そして英太は、その長沼中佐の背を見ながら歩いているところだった。
「今日も派手にやっていたね」
温厚な彼だが、制服キャリア組の中ではその地位を確実にしている四十代若手幹部の一人だと言われている。
コックピットを降り内勤族になってからの手腕の方が注目されていた。
その彼がたまに甲板に来て、訓練の様子を見に来る事は度々あった。ただ彼がうろつく時は『なにかがある』とパイロット達が囁く。空部隊の大隊長大佐の補佐官である彼が、訓練の様子を見に来るということは、パイロットを物色している可能性がある。つまりは『なにかの選抜がある』、あるいは『どこかに送り込む』ということを意味しているのだ。
彼が甲板に姿を現すと、パイロット達は張りきる。『なにかすごい任命をしてくれるのかもしれない』と。逆に『首を切られて小部隊へ切り捨てられる』という見方もあるがこの場合は余程とのこと。
そんなことを思い描いた英太は、先に廊下を行く長沼の背を見て思う。
(やはり、除隊だな)
ふっと溜息をついた。
日本海を巡回する小さな部隊に行けとでも? それとも北方僻地にある誰も行きたがらない小さな駐屯地の、小部隊へ……?
まあ、それでもいいかもしれない。その方がガツガツと出世を狙う野郎共の、浅ましいしがらみに囚われずに済むかも知れない。大好きなコックピットにはまだいられるかもしれない。
そう思ったが、英太は首を振る。
今回、英太が除隊覚悟でコックピットとも別れを告げる決意をしたのには、他にも理由があった。
横須賀という大部隊では上手くいかなくても、コックピットが好きで離れたくないから、僻地小部隊への転属で構わない。その気持ちもある。だが問題はその『僻地』なのだ。
何かがあった時、直ぐに『実家』に帰られるようにしておきたいのだ。
実家と言っても、両親が既に他界している英太なので実家とは言えないかもしれないが……。英太が言うところの『実家』とは、このやさぐれた成長をしてしまった自分を、いつも暖かく迎えて傍にいてくれた『叔母、春美』が待っている家の事を指していた。
叔母には恩がある。ある事情で、英太は両親を一度に亡くしてしまったのだが、まだ社会で生きて行くには頼りない力しかない成人したばかりの叔母が、『施設に送られるぐらいなら、私が一緒に暮らす』と申し出てくれたのだ。春美は既に社会に出て働いていたので、なんとか引き取る事が出来たのだ。
春美とは八つしか歳が違わない。言ってみれば、姉のようなものだった。そんな彼女が結婚もせずに、英太を中学へ高校へと通わす為に頑張ってくれたのだ。
だが、その叔母が病気で倒れてしまった。『癌』だった。しかしまだ治療すれば治る見込みもあるとかで、近々手術をする予定だった。
そんな叔母を置いて、コックピットにしがみつきたいが為に僻地に行っても構わないなんて気持ちにはなれない。だから、この横須賀で駄目ならもうどこにも行かない。これで辞めようと思ったのだ。働き口なら、この身体を使えば幾らでもあると思っていた。今、英太にとっても叔母の春美にとっても、肉親といえるのは互いに甥と叔母である自分達だけなのだ。……ああ、あと一人。同居している者もいるのだが。
ともかく。僻地への言い渡しなら、こちらから退官願いを叩きつけてやるつもりなのだ。
「あれだけ飛べたら気持ちがいいだろうね。とてもじゃないけれど、現役だとしても俺にはあれは真似できないね。いや……むしろ、上官の指令を破る事への勇気がなかったよ」
彼は、隊員達が噂しているとおりに、ただにこやかに笑っているだけ。
その優しい笑顔に騙されてしまう若い隊員も大勢いるとか。気を許し『優しい人だから』と調子良くして気を緩めて『だらしのない本性』を見せてしまうと、いつの間にか評価を落とされ、そして一喝されていることもあるとか。押さえるべき所は押さえ、そして笑顔の下にはシビアな判断。キャリア組になってから手腕を振るい始めたこの男は、よく顔を見せないお偉い大隊長よりも、ちょこまかとあちこち動き回っている彼の方が畏れられていた。
