「あれが、鈴木です」
交渉をしていた会議室を出ると、長沼と相原に本部まで連れてこられる。
本部の入り口から、隼人はそっと事務室内を覗く。そして長沼が指さした方向へと目を向けてみた。
ひとつの班と思われるデスクの島。その片隅のデスクに一人ぽつんと座っている青年がいた。
「彼が、鈴木……」
「そうですよ。訓練が終わって、また私の指示の下、再び事務作業。苦手と言っていましたが、今回はどうしたことか、これが大人しく要領よくこなしているんですよ」
初めて、そしてやっとお目にかかれた青年。
隼人は事務作業をしている黒髪の青年を見て、まず思ったのが『事務、似合っていない』だった。
けっこうガタイが良い。がっしりという訳ではない程良い肉付き。そしてなによりも背も高そう。義兄の純一ぐらいか達也ぐらいか。周りにいる内勤の男達とデスクが小さく見える。
「体格良いですね。あれならコックピット向きだ」
感嘆する隼人に、長沼も。
「あの体格ですからね、コックピットでもタフですよ。それであの飛行ですよ。最近の若者は体格が大きめになってきたけれど、鈴木はまた格別で。彼なら外国人と張れますよ」
「確かに。タフでなくちゃ、あれ程の冒険はなかなか出来ない……」
体格もあるのだろうが、きっと『精神』も。隼人はそう思った。
でもその精神も、妻と一緒で波が激しく、落ちる時はとことん落ちてしまい、上昇時は爆発的なパワーを発するのだろうという予感。
そんな逞しく雄々しく見える鈴木青年。なのに操縦桿を力強く操っていただろう手で小さなホチキスを持って、拙い手つきで書類の隅っこをぱちんぱちんと一心不乱にまとめている。しかも猫背で。体型で判断する訳ではないが、雰囲気で直ぐに分かる。彼はデスクに馴染んでいないし、手つきも慣れていない。しかもあんな初歩的な仕事を……。今はデーターにしてPCマシンで書類的なやり取りも出来るというのに、あんな昔ながらの手作業を──。それも長沼の指示なのか?
「……馴染んでいないですね」
隼人は思ったとおりに呟いてみた。
やはり長沼が笑った。
「でしょ。でもあの反抗的な暴れん坊が、この二週間黙ってやっているんですよ。分からない事も独自に解決、吸収して、任せた班長の少佐が『まだぶきっちょだけれど、力がある。コックピットから降りる為の試しで使っているなら、是非、うちに……』と、言い出したぐらいで。つまり、鈴木は扱いさえちゃんとしていれば、なかなかの能力を発揮するということです。上の指示がなければなかなか動けない、判断力や決定力が欠落してる者が増えている中、なかなか骨がある若者なのですよ。ただし、問題は『扱い』──」
隼人はまたもや唸った。
この長沼。鈴木青年にわざとあのような畑違いの仕事をやらせたのも『観察』していたのかと。さらには、どうしたら能力が引き出せるか試していたのだと。またその試し方が……。
長沼のやり方に、隼人は少しばかり妻の准将と同じような匂いを感じたような気がした。
これは将来、彼とは牽制しあう管理官同士となりそうだ。敵に回しちゃいけない。油断できない相手に。そう思わされた。
その長沼がさらに、笑顔で言った。
「そんなクセがある青年ですよ。ご希望のまま引き渡しはするつもりですが、構いませんか?」
いつまでも出し惜しみをするような長沼に、隼人はちくりと言い返す。
「それはつまり? その不安とリスクを懸念することを優先、今回の話はなかったことにと私が気持ちを変えたならば、私の弟が手がけた『チェンジ』二台を諦められるということですか?」
隼人がこれだけ強く言うと、流石の長沼も困った顔で慌てていた。「いえいえ。引き渡す手前、問題ある部分をきちんと示したつもりで……」
隼人の怒りを買ったかと、急に弱腰になった長沼。
隼人としても少し感情的になったかと、はたと我に返ってしまった
それこもれも。まるで、こちらでは扱えないとでも、葉月でも無理かもしれないとでも言いたそうな……。
だが確かに。そこは隼人も気にはなる。長沼の言葉に、隼人は一抹の不安を覚える。
そこには妻とは逆に、鈴木青年の引き抜きに懸念を抱いていたテッドの言葉が──。『今のまま当たり障りない方が、雷神も安泰だと思う』。あの言葉を思うと、近いうちに妻、准将一行が出かける航行ではその通りに『爆弾』になるのかもしれない。そんな隼人の迷い。
