ついにその日がやってきて、英太は今、ひとつのバインダーを閉じた。
そして目の前の、教壇にいる教官も、英太と同じバインダーを閉じた。
「ようやっとだな。お疲れ様。これにて工学科での研修は終了。明日から鈴木大尉は晴れて、御園准将下に置かれ『フライト雷神』のメンバーだ」
工学科の講義室。それは何ヶ月とかいう長い期間でもなかった。ほんのちょっとの。
それでも本来なら『数週間の研修』であるところ、英太は一ヶ月以上かかってしまった。その間にどれだけのことがあったか、英太は振り返る。そしてそれは、横須賀に留まっていたら決して得られないことばかり、気が付かないことばかりだった。
そう振り返りながら、英太は目の前の教壇を見上げる。
そこには御園大佐がいる。
英太をこの小笠原へと突き動かしたのは確かにミセス准将ではあるのだが、小笠原に来てからまず一番手の突風を英太に吹き付けてきたのはこの大佐だった。そして彼はそんなミセス准将の夫だ。そしてミセス准将はこの『食えない男』の妻だ。
御園夫妻に出会って、英太の中で何かが動き始めている。それがどういうものであるかはまだ英太自身は分からない。
だが、コックピットに乗り込み、甲板を飛び立ち、空へ行く――。この夫妻の背後からそんな流れが常に見えている、そして英太は見せられた気がした。だから英太もそれをしてみる。
そして彼等をもっと見てみたいと思っている今。
「有り難うございました」
工学科の長である大佐。にも関わらず、彼自ら英太の教官となってくれた。
そして次から次へと衝動だけで暴れる英太を、ことごとく受け止めてくれたと言っても良いだろう。
そんな教官も初めてだった。だから英太は、そこだけは礼を言っておきたかった。
「なんだ、かしこまって。お前らしくないな」
と御園大佐は笑い飛ばしてしまった。
彼も彼なりに照れくさいようだった。
「まあ、形式だけどな。研修を終えたというサインをしてもらおうか。これを大本部に提出して、お前の身の置き方、つまり『部署』と『辞令』をきっちりと出してもらわないとな」
別れの挨拶もそこそこか。御園大佐が英太の机まで降りてきて、一枚の紙を差し出した。
それを受け取り、彼の指示に従い、英太はボールペンでサインをする。英太のサインの下に、『指導者』のサイン欄もあり、御園大佐がそこにサインをした。
「これで本当に終わりだ。そうだな。あとで平井中佐がいる雷神の『班室』を案内しようか」
あっさりしていた。
だが、きっと『研修』なんて本当に『過程』に過ぎない。訓練校の卒業とは違う短期の、それだけの。
でも英太にとってはパイロットになってから、本当にめまぐるしい、そして嵐のような心境の日々だった。
それにいつまでもこの大佐に側にいて欲しいような気にさせられた……。
そんな英太をどう見たか分からないが、『あっけない終了の一枚』を手にした御園大佐がそっと笑った。
「これで講義室で、俺が教官として向かうことは終わりだが。甲板では俺もホワイトを頻繁にチェックしにいくし、訓練も参加しているから、その時またな……」
「はい」
「そこでまた、鈴木らしいフライトを見させてもらうよ」
「はい」
見守ってくれる――と、遠回しに言ってくれたようでほっとした。
まさか。こんなふうに、心の隙間に人を入れてしまった気分になったのは初めてだった。
だがそれでも御園大佐は、食えないおじさんだった。
そうして英太が従順に慕っている心を知ってか知らずか、また人をからかうような笑みを浮かべている。
「もう俺の手から離れたから、お前がなにやっても、俺は楽しませてもらうだけだな。後は、奥さんに丸投げってところか?」
問題児を今度は妻にバトンタッチ。問題あるまま、丸投げ。あとは俺、しーらねーっ。 ――と、言うことらしい!?