そんな彼が今日、甲板に来ていたのは何故? 知っていればきっと、同じく研修をしていたパイロット達は緊張したり、浮き足立っていたりしたはずだ。
「黙っているね。どうして俺の問いかけに返事をしてくれないのかな?」
にっこりとした笑顔が肩越しに……。
だが、英太は口をつぐんでいた。こう言った男へと言葉を発する時には慎重を要した方が無難。つまり極力喋るな、だ。しかし上官故、問いかけられたならばなにか答えねばならないだろう。
しかし、除隊が目の前に迫ってきている英太にとっては……そうだな、もう、慎重も何もないかもしれないなあとも思ったのだ。
「俺、除隊ですよね。覚悟できていますから、すぱっとやってください。なにも中佐からわざわざ言い渡してくださらなくても……」
「……除隊?」
そこで彼がきょとんとした顔で、英太に向き直った。
「誰が除隊と言った? 研修指揮官をしていた相原がか? それとも、お前の所属部隊長である橘が?」
その時、彼から笑みが消えたのだ。
そして英太は真っ直ぐに彼に見据えられていた。
彼の笑みが消えた顔を見たのは初めて……? そしてその目つきに英太はぞくっとさせられた。
「いえ。どちらもそのような事は……」
「なんの勘違いかな。誰も口にしていない事を軽々しく口にするものではないよ!」
彼らしい? もっともな釘を刺され、どうしてか英太は小さくなってしまった。
いつも人に粋がっている英太ではあるが、たまにこう言う事がある。
なんというのだろう。この男は本物というか……。身体にも心にもあっと言う間に言う事を聞かせられている男。そんな反応をさせられている男にたまに出会う。それが……実は所属部隊の橘であったりしたのだ。もっと言えば、先ほど甲板で別れた相原中佐も。そして、この長沼中佐も。彼等はやはり『百戦錬磨の男達』と言うべきなのだろうか。
でも、橘には裏切られ、相原にだって見放された。まあ、相原の場合、英太が最初から言う事を聞かなかった訳だが……。長沼には一発でやりこめられた気持ちになる。笑顔だった彼は、瞬時にしてそんな気迫を放ち、尚かつ相手を黙らせる程の器量があるようだった。コックピットよりキャリアだったとは、彼のこの素質があったからなのだろうか。と、思わされた。
「鈴木、覚悟しておいたほうが良いよ。もしかすると、除隊してくれた方が良かった……なんて言い出すかもね」
「どういうことですか?」
「──『彼女』は過酷のひとことに尽きる女性だよ」
長沼が、にやりと笑った。
彼の笑顔は時にはひょうきんで、人を食っているところもあるように見えていたが……。英太はまたその意味深な笑みにゾッとさせられた。
と、同時に。彼の口から『彼女』。さらにはシビアな彼から『過酷』と出てきた事で、英太の心臓がまたドクリを大きく脈打った。
「甲板にいた、制服の、女性の事……ですか?」
そう言うと、長沼も、甲板指揮をしていた相原同様に驚いた顔になった。
「鈴木……あのコックピットから見えていた?」
彼も相原と同じ事を聞いてきた。
「はい。一瞬でしたが、栗毛の……」
同じように答えると、彼が益々驚いた顔を見せた。
「彼女はその時、どんな顔をしていた?」
今度は相原には聞かれなかった問いに、英太は戸惑ったのだが……。
「いえ、そこまでは……」
いや、嘘だ。英太には見えていた。
『俺を見ていた』、『俺にも見えていた』、『彼女も俺を見ていた』。
だが、言えなかった……。そんな感覚、誰が信じてくれるのだろうか? パイロットとしての感覚。勿論、長沼も元パイロットではあるのだが、だからこそ……あのスピードでは有り得ないとでも言い返されそうで……。でも、英太にはそう見えたのだ。
だけれど、やはり言えなかった。
「そうなんだ。ふうん……」
彼が少しばかり、つまらなそうな顔をした。
「まあ、いいや。とりあえず、彼女に呼ばれているから、彼女と話してみてよ」
彼女に呼ばれている??
