-- エースになりたい --

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11.女王の旦那様

 

 ついに辞令が出た。

 英太は今、真っ青な空の下にいた。
 太陽の光が、横須賀より鋭い。そして真っ白だ!
 なにもかもが鮮やか。それがこの南の離島に着いた時の第一印象だった。

 小笠原の航空部隊への転属。細かい部署名を記された辞令書を長沼から受け取った時、『それが雷神の部署名だから』と言われた。  橘には、挨拶が出来なかった。情けないが、今はまだ、上手く接する自信がなかったのだ。長沼と相原に『前の部隊長によろしく伝えて欲しい』と言うと、二人は揃って『橘は分かっている。でもいつか自分で伝えろ』と突き返されてしまった。

 そのまま長沼の配下から、小笠原の航空部隊への転属となった。

「聞いていたけれど、マジあっちいー」

 まだ本島では初夏になったばかり。
 なのに、小笠原は既に真夏かと言いたくなるような暑さだった。

 一昨日。週末の休暇を利用してこの小笠原に移転した。
 勿論。横須賀でもそうであったように、独身寄宿舎が英太の新しい住まいだった。

 さあ、週明けだ。
 英太はパイロットの訓練着で出勤するように伝えられていた為、その格好で『空部隊本部』へと向かった。
 そこで待っていてくれるのは『クリストファー=ダグラス少佐』。ミセス准将と面接した時に、彼女の隣に座っていた金髪の少佐。あれが彼だと長沼が教えてくれた。彼が英太の受け入れを一手に引き受けているとのことだった。

 ミセス准将は近寄りがたい冷たさを放っていて、側近のラングラー中佐は手厳しそうな男という印象。
 でもダグラス少佐は、時折ふと口元を緩めて、穏和な表情を見せていたのを思い出す。だが、彼は少佐故か。一切、口を挟まずただ従っているという印象があった。

 そんな彼を今は頼って、新しい基地へと英太は踏み入ったのだ。

 横須賀は古くからその位置を不動にし、敷地にしても組織としても本部としても規模が大きい。だが小笠原もそれに匹敵すると聞かされていた。

 確かに。この週末にあれこれと新しい住まいを整えるのに動き回った時に基地の周辺に島の様子を目にして思った。離島だからどうかと思っていたが、基地にしても敷地の外に出ても、ここは『基地という名の街』と言いたくなるほどに、横須賀以上にきちっとまとまっていて大規模であった。
 設立されて、もう久しいが、横須賀よりかはずっと新しい。建物も綺麗で近代的。離島にある街とは思えなかった。これなら不自由はなさそうだ。

 だが、どこか隔離された息苦しさを英太は感じた。
 でも、一歩外へ出た時の、小笠原独自の大自然には感動した。
 新しい生活へのモチベーションは、まずまず。英太は転属第1日目の月曜日を迎え、今、空部隊大本部へ行く。

 一番気に入ったのは、この濃い青色の空と、煌めく蒼色の珊瑚礁の海だ。

 ──俺、ここの空を、海の上を、もうすぐ飛べるんだ!

 やっとコックピットへの意欲が蘇ってきていた。

 拳を握って、英太はダグラス少佐が待っている大隊本部へと向かう。

 

「いらっしゃい。待っていたよ」

 やはり。待っていてくれたダグラス少佐は、第一印象そのままに穏和な笑顔で英太を迎えてくれた。
 横須賀の大隊本部より大きくて小綺麗に整っている事務所には、大勢の空軍管理官が動き回っていて、その活気は横須賀以上かと英太は圧倒されていた。
 そんな大隊本部をひと眺め……。そんな英太の頭の片隅に、ふと『彼女』の冷めた顔が浮かんでいた。

