-- 蒼い月の秘密 --

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16.引退理由

 

 ――『命がけ、好きでしょう』。

 そうして英太に投げかけてくる葉月さんの目は、輝いていた。
 近頃思う。この人は、甲板やコックピットにいると恐ろしいほどに眼が生き生きするのだと。それを見て、英太はざわっとした胸騒ぎが止まらなくなるし、そして時には鳥肌が立つほどぞっとしている。恐ろしいという反面、どうしてか興奮を覚える時がある。

「好きなように飛んでみたいでしょう。ただし、私が下す『安全優先』の最低限の命令は守る。これは絶対条件よ」
「わ、分かっています」

 准将自らの『白羽の矢』。
 光栄であるし、受けて立つ気持ちは直ぐに決まった英太。物わかり良く承知してみたが、心の中では『上官の安全優先なんか、自由に飛ぶことに関しては一番の障害だ』と思っている。
 だが、そこはそこ。上官を目の前にたてつくのは得策ではない。今日の英太は楚々とした顔を整え、従順な様を見せておく。
 目の前の葉月さんは、そんな英太の従順な様に安心したのかにこやかな笑顔を見せてくれているが、隣で黙って眺めている側近のラングラー中佐は『お前のその態度は嘘だ』とでも言いたそうにして英太を冷たい目でじいっと見ている。それから逃れる為に、英太は彼が煎れてくれた最高のアイスコーヒーをすすった。

 だが、一番恐ろしいのは、実はにこやかな彼女であったことを英太は思い知る。

「貴方のことだから、私の『やめろ』には反抗するでしょうね」
「とんでもない。これ以上の迷惑など……」

 いる場所が将軍様のお部屋だけに、英太はただただ物わかり良い軍人で済まそうと思った。
 ここを出て行けば、どうせ『いつもの俺』。役所さえもらってしまえば、あとはいつも通り、自分が思うままに飛んでみるだけだ。
 そう……ただし……。隼人さんが近頃釘を刺してくるように『生きて還ること』さえ守れば、どうにだって――。
 ――と、英太がいつもどおりの悪い癖を心に思い描いた時だった。

「どうせ、空では俺一人。どうにでも飛べる。そう思っているでしょう」

 また英太を見透かす、自信たっぷりのあの眼と顔。
 そんな時、この優美な年上の女性が妙に憎たらしくなる。どうしてだろうか。英太は近頃そう思う。
 そして黙っている英太に、さらにミセスは自信ありげに言う。

「まあ、でも。仕方がないわね。『貴方も』それをやりたいお年頃ってわけね」

 『貴方も』やりたいお年頃――。
 年下の男を手の上に乗せて、余裕たっぷりの女上官様。そんな葉月さんを目の前にして、英太の頭に早速かあっと血が上りそうになる。だが、そこでなんとかして頭を振り、ここは准将室、そして俺は下っ端のパイロット、何をしても立場的にも不利であること、冷静で大人であろうと必死になる。
 しかしそれすらも、葉月さんにとっては『楽しい餌』であるかのように、彼女の目が意地悪そうに光ったのを英太は見てしまう。

「死にたいなら、死になさい。私が見届けてあげる」

 意地悪そうな眼だと思っていた……。
 でも違った。それはなにか悪魔に魅入られたかのようなそんな迫力ある眼差し。
 英太は、急にぞっとさせられた。

「そして私も一緒に破滅してあげるわ。貴方の上官ですもの。貴方に全てを任せて空に送り出す監督ですもの」

 その目の輝きに嘘はないと感じつつも、やっぱり英太はそんな彼女の言葉にいちいち反応してしまう。ムカッと来るのだ! それがまたどうしてかわからない! でもムカッと来る。なーにが、死なば諸共だと?