長沼の所に行って、除隊を言い渡されると思っていた。もう、ぐうの音も出ないほどの説教をされて、横須賀からこっぴどく追い出されるのかと。
そんな長沼の所に、『彼女』が客として来ているのかと思った。一体誰だったのか、それを知りたくてただ来てみれば、『彼女が呼んでいる?』
「あの、彼女とは、どのような……」
「ふうん。栗毛という姿は見えたけれど、流石に顔は見えなかったようだな。いや、顔まで見えていたら、俺はお前に嫉妬するね」
なーんかここでも、年長者である長沼が不機嫌そうな顔になった。そう、甲板で冷静な指揮官であった相原中佐が最後に、苛ついていた時のような。あれと同じ感触……。
「まったく……。まあ、お前の事だから、『彼女の顔』など興味なかっただろうね。きっと知らないだろうね。会報誌なんか目を通さないだろう?」
「通しません? だって活字、大嫌いですから」
「あははは! 噂通り、はっきり言うんだな」
機嫌悪そうだった彼が、いつもの穏和な顔に戻って大笑い。
そんな彼が大隊本部を出て、少しばかり先にある小さな会議室へと立ち止まった。そして彼がいつものにっこり笑顔で英太の背を叩いた。
「その口の利き方のほうが、きっと効果がある。彼女にはね。頑張れよ」
なにが頑張れ??
英太が戸惑っているうちに、長沼がそのドアを開けた。
午後の光がさあっと英太の足下を照らす中、その部屋には……。
「お待たせ致しました。鈴木が戻りましたので連れて参りました」
突っ立っている英太を、長沼がちらっとひと睨み。
英太ははっとし、背筋を伸ばして取り敢えず敬礼をした。
その時、やっと見えた会議室の光景に英太は息を呑んだ。
青空から光差し込む中、そこに制服の男達がずらっと並んでいるのだ。そう、七、八人程……。
その中に『女王』がいた。
とにかく、飛び込んできた光景がそれだった。
横須賀で見かける上官に本部員もいるが、中には立派な肩章と胸バッチを飾っている制服の外人男性が数名。とにかく英太の目の前にずらっと並んでいる。
その中に、一人だけ栗毛の女性が……。その男性の中、ど真ん中にどっしりと座っていたのだ。
一目で分かった。彼女は……『ここにいる誰よりも偉い女』なのだと。
両隣にいる外人男性は、中佐と少佐。特に栗毛の若い中佐は、彼女の隣に寄り添うに相応しい雰囲気の品のある男性だった。少佐の方はそれほど端正な顔つきの男性ではないが、それでも落ち着きに余裕ある表情は彼女隣にいてとてもしっくりしている。そして彼女の背後には、どっしりとした体格の青年が仁王立ちで守っているかのよう……。
そんな若い幹部らしき一行を、今度は横須賀の本部員が取り囲んでいた。そんな中、栗毛の中佐の隣に、あの長沼が座った。長沼が座ると、立っていた横須賀の長沼の部下達がそれぞれ座ったり立ったままでいたり。とにかく彼女を中心にして彼等が位置を整えた。
英太は彼女の真っ正面にある椅子に促された。
その椅子に、どうにも落ち着かない気持ちでなんとか腰を落とすと、本当に真向かいに彼女がいる。
そして英太は目の前に繰り広げられた異様な世界を見て直ぐに悟った。目の前の女性が誰であるか。その証拠に、肩にはとんでもない肩章をつけている事にも気が付いていた。
そんな立派なお偉い『将軍の肩章を持つ女』は一人しか思い浮かばない。特にパイロットでこの女性を知らない者などいない。この英太だって何度も噂は耳にしている。そんな女性。
『御園准将、ミセス准将だったのか!』
端正な顔つきの品の良い外人男性を隣に、そして男達に取り囲まれているその有様は、男を従え侍らせている『女王』にも見えた。
それは、ふとすれば『ハーレム』にも見えるほど。
彼女は男性軍人に囲まれ尚かつ、なんなく従えている。
だが、目の前の女性は──表情がない。
だけれど、正面にいる英太の所まで、ふわりとした良い匂いを漂わせてくる。
栗毛で透き通った茶色いビー玉のような目で、じいっと英太を見つめている。
日本人だと聞いていたが、顔つきは隣にいる外人男性の中佐とよく似ている。つまり日本人離れした顔。
本当に、御園准将? 彼女は混血だっただろうか?
