え、もしかして。ちょっと乱暴な人? 穏やかなのは表向きで、夜になったらあの女王のような奥様を征服する男に? そんな感覚だった。しかし華子がそう考えている間にも、大佐は華子の身体に覆い被さり両手を壁に押さえつけ、邪魔なのか眼鏡をスッと取り去り胸ポケットに差し込む。その仕草がまだ落ち着いているように見える。そしてついに、眼鏡を取った素顔で、ふっと大きな唇を華子の頬に近づけてきた。
「邪魔だな」
だが、そう蔑んでいた華子が感じたのは、頬を覆っていた茶髪をゆっくりと除ける静かで優しい指先だった。それだけで、華子の身体がぞくっと震えた。
あんまりにも意外で、思わずハッとした華子が大佐を見ると、彼はじっと華子の顔に見入って真っ直ぐに見つめてくれていた。その目と合い、また華子は思わず胸をドキリとさせてしまっている。だがそれが合図のようにして次にはもう……その頬、耳元に大佐が熱い息を吹きかけながら柔らかくて強いキスをしているところ。それだけじゃない、ゆっくりとした柔らかい舌先が触れるか触れないぐらいの微妙な感覚で華子の肌をくすぐり始めたり、優しく柔らかに吸ったりを繰り返された。
「ん、あ」
たったそれだけで声を漏らしてしまった自分にも我に返る華子。
だけれどそれで華子にも伝わってくる。奥さんの顔をまず見て、優しく髪を払いのけて、そしてそんな熱くて柔らかい口づけをするの? うっかり華子はその指先に囚われそうになる。
「華ちゃんは、まだまだ、我が儘な可愛い女の子だな。たったこれだけでそんな顔をするなんて。うちの奥さんはこれぐらいじゃ、平然とした顔をしているのに」
「なによっ……!」
どうしてか敗北感。こっちから貶めたはずなのに、華子はこの大佐の腕の中手の中胸の中に逆に落ちていくような感覚になり焦った。
「自分が言いだした我が儘がどういうことか、教えてやるよ」
「や、……大佐っ」
にやりと笑った大佐の顔が、華子の首元にうずまる。耳元に口づけられたのと同じ、キスをしては吸って舌を柔らかに這わせて、大佐は暫し華子の首元を右も左も貪るように愛撫してくれた。
初めての感触だった。英太だけが気持ちよいセックスができる男だと思っていたのに……。英太の熱っぽくて勢いがあって荒々しく若々しい感触とは異なる……。押しも柔らかさも巧みに繰り返す大佐の唇は常に余裕があり、情熱的でそれでいて柔らかで熱くてじっくりしていて、そのまま従っていたら溶けてなくなってしまいそうな感覚に陥った。
大人の彼は、華子の肌を唇で楽しむだけではなかった。華子が僅かに喘いでしまった隙をぬって、背中に手を回してキャミソールの下へと手をくぐらせると、ブラジャーのホックに手をかけた。
(え、まさか。本気、本気!?)
