あと一歩だったのに。
シャワーを浴びた後の基地管制塔ロッカールーム。そこで英太は自分のロッカーの扉に拳を静かにぶつけ、額を付け項垂れた。
だが、それだけ。ちゃんとわかっている。命を懸けるような余裕のない勝利は真の意味での『エース』ではない。葉月さんがそう言って、英太を制し目の前の勝利をもみ消したのは英太を思ってのことなのだと。
だから彼女のことは恨んでいないし、むしろ、あそこで止めてもらい、今日ここに無事に帰ってきたことに安堵している自分がいる。あの冷たく落ち着いた声に呼ばれ、いつも感謝をしている。今日も。英太を甲板から呼び戻してくれたことに。
「残念だったな」
シャワーを浴びて出てきた濡れ髪の平井キャプテンに肩を叩かれていた。
英太の隣りは何故か『平井キャプテン』のロッカー。確か二年前の新人の時『危ない若僧』としてロッカールームでも問題が起きないよう『お目付役』として彼が隣になったと聞いたことがあった。
いまでもお目付役かよ、とは思うのだが。周りの兄貴達を見渡すと、誰もが年上で既婚者で家庭持ち、おちついたお父さんとして頑張っているそんな男達ばかり。一番若く独身なのは英太だけ。たぶん……この雷神では『キャプテンが長男』で『バレットは末っ子』ということなんだろうなと英太も立場を理解していた。
「俺、ミセスに感謝しているぜー。あのまま突っ切られてやられると俺もヒヤヒヤしたけどさ。やったね、俺にもまだチャンスがあったな」
ニヤニヤとした顔で英太を見ているのは、金髪のアメリカ人男、三号機『スコーピオン』のタックネームを持つ『スナイダー先輩』だった。目下、エース狙いのライバル同士。英太が若さと体力で一段上のステージにいるが、その英太を最後にきっちり撃ち落とす正確さを持っているのはこのスナイダー先輩だった。
「明日はスコーピオンが、2対8ステージで対戦でしたよねー」
彼も2対8までは来るのだが、そこから先に行けずじまい。だからファイナルステージに常駐している英太を一回一回なんとしても撃ち落としに躍起になってくる。
でもそれは英太も同じで、2対8まで駆け上がってきた彼を何度も撃ち落としお返しをしていた。勿論、他の先輩達も辞退した男も含め、だからこそ簡単にはいかせまいと必死になって撃ち落としてくる。
意地悪でも、パワーハラスメントでもない。このフライトの男達は、全ての力を出し切ることで『真の磨き上げられたエースパイロット』を生み出すには、甘さは皆無、容赦ない無情さが自分達の『格に繋がる』という信条でやっているのだ。
だから、撃った撃ち落とされたなどで揉めることはない。そこがこの『フライト雷神の品格』だと英太もチームに満足していた。
「エイタ、明日は俺が1対9に上がってくるからな」
「そうこなくっちゃ。2対8止まりの男を抜いてエースになるより、1対9の男がもう一人、それを押しのけてエースになった方がもっとエースの格があがりますからねー」
「相変わらず、お前も遠慮がないガキだな」
「もうガキじゃないっすよ〜」
二年前、ミセスと向き合ってはぶつかり合っていた有り様を古株になってきたスナイダー先輩も良く覚えているので、あれ以降『ガキ』と言われることもままあることだった。そして英太もわかっているから、今は怒らない。
「それより、昨日のカフェで聞いたか。あの御園大佐の噂」
いつも話題の中心を司るのもスコーピオンのスナイダー先輩だった。
毎度静かに弟分達の賑やかな話題を見守っている平井中佐。そしてキャプテンの右腕でサブキャプテンの成田中佐。彼は二年前に平井キャプテンがサブキャプテンとして引き抜いて欲しいとミセスに申請していた後輩で、ミセスに認められ小笠原に転属してきたベテラン。二人は寡黙な日本人リーダーコンビとして雷神を牽引し、その落ち着き故に若い英太やスナイダー先輩を好きに暴れさせてくれている要。そんな兄貴が見守っている中、いつもの調子でスナイダー先輩が、噂話で盛り上がろうとしていた。
だが、英太の相棒であるフレディもその話題に興味を示した。
「俺も聞きましたよ。大佐が若い女性を連れて歩いていると」
相棒の男がちらりと英太を見た。そして英太もそれを聞いて『なにっ』と眉をひそめる。フレディは英太には知られたくないような困った顔をしていた。つまり、その情報をワザと伝えなかったということらしい。
だがフレディだけじゃなかった。『御園大佐が若い女性を連れていた』という話題になって雷神の兄貴共全員、スナイダー先輩も、いつも落ち着いている平井中佐に成田中佐までもが、英太を一斉に見たのだ。
「な、なんすか。俺、大佐からはなにも聞いていませんよ」
御園大佐『隼人さん』とプライベートで親しいことは、誰もが知っていることだった。だから英太から情報が欲しくて見たのかと思ったのだが。
ものをはっきりと発言する質のスナイダー先輩が、変なことを言いだした。
「大隊本部で、大佐が『俺の愛人、奥さんにばれて今から対面させることになった』とか言って、昨日横須賀便で連れて帰ってきたらしいぜ」
なにーーー!
