-- エースになりたい --

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10.心配性の義兄さん

 

 夕闇が迫ってきた義兄のマンション。
 ご馳走してくれた白ワインを飲み干した頃、隼人は夕日鑑賞を終え、リビングの明かりを灯す。

「父さん、お帰り! 横須賀、どうだった?」

 玄関が閉まった音と同時に、息子が元気良くこのリビングに入ってきた。

「ただいま、海人。悪いな、直ぐに帰らなくて」
「いいよ。そのお陰で、伯父ちゃんの家でご飯になったし! みて、これ!」

 八歳になろうとしている息子は、いつも元気で溌剌としている。
 その息子が胸に紙袋を抱え、父親の隼人に見せたがった。『なんだと』問うてみると。

「デザートに使うバニラアイス。伯父ちゃんとスーパーに行って買ってもらったんだ」
「──使う。アイスクリーム? また何かを作るのか?」

 息子は元気良く『うん』と答えると、今度はリビングに戻ってきた純一伯父さんに向かう。

「伯父ちゃん! エスプレッソマシンの使い方、教えてくれる約束だよね」
「ああ、約束した」
「今日は、伯父さんも食べられるデザート作るからね」
「それは楽しみだ」

 アイスとエスプレッソマシンと来て、隼人もピンと来た。

「判ったぞ、海人。『アッフォガート』だな」
「あったり。だってジュン伯父さん、エスプレッソ大好きなんだもん。これなら食べられるよねって、車で相談してきたんだ」

 ハキハキと快活に喋る海人を見て、純一はとっても満足そうだった。
 伯父さんの為のデザートだなんて聞いて、嬉しくなってスーパーまで足を伸ばして帰ってきたと言ったところらしい。

「伯父ちゃん、母さんが来るまでに教えて、教えて。母さんには何を作るか内緒だよ」
「わかった、わかった。どれどれ、一杯ためにしに入れてみるかな」
「やろう、やろう!」

 海人がぴょんぴょん跳ねながらキッチンへ行く後を、これまたどうしようもない顔に崩れまくっている純一が付いていく。

 二人がキッチンにあるエスプレッソマシンの前に並んで立ち、あれこれとやりはじめた。
 まだ背丈も高くない息子が拙い手つきでレバーを持ったり、それを義兄が手添えでゆっくりと口頭で教えている。
 その時の息子海人の顔ったら、真剣そのもの。

(その顔。大佐室にいたママの横顔にそっくりじゃないか)

 よく感じる事なのだが、何度見ても、ちょっと笑ってしまうのだ。

「うわー、ほんとだ。出てきた」
「だろう。難しくはない。ミルクフォーマーを使えば、カプチーノも」
「父さんも、一杯、飲む?」

 息子に言われ『じゃあ、カプチーノで』とお願いしてみると、また純一に『どうやるの、どうやるの』とせがむ海人。そうしたらまた純一が、嬉しそうな笑い声をたてて、丁寧に教えている。
 さすがの義兄も、子供達には無条件で笑顔になってしまうらしい。

 それに純一はよく言う。『海人は、葉月が小さかった頃にそっくりだ』と。
 はて。どのような思いを馳せて、愛しい義妹の息子を見ている事か。隼人は『あっそう』と言いたくなるのだが、葉月がベビーだった時の写真を横須賀の御園の両親に見せてもらった時には『非常に、納得』させられた。本当に、赤ん坊の頃は葉月と瓜二つだったのだ。葉月は女の子だから可愛らしいベビー服を着ていたが。違いと言えばそれぐらいで顔だけなら本当にそっくりなので、流石に『似ているな』とだけ思っていた隼人も驚愕させられたのだ。

 ただ、息子も徐々に男らしくなってくると少しばかり雰囲気が変わってきたのか。
 そんな義兄が最近呟き始めたのが──『右京がガキの頃にそっくりだ』だった。あるいは御園の両親がふと『でも、時々真一にもそっくりな顔をするよね』なのだ。
 海人は一目見れば、直ぐに判る『御園の子』そのものだった。

