だが華子の真っ直ぐにぶれない視線をしっかりと緑の瞳で受け止めてくれたのがわかった。
「あるけど。お薦めしないな」
「どうして……」
「仮に私が観せたいと望んでも、貴女自身が本当の意味でミセスを受け止められるかという意味」
今度は華子が面食らった。……まるでそこに、もう一人の大佐が現れたように見えた。
彼等は揃って『現在の英太を知らなかった家族同然の女がそれを知って動揺し、そしてその気持ちをミセスへと向けている』と見透かしているから……。
あのいけすかないオジサン大佐を仕掛けても澄ました顔で、身体を張った華子を軽々といなし、華子の女としてのプライドすら踏みにじって『妻』を立てた。そして、この中佐も……! それも道理か、『側近』とは非常に忠実なものなのだろう。上官を立てる心構えなどは絶対的『夫妻同然』なのかもしれない。だから本当の夫である大佐とも気持ちを揃えている。この人もミセス側に立っている華子にとってはなんら得のない人。そう追いつめられた気になった。
本当に、この島。この基地、気に入らない! 揃いも揃ってミセスを中心に皆が右に習えみたいに足並みを揃えて。その中に英太もすっかり列を成しているというわけ。華子の心の炎が再度燃え上がった。
「わかりました。とりあえず、英太の映像だけでも見させてください」
「そこの大画面のテレビでも観られるし、パソコンモニターでも見られるけど、どれがいいかな」
「パソコンモニターで。そこのソファーで観させてください」
『かしこまりました』と、そこは接客をする丁寧さでラングラー中佐が動き始めてくれる。
ソファーに座って、セッティングしてくれたノートパソコンのモニターを目の前に、華子は自分でディスクを挿入し、観たいところから『雷神航空ショー』を鑑賞する。もうノーブラも気にならない。
まず一番最近の航空ショーから。この春先、横須賀基地の祭典での展示飛行。観客の歓声と甲板で耳にした高音の飛行音が渦巻く熱気の会場で、機体と翼を緻密に調和させた美しい飛行図を空に自由自在に描くフライト雷神。その中に七号機の個人演技が始まり、華子は釘付けになる。空高く縦巻きのコイル回転をして上昇していく演技、ジェットコースターのようなレール軌道を描く上昇宙返り。華子の口が開いたまま塞がらなくなる程……それは数年前では考えられない完成された飛行絵図だった。
そこから片っ端に観ていく……。二年前、英太が転属したばかりの頃の映像。
フライトの航空ショーを指揮するミセスの無線の声。彼女の合図に従い、彼等の揃ったタイミングが生まれる。英太の個人演技の時にも、二人の息はぴったりで、ミセスの声と揃って英太が操縦しているのが伝わってくる。
その息の合い方が、もう二年前から。そう転属してすぐにそれが現れているのが華子には判ることができた。
転属してすぐに。何故? 人を信じていなかった英太が、何故、年上の人妻オバサンを好きになっただけでこれだけ息が合うようになったのか。何があったの? 華子の胸に迫る、奇妙な置き去りの感覚。
あの女が、華子の何年もの英太との積み重ねを、あっという間に同列にしてしまったのは何なのか。英太が恋を自覚したからだけではない、なにかそんな華子には解らない得体の知れないものに覆われる感覚。
「ただいま」
ミセスが帰ってきた。ハッと我に返りソファーから振り返ると、すっかり優雅な制服姿に着替え身なりを整えたミセス准将が、体格が良い護衛の側近と一緒に准将室のドアを開けたところ。
そのミセスが華子がいるので、やや驚いた顔をしたのが解った。華子が言う前に流石側近、ミセスの僅かな表情を読みとったラングラー中佐が告げる。
「御園大佐が科長室を暫く留守にされるとのことで、こちらで預かっております」
「そう」
側近の報告に納得し、ミセスはにこりともせず、そのまま准将席に向かう。
ミセスが静かに落ち着いた姿を目にした側近二人が『では、私達は秘書室におります』と室内ドアへと消えていく。……ミセスと華子の二人だけになった。
