真っ白な飛行服、紺色のキャップ。そして金色の刺繍糸が煌めく稲妻のワッペン。
それが自分の物になることを心待ちにしていたのに。でも、いざ目の前にすると、手が出ない。
そんな英太の密かに震えるだけの感激を、目の前の薫る女性はそれとなく分かってくれているようだった。
「どうしたの。遠慮はいらないのよ。貴方は、三日以内で見事にホワイトを乗りこなしたのだから――」
――実力よ。紛れもない貴方の力でここまできたのよ。
あの匂いがする風に乗って、そんな彼女の声が英太の耳にまで静かに柔らかに届いた。
そして、彼女の手がその漆塗りのトレイをそっと英太の手前へと差し出してくれる。もう英太の直ぐ目の前。
やっと英太はそれに触れようと、指先を伸ばした。
白い飛行服のワッペンに触れる。『雷神』のワッペン。初代のワッペンは夜空に稲妻。二代目のワッペンは真昼の稲妻。金色の刺繍糸。その稲妻に触れる。まだ指先が震えていた。
俺、ここまできた。春にはもうパイロットをやめてやろうと思っていたのに。なにもかも捨ててやろうと思っていたのに。ここまで――。今やパイロットの誰もがそうなりたいと思っている『チーム雷神』の一員に!
「鈴木英太大尉。明日より、フライト雷神のパイロットとして諸任務に就いて頂きます」
ワッペンに気を取られていたが、そんなきりっとした良く通る女性の声にふと顔を上げると、そこには英太に向かって敬礼をしてくれているミセス准将、そして彼女の背後にいるラングラー中佐もきりっとした敬礼を向けてくれていた。
英太も背筋を伸ばす。そして胸をぐっと張り、びしっと敬礼をする。
「イエス、マム! 有り難うございます。ご期待に添えるよう精進を致します!」
ありきたりな返答だが、それでも英太の腹の底から自然を湧いてきた力と言葉だった。
光溢れるこの部屋で、そして目の前から薫る風。
英太は真っ白な何かに包まれた充実感を初めて感じていた。
・・・◇・◇・◇・・・
「まあ、そんなに力まず。私の部屋だから、力を抜いて――」
白い飛行服を受け取ると、そんなミセス准将の微笑みが英太に向けられていた。
『私の部屋だから、力を抜いて』と言われても。普通は、准将という高官の部屋だから、皆、緊張感を持ってやってくるのではないかと、英太は違和感を持った。
「そちらで少し、話しましょう」
だが、ミセス准将はそんな気さくな微笑みを見せ、こんな下っ端パイロットの英太を、部屋のど真ん中にある立派な応接ソファーへと促していた。
「しかし……」
「いいじゃない。鈴木君」
『鈴木君』と呼んでくれた柔らかい口調に、英太は固まってしまった。
「テッド。よく冷えたアイスコーヒーをお願いね。うんと濃いブラックよ」
「かしこまりました。ミセス准将」
ラングラー中佐は始終、無表情。いつもの冷徹そうな側近の顔のまま。
だからこそ、いつも同じような冷たい顔をしているミセス准将が、そんなに優しげに微笑んでいるのが際だち、英太を釘付けにさせる。
その顔はまさに、あの階段で二人きりで話をしてくれた『葉月さん』そのものだった。
「では、ご馳走になります。えっと、覚えていてくれたんですね」
「勿論。十円がないばっかりに、大恥をかいて旦那さんに笑われたし――」
あの時のことを思い出してしまい、英太はついにふっと笑い出してしまった。
すると葉月さんもふっと同じように笑い出す。それを見たら、不思議と英太の肩の力も抜けてしまった。
そして英太は准将室をひと眺め。
「意外だったな。なんか、こう、もっと冷たくて息苦しいのかと思っていました」
「なにが?」
「いえ、この部屋が」
「冷たいと評判の私とテッドが生息してるから?」
「べ、べつにそう言う訳じゃー」
慌てた英太を見て、それでも葉月さんはおかしそうに笑ってくれている。
「そちらへ座ってちょうだい。これからのこと、少し、話しておきたいの」
「そうでしたか」
気のせいか。せっかく緩めてくれた優しい目元が少しだけいつものきりっとした涼しげな眼差しになったような気がした。
二人で向かい合わせにソファーに座った。
彼女は青い空を背に、英太の向かい側で悠然と座る。固すぎず崩れすぎず、でも揃えた足に指先がとても優雅だった。甲板では考えられない仕草。それでも甲板でもそこはかとない優雅さは醸し出していたかと思う。でもきっと、あの紺色の訓練指揮官服の奥の奥に彼女は忍ばせ、いつでも空を鋭い目線で見据えている。潮風の匂いがする人だと思っていた。
「これで貴方も、雷神の一員ね。よろしくお願い致しますね」