その彼女に見つめられ、英太すら固まっていた。
どうしたのだろう。いつも粋がってばかりいる英太だが、そのビー玉の瞳に見つめられただけで動けなくなる感覚にさせられた。長沼に見据えられた時以上に息が詰まる。いや、息が出来ない。
他の男達も、彼女ばかり見ている。ど真ん中にいる彼女が放つ、そのありったけのムードに誰もが既に捕らわれているようだった。
まさに『ハーレム』。彼女は、軍男性に囲まれたハーレムに君臨する女王に見えた。
・・・◇・◇・◇・・・
「はじめまして、鈴木大尉」
だが話しかけてきたのは、隣の栗毛の中佐。
「小笠原空部大隊本部の、ラングラーです。本日は訓練中のところをこちらの都合で下船させてしまい申し訳ない」
淡々とした若い中佐のその言葉に、英太は唖然とした。
違うよ。俺が指揮官の言う事を聞かなかったから、着艦命令が出て、それでこの甲板には戻ってくる事などないと見切りをつけられて……。
「君の先ほどの、とんでもない飛行を見させてもらったよ」
ラングラー中佐がふと微笑みかけてきた。
だが、隣に座っている彼女はもう英太を見ていないし、挨拶もなければ、笑顔も見せない。
なんちゅー、尊大な態度。
どんなに偉くても、挨拶ぐらい、自己紹介ぐらいあるべきだろ?
そう思った英太は、彼女の冷たい横顔にムッとした感情を覚えた。
「その飛行がなにか?」
「何故、訓練指揮官の指示を無視したのかな」
相変わらず、口を開くのはラングラー中佐だけ。
彼の傍にいる長沼は笑顔を消し、ただ黙って座っている。他の横須賀本部員の男は英太の早速の素直ではない返答に眉をひそめる者もいれば、睨んでいる者もいるし、中にはハラハラした様子で彼女の顔色を窺っている者もいる。それを見て、また妙な腹立たしさが……。
「言いたくありません」
きっぱりとした返答に、驚いた顔をした本部員が数名。
ラングラー中佐も、少しばかり面食らっていた。だが、長沼は笑っている。そしてどうしてか、彼女の隣にいるもう一人の補佐、金髪の少佐もだった。
だが、彼女はやはり表情がない。そして先ほどはあれほどに英太を真っ直ぐに見つめてくれたのに、今はもう目も合わせてくれない。どこを見ているかというと、彼女は手元にあるメモ用紙。ペンを片手に何かをぐるぐると描いているようだった。その手つき、イタズラ書きをしているとしか思えない。つまり、英太に興味を持って呼んでみたが、もう興味がないと?
(この女。だったら、呼ぶなっつーの!)
どうせ除隊。この女に興味を持たれたからとてなんだというのだろうか。
徐々に苛ついてきた英太の様子を感じ取ったのか、ラングラー中佐が少しだけ溜息をついた。
だが、彼は続ける。
「まあ、いいだろう。今から少しばかり質問をするので正直に答えてくれ」
彼が手元に開いているバインダーを眺めて、質問を始めた。
「パイロットになろうと思ったきっかけは……」
「覚えていません」
「初めてコックピットに乗り込み、空に出た時の感想は」
「覚えていません」
「横須賀以外の基地に興味を持った事は?」
「ありません」
「尊敬するパイロットはいるか」
「わかりません」
「では尊敬する人は……」
「……言いたくありません」
「君が空を飛ぶ信条、ポリシーは」
「特にありません」
「どのようなパイロットであるべきか」
「考えた事がありません」
全て否定的に、拒絶した。
だがラングラー中佐は怒る様子もなく、ましてや腹立たしい表情もみせず、淡々と英太に質問を繰り返す。
「今まで空を飛んでいて一番印象深い出来事は」
「ありません」
「では、空を飛んできて、一番辛い思いをした事は」
「……ありません」
そこでラングラー中佐が繰り出す質問の嵐が止まった。
そして彼が今までのありきたりな質問から一転、英太の心情の根っこを揺さぶる質問を投げかけてきた。
「では……。三年前に出たスクランブルで、太平洋沖で遭遇した不明機と接触した際、君は先輩の機体とニアミスを起こしたね。衝突寸前だった。だが、そのお陰で不明機の追撃から彼は助かっているということになっている。そして不明機もこれで撤退。その時のことは……」
「……それについては、既に査問調査会ですべてお話ししました。上からの判断も既に出ていると思いますが」
