足下からざあっと身体中に、『興奮』の鳥肌が立ったのが分かった。
──『フライト雷神』。
パイロットなら誰もが憧れる、そして目指したい『エースチーム』。
英太より年長のパイロットなら、たとえそれが幻になってしまったフライトでも憧れていた伝説のチーム。
そして若い英太達には伝説だけじゃなく、復活し現存する『最高峰の憧れのチーム』。
しかも幸いに、二チームあるうちの一チームが真向かいの海の向こうにある『小笠原総合基地』に置かれている。そう、ミセス准将が指揮する『フライト雷神』! だが目の前にあってもなかなかそのチームに所属できないのが現状。本当に一握りの、元パイロットである彼女の眼鏡に適った者だけしか所属できない。
その『フライト雷神』に来いと、言われている!
やはり英太は言葉が出なくなってしまった……。
だが、ミセス准将は目の前で、何かを見透かしたようにニンマリと微笑んでいる。
「どう? パイロットならそそられる話だと思うのよ。貴方にとってもチャンスだと思うけれど……」
茫然としている英太。目の前の、年上の女性をただ見つめているだけの状態に。
やがて彼女の表情も元の冷たい顔に戻ってしまった。
「……と、言いたいところですが。貴方にも事情があるようなので無理にとは言いません。ただ、少しでも良いので考えておいてくださると」
そこで英太はやっと口を開いた。
「本気ですか……」
「冗談で、訓練中の貴方を呼びつけたりしませんよ」
間髪入れず答えてくれた彼女の顔は、より一層凍ったひんやりとした表情。その顔つきは表情はないと思うのに、まるでなにもかもをはねつけるかのような強い意志を秘めている顔に見える。それだけ真剣だという意志がそれだけで伝わってきた。
「チャンスは今回だけです。貴方がやはり軍を出ていくというなら止められませんし、家族は大事ですからね。ですので、残念ですが私も諦めて次の者を探します」
そんな時だけ、どうしてかほんのりと和らいだ顔を見せた。
彼女の、僅かな表情なのに、それが本当にどきりとさせられる……。
「どうして、自分を呼んで下さったのか……。それだけ教えて下さい。俺は見ていただいた通りに『使えない男』ですよ」
これまでこの英太を上手く使ってくれた所属部隊の隊長にだって捨てられたほどの……。だが、そこでミセス准将が、先ほどのなにかを見透かしたような笑みで『くすり』と笑った。
「使えない男? 貴方の隊長が『使えなかった』だけでしょう」
自信たっぷりに言い切ったその女の顔に、英太は息を止めた。
それと同時に、訳の分からない怒りが瞬時に湧き起こった!
「た、隊長は……そんな男では!!」
貴方の隊長はそれだけの器量しかない、実力のないちっぽけな男だったのよ。
そう聞こえた! そこには目の前の将軍まで登りつめた女の、嫌な自信を突きつけられているよう。『使えない兵隊はいない。使い方次第。私ならそれが出来る』とでも言いたそうな、自信たっぷりの顔!
確かに俺は彼に裏切られ、切り捨てられた。『お前は使えない』と、あの嫌味でせこい先輩達が群がるフライトチームから追い出された。
だが、それだけじゃなかった! 彼はこの『使いにくい男を使ってくれた』!!
そこで英太はハッとさせられた。
そして正面のミセス准将を見ると、彼女の顔は元の冷めた平坦な顔に戻っていた。
「気が付きましたか? 使えなくしていたのは貴方自身であり、そして『橘さん』も、貴方を使う自分に限界を感じたのよ。いい。貴方と橘さんの間で『通じ合えなくなった』。それが『使えなくなった原因』だと思いませんか?」
言葉を失った。『通じ合えなくなった』。その言葉に、ここ数ヶ月の英太の行動言動に沢山思い当たる事があった。
なにも言い返せず、英太は表情のない初対面の彼女に一刀両断、納得させられてしまったのだ。
「何があったかは私にも分かりません。ただ……貴方自身、気が付いていない事が沢山あるかもしれませんね」
良く聞かされる説教。目上の年長の人間が上目線で『自分の方が長く生きているから、よく分かる。良く知っている。だからお前の事がよく分かる。それで、お前はなんにも知らない若者だし、なにも気がつけていないんだよ』と。それは至極当たり前の事なのに、偉そうに言う大人達。英太はそれが大嫌いだった。
この女も同じ事を……! 瞬間、いつもの如く怒り狂って、たとえお偉い将軍様でも襟首ひっつかんで吠えたくなった。だが、……今日はそこまでだった。
「でもそれは私が貴方に知らせる事ではないと思います。何を知らせて良いか分かりませんし……。そうですね。軍人を辞めても同じ。自分で沢山、見つけて下さいね」
冷めた顔での進言。
だが、今日の英太はそれをただ聞く事が出来ていた。
そしてミセス准将がいきなり違う話に切り替えてきた。
「貴方。『ダミー研修』をご存じ?」
「ダミー……? いえ……」
「長沼さん、教えて差し上げて」
話が急に長沼に振られた。
「ちょっとちょっと『葉月ちゃん』。勘弁してくれないかな。まだ研修は終わっていないし、約束が違うよ」
あの長沼が、ミセス准将を捕まえて『葉月ちゃん』!?
