暫くの間、英太のことばかり話してくれる子供達に連れられて、華子はリビングにやってくる。
その頃にはもうだいぶ空は夕暮れで、部屋の床がオレンジ色に煌めいていた。
目の前は海で潮騒、そして静かな風と柔らかな陽射し。広々としたリビングに、隣にはリビングを同じぐらいの広さはありそうなキッチン。
そこがまるで厨房のような造り。奥様、そんな本格的なお料理をするのかしら――と、華子は唸った。
そのキッチンでは既に、奥様らしい花柄のエプロンをしているミセスが、野菜を刻んで支度をしているところ。
そんなママを窺うように、男の子二人がキッチンを覗いた。
「なあ、准将ママ。今夜はうちも一緒の夕飯じゃないの」
「母さん、晃の家も一緒のご飯にしようよ」
華子のようなお客さんが来たので、夕食のおもてなしを一緒にしたいらしい。
「最初からそのつもりよ。あとで泉美ママと八重子お祖母ちゃんもくるから大丈夫よ」
それまで遊んでいなさい――と、ミセスがいうと、男の子二人は『じゃあ、呼んでくる』とリビングの窓から飛び出していってしまった。
一人で支度をするミセスの背に華子も話しかける。
「お手伝いしますよ」
礼儀だと思ってそう言ったが。
「んー、今はいいわ。私ただのアシスタントだから。勝手にできないの」
「え、アシスタント?」
「そう、下ごしらえしているだけ」
どういうことだろうと思った時だった。
玄関が閉まる音がして『ただいま』と男性の声。
「ほんっと、すまなかった。テッドや秘書室に任せて帰ってきたんだろ」
制服姿の御園大佐が帰ってきた。キッチンに顔を出すなり、奥さんにぺこぺこと平謝り。
「私じゃなくて、秘書室に謝ってよね!」
やっと奥さんが奥さんらしく目くじらを立てている。そして大佐はやっぱり『すまない、すまない。ほんっとすまなかった』と謝るばかりだった。
「できる分だけやっておいたわよ」
「わかった。着替えてすぐにやるよ」
大佐はそう言うと、アタッシュケース片手に二階へと上がっていってしまった。
そこで華子はやっと思い出した。
「そう言えば。ご主人、家事が得意だったんですよね。英太がそう言っていて、小笠原に勤めはじめてから家の中のこと手伝ってくれるようになったんですよ」
そういうと、ミセスも『あら、そうなの』と驚きの顔。
「英太も、ちゃんとやるようになったのねえ」
感心してくれたが。でもその顔は、とてもじゃないが英太が焦がれている女性には見えなかった。ミセスから見れば、やっぱり英太は『ただの若い男の子』でしかない、そんなお姉さんの顔。そう、春美の顔と同じだと思った。
当たり前だけど……。年の差は否めない。客観的に見たって、若い英太には似つかない中年女性。そして彼女は充分それをわかっているし、それ以前に大佐の妻であり子供の母であることを忘れないだろう。あの夫が忘れさせないだろう。
そんな家庭にある女性に焦がれるなんて――。
英太の馬鹿。馬鹿。どう見たって、中年のおばさんじゃない。旦那に愛されて、子供に慕われて。
心の中でそう言いながらも、華子はミセスの……いや、葉月さんの横顔を綺麗だと思っていた。
どうしてかわからない。今、この家庭に戻ってきた彼女のことをやっと『ミセス准将ではなく、葉月さん』だと見ることができて、それではじめて綺麗だと。何故なんだろう。
もしかして英太は、この女性のこの顔を知って? それとも基地で見せている『ミセス准将』の方に惹かれたのだろうか?