「ひでぇー旦那! 奥さんに丸投げってさー」
「なに言っているんだ。酷いのは旦那の俺じゃなくて、嫁さんの方だ。俺が今までどれだけあの嫁さんに酷い目に遭わされたと思っているんだ。お前もな、覚悟しておけよ。『あの女』、とんでもないアッパーパンチを隠し持っているからな」
脅しじゃない。俺は真剣に言っているんだぞ。と、御園大佐がずいっと真剣な顔を英太に突き出してきた。
だがそうして『あの女は凄い』とか、以上に彼女の旦那が自ら『覚悟しておけ』だなんて、彼女を恐れさせようとする。そうなると英太のひねくれた心にあっという間に火がついてしまう。
「どうっすかね。そうは言っても、奥さんも若い時ほどじゃないでしょ。幹部の男達にがっちり守られて、がっちりサポートしてもらっているのに」
反抗的に切り返すと、素直でない英太を御園大佐が冷ややかに見下ろしている。
「お前もかなり問題児だが、『あいつ』はもっと問題児だったみたいだからな。問題児同士の感覚でやり合うつもりなら、お前なんか、あっという間に吹っ飛ばされる」
「へえ、結局奥さんをかなり評価しているってことっすね? そりゃ、手応えがありそうで楽しみっすね」
「評価だと? まあ、いいだろう、今はな。どうせ俺の手を離れるし、航行中はノータッチだからな。せいぜい、ひねくれたパイロット同士で大喧嘩でもしてこいよ」
「俺が大佐の奥さんと大喧嘩? なんすかそれ」
でも、英太はどっきりとした。
なんとなく。今、御園夫妻、特に妻のミセス准将のことを考えると、気持ちが落ち着かない。これから航行に出て、閉鎖的になる空母艦の中に一ヶ月以上。艦長はミセス准将。そこでは彼女と向き合う機会が多くなるだろう。いや、ホワイトのテストパイロットに選ばれたのなら、彼女と訓練で毎日顔を合わせるだろう。そうなると、英太にも目に見えてくるのだ。彼女と真っ正面向き合う度に衝突してしまうことが――。彼女だから余計に……それもあるが、英太は横須賀でもどんな上官にも反発してきた。だから、なおさらに。
それを御園大佐はもう見透かしている。
妻とこの青年が密着した期間に、どれだけ衝突し合うか。そしてそこに、彼女の夫であり、英太の教官である大佐はいない。つまり、間に立つ人間が皆無ということだ。
「だが、お前にとっては、それがいいかもしれないな……」
「俺が奥さんと喧嘩ばっかりして、ミセス准将の指揮に迷惑をかけても?」
だが、そこで御園大佐がふと不敵に笑った。
何故か英太はそれを見て、気持ちがすうっと冷めていくのを覚えた。
そんな落ち着きある笑み。その顔で大佐が呟く。
「知るか。『葉月』が空に海に出て行ったら、あれの自由だ。あいつがどの男にどんな迷惑をかけられても、その男の為に首をつっこんでも、どちらにせよ『勝手にしろ』――だ」
突き放した夫の言葉に、英太は固まってしまった。
いつも妻のミセス准将より、この大佐に驚かされる。
彼は夫であって、時にはまったくもってそうではない。
妻を、女としても妻としても上官としても突き放してしまうことが出来るのだと。その『男』として、そして『夫』としての姿がいつも英太には不思議だった。
その上、大佐は英太にも言った。
「お前も気が済むまで、あいつにぶつかったらいいだろう」
たぶん。まだ彼女がパイロットを女として辞めたことに、全面的な納得を得ていない英太を大佐は知っている。
だから……。『やっとミセス准将と真っ正面向き合えるところまで駆け上がったのだから、行ってこい』と彼は言ってくれているのだ。
夫の御園大佐が、妻に対してもやもやしたままの青年を向かわせる。向かっていけと、許可をしてくれているように感じてしまった……。
なぜ、この人は……。
英太を寛く受け止めてくれたこの研修。それと同じように、彼は妻をのびのびと空へと飛ばしているのだ。そう思えた。
・・・◇・◇・◇・・・
終業後、十八時。
工学科を退出し、英太は一度、宿舎に戻る。
工学科に置いていた日々の荷物は既に持ち帰る。明日からはようやっと正式な小笠原の空部隊員、パイロットとして属することが出来る。ホワイトスーツを着て、ついに甲板へ。
そんな一区切りついた思いで、英太は御園大佐に『指示』された通りに正面玄関で待っている。
(夜間飛行か、甲板に連れて行ってくれるのか。それともチェンジで特別演習か……)
なにか秘密の訓練を考えてくれているのだろうか。
あの大佐のことだから、きっと特別な何かを考え、それを『仕上げ』にと思っているに違いない。
先日の『三日でホワイトを乗りこなす課題』をミセスに突きつけられた時もそうだった。ミセス准将の目を盗んでの、夕方から日没間際の秘密訓練。あんなふうな……。
「待ったか」
アタッシュケースを片手に持っている御園大佐が工学科棟から出てきた。
「いいえ、俺もいま来たところです」
「では、行くか」
ついてこい、とばかりに、大佐が先に歩き出す。
その後を英太もついていく。
終業後、互いに夏制服姿。黒い肩章に白いシャツ、そして黒いネクタイ。
御園大佐の格好をみて、英太は『訓練ではなさそうだな?』と首を傾げた。
「ほら、鈴木が先に乗りな」
そんな御園大佐が行き着いたのは、基地の正面玄関、警備口。そこの外直ぐ側は、医療センターへの入り口へ続く道。そこでタクシーが待っていた。
そのタクシーに御園大佐に『乗れ』と言われている。
『まさかなあ』と英太は思いつつ、なんとなくこの時点で『訓練ではない』と悟った。
「大佐。いつも有り難う」
「いえいえ。漁村のいつものところ、お願いしますね」
御園大佐が乗り込むと、顔見知りの運転手だったらしく、彼等は親しげな笑みを交わす。
(漁村??)