 どこにいるのだろう。
 あの日から、一度も、彼女自身と接する機会はなかった。
 あれからは、長沼や相原を通じての、間接的な彼女しか聞いていない。

「あの、准将は……」

 そっと、尋ねると。やはりダグラス少佐は変わらぬ笑みで、やんわりと答えてくれる。

「准将はここにはいないよ。同じフロアだけれどね。隣の准将室にいるんだ」
「あの、挨拶は」
「いらないよ」

 あっさりと切られた気がした。
 ダグラス少佐は変わらぬ笑顔だが、どこか口元が冷めているように……英太は初めて感じ取った。
 つまり。『一介のパイロットには必要ない。彼女に会わなくとも、俺達で充分事足りるだけの転属だから』とでも言いたそうだった。
 彼女は将軍だ。そうそう会えるものではないと、分かっているのだが……。英太はどこか愕然とさせられた。自分でもまだ気が付いていないが『彼女に会える』と思っていたようだった。

(なんだよ。あんたが来いと言い出したんじゃないか)

 密かにむくれた。
 来て欲しいと面談までしたのは向こうで、英太を呼びつけたくせに。
 こっちは病気の叔母を案じながら、離島での生活を決意したというのに。

 やはり。上官なんてこんなものか。自分達の望みと考え方だけ押しつけて、駒が動き始めれば、あとは下の者任せ。自分はもう関係ない?
 英太の中に、収まっていたはずの『様々な不信感』が再び渦巻きそうになる。

「早速だけれど、ちょっと甲板に行ってみようか」
「甲板ですか? まだ訓練は先だと長沼から説明されていますが──」

 まずは『新機種ホワイト』に乗る為の研修を受けなくてはいけない。その為に、暫くは空には出られない事をちゃんと長沼から聞かされている。
 なのに。いきなり『甲板』?

 そしてダグラス少佐は、その微笑みのまま英太に言った。

「ホワイト、見てみたいだろう?」

 え、来ていきなり見せてくれる!?

 それは見たい。まだ機密的に扱われているテスト段階の新機種! パイロットなら誰だって興味がある。そして英太はその飛行機に乗る為にやってきたのだから!

「見たいです!」

 つい先ほどまでの、ちょっとした不満がすっ飛んでいった。
 にこにこ顔のダグラス少佐に連れられて、英太は沖合に浮かぶ訓練空母艦へと向かった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 空母艦に到着すると、ダグラス少佐はすぐに甲板へと英太を連れて行く。
 既に午前中の訓練が開始されていた。

「ビーストームだよ」
「あのビーストームですか!」

 英太は空を見上げた。
 雷神もパイロットの男達には伝説のエースチームだが、横須賀にいるパイロットのほとんどは『小笠原のビーストーム』を知っている。何故なら、あのミセス准将が所属し引退をしたフライトチームだからだ。

「あそこで指揮をしているのは、ビーストームの初代キャプテン、そして現訓練総監をしている『コリンズ大佐』だよ」

 甲板に紺色の指揮官訓練着姿の金髪の男性が、インカムヘッドホンを装着し、空を眺めている。
 あの人が──『コリンズ大佐』。彼の名も、横須賀ではさんざん聞かされていた。彼ほどの熱血パイロットは他にいないと。その彼があのミセス准将をパイロットとして引っ張ってきたことも、育ててきたとも。女性でありながら、ミセス准将が持っている技術を存分に発揮できたのも、パートナーとして飛んでいた彼がそれだけ巧みなリーダーシップを取り、巧く彼女の才能を引き出したから。そんな彼の評判。『女という先入観を捨て、リスクあるパイロットを巧く使うことができる指揮力の男』、女性パイロットをそこまで引き上げた彼のリーダーとしての力が今も評価されている。女を部下に持っても巧く引き出せる男がいるのに、使えない男で音を上げる奴などリーダーになるな。彼ならそう言いそうだと、皆が言っているのを英太も知っていた。

 英太が小笠原に来たのは、そんな噂話も意識しての事。
 横須賀で聞いてる限りは、どこか遠い国のおとぎ話に等しい感覚だった。だが『実感』したのは、やはりあのミセス准将に触れたからなのだろう。

