-- 蒼い月の秘密 --

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18.スウィート・テン

 

 夜になると幾分か涼しくなる。新婚の時に建てたこの白い家は……。
 リビングの窓を開け放つ季節になり、側にある海辺からの潮風が庭の草木の間を縫って、葉月の肌まで届いて優しく撫でていく。
 灼熱の甲板にたちつくす真昼と違い、我が家では、心地よい夕べが過ごせる。一日で一番ほっと出来、自分らしくなれる時間と空間。

「そうよ、明後日。まずテッドが横須賀入りするから、その時に合流して搭乗手続きをしてね。私? 大丈夫。私の横須賀までのお供は、アドルフがいるわ。うん、うん、大丈夫よー。彼だってもう身体が大きいだけの青年ではないのよ。テッドにみっちりしごかれた秘書室の男に成長しているんだから――。テッドも試すつもりで、横須賀までのお供を任せたんでしょう……だから……」

 携帯電話片手でソファーに座っている。
 話している相手は宇佐美重工の『佐々木奈々美』。
 ヴァージョンアップをさせたホワイトのテスト飛行を、航行中に行う。彼女も搭乗することになった。

 奈々美の『航行に同行したい』という強引な要望に、テッドは戸惑っていたが、葉月は『彼女を同行させよう』と即座に判断を下していた。
 それでも、いったんは『まだ許可はできない。でも検討してみる』とポーズだけとってみた。でもその反対で『乗せた方が得策』との直感があった。
  空部隊の大隊長直々の指揮であっても、実際は専門家である奈々美がいてくれた方が、テスト飛行もすんなり行くと見ている。
 いちいち甲板から横須賀を通じて、やっと民間企業の宇佐美とクロウズにデーターが渡る。それがもどかしいのだ。訓練現場で奈々美本人が見てくれた方が直ぐさま判断が出来る。時間の短縮が出来るというわけだ。
 だから『渋々』とみせておいて、時間をおいて『規則厳守であるなら……』という絶対条件の下、許可をした。もちろん、奈々美も大喜び。

『信じていたわよ。葉月さんなら一度は渋った格好を見せても、最後には必ず許可をくれるって』

 奈々美も、葉月が判断するまで騒がずに落ち着いてじっと待っていてくれた。
 彼女が言うとおり、葉月が『ワンクッション置いて手配する』という意向を話し合わずとも感じ取ってくれていたのだ。

『規則は守るわ。絶対に貴女の任務の邪魔はしないから』
「そんな心配はしていないわ。心配なのは、私達艦長グループから離れて勝手な行動をすることよ。本当に油断しては駄目よ。男だらけなんだから」
『分かっているわ。それに……覚悟も……』

 奈々美の声が少しだけ固くなり、途切れた。
 あるはずないと思いながらも、万が一を思いめぐらせているのだろう。

「覚悟なんてしないで。覚悟ではなくて『死守』よ。絶対にあってはならないの」
『……そうね。もし、そうなったら許可をしてくれた貴女の過失と責任になるんですものね』
「私達の側に必ずいるのよ。だから同じ部屋にしたんだから」

『悪いわね。艦長室で寝泊まりさせて頂くことになって――』

 そんなことまで気遣えなかったと、搭乗許可希望を強行した奈々美も申し訳なさそうな声。

「いいのよ。貴女がいるのは航行の半分の日程なんだから」
『その間に、あの子が結果を出してくれるといいのだけれどねー』

 『あの子』とは、勿論、鈴木英太大尉のことだった。
 奈々美は、鈴木英太のことを、上官の思惑や組織の枠組みをはみ出した『思い切った飛行』をするパイロットとして期待している。今回、彼女が搭乗に関してごり押しをした一因には、この青年がヴァージョンアップをしたホワイトのテスト飛行パイロットに任命されたことも含まれている。

『あの子なら……と思って、テスト飛行パイロットにしてくれたのでしょ。そこの手配も私の期待通りで、本当に葉月さんは言わなくても考えが通じていて嬉しいわ』
「そう? ただね。これは『賭け』よ。そして私も『首を覚悟』のね……」
『それは私もよ。もし、新型でなにかあったら……。もう私も担当から外されるし、ホワイトの実用化も消滅してしまうかもしれないしね……』