「よし。やるか」
青いストライプのシャツに、こちらもジーンズに着替えた大佐が戻ってきた。
すっごいあっさりしたお洒落なのに。制服を脱いだ方が若々しく見えるってどういうこと!? 華子は目を見張った。仕事場では使っていなかった、随分と太い黒縁の眼鏡にかけかえ、ありふれたシンプルな格好なのに。
大佐は意気揚々と黒いエプロンを身につけると、さっそく厨房のような調理台をひと眺め。
「チキンの下味は」
「ハーブは慣れていない華子さんにはキツイと思って、塩胡椒だけ。あとラタトゥイユの野菜はこっちね」
「了解」
やはり。ここの『一番シェフ』は旦那さんのようだ。
御園大佐は、調理台にある食材をざっとひと眺めすると、その中でもひときわ目立っていた『鯛』を1尾、手にとって奥様へと掲げた。
「いつものカルパッチョにしよう。葉月、これ頼む」
「はあい」
あのミセスが今度は従えられて、ちょっと気が抜けた返事をした。
だけれど、その大きな鯛を旦那さんの手から受け取ってから始めたことにも、華子は驚くことに。
なんと奥様が豪快に包丁を持って、ザザザと鯛をさばき始めたのだ。
「メニューがマルセイユ風だから、アラで作る潮汁は合わないかしら」
「合うだろう。マルセイユも小笠原も海の土地柄。お前の潮汁は最高に美味いから、ご馳走してやれよ」
「じゃあ、そうするわ」
そして旦那さんは奥さんの隣で鍋を片手にコンロで調理を始めた。
その手先が手早い。にんにくの薄皮をテキパキと剥いて、片手にオリーブオイル。大佐が動かす手元から、いい匂いがあっという間に立ち込めた。
「すぐできるから、待っていてくれな。華ちゃん、嫌いなものはあるか」
「な、ないですけど」
「良かった。勝手で悪いけど、俺の得意料理な」
マルセイユ基地勤務時代に、親代わりだったステイ先のお母さんから教わった料理で、『俺のおふくろの味』と大佐が言った。
鍋に夏野菜を放り込み火に仕掛けたままにすると、次には厨房のような調理台で大きなボウルと泡立て器と手にした。
「あの、手伝います。マルセイユ風を側で見てみたい」
本気で申し出ると、大佐が笑顔で『どうぞ』と花柄のエプロンを差し出してくれた。
「じゃあ、まずはオリーブオイルだ。葉月の左下の扉を開けるとあるんだけど……」
「左下、ね」
エプロンを着け終え、華子も動く。奥様の隣に行くと彼女はもうレタスを敷いた大皿に鯛の刺身を散らしているところ。見事で唸った。
言われたとおりの扉を開けると、オリーブオイルらしきものが何本もあって……。
「え、大佐。どれ?」
「うーん。ミコノス産とかマルセイユ産とかいろいろあってだなあ。さて、今夜はどれにするかな」
これ、大佐のこだわり? 華子はまた目を丸くした。
「せっかくだから、華子さんのお好みのものにしたら。それ全部、大佐がフランスの実家から取り寄せたのよ。あっちの味じゃないとダメなんですって」
へえ、余程にあちらの土地に思い入れがあるんだと思わされた。
「面白そう。じゃあ、この見たことがないボトルの試してみようかな」
如何にも外国からやってきたと分かるボトルを三本手にして大佐のところに戻る。
「驚くなよ。日本で売っているのとはちょっと違うんだ。特にミコノスのヴァージンオイルはくせがあって、でも慣れるとやみつきになる」
小皿に少しずつ大佐がオリーブオイルを出してくれる。それを華子はひとつずつ味見してみた。
「うわ、これ、強烈っ」
「だろ。蛸とブラックオリーブと合わせると美味いんだ。子供達には嫌がられるから俺だけこれをかけて食べたりする」
「でもこれ。ワインに合いそう! 私、これがいいな〜」
「よし、今日の酒は辛口の白と行くか」
「どうせなら、チキンもマルセイユ風ハーブがいいな。きつくても私、その香りを知りたい」
そういうと、大佐の嬉しそうな顔。そうしようと、ハーブが揃えてあるラックへと向かいパパッと下ごしらえをしているチキンに味付けをしてくれた。
その後も大佐の手際に手捌きはとても鮮やかで慣れたものだった。奥様もアシスタントと言ってはいたけれど、旦那さんの手間が軽くなるよう出来ることはちゃんとやってしまう。