「なにを……。家庭を子供を取って、コックピットを降りたあなたに、そんなことできるはずもない!」

 ムカッと来たわけを英太は、ようやっと思い出す。

「子供がいるから、コックピットを降りたアンタが、いちパイロットの無茶の為に『共倒れ』なんてリスクを負うことなんて出来るものか! ……ああ、そうか。だから『最後は私の命令が絶対だ』と言っているわけっすね!」

 とうとう英太は、礼儀正しい大尉として訪問を済まそうと思っていたのに、いつもの『英太』になって叫んでしまっていた。
 はっとしたが遅かった。しかし、ふっかけてきたミセスはともかく。ここで睨みを利かせそうなラングラー中佐もいつもの冷めた表情で黙ったまま、『小僧』の無礼を咎める様を見せもしなかった。
 それがかえって英太の湧き起こった熱をさっと引かせた。そしてそこには、不敵に笑うミセス准将がいる。
 彼女はなにもかもをわかっているかのような顔で、ただただ勝ち誇るかのように英太をすっと見た。

「そうね。子供を置いて死ぬだなんて今の私にはとても。でも、貴方と同じ年頃だった私は、コックピットでは『死んでもいい』そう思っていたわ」

 また英太の心臓がドクリと急にうごめいた。
 それも訳がわからない……。

「だから私は今の貴方を止めようとは思わない。だけれど、ほどほどにしておきなさい。ギリギリで帰ってきなさい。それが見極められるようになったら、それこそ『一流のパイロット』になれる。私がそこの域に達しなかったのは、『ギリギリ』を超えようとばかりしていたからよ。わかる? それがわかったからコックピットを降りたのよ」

 彼女の顔に、もう笑みはなかった。
 そして英太はそんな葉月さんを見て、今度は途方に暮れた。彼女の言っていることがまたよく分からなかったのだ。

「私の飛び方を嫌っているパイロットも沢山いたと思うわ。なにせ、彼等が行きたくないところへ私が行ってしまうから。合わせようもないのよ。そして私は彼等の気持ちなど無視してきたのでしょうね。今の私なら、彼等に嫌われて当たり前だったと降参するわ」

 そうだ。横須賀の長沼中佐は若き頃のミセス准将のパイロット時代を思い出しただけで、嫌な顔をしていた。英太も思い出し、そしてそれがなんなのか……葉月さんが語ってくれるのかと、黙って固唾を呑んで待ってみた。

「貴方と一緒。死ぬことなど怖くなかった。飛行で如何に結果を出すか、私が如何に飛ぶことで満足をするか。私が如何にスカッとするか。臆病な飛行などこっちから御免よ。コックピットでも物足りなかった。夜中に車を飛ばして、港で走り屋とレースをしたわ。車が海に落ちても良いと思った。明日、訓練がある? ――毎夜、眠れなかったわ。眠れないままコックピットに何度乗り込んだかしら。それでも頭が冴えて、血が騒いで、どうにもならなかった」

 ――この女の人が、この優雅そうに悠然とミセス准将と呼ばれているこの女の人にそんな時代が!?

 聞き間違いかと思い、英太はただ葉月さんの顔を見ていた。
 そして身体も固まっていることに気が付いた。
 だが、目の前の女性は続ける。

「貴方にも、そんな感覚があるでしょう。空にぶつけている。そうなのでしょう? 貴方から空を奪ったら、今度は何をするの? 私のように車を飛ばしてみる? きっとそんな生活を貴方は選ぶわね。それなら、『ここ』で『私の目の前』で『必死になってみなさい』と言っているの。ただし、私の監視下であることは心得てもらうわよ。分かったわね」

 話はまったく途中だった。
 なのに彼女は、身勝手とでも叫びたくなる程に、すうっと英太の目の前から立ち去ってしまう。
 爽やかだと安らぎさえ覚えさせたこのミセス准将室に入り込んでくるそよ風の中、葉月さんはすうっとその風に乗るようにして、壁際にある准将席へと行ってしまう。