 だが奈々美は溜め息混じりに言った。

『でもね。空部隊の大隊長をしている貴女には悪いけれど。軍は慎重すぎて、やることが遅すぎるわ。正直、近頃、結果がでなくてウンザリなのよ』
「分かるわ。貴女のもどかしさ……」
『ごめんなさい。貴女だって思うように進めなくて、ヤキモキしていると思っているわ。私と同じように……。貴女のせいじゃないのよ。そして誰のせいでもない……。どうしてもそうして進むしかない仕事なのよね』
「そうね」

 これまでの慎重に慎重を重ね、無事故で結果を追い求めてきた日々を振り返る。

『だから、今回の空母艦だけでのテスト飛行。これはチャンスだわ。私、思うの。細川連隊長はそれも分かっていて貴女とホワイトを空母艦に乗せたんだって――。連隊長こそ動きづらいのよ。そして自分の管轄でやられては困るのよ。だから……』

 葉月はそれは既に感じていた。正義とはなにも示し合わせてはいないが『そろそろ結果を出せ。多少、粗っぽくても構わない。ただし、問題にするな。見えないところで上手くやれ』と考え、空部隊長である葉月をこの航行の責任者として選んでくれたのだと。しかもアンコントロールを起こした後、大きな課題をひっさげてのホワイト任務着任。正義もさぞや『ヤキモキ』していることだろうと葉月は思っている。
 彼こそ『雷神』を大切にしてる男。パイロットではない自分が、パイロットだった父親の細川元中将から引き継いだものと思っているのだから。表面は『問題などもってのほか』と慎重に慎重を極め、台風のような行動を起こすミセス准将の手綱を握りしめて目を光らせ牽制している。
 ――でも、彼がその手綱を放した。それは彼が思い描いた『秘密の実験室』が出来上がったからだ。そして手綱を放した『ミセスじゃじゃ馬』の好きなように動かしてみる。それが今回の航行だ。

 そして奈々美は部外者でありながら、流石。そんな正義の心情をしっかりと見抜いて、『ここで勝負だ』と見定め、空母艦航行任務に割り込んできた。
 だから彼女は確固たる声で言い放った。

『大尉なら、絶対にやってくれると思うのよ。葉月さん、上手くコントロールしてちょうだい。期待しているわよ』
「さあ。それは自信はないわ。なにせあの通りの……」
『いいえ。貴女と彼ならきっと……。分かるの。なにか同じようなものを感じるの。貴女のチェンジの演習飛行と、彼のアンコントロール時の飛行を見比べてそう思ったんだもの』

 だが葉月はため息をついた。
 なにかが、もやもやしたままなのだ。
 彼と出会ってからずっとだった。
 なのに、既に彼とは色々と関わってきたのに、なにか晴れて視界が開けそうだと思ったら、すぐに霞んで靄に包まれてしまう。
 彼となにかがはっきりしそうで、まだ、そこに至っていない。

(テッドの調査、絶対になにかを隠している)

 だけれどテッド自身は『もし、私が何かを隠しているなら、それは紛れもなく貴女の為なのです』と言い切っていた。
 なにか隠しているなら、それを葉月が知ると、葉月には不利なこと――という意味。つまり『知らない方が良い』ということだ。
 もう十年も側に置いているテッドが、誰よりも信頼して仕事を共にしてきた彼がそう言っているのだ。

「私と大尉の間に、なにかありそうで……でも、なんだかすっきりしないの」

 ふいにそんなことを呟いていた。
 しばらくの沈黙――。訳の分からない呟きを聞いて、奈々美が途方に暮れているのが分かった。

「あ、ごめんなさい。唐突だったわね」
『貴女と大尉の間にあるなにかって?』

 そうね、彼女なら……と、葉月は奈々美だからこそ、『彼の飛行は私の若い時の飛行似ている。気持ちもきっと同じような晴れないものを抱えて飛んでいる』、『いつ死んでも良い勢いで飛んでいる』のだと。奈々美は黙って聞いてくれた。