自分で仕掛けておいて、華子は急に焦っていた。
そう、きっと。もう解ってしまったのだ。大人の大佐が、どうやって奥さんを愛しているか。その優しさと情熱を含めた指先と唇に、彼の女性への愛を感じることができていたのだ。
だから許してしまっている。だからもう、これ以上は……。
だけど、遅かった。ブラジャーのホックは大佐がちょっと触れただけで簡単に外れてしまい、ぱつんと弾くようにして華子の胸からカップが離れていく。
「こういうバストの感触は久しぶりだな」
「や、もう……大佐、だめっ」
外れたブラジャーの上、やっと華子が望んでいたように大佐が乳房を自ら掴んできた。
ああ、奥さん。ごめんなさい、ごめんなさい。本当は誠実な旦那さんだったんだろうけど、私の悪戯で――。
「大佐、もういいよ。分かったから、いいよ」
「駄目だ」
大佐の唇は止まらない。華子の首から肩先へと下っていく。変わらぬ熱くて柔らかい愛撫だけれど、どうしてか彼が急に左肩をしつこく猫のような舌で舐め始める。なにかがそこにあるかのように、なにもないのに大佐はずっとそこを舌先で慰めるように舐めては、柔らかにキスをするのを繰り返していた。
優しくて熱くて、でもじれったい程に時間をかける感触に、華子はまたもや身体を震わせ声を漏らしてしまっていた。
「……ごめん、大佐。ほんと、もう、私が悪かったから」
そうでも言わないと、止まりそうにない程大佐が華子の白い肌に吸い付いている。……やっぱり、ちょっとがっかり。すごく素敵に愛してくれる男性なんだと分かったのに、でも大佐も他の群がってくる男共と同じだった。華子を味わって離れなくなってしまったのだから……。
でも不思議だった。華子の乳房を包んでいる手がそれ以上なにもしなかった。ブラジャーを外したんだからカップの下に手を忍ばせて、素肌の乳房を思うままに揉むこともできるんだし、露わになった女の泣き所のひとつである胸先だって弄ぶこともできるのに。なのに大佐はまだカップの上からまるで華子を壁に押さえつけるためだけに握って押しているだけのよう。
それでも彼の口づけと舌先の愛撫はやまなくて、ついに、左肩から華子の胸の谷間に向かっていた。
(んーんーっ! 手は我慢しても、口はきっと私のおっぱいを食べちゃうんだ)
華子の柔肌だけを味わうように大佐が口づけの跡だけ残して、華子の胸の谷間に埋もれていく……。しかし大佐は、その谷間だけ愛撫して、華子の乳房を吸おうとはしない。でも、でも!
「ふ、あん。はあ……あんっ!」
ふいに突き出てしまった喘ぎ声。ほんとうに操られているようで、思わぬ自分に華子は驚くばかり。
大佐は決して華子の乳房をその唇で奪おうとはしなかった。でも、どうして? 肌からは離れてくれない。谷間だけを執拗に吸い、舌先を這わせ、そして乳房の際だけをなぞるように愛撫する。
乳房に触れないのに、そんな、ギリギリの際を、しかも乳房と乳房の間しゃにむに顔を埋めて、どうしてそこだけくちづけているのか。でもそれがとても優しくて熱っぽくて。男として乳房の誘惑に負けても当然なのにそこには触れず、彼はそこだけを愛していた。
え? これが御園夫妻の好みの愛し方?
でも、とろけそうだった。たぶん……不甲斐なくも華子の下のランジェリーはしっとり熱くなっていることだろう。目をつむって全てを忘れてこの男性を心から望めば、華子はきっと切望するだろう。『ああん、大佐。お願い。その唇と指先で私の下の……そこの……』。熱く愛してと。それぐらいの恍惚感。だが華子は理性が砕ける前に彼に呟く。
「やん、大佐。もう、いいわよ、もう、い……」
「我が儘だな。言われたとおりにしてやっているんだから静かに。あともう少しだから」
『うくっ』。大きな手で喘ぐ口を塞がれる。
彼も多少息が乱れていたが口調は変わらぬ落ち着いていて、彼自身はどこも乱れていないように思えた。
それに『あと少しだから』ってなに? 余裕で大佐が呟いた言葉を華子は訝しむ。でもその間も大佐は華子の乳房の間に強いキスを繰り返している。熱い息が肌に広がる度に。大佐の唇と舌先がそこを這う度に。その絶妙な柔らかさに泣きたい程感じてしまった華子は、大きな手で塞がれた口から『んあ、ふあん、あん』とくぐもった声を何度も漏らし、いやいやと首を振ってしまっていた。