「そうだ。上手いぞ、海人」
「ほんと、伯父ちゃん」

 もう、義兄さん。なんだよ、その顔──。
 隼人は呆れてしまう。その笑顔、意地悪ばかりしている俺や義妹の葉月にもいつも見せてくれよと思ってしまう。
 栗毛の息子の頭を、これでもかってぐらいに撫でまくって……。

「海人は手先が器用だな」
「俺、父さんよりピアノは上手く弾けるよ」
「さすが。御園の子だ」

 これまた純一が目尻をさげっぱなしで、海人の頭をなでなで。
 まあ、でも。分からないでもない。愛している女にそっくりな子供。隼人は父親だから当然かもしれないが、純一にしてみたら、昔から可愛がっていた小さな義妹の幼き姿を思い出すにはありあまるものがあるのだろう。
 勿論、純一は杏奈の事もそれはよく可愛がってくれた。女の子だけに、それこそ一等のレディ扱いで。

「父さん、出来たよ」

 そんなふとしたもの思いをしていたら、いつの間にか息子がカプチーノを入れてくれたカップを差し出してくれていた。

 そんな息子を正面から見て、隼人は一瞬幻を見る。
 それはやはり若い頃の妻の無邪気な顔だったり。一時期、毎日を共に過ごした甥っ子の真一だったり。
 息子は本当に御園の子だった。その目の色も、無邪気な笑顔も陽気な祖父である亮介とそっくりな口元で、でもちょっと伏せた眼差しが右京に似ていたり……。必ず誰かを映し出す。
 手先が器用なのは、メカニックのパパ譲りと人々は言ってくれるが、外科医を目指していた真一だって手先は器用と評判だったらしい。それに息子は確かに、妹に劣らず音感も良く、兄妹でピアノで遊んだり、今は母親と一緒にピアノを弾く事もある。そして、父親の影響か。近頃はキッチンに立ったりもしている。

 親ばかかもしれないが、息子がそれぞれの血を色濃く引いてくれた様子を垣間見せてくれると、隼人もなし崩しだった。

「どれ。お前もいつかは伯父さんと同じ、エスプレッソ派かな」
「えー、エスプレッソは苦いから嫌だ。俺、やっぱり父さんのカフェオレがいいな」

 隼人がカップを受け取ると、息子は隣にぽんと跳ねるように座り込んだ。
 そして父親の隼人が、そのカップを口に付ける瞬間をキラキラしたガラス玉の目でじいっと見つめるのだ。

(ママにそっくり過ぎ……)

 見つめ方まで母親に似るとは……。
 俺をそうしてどこまでも奥まで見つめたいという、胸を貫くような眼差しは、これまた御園特有の魅力なのかと思ってしまう。たとえ、息子でもどっきりさせられるのだから。
 そんな息子の眼差しに操られるようにして、隼人は一口。

「うん。美味い」
「やった」

 そしてまた無邪気な笑顔。
 それは真一と似ているなあと思う父親。なんだか懐かしい。
 やはり息子が入れてくれた一杯は格別だなと思う。妻にそっくりの顔、栗毛、その眼差しで、息子は隼人をじいっと見ている。そして息子はずっと肩もぴったりと隼人の横に付けていた。
 そして黙って座っている──。
 こんな時、隼人は父親としてはたと我に返る。
 目の前のテーブルにカップを置いて、隼人はそっと息子の肩を抱いた。

「留守番、有難うな」
「ううん。晃も一緒だったから。晃もここに誘ったんだけれど、泉美ママと一緒にいるって……」
「そうか」

 兄弟同然で育ってきた達也の息子『晃』と海人。
 時にはこうして離ればなれになってしまうこともあるのだが、そんな時、海人も晃もちょっと寂しそうだった。
 そんな息子の肩を隼人はさらに強く抱き寄せる。今度は無言で。ただ力を込めて。