『つまり、あの鈴木大尉にも貴女のような過去があると言いたいの?』
「でも、テッドの完璧な調査ではそんなものはないという報告なのよ。ただ、不審な点があるのよね」
『ははん。なるほどね〜』

 なにやら分かったような彼女の呆れた声。

『それはテッドと貴女のご主人が手を組んで、貴女に良かれと思って省いたか隠しているかね』
「私も、そう思ったわ」
『ふーん。で、貴女はどうしてそこまで分かっていて突っ込まないの。テッドに対してなら、上官としての命令だってできるわよ』
「……もし、彼に大尉に何かあるなら。……きっと彼にも言いにくい、言えないことなのよ。それほどの事が身の上に起きていたとしたらね。……私自身がそうよ。なかなか言えないものよ」
『そうだったわね……。つまり、大尉に過去があるなら、貴女からは探りたくない、追究したくない、ということね』

 女同士の話は尽きなかった。
 では、鈴木大尉になにかしらの過去があったとして、彼が葉月が現役だった時のような後先考えない無茶な飛行をするとして。ではそれをどうコントロールしていくべきか。――暫く、女同士の気兼ねない『相談』が続いた。

「母さん、俺、もう寝るよ」

 そんな声が背後から聞こえてきて、葉月は座っているソファーから振り返る。
 タンクトップにショートパンツ姿で寝支度を整えた海人が立っていた。

「あ、おやすみなさい」
「いつまで話しているんだよ。女って長話だな。さては、奈々美さん?」

 息子の不服そうな顔。食事が終わって片づけが済み、それでもリビングで書類を広げ眺め、そして長電話をしている母親に飽き飽きしているといったふうだった。

 相手をするつもりだったのに、すっかり忘れてしまったと葉月は『ごめんなさい』という気持ちでいっぱいにさせられた。
 だが息子は、じっと葉月を見つめている。淡々とした表情で。その顔が、いや顔は母親の葉月にそれは良く似ているのに、表情は父親によく似てきた、この頃。そんな隼人の、物事に動じない様子の顔を今しているのだ。そんな顔。『お父さんの時は、なにかを見透かしている時の顔なのよね』と、葉月はドキドキする。まさか、この息子にもなにか見透かされているのでは? と――。

「奈々美さんと話しているなら、俺、代わってもいい?」
「え。い、いいけど……」

 それだけ? と、拍子抜け……。奈々美も『カイがそこにいるの? 代わって、代わって』と騒ぎ出した。
 葉月は白い携帯電話を息子に手渡す。

「こんばんは、奈々美さん。この前は俺の誕生日に、欲しかったハンディノートを有り難う」
『なに言っているの! お古だから気にしないでって言ったじゃない』
「父さんが持っているハンディノートは、いま仕事で愛用しているから。お古でもらえるのずっと先だと思って諦めていたんだ。それに父さんのは黒色なんだけれど、俺、白色が欲しかったから。機種もドンピシャ。嬉しかったんだ」
『いいのよ〜。また何か使わなくなったらカイに教えてあげるわよ』

 そんな二人の会話が聞こえてきた。
 本当は隼人自身『俺の愛用だけれど、お古であげるか』と言っていたのだが、奈々美のせっかくの好意だからと、そちらに甘えることにしたのだ。
 奈々美は海人をとても可愛がってくれていた。『私の甥っ子のようなものよ』と、いつも言っている。そして『お父さんに絶対に似ないようにね』などと言っている。その意味が葉月にはちょっと理解不能。夫とはどうも悪態をつく仲のようで、奈々美は隼人に会うと直ぐに敵意をむき出しにしている。

(まさかね?)

