-- エースになりたい --

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8.お熱の青年

 

 薄茶に透けて見えるサングラスの向こうに、甲板が映し出される。
 そこにはかつての自分のように駆け回るメンテナンサーが。

 その彼等が、サングラスをして顔が誰だか分からないように入ってきた隼人に気が付き、こちらへと振り返る。
 上着も小脇に抱えている為、顔も分からず階級も分からない男が、横須賀海空軍を担う長沼と来たとあっては、誰であろうと気になると言ったところのようだ。

 この日の風は湿っていてやや激しかった。
 白いシャツ姿でいる隼人の胸元で、黒いネクタイがはためく。
 隼人が甲板に出たのと同時に、頭上に戦闘機が数機、横に並んで通り過ぎていった。それはまるで式典の為の美しいフォーメーションを披露するかのような、整然とした物で訓練とは思えなかった。

 腰、抜かせなかった……。

 ちょっとがっかりさせられた。
 妻が少しばかり興奮して帰ってきたあの晩を隼人は思い返していた。
 妻は気が付いているのだろうか? あの晩の睦み合い、最後に彼女はとても燃えていた。身体がじゃない。『気持ち』が。だからその後に彼女の身体は夫によって簡単に燃えた。

(抱けば、ちょっとのことでも分かってしまうのが……)

 哀しいかな、嬉しいかな。夫妻故に。
 食えない男を隣に、隼人はふと『夫』に戻っていた自分に少しばかり頬を熱くさせてしまった。

 それほどに、あの冷淡な心でミセス准将を務めている妻が『心熱く』していたのだ。

 そうだなあ。葉月本人も飛行機乗りだった頃は、空でなにかがあれば熱くなっている夜もあったかな──? 隼人はふと一昔、恋人同士だった時を思い出した。
 葉月だってそんなことは気が付いていないし、隼人も『あれ、今夜は違うかな?』と気が付いたり気が付かなかったり。
 気が付いた時に『なにかあった?』と聞いて『別に』と返される日もあれば、隼人から聞かなくても葉月の方から──『今日、デイブ中佐とかっちりタイミングがあった!』とか『あの難しかったフォーメーションをクリアした』とか。そういう空で得た高揚感が、彼女を熱くさせ、隼人の肌に触れていたのだと……後になって納得したり。

 つまり。あの晩は、『久し振りにそんな葉月に会った』晩だったのだ。そう、彼女があの頃の、コックピットにいた時のように。空を飛んで俺の胸に帰ってくる。『聞いて、今日は空でこんなにすごいことが、素敵な事があったのよ!』──そんなふうに、いつも冷たい横顔で何を考えているか分かりかねてやきもきさせられていた彼女が、活き活きとした顔を見せてくれた、あんな瞬間を久し振りに感じたのだ。

 隼人が思うに。それほどに、『妻の心を空に飛ばしてくれた』と言う事。
 そんな男に妻が出会って、見ずしてそのまま迎え入れるなど……。いや、妻があそこまで心動かしてしまったなら、もう遅い。それを知った夫の隼人も既に『欲しい』と思っている。

 ただ、その前に。どうしても、妻と同じものを味わっておきたいのだ。感じておきたいのだ。

 なのに。長沼が脅かしたような『腰を抜かすお迎え』はなかった。
 隼人は密かに肩を落とす──。そして一人、小さく呟いた。

「俺の女房を、簡単に空へと飛ばしてしまった男──か」

 空を見上げても、どうも雲隠れらしい。
 だいたい妻に関わった男はそんなもん。いつだって隼人の心を騒がすだけで、最初は雲隠れ。あの男も、あの男もそうだった。それだってもう『青春』という箱にしまって完結している出来事ばかり。
 それがこの歳になってまだ起きるというのか? もうそんな大波来ないと思っていたのだが、隼人の胸騒ぎはずうっと止まらない。

「お久しぶりですね。御園大佐」

 一人の男に声をかけられ、サングラスをしたままの隼人は顔をあげる。
 そこには妻と同じ紺色の指揮官作業服を着ている『相原中佐』がにこやかに立っていた。

「ご無沙汰しております。相原さん」

 彼は既に指揮台にスタンバイしていて、紺色の横須賀キャップの上からは無線インカムをつけていた。
 手元には、小笠原でもそうであるように各機体の動きを監視するレーダーに、データーをチェックするノートパソコンに通信機器。ただ、『ホワイト』のシステムが無い為、隼人から見れば旧式といいたくなるセッティングだった。
 その相原がレーダーの一点を指さし、隼人に告げる。

