石鹸の香りが染みついた身体に、葉月はいつものスリップドレスを纏い、その上から薄いシルクのガウンを羽織った。
寝室に戻ると、既にバスローブを着込んでいる隼人が缶ビール片手にベッドの縁に座っていた。
「留守の間、なにもなかったかしら」
愛し合って確かめ合って、二人で悦びあい快感を味わい分け合う。その直ぐ後に、二人のプライベートルームだと言うのに直ぐに仕事の話。だが、夫の隼人はそこでにんまりと笑う。
「特になにもなかった。でも、訓練の結果、直ぐに見たいだろう。持ってきた」
自分が開発している機体を操縦させている『フライト雷神』。彼も毎日、その訓練の結果を楽しみにして、チェックしている。そして妻も同じく……。今、二人が一緒に見守っているもの、そして進ませているものだった。
既に、待ち構えるように準備していた書類を、隼人は手元から葉月へと差し出してくれた。
葉月もそれを笑顔で受け取る。
そして、それを片手に葉月はベッドへと潜り込んだ。
ベッドヘッドにふっくらとした大きな枕をクッション代わりに、葉月はそこに背をもたれて夫が持ってきてくれたここ十日の訓練結果を眺める。
「特に大きな変化はなしね……」
「怖々と乗っているよ。ベースはホーネットとそれほど変わらないけれど、ごちゃごちゃと付加されたシステムに通信機器に戸惑っているんだろう。使いこなしていないね」
そう。と、葉月は溜息をついた。
「雷神に選ばれたはいいけれど、ホワイトのことは、だからこれを作ってなんなのだという雰囲気だよ」
夫の少し、残念そうな顔。
まだパイロットにも認められていないようで、やっと機体として空を飛び始めたのに、なかなか思うとおりにいっていないようだった。
「機体をぶっ壊すぐらいに乗りこなす、もっと情熱的なパイロットが欲しいなあ。どうも最近のパイロットは自分可愛さで、慎重に行動して、思い切りがないと言うか……」
缶ビール片手に、隼人が溜息をついた。
「そうね。シアトル湾岸部隊の『トーマス准将』も、横須賀の長沼さんも同じこと言うわね。クールな奴が増えすぎたと」
さらに隼人は溜息。そして彼も、妻の隣に同じように枕をクッションにしてベッドに入ってきた。
肩が触れ合うように寄り添う。その時、葉月は訓練の書類をベッドサイドのミニチェストに置き、今度は自分が用意していたものをそっと隼人に差し出した。
「でも、これを見て」
「どれ」
葉月は嬉々として『横須賀での出来事』であった『経歴書』を隼人に手渡した。
肩を寄り添わせている夫が、眼鏡をかけて経歴書をひと眺め。
「鈴木、英太……か。二十五歳。若いな。でもこれから脂が乗る年齢だな」
彼の経歴を追う夫の眼。葉月は固唾を呑んで見守る。
やがて、彼の目つきも少し変わってきた。
「なんだ、こいつの入隊試験の成績」
「面白いでしょう。理数系はずば抜けているのに、国語と社会はまったく駄目なの。でも英語はばっちりなのよ。可笑しいでしょ」
「理数系の、ずば抜けているなんてもんじゃないぞ。数学と科学なんかほぼ満点じゃないか。英語もだ。受験者数内、どれもベスト3内だ」
「まあ、パイロットには向いていたのかもしれないわね」
「いえている。それで? こいつの飛行はどうだったんだ」