 この息子は、既に長男としての気質を備えていた。
 そして黙って笑顔でいるところは、従兄の真一の気遣いによく似ている。
 今日だって、本当は一人きり。寂しい思いをしていたはずなのだ。それが、肩にピッタリとくっついて座る事で彼はさりげなく伝えているのだ。
 ささいなサイン。これを見逃しそうになって、隼人はいつもドキリとしてしまう。だから、気が付いた時は強く抱きしめてあげる。

「うむ。そうして並んでいると、海人は親父の隼人にだんだん似てきたな」
「本当? 最近、みんなそう言うようになったね。この前まで、母さんにそっくりって言われていたのになあ」
「海人が男らしくなってきた証拠なのだろう。お父さんみたいな男になれよ」

 すると海人はとても嬉しそうだった。
 そんな顔されると、父としてもなんだか照れくさい。一緒に照れてしまっていたようで、純一が『ほら、同じ顔をしている』と笑い始めた。

「伯父ちゃん、チェス貸して。あとで母さんとやるんだ」
「いいぞ」

 父親とのスキンシップで満足したのか、息子がまたひらりと伯父さんのリビングを駆け回り、お目当てのチェスがある棚まで走っていった。

「やはり子供は、どちらの親の顔も仕草も引き継いでいるものなのだな」
「真一もだろ。髪と目の色は御園だけれど、顔に体型なんか兄さんにそっくりだ。しかも、性格まで──。あんなに可愛かったのになー」
「はあ? なんだと? 真一は今でも俺以外の大人には『イイコちゃんぶって』いるじゃないか」
「どこが。あの妙な手腕は、親父譲りだぞ。飄々とした開業医になっちゃって。食えない精神科医とか言われているそうじゃないか」
「知るか。あいつが選んだ道だ。俺はなーんにも手出し口出しをしていない……もとい、させてもらえなかったがね」

 いつもの義兄弟の言い合いに、そして父息子の間にある憎まれ口。
 でも、そこで純一が笑い出したので、隼人もすぐに一緒に笑った。

「まあ、義兄さんと真一が仲良い証拠だってこと。それに、兄さんは口出しをしないで真一をしっかりその道に見送った。口出しをしなくても真一がしっかりやったってことさ」
「……に、なるのかねえ」

 今度は純一が照れくさそうだった。
 向こうの壁際のある黒い棚。そこに純一の様々な雑貨が飾られている。そこから海人がチェス盤を手にして、そのままいつもお決まりの位置であるテラスのテーブルへと持っていく。息子はそこに座ると、一人で駒を動かして夢中になってしまった。

「ああいう夢中になるところ。お前にそっくりだな。集中力が素晴らしい」

 そうかなあ。と、隼人も呟いてみるが。
 それは妻の葉月にも言われた。

「それに、周りを結構見ている。だが、杏奈には、ちょっと負けているかな?」

 義兄が言い出した『娘の気質』に、隼人はちょっと吹き出しそうになってしまった。

 まったくその通りなのだ。
 あの娘。チビ姫と思って、甘く見ているととんでもない目にあわされる。
 兄である海人に、年上の晃も、時折畳み込まれている。
 それは子供同士だけではなく、なんとまあ、我が娘は大人達まで。

「まったく。この前も、読んでいる本はお姫様が出てくるだけの童話なのに『恋は情熱、愛は豊かさ』なんて言い出した時には、ひっくりかえりそうになったよ」

 娘は今、鎌倉の御園家にいるのだが。葉月が言うには『絶対に、右京兄様の影響』とのこと。どうも右京の常なる口癖を杏奈が覚えてしまうらしいのだ。それにしても、右京らしいかもしれないが、とんでもない口癖だなあと父親としてはひやひやする。
 そして純一も同じように言う。