 ――そう思うこともあるが、考えないようにしていた。
 もしそれが判明しても、知らない振りをすると決めている。

「じゃあ、おやすみなさい。また小笠原に来たら、うちに遊びに来てね」
『ええ、楽しみにしているわ、海人。おやすみなさい』

 電話を手渡すと、海人はすぐさま二階へと向かってしまう。
 もうすぐ出かけてしまう母親は、こんなふうにして女同士の会話に夢中な夜――。まだ父親も帰っていない夜、幼くして家を巣立っていった妹は鎌倉の親戚の家。そんな息子のまだ小さい背を見て、葉月は申し訳なく……。

「ごめんなさい。また横須賀でゆっくり……」
『そうね。海人の傍にいてあげて』

 なんと言わずとも奈々美も直ぐに分かってくれ、葉月は有り難く思いながら電話を切った。

 二階の子供部屋へと入ってしまった息子を追った。

「――海人」

 ドアを開けると、息子はベッドに潜り込もうとしているところだった。

「なに」

 息子は時々、無表情だった。
 その顔がとても大人びている。そしてその顔に葉月は覚えがある。
 自分が、ムリに大人の世界を理解しようとしていた時の……なにかどうしようもないことに順応せねばと思った時にしていた顔と同じような気がしてならない。人は『父親の表情に似ている』とも言うが、葉月はそれでは安心できなかった。しかもその顔をさせているのが、その顔を少女時代に持っていた『母親』自身であるだなんて。

 葉月は横になろうとしている海人のベッドに腰をかけた。

「パパ、遅いわね」
「また『なぎ』でしょ。パイロットの研修が終わるたびに、そこに連れて行っているんだから」

 なにもかも『大人達のすることは理解できている』顔をする長男。
 葉月はなにも言わず、そっと海人のおでこを撫でた。自分と同じ栗毛、そして顔。その顔が気取った大人びた顔から、ふっと緩まった。そして息子も静かに母親の手の感触を堪能してくれている顔……。

「また留守番、お願いね」
「うん、平気」
「週末に杏奈が帰ってきたら、アロマランプを用意してあげてね」
「分かった」

 ああ、しまった。またこの子に『気遣うお兄ちゃん』としてのお願いをしてしまった。
 留守にする間ですら、この子の強がりに頼ってしまっているのではないか。葉月はそう思うって、なにか海人が喜んでくれるようなことを言おうと思っていたのに……。見つからず、何を言っても取り繕っているような気がして、あれこれ考えているうちに、息子をぎゅっと抱きしめていた。

「海人に会えない日が続くなんて、寂しいわ」

 仕事で毎日が忙しくても。夜、この家に帰ってくれば息子がいる。朝食と夕食はなるべくおなじ食卓に。その時に一日にあったことを息子から聞いて、息子が『聞いて』という話に耳を傾けて。
 なのに海に出てしまうと、たとえ家族でも連絡を取り合うことが出来ない。そんな日々がもう目の前に迫ってきていた。

 葉月はもう一度、息子を力強く抱きしめる。
 上手い言葉も見つからず、ただそうするだけ。

 でも、やがて息子がくったりと力を抜いて、抱きしめている葉月の腕に頬を預ける。そして彼の腕も葉月の背を抱き返してくれていた。

「気を付けて。俺、父さんと杏奈と待っているから」
「うん」
「無茶……すんなよ……。ずっと前に、不明機と接触したこともあったんでしょ」

 まるで父親の隼人が言うようなことを、息子が言う。
 日常でも良くあること。父親の隼人が繰り出す小言を真似て、母親を諫めたり……ちょっと生意気な、背伸びの言葉。
 でも、息子は自分の母親が『ミセス准将』という仕事をしている上で、男達を束ねる為にとんでもないことをするのを既に知っていた。だからこその、父親を真似た心配をしてくれているのだろう。

「無茶は慣れっこで、得意分野なの」
「そんなの、得意でも自慢にならないだろ」
「それも、そうね。……でも、何事もなく帰ってくるのが目標よ」
「それは良い目標ってかんじだね」

 『でしょ』と、葉月はやっと息子と笑い合った。そしてまた海人を抱きしめる。

 ――『絶対に帰ってくる』。
 独身の時には無い観念。だが今はそれは一番の信条。
 この子の為に、葉月は一人きりで何処かに消えることなどは、もう……あり得ないことなのだから。

 少し大人の背伸びが垣間見れる年頃になった息子、海人。だから人前では、母親に甘えるような様子はみせない。
 でも今日は、葉月の腕を柔らかに頼ってくれていた。だから葉月もそっと抱き続ける。
 ――それでも今夜は、珍しい。こんなに長く抱かせてくれるだなんて。
 愛おしい息子の匂いに包まれて安らぎつつも、そんなことを感じた時だった。