 遠くに見えるコリンズ大佐は、空にはまだ一機も肉眼では見えないのに、つねに大空に向かって大声を張り上げていた。
 マジ、熱そうな人だ。英太もそう感じた。
 彼の声だけで、甲板の空気がぴりっと引き締まっているのが伝わってくる。

「鈴木、こっちだよ。早くおいで」

 その名を馳せている指揮官に出会えて釘付けになっている英太は、ダグラス少佐の声で振り返る。
 彼はそのまま、ホーネットが並んでいるところまで連れて行ってくれる。

「お待たせ致しました」

 ホーネットの列、機体の下をくぐりながら一機のホーネットの下で彼が止まった。
 この時点で、英太は妙な胸騒ぎ。ホワイトを見せてくれるはずだったのに、何故に、ホーネットの下に?

「来たか」

 コックピットからそんな声。
 英太は差し込む太陽の光に手をかざしながら、そんな声が聞こえたコックピットへと見上げる。

「鈴木英太大尉です」

 ダグラス少佐が、コックピットにいる男性に英太を紹介する。
 英太はいったい誰に紹介されたのかとコックピットにいる彼を確かめようとした。

「やっと来たな。鈴木大尉」

 そこには、紺色の指揮官訓練服を着込んでいる黒髪の男性がいる。日本人だ。
 彼の腰には、工具ポシェット。どうやら整備員のよう? しかし紺色の服は指揮官の服だ。
 彼が指揮官である事は分かったのだが、少佐に整備士のもとへと連れてこられたのが意外だった。

 太陽の光のせいか、その整備士男性の、階級が分からない。
 日本人で、指揮官で、そして整備士。今から英太と対面していったい何を? 本来ならすぐさまホワイトの研修に入っているところ。それに英太も早く研修をものにして、雷神のパイロットとしてのデビューをしたいのだ。
 なのに、またホーネットがある場所に連れてこられるだなんて。しかも初日にだ。嫌な予感。

 そんな英太の不安を煽るかのように、そのコックピットにいる男性は、英太を見下ろしてなにやら楽しそうな笑顔を見せている。それもとっても気になる。
 なんか。今、ここから逃げた方が良い──そんな英太の勘。

「あの、今日はどうして俺は甲板に……」

 不安が募った英太の疑問に、その整備士らしき男性がさらににっこりと微笑んだ。
 その笑みときたら、なにかに狙いを定めそれを楽しんでいるかのような微笑み。英太は後ずさりをしたくなった。
 その整備士の男性が言った。

「今から飛んでもらうから、これに乗って」

 はい? いますぐ?

 目を点にしている英太のことなど予想済とばかりに、彼はさらにコックピットから英太に微笑む。

「大丈夫、俺に任せてくれ」

 というか。あんた誰? 任せてくれって、任せて大丈夫な人?

 ダグラス少佐もちょっと困った顔をして、コリンズ大佐を気にしている。
 それも英太には気になった。だが、黒髪の整備士さんは彼等の様子など気にしないとばかりに平然と言った。

「澄ましているあの女を、驚かせてみたいだろう」

 ──澄ましているあの女。
 それが誰の事を指しているのか、英太には直ぐに分かった。以上に、先ほどの『彼女への不信』を見透かされたようで、ドキリとさせられた!
 なのに、まだまだ。この整備士さんはもっと驚く事を英太に投げかけてきた。

「彼女が、准将室からこの甲板に一直線に向かってくる。そうなればしめたもんだ」

 彼の提案に、どうしてか英太の血は既に騒いでいた。
 この人、何を考えているのか? だが、彼が英太に誘っている事は……

「それ。面白そうっすね」

 真顔で返すと、彼の黒い目がきらりと光ったような気がした。

「だろう。俺も見てみたいんでね」

 不敵な彼の笑みは、それまでの笑みとは違っていた。
 あの長沼のような底の知れない笑み。
 そしてあのミセスに挑む男? いったい……。 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 もしかして。この人は……。