二人きりになったが、彼女はそれでも華子に一言も話しかけてこない。やはり多少は夫が若い女性を連れてきたこと、家に泊めたことが気に入らなかったのか? そんな意地悪な様子はなく、穏やかに迎え入れてくれたのを華子は感じていたのに。でも、今のミセスに昨日の優しいお姉さんの雰囲気はなかった。
ミセスのその、華子を空気のようにして触らないのがまた気に入らなかった。制服姿になり、髪も綺麗に整え、甲板では真っ白だった肌には少しばかり彩りを添えた薄化粧を施し、また優雅な女性のムードに戻っていた。だが顔つきは甲板と同じ、淡々としたロボットのような硬い顔のまま、デスクに座り書類をあちこち広げ始める。
ペンを持つまでの時間も短かった。帰って息もつかずに、仕事。息を抜いたのは着替えの時に済ませたのか。御園准将はすぐさま書類にペンを走らせる。
……華子がソファーでなにをしているかも。華子がまだ着替えていないことすら。彼女は目にも留めないし、気にもかけなかった。
そんな冷たい人。
華子はそう思った。
きっとあの旦那が一方的に恋したのではないか。彼が熱烈に愛してくれたから心を開いただけ。自分からは絶対に男には気を許さない、気位高いご令嬢育ち。あの大佐は簡単なことで満足するような男ではなさそうだから、難攻不落の女性を愛する難しさにはまって彼女を落とすために必死になっただけ。
だけれど、この人はそんなに愛してくれる旦那にも、響かない顔をして大佐以上に慌てることもない。何故なら。華子を気にかけなかったように、周りの人は自分にとってはどうでも良い空気の人なのだから。そうなのではないか。
パソコンのモニターでクルクル回っている戦闘機の動画をストップさせ、華子は立ち上がる。
そして下を向いてせっせとペン先に集中しているミセスにそっと近づいた。そっと彼女の前に近寄って、大きな声で驚かせてやろう。そうだ、うんと嫌味なことを言ってやろう。そっと気配を殺し、華子は一歩踏み出した。
「なにか。華子さん」
ビクッと華子は驚き立ち止まる。そっと一歩動いただけなのに、何歩も先にある机に座っているミセスが書類を見たままそう言ったのだ。
「着替えていないけれど、それはうちの旦那さんが貴女の着替えも気遣わずに置き去りにしたということなの?」
そこでやっと彼女が顔を上げ、華子を真っ直ぐに見た。どこか怒った顔に見えた。華子も腹を立てているし苛ついているのに、その目と合った時はその威嚇に不本意だが威圧され動けなくなっていた。
それにミセスのその質問はズバリ正解だった。確かに大佐は華子の着替えに気遣わず、置き去りにしたのだ。ただし、華子が悪さをした仕返しではあるのだけれど。でもミセスにはその状況が半分見えているようで、話しているうちに全て見抜かれるのではないかという緊張が、強気に向かおうとしていた華子を取り巻いた。
いやいや、負けてたまるか。華子は唇を噛みつつ『これはこの女にアレを見せつけるチャンスだ』と、願っていた状況を向こうから作ってくれたと華子の闘志が燃え上がる。
「そうなんです。ミセス。奥さんであるミセスにお願いがあるんですけど」
「なにかしら」
旦那より澄ましたその冷たいばかりの固まった顔に、今度こそ、旦那でも手こずっていた『怒り顔』に『妬み顔』に『泣き顔』を刻ませてみせる。それが華子の勝利。
迷いはなかった。だから、思いっきり訓練着の上着とキャミソールを一掴みに一気に上へとめくった。
ミセスの目の前にも惜しげもなく晒された白く豊満な乳房が揺れた。大佐の時より意識して揺らした。
そして白い瑞々しい肌には、彼女の夫が貪った跡。首もと、左肩、そして、胸元に、なんと言っても乳房の谷間にあるしつこく長く愛撫しないと付かない程のキスマーク。
動かぬ証拠。チラリとミセスを見ると、流石に彼女もペンをコトリと落とす程に呆然とした顔。
やった……! あのミセスから冷静さを奪い取れたに違いない。そのままじっと華子を見つめたまま、彼女は目を見開いて硬直しているように見えた。だから華子は勝ち誇って言った。