英太は目を丸くして、二人を交互に見てしまった。
「ですが。彼は『勘違い』を起こしておりますよ。今ここで彼に本当の事を教えておいた方が『引き留める』ことが出来るかと。雷神にこなくても、貴方の手元で『望んだ兵隊』になってくれると思いますが?」
「は〜。貴女は本当に昔から変わりませんね。痛いところ、突いてくれるな〜」
淡々とした例の顔で先輩?に進言する彼女に、本来はかなり上官であるはずの彼女に妙に親しげな様子を見せた長沼。そんな気兼ねが無さそうなやり取りをした後、長沼は腕を組みながらかなり本気でうんうんと唸り始めてしまった。
「分かりました。……まさか、辞める決意だったとは、そこまで読めなかった私の不甲斐なさでしょうね」
「そこまでは言いませんわよ。ですが彼にきちんとここで告げて下さいませ」
今度は長沼が英太を見据えた。
また英太に訳のわからない胸騒ぎが起き……。
「実はね、鈴木。今、相原が指揮を執っている研修は単に『強化研修』と曖昧に銘打っているけれど、そうではないのだよ」
「と、言いますと?」
確かに急に『強化研修があるから行ってこい』と、直属上司の橘に言われて渋々とした気持ちで従った。
参加してみれば、なんとも中途半端な参加者ばかり。中核のベテランパイロットもいれば、英太よりまったく若い新人パイロット。さらには名前も知らない初顔のパイロットもまで。横須賀で名が通っている人もいれば、そうでない者などちぐはぐだった。そして英太は思ったのだ。『やっぱり半端者の集まりなのだ』と。
そして相原は厳しかった。割と高度な演習を突きつけてきて、研修参加のパイロット達は毎日ひいひい言っていた。だからこそ、英太も余計にむしゃくしゃしたのだ。こうして無理難題を押しつけて『辞める』と言わせようとしているのではないかと疑心暗鬼になったり。それは英太だけじゃない。参加していたパイロットの誰もが『どうして俺はこの研修に呼ばれたのだ』と疑念を抱きながら、相原の無理難題を浴びせられ、不安になり、英太のように疑心暗鬼になり……。
そういった『曖昧で不透明な名目の研修』であったのは確かだ。
そして長沼が、ミセス准将にせっつかれて、研修の名目についてついに明るみにしてくれる。
「実は。横須賀でもエースチームを作ってみようという試みで、腕のありそうな、または骨のありそうなパイロットを、各部隊の隊長から選りすぐってもらい、この研修に送り込んでもらったというわけなんだ。詳細を告げるとまたパイロットの間でも、さらに指揮官とパイロットの間でもいざこざや騒ぎが起こるのは目に見えているので、こちら指揮官側としてはね、『ダミー』と称して曖昧な名目を打ち立てて研修を組むんだよ。ただし、研修に取り組んでもらわなくても既に候補にあがっているパイロットもいる。それらはつまり、キャプテンクラスのパイロット。だから、今の研修はその中堅どころと新人クラスのレベルアップを試みている段階なんだ」
英太はハッとさせられる。
「つまり……それは、今回の研修は『強化』というよりは、その『横須賀エースチーム』を作ろうという試みで……?」
『そうだよ』と、長沼がいつもの食えない笑顔を悠然と見せた。
「だから、鈴木は『既に選ばれたパイロット』だということ。そして、橘がお前に期待を込めて送り出してくれたと言う事なんだよ」
それを知り、英太は息が止まるほど驚いた!
