小笠原に転属してからかなりの年月が経った。
「御園中佐、お疲れ様です」
「この前、お子様とお買い物をしていましたね。元気いっぱい、仲良く走っているところを見ましたよ。海野中佐の息子さんと一緒にいると三人兄弟妹みたいですよね」
カフェテリアで午後の休憩を取っていたところ、すれ違った女の子達に声をかけられるのも日常。
「ああ、そうなんだ。もうじっとしていなくて……」
彼女達にいつも見つけられ、そう言われるのも日常。
海野家の晃と、息子の海人、そして娘の杏奈。三人兄弟妹みたいな子供を連れて、週末の家族での夕食パーティーをするために、買い出しに行くのが隼人の休日でもあった。
「晃君と海人君、だいぶお兄ちゃんになりましたね」
「杏奈ちゃんはお人形みたいで。将来は美人でパパも困ったりして」
「そんな困っている御園中佐を今度は見てみたわねー」
なんて女の子達にからかわられて『いやいや、そんな』と言いながらも、ポケットに忍ばせていた『洋菓子』を取り出し、さりげなく彼女達に渡した。
「科長室は女性が吉田と新人の子だけで、いつも余るんだ。よかったら」
彼女達が笑顔になる。
「わあ、よろしいのですか」
「また本島からくる業者さんからのお土産が余っていて、喜んで食べてもらった方が俺も嬉しいし」
「奥様に差し上げればよろしいのに」
「だめだめ。あいつのところは既に甘い物で埋め尽くされているから。それにあいつ、俺が大佐室にいた時は、俺や達也に見つからないように幾つかに分けて隠しているんだ。しかも隠した場所を忘れて、まるで犬みたいで。今ならテッドが見つけて『また忘れていませんか』とやっているのが目に浮かぶよ」
四中隊大佐室にいる妻のことを面白可笑しく話すと、彼女達から楽しそうな笑い声。
「旦那様の中佐からお聞きする大佐嬢って、可愛いですね」
いや、そんなつもりで話したわけではないけど――と、今度の隼人は本気で照れそうになってしまう。
「ご結婚前の大佐嬢だと、とても冷たい人だと思っていたんですけど……」
「甘い物が大好きで、それを大事に取っておいて仕事の合間のたのしみにしているだなんて」
私達も一緒ですよ――と、彼女達。
実は隼人、わざと『大佐嬢ではない奥さんらしい葉月』の話をさりげなくしている。
あんまりにも男性達に囲まれすぎた仕事をしているので、女性に敬遠されがちなのを結婚前から知っていた。
実際、やり手でいつも仕事のことばかり考えていそうなあの冷たい横顔は、男でも近寄りがたい。だから若い女性隊員の彼女達なら尚更近寄りがたいことだろう。
しかも、小笠原基地ではある程度、御園家の事情も知れ渡っていて、葉月が人とは違う苦難の生い立ちを歩んできたことを知っている者なら、葉月と余程親しくない限り、どう接して良いかわからない部分もあるのだろう。
それに業務隊にいる事務職の彼女達からすれば、葉月はまったく別の所轄にいる遠い女性に見えるようだった。
だからこそ。隼人は声をかけてくれた事務職の女の子達には良い顔をして、科長室で余ったお菓子は彼女達にいつでもお裾分け出来るよう、なるべくポケットに入れて持ち歩いていた。そうしてさりげない会話が始まった時、向こうから『奥様』と出てきたら、妻のことを『なにげなく日常的に』話すように心がけていた。
そうすることで、『御園大佐嬢』への硬い視線も軟化する。それが狙い。
実際に、ここ数年。『最近、女の子達が旦那さんからいつもお菓子を頂いています。ご馳走様とお伝え下さいって声をかけてくれるの』という葉月からの報告を聞いた時には、隼人は『ふうん。そうなんだ。科長室は吉田とアシスタントの子二人だけで菓子箱は片づかないからさー』と気のない返事をして、心の中ではガッツポーズ。女の子達が葉月に気兼ねすることなく声かけをしてくれた成果があったということだ。
それだけではない。『やっぱり女の子はみんな同じね。私も食べきれなかったお土産は、女の子達にもお裾分けするようにしたの』と、葉月自身も進歩を遂げていた。今度は逆に『この前は、奥様からお裾分けを頂きました。一箱そのまま頂いて、部署の女の子達と楽しんでいただきました』という報告が隼人に返ってきたり。
だがそうした『気さくな御園夫妻』を定着させる為だけが隼人の目的ではなかった。
喜んでくれた彼女達を見届け、隼人が『じゃあ』と去ろうとした時だった。
「あ、中佐。お待ちください」
話していたうちの一人に呼び止められた。