「こちらこそ……。その、あの、今日までのことなんですが……」
小笠原に転属してきてから、やらかしてきたあれこれを思い、英太はちょっと苦笑い。
だがそれも目の前の葉月さんはお見通しのようで、笑い飛ばしてくれた。
「本当ね。いろいろやってくれたわねー。でも澤村も指導のやり甲斐があって、教官冥利に尽きたんじゃないかしら」
楚々とした顔をしていたのに、急に快活に笑い出したので、英太は面食らってしまう。
しかも旦那の仕事を、他人事のように笑い飛ばしているのだから。
「まあ、いいわよ。済んだことよ。言っておきますが、貴方がやったことぐらいで大騒ぎの准将陣営ではないわよ」
ふと彼女から、不敵な眼差しが英太を貫こうとしていた。
優美に見えるが、どこか得体の知れない眼差し。自信たっぷりの。そんな目つきは甲板にいる『ミセス准将』そのもので、英太は急に背筋を伸ばす思い、そして僅かに反抗したくなるようなムッとしたものを感じてしまったのだ。
「それよりも、これからよ。まず、貴方には今後のことをお話ししておきますね」
「はい」
いつもの准将に戻った葉月さんを目の前に、英太も姿勢を正した。
前もって準備されていたのか、応接テーブルにいくつか準備されていたレジュメを葉月さんが手にして、英太の目の前で開いた。
「晴れて雷神のパイロットになったことで、貴方には十日後に迫ってきている『本国巡回航行任務』に就いてもらいます。異存はありませんね」
「勿論です。使命ですから」
「航行は初めてではないわね」
英太は『はい』と答え、横須賀時代に就いた航行履歴を葉月さんに報告する。
「では慣れていると思いますが……。その前に確認しておきたいことがあります」
開いた書類には、任務中に空母が巡回するコースが描かれている。そして日程。それを指さして説明をしようとしていた葉月さんの手が離れていってしまう。彼女の膝の上に。
どうしたのだろうかと、彼女の指先に注目していた英太の目線も、そのまま葉月さんの綺麗な膝小僧の上に揃えられた指先へと行ってしまった。そしてその上へ目線を向けると、神妙な顔つきの彼女が、どこか不安そうに英太を見ている。
「あの、准将。どうかされましたか」
「とても立ち入ったことを聞いてしまうけれど……」
躊躇いを見せ、俯いた葉月さん。
英太は少しもどかしく思った。こういうのが英太はあまり好きではない。言いたいことは言って欲しいと常に思っているタイプだからだ。
「言ってください。遠慮なく。俺が、いえ、自分が任務に就くことでなにか差し支えることでも」
「いえ、貴方自身ではなく、その」
「言ってください」
英太の思いきりを見た葉月さんが、やっと英太の目を見てくれた。
その目がとても真剣味を帯びていて、英太の方が緊張させられたのだが――。
まだ躊躇っているふうの葉月さんだったが、ひとつ溜め息を落として、ひとつ深呼吸をすると、また英太にちゃんと真向かって口を開いてくれた。
「今、闘病中の叔母様はどうされているの」
ああ、そういうことかと、英太もやっと彼女の躊躇いを理解した。
だからきっぱりと返答する。
「直に手術の予定が入ります。今は症状を緩和する投薬と、そのオペの為の検査入院を目前にしています」
案の定、葉月さんはとても驚いた顔をして、黙り込んでしまった。
そして英太が案じていることを、そのまま彼女が言った。
「貴方、叔母様の傍にいなくて良いの?」
「叔母がそれを拒むんです。俺が傍にいるときっと怒ってばかりいると思います。せっかく小笠原の雷神に選ばれたのだから、意地でもそこにいるようにしろと――。先日も、電話連絡の際に懇々と言いつけられました」
「そ、そう……」
そこで葉月さんは黙ってしまう。
もっと『それでも叔母様も心細いだろうから、傍にいてあげなさい』とか、ありきたりな説教めいたことを言われるかと英太も構えていたのに――。まるであっさりと引いたかのような静けさが漂い、英太は拍子抜けしたのだが。
「たった一人で治療を――」
「いえ。叔母が親しくしている女性が一人、傍についてくれています。俺もその女性を信頼しているので今は甘えて任せています。ですから任務中も大丈夫です」
「まあ。そんな方がいたの……。あっ……」
『あ』と、何か驚きの声をあげた葉月さんが、口を押さえると、なにやら英太を見てにやついているような目を向けていた。英太は首を傾げたのだが。
「ふうん。貴方が信頼して甘えている女性にね。それは安心かもしれないわね」
「ええ、古い知り合いですから……」