「ねえ、母さん。大尉にも言いにくいことが身の上に起きていて、私もそうよ……って、何?」

 ドクリと葉月の心臓が動いた。
 胸の中にいる海人にその心音を聞かれたのではないかと思い、なおさらに葉月は焦った。
 どうやら、奈々美との電話の会話を聞きかじっていたようだ。

 母親なのに。葉月は、どう言えばいいのか分からない。
 心の中で、隼人が早く帰ってこないか、彼なら上手く助けてくれるのにと、思ってしまっている。本当は自分自身が子供達と正面に向かい合わないといけないことなのに――。

「それって、母さんの身体の傷のこと?」

 子供達は物心ついた時から『ママの身体の傷』を当たり前のようにして見てきた。そしてある程度問われるようになった時、葉月は『小さい頃の怪我』とだけ言って聞かせてきた。
 お隣の晃もそう聞かせてきた。そして隼人も達也も、泉美も八重子お母さんも。誰もが『今はそれで良い』と言ってくれた。
 だけれど『そろそろ』、彼等を誤魔化すのは難しくなってきたのかもしれない。

 なんて、言えばいいのだろう。

「ごめん、母さん」

 何故か、息子が葉月を労るように抱きしめてくれていた。
 それだけで葉月はもう泣きそうになり、でも堪え、負けずに海人を抱き返した。

「いつか話すわ。いつか……。でも今は……。ごめんね、海人」
「ううん。もういいよ」

 暫く二人で抱き合った。
 やがて息子から葉月の腕をすり抜け、ベッドに横になった。

「母さん。部屋を出る前に『Every Breath You Take』をかけていって」
「いいわよ」

 息子の頬にキスをして、葉月はベッドから立ち上がる。
 子供部屋のオーディオ。海人がいつからか良く聴いてくれるようになった『Every Breath You Take』をボリュームをしぼってかけた。

「おやすみ、母さん」
「おやすみなさい、海人」

 葉月は部屋の電気を消す。
 子供部屋にはベッドが二つ。でもひとつは毎日空いている妹のベッド。そこで兄は随分と前から一人で寝るようになっていた。
 息子の丸い背に詫びるようにして葉月は部屋を出た。

 

 書類を片づけ、葉月も寝室へはいる。
 シャワーを浴び、いつものようにドレッサーで肌の手入れをしていると、エンドレスで流している『Every Breath You Take』が聞こえてくる。

 この寝室にも心地よい夜風が入り込んでくる。初夏の匂い。
 この曲は葉月がマルセイユで何気なくヴァイオリンで弾いた曲。あの時の、思わぬ恋の予感を胸に抱いて、ひとりでひっそりと弾いた曲。でも、今はその恋した人に堂々と弾いて聴かせる。そして彼も……妻から夫への曲として聴いてくれる。夫妻の間では定番の、思い出の曲だった。

 それをいつしか息子が気に入って聴いてくれるようになった。

 やがてオーディオのタイマーが切れ、その曲が聞こえなくなってきた。
 そっと部屋を覗いてみると、息子はぐっすりと寝付いている。そっと見下ろした寝顔に、彼の背伸びはなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「遅いわね。なにかあったのかしら」

 すっかり寝支度を終え、ベッドの上で書類を眺めながら待っていても、夫が帰ってくる気配がない。

 もうすぐ長期の航行出張に出かけてしまうので、それまでは『毎晩、一緒に寝よう』と隼人は言ってくれた。でも、それはどちらかが長く留守にする時にはよくしていることだった。だから今回も。
 彼の『一緒に寝よう』とは、だいたい同じ時間に床につくことを意味する。相手が寝付いてから、横になるのはなるべく避けようという意味。つまり『ピロートークをしよう』ということなのだ。
 ここ最近、ずっとそれをしてきた。いつもショーツも付けないで薄いランジェリー一枚で寄り添う葉月を、隼人は柔らかに抱きしめたり、時には、まどろんでいる妻の背に抱きついてきたり。スリップドレスの肌触りを楽しんだり、たまに妻のそれを脱がせ、互いになにもしなくても素肌で抱き合って暖め合ったり。そんな夜を過ごしていた。出張前の夫妻は、だいだいそんな夜を過ごして、遠距離夫妻になるの心積もりを整える。
 しかし、もう数日後と迫っているこの時期に、夫の帰りが遅いのが余計に珍しい。出かけるまでに、彼の肌を体温をしっかり感じておきたいのに……。葉月はため息をついた。