だが、隼人の心の大部分には、あの怪物飛行が焼き付いている。
だから隼人は先に進もうと思う。
「彼の転属手続きを了承して頂けますね。チェンジの取り付けに当分のメンテナンスなら、青柳女史と弟の澤村を直々に担当につけること、さらに横須賀隊員だけで取り扱いできるまでは短期契約で小笠原の工科員も派遣するという条件で、納得して頂いたと思うのですが」
「ええ、もう。文句はありません。貴方がここまで決断してくれるとは、参りました」
そして隼人はここでふと思った。──参ったな。大佐とかこの歳になって、『リスク』ばかりに気を取られるようになっていた。──などと思えたのだ。
今回は鈴木青年のあの飛行一発で『大きな手土産』を惜しみなく手渡してしまった御園大佐。そんな隼人を動かしたのは、もしかすると熱を持った様子を垣間見せていた妻のミセス准将ではなく、この『青年』だったかもしれないと……。
だから、隼人ももう迷うまい。待ち望んでいる妻と、この青年と一緒にさらなる前進をするだけだ。
そんな隼人の迷いない決意に、長沼がついに『御園大佐』に折れる瞬間が。
「では、転属の手続きを早急に進めます」
「准将が航行に出るまでに、雷神のパイロットとしてホワイトに乗れるよう研修もしなくてはいけないので、出来れば早めに」
「承知致しました。では、『チェンジ』の搬入と導入をお願い致します」
隼人も『了解です』と、そこで男二人はがっしりと握手を交わした。
──決まったぞ。葉月。
さあ、これから。
あの青年とどのように小笠原でやりあっていこうか。
・・・◇・◇・◇・・・
本部である程度の手続きを済ませ、隼人は機嫌の良い長沼と別れた。
隼人は腕時計を見る。
あっと言う間に小笠原へと帰る夕方便の時間になっていた。
さて滑走路に向かおうかと、訓練官の相原中佐と共に大本部室を出た時だった。
「そこまで送らせて下さい」
彼ともそこで別れるつもりだったが、相原は丁寧に隼人を定期便待合い室まで見送ってくれるという。
現場では男達を毅然と束ねるが、甲板を降りるとなんとも寡黙な男。そして控えめで丁寧な男だなと感じていたが為に、気を遣ってくれているのだろうと思った。だから貴方も忙しいだろうからと一度は『とんでもない』と丁重に断った隼人だったが、相原は何かあるのか『是非』と言う。
それならばと、よく分からないが彼と一緒に隼人は通路を歩き始めた。
すると。今まで控えめに黙っていた相原が、やっとというように話し始めた。
「長沼は、管理官ですから、どうしてもあのように勿体ぶるクセがついているんですよ。許して下さいね」
「とんでもない。同じ管理官ですから、私も分かっているつもりですよ」
本音だった。それを互いに分かっているからこそ、腹のさぐり合いで苛ついても、最後にはなんとか折り合いがつく。管理官のある程度の駆け引きの中のルールだと思っている。
『話し合いはちゃんと円満に終わりましたよ』と隼人が微笑むと、相原中佐はほっとした顔を見せてくれる。
同じパイロットだった男でも、コックピットを降りた後、これほどに道も性質も別れる物なのかなと隼人は感じた。
策士になった男と、まだ空の下で現場に心を捧げる男。まあ、小笠原でも引退したパイロットもベテランになったメンテナンサーもそうして道を分けていくのだが。
「鈴木の事ですが。長沼が『今回はどうしたことか、慣れない事務を大人しくこなしている』と言っていたでしょう。あれ、私も長沼も……本当は『葉月さんのお陰』だと思っているんですよ」
隼人は驚いて、相原を見た。
「妻、いえ、うちの准将がですか……?」
すっかり長沼が巧く操作していると思っていたからだ。
まさか、こんなところで一度しか会っていない妻と彼の間で、なにかが生まれている事を知る事になるとは……。
「葉月さんが見学に来られた時、彼は部隊を追い出されたというやりきれない気持ちがピークだったんですよ」
「はあ。うちの准将からもその過程を聞いてはおりますが……」
橘という部隊長が、統率の為に鈴木を切ったという話。
当然、彼は言われなき引導を渡された気持ちだったに違いない。
でも、そこには部隊長なりの彼への思いやりがあったことを葉月が明かしたという面談の報告は、妻の葉月から聞かせてもらった。
まさか。その面談で少し話しただけで? 彼が変わる?