「テッド。私の話したいことは終わったわ。スーツを持たせて、彼を帰してあげて」
「……そうですね」

 茫然としている英太を見て、ラングラー中佐が気の毒そうな顔をしてくれていた。
 そしてそっと英太に声なき声で、彼が囁いてくれた。

「すまない。時々、虫の居所が悪くなる。今がそれだと思ってくれ」
「はあ……」

 虫の居所が悪い? 急に? 自分から話を振っておいて? 
 まったく理解不能の葉月さんだった。
 またどことなくムカッとした感情が蘇ってきたが、今日はよしておこうと英太も立ち上がる。
 ラングラー中佐から、ひとまとめにしたホワイトスーツを受け取り、彼と一緒に准将室を出る。とりあえず、礼儀を弁え、彼女に『失礼しました』と敬礼をしたが無視をされてしまった。確かに? 虫の居所が悪そうだった。

 准将室を出ると、ドアを閉めてくれたラングラー中佐が途端に溜め息をこぼした。

「今回は私から謝っておこう。唐突な話しぶり、いくら君たちが上官は絶対である部下でも戸惑うしかなかっただろうな」
「いえ。ただ……ミセスのコックピット時代の話には前から興味はあったので」
「彼女が話したとおりだ。そんな荒々しい時を経て、だからこそミセス准将になった。そう思えば、容易にそんな女性であったと想像が出来るだろう。つまり、そんな女性パイロットであったと心得ておいてくれたら良い。と、私からもそう言っておこう」

 ラングラー中佐まで。そんな彼女が存在していたことなど当たり前だったと言わんばかりの顔。英太にはこんなに違和感いっぱいなままなのに。
 益々、英太の中で、二十代の葉月さんが胸の奥でこびりついていく感触だった。

「それだけのことだ」

 そして、ラングラー中佐にもそこで『この話題』については、あっさりと切られてしまう。

「あの人の言うことだから、きっと大尉をテストパイロットとして推し通すだろう。空母では、改良版のパイロットだ。その為の、君へのそしてきっとミセス自身の覚悟を、二人きりになれたチャンスに見せておこう、釘を刺しておこうと思ったのだろう。きっとテストパイロットとしての辞令が出るだろう。そのつもりで……」

 彼にそっと激励をされるよう、背中を押された。
 そしてその押した手には『今日の話はこれまで。今はジタバタ騒がずに、工学科に帰れ』と促しているのも分かった。
 だから英太も今日は引き下がる。大人しく中佐に一礼をし、ホワイトスーツを抱きかかえ高官棟を後にした。

 大隊本部の前に来て、もう一度、准将室へと振り返ったが――。
 そこにはもう、見送ってくれたラングラー中佐の姿さえ消えている。
 そこの部屋だけがシンとした空気に包まれ、ひんやりとしているように見えた。

 爽やかに英太を光の中に包み込んでくれたのは、一瞬の幻だったのだろうか。
 そんな気持ちにさせられる。どこか後味が悪い准将室訪問となってしまった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 でも――と、英太は工学科へ帰る道で、まだまだ振り返っていた。

 叔母の闘病生活のこと。叔母と甥っ子の二人だけの生活のこと。
 葉月さんも、甥っ子と二人だけの生活をこの島でしていたこと。
 それも春美とおなじように二十代の時に。
 そして英太と同じように、荒れ狂ったパイロットであったこと。それだけじゃない。コックピット以外でも、『夜も眠れないほど』の荒れ狂う自分を持て余す二十代を過ごしていたこと。

 今の優雅な落ち着きある、冷めた顔の彼女からは想像が出来ない。
 しかも彼女が大見得を切って、若い頃の『つっぱり自慢』をしているだけならともかく、彼女と同世代であるラングラー中佐も良く知っている口振りで『それがあってこその女性だと思え』と言うのだから、本当なのだろう。だからこそ『驚き』でしかない。
 そして英太もだんだんと『解ってきた』。ムカッとしたり、どうしてか引っかかったり、急に心臓を掴まれたように『ドクリ』とした衝撃を彼女から受けるのは、彼女が言うとおりに『俺と彼女がどこか通じている、似ているから』なのだろうと。