葉月はそこで微笑んだ。
「ついに見つけたってかんじよ。とんでもない暴れ者だったわ。ビーストームを彷彿とさせる……」
「まじかよ。やっぱり横須賀にいたか。それだけの人材、中核基地じゃないといないと思っていたけれど……。引き抜きは面倒だな」
「そこなのよ。既に長沼さんが手をつけていたわ」
「うわ。最悪の状況だな。今、横須賀でも小笠原の雷神に追いつけと、ダミー研修で虎視眈々と次なる『日本の雷神をつくろう』としている最中なんだろう?」
「そこで見つけちゃったのよ。長沼さんは『パイロットによっては引き抜いてもOK』と言ってくれたんだけれど、どうも、『この子』のことは手放したくないみたいで……」
隼人がムムと唸った。
「でも、条件は出たのよ」
葉月はそっと力無く笑う。
「でも流石、長沼さん。ただの条件ではなくて……」
「どんな条件?」
隼人は眼鏡の横顔で、鈴木英太の経歴書を食い入るように眺めている。……どうやら、夫も、御園工学大佐も気に入ってくれたようで葉月は微笑んだ。
そして最後のページに来て、隼人の表情が固まった。
「なんだって? ホワイトの整備士をよこせ?」
そこには葉月が自分の手で書き添えた『鈴木英太を引き渡す交換条件』が記されていたのだ。そこを見て、流石の隼人も表情を固めてしまった。さらに条件はそれだけじゃない。
「雷神のパイロットもよこせ!? さらには工学科の……」
流石の隼人も絶句していた。
「……無理よね。情報を流すようなものだわ」
「当然だ。きっとそこの足元を見ての条件なんだろう。つまり、このパイロットにそれだけの素質を見出しているってことか」
「そうなの。でも……いろいろと問題のある子みたいでね。長沼さんも、相原さんも、橘さんも、手に余っているみたい。扱えない可能性があるから、条件が整えば、手放しても良いって魂胆みたい」
「やっぱり食えないな長沼さん。そうきたか。では彼は未知数すぎてこちら小笠原が損する可能性もあるが、得する可能性もある。でも横須賀としては損失は絶対に嫌だから、得する事だけ手渡して欲しいってことか」
深い溜息を漏らす夫。でも……隼人は何度もその青年の経歴を眺めている。
やがて、彼がふと妻に囁いた。
「それで。お前はどうしたいんだ」
そう問われ……。葉月は意を決して夫に答える。
「欲しいわ。彼に『私』を感じたの」
と言って。夫がどう思うか……そこは帰る前から案じていた。案の定、夫が眼鏡を取り払って、葉月をじいっと見つめている。なにかを探り出すような、眼差しに葉月も緊張したが。本心だから夫には、特にここではこの場所では嘘をつきたくない。
「わかった」
そう言って、隼人が経歴書を閉じ、葉月に返してきた。
やはり諦めた方が良いのか。惜しい。やっと葉月の心を揺り動かすパイロットに出会えたと思ったのに。まあ、彼にも深い事情がありそうだし、横須賀もうんとは言ってくれないかもしれない。
でも、葉月の目にはあの甲板に突っ込んでくる熱い飛行が焼き付いていた。あの時、飛んでいるのは自分ではないのに、葉月の心も瞬時に燃えあがりそのまま空へと連れ去られていた。久々の高ぶり。あの想いを……。
「わかった。この条件に見合う隊員を見繕うから、任せろ」
え?