「こちら横須賀の指揮官側は、指揮官側の気持ちを易々見せる事は出来ないし、名誉が隠されているダミー研修だと明かす事だってあり得ません。そこを堂々と明かせたのは、彼女が私達より上官の准将であるからですよ。正直、こっちは下っ端のパイロットにあっけなく明かされて散々といったところ。でもですね……。その明かし方が見事だったんですよ」
妻はどのように明かしたかなどは教えてはくれなかったので、隼人は益々驚かされた。
葉月はただ『名誉のダミー研修に選抜されたと知って、やっと橘隊長の意図を知ったみたい』とだけ──。
「うちの准将は……」
そこまで言って、隼人は口をつぐんだ。
意志が疎通している夫妻。仕事でもそのパートナーシップは出会って何年経っても衰えず、益々良好。と言われている御園若夫妻。
その夫が妻が何をしたか知らないだなんて──。思わず、それを口にしてしまうところだった。
しかしそこは相原が上手く察してくれたのか。
「はっきりと言ったんですよ。鈴木が自分は不要と部隊を追い出された使えないパイロットなのに、雷神にスカウトしても良いのかと葉月さんに投げかけた時。彼女は、はっきりと『貴方の上官が使えなかっただけだ』と。これまたいつもの如く、冷たくすっぱりとね。鈴木にはそれが逆に衝撃的だったみたいですね」
そんなことを──と、隼人は絶句したが。でも『相変わらずだなあ』とも笑いたくなった。
そして妻が言ったという一言を知っただけで、彼女が何を言いたかったのかもだいたい分かった気がした。
「それなら、鈴木大尉も橘隊長の気持ちを少しは振り返る事が出来たということですね。なにもただ追い出した訳じゃないと。『通じ合えなくなった』のだと……」
そういうと、相原がとても驚いた顔を見せた。
「いやあ。流石、ご夫妻ですね! まさに同じ事を奥様も言っていたんですよ」
それを確かに耳にして、隼人はホッとしたり誇らしくなったりする。
知らない事が互いにあっても、着地するところは、いつだって今だって葉月と同じなのだと──。
「それからですよ。鈴木が怒り狂っていた熱を冷まして、しっかりと周りを見て、自分の事をちゃんと考えて事務を黙々とこなす姿勢を見せていたのは」
そう、葉月さんと触れてからなんです──。
彼のその言葉に、隼人はふと目をつむった。
やはり『過去』を刻みつけて生きている者同士。通じ合うものがあったのだろうかと。
現在の妻は、ある山場を越えてきた女だが、しかしまだ若い鈴木青年はきっと、今が真っ盛りであることだろう。
そんな胸騒ぎに違いない。
あの頃の、妻と自分を追い詰めた沢山の痛々しい日々が蘇る。
でも、あの日々があればこそ。
今、隼人が直ぐに思い浮かべる事が出来るのは、妻、葉月の微笑みだ。
やがて待合室が近づいてきた。
相原から、鈴木という青年についてあれこれ聞かせてもらい隼人としても参考になった。
つまり、相原なりに小笠原へと引き渡してしまう『教え子』を、新しい上官へと引き渡す為にこうして隼人を見送ってくれたのかもしれない。
別れ際、相原が最後に隼人に引き継いでくれたのは──。
「それほどに『引き抜きたい』とおっしゃっているのなら、そちらで独自に調査済でしょう?」
同じ指揮と管理側の人間。戦略に作戦は似たり寄ったり。だからこそ如何に出し抜くか、如何に操作するかで試行錯誤する物。その中のひとつである『調査』に触れてきた相原に、隼人は少しばかり歯切れ悪く『まあ』と答えていた。
「その様子ですと……。彼の、十二歳の出来事もご存じですよね」