と、言っておいて。英太は目の前の葉月さんが何故、楽しげに笑っているのかやっと気がついた。
「あっ。ち、違いますよ!」
「え、でも『隼人さん』は、きっとそうだって言っていたもの。まあ、いいわよ。そこまでは流石のミセス准将でもつっこめないわよ」
でも葉月さんはけらけらとおかしそうに笑い出す。
その英太が信頼できる甘えられる女性が、つまり――『ホワイトの操縦のコツは、恋人のように扱え』と葉月がアドバイスした時に、効果を覿面にもたらせた『英太の恋人』だと気がついたようなのだ。
「違いますよー! 俺には今、特定の女性はいませんっ」
「まあ、そんな照れなくても――」
いいわよ、いいわよ。と、葉月さんはずっと笑っている。
「本当ですよっ。そういうのオバサン的妄想ですよ、准将!」
オバサンとは少々失礼かと思いつつも、そのからかいの笑みを止める為に咄嗟に出てきてしまっていた。
准将たる女性に『オバサン』とは禁句だったかもしれないし、彼女の機嫌を損ねると覚悟したのだが、どうにもできなかった。
「あははっ。オバサンだもの。勝手に妄想させてよ」
「はあ……?」
でも葉月さんはそこを笑い飛ばしてしまった。
もう英太でもどうにも出来ない。ただ笑われるだけ。
だが一時してやっと、葉月さんの笑いが収まる。すると、躊躇っていたはずなのに、彼女は手を放してしまったレジュメの航行航路図へと手が戻っていった。
「分かりました。ご家族できちんと話し合ったことだということで、貴方の航行着任に問題はありませんね」
「はい。ありません」
「その予定だと、どう考えても……。航行中に手術があるような気がするけど、本当に構わないのね」
「……構いません。叔母の意志です」
英太だって本当は心配なのだ。
でも、航行中に家族に何かあったら……。それは自分だけじゃない。英太の場合は事前に家族の入院が分かっているからこうして案じているが、中には航行中にまったくコンタクトが出来ない家族になにかある場合もあるのだ。それが家族の事故だったり、妻の出産だったり、家族の危篤だったり。色々、そんな心配を断ち切って任務に就く。それが軍人だった。
それは春美も良く心得てくれていた。それは小笠原に来る前、横須賀時代からずっとだ。案じてくれても、春美は英太を送り出す。英太が案じても、春美は『大丈夫よ』と送り出す。そして春美の傍らにはいつも、元気溌剌の華子が『私もいるから大丈夫!』と、一層の安心感を添えて、英太を海原へ空へと送り出してくれていた。
それは今回も同じこと。ただ、傍にいてやれない甥であることが……とても口惜しいことは確かだ。この航行がなければ。何故、今回の春美の手術と任務がこんなにかち合ってしまったのか。そこは運の悪さを呪っていた。
などと考えているうちに、英太の本当の気持ちが顔に出てしまっていたようだ。
ハッとすると、英太は俯いていた。慌てて顔を上げると、やはりそれを見抜いた風の葉月さんが、神妙そうに英太を凝視している。あの、透き通る茶色いビー玉の目で。あんまりにも透明なので、なにかその向こうに透けて見える己が、彼女の目に映っている自分こそが、自分が知らない姿を突きつけられている。そんな鏡のような瞳に英太はぞくっとしてしまっていた。
「やはり心配でしょうね。でもね。私……叔母様の気持ちがとてもよく解るわ」
「はあ」
「だから、叔母様が『行きなさい』と強く言うなら、貴方はそのご期待に応える働きをすればいいのよ」
『やっぱり叔母様についていてあげなさい』と言われるかと思ったのに。
でもなにやら叔母を分かり切ったように言う葉月さんのその年上ぶった顔が、急に気に入らなくなった。
「何故。叔母についていてあげろと言わないのですか」
「叔母様自身が『心細いから傍にいて欲しい』と言わない限り、私は貴方に叔母様のところへ帰りなさいとは言わないわ。それが叔母様の意志だもの」
「……本当は心細いかもしれない」
「それは貴方がそう心配しているだけ。叔母様は、心細くなんかないわよ」
また分かり切ったようなことを……。
春美だって本当は心細いに決まっている! だから英太だって本当は迷っているのだ。なのに。
あんたになにがわかるんだよ。俺達、家族の。たった三人でここまでやってきた俺達の、なにが。力無い叔母の目の前に襲ってきた理不尽な不幸を。旦那に支えられてこれだけの仕事を存分にやって、家庭に帰れば絆が深い旦那がいて、可愛い子供がいて、たくさんの理解ある男達を同僚に部下にして囲まれているあんたに。どうして春美の孤独が――!