葉月は急にそんなことを言いだした夫に驚いて、隼人を唖然と見ていた。
「どうした。欲しいのだろう? 俺も興味ある。かなり不利な交換条件だが、やってみよう。お前は、その彼を引き抜く事に専念しろ。送り出す隊員のことは……『俺達』に任せてくれ……」
それは数名。小笠原から……悪く言えば切り捨て追い出す事を意味する。
「いや。そろそろ横須賀とも情報を共有しなくてはいけない時期に来ているとは思っていたんだ。横須賀の工学科員の力も借りているのに、本機の管理は小笠原だけ。そりゃ、長沼さんも面白く思っていないだろう。今回の研修見学にOKを出してくれたのも、そんな希望をミセス准将に打診する為のチャンスを見いだせるかもしれないという見通しもあったのだろう」
すべては、長沼の計算され尽くされた駆け引き。
それに葉月は既に巻き込まれていたと言う事らしい。そして長沼は、上手く舵をとってそれなりの希望を満たそうとしている。鈴木英太を手放してまで……ホワイトの情報が欲しいと言ったところのようだった。
「送り出す奴には横須賀でお前がホワイトをひっぱっていくんだと言って、なるべく高ポジションに置いてもらえるように長沼さんと交渉して後腐れなく送り出すようにするから。ミラー大佐とコリンズ大佐と話し合うから任せろ」
ちょっとした汚れ役だった。
今度は葉月が溜息をつく。
「いつも貴方に……」
「俺は、影の側近だぞ。空部隊の発展に為なら俺はなんでもやる。その覚悟でお前から離れたんだからな」
わかっていると、葉月は頷いた。
葉月はベッドを降り、隼人から返ってきた経歴書を書類ケースに大事にしまった。
「では、明日。テッドに伝えて、この青年の調査を始めてもらうわ。貴方が気に入ったら、テッドも動くと言っていたから」
「そうしてくれ」
話はまとまった。
これで仕事の話はお終い。そう思って葉月はガウンを脱いでスリップ一枚になり再びベッドの中へ。今度はちゃんと寝る準備だったのだが。
ベッドに入った途端に、隼人が葉月に意味深な笑みを見せ、言った。
「まだ一枚、脱いでいない」
「え?」
「それも、脱いでくれないか」
でも、さっき……シャワールームで。──と言おうとしたのに、脱げと言ったはずの隼人の方から葉月に飛びついてきて、押し倒された。
「あ、貴方……」
「さっきのは挨拶な」
あんなに激しかったのに、挨拶??
葉月はシャワールームでの睦み合いを思い返し、それが夫にとってはその程度しか消化されていないのかと呆気にとられた。
だが彼の手は、またたくまにスリップドレスの裾をたくし上げ……。あっというまに乳房を目の前にされ、その胸先に吸い付かれていた。
また『あ』とこぼれてしまう吐息混じりの声。葉月は直ぐ側にある枕カバーの角を握りしめ、唇を噛みしめた。
「まだ、お前を満足させていないから……」
満足したわよ。と心の中でそう言っているのに、葉月はそのまま夫の熱愛を受け入れていた。いや、拒めなかったのだ。あまりにも、やっぱり、気持ちが良くて、とろけてしまう寸前まで瞬間に持って行かれていた。
先ほど願ったとおりに、潮騒がするこの寝室でゆったりじっくりと愛される。拒めるわけがない。
スリップドレスを脱がされて、葉月は再び全裸になる。結婚してから、葉月はスリップドレスの下にショーツを身につける事をやめてしまった。だから本当に寝る時はこれ一枚。いつしか夫は、どんな時も触れられる寝姿にとても満足した様子を見せるようになった。だから直ぐに裸にされる。いつだって……一枚なくなれば、この人だけの妻。そういうサイン。結婚後に出来たサイン。そして夫も、羽織っていたバスローブが徐々にはだけて乱れて、彼の肌も露わになる。
彼の際限ない愛撫の嵐に、葉月はあられもなく喘ぐ……。
だけれど問題はそこからだった。
乳房の胸先をやんわりじわりと噛みながら、隼人は近頃変な事を聞いてくる。
「……義兄さんに会いに行った?」
「い、いかない……」
「どうして?」
葉月は口をつぐむ、でも……隼人にくすぐり出されるのだ。
胸先の快感、そして恍惚と溺れたい欲望を、ショーツのない丸出しの茂みの奥からあぶり出すかのように……。答えないと、彼はどうしようもない攻め手で葉月を煽ってくる。
「どうして会いに行かなかった? 義兄さんとも十日振りだろう?」
「すぐに、貴方に、横須賀の……よこすか、の……」
望み通りに隼人の質問に答えているのに、そんな時だけ本当に意地悪に葉月の意識が遠退くような愛撫をしてくれる。
「そんなに俺に直ぐに報告したかったんだ」
「……したかったわ。だから……」
「どんな面接だった? なあ、じっくり教えてくれよ」
いや。なんでこんなに愛し合っている時に?