「素敵な旦那様だから、私、羨ましくて誘ったんです。この通り。それに大佐ったら『やめて、返して』と何度も言ったのに、私のブラジャーを取り去って楽しんで未だに返してくれないんです。ノーブラで陸まで帰る私の困った顔を見て楽しんで」
そしてもう一度彼女を見る。怒るか泣くか。どっちの顔をするのか。
するとミセスは、そこで溜め息をついただけ。どこか呆れた顔でふっと目を逸らしてしまい、今度は華子を見てくれなくなった。
「……あの人、なんと言って、貴女にそんなことしたの」
直視することができなくなったミセスが、逸らした横顔のまま呟く。その声は隠すまでもなく、確かに震えていた。
華子の勝利。望んでいた『妻の姿』がそこにあった。だが僅かに心の片隅に疼いた後味の悪さ。男を恨んでも、女を羨んでも、直接本人を傷つけたことなどなかったのに。
「奥さんを愛するように愛して欲しいと頼みました」
「それで迷いなく、あの人はそうしたの?」
「迷って……なかった、です」
嘘じゃない。大佐に迷いなかった。大佐は落ち着いていたが、迷ってなどいなかった。呆れた顔をしていたけれど、華子の望みまま『ハメられたふり』をしてくれた。嘘じゃない。
流石のミセスが、疲れた顔を見せ栗毛をかき上げ、どうみても動揺しているのが見て取れた。華子が望んでいる姿がそこにある。
「それで……。どうして、そのような愛し方をしたのか。どうしてそのようになったか、聞いても良いかしら?」
「ですから。奥さんを愛す旦那さんの愛を私にも教えて欲しいとねだったんです、私」
「そう。そういうことなら。そうね……まさしく、動かぬ証拠で、私はあの人を責めたくなるけど、責められないってわけね」
ちょっと華子が思っていることと違うことをミセスが言いだした気がして、乳房を突き出したまま、華子は眉をひそめた。
「それに……。あの人が貴女にそこまで迷いなくやってのけたこと、私もわからないでもない……」
「どういうことですか。ご主人が若い女の誘いに、例え『妻のように愛した』という名目があっても、これだけ他の女の身体を味わったんですよ。それに動かぬ証拠は、大佐のズボンのポケットにしまわれたままの私のブラジャーです。確かめてみてください。いま私が穿いているショーツとお揃いですから」
名目さえあれば、男は簡単に女によろめく。大佐さえも。結局は華子が見てきた男達同様だった。
だがミセスが。華子から目を逸らしていたミセスが、今度は夫が違う女の肌を愛した軌跡にも、華子の顔も、じっと直視していた。
その目が潤んでいた。哀しい顔だった。だけれど……それが華子の目をじいっと見ている。華子を哀しく見ている。華子の胸に訳のわからない後ろめたさを覚えさせるかのような、そんな綺麗な眼差しだった。
「華子さん、何故、私の夫にそれを望んだの。愛を教えて欲しいと望んだの。ただのからかいなの? からかいなら、何故、そのからかいをしようとしたの? 訳があるでしょう。それをすることになった、根本的な貴女の動機。恐らく、私は貴女に良からぬ思いをさせたのでしょうね」
この人も。華子を見透かした。言いたいことが全部伝わってきた。
華子の英太を奪った。たった二年で英太と共にまるで空を飛んでいるかのように繋がっている。英太の今の生き甲斐は、海と空と甲板とコックピット……そして、彼が一緒に抱きしめている女上司。それを目の当たりにして『華子が嫉妬しているから、夫にイタズラを仕掛けた』と見透かしている。
必死に沢山の本心をひた隠しに生きている華子には、その本心を見抜かれたとしても黙ってやり過ごしてくれるならともかく。それをズバリと言い当てて『可哀想な子』と同情の眼差しをさも当たり前にやってのける綺麗だけれど無神経な心の持ち主が一番嫌な、嫌味な、心を掻き乱す嫌いな人種。滅多に出会わない。出会わないように華子からも気を付けて、そっと距離を置くなど工夫をしてきた。それが……滅多にない女に今遭遇したと……。