──横須賀でも調べついていたかと、隼人はやや動揺した。
「これまで長沼は『戦略』として、鈴木を『切り札の駒』として動かしていましたけれど、彼も心の中では分かっているんですよ」
「と、おっしゃいますと……?」
隼人の胸にまたざわざわと波が立ち始める。
甲板にいた時の、そしてテッドから調査書を見せてもらった時のような、そんなざわめき、予感だ。
「飛び方が、あの頃の葉月さんにそっくりですよ。彼の……生きている今の、戸惑いに、葛藤が空で如実に現れている」
相原が、甲板にいた長沼同様に、渋い顔つきになった。
その当時、パイロットとして脂が乗っていた彼等を、妻は余程に嫌な思いをさせたらしい。隼人としても、どこかどうしようもない気持ちにさせられる。
「特に長沼は葉月さんと飛んで、恐ろしい目に遭っていたので、鈴木の飛び方をもの凄く懸念し、またその逆の面でもとても期待していたんですよ。それは彼だけじゃない。同じフライトで飛んでいた私も、橘も。葉月さんの命など考えていないいつだって全力疾走の飛行の恐ろしさを私達は肌で感じて知っているので……」
彼等の期待と不安との葛藤が見られ、長沼がやはり『勿体ぶっていた』のも心底では本当の気持ちだったのかと隼人はふと感じたりするのだが。
「だけれど彼女がなんとか崖っぷちで踏みとどまって戦って残したパイロットとしての功績を、今は実力として活かしている。同様に鈴木にもそんな期待も──。でも、橘がギブアップし、そしてこの私も持て余していました。そこへ彼女がやってきて……」
そこまで、かつて妻と飛んできた男達の目には、彼女を彷彿とさせるものをあの青年から見ているのかと隼人は思った。
「もしかすると、葉月さんなら──。私も橘も、そして長沼も。そう願っているんです」
どうぞ、彼を『死なないパイロット』にしてください──。
隼人の目の前で彼が深々と頭を下げたので驚いた。
「や、やめてください。相原さん……!」
「俺以上に、部隊長だった橘が案じているんです。どうぞ、葉月さんにもよろしく伝えてください」
あまりにも懇願され、隼人は途方に暮れてしまった。
「きっと彼女なら……。あいつの気持ちが分かるのではないかと思うんです」
隼人はとりあえず、『分かりました』と答え、相原を安心させようとした。
彼も、指揮官として『あいつ死ぬかもしれない』と常にハラハラして見守っていたのだろうか。そんな気にさせられた。
指揮官にとって、部下が死ぬ事は責任問題以上に、自分の力が足りなかったことをありありと突きつけられるやるせない出来事となるはずだ。
どれだけの気持ちで鈴木青年を見守ってきた事か。橘部隊長が思いきって自分の手元から切り離したのも、相原に託して少しでも変わってもらえるなら……と思ったのかもしれない。
そして妻は、そんな男達の命を預かる為の苦戦を一目で見抜いたと言うところか? それは今になっても驚かされるウサギの眼と言うべきか。
待合室につき、そこで隼人と相原は丁寧な挨拶を交わし合い別れた。
その時、相原に笑われた。『大佐であるはずなのに、ただの同世代の男としか感じさせない貴方の物腰に、つい……お喋りになってしまった』と。奥さんは近寄りがたくて言葉がかけづらいのにとまで言われた。
搭乗のチェックインを済ませ、待合室の長椅子に座って一息。首元のネクタイを少しだけゆるめ溜息を落とした。
「葉月さんにもよろしくか──」
さて、テッドはあれから奥さんにどう報告したのだろう?
今のところ、自宅で仕事の話をしても葉月はそれと言って変わりはないのだが?