そうして我を忘れてしまった頃、胸の谷間を這う唇がやっと華子から離れた。
「あん、……大佐?」
塞がれていた口を解放してくれても、華子の声はすっかり腑抜けてしまっていた。
大佐が離れてしまったのを惜しく思いながら、執着してくれた胸元を見下ろしてみる。そこにはくっきりとした大きめのキスマークができていた。それに肩先にも、左肩にも。胸元にも。くっきりと。
「まったく。オジサンをからかうのは、これきりにしてもらおうか」
力なく呆然としている華子の身体を、大佐が今度はくるりと反転させ、胸を鉄壁に押さえつけれた。
背後を取った大佐が華子の手を後ろ手にして、華子の背に大佐がぴったりとくっついた。
「あ、ああんっ」
もう抵抗する気なんてないけれど、後ろ手にされて従わされている体勢で、大佐は華子の背に手を滑らせてきた。
(あーん、今度こそ、今度こそ大佐が本気……)
でも。それでも良いと華子は崩れきっていた。その熱い手で乳房を弄ばれて、下のランジェリーをお尻から引き下ろされて。この男性がおもいっきり愛してくれるって、どんなに溶けてしまうの。ああ溶けてしまっても良い。
いけないことだと分かっていて、華子はすっかりされるままになっていた。けど……なにやら大佐が思わぬことをしている? ずっと背中でごそごそと何かをしていて華子の肌をもう愛してはくれない。あんなに熱く愛撫してくれたのに。大佐がすっと華子の身体から離れてしまった。
「はい、『奥さんの愛し方』ここまで。これで満足か」
一瞬、華子は『なにを言っているの?』ときっぱり切り捨てるように大佐が離れてしまったことに呆然とした。そして気が付く。自分が貶めておいて、自分が堕ちていた。彼が愛したのは華子ではなく、華子の望み通りに『華子の身体で妻を愛していた』のだと。それでも華子はすっかり彷彿としていた。
だがそんなぼうっとしてしまった華子は、次の瞬間、大佐の手を見てギョッとさせられた。
「よし。これはもらったからな」
なんと大佐の手には『ピンクのブラジャー』が!
ホックが外され、ショルダーも綺麗に外され、あっさりと引き抜かれていたのだ。彼が背中でしていたことって、それ!? な、なんて器用な、いや慣れた指先!
さっきの、華子の胸元と背中から何かがするりと引き抜かれていった感触。
ハッとして華子は乳房を腕で抱えた。ない、大きなバストをしっかりホールドしていた感触がない。スースーして、大きな乳房がふるふる薄手のキャミソールの下で揺れまくり、ぷっくりと胸先が突き出ていた。
「お嬢ちゃん、これでお終いだ。これは罰ゲームな」
「やっだ。なんのつもりよ!」
「だから、オジサンをハメた罰ゲーム。お仕置きだ」
「お仕置きって。いや、返してよっ」
「そのおっぱいのまま陸に帰るんだな。これ、俺が預かっておく」
「鬼畜っ」
「自分の身体を易々と男に投げ出すぐらいだ。他の男にその生おっぱいのままノーブラで服を着ている姿を見られても平気だろ。嫌だと思うなら、反省するんだな」
本当に大佐は真顔で、ピンク色のブラジャーをしれっとポケットにしまい込んでしまったので、華子は唖然とするばかり。
もう、なんなの、なんなの。このオジサン! そうしてなんでも落ち着き払っていて気に入らない! 華子の頭に血が上る。
「どうして、そんな澄ました顔でできるの」
ある意味、恐ろしい男だと華子は思った。
この人は奥さんを愛することで、他の女性を傷つけることも厭わないだろうし。逆にその気になれば、女を簡単に落とすことができる素質があって、奥さんに知られずに余所の女を上手く愛することもできる男なのだと。
「だけど。気が済んだだろう。それとも感じなかった?」
『そんなわけないよな』と、勝ち誇った笑みで華子の顎を掴んで上に向かされた。華子の潤んだ目と弾んだ息を確かめ、またさらに大佐がニヤリと得意そうに笑ったのだ。
またそうして余裕の顔で微笑んだのが気に入らなかった。
だけれど、大佐の言うとおりだった。華子が頼んだとおりにしてくれたのだ。彼がどうやって奥さんを愛しているか。男が本当に心から女を愛した時、どうするのか。
初めてだった。英太以外の男に『このまま抱かれても良い』と崩れ落ちてしまったのは。だからこそ、自分で仕掛けた分だけ悔しい!