ここまで心で思ったのだから、もうその時、華子の形相はかなりのものになっていただろう。ミセスも神妙な顔つきになり、そっと華子を窺うよう黙っている。
だが二人の眼差しは、互いの信念を信条を曲げるものかと言わんばかりに絡まり合っていた。その緊張に耐えられなくなったのは、やはり『若い女』である華子。糸がぷつんと切れたように、思い切り叫んだ。
「私を、哀れな女だとバカにしないで!」
心からの叫びをミセスにぶつけていた。そしてミセスもそれを真っ向から受けている。
すると、彼女が静かに大きな皮椅子から立った。
立つと今度は夏シャツの襟元にある黒いネクタイの結び目に手をかける。一息つくためか、ネクタイをそっと緩める。……どころか、そのまま結び目を解いてするすると襟から抜いてしまった。
一息つくにしてはおかしいとそのまま見ていると、ミセスはネクタイを机に放り、次にはどうしたことかシャツのボタンを外し始めた。何故? 訝しいままに見ていると、ミセスがボタンを外しながら話し始める。
「二年前、英太の飛行に惚れ込んで夫の御園大佐と共に横須賀の強引な取引条件を丸飲みにしてでも引き抜いた。彼は確かに光るものを秘めたパイロットだったけれど、転属当初は非常に反抗的でどうにも手に負えなかった」
「そうよ。あの英太が、大人を信じるはずなどないもの!」
なのに、アンタはどうやって英太を手懐けたのよ? まさか……。夫も知った上で、英太の恋心を逆手にとって手懐けるために身体を使った!? 今の華子が彼女の夫にそうしたように。まさか、彼女の身体にも英太が愛した跡でも残っているのか、そう思ってもおかしくないような状況になっている。
もし、そうならば。あの純粋な英太の『初めての恋』を踏みにじった女、許すまい。それを見逃した夫の大佐も許すまい。華子の頭がとてつもなく熱くなっていくのがわかったのだが。
ボタンを下まで外したミセスの胸元も、カフェオレ色の豪華でエレガントなレエスのスリップドレスが見えた。そこには華子とは違う落ち着いた大人の女の香りで溢れていた。その胸元をそっと見せるミセスが言った。
「そうね。英太は大人を誰も信じていなかった。私に殴りかかり、掴みかかり、いつだって目が燃えていた」
「なのに……。どうやってあんた達夫妻は、英太を信じさせたのよ」
「信じさせたんじゃない」
そう言い切った彼女の目がキラリと鋭く光ったように見えた。茶色の透き通った瞳が黒目に見えた程色が変わった様に見え、華子は息を呑んだ。
「信じさせたんじゃない。私と英太は出会った時から『引き』合っていた」
『惹き』合っていた? 夫がいる女性が言うことか。それとも……。
「すぐに判った。あの飛び方は私の飛び方と一緒だと。彼のような青年は、私と同じものを背負っているのではないか……そんな予感があった」
この時、華子の脳裏に。大佐の言葉が蘇っていた。
『妻が死んでも良いという飛び方をしていた』、『後先考えない、死んでも良いと思っている飛び方は、周りにいる男達を恐怖に陥れていたんだよ』、『英太の飛行を見れば、華ちゃんもわかると思う。家族ならば、きっとわかる』――あの言葉が引っかかったのに、英太の切羽詰まる飛行を見る限り……。ううん、英太も最後は命を懸けていた。だけれど、大佐とミセスが『命を懸けるエースは要らない。余裕で生きて還ってこられるエースになれ』と呼びかけ、英太はやっと帰ってきて……。英太もギリギリで空を飛んでいる、そしてミセスもそうだった?
そしてその答が、たった一目で華子の視界に飛び込んできた。
「死を垣間見た者同士。生きて還ってこられたけど、それから誰を信じて良いか。そして生きている世界の全てを拒んだ育ち方をしてきた者同士……」
ミセスの細い指先が、スリップドレスの胸元をはだけさせた時。そこには……胸の谷間に三日月のような赤い傷、さらに左肩から胸元を繋ぐように……そう稲妻みたいに!