まだ島に来たばかりの英太は、この基地沿いにあるコンビニとスーパーぐらいしか出向いたことがない。しかも車もないから自転車を購入したぐらい。離島で店が点在、しかも田舎なので店はすぐに閉まる。基地の中や、アメリカキャンプ街の売店でほとんどの用事は済ませられたので、基地外への外出はほとんどしたことがない。だから『漁村』へ行くのも初めてだった。
タクシーは基地警備口手前にある峠道へとはいる。小高いだけの峠をあっという間に越えると、また目の前は海。だが基地街とは違い、こちらは穏やかな民間人の街風景だった。
空かした窓から、基地街とは違う鮮烈な潮の匂いがしてきた。そして魚や貝を焼く匂いも。『なんか美味そうなもんがありそうだ』と、夕飯時だけに英太は鼻をひくひくさせてしまった。
やがてタクシーは港に着いた。
大佐と一緒に英太も降りる。
夕暮れ時の港は静かだった。船の音も、波の音も、潮の香りもする。だけれど静かだった。
「晴れていて良かったな。雨だと駄目なんだ」
なんのことだろうかと、英太は首を傾げた。
そんな御園大佐が何かを見つけて、「いたいた」とそちらへ歩み出す。
その方向を見定めた英太が見つけたのは『屋台』。赤提灯に『なぎ』と書かれている。
「え、もしかして。なにか食いに来たんですか? 俺と……」
「そうだ。研修終了の褒美だ。俺のおごり、遠慮はなし。好きなだけ食って呑んでいいぞー」
褒美って……。と、英太は戸惑った。
しかし、御園大佐はそれも分かっているとばかりに、立ち止まり躊躇っている英太の背を屋台へと押していく。
「まあまあ。鈴木だけじゃないから。研修を終えたパイロットは良く連れてくるんだよ。ほら、雷神のパイロットは外から引き抜きで来た奴が多いから、小笠原の美味い店を教えるついでってわけだよ」
フレディも研修終了の際、担当教官と御園大佐が誘い連れてきたことがあるとのこと。
つまり。研修の慰労もかねて、そして島に馴染んで欲しい為の親睦打ち上げということらしい。そして英太だけにしたことではないと。
「そ、そうっすか。ええっと、では、ご馳走なります」
「お前は日本人だから、ラーメンもおでんも魚介の網焼きとか、全然OKだよな」
「勿論っすよ!」
うわー、ラーメンにおでん、久しぶりー。と、英太の腹も急に鳴る。
「よう、久しぶりだな。大佐」
「将さん、こんばんは。彼は、うちの新しいパイロット。明日からホワイトに乗る雷神の……」
御園大佐がそれだけいうと、タオルをハチマキにしている『屋台の大将』が、すごく驚いた顔を見せた。
「まさか。葉月ちゃんが横須賀で見つけたとかいう……?」
「あれ。俺、彼の引き抜きと研修で忙しくて『なぎ』に来るのは久しぶりだし、そんなこと将さんに教えていないのに良く知っていますね。さては、コリンズ大佐かロベルトだな」
「どっちも正解。デイブとロベルトが、葉月ちゃんが横須賀から引っ張ってきた若僧がとんでもない飛行をすると、かなり興奮していたぞ」
「はあ。流石にここでは、どの男もお喋りになってしまうんだなあ」
御園大佐は呆れた溜め息をこぼしながら、慣れているままに、大将が構えているカウンター席に腰をかけた。
そんな彼の後ろで戸惑ったまま立ちつくすだけの英太だが――。どうも『空部隊馴染みの店』らしいと、察した。
しかも御園大佐は大将を『将さん』と名前で呼び、大将はミセス准将を『葉月ちゃん』と呼び、かなり親しい付き合いをしている様子。
そんな豪快そうな漁村の親父さんと目が合い、何故か英太はドキリとしてしまった。
島の地元民のようだが、大将の目つきは、英太が甲板で良く目にする『海の男』と同じだった。ここに来る空部隊の幹部達が肩の力を抜ける程の店だ。大将もそれだけの男なのだろう?