「お目当ての鈴木なら、今、慣らし飛行をしています。先ほど、四機並んで飛んでいたでしょう。あれです」

 さっきの……。
 隼人は溜息をつきたくなった。
 よりによって先ほど『がっかりしちゃったフォーメーション』の中にいた一機だったとは。……そりゃ、暫く乗っていなかったらしいから慣らし飛行は当たり前の手順だろうけれど。ああ、妻と同じように腰を抜かしてみたかったなあ〜。なんて『子供っぽい、無い物ねだり』をひとりで密かにしていたりした。
 これも、葉月があんなにお熱だからだ。勿論、あの無感情令嬢と言われてきた葉月が、そんなお熱の顔などあからさまにみせてはくれないが、夫の隼人だからこそ、ほんのちょっとの妻の様々な機微を感じ取る事が出来るのだ。
 だから。妻をあそこまで揺り動かした『じゃじゃ馬も腰を抜かしたお迎え』を体験したかったな〜。なんて……。

「もしかして、がっかりしています?」

 そんな声をにこやか笑顔の長沼にかけられて、隼人はドキリとした。
 すると相原中佐も笑っていた。

「まあ。見ていてください。今から始めますよ。こちらへどうぞ」

 相原が通信機材が揃っている指揮台へと隼人を促してくれた。
 隼人も礼を述べ、相原の隣へと向かう。
 彼の隣に立つと、そこは小笠原で妻の訓練補佐官であるクリストファー=ダグラス少佐が管理している機材とほぼ同じ物が並んでいる。
 隼人も工学科の大佐になっても、変わらずに甲板に出ている。ただし、前のように機体を管理する現役メンテナンサーとしてではなく、今は『ホワイト』の実験データーを管理する為に。妻の背後やクリストファーの側にいて、訓練中、機体がどのような動きを打ち出しているかを通信機器から眺める。それと同じような気持ちで相原の隣に立った。

「キャプテン、1、5、8でワンチーム。3、4、6、9でワンチームでやってみようか。キャプテンチームが防御と迎撃、3号機チームが攻めで行こう」

 相原の指示に、『イエッサー』の声が隼人の耳にも聞こえてきた。

「9号機が鈴木です」

 そう言われ、隼人はノートパソコンの画面を見た。
 鈴木という青年は9号機。攻めのチームでこの空母艦ロックへとこちらへ向かってくる役割。

(一番手に攻めてくるか。その時に葉月が言っていたような低空飛行を見られるのか?)

「開始!」

 インカムマイクへと相原の合図が言い放たれると、彼の手元にあるレーダーに映っていた点が散り始める。
 だが隼人の目は一点だけを見ていた。9号機の動きだけを──。ところがだった。

 徐々に戦闘機の轟音が、この空母甲板へと近づいてきた。
 それは小笠原でもよく見ている光景。何機もの戦闘機が前へ後ろへ上へ下へと飛び交う攻防戦を繰り広げ、数機がやっとこちらへと向かってくるのだが。

 ロックオンをされたら黄色枠が赤枠に点滅表示されるノートパソコンを隼人は眺める。
 ……すると。目の前で信じられない事が! 空母艦をロックするチームの機体が次々とキャプテン迎撃チームにロックオンされてしまった。勿論、9号機もだ! 隼人はぎょっとしてしまったが、もうことは終わっていた。

「キャプテンチームの迎撃成功。空母ロックできずに3号機チームは、全機ロックオン済──」

 相原から告げられる第一回戦の結果報告は、なんともあっけないもので、隼人は唖然とさせられた。
 鈴木は? 妻の腰を抜かした鈴木もロックオンをされ、あっけなく撃墜されたと??
 では。妻が見た単独のアクロバット飛行はただ派手であっただけで、もしかしてチーム対抗戦となるとまったく動く事が出来ず役に立たないとか?
 まさか。葉月の、ミセス准将の勘が外れたと?
 隼人の第一印象から来る判断が囁き始める。
 ──『チームで動く事が出来ない協調性がないパイロットは、どんな技術を持っていても要らない』。
 あの葉月でも、仲間と飛ぶ事には何が必要か、ちゃんと知っていた。たとえ、命を粗末にしても。
 隼人は拳を握った。『期待はずれ』の拳をだ。