ぐわっと気持ちが盛り上がり、それを本当に准将という人ではなく、春美と同世代と言うだけで分かり切った顔をしている葉月さんに突きつけてやりたくなった――でも。
「私事だけれどね。私も……二十歳でこの島に来て間もなく、亡くなった姉の子、つまり甥っ子と二人暮らしをしていたものだから。他人事とは思えないの」
え――と、もうそこまで爆発しそうだった英太の気持ちが、急にすうっとしぼみ冷めていった。
そして目の前には、茶色のまつげをふっと柔らかく伏せ憂いに満ちた眼差しの葉月さん。
「甥は民間の医学校へ編入してしまったのだけれど、元はここの医学訓練校生だったの。二人暮らしといっても全寮制で。でも彼は暇さえあれば私が住んでいたマンションへ来ていたわ。勿論、貴方の叔母様と比べて、私達には一族の庇護があったから、まだまだ良かった方だと思うの。だからこそ、叔母様の孤独はどれほどのものだったかと――。だから、貴方を置いていきたい気持ちもある。まだ雷神に入ったばかりよ。今なら、それを理由に今回だけは貴方を澤村に預けたまま留守をさせることだって――。でもだからこそ、叔母様の『自分のことはいいから、貴方の為に行きなさい』という気持ちも……畏れながらこの私にも解るというのかしら……」
知らなかった。
この人にそんないきさつがあっただなんて。
英太はそう思った。本当に一族に囲まれ、用意され与えられていた物を存分に使ってそこまで来た人だと思っていたからだ。
勿論、パイロットとしての腕も英太は痛感させられた。だからこその准将で空部隊長であることも分かっている。それでも彼女にとって一族の権威は絶対に不可欠で、それがあったこととなかったことでは絶対に准将だったかそうでなかったかを左右はさせていると思う。
でも、それでも、英太と叔母と同じような境遇を持っていた驚きは否めなかった。
「甥御さん……も、俺と同じで両親を」
「ええ。『ちょっとしたこと』でね。姉はあの子を産んで直ぐに亡くなって、父親は海外で離れられない仕事を長年していた物だから。私が小笠原に着任になったことと、あの子が軍医学校に進学したことをきっかけに、つまり私が保護者になったわけ。一族で決めたことよ。父親が海外から帰ってきたからそちらに返したんだけれど、一族の一員にしておきたい為に紙切れの上では私の養子なの。今は独立してアメリカに留学したり帰国したりして精神科医のヒヨコさん」
「精神科医?」
御園一族は軍人一家。その流れで甥っ子も、医者を目指そうと、そこも軍医学校に進学。
まだこの流れの方がしっくり来たのに。
なにか。葉月さんの話の流れのあちこちが、ちぐはぐしているような違和感を英太は持った。
しかも精神科医――。英太はある日を思い出し、ぞっと身震いをした。自分も精神科医にかかった少年時代が……ある。
何故、御園から精神科医? そのまま軍医でいれば、ある程度の地位だって得られただろうに。また、違和感。
「准将。ご自分のお話の為に、大尉を呼んだのではないでしょう。本題から離れていますよ」
ふと葉月さんと英太の間に出来た沈黙に、さっと断ち切るように入ってきたのはラングラー中佐だった。
銀のトレイに、アイスコーヒーのグラスが二つ。それを丁寧に、葉月さんと英太の前に出してくれる。英太も恐縮しながら、一礼をしたのだが、ラングラー中佐はそれが終わると、すかさず葉月さんの隣にすっと座り込んでしまった。