「テッドのやつ、さてはあそこだけ抜き取って報告したな?」
近頃、変化のない妻を見てそう思い始めていた。
妻が知らないとなると──。この旦那と主席側近の男二人だけしか知らないということになりそうだ。
知らせた方が良いのか、良くないのか。
隼人もまだ分からない。
・・・◇・◇・◇・・・
夕暮れの小笠原。横須賀便が茜色に染まる滑走路に降り立った。
飛行機を降りた隼人は、早速、胸ポケットから携帯電話を取り出す。
「義兄さん、ただいま。見てきたんだ。例のパイロット。今からそっちに行っても良いかな?」
電話口に出た義兄、純一の返事は『OK』だった。
駐車場に停めていた白いファミリーワゴン車に乗って、隼人は丘のマンションに向かった。
「よう、お疲れ」
玄関ドアを開けてくれた義兄に迎えられ、隼人も部屋へとお邪魔する。
義兄は欠伸をかき、少しばかりシャツの襟元が乱れていた。
「悪い。もしかして休憩中だった?」
「ああ。でも、そろそろ起きないとやばいだろう」
「まったく。相変わらず夜型なんだなあ」
気ままな独身生活を続けている義兄は、家庭を持っている義弟の隼人と違って、そのライフスタイルはまったく逆といっても良かった。
夜に仕事をし、午前中に取引をすませ、午後ゆるやかに日が傾いた頃、昼寝のようなスタイルで睡眠を確保している事が多い。勿論、仕事のスケジュールによっては、きちんとした真っ当な『お天道様と一緒の生活』をしている日もある。
この日はどうやら『お昼寝の日』だったようだ。
近頃はちゃんとヒゲを剃るようになったのに、今日はもさっとした無精ヒゲ面。白髪が見え隠れするようになった短髪の頭を首を傾げながらカリカリとかいて、なんとか目を覚まそうとしている。
「まあ、あがれよ。腹減ったから、なにかデリバリーする」
ああ、もう。本当に家事も出来るはずなのに、最近はどうも手抜きになってきた純一に、隼人は眉をひそめる。
まったく。義妹が時々夕食を作ったり、惣菜を届けたり、さらにはこの隼人まで。『義兄さん、またなにも作らずに酒とつまみだけで済ませているんじゃないか?』と心配になって訪ねる事もしばしば。そのうちに義兄はすっかり『お給仕さんがいる』と思い始めたのか、自炊は滅多にしなくなってしまったのだ。
その分、仕事は益々勢いづいている。特にクロウズ社が協力してくれるようになった『ホワイト』の売り込みや、製造の依頼などで奮闘してくれている。
この義兄なくして、隼人の夢も叶う事はないのだ。強力な仕事仲間だ。
その義兄がリビングにはいるなり、部屋の隅にあるワインセラーの扉を開けていた。
「もう、酒ばっかりよせよ。兄さんも身体を気にしないといけない歳だぞ」
「うるさいな。ここまで来たら煙草も酒もとことんやってやるんだ」
なんていうのも、いつものやり取りで珍しくない。むしろ挨拶かもしれなかった。
隼人だけじゃない。葉月も真一も同じ事を言う。
しかし、こんなふうに言う事をきかない言い訳を平気な顔で突きつけてくるのは義弟の隼人だけ。まったく義妹と息子には少しは聞き分けよい顔をするくせに、義弟の俺にはその態度かい──と、腹立たしくなる事もしばしば。だが、隼人は強力な殺し文句をその手に持っていた。
「義兄さんになにかあったら、葉月が発狂するだろ。どうせ、その面倒、俺が見るんだ。勘弁してくれよ。まあ、義兄さんがいなくなったら、俺がやっとこさ奥さんを独占できそうだな」
ワインボトルを手にした純一が、ぴくりと止まった。
「ふ、ふん。せいせいしていいだろう」
「ああ。せいせいするよ。早く俺に完全に引き渡してくれないかなあ」
「何を言う。今だって独占しているじゃないか」
「していない。葉月はちっとも変わらない。ライフスタイルが変わっただけで、心の中はあの頃のまんまだよ」
「そうかねえ。俺は違うと思うなあ……」
でも純一の手は躊躇いつつも、意地を張ってか、ワインボトルを引き抜いてしまった。
本当に心配している事を、どうして分かってくれないのか。ああ、妻が若かりし頃、この身勝手な義兄をひたすら心配しては捨て置かれていたあの仕打ち。(今は仕打ちと隼人は思っている)あの辛さが、今の隼人にもようやく分かってきた気がするのだ。この義兄は本当に、周りの心配など余所に、勝手気ままなんだなあと。それを捨てずに、ひたすら心配して待っていた妻に感心する。いや、それほど惚れていたということになってしまうが、そこはまあ、もういいだろう?