そう叫びたいが、英太の口はあんぐりと開いてそのままになっていたのだろう。ものが言えずそのまま固まっていた。その隙に、他の先輩も話し始める。
「すごい美女らしいぜ。見た本部員がそういっていた。やっぱり御園大佐が選ぶ女性は『いい女』で、そんな女をいとも容易く落とせる男なんだってさ。本部員の男達はやっかみ、女の子達は『そんなこと絶対にしないマイホームパパだと思っていたのに幻滅』て怒っていたなあ」
「俺としてはすごく信じ難いんですけれど。本当なんですか、大佐が言ったのではなくて本部員の噂が大きくなったとか」
英太を気遣っただろうフレディが、なんとか噂を否定しようとしてくれているのがわかった。英太もそう思う。あの隼人さんはそんな男性じゃない。でも。このチームの三男的存在になるフェルナンデス先輩も。
「いや、あの御園大佐がいつもの余裕の顔で言ったらしい。だからカフェでも大騒ぎ。しかも……今日、その女の子が甲板で俺達を見ていたとか、すれ違った空母艦乗船クルーからも聞いたんだ」
マジかよ!? と皆が口を揃えた。
先発発言隊長のスナイダー先輩よりも、中堅にあたり日頃も周囲とのバランス感覚は抜群の大人であるフェルナンデス先輩が仕入れてきた情報は確かそうだった。だからこそ、皆がすぐにその情報を信じた。
「だって女房のミセスが指揮をしているんだろ。そこへ愛人を見学? 正気じゃないぜ、大佐は」
「俺達が英太との真剣勝負を空でやっている時に、俺達の指揮官の側に『愛人』……? だとしたら、俺も大佐には幻滅だ!」
先輩達が口々に、自分達の聖域に『不倫』という不純なものを持ち運んできた行為に憤っている。
だがやはり、平井キャプテンは落ち着いて黙っている。
それでもフェルナンデス先輩の人柄も手伝って誰もが『本当の噂のようだ』と判断したがために、一通り憤った後にはシンとした沈黙がチームのロッカーに漂った。
誰もが英太より大人の男、中には御園大佐と付き合いが長い戦友的な男もいる。ひとまず噂は噂。御園大佐が『愛人だ』と言い切ったにしても、『あの人のこと、裏がある』と様子見すると決め込んでいる落ち着きが末っ子英太の目にも見て取れた。
だが、英太は。既にメラメラと燃えていた!