最近、葉月はそう思う。でも夫は、葉月を胸の下に従え官能を与えながら、先ほどまで二人でそうしていたように仕事の話をさせようとする。
「長沼さんは、どう言っていた? 相原さんは……」
葉月は全てに首を振った。
もうそれしか反応する事が出来なかったから。
そしてわかっていた。妻を愛しながら、そうして妻の中にいる男達を追い出しているのだって。
そして葉月も。夫のじっくりとした愛撫と、意地悪な睦言で、いつの間にか全てを忘れ去る。
それを信じてくれているわよね??
いつもそう思うのに、夫は相変わらず意地悪。
わかっているくせに。そうして妻を、こっそりと独占しようとしているのだ。
「葉月……」
彼に言われる前に、葉月から言う。
「もっと愛して、貴方」
・・・◇・◇・◇・・・
この週末、英太は外泊許可を取り、基地の寄宿舎から横須賀市内にある実家に帰る。
「ただいま」
学生の頃の住まいは、本当にこじんまりとした安アパートだったが、叔母は現在、それなりの賃貸マンションに住めるようになっていた。
三十代を機に、それまでの下積みが認められてある程度の仕事を任されるようになったのだ。いわゆる『キャリアウーマン』。どうも性に合っていたようだった。
英太はそのマンションに戻って、玄関の鍵を開けた。
『おかえりー』
玄関廊下向こうの影にあるキッチンから、そんな間延びした声が聞こえてきた。
その声を聞いて、英太はちょっと溜息をついて革靴を脱いだ。
「春はどうしたんだよ」
「でかけたよ」
キッチンにいたのは、この叔母と英太の住まいに居候している幼馴染み『華子』だった。
彼女は清楚なエプロンをして、コンロの前でお玉と小皿片手に何かの味見をしてる最中だった。
「でかけたって……。俺が基地から帰ってくる事、お前、ちゃんと伝えてくれたんだろう?」
『今週は一泊帰省する』とこの自宅に連絡した時、電話口に出たのはこの華子だった。彼女も『久し振りだね』と喜んでくれ、叔母の春美もきっと喜ぶ、伝えておく。きっとご馳走だ。待っていると言ってくれたのだが……。
そこで華子がすこし不機嫌な顔つきになり、コンロの火を止める。持っているお玉に小皿もダイニングのテーブルに置いてエプロンで軽く手を拭った。
そうしていると本当に貞淑な若奥様に見える程に、彼女のルックスは抜群なのだが、中身は。
「なによ。英太もいい大人なんだから、ママ代わりの春ちゃんがいないからって、そんな子供みたいな顔で帰ってこないでよ」
華子のムッとした顔。
きっと自分だけで出迎えたとしても、『華子、ただいま』と笑顔で帰ってきて欲しかったのだろう。そんな彼女が待ち構えて、そうして可愛く料理を作って待っていたのに、帰るなりに華子の存在も皆無のようながっかりした顔を見せてしまったから拗ねていると、英太もハッとした。
「別に、そうじゃなくて。だって、春美、あんな身体で何処に行ったんだよ? もう夕飯の時間じゃないか」
すると、いつも強気の華子が、ちょと泣きそうな顔で俯いたので英太はドッキリとさせられた。
彼女が泣くのが英太は一番弱く、困る事なのだ。どうして良いか解らなくなるし、自分も同じように哀しくなってしまうのだ。それだけ互いに支え合っていた『幼馴染み』だから……。
「あのさ……。やっぱり春ちゃんの様子、変なんだよね」
「──変? そ、それは……『癌』という告知のせいで……」
「病気の事はさ、落ち込むと私達を心配させるからって明るくしているみたいだけれど。どうもここ二週間変なんだよね。病気の事での不安も多少はあると思うよ。ほら、ここ数年、主任としても結構頑張っていたし、そのポジションを追われるとか……」
それも華子と二人、起こり得る事として予想していた。
だがそんなこと、若い二人が騒ぐよりも、人生経験もあって思慮深い叔母の方がよく解っていると思っていた。