いやいや、抱かれたかったなんて認めてたまるか。正気に戻ろうと乱れた髪をかきあげ、華子は大佐を再び睨んだ。
「大佐もやっぱり男だったわね」
そう言ったのに、焦る様子もなく彼はただ華子を見下ろしている。
そんな大佐に、華子は乱れた胸元を見下ろし、キャミソールを引き下ろして散々跡をつけられた肌を晒した。
「こんなに沢山。奥さんに言っちゃおうかな」
それで今度こそ、あの奥様も動揺するに違いない。そして大佐だって……。
「ああ、むしろ見せてやって欲しいな」
「またまたそんなことを言って。奥さんが怒る顔をみたい悪戯のつもり? でも奥さんだって本当は准将という立場があるからオフィスでは澄ましているけど、心の中は穏やかじゃな……」
「いや。見せてみろ。そして彼女が何と言うか、そして、なんと言ったか俺に報告してくれ」
すこしも動じない、それどころか何か確信を持って堂々としているように華子には見えて戸惑った。
「本当にやるわよ」
「最初からそのつもりだろ。だから俺も『みられるの覚悟』でやった」
なに言っているの? このオジサン。奥さんに見られるの前提って。なに滅茶苦茶言っているの?
今までにないやり取りをされ、華子は益々困惑した。見られるの覚悟って?
「華ちゃん。そうして世の中に対して僻んで、自分の身近にある憎しみを見つけたら喧嘩をふっかける。俺も妻も覚えがあるからわからないでもない」
「え……? なに言っているの」
分からない振りをしたが、実際、華子には解っていた。そして触れて欲しくないところを、大佐が平気で鷲づかみにしようとしている。
「俺とうちの奥さんが羨ましいか。だったら早くそこから抜け出して、全てを過去のことと今すぐ終わらせて素直になることだ」『素直になれ』――。一番嫌いな言葉を突きつけられ、また華子の中で憎悪が盛り上がった。
「馬鹿正直に素直になったら喰われるだけじゃない。良いことなんてこれっぽちもない」
そうすることでしか自分を守れなかった華子の、今までの一番の方法で生き方。誰も助けてくれなかったのに、そんな生き方を否定されるのは許せなかった。
だが大佐は華子が一番、気にしていることを言った。
「俺も、俺の妻も、そして英太も――。そこを抜けてきた。君だけじゃない。状態はそれぞれ違うけれどな。その人間なりの『素直になれない』があって、誰もが『もう一度素直さを取り戻す』為に傷つけたり傷つけられたりして生きているんだ。それを誰に対しても忘れちゃいけない。その人それぞれの、自分とは違う苦難があったんだと常に予測することだ。兎にも角にも『自分だけ』なんて考えるのが一番愚かだ」
なにかがグサッと華子の胸を駆け抜けていく感触があった。一番効いたのは『英太も抜けた、素直になった』だった。
「なによ。そういう『綺麗な正しさ』を守れば幸せになれるって言うヤツが、私は一番嫌いなのよ」
「へえ、俺と一緒じゃないか。俺もそうだ。これが正しいんだと一方的に押しつけるヤツ好きじゃない」
「嘘、いま綺麗事言って私に押しつけたじゃない!」
「あー、はいはい、お嬢ちゃん。綺麗事を言ったオジサンが悪かった。さあ、帰るぞ」
大佐から面倒くさそうに背を向けて歩き出した。本当にブラジャーは返してくれなかった!