 しかし、そんな言葉も発しない隼人の隣にいる長沼が、どこか意味深な笑みを浮かべレーダーを眺めていた。

「ふうん。こうなったか」

 それで隼人も再び、冷静になろうと我に返る。
 相原もただにっこりとレーダーを眺めているだけだった。
 そんな相原に、隼人は願い出る。

「今の一戦、データーを見せて頂けますか」
「よろしいですよ」

 相原の側にいる訓練補佐官の青年が、隼人の目の前にあるノートパソコンの画面に今の訓練データーをマウスでクリックして映し出してくれる。
 各機の軌道を描き出すラインが映し出される。その機体がどのような軌跡で飛び、空母艦に近づいてくるかを。
 それを確認して隼人はあることに気が付き唸った。

「彼、ちっとも参戦していなかったのでは?」

 鈴木青年の9号機は、相原の開戦合図が下っても、後方にいるだけで他の機体とは動きを合わせていなかった。
 開戦後、数分。後方を守っていた対戦チーム殿の一機に撃墜されていた。

「……気のせいでしょうか? 彼がちっとも動かないまま終わっているように見えるのですが」

 自信なく呟くと、相原が笑った。

「その通りでしょうね。いえ、きっと鈴木は『様子見』をしたのですよ」
「様子見? これが本番だったら許されない判断だ。空では自分の命を守りながら、どのようなケースにも臨機応変に判断し飛ぶ事が前提では? 本番ではどのパターンが繰り出してくるか分からない。様子見なんて『チャンス』はあってはならないと。たとえ、訓練でも──」

 すると今度は隣にいる長沼が笑った。

「命を守りながらが前提? 全てのパイロットがそれではないことは……『そんなパイロット』と日々を過ごしてきた澤村さんが一番良く知っているでしょう? それなら鈴木の事も良く理解できるはずです」

 長沼の言葉に、隼人はドキリとさせられた。
 隼人の脳裏に、テッドが持ち込んできた『経歴書』が浮かんだ。
 そして隼人は、そんな……何かを見透かしているような長沼と相原にそっと、力無く呟く。

「……つまり。『鈴木』という青年は、私の妻と同じだと?」

 そう言うと、相原は少し表情が強張り、長沼はまだ余裕の笑みを湛えていた。

「恐ろしかったよな。相原──」
「あ、ああ……」

 相原はさらに表情を曇らせ、長沼は空を見上げながら遠い目。笑みを和らげ、どこか虚しそうな顔になる。

「澤村さんはどのような気持ちで、葉月さんの飛行を見守っていたのでしょうね」
「……それは」
「私と相原は同じフライトのパイロットでした。奥さんと初めて会ったのも、この横須賀空母艦の甲板だった。巡回航行でコリンズ大佐のビーストームと一緒になった事があったのですよ。若い女性のパイロットがやってきたことで男達はちょっと浮かれていた。勿論、私と相原もね。ですが、とんでもない女でしたよ。貴方の奥さんは……」

 長沼もそこで言葉を渋ったが、意を決したようにして隼人には言ってくれる。

「貴方の奥さんの機体をとりまく気流には、いつも『死』が見え隠れしていた。近づいたり、一緒に組まされると、側にいた機体もあっと言う間に引きずり込まれる。それを俺も相原も経験しているんです。彼女に合わせていたらとんでもない深みにはまっている。上手く合わせられたのは後にも先にもコリンズ大佐だけだったのでしょう? それとも彼が彼女を巧く操作していたのか、または甲板にいた細川元中将の指揮力がどれだけ強かったかということですよ。それを振り返ると、今指揮側にいる俺達はいつだって愕然とさせられたものです」

 息もつかせぬ長沼の昔話は、今聞いても夫の隼人にも興味深い。
 そしてそれは、とても頷ける物ばかりだった。

 葉月は結婚しても、なにからなにまでを語る事はなかった。それは結婚前と変わらない。そして隼人にしても、妻の過去はあってもそれらは必要な時に顔を出せば良いだけで、全てを語ってもらい理解したいとは今も思っていなかった。
 だが、噂で。そしてデイブや先輩パイロット達の言葉の端々から聞かせてもらった『妻、若き頃のパイロットとしての姿』は知っているつもりだった。