『いいのよ。なんとでもなるわよ。ポジションにしがみついていても、命をなくして、貴方達と別れる時が来る方が嫌。仕事は……なんとでもなるわ。そうよ。今までだって、ゼロからのスタートでここまで来たんだもの。あの時のことを思えば……』
誰よりも苦労してきただろうに、春美はその苦労を苦労とは思わなかったとでも言いたそうな前向きな姿勢で、発病後も英太と華子にいつもの微笑みをみせてくれていた。
でも、どんなにやり直せるといっても、若い頃からこつこつとやってきてやっと手に入れたポジション。それでやっと安アパート暮らしからこのマンションに。英太も華子も微々たるものだが、毎月生活費として叔母に幾分か手渡し、三人の生活はここ数年安定していた。
だが、大黒柱の叔母春美が倒れると言う事は……。
「だから、春にも俺からしっかり言っておく。俺の軍人としての給与も高給ではないけれど、なんとかやっていけると思うんだ」
「私も。私、OLやめるから」
英太は『はあ?』と、華子を呆れた顔で見た。
「お前、何を考えているんだよ。春を心配させるんじゃねーよ」
だが、華子はいつもどおりに堂々としていて、彼女の風貌にはぴったりに見える清楚なエプロンを静かに取り払った。
そのエプロンの下は、よくあるオフィス事務員の制服。白いブラウスにピンク色のベストとお揃いのタイトスカート。彼女の今の仕事着だった。だが茶色の染めた長い髪、そして整った愛らしい顔。今風のぷっくりとした小さな唇。そんな彼女を見たら、どれだけの男が欲情する事か。彼女は常にそんなフェロモンを放っている女だった。それも彼女は意識していない。彼女はただそうして自然に彼女らしくしているだけで、男を誘うムードを発しているのだ。
だが生まれ持った美貌。その扱いが難しい。このフェロモンを持つ者として彼女はこの性質と上手く付き合う術を身につけなくてはならなかった。
「やっぱさあ。私には無理なんだよね。こう、きっちりとしているオフィスっていうのかなあ」
「なんだ。またセクハラか?」
「まだ男の方が幾分か上手く撃退できるよ」
彼女は十代の頃から、このフェロモン的なものを放っていた為、男を引き寄せてはトラブルを起こしていた。華子が望まなくても、向こうからやってくる。
だから、彼女を助けてきた英太としては『喧嘩が絶えなかった』と言う訳なのだ。
だが、今回は男ではないなら……。そう考えて、英太は溜息をつく。
「女のイジメか」
「当たり。なんかさ。女のイジメにも色々あってね。今までの中で一番、嫌。厄介とか酷いとかそんなんじゃなくて。とにかく、そのジメジメして陰鬱なのが嫌。今までの中で一番、嫌」
女に爪弾きにされる。これも華子にとっては今に始まった事ではなかった。
彼女は人を惹きつける容姿を持っている分、欲情する男は引き寄せてしまうし、さらには女には妬まれの繰り返しだった。
だから今更、オフィスで苛められても『ああ、またか』と言う程度だったようだ。だがそんな女性の妬みを一身に受けて生きてきたからこそ『イジメの質』というのも彼女は良く知っている。今回は、辛いと言うよりその質に嫌気が差したようだった。
「今回は、相手をするのも嫌なの。反応したくないのは私の方。もう拒絶反応が出ちゃって、イジメられているというより、その拒絶反応の方のストレスが大きい」
それってどんなイジメだよ。と英太は問うたのだが、華子が黙ってしまう。
「そんなに陰湿なのか?」
「うーん。イジメってさあ。少なくともいじめる方といじめられる方で接点が必ずあるじゃん。……今回はないって言うのかなあ……」
益々わからなくなったが、よく見るとブラウスの袖をまくっている彼女の腕に鳥肌が立っていたので、英太はそれほどなのかと逆に聞くのを止めてしまう。
きっと華子も口で表現できない何かがあったのだろう??