その瞬間、隼人は密かに気を引き締める。何故なら――。
「ちょっと、こちらへよろしいですか」
カフェテリアの賑わいから遠ざかるように、彼女に誘われる。
外廊下の人気がない階段の踊り場まで彼女達に連れて行かれた。
隼人は間違いない――と、確信をする。
「この前、『永倉副連隊長が退官された後は、この小笠原の副連隊長はどうなるのだろう』と、中佐も気になさっていたでしょう」
『うん、そうだね』と、隼人は淡泊に答えた。
しかし。心の中では『来た!』と飛び上がりたくなる気分に。
彼女達は業務隊の中にある人事部にいる事務職の女性達。先程のような軽い日常会話の中に『知りたい情報』をさりげなく話題にして、彼女達の耳に残るよう『種』を撒いておく。
「まだどの方が後継されて就任されるかは知らされていなのですが」
副連隊長を務めた、あの『永倉少将』が半年後に退官する。その後任はどうするのか、まだ誰もはっきりとは聞かされていない。
人事の彼女達に種をまいておけば、あるいは……と思っていたのだ。彼女達のことは、工学科との業務の際、彼女達が困ったりしていたら隼人は存分に手を貸してきた。彼女達だけじゃない、どこの部署の女性達にも……。そうしておけば、彼女達も彼女達なりの力を存分に使って、隼人を助けてくれることも多かったからだ。
その彼女達が、さりげなく教えてくれる『最新情報』が今……!
「どうも横須賀から転属してくるみたいなんですよ」
「横須賀から――?」
思わず、聞き返してしまった。
小笠原の誰かを昇格させるとばかり思っていたからだ。それが横須賀から、引っ張って来るという?
「なんでも、秘書官の経歴がある方だとか。お若い方になりそうだと。それがうちの業務隊長がちょっと浮かないお顔をされていたので、私達も気になっちゃって……」
先輩格の彼女の報告は終わり、他の女の子達も同調するように頷いていた。
「そうだったんだ。有り難う」
逆に彼女達が、隼人に助けを求めるような顔になっていた。
情報を伝えたが、逆に隼人の方が先に知っているのではないか――という期待もあったようだったが。彼女達の方が情報は早かったようだ。
「最近の横須賀の若手の方達って、シビアで情がないって聞いています」
「永倉少将も怒りんぼのおじ様でしたけれど、厳しいお父さんという感じで、最後には情はありましたし」
「小笠原が変わってしまわないかと心配です」
なるほど。彼女達の不安もごもっとも――。
『大丈夫だよ。俺達、小笠原古株隊員が黙っていやしないよ』と、彼女達を宥め別れた。
彼女達と別れ、今度は隼人の中に暗雲が立ち込める。
「なんだ。六個中隊のうちの、誰かが昇格すると思っていたのに」
気心知れている大佐の誰かがなってくれると助かる。そう思っていた。
だがどうやら、まったく知らない『横須賀の男』が来るという?
「元秘書官ね。調べてみるか」
急いで、工学科に戻った。
・・・◇・◇・◇・・・
だが、隼人が調べた横須賀の隊員の中で、『きっとこの人だ』と思い当たる男はいなかった。
帰宅して葉月にこの情報を伝えたが、中隊長である彼女もまだなにも情報を得ていないようで『誰かしら』と首を傾げる状態。
しかしこの数日後、この気になる情報が隼人の元に飛び込んでくる。
「おーい、兄さん」
工学科での講義を終えたところ、講義室が並ぶフロアの廊下を歩いていると、そんな声が背後から聞こえてきた。
振り返ると、そこには四中隊にいるはずの達也がいた。
「どうしたんだよ、達也。ここまで来るだなんて珍しいな」
達也とも密に情報交換をしていたが、それは自宅で。隣同士でほぼ二世帯として共に暮らしているようなもの、既に家族に同然。家に帰れば、晩酌ついでに、いつも仕事の話になる。だから、彼が勤務中にこうしてやってくるのは珍しいのだ。
だが、隼人は感じ取った。
帰宅を待てないほどのなにかを掴んできたのだと。
「達也、こっちに来てくれ」
誰も使っていない講義室に、二人揃って忍び込んだ。
「なにがあった」
「今、会議から帰ってきたところなんだけれど。第一中隊の先輩からちょっと聞いたもんで」
また新しい情報が舞い込んできたと、隼人は達也の声に耳を立てる。
「今度来る副連隊長候補の横須賀の男、来月にはもう転属してくるって噂」
「来月? どうして。永倉少将が退官するのはまだ先だぞ」
「引き継期間もあるんだろうけど、それだけじゃなくて、業務隊にいったん配属されるらしい」
―― 業務隊?