 そう思いながら、そこに用意されていたコックピットに乗る為に装着するものを英太は身につける。
 整備士のおじさんが、梯子に身を乗り出し、コックピットから甲板へと降りてくる。

「直ぐに乗って。急ぐんだ」

 彼は英太から何かを尋ねるのを許さないかのように忙しく動き始め、やがて笑みを消した。

 なにを急ぐか分からないが、まだ誰とも名乗ってくれないその整備士に、英太は急かされる。
 入れ替わりで梯子を伝ってコックピットへ。

「クリス、連れてきてくれて有難う。借り、ひとつな。何かあったら一番に協力するから」
「ほんと、准将とテッドに知られないようにとひやひやしたんですよ。貸しひとつっすよ。まったく……准将ならともかく……」

 二人を見下ろしているとそんな会話。
 どうやらダグラス少佐は、直属の上司であるミセス准将の目を盗んで英太を連れてきてくれたということらしい。

 それにしても……。と、英太は整備士のおじさんをコクピットから見つめた。
 ミセス准将の直属部下であるダグラス少佐が、彼女を差し置いて『整備士のおじさん』の指示に従ったということになる。
 ミセス准将を驚かすという作戦は面白い。だが、この人『俺に任せてくれ』だなんて言っておいて、あのミセス准将にたてつく事が出来るのだろうか? 出来たとしてもどうやって彼女を黙らせる事が出来るのだろうか? 本当に任せられるのだろうか?

 彼女に対して恐れずに挑む事が出来る男、しかも『メンテナンサー』。英太は再度、コックピットから整備士上官である彼に向かった。

「あの……!」

 もしかして、貴方は──!
 そう尋ねようとしたのを悟られたかのように、インカムヘッドホンを手にした彼が動き始める。

「キャノピー閉めて! 今からカタパルトまで行くぞ。時間がない。空に出たら俺の指示に従ってくれ」

 英太は心で叫ぶ。──俺、まだ、ここに来たばかり!
 なのに、彼はテキパキと動き、英太にはバシバシと指示を飛ばしてくる。
 なにがなんだか分からないが、彼が急いでいるのにはそれなりの訳があるのだろう? わからないでもない。空という空間はある程度『スケジュール』を組まれている。その中に、予定外の戦闘機が一機、紛れ込むのだ。管制は混乱する事だろう。
 その混乱を最小限に収めるための作戦を、あの整備士のおじさんは既に準備済。英太にはそう感じる事が出来たから、言われるままキャノピーを閉め、持ってきたヘルメットを装着した。

 インカムヘッドホンを装着した整備士のおじさん自ら、英太が乗った機体の正面に出てきて誘導灯を振り始めた。

(手慣れている……。やっぱりこの人!)

 その手際はまさしく、甲板要員の動きだった。しかもかなり手慣れている。
 その上、彼が自ら誘導灯を振ると、どこからともなく彼をサポートするメンテナンサーが数名駆けつけてきた。
 英太の機体に徐々に集まってくるメンテナンサー達。牽引するトーイングトラクターもやってきて、英太の機体をカタパルトまで引っ張って行く。
 その指示も全部、『彼』が先頭に立ってやっている。そしてメンテナンサー達は、皆、彼の突然の機体誘導に違和感など抱く様子もなく従っている。

 英太は思った。
 彼はかなりの統率力と権力と信頼を得ている上官だと。
 その彼が『ミセス准将』に今から、『悪戯』をする。
 彼は、きっと彼女に匹敵する男。英太にはそうしか感じられなくなった。そうでなければ、こんなこと。そしてこんなに甲板要員の男達をいとも簡単に従えている光景……。