「まださあ、真っ正面からぶつかってくるならこっちもやってやるって思うけれど。かえって、体裁を第一とする小綺麗なオフィスの方が表側では綺麗な顔していて、裏で酷いんだ。哀しい事に、みーんな普通の人なんだよ。それが余計に嫌なんだよ」
英太も思い描く。普通の?女性達が、接点を得ずにどのようなことで、華子をへこませようと知恵を絞っているのか? ──残念、思いつかなかった。でも、確かに陰湿そうだなあと思った。
「なんかさあ。表には決して出ないようにする、その『周到さ』がたまんないのよね。そこに頭が使えるなら、欲しい男を勝ち取る度胸、欲しい仕事を勝ち取る大胆さ、そこで使えって感じ。みんな大人しいからあっちから来るのをひらすら待っているからさ。得られないものを得ようとしている者を恨んじゃうのね。こっちは結構な損害を被っているんだけれど、それがエスカレートして仕事に対することで爪弾きにされると、私じゃなくて会社の損害じゃん。そういうの嫌だから。だから辞める」
なるほどなーと、英太は溜息をついた。
どうやら『今回も男絡み』のようだった。華子にはよくある事。彼女が側にいるだけで男は彼女に惹かれてしまう。華子にその気がなくても。また華子の色香に参ってしまった男を好きな女か恋人か……そんな女性に疎まれたようだったが、今回の相手はどうも華子でも撃退に至らぬほど、とにかく相手にしたくないようだった。
「仕事での伝達ミスを起こすようにしかけられたりするとね。もうそういうの修復と言うより、末期状態なんだよ。仕事の中でやられることが一番ね。でも、きっと……。私がやめたら、今度はあの子かもってくらい、あの会社の事務では同じこと繰り返すよ」
「そんなところ辞めろ! 管理不行き届きだ!」
と、妹的な幼馴染みの苦労を思って英太は叫んでみたのだが。『まあ、俺の部隊も似たようなところ、俺も似たような立場だったなあ』と口をつぐんでしまった。でも英太の場合、救いはあった。あの橘が苦渋の決断の末、それでも英太には次なる道をいけるよう、ちゃんと枝をつけてくれていたこと……。
「夜の世界に戻るよ。春ちゃんにもきちんと話す。春ちゃんならオフィス事情もよく解っているし。一度は昼のお勤めちゃんとやったから、話せばわかってくれるよ。なによりも稼ぎが違う」
「確かにな。春に昼の仕事をしろと説教させる前のお前の稼ぎ、すごかったもんな」
これからは、大黒柱だった春美を休養させて、俺達二人で『この家庭を守っていくんだ』。二人はそう誓い合う。
華子は高校を卒業して直ぐに夜の世界に踏み入った。彼女自身が望んだ事だった。
彼女は判っているのだ。『きっとこれが私の性分にあっている。私なら戦える場所』だと──。だが春美は心配し、認めていない節があった。一度で良いから昼間の勤めをしてみなさいと言われて、華子はその言う事を聞いて昼の勤めを一年半ほどしていた。だが、やはり彼女は悟ったようだ。
「夜の世界も、女の間は凄まじいけれど、まだ戦いようがあるもん」
「お前の性に合っているならなあ……。でも、男には……」
『気をつけろよ』。そう言おうとして英太は口をつぐんだ。
この幼馴染みは言わなくても解っているかと思ったのだ。こうした降りかかったトラブルを対処するのは既に英太より百戦錬磨だった。
「わかっているって。自分の事を安く売ったりしないよ。英太だってそこは信じてくれているんでしょ」
「勿論だ。お前はそんな女じゃない」
きっぱりと言い放つと、いつも戦う顔をしている彼女がこの時ばかりはほっとした可愛い笑顔を見せてくれる。
それがもう……なんとも言えないほど、英太も可愛らしく思えて仕方がないのだ。
「英太、おかえりっ。やっぱり英太が一番!」
甘い花の匂いを漂わせている華子が英太に抱きついてくる。それ以上に、直ぐさま唇も塞がれた。