もし、それが隼人さんの『はったり』だとしても、何のために? 若い女を横須賀から連れてきたのは確かなことのようだった。そして英太も思い当たることがある。
「今日、ミセスの息づかいが感じられなかった。俺の声は聞いてるけど、俺じゃない誰かが側にいるような気がしていたんだ」
雑音の向こうに、彼女とは違う女性の声が聞こえた瞬間があったが、上空でのギリギリのドッグファイ最中ではそれは『空耳』ぐらいにしか思えず聞き流していた。
「大佐が側に見学に来ているかもぐらいにしか思っていなかった。葉月さんと通信するタイミングがずれることがたまにあるけど、そんな日は空母に着艦すると、やっぱり隼人さんが来ているんだ。でも、今日はいなかった……。でも俺の『いつもの感覚』が間違っていなければ、葉月さんの横に誰かがいたってことになる」
英太とミセスのタッグは誰もが認めているところ。『互いの過去』も雷神の男達には既に知れ渡っていて、その息の合い方は二人ならではと周知のところだった。
そんな英太だけの感覚だが、兄貴達は『そうだったのか』『じゃあ、やっぱり来ていたのか』と信じてくれるのも、今となっては……。
徐々に頭に血が上ってきた英太は、最後にロッカーからネクタイを取り出し、ガンと扉を閉める。
「俺、今日のランチ欠席します」
いつも皆で一緒にランチを取る。賑やかなビーストームの隣で静かな雷神と呼ばれ、でも2チームが揃っているランチは既に小笠原での名物風景。そのランチを今日は返上。
「おい、エイタ。工学科に突撃するのか」
「やめろ。お前、見たくないものをみるぞ」
「ミセスのことならそっとしておけよ。あのご夫妻なら大丈夫だって」
誰もが、英太が一度だって本心を明かしていないのに、ミセスの為に英太が怒っていることを理解し、そして止めようとしていた。
「大丈夫なもんか! あの人、顔に出さないだけで本当は……」
しまった。男としての発言になっている……!
それに気づいた英太はすぐに言い直す。
「あの人が心乱すと、俺のエース昇格への勝率に影響するじゃないか!」
言い直し、英太はロッカールームを飛び出した。
『キャプテン、いいのかよ』
『だいぶ落ち着いたとはいえ、英太はまだ……』
『葉月さんを心配して、あいつ』
兄貴達の、英太の本心を見透かした上での案じる声が背に聞こえた。 だが、平井キャプテンは。
『いかせてやれ。きっと大佐もわかっているだろうから』
飛び出した英太をそのまま見送ってくれた。
ロッカーの扉は閉まったが、英太はそっと兄貴達が残っているロッカールームに敬礼をした。
俺のチームは最高だ。
たまに衝突もするし、取っ組み合いも掴み合いもする。でも誰もが『雷神の品格とプライド』が最優先で一時の感情として流しチームワークを守ることも最優先とする。それが雷神パイロットである証。そこで英太は彼等に育てられてきた。
でもそれも。あのミセス准将がいるからだ。彼等はいつも見上げている、彼女を。あの平井キャプテンですら。
だから行くんだ。あの人が揺れたら、俺達にも影響するんだ。皆が大人で大人げないことができないで黙っているなら、いつまでもガキの末っ子の俺が行ってくる!
英太は工学科へと一直線に向かった。
・・・◇・◇・◇・・・
工学科科長室のドアの前、いつしか気軽にそのドアを開けられるようになっていたが、今日の英太は深呼吸。
「お、おつかれ、様です」
いつもの『おつかれーすー』なんて気の抜けた声が出なかった。
それが故か。デスクで業務をこなしていた科長室メンバー全員がちょっと目を丸くして英太を見ていた。最初に目が合ったのは、やはり小夜さん。
「やっだ。『様』てなに。てっきり他部署のお客様がいらっしゃったのかと思ったわよ」
なんだ、英太君じゃない。柄にもない丁寧な挨拶、どうしたの。と小夜さんが訝しんでいた。
「えーと、あの、隼人さん……」
科長席をみると、いた! 彼もこちらを見ていた。眼鏡をかけ書類と資料に埋もれているデスク。その積み上げた山陰から眼鏡の縁がちらりと覗いている。
「こんな時間になんだ。いまからチームでランチじゃないのか」
いつも通りの彼がいた。そして英太は目的を探す為、科長室を見渡した。
女、女はどこだ……!
「それでは、大佐。行って参ります」
小夜さんがデスクで、洋服をたたんでいた。白いフリルブラウスに、黒いクラシカルなスカート。まるで『華子が着ているかのような』若い女性が街で着ているのをよく見かけるそんな『ヤングレディスタイルの服』を英太は目に留めた。
「小夜さん、それは」
尋ねると、小夜さんがちょっと困った顔をすぐに見せた。そしてチラリと大佐を見たのだ。
それだけで、もう……! 英太の頭に血が上った!