「右京に四六時中くっついていたら、ああなるさ。葉月だってそうだったんだ」
「葉月もあれぐらいの頃は『ませていただろう』とは思っていたけれど。杏奈はまだ七歳だぞ」
「何を言う。葉月も七歳で立派に『レディ気取り』だったぞ。同じように右京の真似、それに大人びた姉の真似ばっかりしていたさ。結果、妹も『おませ』だったというわけだ」

 なんですか。つまり『家系』とでも?
 隼人は、娘の中には色濃い『御園の女』をひしひしと感じる事があり、それが嬉しい時もあり、もの凄く心配になる事もある。

「杏奈は人一倍、感受性が強いのだろう。あれはいつか良い音を出すと右京はかなり期待している」

 そうだけれど──と、隼人は分かっているのだが、それでも娘のあの妙にませた瞳がひっかかる。
 それに右京も純一も『それぐらい』と言うのだ。さらに二言目には『葉月の小さい頃にそっくり。さすが、娘だけある』と言う事だった。

 なーんか納得できないのだが、でも……そんな娘はやはり、妻葉月の血を引く娘なのだろう。
 妻はある時から女性としての道を閉ざされてしまったから、取り戻すまでに時間がかかってしまう人生を歩んできたが。さて、娘はどうなるのだろう。

 まさか。そうそうに男なんて連れてこないだろうな。
 七歳だぞ。と思うのだが、御園の兄達の話や、葉月の幼少の頃の話を聞かされるにつれ、ちょっと心配になったりする。

 最近は『フランスに留学させたい』と言いだした右京と、『国内でもいいでしょう。まだ子供よ』と娘をなんとか手が届くところに置いておきたい葉月との間で意見が食い違っていた。
 それも隼人の最近の悩み。鎌倉へ預ける事にも思い切ってという決断だった。この決断だって、葉月に言わせれば『あっさりしている父親』と言われたが、断腸の思いだったのだ。まだ国内で、会える距離にあるからなんとか。
 しかし、流石の隼人も『海外へ手放す』のは、かなりの迷いが生じる。

「義兄さんは、杏奈をどうすれば一番良い……と思う?」
「さあ。だが、隼人としては『どうすれば音楽家として有利な道か』は、既に判っているのだろう」

 分かっている。国内にいるよりかは、海外に行く方が。しかもヨーロッパ。
 しかし日本では、音楽学校を経て幾分か成長してからでも遅くないと思っている。
 それでも。世界では? そんなだいそれたことを、我が娘が? そんなことまで考えなくても良い気もするのだが。

「杏奈が行きたいと言っているなら、行かせてみたらどうだ。『試しに』だ」
「試しね」

 試し。それには杏奈が、小さい杏奈が早々に外の世界に触れて『挫折を味わってくる』ということを意味しているのを隼人は分かっていた。
 娘が諦めて、日本だけの音楽に専念する。それをもうこの歳で? 隼人は首を振った。どうにも迷いばかりだ。

「親なんてきっと、そんなもんだ。ずっと」

 子育てをしたことがなかった義兄ではあるが。きっと離ればなれの間に、様々な葛藤をしてきたのだろう。今の、父親になった隼人なら分かる。
 義妹と息子、一族を脅かす逃げた男を追う為に、義兄は全てを断ち切って世界を飛び回って、資金力と情報力を蓄えてきたのだ。 
 その間、きっと──。『なにもここまで離れていなくても良かったのではないか』とか『せめて傍にいてやれば良かったのだろうか』とか『一生、名乗らなければ、真一には衝撃を与えなくて済む』とか。きっと迷いながら、息子が十六歳になるまで生きてきたはずだ。 だから、その言葉。今はとても重く感じて、隼人は自然に頷いていた。