「ばっか、やめろよ」
それでも『こっち』でも百戦錬磨?的になってきた幼馴染みに、上手くねじ伏せられ……。
「華……」
最後には英太も、花の香りがする幼馴染みに負けてしまう。
彼女のか細い、でも女としての極上な柔らかさを持つ彼女の身体を抱きしめて。そして彼女の口づけに応える。
二人には挨拶のようなもの。
十七の頃、お互いにどうというわけでもなく自然と身体を結び合ってからは、熱い焦がれる愛ではなくても、二人は心を温め合うように肌も温め合ってきた。
「もう、英太って正直」
大胆な華子に恥じらいはない。
彼女の手が、英太の股へと伸びた。ライトグレーの制服スラックス。彼女が言うとおりに、英太は既に男として欲していた。
「うーん、でも今は駄目だな」
華子にそこを弄ばれながら、英太はぐっと我慢をして彼女を抱きしめた。
猫のようにじゃれて嬉しそうに頬をすりよせてくる華子。彼女はそれだけで満たされたのか、悪戯をする手をのけて、ひたすら英太に抱きついてくる。
「明日ね、明日。ちょっと素敵なホテルみつけたんだ。明日、昼間は二人でどっか行こう」
「そうだな」
今度は英太から華子の鼻先に口づける。
華子もとても嬉しそうだった。
……恋人だなんて思った事はない。
焦がれるような愛を感じた事もない。
ただ二人で温め合って生きてきた。お互いの事を一番に心配して生きてきた。
既に家族。華子も同じ気持ち。でも二人が帰る場所はいつでもお互いが帰ってくるこの春美の家。そこでお互いを確認して安心し、そしてその存在に暖かみを感じる。
それだけあれば、結婚できる。
英太はそう思っている。でも、華子はそう思っていない。
だから結婚はしない。
でも……英太もわかっていた。
華子に焦がれた想いを抱いた事がない。
もし、自分にそんな恋が訪れなかったら……。きっと今後の生涯はやはり華子が一番の女性として生きていくのだろう。
そして英太はこの時いつも思う。
そう言えば俺、恋ってした事あるのかな。
そんな時、英太は胸の中で嬉しそうに甘えている華子の匂いを吸い込んで、ふと思い出した事が……。
あの人の匂いは、華子とは違った。
花のように甘い華子とは違う……もっと清々しい緑のようにクールで、でも芳醇な匂い。
そして透き通る茶色の冷たい瞳。
何故か英太は、ミセス准将のことを頭に掠めていた。
・・・◇・◇・◇・・・
妻から、『良いパイロットを見つけた』と聞かされてから数日が経っていた。
今日は日曜日だが、午後から隼人は工学科科長室に出向いていた。
午前中は家族と一緒に海岸線にあるカフェで、遅いモーニング。
時たまやることで、海人はこれをとても楽しみにしている。
休日ではあるが、出勤をする事は毎度の事。でも空いている時間をそうして家族と過ごす。
むしろ准将である妻の方が、休日はしっかり家にいる。だから今は息子と母親がじっくりと向き合っている時間。
「と言っても。洗濯物の干し方が変だと、海人に叱られているんだろうな……」
一人きりの科長室でノートパソコンに向かっていた隼人はふとそう思った。
さて、仕事に没頭せねばならないと隼人は一人きりの科長室でノートパソコンに向かう。
日が傾き始めた窓辺に、横須賀からの輸送機が横切っていく。
そんな時、もう誰も来ないはずの工学科科長室のドアをノックする音。
隼人はハッとして、『どうぞ』と声をかけた。
「やはりいましたね。お疲れさまです」
そこに現れたのは、妻の側近である『テッド=ラングラー中佐』だった。
「なんだ。テッドも出ていたのか」
「ええ。明日の準備など……」
「吉田は。自宅なのか」
「はい。もうじき帰ると連絡をしてみたら、休日の昼下がり、のんびり眠っていたみたいですね」