(だとして? 俺がこんなふうになったのは――)

 英太自身が空で無茶をするにはわけがある。英太自身もそれが『原因だ』と自分で理解しているつもりだった。
 しかしそれを深く掘り下げたり、そこを原点としている自分を見ようとすると、気が遠くなりそうになる。普段、強がっていても、こんなとこは額にすうっと冷や汗のようなものを感じるし、足からすうっと冷たい何かが動きを止めようとしてしまうのだ。
 だが、そんなことになる前に、今の居場所である『工学科研修室』へと辿り着いていた。

「おかえり。待っていたぞ」

 そしてそこには、御園大佐が待っていてくれた。
 誰もいない講義室。今は英太の為だけにある講義室で、その男性がパイプ椅子に座って本を読んでいる姿で英太を待っていてくれたのだ。
 そこで見せてくれる微笑みは、いま急に冷たく切り捨てられ別れてきたばかりの彼の妻とは正反対である暖かなものだった。
 そればかりか、いつも落ち着いて穏やかであるその男性は、入り口で立ちつくしている英太が抱えているものを確かめて、喜び一杯の笑顔を輝かせる。

「やったな! ホワイトスーツを手に入れたんだな!」

 判っていて、身なりを綺麗に整え、ミセス准将のところに送り出してくれた英太の上官。今の上官。
 そうして迎えてくれる彼の顔を見ているうちに、英太はついに――がっくりとその講義室の入り口で、跪いてしまったのだ。『脱力感』。急に。なぜそうなるのか、自分で判っているようで、でも本当にそうなってしまった自分を否定したい気持ちがせめぎ合っていた。

「どうした。大丈夫か」

 せっかくもらってきた白い飛行服が英太の足下でくしゃくしゃになっていた。
 ――力がはいらない。先程、『原点』に久しぶりに触れてしまったが為の脱力感が、まさかこんな大人になって、しかも、こんな職場で、しかもこんな上官の前でさらけだされるだなんて、英太にとっては『不覚』以外のなにものでもない情けなさだった。
 だが、額には汗をかいているし、立ち上がる力が入らない。これだけのがたいの良い身体で、英太は何も出来ない子供のようにそこにへたりこんでいた。
 当然、駆けよってきてくれた御園大佐も跪いて、英太の顔を『大丈夫か』と覗いてくれた。恥ずかしくて顔から火が出そうだった。でも動けない。

「まってろ。冷たいタオルでももってくるからな」

 それでもそこはやはり、落ち着いた大人の男。
 御園大佐はすっとそこから居なくなり、でも直ぐさま帰ってきて、英太の額に冷たく濡らしたタオルを宛ててくれていた。

「……す、すみません」

 どうしてこうなってしまったのか。本当に判らないんです。
 ――判っているくせに、それを絶対に他人には探られたくない為に、英太は大佐に言い訳ようとしていた。なのに声にならない。ただそれだけ呟くことが出来て、ただ大佐が看病してくれるまま、タオルを額に受け取っているだけだった。

「立てるか」
「はい……」

 医務室につれていかれる……。そう思ったのに。

「大丈夫だな。そこで暫く座っていれば落ち着きそうだな」
「はい」

 大佐は少しも慌てていなかった。
 どうしてかとても手慣れているように英太には思えた。
 講義室の一番手前の席、そこの椅子に大佐に支えられながら英太はやっと腰をかけた。そしてその隣に大佐が腰をかけた。その時にはもう、英太はしっかりと背筋を伸ばせるようになり、タオルも自分の手で額へと押さえていた。
 暫く、英太の様子を静かに見守ってくれていた御園大佐が、意を決したように尋ねてきた。