それだな。それが隼人さんが連れてきた女の服だな。そうか、甲板に行くために訓練着に着替えさせたということか。やはり甲板に大佐が若い女性を連れてきたというのは嘘ではないのだと判った。だから、英太の頭が熱くなる。
だが、ここは科長室でもあるが『大佐室』でもある。英太よりずっと権威ある男の城。彼とどんなに親しくても軍人という職場で向き合うならば、その縦社会でのルールというのは互いに身に染みているもの。ここでつっかかるのは二年前の自分に逆戻りすることに。
だから英太はぐっと堪えたが、目つきは隠せず。そのまま隼人さんを睨んでいた。
勿論、書類と書籍の山陰にいる当人とも目が合った。
「お前、なにしにきたんだ」
大佐の問い、それに眼鏡の奥の彼の目がどこか厳しく見え、英太は一瞬躊躇してしまった。
いや、負けてたまるか。この男、俺達が葉月さんと一緒に必死になっているコンバットの最中に、若い女を連れ込んできたのだ!
葉月さんのことだ。隼人さんの『お前に負けてたまるか』なんていう、いつもの『意地悪』をされ、そして彼女も『夫に負けるものか』と素知らぬ顔で意地を通したに違いない。そう、英太が転属してきた時の『滑走路侵入飛行』を決した時のように。そういう『タブー』を使って、この大佐はあの奥さんを怒らせたり、困らせたり……。あの人が、そんなに表情を露わにしないから、させたくて。
と。ここまで思うと、英太もちょっと首を傾げたくなる。そうだ。隼人さんの意地悪や悪戯って……最終的には『奥さんの凍った表情を豊かにしてあげる。感情を出し易くしてやる』という、そういう旦那としての深い意味があるんだと英太は思ってきたのだが。もしかして、今回も?
「吉田。『彼女の着替え』、英太に持っていってもらえ」
頭を冷やそうとあれこれ、この人にもなにか事情があって――と理解しようとしていたら。また、出たよっ。このオジサンの訳のわからない唐突な言葉!
「そ……うですね。それがいいかもしれませんね」
だが、小夜さんがちょっと戸惑いつつも、デスクに揃えていたブラウスとスカートを揃えながら英太ににっこり微笑みかけたのだ。
「え、なんで。俺なんすか?」
だがそんな英太の困惑も見えぬとばかりに、大佐が話を進めていく。
「英太。いま准将室にお客様がいらっしゃるんだ。彼女にお前のフライトを見せたら、すごく感激していたから挨拶しに行ってくれよ。エース候補だって教えたら興奮していたからさあ」
「か、甲板に女性のお客さんを連れてきたって本当だったんですか」
「――『お客さん』じゃなくて『お客様』だ。エース候補は言葉遣いもこれからは気を付けろ」
「本当に『お客様』なんですか? 俺、聞いたんですよ。大佐の……」
「俺の愛人だって?」
彼から暴露してきたので、英太は驚きのけぞった。
小夜さんがそこで、ふっとした溜め息をこぼした。彼女の顔が、怒っている。そうだ、小夜さんは『曲がったことが大嫌い』、折り合いは上手く付ける女性だけれど、彼女の本心はいつもそこにある。そして彼女も大佐を睨んでいた。
「まったく。大佐は今日、カフェテリアに行ったら女性達に総攻撃されることを覚悟なさった方がよろしいですわよ」
スナイダー先輩とフェルナンデス先輩が言ったとおりだーっ。噂は本当だったのだと、英太はまたメラメラとした炎が。
そして他の科長室のメンバーも口々に言いだした。まず大佐のもう一人の片腕、神谷少佐が。
「本当ですよ、大佐。俺も先程、午前の休憩に行ったら女の子達が俺のところに来て『科長室にいる女の子は、どうして小笠原に招待されたのか』と目くじらを立てて聞いてきましたよ。彼女達も遠回しに『招待』という言葉で聞いてきましたけれど、本心は『どうして大佐が愛人を連れてきたのか』というのを裏に秘めているのが、ひしひしと――! 普段は可愛い子達が怖かったこと」
両腕が大佐の愛人連れ込みについてものを言ったので、黙っていた若い部下達も。
「俺もですよ、大佐。いまカフェに行ったらお姉様方や女の子達に俺まで睨まれるんですよ」
藤川少尉もげんなりした顔を。余程のことらしい。
そして津島も、新人の野口真美も口々に『俺も聞かれた』、『私もどんな子か聞かれました』と大佐に報告。
「大佐、どうするおつもりなのですか」
「うーん、どうしようかなあ。でもさあ、責められても仕方がないよなあ。だって愛人だもん。愛人て女の子の敵なんだろう。彼女達が怒るのも当然だし。でもさあ。男の気持ちってもんがあるんだよ。彼女、可愛いだろうー。若いしー。ほんとなんていうのか、どうしようもないんだ、俺」
小夜さんが睨んでも、隼人さんはいつもの調子。
愛人って。愛人ってなんだよ。若くて、可愛い!? あの奥さんがいるのに、あの奥さんが一番じゃなかったのかよ。一番と見せかけて、いつから影でこっそり若い女といちゃいちゃ楽しんでいたんだよ。しかも、奥さんが真剣に指揮している真横に、その可愛い女の子を連れて、俺の飛行を見せただと!?