隼人の脳裏に、先日情報をくれた人事部の女の子が浮かんだ。彼女が言っていた『業務隊長が浮かない顔をしていた』という言葉を思い出したのだ。
「永倉少将の後継となったら、この副連隊長就任で准将昇格をする現役大佐か准将少将クラスだろ? うちの業務隊長は中佐だぞ。それより上の隊員が配属となったら、今の業務隊長は追い出されるってことなのか?」
だから、業務隊長は浮かぬ顔をしていた。女の子達の話と辻褄が合う。この情報は確かだろう。
しかしそこで、達也は不思議そうな顔をした。
「いや、それが。業務隊長の中佐は転属なしの据え置き。でも大佐クラスの副連隊長候補がそこに一時期配属。不思議だろう? こんな配属変だろう? きっとなにかあるって先輩達もざわついていたよ」
ある、それは絶対に、なにかある!
隼人も同感だし、胸騒ぎがした。
「またロイ兄さんが、大胆なことを考えたんじゃないかなー。俺、リッキーに探りを入れてみるから、兄さんも顔が利く大佐達から探ってみてくれよ」
「わかった……」
達也も落ち着きがなかった。
そこで隼人は思った。あんな落ち着かない達也と一緒にいる葉月ももう知っていることだろう。この転属をどう思っているのだろうかと。
この日、カフェテリアに行くと、もう『新副連隊長』のことで話題になっていた。業務隊に転属してくることも知れ渡っている。
誰もがおかしな配属と訝り、そして基地全体が落ち着きをなくしているように隼人には見えた。
ところが『本当の答』を持っていたのは、意外なところ?
午後の勤務中、いつも通りに一人で好き勝手にあちこちの部署に顔を見せ、地道な営業をしていた時だった。
静かな廊下を歩いていると、目の前の階段からふわりと舞い降りるように栗毛の女が廊下に姿を現したのだ。
ウサギだ。栗毛のウサギ!
音もなく出てきたので、見た者によってはいきなり舞ってきたようでドッキリ驚くかも知れない。そういう気配を殺した出現だったのだ。
またあいつ、グラウンドに行くのかと隼人は小さく溜め息。
だがそうしている僅かな間でも、ウサギはすいすいと隼人の目の前から遠ざかっていく。音もない気配もないくせに、歩いていくのが速い! 隼人も追いかけた。
「おい」
棟の端にあるドアを開けて、葉月が外に出て行こうとしたところで声をかけてしまった。
そうでもしないと、外に出た途端、どっちの方向に行ってしまうかわからず、見失うと思ったからだった。
「隼人さ……、じゃなくて、澤村中佐」
栗毛の女が振り返った。だが冷たかった大佐嬢の横顔が緩み、隼人が良く知っているじゃじゃ馬奥様の微笑みを見せてくれた。
「貴方、またあちこち訪問中?」
「ああ。で。お前はまたサボタージュか」
「まあね」
サボっているくせに得意げな笑みを見せられ、隼人は益々呆れた。だが隼人は、そんな妻を見て逆ににっこり微笑みかける。
「俺も一緒に行く」
「え、どうしちゃったの?」
驚く妻の横に並んで、一緒に外に出た。共に歩き始めたのだが、葉月は外に出たからと言ってグラウンドへと向かう道へとは向かわなかった。
「あれ。お前、どこに行くつもりなんだよ」
すると葉月は、とても悪戯っぽい笑みを浮かべ『秘密』と言った。
「秘密だけど、貴方には教えてあげる」
意味深な笑みに言葉。隼人は首を傾げたが、そのままウサギの後をついていった。
Update/2010.5.10