「ま、まさか……! でも、隊長は自分には『根性をたたき直してこい』と……。そんな駄目な俺の……」
「……それも。あっただろうね。なにせ『橘部隊』では、お前は既に『使えない』と判断されている。協調性がないとね」
「ですから、俺はもうどこにも……いるところが……」
いや。これで居るところが出来たと判ってしまったではないか! 橘の部隊にいられなくなっても、次なる英太の場所は、この長沼が作ろうとしているチーム。今後はそこにいることが出来るかもしれないと言う可能性が!
橘の部隊では、もう……同僚パイロット達に爪弾きにされていた。とてもじゃないが、もうチームワークは英太が居てはガタ崩れ。居場所はなかった。
だから、橘が苦渋の決断をしたのだと。英太だって本当はそれを判っているつもりだった。でも、どうしても、どうしても悔しくて。信じていたあの男に救ってもらえなかった事が悔しくて……。
でも、違った。
苦渋の決断の中に、彼は英太には『別の道』をちゃんと見出してくれていた。
ダミーだから、追い出す『理由』を告げられなかった。言えば、またきっと先輩達にやっかまれ、そして今度は橘が彼等にやり返されていたかもしれない。
そしてこの時、初めて。英太の頭の中で先ほどの言葉が響いた。
『貴方自身、気が付いていない事が沢山あるかもしれませんね』
『自分で沢山、見つけて下さいね』
目の前にいる無表情な彼女を、英太は見た。
彼女はもう退屈そうな態度ではなく、この時も、ちゃんと英太を見てくれている。表情はないが、眼には表情があるように感じた瞬間。
英太から目を逸らさない彼女を、今度は英太も真っ直ぐに見つめていた。いや、やはりその眼の力に捕まってしまうといった方が良いのか。
だが、彼女はメモ用紙に視線を戻してしまった。
「こちら指揮官側の事情と、さらに私の申し出。解って頂けましたでしょうか」
また淡々とした問いかけ。
だが英太はきちんと答えていた。
「はい」
すると、彼女が顔を伏せたまま、ふと微笑んだ。
何故かは解らない。そしてまたその目が英太の目へと戻っていた。今度は毅然とした、そうミセス准将の顔で。
「あとは貴方が選んでください。軍人を辞めるも良し、横須賀に残るも良し、そして……小笠原へ来るも良し。貴方次第です。お返事、お待ちしておりますね」
そう言うと彼女はペンを置き、メモ用紙をたたんでしまった。
「テッド、終わりよ」
「かしこまりました」
「長沼さん、後はよろしくお願い致します」
「了解しました。准将」
彼女の一声で、全てが動く。そして終わる。
あっと言う間に、英太との面談は終わった。
彼女が最初に立ち上がると、それに合わせるように側近のラングラー中佐ともう一人の金髪の少佐、そして背後にいた護衛の青年も動き出す。
「鈴木はこのまま残ってくれ。今度は俺と話そうか」
長沼にそう言われ、英太はそのまま面談の椅子に貼り付けられた。
横須賀の一行はそのまま残り、小笠原のミセス准将の一行だけが部屋を出ていこうとしていた。
席を立ったミセス准将と、最後に目が合った。
「叔母様、お大事に──」
また表情はないが、やはり眼には暖かみを感じられた。
「有難うございます。叔母にもミセス准将からお言葉を頂いた事、伝えます」
英太も。今日はどうしたことか、いつにない気持ちで真っ直ぐに心にある言葉をその人に伝えていた。
彼女が、側近と補佐を連れてドアへと向かっていく……。
英太はそのままここに。初めて会ったミセス准将とはここでお別れか。
何故か、身体がうずうずした。どうしてかまだ解らない。
ドアが閉まった音。とうとう彼女が出て行ってしまった。
不思議な人。
英太はそう思った。
「では、鈴木。今後のことを少し話そうか」
「今後、ですか……?」
ダミー研修の、本来の名目を告げてしまった長沼から、今後についてどう行動して欲しいかという話をこの後懇々とされた。
だが、英太の頭の中にはくっきりと……ミセス准将のあの冷たい顔。そして茶色の柔らかい眼差し。
・・・◇・◇・◇・・・
十日振りの帰宅だった。
今回は岩国を訪ねて、その後小部隊を二カ所。最後は横須賀。
やっと手応えを感じ、小笠原に帰ってきた。