ボウルに華子が選んだオリーブオイルに味付けをして、奥様が並べた鯛の大皿にフレッシュハーブとブラックオリーブを散らしていく。それを綺麗に、しかも自然に仕上げていくのは本当に見てみてもショーみたいで、華子も感嘆。
「大佐、すっごーい。お料理が趣味だったんだ」
「というか。フランスの母親にきちんと独り立ちが出来るようにとステイしている間に厳しく仕込まれたんだよ。優しいお母さんだったけれど、キッチンでは厳しかったな」
「えー。すごいお母さんなんだ。大佐の本当のお母様もびっくりされたんじゃないの」
何気なく言ったのに。そこで大佐の笑顔が一瞬消えてしまった。そして奥様も肩越しにちらりと振り返った。でも二人ともすぐに元通りに。そんな大佐が元通りの微笑みで言った。
「俺、母親とは死別でね。二歳の時に逝ってしまったから、あんまり覚えていないんだ。だから、フランスのママンが俺にとって初めての母親の感覚っていうか……」
「あ、ごめんなさい」
「別に、気にすることじゃない。こっちから言わなくちゃ誰だってそう思うのが普通だろう」
それでマルセイユが大佐にとっては『故郷も同然』という思い入れを華子は初めて知る。
そんな大佐のこと。どんなふうに生きてきた人なのかとちょっと一歩退く気持ちで横にいたら、そんな華子を気遣ったのか大佐は思わぬことを言いだした。
「俺の横浜の実家には、継母がいてね。親父とは二十歳もの年の差結婚。俺とは十歳しか違わない」
その先を言おうとした大佐が、どこか言いにくそうに一時黙ってしまったが。
「その十歳年上の継母が、俺の初恋。側にいる綺麗な女性を毎日見て、その上親父の奥さんで、さらに弟を身ごもった時には堪らなかった。それどころか、俺が年頃になると襲いたくなる衝動もあって……」
急につらつらと出てきた大佐の過去に華子は息を引き、そして思わず奥様を見てしまったが、彼女は准将室で見せていた落ち着いた横顔で潮汁を作っているだけ。
「最悪の事態を避けるために、遠い外国へ行きたいと。だからマルセイユに飛び出した。そこから帰国する気はまったく起きなかった。絶対に帰りたくなかった。その十五年、俺の家族はそのステイ先のファミリアで、両親はパパとママだった」
「十五年も……」
「ああ。だから俺、分かるんだ」
なんとなく、大佐が言いたいことが華子にもうっすらと見えてきた。それを大佐が言った。
「分かるんだ。恋をしてはいけない年上の人妻に恋い焦がれる英太の気持ちがな。そんな恋に捕まった男の、年上の女性への憧憬。あってはいけないことを懸命に断ち切ろうと、それだけのために生きている――。その胸つまる思いが分かるんだ」
何も言えなくなった。そして華子はやはり奥様を確かめたけれど、彼女は淡々と鍋に向かっているだけ。その背は、いま抱えている部下からの思いと、そして夫の気持ちをどう思っているのか。なにも感じさせてくれない冷めた背中に思えた。
「だから、英太をどうしたいっていうの。大佐は」
「別に。そのままにしてあげたいと思っている。俺もそうだったから。誰かがテコ入れても、英太自身でその気持ちと対決しないと先には進めないよ」
「大佐は、どうやって前に進めたの」
華子がそう言うと、急に葉月さんが鍋に蓋をして『洗濯物を片づけてくる』とキッチンを出て行ってしまった。その静かな背を大佐が見つめていた。
「あいつだよ。あのじゃじゃ馬娘に引っかき回されて、気が付いたら小笠原にいたんだよ」
「あ、っそう。そういうこと。なるほど。奥様との恋が本物だったと言いたいんだ〜」
「ま、そんなところかな」
『のろけ、のろけ』とからかっても、大佐はいつも通りに余裕で笑っているだけ。
でも、と華子はキッチンの外を見る。奥様は『照れてしまうから出て行った』ともわかった。
「いまは横浜の実家に帰っても大丈夫なの?」
「ああ、帰国した後すったもんだあったけれど。そのすったもんだも、うちの奥さんが仕掛けたんだ」
「奥さん、冷めたように見えて。けっこう、強引で豪快なんだ?」
「そ。周りは堪ったもんじゃないと最初は文句を言うんだけれど、あの冷めた顔に安心していたら、いつの間にか知らない新しいところに連れてこられている」