華子は慌ててキャミソールを整え、胸先が透けないようにと訓練着の前ボタンをきっちり首元まで締めた。生地が厚い服で助かった。でも彼を追いかけると、その胸が頼りなく左右に大きく揺れる。
「ねえ、返してよ!」
「やだね。これでもオジサン、頭にきているんだ」
淡泊な切り返しに徹底され、華子が騒いでも素知らぬ顔で大佐が連絡船へと向かっていく。
やがて乗船場まで来たのだが、本当に大佐はブラジャーを返してくれなかった。
「雷神は如何でしたか」
小型船の操縦士である隊員さんが、にっこりと華子に微笑みかけてくれる。
「え、ええ。すっかりエキサイトしてしまいました。もの凄い臨場感」
「でしょう! 俺も大ファンなんですよ。特にバレット機のエース昇格が成るか成らないか同僚達と興奮して待っているんですよねー」
華子と同世代らしき、爽やかな日本人青年だった。
そんな同世代の男達も、英太に注目して応援してもらっていることも未だに信じられない気持ちで大佐と並んで座席に座った。
「それでは、基地の5番桟橋へ向かいます」
船が動き出して暫く、華子は操縦席にいる青年と時たま目が合うことに気が付いた。隣の大佐がクスリと笑う。
「たいしたもんだ。どの男も釘付けか。ノーブラの生おっぱいだって教えてあげたいよ」
「陸に帰ったら返してよね。鬼畜大佐」
怒った顔をしたいのに青年と目が合ってばかりいるので、華子はただニコニコ。その顔のまま大佐には悪態をついていた。
「さて、どうかな。奥さんに告げ口されるリスクを考えたら、これでも足りないぐらいだ。下も脱がしてノーパンにしておくんだった。そうしたら俺に泣いてすがって謝ったてくれただろうなー」
「サ、サイテー!! 絶対に謝らないっ」
「華子さんが言うところの、『スケベしか能がないオジサンという生き物』の仲間だから。サイテーなんて今更言われても〜」
どうしても動じないヌケヌケとしたその顔! 頭にキタ。絶対に奥さんにみせてやる! 華子はそう決した。
・・・◇・◇・◇・・・
陸に到着しても、大佐は本当にブラジャーを返してくれなかった。
あんまりにも徹底してるので、華子は大佐の横で『いい加減にしてよ、いつ返してくれるのよ』と喚いていたのだが、そのうちに工学科科長室に辿り着いていた。
「お帰りなさいませ」
科長室の大佐の部下が揃って笑顔で迎えてくれる。だから華子もにっこり笑顔に直し、大佐とは一時休戦とする。
まあ、いつまでもこの訓練着というわけにもいかないだろうから、着替える時に返してくるだろうと華子はそれを待つことにした。
「吉田。だいぶスケジュールが詰まっているから、俺、今から出かけるな。ミーティングと空部隊のデーターを確認してくるから暫く留守にする」
またまた華子はギョッとさせられた。大佐がその訓練着姿のまま、科長席に戻ると書類をまとめ小脇に抱えて今すぐにも出かけそうな勢い。
「かしこまりました、大佐。ですが、華子さんは」
吉田大尉が見送ろうとしつつも、きちんと華子をどうするかを聞いてくれ、華子はそこで『ブラジャー返して』と大佐を睨んだのだが。
「准将のところに預けておいてくれ。アドルフかテッドが留守をしているだろうから、あいつが帰ってくるまで彼等に頼んでおいてくれるか」
「かしこまりました。えっと、華子さんは着替え……」
「悪い、急いでいる。女同士適当にしてくれ」
吉田さんがとことん気を利かせてくれ、華子が望む『ブラジャーが必要になるシーン、着替える』ことまで持っていてくれたのに! それを察したかのようにして、大佐はささっと科長室を出て行ってしまった。
華子は目を見開いて呆然とする。あの男、本当にあのままズボンのポケットに華子のブラジャーを戦利品として忍ばせて逃げていってしまった!