「ところで、」

 海人がテラスで集中しているのを見計らうかのように、純一がやっと本題について尋ねてきた。

「例のパイロットはどうだったんだ」
「ああ、引き抜き成功。もうすぐこっちにくる」
「お前もそれで良かったのか?」
「俺も、『一目惚れ』だった。参ったよ」

 息子が入れてくれたカプチーノを飲みながら、隼人はソファーの肘掛けに頬杖。溜息を落とした。
 義兄は隼人の目の前に立ったまま。海人を見守る視線を向けているが、会話の意識はこちらに向けている。

「ほう。お前まで一目惚れときたか?」
「……だんだん、分かってきた。葉月がなにを感じ取ったのかがね」

 葉月がみつけたパイロットについて、純一には報告済。ここ最近、義兄弟で『葉月の勘がどのようなものなのか』を探るような会話もしてきた。
 そして義兄も、義妹が久し振りに『自分から欲している青年』について、少しばかり心が穏やかではないようだった。

「すごかった。あんな暴走飛行をする奴、久し振りに見たんだ」
「ふむ、それほどだったか。隼人までもが『欲しい』と思ったのならば、間違いはないと思っているのだがね……」

 口ではそう言っているが、純一の内心は『良く思っていない』のが隼人には分かってしまう。
 むしろ。隼人よりも義兄の方が、葉月とは長年の付き合い。義妹の様子から、なにかを瞬時に悟るのが隼人より素早いこともある。今回はなにやら嫌な予感を巡らせているようだった。
 そして隼人とは少し、『考え方』も異なる。

 義兄は心配性だった。歳のせいだろうか。それとも、共に暮らす事が出来るようになったからなのだろうか。とにかく、義妹一家については……特に義妹の葉月の事になると本当に心配性で、『あまり冒険をするな』という方向性を取るようになってきた。つまり『保守的』なのだ。
 その保守的な義兄の心配をよそに、夫である隼人がウサギが思うまま後押しをしたり、目をつむって容認したりして、わりと危なっかしい方向へと見送ってしまうので、義兄はいつも隼人に噛みついてくる。『お前が止めなくて、誰が止めるんだ!』と。
 こんな時、『義兄弟喧嘩』によく発展する。ひどければ、十日ほど疎遠になったりしたりする。そうなると、流石に葉月が心配しだし、葉月の為に彼女の幸せを願って話し合っていた果てに起きた喧嘩なのに、その幸せを願っている彼女に『仲立ち』をしてもらって、素直になれない義兄弟がやっと機嫌を改める──なんてことが、多くなってきた。その後の、義兄弟揃っての情けなさときたら。葉月はなにも知らぬ所だろうが、義兄も隼人も本当に『すまなかった』になるのだ。

 こんな義兄に、あの青年の過去を告げたら、どう判断するだろうか。
 隼人は……。そこは義兄には報告しておきたいのに、いつもの兄弟喧嘩に発展することを思うと口が重たくなる。

「まあ、でも。いまいちデーターが打ち出せないお利口さんパイロットばかりだからな。少しばかりアウトロー的な暴れん坊がいるのは良い事だろう」

 葉月が目を付けたのは『暴れん坊だから』と義兄は思った事だろう。
 そうじゃない、そうじゃないのだ。隼人は思わず、額を抱えてしまった。

「どうした」
「いや……なんでも」
「お前、まだ何か隠しているな?」

 気が付かれた。気が付かれもするか。誤魔化せない顔をこの義兄には見せてしまっていたようだった。

「なんだ。言え」

 心配性で義妹には過敏な義兄が、隼人より大きな身体で詰め寄ってくる。しかも『黒猫のボス』の顔になったら、隼人でも畏れを抱く。

「それが……。テッドの、調査で……」
「何があった」

 義兄の顔は、本当に真剣だった。切羽詰まったようなその顔は、義妹が死ぬか生きるかの死線を彷徨っていた時に見せていた顔と匹敵する。
 その顔が如何に、義妹を案じているか義弟の隼人にはよく分かる。
 隼人が不安な顔を見せてしまったように、義兄もこんな顔は隼人だからこそ遠慮なく見せているのだろう。だから、隼人は──。