『この人は、御園大佐だ!』

 確信した。彼はミセス准将の夫『御園工学大佐』だと。
 でも、何故彼が? 夫の彼が? 工学科の人が? 何故、転属してきたばかりの俺をここに呼びだした? 疑問だらけだ。
 それでも機体はカタパルトの前へと辿り着く。コックピットのフロントには、小笠原の珊瑚礁の海が広がっている。
 大自然の中に君臨している空に海原が果てしなく続く小笠原。横須賀の海とはまったく異なる壮大なパノラマに濃い潮の匂い。それだけで操縦桿を握る英太の手が震えた。今から俺はこの空を飛ぶのだと。

『聞こえるか、鈴木』
「はい。聞こえます」

 誘導灯を振っていた『御園大佐』が、コックピットへとコンタクトをしてきた。
 するといつのまにか、彼の隣にはあのコリンズ大佐がいた。
 彼がこちらをじいっと見据えている。その眼差しに英太は固まった。離れた処にいるのに、その金髪の大佐の目がここまで鋭く突き刺さってくるのがわかる。
 横須賀には、確かにいない上官の眼だった。ミセス准将もそうだった。そしてこのコリンズ大佐も。決して横須賀にはいない際立っている人達だ。そして、もう一人──。目の前で英太をどこかへ連れ出すかのようにホーネットを誘導している整備士のおじさんも、だ。

『コリンズ大佐も、ミセス准将がすっ飛んでくるところを見たいそうだ』

 なんちゅー、おじさん達?
 英太は呆気にとられてしまう。こんなことをやる男達、横須賀には絶対になかった。むしろこんなことをする男は軽蔑され、さらに白い目で見られたに違いない。誰もがそんな『お遊び』はしない。
 なのに、この人達ときたら、大佐が二人揃って『予定外のフライト』を送りだそうとしているのだから。それがしかもミセス准将への『悪戯』だなんて。

 なんという『旦那様』であることか。
 あのコリンズ大佐が、彼の横にいるが物を言わずにやらせているところにも、整備士おじさんが認められている事を伺わせる。
 なるほど? そんな男だから、あの女の旦那になれたって訳か──? 英太もそれは初対面ですとんと納得させられた気がした。
 まだ自己紹介はないが、充分だ。彼がもし『御園大佐』でなくても、彼はこの小笠原では誰もが一目置いている男だって事はよく分かった。

『ひとつ、約束してくれ。空に出たら、ビーストームには接触をしないでくれ。それがコリンズ大佐が今から飛ぶ事を許してくれる条件だ。ビーストームは訓練中だ。分かるな』

 そんな、常識じゃないかと英太は密かにむくれた。
 確かに、今までかなり突っぱねた飛行をしてきたと思う。だからってなんでもかんでも『馬鹿をやる男』と思われているのかとがっかりさせられる。
 しかしそれはごもっとも。今日、ここに来たばかりの男だ。釘でも差しておかねば何が起こるか解らない。そこはなあなあで流さずにきちんとするべきところ。
 それに英太はこの時……ミセス准将と初めて向かったときのことを思い出していた。
 ──通じ合えなくなった。そう思いませんか? それが『使えなくなった原因』だと思いませんか──
 彼女のあの言葉を、今、彼女の夫を見て思い出す。なにはともあれ、今の英太がやらねばならぬのは、とにかく目の前の上官を信じる事からだ。裏切られた、粗末にされた、信じられない……そういうのは後からついてくるもので、その時にまたぶつかっていけばいい。