だから俺はマルセイユから、『うっかり』小笠原にいるんだよ――と、大佐の笑顔。
「恋って、うっかり……なんだ」
ふいに出ていた呟きに、華子は自分で驚き――そして隣では大佐が華子を見守るように、眼鏡の奥で優しく滲ませた目を見せてくれていた。
「そう。うっかり……。華ちゃんも既にうっかり、だとは思うんだけど」
「……思い当たらないけど」
「じゃあ、当たり前すぎてわからなくなっているのかもな」
すぐに分かった。英太のことを言っているのだと。どうしてそんなに英太と向き合わせようとさせるのか、華子は困惑した。
「隼人君、なにか手伝うわよ」
勝手口から海野夫人が子供達と現れた。
「お祖母ちゃんも手伝うよ」
割と背が高い細身のお祖母様も大皿を持って現れた。
「きっとおもてなしは、隼人君の『マルセイユ料理だろう』と思って、パンを焼いたよ」
「ありがとう。八重子祖母ちゃん。こちらは海野の母で、八重子さん」
大佐の紹介に、華子も挨拶をすると、お祖母様の割にはとても華やかな雰囲気の笑顔をみせてくれた。
「子供達がデザートを作りたいって言っているの。私が手伝うわ。ほら、貴方達、華子さんに聞いてみなくちゃ」
楚々としたままの泉美さんが、柔らかに子供達を華子へと後押しした。
「スフレケーキを作るんだ。華子さん、チョコレートとか大丈夫? チーズとかも大丈夫?」
「華ちゃん、こいつ、菓子を作るのが趣味なんだ。料理好きな大佐パパの影響」
海人君は品良く『華子さん』、晃君は相変わらずの生意気さ故か気易く『華ちゃん』。二人の違いがだんだんわかってきて、華子はちょっと可笑しくて笑っていた。
「全然、OK〜! すっごいね。男の子が作るお菓子、楽しみ」
「あつあつ焼きたてスフレにバニラアイスを乗せるんだ」
「すっごいー! 美味しそう!」
「華ちゃん! 俺も海人を手伝って作るからなっ」
二人の男の子にも、快くもてなしをしてくれて華子もよい気分。
キッチンがあっという間に賑やかになった。
葉月さんも戻ってきて最後の仕上げに。大佐もチキンを焼き始め、泉美さんと子供達はお菓子作り。八重子お祖母さんがテーブルをセッティングし始める。
それを華子も手伝いながら肌で感じる熱気に、じんわりと汗をかき始めた頃。この家の玄関からまた『ただいま』という男性の声。その男性の足音がこちらに向かってきた。
「おおっ! もう出来そうだな。今夜はご馳走ってわけか」
良く通る大きな声がリビングに響き渡った。
「遅いじゃないか、まったく。あんたも早く手伝いなっ」
「うっせいな、おふくろは。わかっているよ」
テーブルをセットしている八重子お祖母さんの、うってかわってつっけんどんな声。
その男性がキッチンにもやってきた。ジャケットを脱いで、黒ネクタイを緩めながら現れた長身の男性。黒髪の、ちょっと怖いくらい鋭い眼差しの、でもすっごい男前の人で華子はついつい釘付けに。でもすぐにわかった。雰囲気が晃君に似ている!
「あ、彼女か! もうカフェで噂になっていたぞ。御園大佐が愛人を連れて帰ってきて、准将室でひともめしていたって」
海野准将のお帰り――。豪快に笑って彼が『いらっしゃい』と、またもや大きな声。
「お邪魔しております、海野准将」
「あははは! すげー楽しませてもらったよ。俺はすぐにわかったから、若い奴らが噂しているのニヤニヤして聞いてきた」
こちらも御園大佐が浮気などするはずないと、すぐに見破った人のよう……。だけど、そんな豪快な海野准将は、男らしい顎をさすってまた華子を見ながらニヤニヤ。
「へえ、英太のヤツ。羨ましすぎるな」
隠そうともしない男丸出しの視線が華子の頭から胸から腰から……足までなぞっていったのがわかった。
こちらは、どこか平静を装うことを当たり前としている御園大佐とは違って、見るからに男性の匂いが……彼の息子の言葉で言えば『プンプン』。惜しげもない男の気を放っている。
「達也」
華子の背から、そんな冷ややかな奥さんの声。すると途端に海野准将がハッとなり表情を凛々しく改めた。
「まあ、葉月に誤解された方が俺は面白かったとは思うんだけどな〜。ざんねーん」