「妻が。周りを顧みず、飛んでいた事は……」

 しかしそれは妻個人のメンタルな部分に触れる事。
 それは日常をただ生きてきた人々には想像する事が出来ない想いを抱えていた妻の、空へと向かっていた『生への抵抗』。
 それをこの長沼と相原は目の前で見たと? それは、初めて聞かされる話で、隼人はつい二人の顔を確かめてしまった。
 そして真顔になってしまった長沼が言った。

「彼女は結果を出す為なら、たぶん、自分が壊れる事はちっとも考えていなかったと思うのですよ」

 次には、口が重そうな相原が。

「……御園准将は、後の事などちっとも考えていなかった。一回、一回、命を守りながら如何に結果を出すか必死である男共とはまったく異なる感覚で……」
「そう。一回、一回、命を捨てにかかっていた。そういう女と、いや、パイロットと組んで飛べと? チームで飛べと? いつだったか、甲板に戻ってきた時にコリンズ大佐が彼女をぶん殴っていたところ見た事があるけれど、俺はあれでスカッとした気持ちになった。あんなのパイロットなんかじゃない。そんな飛び方を好むなら、『もっと他の方法で自分を責めろ』。そう思ったものですよ。空を『なにかの代り』にしてもらっちゃ困るってやつです」

 長沼の、明らかに嫌悪感を抱いている顔。
 しかし。隼人は目を逸らさずに、自分が知らない妻の時代を見てきた男達の顔を見届ける。だが、次第に長沼の顔がほぐれてきた。

「と思っていたのも。彼女がこの横須賀で元傭兵の男に狙われて刺されるまで。でしたね……」

 その言葉を聞けば、彼も妻の生き様を理解してくれた男なのだと、隼人は言葉を交わさずとも知る事が出来た。
 そして相原も俯き加減に呟く。

「彼女がなにで苦しんできたか。だから、あの飛び方。納得でした。でも」

 何事も長沼の後ろに一歩さがっているかのような相原が顔をあげ、『でも』と躊躇っている次を毅然と言い放った。

「でも。今でも、空を飛んできた一人のパイロットとして、私はあの時の彼女の飛び方は許せません」
「俺もですよ」

 二人の男の顔が、何かを守る顔になる。
 それこそ。先に生きてきたパイロットが、コックピットを降りて何が一番であるか知っている顔。そしてその顔は、今の妻と同じ顔だった。

「それならば。あの鈴木という青年の飛び方も、本当は許していないのですね」

 妻と同じ匂いのするパイロット。
 その青年を見て、妻が心を揺らし、そして夫である隼人をもここまで引っ張ってきた。
 そして彼を手元に置いている横須賀の指揮官である二人も、この青年の存在に妻を映している──。

 そこでやっと相原が、インカムのマイクを口元に寄せた。

「同じ演習をもう一度。位置に着け」

 再度の指示に、先ほどと同じような配置で各機が移動するのを隼人もレーダーで確かめる。

「まあ、見ていてください。この研修を始めてほどほどで鈴木は准将の目に止まって研修を途中で抜ける事に。今は部署もなく『宙ぶらりん』で、とりあえず長沼の手元で保管しておりますが、同様に『強化研修』として訓練をしてきたパイロット達は鈴木がコックピットにいない間もかなりレベルを上げているんですよ。それ、鈴木は瞬時に気が付いたと思いますよ」
「確か、うちのミセスと面談してから二週間ほど、本部の事務をして待機していると聞いておりましたが」
「他のパイロットには『命令を聞かなかった為の、謹慎、罰として本部で雑用』という事になっています。今日、戻ってきた鈴木は先ほどの演習が始まってすぐに、研修パイロット達の統率が取れていた事に気が付いたかと。それで撃ち落とされる覚悟で、先ずは様子見。あれでいて、結構、目が良く機転が利くんですよ彼は。その鈴木が戻ってきて、パイロット達はハラハラしていることでしょう。そのハラハラをどうぞ、今から……」