しかも上官である葉月さんがなにも言わないうちに、彼女の手元にあった航行任務のレジュメをかっさらうようにして自分の手元に。そんな、ちょっと主席側近といえども、上官を無視するかのようなぞんざいにも見えるやり口に、英太は茫然とさせられた。
でも葉月さんは、まるでラングラー中佐に怒られたかのように、ちょっと小さくなっているようにも見えた。そして彼のやることにも口答えしない、注意もしない。なにか彼に弱みでも握られているかのように……。そんな権限をこの主席側近は持っているのだと、英太は見せつけられた気分になった。
「准将はこの通り、『たまたま』大尉と同じ境遇であっただけのことでお心を砕いてくださっているが、どちらにせよ、どの隊員も様々な事情を抱え、家族を置いて海上に出るのは同じこと。そちらの叔母御が承知の上、甥御の大尉も承知の上であれば、こちら側としてはそれはプライベートの範囲と言うことで任務着任には関することでははないと見なす。それは軍人である以上、分かっていると思うが?」
ラングラー中佐の、いつも通りの冷めた目が英太を貫いていた。
それこそ、この准将室にあるべき眼差しというのだろうか。本来なら、葉月さんだって『ミセス准将』としてそうして英太の私生活など切り捨ててくれているはずなのだ。
「勿論、承知です。ですから叔母とのことは、ご心配なく」
「分かった。では、航行の説明を准将に代わって、私がしよう」
葉月さんがやろうとしていたことを、割って入ってきたラングラー中佐がテキパキと始めてしまう。
ふと隣で黙り込んでしまった彼女を見ると、ちょっと面白くなさそうな顔でアイスコーヒーにミルクを注ぎ、味わおうとしているところ。
「君も遠慮なく。話を聞きながら味わってくれ」
准将に合わせ、ラングラー中佐も、そこは英太にくつろぐように勧めてくれる。
この男性の奥様となった吉田大尉がいつも煎れてくれるような上等な珈琲の香りがしたので、英太もせっかくだからとストローを手にしてガムシロップを注いだ。
ラングラー中佐が日程の話を始めていたが、英太もそれを一口すすってみる。
「わ、美味いっ」
思わず。そんなことを言ってしまった。
悪いが。奥さんが煎れてくれるのより、美味い! しかもすんげー濃く煎れてくれて英太好み! なんだ、これ。こんなうめー珈琲、飲んだの初めて! と、言いたくても言えないほど、英太はグラスをじっと見つめてしまっていた。
だが流石のラングラー中佐も、そこは『ありがとう』と少しだけ微笑みを見せてくれた。だけど葉月さんはふてくされている。
「私には苦いっ。チョコレートでも添えてよ」
「なんですか。その子供みたいな我が儘は。お客様に合わせられないのですか」
お客様。英太はそんな扱いで、この冷たい男性がこの珈琲を煎れてくれたんだと知った。
そしてそれは、葉月さんの好みではなかったようだった。それでもラングラー中佐は、颯爽と立ち上がり、いつもの無駄のない動きで准将席へ行き、机の隅にある小箱を持ってきた。それを葉月さんの前に置いた。
「どうぞ。准将」
「そうそう。これがないとね」
嬉しそうな顔で綺麗な箱を開ける葉月さん。そこにはチョコレートがずらっと並んでいた。
それを彼女は満足そうに頬張っている。
まるで子供? 確かにラングラー中佐が言うように子供みたいだった。
「チョコが好きなんすか」
「だーい好き♪」
これまた無邪気な顔で頬張っているので、英太はドッキリとしてしまった。
あれ。この人、俺よりすごい年上だったはずなのに。なに、その女の子みたいな笑顔???