「彼は葉月と同じで、飛んでいる時に『死んでも良い』気持ちを抱えているパイロットだった。だからこそ、その冒険心は他のパイロットには真似が出来ない驚異的なものだった……」

 そういうと、義兄の息遣いが止まった。
 『義妹のようなパイロット』が何を意味するか、義兄も分かっているからだ。

「その青年、なにかあったのか──」
「……あった」
「なんだ」

 海人はまだチェス盤に夢中だ。それを一目確かめ、隼人は小さな声で義兄に『それ』を伝えた。その途端だった。

「やめろ、やめておけ! そんなパイロットは雷神にはいらない!」

 いつも静かで寡黙な義兄が大声を上げたので、隼人も驚き、そして息子までもが……。隼人は純一に『義兄さん、落ち着け』と小さく耳打ちをし、息子に直ぐさま微笑みかける。

「海人、なんでもないぞ。仕事の話で伯父さんとちょっとだけ意見が違っているだけなんだ。喧嘩じゃない」

 義兄も我に返ったのか、ふと頬をさすると海人に『大丈夫だ』と笑顔を見せた。
 しかし、海人は不安そうな顔。息子にとって、『伯父さんが怒る』というのは滅多に見る事がないからだろう……。

「どれ。伯父さんとやろうかな」

 思うところがまだあるだろうに、純一はさっと切ってくれた。海人の為に。
 その話はここで終わった。

 テラスで伯父と栗毛の甥っ子が向かい合う。

「伯父ちゃん、この駒、こうやって動かせばいいんだよね」
「ちょっと違うな。ビショップは斜め一直線だけ、他の駒がある時は飛び越し禁止だ」
「ナイトは……」
「ナイトは中間に駒があっても飛び越せる。ただしナイトは──」

 純一が駒を動かすと海人はその手元に夢中になってくれて、隼人もホッと胸をなで下ろした。

 やがてBe My Lightから、デリバリーが届いてテーブルを整え始めた頃、インターホンが鳴った。

「母さんだ!」

 時間も丁度、いつものその頃だと知っている息子が一目散に玄関へ駆けていった。
 それを見て、隼人と純一は笑い合う。

「男らしくなったなあと思っても、まだまだ『ママっ子』だな」

 純一は、義妹が優しい母親の顔をしている時、彼も幸せそうな顔をする。隼人は知っていた。
 甥がまだまだ義妹を慕っている姿に、どこか癒されているような顔を──。それは彼が亡くなった女性から見る事が出来なかったからなのか、はたまた、愛した女の現在を見届けることができるからなのか。

「隼人。俺はあまり良い事だとは思わない。葉月にも言っておけ。仕事と私情はきっちりと分けろと。乱れる元だ。もう、一中隊の隊長の頃とは違って、ちょっとのことが綻びの元だとね──」

 葉月が鈴木青年を気にしてしまうのは、『葉月個人だけの気持ちから欲しているだけに過ぎない』。義兄はそう言っているのだ。
 今なら、ただ雷神の為だけを思って動いてきたままに、丸く収まる。だが、その青年が来たらそうは行かない予感。
 きっと、義兄はそう言うと思った。とにかく義妹にはあんまり苦労をして欲しくないのだ。隼人は溜息をこぼす。だから、そんな義兄だから、言い辛かった。しかし──。

「ただいまー。もう、なあに? また義兄様の勝手なの? いきなり呼びつけないでよ」

 息子に手を引っ張られ、制服姿の葉月が姿を現した。
 相変わらず。妻やら、義妹やら、母親やら。様々な表情をくるくると見せる微笑みで、そこにいる男達を笑顔にさせてしまう『俺達の──』。
 そして雑然としているこの義兄の仕事場兼リビングが、ぱっと華やいだ。こういうところは、流石の『匂い』を放つ奥さんだと、隼人もつい、ふんわりしてしまう。