「おい、良く来たな。お前のとんでもないフライトのこと、聞いているぜ。まー、こいこい、おじさんが先ず、一杯奢ってやるからよー」
一升瓶片手の大将に手招きをされる。
英太はなんだか、恐る恐る、やっと御園大佐の隣に腰をかけた。
「なんだよ。そんなに警戒すんなよ。滑走路侵入飛行をして、あの葉月ちゃんを驚かせた男なんだろう」
英太の前に、コップがごんと豪快に置かれた。
間を置かず、大将がそこにゴボゴボと日本酒を注ぎ込む。英太は目を見開いて、勢い良くコップ満杯になっていくのを見ているだけに。
「さあ、飲め!」
やっと親父さんが『にか』と笑う。
「い、頂きます」
それを英太は一気に飲み干した。
「お、いいねー! フレディには口に合わなかったようで、あいつ一口で吹いたけどな。やっぱり日本人はこれだよな」
フロリダから来たばかりの青年にも、こうやったのかと、英太は密かに苦笑い。あの忠犬のような男、従順な顔で嬉しそうに御園大佐の後をついてきたに違いない。しかし、この慣れない酒を喜んで頂いたはいいが『吹いた』とはね……? そう思い描くと、なんだか英太は笑いたくなってきた。
「さて。それではおじさんの自慢の味を、ご賞味いただこうかね。好物はなんだ」
目の前にあるしきりがある大きなおでん鍋。外は暑い初夏にはなっているが、その匂いには勝てなかった。
英太は『大根、こんにゃく』といくつかの好物を告げると、大将がそれを皿に取ってくれる。そして御園大佐には何も聞かずに、皿に数種類のネタを取り、差し出していた。御園大佐の好みは既に良く知っている、それほどの常連の様だった。
では『頂きます』と、割り箸を手に英太はおでんを頬張ると、隣で御園大佐も食べ始める。そして大佐もコップ酒。
「うわ、美味いっす!」
「だろ。ここ、空部隊の溜まり場なんだ。俺が小笠原に来た時より前から……。そうだな。元はビーストームの溜まり場だったんだよな」
「そうだったんですか。じゃあ、葉月さんも?」
「ああ。そうみたいだな。彼女が俺をここに連れてきてくれたんだ」
『奥さん』ではなく『彼女』。そう呼ぶ大佐の向こうに、もっと若かった『葉月さん』がいるのだろうかと、英太は御園大佐の黒い目を見た。彼の懐かしそうな遠い目。それが物語っている。だが、英太も想像しようとしても、若い二人が思い描けなかった。彼等のそんな時代――。そして大佐が言うとおり、そこのあたりは大将の方が良く知っているようだった。
「ビーストームが俺のこの屋台に通い始めた時は、『なんだ、この騒々しい奴らは』と正直ウンザリ気味だったんだけどな。でも、あの頃の葉月ちゃんの可愛さに負けて〜かなっ」
『わはは』と、大将が大笑い。
またここでも『可愛いかった葉月ちゃん』かよ? と、英太は眉をひそめた。確か、横須賀の長沼中佐も『可愛い人だった』と言っていたと英太は思い出す。今は可愛いというよりかは、小憎たらしい姉貴かオバサンと言ったところだ? まあ、冷たい顔をしているけれど、綺麗と言えば綺麗かもしれない――と、一瞬、英太も何かを認めそうになって、はたと我に返った。
「でもなあ。懐かしいよ。デイブ率いるあのビーストーム一行の、馬鹿騒ぎがね。葉月ちゃんも彼等といる時は楽しそうだったしなあ」
「そうだったみたいですね。俺の知らない葉月だな」
「あ、でも。この旦那がマルセイユから来てから、葉月ちゃんはめっきり女らしくなって、お嬢ちゃんから女になったーって感じだったなあ」
そこで御園大佐が口を付けていたコップの酒を、少しばかり吹いた。
「そ、そういう話を若い奴らの前でするのはやめてくださいよ」
「あーはは。冷静沈着と噂の工学科科長も、嫁さんの話になると慌てるんだよなー。大尉、隼人君の弱点を知りたかったら、おじさんのところに来な。なんでも教えてやるぜ」
「だから、そういうのを若い奴らに吹き込むのやめてくださいよ!」