「もう、私も知りませんよ。そうですね、私も、英太君に持っていってもらうことにします。腹が立って大佐の指示に従いたくなくなりました」
愛人なんて。真っ直ぐな小夜さんが一番嫌うもの。慕っている御園夫妻の、しかも奥さんを脅かす女の顔など見たくないのだろう。工学科のお客様のはずだが、小夜さんはキッパリした顔で英太に愛人の服を差し出していた。
「英太君、これ」
「でも」
准将室に愛人まで預けやがって。それを俺に見に行けと? だがそこで英太の脳裏に、葉月さんの寂しそうな横顔が見えた。
見せるんだ、あの人。そんな顔を。一瞬。
でも、それと同じように、ふっと幸せそうな笑みを見せる瞬間だってある。そんな時、英太は思う。『隼人さんのこと、海人のこと、お嬢ちゃんのことを考えていたんだろうな』と。家族のことを思って、氷の彼女がふっと緩む瞬間。
寂しそうだったり、幸せそうだったり。きっとあの人は、あの僅かな表情の中にありったけの『いま』を込めて。そのままでもいい。それでも、表情や感情表現を上手くできなくなった人のままでも、それでも幸せなら。そう思っているのに……。このクソオヤジ。英太の心は決まる。
「わかりました。俺が行ってきます」
じゃあ、お願いねと、ペーパバッグに丁寧にしまい込んだ愛人の服を英太は譲り受ける。
このクソオヤジ。あんたの奥さん、心の底ではすっげー嫌な想いをしているに違いない。あんたのことだから、そうやって奥さんの前では意地悪い笑顔ばかり浮かべて、のらりくらりと誤魔化してきたにちがいない。
それに……。のこのこと小笠原にやってきた若い愛人、許すまじ! 同世代の若い女でも容赦すまい。猫撫で声で英太に声をかけてきたら、冷たくあしらってやる。そして葉月さんが自分達雷神にとって大事な指揮官であることを突きつけてやる。
「では、預かりますね。行ってきます」
心に宿った闘志の炎を燻らせつつ、それでもこの余裕ぶったオジサンには心の底を見透かされまいと英太は澄ました顔で愛人の着替え片手に科長室を出ようとしたのだが。
「あ、英太。待ってくれ。これも一緒に頼むよ」
呼び止められ、英太は科長席へと振り返った。
「なんですか。早くしてくださいよ」
科長席を立ち上がった隼人さんが、黒ネクタイ白シャツ制服のスラックスに手を突っ込んだ。そしてそこから、なにやら薄い桃色の……。
「これも頼む」
そこで隼人さんが英太の目の前に差し出したもの。それを見た英太はギョッとした。
「な、なんのつもりっすか……それ」
英太だけじゃない。英太の背後で驚きで息を止めた小夜さんも驚いた様子が伝わってきた。
「た、大佐。それ……どうされたんですかっ」
他の神谷少佐も、藤川少尉も、津島も野口真美ちゃんも。誰もが『え』と驚き固まっていた。
「なにって。彼女の」
にっこりと微笑んだ隼人さんがスラックスのポケットからずるずると引き出し、英太の前に差し出したのは『ピンク色のブラジャー』!