「あー。お腹空いた。いただきまーす」

 上着だけ放った葉月は、さっそく、ドレッシング和えの茹で海老をひとつまみ。指先でぽいっと口に放った。空いている手ではネクタイを緩めながら……。
 隼人は『こら』と言いたくなったが、義兄の方が手早い。

「お前、息子の前で行儀悪いぞ」
「だって、美味しそうだったんだもの」
「しつけにならない母親だな。海人、真似するなよ」
「なによ。なんか機嫌悪いわね」

 流石の義妹に、その少し前に気に入らない事があったのを悟られた純一が、はたとした顔に。

「私、義兄様になにかした?」
「なにも。もういいから、お前もそこに座れ」

 義兄がそこにジンジャーエールをぽんと置くと、葉月は訝しそうではあったが、先立つのは空腹なのか大人しく座った。

「母さん、あとで俺がデザートつくってあげるね」

 今度の海人は、母親の隣の椅子に座ってぴったりとそこから動かなくなった。

「嬉しいわ。なにかしら」
「出てきたらのお楽しみ。ね、伯父さん!」
「ああ。お楽しみだ」

 海人と義妹の前に、取り皿を置いて世話をしている義兄も、これまた幸せそうに笑っている。
 食事を始めた妻と息子を見て、隼人も休んでいたソファーから動き出す。

 やっと妻と目が合った。

「貴方、おかえりなさい。今日は日帰りでご苦労様」
「うん。ただいま」

 それだけ。今は、仕事の話はしない。
 息子の前ではあまりしないようにしようと二人で決めていた。
 だから、寝室でよく話す。

 ──お前が欲しいと言っていた訳。俺には解ったよ。

 だから、引き抜いてきた。
 その報告も、後で良いと言わんばかりに、妻はただ家族の空気に溶け込んで、いつもの『お嬢さんママ』の顔で楽しそうに食事をするだけ。一切、出張の事には触れてこなかった。
 だから──。義兄も自然と機嫌を直す。

 隼人も家族での食事を楽しんで、義兄と一緒に新しいワインを開けた。

 日が沈んだ海が見えるこの部屋。
 懐かしい漁り火。夜の星。
 さざめく家族の会話。

「ねえねえ、父さん。ジュン伯父ちゃんとお母さんって、本当の兄妹なんでしょう? なんで義理の兄妹って言うの?」

 食事が終わって息子手作りのアッフォガートのグラスが配り終わると、純一と葉月の義兄妹はテラスで夜風を楽しんでいる。
 それを見た海人が、どこか楽しそうにそんな二人を眺めている。

「血の繋がりがないから義理というのだけれど、でももう本当の兄妹と同じだよ。母さんが生まれた時から伯父さんは傍にいたんだし、母さんもずっと伯父さんと一緒に育ってきたんだから」
「じゃあ、もう本物の兄妹だね」

 また父親の隣にぴったりと寄り添ってデザートを楽しむ息子に、隼人はそっと微笑む。
 純一と葉月は、窓の外の漁り火を揃って眺めて『良い雰囲気』だ。
 だからとて、二人からはもう……男女の匂いなど一切漂わない。隼人でもそう思う。二人はかつて男と女であった時期が『一時期だけ』あっただけに過ぎず、最後に残ったのは最初からあった義兄妹の関係。
 それだけが綺麗に残り、二人はいま、義兄妹として幸せそうだった。きっとそれが二人が成した愛なのかもしれないと、隼人は近頃思うようになる。
 男女ではない愛を、二人は二人なりに手に入れた。息子が『兄妹』として見えるなら、それはそれで二人は成し遂げたのかもしれないと──。

「今度、杏奈が帰ってきたら、これ、つくってやろう」

 仲の良い兄妹を見て、息子は離れて暮らす事になってしまった妹を思いだしたようだった。
 隼人も『それがいい』と、そっと息子を抱き寄せた。

 来週、鈴木青年はこの小笠原に転属してくる。

 

 

 

Update/2008.6.22
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