「……うちの。変な話でもしたのか」

 これが『夫』というものなのだろうか。
 ズバリと言い当ててきたので、英太は驚くしかなったが『仕方がない』とも思い降参し、こっくりと頷いた。
 それに准将室の二人に、あそこであっさりと切り捨てられたなら、いま一番聞き出せる人は他に誰かと言えば、彼女の旦那であるこの人しかいないだろう。それにこちらもなにもかもお見通しが出来る敵わぬ大人の男であるようだ。ここは素直に、英太から聞いてみた。

「奥さん。自分はいつ死んでも良いと思って飛んでいたパイロットだったと。そう教えてくれました。夜中に車を飛ばして……。それって本当なんすか?」

 彼女の若い頃を知りたいなら、これほど適した男はいないだろう。
 でも。ある意味『空部隊トップである将軍のプライベート』。それを夫であると言うだけで、この男性が教えてくれるかと英太は思った。しかも妻の荒れた過去など……もしかすると、夫だからこそ教えてくれないかもしれない。そう思ったのだが。

「ああ、本当だ」

 御園大佐は真顔で英太に答えてくれていた。
 だから英太はそのまま思うままに尋ねる。

「その時、大佐はミセスとは恋人同士だったんですか」
「いいや。彼女が夜中に車を飛ばしていた時期には、俺はまだ小笠原には来ていなかった。その頃の荒れぷりを知っている男は俺より古く小笠原にいる男達だな。例えば、コリンズ大佐に、ハリス中佐に、そしてきっと新入隊員だっただろうラングラー中佐。そして、海野准将な」
「……でも大佐は、そんな奥さんの、危ない飛行をいつもみていたんすか」
「ああ。こっちに転属してきてからはビーストームのメンテ員を甲板でしていたから、ハラハラしながら見ていた。まあ、葉月が……というより、ビーストーム自体が『クレイジーなフライト』だったけれどな」

 懐かしそうに大佐が笑う。
 でも英太には笑えなかった。

「どうして、そんな奥さんと結婚したんすか」

 その問いには、流石の御園大佐も面食らっていた。
 そして英太も。何故――自分の口からそんな質問が出てしまったのか、自分で驚いていたぐらいだった。
 だが、目の前の中年の男性がそこでちょっと、哀しそうに笑ったように見えたのだ。『結婚』。おそらく互いに決めて受け入れあって決めた出来事だから、幸せなことを思い出すはずだろうに。なのに、いつも穏やかで余裕いっぱいの大人の男を見せつけてきてくれたこの教官が、そんな予想外の顔を見せた。そして彼の答は。

「結婚というか。あいつが、生きるにしろ死ぬにしろあまりにも真っ直ぐに一生懸命だから、俺は小笠原に『来てしまった』。そこからなにもかもが全て、あいつのものだった」

 英太は目を見開いた。驚きだったのだ。
 まさかそんな、赤裸々な正直すぎる返答が大佐という上官の口から聞けたからだった。

「の、のろけ?」

 こっちが恥ずかしくなって、英太は思わずそう突きつけてしまっていた。
 だが、御園大佐はそこは可笑しそうに笑って『調子が出てきたな』と、彼に頭を軽くはたかれてしまった。

「まあ。だから鈴木の危ない一線を行ったり来たりしている飛行を見て、あいつも他人事じゃないと思っているんじゃないかな。今日だってホワイトスーツを渡す時に、そんなことで釘を刺してきた。そうだろう?」

 う、正解だ。と、英太はやはりこの人はあの女性の夫なのだなと納得していた。
 それなら――と、英太はもうひとつ。この夫である人に、最大の疑問をぶつけてみる。

「奥さんは、パイロットを何故辞めてしまったんすか。止めなかったんですか。もっと飛べたと俺は思っているんですよ」
「またそれか。だからそれは……」
「子供のため、なんすよね? 嘘だ。空でギリギリを死ぬ程欲している人間は、どんなことになっても、またそこに戻ってくるんだ。俺は、俺が……」