「では、華子さん。着替えましょうか」
え。できるわけないじゃない。今日も着てきたのは夏素材の薄手のブラウスにスカート! あんなのに着替えたら今よりスケスケになるし、胸の先っぽも『見てください』状態になるじゃない……! もう、あのオジサンの仕返し、ひどすぎ!! 華子は密かに息巻いたが『華子さん?』と呼びかけてくれた吉田大尉ににっこりと落ち着いて笑みを見せた。
「もう少しこれを着ていてもいいですか。空母でミセスを見て素敵と思ったので、私……このままミセスに御礼を言いに行きたいです」
それらしい理由にこじつける。吉田さんは『そう』とやや腑に落ちないようだったが、最後には微笑んでそのままにしてくれた。
「それでは着替えは後ほど、行きましょうか」
にこやかな吉田さんの後をついて、華子は工学科からミセスの准将室へ向かった。
「ラングラー中佐、お願い致します」
「承知致しました。確かにお預かりしたと大佐にお伝え下さい」
准将室に届けられるなり、こちらのラングラー中佐夫妻も互いが一人の軍人である顔で敬礼をしあい、そこであっさりと別れた。
あの御園夫妻を見て、こちらも同調するように夫妻としてやっていることがよく分かる姿だった。
「直に准将も帰って参りますので、どうぞ、ごゆっくり」
ラングラー中佐の極上の笑顔は、流石の華子もうっとりしそうな程に優雅なもの。……『あのスケベ大佐とはまったく違うわね』と華子は心の中で密かに悪態をついていた。あの大佐を思い浮かべると、ブラジャー片手にニヤニヤしている顔しか思い浮かばなかった。
「雷神は如何でしたか」
にっこり素敵な大人の男、そんな中佐に問いかけられ、華子も素直に微笑み返せる。
「すごかったです! まさか英太があんなに……」
そこまで言って、つい。嬉しさと同時に甲板で衝撃的に真向かってしまった『寂しさ』が襲ってきた。ラングラー中佐が訝しそうに華子を黙ってみていたのに気がつき、華子は笑顔を取り戻す。
「まさか、幼馴染みの彼が『エース候補』だったなんて。まだ、信じられなくて」
満面の笑みだった中佐が、そこで少しばかり神妙な微笑みだけを滲ませていて、そのまま華子を暫く窺うように見ている。
緑の綺麗な瞳がなにもかもを見透かしているようで、華子は緊張した。
「英太の航空ショーは見たことはないのかな」
「横須賀の時に、叔母の春美と一度だけ。でもその時はまだ新人で、ただ先輩達の大演技の側を数合わせで飛んでいるだけしか見えなかったんです。とても悔しかったみたいで、それから『見に来てくれ』というまでそっとしておこうと叔母と決めていました。小笠原に転属になってからは、叔母の闘病が始まったので……彼女を置いて行くのがとても申し訳なく思って」
「それなら、今日の雷神の飛行には驚いただろうね」
「そうなんです。……大袈裟だって言われるかもしれませんが、英太の七号機が先輩に追われて飛び去っていく時。本当に稲妻と雷鳴をまとって飛び去っていったように錯覚した程。ダイナミックで感動でした」
「観てみるかな」
唐突に言われて、華子は『なにを』とラングラー中佐を見つめ返した。すると中佐は准将席の背面にある書類棚へと向かっていった。
昨日、御園大佐が書類を探していた棚の端にある鍵付きの書棚を開けようとしていた。そこから何かを取り出し、華子の元に戻ってくる。
「ここ二年の雷神の航空ショーの映像。よかったらいまから観てみるかな」
差し出されたディスクには、華子が見失った英太がいる……。
だがそこで、華子はふとしたことを思いついた。
「ミセス准将の、現役時代の映像はないのですか」
ラングラー中佐が面食らった顔……。
Update/2010.7.24