「君はこの功績で大尉になった。だが先輩はその時のことがきっかけで、精神的打撃を受けコックピットを降りている。その後、彼ではなく、彼と同僚であった先輩達に良く思われていない。……かな? これについて君から言いたい事は」
「──ありません!」
そこまで調べたのかと、英太は唇を噛んだ。
自分の肩にはそぐわない肩章がついている。これのせいで随分と嫌な思いをしたものだった。
それを思い返すと、『本当に、もう充分だ』と思った程だ。
「……叔母が病気になったので、俺は退官するつもりです」
その一言を行った時、誰もがハッとした顔をした。いや、一人を除いては……。
「たった一人の肉親なので、傍についていたいのです。だから、今日は最後のつもりで飛びました。それだけです」
目の前の本部員、そして長沼もそのまま表情を固めていた。ただ冷淡な横顔のミセス准将は相変わらず、何事にも何を聞いても反応がない。
「それは本当なのか、鈴木」
あの長沼ががたりと席を立ち、机に手をついた姿勢で英太に詰め寄ってきた。
かなり驚いているようで、彼ほどの男が困惑した表情を浮かべ、無反応なままのミセス准将になにか助けを求めるように彼女を見た。
小笠原の幹部一行は彼女を始めとして、誰もが表情を変えず落ち着いている。
やがてラングラー中佐が淡々と、上官である彼女に静かに伺いを立てる。
「准将。彼なりの事情があるようですが……」
すると、再び、彼女のあの真っ直ぐな視線が英太へと戻ってきた。
彼女はこれまで、側近の中佐が英太と面接をしている間、かなりふんぞり返った格好でふてぶてしかった。
まあ、そりゃ。ここにいる誰よりもお偉い女性なのだから当たり前と言えば、当たり前なのかもしれないが、英太からすれば、もの凄く鼻につく態度だった。
ふんぞり返って腕を組み、足を組み、その足の先にある黒いパンプスが今にも脱げそうなほどに踵から外して、つま先でぶらぶらさせたり。その格好で、ラングラー中佐の質問の嵐を、あってないような退屈そうな様子で聞き流している顔、そしてメモ用紙にぐるぐると落書き……。これがお偉いさんでなければ、『行儀悪い』と言ったところ。どこの親も、こんな娘がいたら『姿勢を改めて、ちゃんと座りなさい!』と怒るのではないかと思うような、そんな嫌な態度なのだ。
そっちから呼んでおいて、その態度ってなんだよ! 英太の方がぶち切れたくなる。上官部下、関係あるか。この軍隊に入隊した時に、そういう行儀についてもとことんしごかれただろ。それとも? そんだけ偉くなると必要なくなるから忘れてしまうんだ。やっぱりさあ、この組織腐っているんだな! そう言いたくなった。
だが、英太を見据えている彼女が急に姿勢を正した。
隣でぴしっとした姿勢で英太に向かっていたラングラー中佐と同様に、彼女は背筋を伸ばし、足を組むのをやめて、両膝からつま先まできちんと綺麗に揃えて座った。
その瞬間、また彼女からキリッとした風が吹いてきたような気にさせられた。
彼女の正面に、落書きをしていたメモ用紙が真っ直ぐに置き換えられ、そして彼女がまっすぐに英太に向いてペンを握った。
「行儀悪い女。そう思っていたでしょう。こちらから呼びつけておいて、失礼致しました」
彼女が頭を下げたので、英太は面食らった。
「遅れましたが初めまして。御園葉月です」
さらに彼女は顔をあげると、英太の目を見てしっかりと自己紹介。そしてまた一礼をしてくれた。
「貴方から、なにか質問はありますか」
急にこちらに問いかけられ、英太は固まってしまった。
「どうぞ。なんでも……」
僅かに彼女の頬が緩み、口角があがった。
笑顔とは呼べない、僅かな微笑み。だが、無表情な彼女にしてみれば、それはやっと垣間見る事が出来た『表情』だった。
だが、それも直ぐに消えてしまう。あの冷たい顔でただ英太をじっと……。
本当に息が詰まりそうだ。
これなら、先ほどのようによそ見をしてくれていた方が……。ついに英太から視線を逸らしてしまった。
「なにもありませんか」
念を押すような彼女の声にも、英太は言葉に詰まっていた。
いったい、俺はどうしてしまったのだろうか。
この女は、今まで出会った事がない『人』だという英太の予感。それがあのコックピットでの胸騒ぎ?