 相原が不敵な微笑みを見せながら、インカムマイクに『開始!』と叫んだ。

 またレーダーの点が動き始める。
 しかしこの時点で隼人はある一点の動きを見て、驚きの声を上げそうになった。

「これ。彼ですよね!」

 隼人が指さしたレーダーの点を見て、相原がこっくりと笑顔で頷く。
 その一点がぐんぐんと空母に向かっているのだ。しかも途中で一機、二機、その道を邪魔する機体は全てロックオンをして……。命中したりしなかったり。それでも蹴散らして真っ直ぐに、真っ直ぐにバカみたいに真っ直ぐに来る。

 そしてどうしたことか長沼が側にある手すりに掴まった。
 彼が苦笑いをこぼしながら言った。

「こんなの、あいつの『ウォーミングアップ』。あいつにすれば、撃ち落とされたって撃ち落とされなくたって同じ。ただ真っ直ぐに早くスピードに乗ってかっとばしたいだけの……」

 隼人に胸騒ぎが……。
 この胸騒ぎ、確かに、近頃感じた物ではない。
 でも。そう、懐かしい胸騒ぎ。

 それでも、海はただいつものように白波を立てているだけで、空を見上げても潮騒と風の音、そして空母のエンジン音。
 だが徐々に近づいてくる。だんだんと強く隼人の耳に入り込んでくる、戦闘機の飛行音。

 気のせいか? メンテナンサーの男達もきょろきょろと辺りを見渡して落ち着きが無さそう。

「御園大佐も、そこに掴まっていた方が良いですよ」

 同じく、相原も指揮台の手すりに掴まり、インカムを装着している紺色のキャップが飛ばないように手で押さえた。
 隼人の胸がドキドキしてきた。二人の中佐は身構えているが、隼人はそれどころではない。空に視線を奪われたまま、空に心を掴まれたまま──。

 空母艦、カタパルトの向こうに、ちかっと光る物が。
 来たか。それと共に戦闘機の飛行音が轟音になってこの空母艦の風を巻き込んで取り巻き始めた気がした。

「来るぞ──!」

 長沼がそう言った途端だった。
 小さくチカッと光っただけの灰色の点が、『ドオン!!!』と轟く轟音をひっさげて隼人がいる指揮台をめがけるように出現した!
 隼人の目の前に、あのホーネットが、スズメバチが……本当に攻撃してくる蜂のような顔で迫ってきたのだ。それはあっと言う間に現れた怪物のよう!

 海の波が大きく唸り、そしてカタパルトの軌道を逆流する爆風が、隼人がいる指揮台まで駆け上がってくる。
 その気流の軌道にいたメンテナンサー達は次々となぎ倒されるように、誰もが甲板に跪いて身をかがめた。
 そしてついに! 隼人の目の前に、その人喰い風のような気流が襲いかかってきた。

「っくぅ……!」

 バタバタとはためく胸元のネクタイ。彼がつれてきた風に巻き込まれて、そのまま空へと引きちぎられるかと思うような勢い。
 相原に言われた通りに手すりに掴まったが遅かった。隼人の頭上を、ものすごい低空飛行で『怪物スズメバチ』が通り過ぎていく。
 ついに隼人は、指揮台後方の手すりへと吹っ飛ばされてしまい、そこで腰を打ち付けてしまった。

 これか? これが『腰を抜かす』ってやつ!?

 隼人の心も、空へと巻き込まれていった?
 それほどに心の中をからっぽにされてしまったようで、隼人はぼう然としてしまった。

 だが、隼人は見た。
 空を、隼人の頭上を悠々と飛び去っていこうとする怪物を!
 怪物はまるで下界にいる小さな隼人達を嘲笑うかのようにして、危ない距離感で空母艦のアンテナを掠め飛び去っていった。

「あ、あれが──『鈴木英太』!?」

 なんという無茶な飛行! 相原の訓練の意図などお構いなし、周りとのバランスもお構いなし。
 俺は慣らしにとりあえず真っ直ぐ早く飛びたいから、そこどけ! と、真っ直ぐにやってきた大馬鹿野郎を見た気がした。

 まるでスピード狂! お前はフォーミュラワン(F1)のレーシングマシーンを操縦しているのかと言いたくなるかのような『大空バカ』。
 隼人の頭に真っ先に浮かんだのがそれだった。

 この時、隼人の脳裏に遠い昔見たはずの光景が色鮮やかに噴出した。

 マルセイユの、妻と旧友藤波のバカみたいな無茶訓練。
 そして小笠原の、空を縦横無尽に飛び交っていた妻と暴れん坊の蜂達。
 それらが、鮮やかに蘇る。

 隼人も思った。

 ──この男、小笠原が似合っているはずだ!