釘付けになった華子の頭が瞬時に真っ白になった。
英太と同じ――。それは『殺されそうになった傷を心にも身体にも刻んでいる人間』だったということを華子は理解した。
「私はそれを空にぶつけた。いつ死んでも良いと思って飛んでいた。恋も投げやりで、そう……貴女のように自分の身体を粗末にしていた。こんな身体だったから……何が起きても良いことにはならないと決めつけて」
そして華子もハッと自分の胸を抱きしめた。……同じだ。大佐が、華子に夢中でつけたキスの跡を繋げると『奥さんの傷跡の通りになぞった』ことになるのだと。
それは確かに『動かぬ証拠』。責めたいけど責められいないと奥さんであるミセスがそう言ったのは、御園大佐が奥さんの肌を思って労って慰めてそして愛していたのだと葉月さんもそれを一目で判ったから……! それはその傷を持つ妻を持った男だからこそ、他の女にも自信を持って、妻が見ても一目で理解してくれるという自信があったから。大佐は本当に、華子の望みを叶えつつも紛れもなく奥さんだけにしか判らない愛撫をしていた。
「あの、私……」
今度は華子の声が震えていた。自分がなんてバカらしいことを仕掛けていたか。やっと……やっと……。そして英太とミセスが結ばれた線が……。
「いいのよ。昨日、貴女……『隼人さん』のお母様が亡くなっていること、知らなくて気にされたでしょう。それと一緒よ。一緒なの。話さなければ、誰も知らない。私の身体に付いた傷も心の傷も、今も消えない闇も知ることはなく、私だって『普通に生きてきた人』として見えるだろうから。『普通に見える』、それは私が望んでいたこと。だからこそ私はそれを理由にして逃げてはいけない。でも……それを言わねば信頼を結べない時もある。今、私の周りにいる男達は、それを年月を重ねて繋げてきた大事な大事な同僚なの。そしてそれは遅れてやってきた英太にも、首元に同じ刃物の傷を負っている彼にも、大好きだった父親と子供としてこの上ない哀しい別れをすることになってしまった青年にも……そうなって欲しいと……」
そこで、ミセスの息が少々乱れていたことに華子が気が付く。
「ごめんなさい。戦闘機乗りをやめて結婚してからの方が、情けない程崩れやすくなって……」
やがて、それが咳も混じるようになる。もしかして……。華子は青ざめた。そのスイッチ、私が入れた!
「葉月さん、何も知らないからって、私がやったことは」
彼女に駆けよろうとしたのだが。
「来ないで!!」
ひゅうっと引いた息づかいと共に、今度はミセスが華子の真っ正面ですごい形相で叫んだ。
立ち止まった華子を見て、ミセスが次にしたのは、慌てて内線電話の受話器を取ったこと。
「テッド、すぐに来て……すぐ」
ガチャリと受話器を置くと、彼女の手が震えているのにも気が付いた。なのに彼女はその手で慌てて引き出しを開けた。
開けた引き出しから薔薇模様の小物入れを手にした。その時、ラングラー中佐が秘書室のドアから准将室に入ってきた。
「……准将!」
デスクでおぼつかぬ手つきで薔薇模様の小物入れの蓋を開け、『薬』を手に取ろうとしている上司を見てラングラー中佐が驚き固まった。そしてすぐに駆けつけるのだが、その時にはもう、ミセスは自分の手で口の中に錠剤を放り込んだところだった。
そしてラングラー中佐がやっと……。ミセスの乱れた胸元と華子の胸元も半分さらけ出されているのを見てもっと驚きの顔……。だがすぐに落ち着いた、側近らしい顔に戻った。
「私はいい……。ちょっと、出てくるから。……彼女に、私のこと、英太が知っているままに、説明して」
「よ、よろしいのですか」
「彼女も英太と一緒……。そして、」
呼吸が整ってきた彼女が、やはり華子をあの哀しい眼差しで見つめる。
「彼女、私の若い時に似ているから……」
今度の華子は、その眼差しをしっかりと受け止めていた。
そして、華子の目に熱い涙が浮かんでいた。
ミセス、ごめんなさい。そういって彼女に駆けよって彼女の胸で泣きたくなったけれど。『来ないで』、彼女がそう言ったからできなかった。きっと、今のミセスは華子をその胸に抱きしめる余裕がないのだろう。自分のことで精一杯で、それができず、貴女を拒んで傷つけてしまうかもしれない。だから『来ないで』。華子にはその気持ちが良くわかった。自分もそうだから……。
「華子さん、あの意地悪い旦那からブラジャーを取り返してくるから……待っていて……」
まだ整わない息づかいのまま、ミセスがふらりとドアを開けた。
「ごめんなさい」
やっと彼女に言えた。
「……自分が傷ついたからと、周りに理解を求めるようにして、私自身が周りを傷つけてきたのよ。でも彼等が許してくれた。……今、若い英太や貴女達と出会って私は思うの。私の『ごめんなさい』は、若い貴方達に返せばいいのだと」
だから、気にしないで。
ミセスはそう言うと、華子の涙から逃げるようにすうっと出て行ってしまった。
Update/2010.7.30