自分でこの屋台に連れてきてくれたのに、御園大佐ほどの食えない男が、ここの大将にはやられっぱなしの姿。英太は目を丸くしてしまった。
大将は始終、『隼人君』をダシにしてからかって楽しそうだった。おそらく『大佐と部下』の間が上手く縮まるようにしているつもりなのだろう。だが、英太はこの大将と御園大佐の関係を知って、他のことが気になった。
――この大将は、葉月さんを良く知っている。
御園大佐が小笠原に来る前の葉月も。空部隊の男達、そしてパイロットを沢山見守ってきた島の男、ということらしい。
どこかで『これは良いところに連れてきてもらった』と思う自分がいた。だからとて、今日のところは、この『おじさん達のノリ』を黙って見て、それとなく笑うだけだった。
「なんだ。あまり喋らないんだな」
そうしておじさん達の笑い声を聞いているだけの英太に、御園大佐が気が付いたようだった。
「俺、こんなもんっすよ」
「飛ぶことには、口やかましかったのになあ」
「それはパイロットである以上、譲れないところじゃないっすか。そりゃ、必死になりますよ」
「というか。お前はやりすぎ、こだわりすぎ。もっと頭、柔らかくできないのか?」
パイロットの仕事以外は反応しない若者。御園大佐にそう言われるが、英太は黙って二杯目のコップ酒を傾けた。
そうすると会話が続かない中年男と若者の雰囲気に傾いていく――。英太も内心は焦っている。本当はこんな機会に、もっと聞きたいことを聞けばいいじゃないかと。なのに、なにか聞こうとするその『内容』がどうも上官に問うには触れにくいように思え、どんなに気さくな大佐に見えても、それはこちら英太側としてもまだ砕けて聞くことが出来ない。
でも何か気になっている色々なことをなるべく『さりげなく』聞いてみようと、なかなか出てこない言葉を探している時だった。
「隼人じゃないか」
御園大佐の背後に、黒いスーツを着ている長身の男性が立っていた。
英太も思わず見上げてしまった。
大佐よりもっと年上の、そして英太よりも背が高い、そんな男性。そして英太はそんな『新たなおじさん』を目にして、また固まっていた。何故なら、その黒い男性からものすごい独特の雰囲気を感じ取ったからだった。だがそれ以上に御園大佐がその男性を見て呟いた一言に、英太はもっと固まってしまうことに……。
「兄さん――」
『兄さん』!?
英太はさらに、その男性を見上げてしまう。
兄さんって、この大佐の兄貴??
「久しぶりじゃないか、お前とここで会うのは」
「ああ、研修が終わったんでね」
御園大佐がそう言った途端、その黒いおじさんの視線が直ぐさま英太に向かってきた。そして何かはっと気が付いたような顔……。
「まさか……、横須賀の……」
その黒いおじさんも『これがあの横須賀から来たパイロットか』と言わんばかりの視線。
なんで俺は、このおじさん達の間で噂になっているわけ? と、英太は首を傾げたくなった。
しかもその黒いおじさんの視線が英太から外れない。だから英太からつい――
「す、鈴木です」
――つい、自己紹介をしてしまう。相手を圧する迫力を黒いおじさんから感じる。向こうが手を下さずともそれだけで、その雰囲気に英太から動かされているような……。
「御園大佐に研修を受け持ってもらいました」
「ほう、この隼人直々に研修したと……。つまりフライト雷神のパイロット候補生ということだな」
黒いおじさんの冷ややかな視線が英太に注がれる。
何故か英太は固まった。というか、睨まれて動けなくなると言うのだろうか? それはここにいるおじさん三人の中で断トツの眼光だった。だが御園大佐が助け船を出してくれる。
「もう候補生ではない。明日から、正式に葉月のもとで飛ぶ雷神のパイロットだ。ホワイトスーツのな……」
するとまた、黒いおじさんは少しばかり不本意そうな表情で英太を見た。
どう見ても、英太が雷神のパイロットになったことが不都合のような?