 時計が23時を過ぎた。いつも夜誘われても、海人が寝る時間までには帰ってくる。たまにそれを過ぎても必ず一報がある。それもない。
 あの鈴木英太と一緒の時に限って、こんなこと。甲板でもないし、あの子が自在に暴れる空でもない『オフタイム』でもなにか二人でやりあっているのだろうかと、ふと心配になってきた。

 やがて、家の前にタクシーが止まった音が聞こえ、葉月は書類を手放した。そして玄関に鍵を差し込む音。ドアが閉まり、すぐさまその足音が階段をあがってくるのが聞こえてきた。

「ただいま……」

 疲れ切った様子で隼人が現れたので、葉月は驚いてベッドを降りた。

「貴方、どうしたの。連絡もないから、心配していたのよ」

 すると、隼人が葉月の顔をうつろな眼差しでじいっと見つめてきた。
 この時やっと……、隼人が幾分か酔っていることを葉月は悟った。

「……俺の、心配? あははは! 俺の心配だってさ」

 隼人は高らかに笑いだした。明らかに様子が違った。

「ふう。流石に呑みすぎた。ったく、兄貴と会うとろくな事がない。一人で飲み直し、そう、俺の気が済むまで飲み直していたんだよ」
「義兄様に会ったの? 鈴木君はどうしたの」

 何気なく聞き返しただけなのに。うつろな目の隼人に既に睨まれていて、葉月はドキリと固まった。

「兄貴のこと、聞きたいか? 可愛い部下のことが気になるか?」
「なに言っているのよ。聞いただけじゃない」
「まあ、いいや。いつものこと、いつものことだもんな」

 また隼人が笑う。そしてふらつきながらベッドに着くと、彼はそのままうつ伏せに倒れ込んだ。それも本当に気を失うように倒れたのでびっくりして、葉月も傍に駆けよった。

「貴方、大丈夫。しっかりして」
「できねーよ。そんな『しっかり』ばかりできるかよ。ああ、いいよ。俺のことは、『いつも通り』、このままにしておいてくれ――」
「わかったわ。貴方の好きにしていいから……」

 でも『ネクタイだけでも、ね……』と、なんとか彼の身体を仰向けにする。
 一応、既に緩まってはいるが、隼人の首を窮屈そうにさせている黒ネクタイをほどいてあげている時だった。

「好きにしていいと言ったな?」

 隼人に、ネクタイをほどいている手首を捕まえられる。
 酔っているうつろな目なのに、その奥が急に輝いたのだ。
 なにが起こるか分かって、葉月はそのまま隼人を見つめ返し、黙るだけ。

「なんで、黙っているんだよ。時々、お前のそういうところ、もの凄くもどかしいんだ。何か言えよ」

 案の定。隼人は捕まえた妻の手首をひっぱりあげ、そのまま男の胸の下に組み敷いた。その勢いで、身につけていたスリップドレスの裾がふわっと捲れ上がる。夫の身体の下、葉月の素足が露わになった。
 それを酔っているくせに、夫は見逃さなかった。すぐさま、その素足を膝から撫で上げられる。しかも勢いで飛びつかれたわけだから、隼人に躊躇いはない。その手先がすぐにかろうじて裾が隠してくれた下に忍んでいる栗毛へと伸びてきた。

「準備がいい」

 隼人らしからぬ笑みを見せられた。
 結婚してある時から葉月はスリップの下にショーツを穿くのをやめてしまった。だから、いつだって隼人は妻を裸に出来た。今夜も、ドレスの裾をまくってしまえば、いとも簡単にするんとした丸い尻を彼は撫でられた。
 『いつも通りのこと』なのに、如何にも妻がこの夜だけ密やかに望み、それを俺が暴いてやったとばかりの……。そんなことを思わせる笑みだったから、葉月は反論してやる。