 夫が出来ても、家庭が出来ても、子供が出来ても。英太は思う。心の中の『枷』から解放されない限り、『それにみまわれてしまった不運な人間』は、欲している『死のライン』に戻ってくるのだと――。
 それが言いたいのに、言えるはずもない。『俺の枷になった過去など、誰も知らない』はずだからだ。それが為に、こんな情けない貧血まがいの脱力的症状を引き起こしているというのに。
 しかし、御園大佐は殊の外、硬い表情で黙り込んでいた。彼も何か考えているようだった。
 今度はそんな大佐の態度にも、英太は違和感を覚えた。ミセス准将の『貴方と私の死にたいは一緒』と突きつけてきたように、この夫である男も『それはよく解る』とでも言いたそうなほどの落ち着きぶりだった。

「俺の子供が欲しいから――。だから、葉月はコックピットを降りた。それが一番の理由だ」

 しかし、夫の大佐からも――。
 英太が一番、納得しない妻と同じ返答をした!
 英太が聞きたいのはそんな答じゃない!! 同じように『死にたいと思って空に全てを賭けていた女が何故、コックピットを降りたのか』! それが子供が欲しいから? それだけでは絶対に……!
 しかし、御園大佐はそうして歯向かってきそうな勢いに復活した英太を制するように、きっぱりと言った。

「女はそうなれるんだ。この前も言っただろう。彼女は女だったんだ。いや、『この時、やっと女になれた』んだ」
「その時に、女に? 大佐とその時に結婚を?」
「まあ、そんなところかな」
「パイロットなんか辞めろと、大佐が言ったんですか」
「いいや。俺は――続けて欲しいと思っていたけれど。まあ、女性が妊娠するしないという選択をするならば、彼女の決意は誰にも非難は出来ないと思ったけれどね。それに俺だって彼女との子供は欲しかったし」
「じゃあ、准将はどうやって『空と決着』できたんすか!」

 すると、御園大佐の表情が急に引きつったように英太には見えた。とても苦々しい、そしてどこか憎しみを込めたかのような、理解できない彼らしくない顔。

「……やっと『女』という選択をできるようになった。それが彼女の空との決別だ。『女』という選択を出来るようになった時点で彼女は空と既に決着していた。俺が知らない間に」
「どうしてそんな決着が出来たか、聞いていますよね?」

 だが大佐はそこでも黙り込んでしまう。
 それがどうしてかとても苦しそうだ。そしてやっと返してくれた言葉が。

「どうして決着出来たか。お前こそ、何故そんなに知りたい。葉月には葉月の、鈴木には鈴木英太なりの決着があるだろう。お前達二人だけに限ったことじゃない。どのパイロットにも、コックピットとの決別が待っている。その時、誰もが空と決別をする。千差万別の別れ方と理由がある。お前はお前なりの答を出したらいい。葉月はそれを見守りたいと思っているんだと思う」

 そんな誰もが言いそうな決まり切った答で切り返してきた大佐に、英太はガッカリさせられる!
 知りたいのはそんな一般論ではなくて、もっと人間臭い、『その人個人の考え方』なのに。なのに葉月さんのそこに近づくと、どうしてか知りたいことから遠ざかってしまうような答を誰もが言っているような気にさせられる。話を振ってきたはずの本人葉月さんもそう。急に虫の居所が悪くなったとかで話がすっぱりと切られてしまい。ラングラー中佐もそう。知っていそうなのに、准将の中途半端な対応を詫びてくれつつも『今日は帰れ』とばかりに工学科に返された。そして、今度こそ良く知っているはずだろう彼女の夫も、『そこ』に来た途端、そんな一般論的なもっともらしさで逃げようとしている?