「ふうむ。隼人直々にねえ」
黒いおじさんは、そこを妙に強調し、なんだか急に黙り込んでしまった御園大佐の隣に静かに腰をかけた。
「将さん、酒」
「はいよ、純さん」
純さん――。
黒いおじさんは、そう呼ばれているようだった。
「なんだよ。義兄さん。いくら兄さんでも、俺がやっていることは黙っていてもらおうか。俺の仕事は軍のこと。軍人ではない義兄さんはパイロットのことには口出しは出来ないんだからな」
「俺がいつお前が受け持っているパイロットにケチをつけたか?」
その会話を聞いて、英太はなんとなーく嫌な予感を持った。
『それって、その黒いおじさんが俺というパイロットを気に入っていない』ような口振りじゃないか?と、それを御園大佐が『兄貴は口出しするな』と英太を庇っているようにも聞こえたのだ。
「いちいち嫌味なんだよ、義兄さんは。放っておいてくれないか」
「あーそうだな。放っておこうかね。俺はあっちのテーブルに行けばいいのだな」
「そういうこと。俺と空部隊隊員との間に入ってくんな」
何事も余裕だった御園大佐が、この黒いおじさんが現れてからは、妙に機嫌が悪い。しかも本当に『兄貴と弟』と言ったような、兄弟特有の険悪な態度ばかり。それとも本当に仲が悪いのか。
やがてその『純さん』が、フンと鼻を鳴らし、コップ酒片手に屋台外に設置されているテーブル席へと一人向かうとしていた。
「鈴木大尉だったな」
去り際に、その純さんに声をかけられた。
「はい、鈴木英太です」
「ご苦労様。谷村です。また近いうちに会うでしょうね。その時は、よろしく――」
それだけ言うと、兄さんとやらは、また御園大佐をひと睨み。一人でテーブルに行ってしまった。
「だ、誰ですか? 『また会う』って……」
英太は御園大佐にそう問いかけたのだが、いつもは対する人に余裕ばかりの彼が、なんだか気に食わないと言わんばかりの目つきで、兄さんを睨んでいた。
「悪い、鈴木。ちょっとだけ席を外すな。直ぐに戻ってくるから、待っていろよ」
そう言って、御園大佐は自分から追い払ったはずの『兄さん』のところに一直線、追いかけて行ってしまった。
そしてテーブルで二人は額突き合わせ、なにやら言い合っているようだったが、もう英太に視線が向けられることはなかった。
(なんだよ、まったく)
また――。葉月さんだけじゃなくて、こっちのおじさん達も『ワケワカンネー』と、英太はコップ酒を一人で煽った。
すると、目の前で黙っていた大将がそっと教えてくれた。
「大尉も研修をしたなら、ホワイトに携わっている企業とその担当者の名前を一度は見ているだろう」
「ええ、名前だけなら。ただ会っていないのでピンと来ないんですよね。でも、宇佐美の担当者には会いました。会えば覚えていくんでしょうけど……」
そしてその宇佐美の担当が、キャリアウーマンのような女性だったのも印象的だった。気の強そうな女性だったと英太は『佐々木女史』のことを思い浮かべる。
「あの谷村っておじさんの名もあっただろう」
「あったかな……?」
「会わないとピンと来ないなら、じゃあ今夜からはばっちり『クロウズ社の担当』の顔は覚えられたってところだな」
それを聞いて英太は驚き、黒いおじさんが去ったテーブルへと振り返ってしまった。
「ホワイトを宇佐美と共同製造している『クロウズ社』の?」
「クロウズ社の日本支社長と言ったところかな。だから基地に良く出入りしているよ。純さんは他にもいくつか起業しているから、基地では『谷村社長』と呼ばれて皆が良く知っている」
「じゃあ、ホワイトを良く見に来ると言うことですよね」
それでホワイトのパイロットになった英太と『再び会うだろう』という黒おじさんの言葉も頷けたが。
「でも……大佐が『兄さん』って……」
二人のおじさんは、テーブルを挟んで互いに真剣な顔をつきあわせたまま。内容は聞こえてこないが、言い合いが止まらないようだった。こうして見ていると本当に『兄弟喧嘩』をしているよう……。ひとつの戦闘機を挟むことで『兄貴』『弟』みたいになったというのだろうか? あの険悪さも、仲が良すぎるが為のあの兄弟特有の険悪だというのだろうか。
英太はおじさん兄弟をただ眺めてしまうのだが、そこはまた大将が教えてくれる。
「ホワイトを見に来るというよりかは、妹見たさだろうねえ」
「妹?」
「そう。隼人君と純さんが『兄弟』なのは、元々は隼人君の嫁さんである葉月ちゃんが純さんと兄妹だからだよ。あ、でもこっちも義理兄妹な。葉月ちゃんの甥っ子の父親、つまり姉さんの元夫……? いや違うな、ええっと……どう言えばいいのかねえ〜」
え、つまりあの厳ついおじさんは、ミセス准将の『兄貴』??