「いつものことでしょ。もう何年、こうしてきたと思っているのよ」
「やっと喋ったな。黙らせてやる」

 そうして、やっぱり? なにもつけていなかった妻の栗毛の茂みに向かって夫が唇を近づけた。
 酒で酔っているせい? なんだか、いつもと違う吸着力で愛撫をされ、これだって『慣れきっていること』なのに、葉月は思わず『あ』と声をあげてしまった。
 それでも、されるがままに受け入れていると、『何か言えよ』と繰り返す隼人に吸い付かれ、そこをいつも以上に舌先で責め立てられる。
 妻の身体の何もかも知っている夫の責め手は的確で、すぐさま灼ける切ない感触が急激に襲ってきた。 

「も、も、もうっ。何か言えとか、黙らせるとか、どっちなのよ!」

 自分の足と足の間に割り込んで、その間で妻を貪っている。その黒髪の頭を、手のひらで叩いてみた。
 だが、今度は夫から反撃をされる。両足首を握られ、大きく足を開かれた。流石の葉月も、その急激な強引さに驚いて、少しばかり腰が退いた。それでも夫が逃がしてくれず、開ききったそこに覆い被さってきた。

「は、隼人さん……っ」

 葉月の身体の上に覆い被さってきた隼人は、妻の首筋を執拗に愛し、そして指先は強く吸い付いて舌先でほぐしたそこを彷徨い始める。
 夫の太い指先が、でも、機械を整備している器用な指先が、すっかり湿ってしまった茂みの奥をじっくりと撫で始める。

「……っう、ああ、あっん」

 彼の指が熱く濡れていくのが分かる。なにもかも知り尽くした流石の愛撫に、葉月は喘がずにはいられなかった。

「大人しくなったな」

 覆い被さっている隼人が、笑いながら葉月の耳元で囁いた。
 だけれど、やっぱり酔っているのか、いつもよりその指先が乱暴のような気がした。繊細に妻を愛してくれる指先ではなかった。まるで、それは男の欲望だけのような……。
 でも、葉月はそれを拒否せずに、自分の中へとそのまま迎え入れた。自分の奥で暴れ始める夫の指先をそのまま受け入れて、そして感じるままに身体をよじった。

「すごいな……」

 つまり。妻の中から滲み出てきた熱い蜜が、いくらでも指先を濡らしていくことを言っているのだろう。そう耳元で囁かれ、夫にいつものような意地悪をされているのかと思った。
 でも……。どうしたのだろう。妻がいつものようにちゃんと感じているのを確かめて、得意げになっているのかと思ったのに。急に隼人の目が、どこともなく何かを遠く探しているよう……。哀しく揺れた気がした。
 それを見て、でも葉月はそっと微笑む。どこか気が済んだように動きを止めてしまった夫のシャツに触れる。

「すごいでしょ。だから、やめないで」

 シャツの襟を指先でなぞり、まだほどいている途中だった黒いネクタイを引き抜いた。
 静かに指を滑らす妻の仕草を、今度の隼人は大人しく眺めている。
 そのまま、そっと彼のシャツのボタンをひとつ、ふたつ……彼の胸の下から葉月は外す。すると、隼人もスラックスのベルトを外し始める。手際よく、あっという間に脱いでしまい、隼人はそれをベッドの下に放った。
 その間、葉月はゆっくり夫のシャツのボタンを外している。それをまた、隼人がじっと眺めていた。

「貴方。隼人さん……。私、この部屋にいるし、この部屋に帰ってくるわ。結婚する時、貴方が作ってくれた私が帰る場所じゃない。貴方が言ったのよ。帰ってくる場所を――って。だから私、あの丘のマンションを出られたのよ。あれから、もう十年よ。私の帰るところは、ここしかないじゃない。この十年で、私……どこかに消えたことある? いつだってここにいるじゃない」
「……そうだったな」