副連隊長になった男性の割には、ノリが軽い快活な人だった。そんな彼を見て、後ろにいた母親の八重子さんが一喝。
「まったく品のない男だね!」
「その品のない男の母親だろ!」
「もう、お母さんと達也も喧嘩する前にお支度をすませてくれませんか。その後で外で言い合ってください」
ぎゃあぎゃあと言い合いを始めたが母子が落ち着いた泉美さんの一言で簡単に口を閉ざし、大人しくテーブルの準備を始めたではないか。
でも華子から見れば『なるほど』な光景。海野らしさがわかってきた気がした。そんな中ですっと落ち着いているのがやはり泉美さんということらしい。
「さあ、皆、座れー」
大佐の合図で、キッチンをところ狭しと駆け回って支度を手伝っていたファミリーがわあっとリビングのテーブルへと集まった。
一人一人が手伝う夕食の支度、テーブルいっぱいの料理、そして賑やかに集まったファミリー。そこで華子は御園大佐と葉月さんの間に座らせてもらった。
乾杯の音頭は、海野准将。
「えー、では。家族である英太の雄姿を明日、無事に見届けることが出来ますように。また華子さんに小笠原が気に入って頂けますように。そして華子さん。我が家へいらっしゃい。家族全員で歓迎致します」
『乾杯』――。大佐が選んだ辛口ワインのグラスが、煌めく御園家の照明の中で弾け合った。
とても賑やかな食卓だった。
考えられない豊かさ……だった。
皆で協力して出来た食卓。そして笑い声が絶えない食卓。幸せそのものが、そこにあった。
それを笑って華子も……歓迎されたのだから混じって一緒に笑っていたのだけれど。
いつしか華子の気持ちは沈んでいた。
いつも羨んでいた妬まし思う理想的な家庭の光の中に無理矢理連れてこられ、そして『お前も目指せ、笑え』と言われているように感じていた。
そんな様子にすぐに気が付いてくれたのは、葉月さんだった。
「大丈夫?」
勿論、華子は『大丈夫』と笑顔で答えていた。でも葉月さんの目が『それは嘘だ』と言いたそうに、華子を見ていた。
「いまは皆、笑っているけどね。私達、出会った時は誰も笑っていなかったのよ。私もね……」
私も……? その続きを一番聞きたかった。でも、ミセスは眼差しを伏せそれ以上は言わなかった。
「ここに孤独を持ち寄って、今は笑顔なのよ。それぞれの過去を持ち寄って家族になったの。最初から笑顔なんかじゃなかった」
飲みかけの白ワインをテーブルの上にある照明に透かし、彼女の目がガラスのように硬く凝固したように見えた。妙に物質的なその眼差しには、感情がないように見えたのに、華子にはいい知れない彼女の想いを感じて仕方がなかった。
賑やかな夕べが去さると、夜更けに包まれた海辺の家は涼しげだった。
横になったベッドの向こう、この家の窓辺から入ってくる初夏の風は心地よく華子の眠りを誘ってくれた。
遠く、ピアノの音? 深い眠りに落ちていく華子を優しく抱くように消えていった。
ここは安らかだった。
春美のマンションで住まわせてもらっている華子の部屋。それに似ている。
笑顔ではなかった人たちが、孤独と過去を持ち寄って出来上がった家。
それでも華子は羨ましい、妬ましい。そんな人たちが『だから貴女も幸せになれる』と簡単に言うのが許せなかった。
どうしてか眠りながら、華子は悔し涙を流していたようだ。
どうにもならないことがあるのに、まるでどうにでも出来たかのように簡単に言う幸せな人が許せない。
そんな人たちの『私達からの優しさ』を、お情けのように、余計なお世話で華子をここに連れてきたんだって。
でも、華子は眠る。
それでも明日、英太は見たいから。
英太……。どうしてこの島に惚れたの? どうしてあの幸せそうな奥様に横恋慕をしているの?
昔の英太だったら、鼻で笑って、彼女を馬鹿にしていたんじゃないの。それこそ憎むように、反抗していたはずなのに。どうして?
翌朝、目が覚めた華子の目が少しだけ赤くなっていて自分で驚いた。
「もう二度と来ない」
英太を見たら、すぐに帰る。そう思った。
華子には居心地が悪いことこの上ない、そんなところだと痛感したから。
Update/2010.7.7