 だから、英太は初対面で強引な指示を出すばかりの妙な整備士のおじさんに答えた。

「ラジャー。指示に従います」
『よし。時間がない。発進準備、行くぞ』

 英太は再度、ラジャーと答えた。

 機体がカタパルトに装着される。

『こちら管制──』
『こちらメンテ発進──』

 管制とカタパルト発進の確認交信が始まった。
 しかもカタパルトの発進台に立って英太を見送ろうとしているのは、ビーストームのメンテ員ではなく、御園大佐自身だった。
 インカムヘッドホンのマイクを口元に寄せ、彼は跪いて英太が乗っている機体の車輪をチェックしている。
 本当に慣れている姿。御園大佐であるなら、彼は元甲板メンテナンサーだったのだから、機体を送り出す手順などお手の物であるのも当然のところだ。むしろここにいるどのメンテナンサーよりも手際がよいベテランに見えた。そんな人が俺を送り出してくれる──。
 初日から英太を驚かせてばかり、振り回してくれるこの『島の大空野郎共』。これはなかなか予想外だった。

 それでも何故、御園大佐は……。俺をいきなり呼びつけて、しかも一緒に奥さんを驚かす悪戯をしようと持ちかけてくれたのだろうか?
 英太には、そこがまだ分からない。だが今はそれどころじゃない。目の前は空と海、そして手には操縦桿。そこに集中する。

『鈴木、行くぞ。こちらメンテ発進準備OK』
「こちらコックピットも、発進準備OK」

 管制から再度のOKとゴーサインの通信が返ってきた。

 英太は操縦桿を握りしめ、目の前に真っ直ぐ伸びているカタパルトを見据える。
 エメラルドグリーンの珊瑚礁の海が、真っ白な太陽に煌めいている。
 エンジン音も最高潮のうねりに達し、コックピットがその振動でガタガタと揺れる。もうすぐ発進だ。
 カタパルト台では、噴射口から吹き荒れる気流に煽られ、飛ばされないように身をかがめている御園大佐がこちらを見上げ手を挙げている。『もう出るぞ』と彼が言ってくれている気がした。英太はそれに答えるべく敬礼を返す。
 発進ランプ、二つ目の赤ランプが点滅を始める。もうすぐ青ランプが点灯する。

『行ってこい、鈴木!』

 カタパルトを飛び出していく英太の視界に、彼のゴーサインが通り過ぎていく。
 英太もお返しのゴーサインを彼に向け、操縦桿を握った。
 ゴゥーと唸る轟音が英太の身体と五感にまとわりついてくる。コックピットのGに引きずられる地を這うようなこの感覚は何度やっても重苦しく、押し潰されそうな感覚。だがやがてやってくる、ふわっと浮かぶ感覚。テイクオフの瞬間。その時、英太は操縦桿をぐっと倒して機首を空へと向ける。

 この感覚。今までいろいろあったのだけれど、俺はまだこうして上へ向く事が出来るんだな──。いつも一瞬だけそう思う事が出来る。それを自分の手で上へと押し上げている感覚になれると、どこか安らぎにも似た感覚を覚えるのだ。

 もしかすると。たったこれだけの為に、コックピットを捨てられない、捨てられなかったのかもしれないと英太は思わされる。

 空母艦の上空で旋回。見下ろす空母艦はまるで小さなプラモデルのように見える。甲板にいる男達が小さく見えるだけになった。そしてコックピットの視界に新しく見えてきたのは、ジオラマのような『基地』。緑の山を背にして真っ白な棟舎が何棟も並んでいる。そしてその隣には『アメリカキャンプ』。

 小笠原の上空を、自分の手で飛ばしている飛行機から見下ろす。
 これから俺が過ごしていく『街』を──。

『さて、鈴木。今日は俺の勝手で突然のフライト、空に送り出してしまって申し訳ない』

 上空に落ち着くと、そんな御園大佐の声が聞こえてきた。

「いいえ。初日から、面白そうな事をさせてもらって光栄っすよ」
『そう言ってくれると思った』

 英太は眉をひそめた。なんだか『おじさん』は、俺を分かっているような口振りだ。
 本当に初対面だ。それとも、やはり長沼から相原からいろいろ聞かされていたのだろうか? だとしても、御園大佐がこんな『悪戯』をする意図が分からない。