どう見ても兄妹には見えないぞっ。――それがどういう相関図なのか、英太にはまだよく見えなかった。
大将も今度は、どう言えばよいか迷った顔をしている。つまり『複雑な親戚』ということらしい。
だがそこで英太の中で、やっと相関図が出来上がった。
ああ、そう言えば『亡くなった姉が残した子供、つまり私の甥っ子がいて、その父親は海外での仕事が長かったから、若輩ながら私が預かっていた』という話を思い出したのだ。その海外にいて葉月に子供を任せていたという男が、つまり義理兄が、あの黒おじさんということなんだと。
「ったく。あの兄貴め。妹のことになると、融通が利かないと言うか」
義理兄弟の言い合いが一区切りついたのか、御園大佐が英太の隣に戻ってきた。
だがかなり鼻息荒い。まだ互いに納得できるケリはつかなかったようで、離れた野外テーブル席に追いやられた兄さんも、不機嫌そうにこちらを睨んでいた。
「あの〜。谷村社長にとって、俺って、気に入らないパイロットなんですかね?」
念のため、英太は聞いてみた。
「気に入らないと言うか。あの兄貴は『妹』のことになると、ただの心配性になるだけだ」
「葉月さんを兄貴として心配しているだけで、俺みたいな『下っ端パイロット』も気に入らないってことなんですか?」
「鈴木だけとは限らない。あの義兄さんは……。いちいち義妹の環境に過敏になるだけで――」
御園大佐は益々腹立たしそうに、コップ酒を飲み干した。
そんな大佐が『苛ついている勢い』とばかりに、思わぬことを言った。
「そんなに心配なら、『あの時』、思い切って義妹と駆け落ちをして、手放さなければ良かったんだ。あの馬鹿兄貴――」
葉月さんと、あのおじさんが、駆け落ち!?
英太にはそう聞こえた!
同じく目の前にいた大将も、はっとした顔をした。
「おいおい、隼人君。酔うには早くないか。純さんとの喧嘩なら『家庭内』でしてもらおうか。こっちも毎度は勘弁だよ」
流石の大将も止めずにはいられなかったようだった。
そして大佐もやっと正気になったのか、申し訳なさそうに英太を見た。
「ああ、すまない。鈴木……。我が家のことなんだ。お前は関係ない」
「はあ。それならいいのですけどね」
だが、そこで御園大佐が苦悩するような表情を一瞬見せた気がした。
「でも。お前は知りたいんだろうな。ああ、知っても良いと思う。……あいつのこと」
その言葉にも英太は驚かされる。
『今夜の隼人さん』はどうかしている? 俺をここに連れてきてくれたのは、本当はもっと深い訳があったのではないか。そうでなければ、こんな『プライベート』、この食えない男である御園大佐が、あっさりと油断したとばかりに見せてくれるものだろうか?
あいつのことを知っても良い?
それは奥さんである葉月さんことを、俺に知って欲しいということか?
「鈴木のフライトを見ていると、そう思ってしまうんだ……。俺もどうかしている……」
酒を煽るばかりの『らしくない御園大佐』の姿。英太は当惑するだけだった。
Update/2009.7.7