「まったく。そこで大人しく食べていてください。大尉、私が話そう」
「は、はい」
しかも『はい』と言ったのは英太だけでなく、葉月さんも『はい』と。
チョコレートの箱を抱えて、にこにこしているだけ。
えっとそれ。本当に大きなお兄さんに小言を言われて大人しくなった子供に見えるんだけれど! なんかそんなものを見てしまった変な気分にさせられた。
それでもラングラー中佐の淡々とした航行への心構えと話が進められていく――。
日程に、航路、そして搭乗するクルーの組織がどのような構成であるか。
「今回、ホワイトがまだ実務として全てをカバーするには問題点が残っているとしてビーストームとの連携任務ということになった。コリンズ大佐も搭乗、着任予定で、スクランブルに備えるフライトと、パトロールに出るフライトは、雷神とビーストームの混合フライトになる――」
と、ラングラー中佐の懇々とした説明が続く。
だけれど徐々に、彼の言葉が途切れてきた。
「で、雷神とビーストームの――混在となるわけだから……必然と、人員枠から外れるパイロットが……」
なんだろうと英太は首を傾げたが、そんなラングラー中佐の落ち着かぬ目線は、やはり隣で大人しくしているミセス准将の手元だった。
英太もちょっと気にしていた葉月さんの大人しさ。そして休むことない指先。その指先が箱の中に収まっていたアソートのチョコレートを、まるで将棋かチェスのように何度も何度も置き換え組み替え、食べずに遊んでいるのだ。
「准将。お行儀が悪いですよ」
確かに。本当に、この人ってオバサンなのか麗しい女性なのか、子供っぽい人なのか、ワケワカランな英太になっていた。
でもなんとなく……。英太はそんな仕草を何処かで見たような気がして、それがいつだったかと急に思い出そうと必死になっていた。そしてラングラー中佐も、注意はするけどその手先を無理に止めようとせずに、何かを探るようにじっと眺めている。
そして葉月さんの目つきは、何かを楽しんでいるようで、でもただそのチョコレートを動かしているわけでもなさそうな、しっかりした目元になっている。
「テッド。雷神がビーストームが、パトロールがとか、いいわよ、そんなの。ダイレクトに言ってあげなさい」
「しかしまだ、決定事項では――」
途端にラングラー中佐の方が、従えられていた。
葉月さんの指先が、チョコレートをぱぱっと動かし始める。食べ終わった枠の中に、三つのチョコレートを配置した。
その時、英太は思い出した。ああ、そうだ。あの初めて面接した時に、メモ帳で落書きをしていたのに、実はきっちりとメモを取っていたあの葉月さんと一緒だと。この人、遊んでいるようで遊んでいないのだと。
「雷神、ビーストーム、そしてこの残りのフライトと、今回は三編成に分けたのよ」
葉月さんがニヤリと、英太を見た。
その顔は、まだ英太から見ると『葉月さん』なのだが、不敵な笑みはもうミセス准将だった。
そして葉月さんは、『これが雷神』、『これがビーストーム』と、三つのうちの二つのチョコを指さし終えると、最後に残った四角い市松模様のチョコレートを指して、英太に言った。
「貴方はここ。今回、ここで頑張ってもらうわ」
「えっ。それって雷神でもビーストームでも、どのフライトにも属さない活動をしろと!?」
何故、自分だけ。航行の本分である『スクランブルとパトロール』から外されるのだと!
だが、不敵に微笑む葉月さんは言った。
「アンコントロール後、それを踏まえてヴァージョンアップをした『新・ホワイト』が二機だけ今度の空母に乗せられるの。つまり、テスト飛行。まだ誰も乗っていないホワイトの――」
それを聞かされ、英太はまたこの女性にふいをつかれていた。
つまり、それは――。
「俺に、その新機種のテスト飛行パイロットを?」
「そうよ。アンコントロールを踏まえた改良版とはいえ、安全性は確保されていない。つまり、初乗りであって『命がけ』と言うわけ」
そして彼女は、英太の目を見て、満面の笑みを湛えた。
「好きでしょ。そういうの。『貴方にぴったり』。誰が反対しても、私は貴方が良いと推薦しているのよ。どう?」
なにも保証されていない、あの扱いにくいホワイトの、やっと乗りこなしたばかりのホワイトの、初乗りパイロットに選ばれた。
また英太の中で、かあっとした興奮が静かに体の中を駆けめぐったのが分かった。彼女が言うとおり『俺は、そういうのが大好き』だからだ。
『命がけ』。そう英太に突きつけている彼女の顔は、どこか英太の全てを見抜いているようで。その目に捕らえられている自分がいることにも、英太は身震いを起こしていた。
Update/2009.2.17