「な、なにしたんすか。愛人と!」
「そうですよ! 大佐!! どういうことですか!!」
当然、英太以上に小夜さんが瞬間沸騰。かあっとなった彼女が英太が怒る前に大佐席へと突進し、ばんとデスクに激しく手をついた。
「どういうことですかっ、澤村中佐」
「中佐じゃないぞ」
小夜さんはたまに頭に血が上ってしまうと、昔の上司部下の関係に戻ってしまうのか、隼人さんのことを『澤村中佐』と言ってしまうことがある。
そんな時は『磨き抜かれた吉田大尉も我を忘れたら、可愛い小夜ちゃんに戻ってしまっている時だ』と隼人さんから聞かされていた英太。いまが、それ! 本当に小夜さんの顔が真っ赤になっていたから、英太も後ずさってしまった。
「えーっと。そういう成り行き?」
そしてやっぱり隼人さんはとぼけるばかり。
小夜さんがますますデスクをバンバンと叩いて『彼女がどういう女性かわかっていてこんなこと! 英太君にとって……』と言いだしたかと思うと、御園大佐が小夜さんをぐっと強く睨んだ。すると、怒っているはずの小夜さんが条件反射なのかハッと我に返り黙り込んでしまった。
あれ。小夜さんが正しいはずなのに? そんな時は絶対に曲げない小夜さんが、一発で黙り込んでしまったので、英太は不思議に思ったのだが。
「も、もう。頭がおかしくなりそう。英太君、はやく届けてあげて! どうりで彼女、着替えなかったはずよ。こんなひどいオジサンになにをされたのやら」
大佐の手からピンクのブラジャーを奪い取った小夜さんは、英太が持っているバッグの中、ブラウスのすぐ下にブラジャーをしまい込んだ。
その愛人が、オジサンにひどいことされたって。だって愛人関係なら当然のこと、この基地でいちゃついていたってことだろう? なんで小夜さん、いつものようにビシッと筋を通して怒らないんだよ? 英太は眉をひそめるばかり。
「ではお願いね、英太君。その彼女に言いたいこと言ってきてやりなさい。私はいまから大佐をこってりしぼっておくから」
小夜さんに『早く行きなさい』と無理矢理に科長室から出されてしまった。
『隼人さん!!』
小夜さんの怒った声が科長室に響いた。すると、神谷少佐も藤川少尉も、津田君も野口ちゃんまで、そそくさと科長室から出てきた。
「小夜さんに火がついたら、俺苦手で……」
と神谷少佐が苦笑いで行ってしまう。他の彼等も『終わるまで時間がかかりそう……』とげんなりした様子で、余所へ時間つぶしへと行ってしまう。
「愛人がいたなんて、意外。絶対にそんな人じゃないと私は思っていたんですけどお」
野口真美ちゃんが、英太の目の前でぽつんと呟く。
いつもぼけっとしている彼女だが、英太が訪ねてくると必ず一言二言は話しかけてきてくれる。それもなんだかいつも焦点がずれているので、どちらかと言うと英太は苦手で……。
「でも安心しましたー。大佐でも、あんな大きな胸が平気で触れたなんて!」
「はあ? バストの大きさなんて関係ないだろう?」
なにその嬉しそうな顔。英太はやっぱりこの子はずれていると顔をしかめる。てか、そうか、真美ちゃんはデカパイで有名だから? 上司の大佐に大きなおっぱいの子も好かれるとか? そういう物の考え方? ちょっと頭が痛くなり英太は眉間に皺を寄せた。
この子、本当に。ちょっとそういう状況と合わない言葉を発することがあるのだ。いまもそれ。大佐が大きなおっぱいも触れて良かったじゃないだろうっ。あの隼人さんが奥さん一筋と噂高い隼人さんが、若い女のしかもデカパイを触っていたという事実が浮上したことが大事で、葉月さんにとって残念な出来事になると想像できないのかよ――。この彼女はいつもこのように無意識に無神経なので、英太はこの彼女のことを余りよく思っていない。なのに。
「あ、大尉。今日はあと一歩でエース獲得だったそうですね。残念でしたっ。私、応援していますから!」
あ、やっぱ駄目だ。絶対、駄目だと英太は『有り難う』とだけひきつった笑みで返し、早く離れようと科長室を後にした。
(くそ。真美ちゃんがいなければ、小夜さんと隼人さんが何を話しているかこっそり聞こうと思ったのに)
まじ、間の悪い子だなあ――と、ふてくされつつも。いや、葉月さんの准将室にまで図々しく居座っている愛人を追い払うのが先だと英太は高官棟へと急いだ。
Update/2010.8.7