「肝心なところを誤魔化さないでくださいよ。いきなりそんなありきたりで大人の説教をされても」
「とにかく。葉月は葉月自身で決着がつけられた。だから俺は彼女の決意を受け入れただけ。見守っていただけだ。彼女は誰かにあれこれ言われて、仕方なく辞めたんじゃない。本当に自分で納得して空と別れた。だからもう二度と、コックピットには戻らない。それをお前にも知って欲しい。葉月とどこか同じように感じることがあっても、葉月とは同じような答などでお前は空とは別れない」
「あたりまえっすよ。万が一、俺にも子供が出来るようなことがあっても、俺は空を飛びますよ」
「いや、男でも妻子を優先してコックピットと別れるパイロットもいる。それを非難することは誰にもできないはずだ。鈴木にとってそれが『パイロットとして腰抜け』であっても、人生に置いては、そんな答えもベストであるだろうしな。その点では葉月が女だから――という理由にはならない」
「でも――」
「そうだな。葉月が『女』を選択した時、彼女は『ギリギリ』の一線を退いたというよりかは、『その向こう』になにがあったのか見極めたんだと思う。あのまま、パイロットを続けていたら、女性だけにエースにはなれなかっただろうが、トップパイロットとして小笠原のフライトキャプテンぐらいは務めていたかもしれない。それを望んでいた男達も、今の鈴木同様にたくさんいたと思う。それでも――」

 彼女は『女性としての道』を選んだ。

 最後はそこになる。夫の彼が言うから、それは揺るがないものだったのだろう。
 そして英太も、今日は折れた。

「分かりました。准将なりの答だったと言うことを」
「彼女をコックピットに引きずり戻すだなんて無駄だ。ホワイトスーツは手に入れた。葉月との『三日のうちの賭け』についてはチャレンジを続行するのはかまわない。良い演習になるだろうからな。でも、今のお前では、葉月とフレディの戦略にもテクニックにも勝てることはないだろう」

 それも、英太には分かっていた。
 あと二日。やっとホワイトを安定操縦出来るようになったのだ。それに比べて、散々にやられたフレディの自由自在を極めている飛行テクニック、そして葉月さんがフレディに指示した『ギリギリ接触の対戦』をさせる程の見極め指導には、今の英太は足下にも及ばないことを実感しているのだから。三日で勝利を得て、賭け通りに『勝ったら葉月さんをコックピットに乗せる』という願いは今のところは無理だ。

「俺は――。あの人の、ギリギリのピリピリと張りつめたフライトを、ただ、ただ、本物の空で知りたかっただけなんすよ……」

 自分と同じものを持っている人。
 冷たいタオルで英太は目元を隠し、まるで泣くようにして御園大佐に呟いてしまう。

「なんだか同じものをかんじているんですよ。あの人なら、どうやって空から陸に帰ってくるのか。どんな気持ちで飛んでいたのか」

 そして御園大佐の柔らかな声が、タオルで顔を隠している英太の耳に届く。

「分かる。葉月はきっと分かっているさ。同じ空を飛ばなくても。葉月は甲板で、そしてお前は空で。今は別々の感覚でも、そのうちに、『彼女は甲板、俺は空にいるのに、同じところにいる』と感じる日が来るだろう。いや、そうなれるようにならなくちゃいけない。二人はそれでなくても『雷神2』の指揮官とパイロットだ。だから、これからはそれを目標にしろ」

 『はい』とは言えなかった。
 知りたかったから。彼女と俺と二人、空でギリギリの境界線に行って、彼女が俺に何かを見せてくれるような気がしていた。それを知りたかったから。
 でも、きっと大佐が言っていることが正しいし、それがホワイトスーツを手に出来た英太が次に目指すものなのだろう。

 だが最後に御園大佐がちょっと気になることを言った。

「そうだな。葉月がもう一度飛べるなら……。俺も何度かそう思ったものだよ」

 だったら何故、彼は『子育てが一段落したなら飛んでみないか』と妻に勧めなかったのだろうか?
 でも、その次に英太が見た御園大佐の顔は……。とてもじゃないが、声をかけられるような表情ではなかった。
 彼らしくない恐ろしい顔にみえた。どこともないところを見据え、彼の握っている拳が震えていたからだ。

 それがまた英太には新たなる疑問を投じることになる――。

 航行出発は、もう目の前だった。

 

 

 

Update/2009.4.4
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