「なにもないのなら、私から質問をさせていただきますよ」
自分よりずっと端にいる若い青年相手に、彼女の言葉はとても丁寧。でも、とても鋭く重い声。英太の耳から胸の奥にどんと大きな石でも置かれるかのような、そんな重厚感と重圧感。
「叔母様には看病が必要なのかしら」
「おそらく……」
「貴方がしなくてはいけないのね。他に肉親は互いにはいないと」
「はい」
「分かりました」
彼女はそう言いながら、今度は真面目な様子で、それをメモ用紙に書き込んでいるようだった。
「私が行儀悪い格好をしていて、貴方はとても気分が悪かった……」
「はい。とても自分達を総括している将軍のお姿とは思えませんでした」
これもはっきりと言ってやった。
だが彼女も、そして補佐の二人も、長沼も表情を変えなかった。変えて英太を制するように睨んだのは、長沼の部下である本部員だけ。
「ラングラー中佐の質問には全て『答えたくなかった』のね」
「はい。答えたくありませんでした」
「でも、『横須賀基地以外の基地に興味を持った事はあるか』と『尊敬している人はいるか』。これにはちゃんとした答を貴方は伝えているわ」
メモ用紙を眺め、ペン先で数カ所をチェックしている彼女の姿に、英太は……言葉を失った。
「本心から答えてくれたのはこの二つ。貴方は横須賀基地に愛着があるのね。でも、いる事が出来なくなり、本日、辞める覚悟でコックピットと別れを告げる為に、好きなように飛んだ。それがあのとんでもない低空飛行だったのね」
ほぼ、正解。英太の心中を彼女は言い当てていた。
「さらに、『尊敬する人はいるか』に貴方は『言いたくない』と言ったわね。これは反抗的に拒絶しているが為に答は言いたくないが、心の奥底ではそこまで『嘘』を言い切れないほど、尊敬してる人がいるということね。そうねえ、さしづめ……」
英太の胸がドキドキしてきた。
この女、よそ見をして落書きをしていたかと思ったら、とんでもない。
ちゃんと俺を見て、俺が何を考えいているか、見ていたんだと。その彼女がついに英太が隠していた答を口にした。
「貴方が尊敬している人は、その『叔母様』ね。きっと貴方をここまで支えてきてくれたのでしょう。だからこそ、貴方は手放したくないコックピットに別れを告げる決意をした。好きだからこそ、最後だからとあのように飛ばずにはいられなかった……」
彼女の目が細くなる。どこか暖かみがあるようで、その眼差しがどこか叔母の春美と似ていたように見えてしまったが、英太は首を振る。
「と、私にはそう見えましたが如何ですか」
また彼女の表情が冷たく凍った。
「ご想像にお任せ致します」
「そう」
英太の素直にならない返答にも、彼女は表情を宿さなかった。
「分かりました。貴方の事情が。では、次は私の話を少しだけ聞いてくれるかしら?」
「……はい」
どうしてか、今度は従ってしまっていた。自然に。自分でも驚くほどすんなりとそう言っていたのだ。
目の前の彼女の視線が、今度は英太に鋭く突き刺さった。どうやら向こう様が今度は本気で英太にぶつかってくる番と言ったところのようで、英太は構えた。
「貴方もパイロットなら、小笠原にある『ホワイト』を知っているわね」
「勿論です。……そうだ。准将のご主人である御園工学大佐がフロリダや各企業と先頭に立って開発しているという新機種ですよね」
「そうね。今日はね。そのテストパイロットを探しにきたのよ」
初めて……。彼女が英太に向かって、にっこりと満面の笑みを見せた。
なのに、英太はゾッとしていた。それは長沼のぞっとした笑顔以上の迫力が。決して優雅で美しく和やかに暖かくしてくれる笑顔ではなかった。
なにか彼女が勝利を確信しているかのような、そんな戦略めいた笑みだと英太は感じたのだ。
そして、その『テストパイロット』という言葉に英太は瞬時に固まり動けなくなった。
ミセス准将が、新機種ホワイトのテストパイロットを探している。その向こうに透けて見えたものに、英太は驚愕したのだ。
その向こうに見えたのは『フライト雷神』!
昔、この連合軍でエースチームと呼ばれていたフライト。いつしか解散し幻となったが、このミセス准将の恩師である男がその雷神のパイロットであったことから、ここ近年、そのエースチームが復活したのだ。今、その小笠原にある雷神2というフライトがホワイトに乗っている。つまり……彼女がホワイトのパイロットを探している事はイコール……。
(まさか、この俺が……!?)
あまりの驚きに震えている英太に、彼女がその笑顔で告げた。
「貴方、小笠原でホワイトに乗りたいと思わないかしら。そう、フライト雷神のパイロットよ」
どう?
彼女の問いに、英太はただ硬直していた。
Update/2008.4.25