 彼の吐く息はアルコールの匂いが強かったが、でも、ようやっと落ち着いた様子だった。
 でも、葉月がそう言えばそう言うほど、彼の目に哀愁が滲んでいた。

「誰も知らないのよ。ここでは。私と貴方だけよ……」
「ああ、確かに……。俺とお前しか知らない場所だ」

 やっとゆっくりとした手つきで、隼人は妻のスリップに触れてきた。その手が腰から乳房へと滑り、スリップを捲り上げ、妻を素肌にしていく。
 酔った勢いで妻を組み敷いた荒っぽさは、もうどこにもなかった。そんな隼人を見て、葉月から彼の首に抱きつく。夫のはだけた首元に、静かに頬を寄せながら葉月は言う。

「貴方、今夜も一緒よ。それに待っていたのは、私よ。待っていたのよ、ここで、貴方が帰ってくるのを恋しく……」

 隼人の唇に葉月から口づけ、そっと吸った。

「葉月――」

 彼のほっとしたような声。
 乳房を包んでいた手が滑らかになり、そして隼人もそっと葉月の唇をその熱い口に含んでくれる。
 静かで柔らかだった口づけが、早く激しく熱っぽい繰り返しに変わる。それに伴うようにして、隼人の手のひらがじっくりと乳房を愛し始める……。その間も、二人は互いの唇を奪い合う。口づけの合間、彼は『葉月、葉月』と何度も呟き続けていた。葉月もそれを聞き届けては胸を熱くして、夫の背に抱きついた。
 互いに素肌になった胸と胸がくっつきあう。その肌をこすり合わせながら抱き合うと、やがて隼人の片手が自分の熱くなったものを握りしめ、葉月の足の間にそれを静かに押し当てた。
 先程すっかり濡らしてくれた葉月のそこを、隼人は狙いを定めるようにして暫くは彷徨っていたが、そのうちに急に力強く葉月の中に入ってきて奥まで貫いた。

「は、隼人さん……」

 途端のしびれるような性感に、葉月は背を逸らし『ああ』と儚い声を漏らした。
 彼の指先や唇ですっかり熱くほぐしてもらったはずなのに、入ってきた隼人にさらにぎゅっと押し広げられているような……。葉月の中で、ぴったりと合わさっている感触。隼人も妻が夫の腕の中、胸の中に陥落したのを確かめたとばかりに、勢いよく妻の中を突き上げる。力強い夫の腰の動きに、組み敷かれている葉月の身体はシーツの上で激しく揺らされ、隙間なく繋がっているそこがとても熱くなる――。ぴったりと繋がっている二人の皮膚が熱でとろけあって一つになっていくような錯覚に落ちる。
 いつもそう。ぴったりと合わさって、そして溶けていく……。それを感じ合うまで、彼も葉月も愛し合う動きはやめない。どちらも見つめ合いながら、口づけあいながら、時には奪い合うようにして愛し合った。
 ――激しい分かち合い。まだ脱ぎかけになっている夫の制服シャツ。彼に突き上げられる度に、葉月はそれを隼人の背で強く握りしめ、引きちぎりそうになった。

 酔いが醒めているのか醒めていないのか。隼人はいつになく我を忘れた掠れた声で『葉月、葉月』と囁き続ける。その度に葉月は隼人を抱き返し、そして口づけを繰り返し、彼の瞳を見つめた。

 そのうちに、妻を愛しながら気が済んだように隼人が笑った。

「……馬鹿だな、俺は」

 そう言いながら、最後に果てる時は、いつもどおりその広い胸の中にしっかりと葉月を抱きしめてくれていた。
 しっとりと汗ばんでいる、アルコールの匂いが強いその胸に頬を寄せ、葉月も微笑む。

 そして一人、小さく呟いた。

『でも、こんな貴方。嬉しい』

 こんな二人が寝られるだけの小さな空間。心から二人きりになれるのは、ベッドのサイズ分だけ。
 でも、そんな小さな空間だからこそ、夫も偶に我が儘になって、時には気弱になって……。本心を見せてくれるようになったのだと。
 いつも自分は後回し、お兄さん気質の旦那さん。そのくせ、天の邪鬼だから余計に本音を隠してしまう旦那さん。でも今夜のような彼も見られるようになったのかもしれない……。『私だけの、ここだけの、貴方』を。

 二人は次の冬に、結婚十年を迎えようとしていた。 

 

 

 

 

 

Update/2009.7.16
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