 確かに。驚愕の一瞬。
 隼人は海原の向こうにいる妻に叫びたい気持ちだった。

 お前が感じたのが何か、分かった!
 この男、連れて帰るから待っていろ!

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「彼、鈴木英太隊員を頂きたく、正式に小笠原へと転属させてくださるよう、お願い申し上げます」

 衝撃の甲板見学を済ませた隼人は、ある会議室で長沼と相原と向かい合っていた。
 そこで正式に、鈴木英太という青年を小笠原に引き渡してくれるよう長沼に申し入れる。
 やはり。そこで長沼が『勝利』を掴んだような笑みを見せた。

 もし。あの鈴木英太という青年の『大馬鹿野郎な飛行』を見ていなかったら……。隼人は渋々と言ったふうにして、長沼のその笑顔に屈辱感を感じながら『手土産』を差し出していたと思う。
 しかし今は──。あれはそうはいないパイロット。しかも葉月が見初めたという先に起きた出来事云々抜きにして、隼人が欲していたタイプのパイロットだ。
 あの男に、馬鹿に引っかき回して欲しいという願望が生まれた。その衝動は抑えられない。
 隼人をここまでさせたのだから、好条件でまとめてきたちょっと勿体ないとさえ躊躇っていた切り札の『手土産』。こちらからほいと差し出してやるってもんだった。そこまでの気持ちにさせられてしまったのだ。

 だから隼人は、長沼にまとめてきた書類をさっと差し出した。
 長沼の期待の顔。もし条件が低かったら釣り上げてやると思っている事だろう。彼は既に、隼人が鈴木パイロットに心惹かれてしまったことを見抜いているはずだ。それだけ隼人も、表面に出るほどに興奮し、妻同様に、あの青年に空へと心を持って行かれたのだから。
 しかし、隼人としてもミラーとデイブと葉月の合意を取り付けての『これ以上出しようもない条件』を譲れる分だけ譲ってまとめてきたのだ。

 いわゆる『目録』。そう言っても良い書類を長沼が開く。
 彼が、最初の一項目を目にしただけで息を止めた顔。

「これを、本当にこちら横須賀に譲ってくれるのですか!」
「ええ。ホワイトをこれから導入するには丁度良いと思いますが如何ですか?」
「そ、それは、も、勿論──! でもこれは、そちらの工学科が彗星システムズとご実家の澤村精機と開発したばかりで、数台しかないはずの……」
「空を飛べるホワイト本機ではありませんが、それ同様のシステムを搭載しています。五台あるうちの二台、准将からも許可を得ています」
「は、葉月さんも了解したと?」

 それほどに、うちの奥さんも『鈴木が欲しい』と言っているんだ。
 そんな隼人の心の呟き。そんなことは言わなくても分かっているだろう長沼は、鈴木を引き渡せば、『それ』が横須賀に二台もやってくるとあって嬉しいのか驚きなのか彼らしからぬ冷静さを失った様子で震えていた。

 それを見て今度は隼人が勝ち誇った顔になりたいぐらい。
 どうだ。雷神のパイロットもホワイトの整備士が欲しいと言った事も忘れるほどのはず。それだけの『物』をひっさげてきたんだ。値の上げようもなかろう、さっさと鈴木を引き渡せと、隼人は心の中でほくそ笑んでいた。

 それは隼人の同窓生である、彗星システムズの女性開発者『青柳佳奈』が率先して開発し、弟の和人が初めてリーダーとして実家会社を率いて仕上げた機材。
 室内でバーチャル的に訓練をする新型シミュレーション機『チェンジ』だった。

 長沼と相原はそれがやってくることに喜びが隠せない様子。
 そんな彼等に隼人はひとつのお願いをしてみた。

「鈴木英太隊員、彼自身を見てみたいのですが──」

 彼が飛ばしている機体は見た。飛行も見た。だが、その姿はまだ見ていない。
 妻はどのような青年と向き合って惚れ込んできたのか。まだ全てを隼人は見ていない。

 

 

 

Update/2008.6.3
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