリアを積み上ていく姿を見てきただろう葉月。その冷たい思い出の『細川のおじ様のとろこの、お兄様』が、副連隊長として来るのかと思ったらなんと実は『連隊長候補』だったという恐ろしいキャリアの男になって『再会』?
それが自分の上官になると来ては、いままで散々厳しく叩き上げてくれた父親の威光も相まって、気ままな大佐嬢も流石に『ひぃ!』だったのだろう。まあ、それは隼人も同じなのだが。
・・・◇・◇・◇・・・
「そんな合理主義の兄さんが来るのか……」
心が掻き乱された。隼人の中にある『夢の空部隊』。それをこちらも退官間近の佐藤大佐と構築し、人員配置や形態など作っているところ。
無駄な物はいらないときっぱりと切り捨てる男に、ハンパな計画は通用しないだろう。
……これは早々に固めておかないと。のんびりしていられない。
そう思った。その最終的な目標は。
目の前をゆったりと歩き、肩にかかる栗毛をよそ風に揺らしている妻の後ろ姿を隼人は見た。
サボタージュのせいだろう。とてもリラックスしている顔は大佐嬢と呼ばれている『氷の女』ではなかった。
そんな顔が基地で見られるのも、サボタージュだけのせいではなく……。やはり夫という心を許せる男の目の前だからなのか。そう思うと嬉しいのだが。
こんな気ままにやっているじゃじゃ馬お嬢ちゃん、もとい、『兄貴達に囲まれた甘ったれ姫』を、まさか『俺達、空男の頂点に立つ女准将にしてくれ』だなんて、とてもじゃないが言えそうにない……。隼人はため息をついた。
「ねえねえ、隼人さん。あそこの自販機に私のお気に入りのレモネードと、隼人さんが好きな缶コーヒーが揃っているの! 一緒に飲んでから帰りましょうよ!」
そう言って秘密部署を出た外の渡り廊下を走り出した気ままなウサギさん……。お前、俺がいますっげー気を揉んでいたの判って……判るはずないよな? と、隼人も諦めて付いていく。しかもその自販機がある場所が、四中隊や工学科に帰る方向とは逆。どうしてそんなところの自販機に『お気に入りがある』だなんて知っているのだろうか?
まったくもって。基地中を散歩するのが癖になっている大佐嬢が、今どこに行ったと大佐室が、達也が騒いでいるのが目に浮かぶ。
「早く、隼人さん!」
なのに嬉しそうに待ってくれている姿を見てしまうと、すぐに嬉しくなってしまう。『ダメ夫だなあ』と隼人も思ってしまうし、既に頬が緩んでしまっている。
結局、そんな奥さんに乗せられ、訓練棟の武道鍛錬場となっている廊下までついていった。
「私のおごり。ここ座って」
すっかりいつものお嬢ちゃん奥さんの顔になっているので、諦めてしまった隼人も言われるままそこに座る。
「あれ。ここの自販機にこんな椅子……備えてあったか?」
テッドや達也、それに山中のお兄さんなど。側近職や陸部隊員が護衛術を鍛えるために通っているので、隼人もたまに覗いたりする。そんな時、この自販機……。
「あれ、この自販機も。ここじゃなくて、あっちに……あったような記憶が」
そう呟いている内に、奥さんがにっこり。家庭で見せてくれている愛らしい笑顔で缶コーヒーを差し出してくれていた。
彼女も隣りに並べている椅子に座った。
「流石、澤村中佐。ちゃんとなにげなく記憶に残しているし、ちょっとした変化に気が付いてくれたのね」
何故か、葉月が隣りでにんまり笑っていた。
「実は。私が向こうにあった自販機を、ここに持ってきたの。で、この椅子も私が並べたの」
はあ? 隼人は呆気にとられた。
人気がない昼下がりの静かな陸部訓練棟の廊下で、大佐嬢がたった一人で自販機を背負って、誰にも知られずにこの場所まで運んできた――と言う、あり得ない光景が目に浮かんだ。
「お前、なにやっているんだよ! 女一人でこれが動かせるわけないだろう!? それになんでそんなこと……、面白がって遊んでいるのか?」
「なに怒っているの? 商品の補充で出入りしている飲料業者の人に頼んだに決まっているじゃない。遊び? まあ、遊びに近いわね」
だが、そんな葉月がちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべながら、胸ポケットから折りたたんでいる何かの紙を取り出した。
「ちょうど良いから、隼人さんにも教えてあげるわね」
そういって葉月が隼人の隣で広げたその紙は――この基地中の棟という棟を網羅した基地内地図だった。
そして隼人は、このウサギさんがウサギさんなりに飛び回っていたことを知ることに。
Update/2010.5.24