『自己紹介が遅れたな。俺は──』
「御園大佐ですね」

 英太がそう言うと、今度は向こうが驚いたのか、暫く黙ってしまった。

『あれ、どうして分かってしまったんだろう?』
「分かりますよ。手際の良いカタパルトの見送りに、こんな……ミセス准将を驚かそうだなんて悪戯が出来る男性って、『准将の旦那さん』一人しか思い浮かばないっすよ」
『あー、なるほどなあ』

 そうっすよ。と、英太が真面目な声で返すと、御園大佐の可笑しそうな笑い声が聞こえてきた。

「どんな悪戯をするのですか」
『どんな悪戯か。そう、鈴木にしか出来ない悪戯だ』

 俺にしか出来ない?
 英太は首を傾げたのだが──。

『ミセス准将と面談して思わなかったか? 冷たい顔の澄ました女』
 ええ、思いましたけれど。と、言いたいが英太はそこは黙っておく。
『俺もコリンズ大佐も、ああいう顔のミセス准将は気に入らない方でね』
 はあ。そうですか。と、英太はまったくもって……まるで少年のような仕業を楽しむ男達の、今からする事がまったく分からない。
『怒る顔、見てみたいだろう。怒らせて、准将室から引っ張り出す。今日はそんな気分──』
 気分って。そんな気分だけで、あの准将に悪戯をしかけるのかよと、英太は呆気にとられた。でも、面白そうだ!

「了解です。では、大佐の作戦は?」
『ああ。良く聞いてくれ。時間がない。もうすぐ滑走路に横須賀からの輸送機が来るからその前にだ──』

 御園大佐の『滑走路、輸送機が来る前』という言葉に、英太は一瞬で凍り付いた。

「ま、まさか──。大佐!?」

 流石の英太もそれは思いつかないし、それは流石の暴れん坊の英太でも単独では決して出来ない事。
 彼の、大佐の権力を持って、そして周りの人間を動かすことが出来るサポートがなくては成り立たない作戦である事に気が付いたのだ。

『流石、察したか。その通りだ。滑走路に突っ込んでくれ』

 さらっと言い放った御園大佐のその声は、楽しそうだった。
 英太は絶句し、暫く操縦桿を動かすのを忘れそうになった程だ。

 小笠原の陸にある滑走路は、だいたい輸送用交通用で使用されている。それは横須賀も一緒だ。
 訓練戦闘機、任務フライトの戦闘機が降り立つ時は、それなりの事情があった場合だ。
 それ以外で、戦闘機が陸の滑走路の低い上空を通過するという事はあまりない。それこそ用途が違う輸送用の飛行機との接触を避ける為だ。
 なのに。『それなりの事情』という訳でもないのに、御園大佐は英太に、戦闘機が通らない道を通ってこいと指示しているのだ。

「しかし、大佐。それは……」
『安心しろ。滑走路の管制からも、この一瞬だけの時間ならと許可をもらっている』

 そして御園大佐は、躊躇うことなく英太に言った。

『三番滑走路だ。そこに突っ込めば、准将室の真ん前だ。そこを掠めて、さあ、怒らせてこい』

 んな、無茶な?
 奥さんもとんでもないじゃじゃ馬だという噂だったが、旦那はもっとじゃないか!?

 これが『島流』なのかと、英太は絶句するばかり。 
 しかし暫くして、英太は操縦桿をぎゅうっと力強く握りしめていた。

「ラジャー、御園大佐。あの人が一直線に甲板にやってきたら、俺達の勝ちなんすね」
『そうだ。成功の暁には、褒美があるぞ』

 なにが褒美だ。俺をガキ扱い?
 だが英太は笑っていた。
 なんて面白い男がいたことかと。

「行ってきます」
『行ってこい』

 英太の翼が旋回する。
 真っ青な空の中、銀色の翼を輝かせる光。  英太の目の前に、真っ直ぐに伸びている『3』の滑走路。

 

 

 

Update/2008.6.24
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