だから隼人も溜息。まあ、兄さんの人生に自己管理だ? 勝手にやってくれに収まる。
「甘口の白だ。フルーティな香りがする。デザートワインのように……。一日の疲れが癒されるぞ」
「へえ。美味そうだな」
「だろう。今のお前が飲みたいだろうと思ってね」
どうも隼人の為にワインセラーを開けてくれたようだった。
その通りに、純一が選んでくれたワインの味を聞いて『ひとくち飲みたい』と思う──つまり、義兄は今の隼人がどのような物を欲しているかちゃんと解ってくれたということだ。
それが分かってしまうと、隼人も何も言えなくなってしまう。
だが、ここで素直にならないのが御園義兄弟。そして天の邪鬼義弟。
「とかいって。やっぱり義兄さんが飲みたいから開けるんだろう?」
「お前はほんと、可愛くない義弟だな。もう、開けない」
手に取っていたソムリエナイフを、純一はテーブルに放ってしまった。その純一の拗ねた顔に、隼人は心の中で笑ってしまう。
「ごめん。呑みたいけれど、車だからさあ」
「葉月に迎えに来てもらえよ。今から、Be My Lightにオードブルのデリバリーをオーダーするから、届く頃にはあいつも仕事が終わるだろう」
「海人だって留守番して待っているんだぞ」
「じゃあ、俺が迎えに行く。今日は俺のところで夕飯だ」
んな。勝手な──と、隼人は苦笑いをこぼした。
だが義兄はお構いなし、携帯電話を既に手にしていた。
「おー、海人か? おじさんだ。こっちに父さんが帰ってきたんだが、おじさんのマンションで一緒に夕ご飯を食べないか? 一緒に母さんを待っていようじゃないか。うん、そうだ。分かった、今からおじさんが迎えに行くから待っていろ」
おいおい!
隼人は目を丸くした。その素早さったらもう。しかも俺のせがれを、簡単に丸め込んだことにも仰天してしまう。いや、いつもなのだが、いつやられても『おいおい』なのだ。
純一は徐々に上機嫌になり、放ったソムリエナイフを手にするととても急ぐ手つきで開け、ワインオープナーでコルクを抜く。そして用意していたワイングラスにも適当といったようなせわしさで注ぐ。
「そういうことだ。さあ、忙しい。お前はこれでも飲んで、懐かしいこのリビングからの夕焼けでも眺めていろ」
ほとんど無理矢理と言って良いほど、ワイングラスをぐいっと押しつけられる。
純一はそのままテーブルに置いてある車のキーを手にすると、あっと言う間に息子の海人を迎えに出て行ってしまった。
「なんだ、あれ。俺は出張の報告に来ただけだっていうのに……まったく。勝手だなあ」
ワイングラス片手に、隼人は呆れるしかほかない。
先ほどまで、眠そうにぼさっとしていた男とは思えないようなさっぱりとした顔で出かけていく。
でも、隼人は笑っていた。
息子がこっちに来たいというなら、それも止められまい。海人は純一おじさんが大好きだ。両親とは違う気ままな男の大人の暮らしをしているこの家を探索するのが海人は好きだった。家にはない男の物がいっぱい転がっているからなのだろう?
そして純一も。あの年頃の男の子と過ごすのが初めてであるせいか、本当に可愛がってくれる。だから余計に海人が懐きまくってしまうのだ。
「っていうか。自分の息子と過ごせなかったのを、俺の息子で楽しんでいやしないか?」
義兄の仕事場兼リビングにある横長のソファーに身を沈め、隼人はまた顔をしかめていた。
だが、目の前には……確かに『懐かしい夕焼け』が海いっぱい空いっぱいに広がっている。
その夕日に染まるグラスを掲げ、そこからも隼人は夕景色を眺めてみた。
「……いつか。ここで。葉月がこの色に染まりながら、どうしようもない顔をしていたっけな」
誰を想っているのか分からない顔。
何を求めているのか教えてくれない顔。
ひとりぼっち、泣きたいのを堪えている顔。
本当は嬉しい事があったのに、素直に笑えない顔。
いろいろな横顔を彼女はここにあったテーブルに座って見せていた。
隼人はいつだってそれを見守る『観客』でしかいられないのだという、もどかしい気持ちを噛みしめていた。
でも、二人が確かに少しずつ寄り添った部屋。
なんとも、どうしようもない演出をしてくれたかもしれない義兄に、また隼人は皮肉の一言でも言いたい気分。
だけれど。そんな思いをふと湧き起こしてくれるこの瞬間は、今でもどこか切なく恋をしている気分にさせてくれる。
これまたご馳走してくれたワインが、普段の義兄弟があまり飲む事もない『甘酸っぱい白』とは……。
義兄さんやってくれるなあと、隼人は最後には微笑みグラスを傾けていた。
ほどなく。義兄と息子の海人が、仲良くこの丘のマンションにやってきた。
Update/2008.6.12