まだ結婚に至らぬ二人ではあるが、数年前から同居していた。この科長室では神経を張りつめてバリバリと活躍している小夜が、自宅では昔を思い出させる暢気な女の子のようにすごしているようで、隼人はちょっとほっとする。そしてテッドもそんな彼女と暮らしている事が楽しそうな笑顔を見せてくれる。
彼は今『鬼中佐』と呼ばれている。妻と同じ性質と言おうか。彼も淡々と冷たい横顔を保つ事が出来る男。妻と仕事をするには合っていたというわけだった。
だが、今目の前にいるテッドは、その昔から隼人も良く知っている青年の笑顔を見せてくれる。
「どうしたんだよ。まあ、そこ座って。カフェオレでいいかな」
「すみません。でも俺、大佐のカフェオレ好きなので頂きます」
変わらずに甘えてくれるところにも、隼人は笑顔をほころばせる。
彼がこうしてわざわざ訪ねてくるのも、……珍しい訳じゃあないが久し振りだった。
テッドがこうして人を避けて会いに来る時には必ず妻の事で何かがある時だった。
だから隼人は、給湯室にあるケルトを火にかけて、早速、テッドに問うてみる。
「今日はなに」
「ええ。横須賀の事で少し……」
隼人にも予感があった。今回、パイロットに関して今まで以上に妻の心が動いている。そんな感触があった。
といっても、隼人にもなにやら、あの青年を一目見て胸騒ぎが起きていた。それがなにかはわからないが、そんな予感があったのだ。
だがそれは当たっていたのか。
「葉月さんから既にお聞きでしょう。横須賀で見つけたという、暴れん坊のパイロット」
「ああ。鈴木という、若い大尉だったな」
テッドがそこで大事そうに抱えていた書類ケースからひとつの書類束をとりだした。
「彼の事、いろいろな方面から調べたんですよ。基地でのあらゆる出来事は、既に長沼中佐や相原中佐、部隊長の橘さんからもいろいろと聞かせてもらったのですけれどね」
「俺も、葉月からだいたい聞いたよ。葉月が『彼の中に私を見た』なんて言うんだよな。……でも、基地での経歴を見て、まあ、俺もその言葉は納得できたよ」
妻のあの言葉。どこか隼人の中でくっきりと焼き付いていた。
近頃は安定した夫妻生活を送っていたが、彼女の言葉がこれほどに気になったのも久し振り。やはり胸騒ぎが……。
「三年前、スクランブルに出た際のニアミス事件ですか? 葉月さんも昔、似たような事件がありましたもんね」
「そう。コリンズ大佐を助ける一身で、命を投げ出して、で、コリンズ大佐に叱られて……なあ」
そのニアミス事件だけでも、『妻と彼は似ている』と隼人も思った。妻もきっと。そしてここにいるテッドも同じように感じたようだった。
「……ですけれどね。『隼人さん』。葉月さんの、こう胸騒ぎのアンテナはすごいなと俺は思ったんですよ」
そこでテッドが隼人に『調査書』を差し出してきた。
彼のどこか神妙な面もちにも隼人も胸騒ぎを覚える。テッドはひらすら『まあ、見てください』とばかりに、隼人に調査書を突き出すばかり。
「プライベートでなにか? 叔母さんが病気になったということは聞かされているけれど……」
「その叔母と共に暮らすような状況になる前が。軍でもそんな幼少の頃まではいちいち調べないでしょう。ですから、俺も今回、とっても驚きましてね……」
そう言われ、隼人の手は、急かされるようにその調査書に。
それをざっとひと眺めして、隼人は息を呑んだ。
「これは……」
隼人の驚いた声に、テッドは俯いた。
「准将の勘は流石ですね。ですが……これを准将に知らせる前に隼人さんにひとまずご報告をと思いまして……」
テッドの機転に、隼人は少し救われた思い。
確かに。そこには妻が、鈴木という青年に無意識に引きつけられてしまうには充分の『過去』があった。
Update/2008.5.4