帰宅すると夫の隼人と息子の海人は、お隣で夕食中とのメモが……。
葉月は二階の寝室にある浴室で、シャワーを浴びながら、ホッと人心地。
頭からつま先まで、熱い湯に濡れて、自分の身体中にまとっていた『准将の匂い』を洗い流してる気分。栗毛がすっかり湯を吸い込んで、つま先の爪が湯で温まった頃、自分はこの家の『葉月』に戻ったのだと実感する。
「お帰り」
二階にある小さな浴室。そこのドアが開いた。
だが葉月は驚かない。もしかすると、この夫が気が付いて入ってくるのでは……。そんな予感もあった。
なにせ寝室のベッドには、着ていた物をすべて脱ぎ散らかして来たのだ。帰ってきた夫がそれを見て、何を思ってくれたか……。
「ただいま、貴方」
熱い湯を浴び続けながら、平然とした顔で浴室に入ってきた夫、隼人に微笑みかけた。
彼も既に全裸だった。
シャワーの真下、そこでただ湯を浴びてくつろいでいる妻の目の前に、夫がやってくる。
「俺、邪魔だったかな。奥さんに戻る儀式中?」
『俺、邪魔』──そんな事、思っていないくせに。十日ぶりの帰宅、浴室で自宅の空気を楽しんでいる妻を目の前に、隼人の指先が早速、葉月の胸先に触れる。彼はとにかく、帰ってきた妻に触れたかった。そう言ってくれたらいいのに、天の邪鬼な夫は心とは裏腹のことを呟き、でも手先は本心のまま葉月に触れる。……そして、妻に言わせるのだ。
「ううん。会いたかったわ」
胸先に触れた指先が、途端に色めく仕草に変わる。
葉月はそのまま隼人に抱きついた。
それが合図のように、二人は顔を見合わせ、ほんの一時見つめ合うと直ぐに口づけを交わした。
隼人の、乳房に触れたままの手も、激しく動く。女の身体を愛撫する手つきに。
「貴方……。ごめんね、いつも留守で」
「でも、帰ってきたら、お前はいつもこんなふうに。熱くなって……俺の所に……」
長く離れていた分、二人の愛し合うスイッチは瞬速だった。
熱い湯が流れる中、二人はそのまま素肌で抱き合っていつまでも口づけを交わす。熱い息を交え、そしてまた見つめ合ってお互いが目の前にいる事を確かめ合う。そしてまた口づける。その繰り返しの中、互いが求めている事を片手で確かめる。葉月の手も隼人の手も、互いの下腹部で交差してお互いがどれだけ待ち望んでいたか確かめ合い、そして、まるでシンクロしているように誘い合うのだ。
やがて夫が唇も指先も葉月の肌を上から下へと滑らせて落ちていく。彼が跪いた頃、彼の目の前には湯をたっぷりと吸い込んでしまった妻の栗毛の……。そこを隼人は一時眺め、そして優しく口づけてくれる。
「待っていた?」
彼の問いに、葉月はすこし恥じらいを込めて、でも正直に頷いた。
「俺も待っていたよ」
葉月ではなく、隼人はその栗毛の茂みにふと微笑んだ。
そして迷いなく彼の指先がそこを分け入っていく。そして……また口づけられ、彼がそこで遊ぶ。
「あっ……」
どうしようもなく、こぼれてしまった声。
でも……葉月は愛されるままに夫を受け入れ、そして引き込まれていく。
「おかえり、葉月」
隼人がそう呟く頃には、葉月はもう彼の手の中腕の中。
本当は寝室にあるゆったりとしたベッドでじっくりと愛して欲しいのに……。急いでいるのは夫の方? そのまま隼人の言いなり。早く妻の中へと待ち望んでくれていたような彼の熱い塊を受け入れて、そして強く愛されて、そして葉月も結局は……悲鳴をあげたいほどに悦んでいる。
葉月の身体を突き上げる隼人が翻弄されている妻を見下ろして笑っている。
そんな彼に顎を掴まれ、彼の目線に合わせられる。
「葉月、俺を見て」
既に彼の好きなようにされているのに、葉月はそれも従い、夫の黒い瞳を霞みそうな快感の中見つめた。
「誰も知らないミセス准将だな」
そうよ。だって、もう……今の私はミセス准将じゃないわ。
冷たい顔の、女将軍じゃないわ。
この家の熱い湯でほぐれて、そして貴方の愛で溶けていく。そして見えるでしょう? 『貴方の葉月』が。
夫の優越感。
葉月の顔に戻っているのを確かめて、彼は喜んで、そして葉月を奪っていく。
そして葉月も奪われて、さらわれて。この家の妻に戻る。
Update/2008.4.28