隼人は唸った末に、知らせてくれたテッドに告げる。
「……うん、いい。このまま女房に見せてやってくれないか」
テッドが見せてくれた『鈴木英太の調査書』を隼人は返す。
だがテッドは驚いた顔になったまま、受け取ってくれない。
「よろしいのですか。意識してしまうかと」
「いいよ。と、いうか……もう、意識している」
隼人は腕を組んで俯き、溜息をこぼした。
「勿論、俺だって。互いがどうこうなるとか思っちゃいませんよ。そうじゃなくて、首を突っ込んだら『あの人』のことは、誰も止められないってことです。突拍子もないでしょう?」
「だから? だから、悪い事が起きるとして何が起きるって言うんだ?」
テッドが口ごもる。彼も分かっているのだろう? 最悪の予想が出来ても、それは単なる杞憂に過ぎないと。
しかしテッドの表情が晴れる事はない。彼の拭えない不安、それを口にする。
「ですが、これでも俺は奥さんの側近をもう十年以上やっているんですよ。サポート力は隼人さんには未だに敵いませんが、毎日傍にいると判るんですよ」
彼の『判る』が、隼人にも『解る』。
同じ物を感じているのだろう。隼人は夫として、彼は仕事のパートナーとして。そこにはどれだけ俺の方がよく解るとかいう次元ではない、共に同じ女性を考える者同士として。
「甲板で、奥さんが鈴木の戦闘機に出会った時の眼が……」
「そんなに?」
「ミセスになられた現在は、だいぶ落ち着かれましたけれど。でもあの甲板で、俺の胸も、あの眼を見てざわっと……。四中隊時代にハラハラしてきたような気持ちになって、それで、『あ、この人、なにかやる。始めるんだ』と、ドキドキして」
年甲斐もなく……。テッドまでもが頬を紅潮させ、二十代の青年のような顔になる。
隼人の先日からの胸騒ぎも、テッドと同じなのだろうか?
妻は『お嬢、じゃじゃ馬』と言われる事が少なくなった。大佐を卒業し、『ミセス准将』と呼ばれるようになると、彼女はすっかり成熟した大人の女性となり、誰もがそんな彼女の変貌を認めていた。
だが昔ながらの男達は、時にはミセス准将を捕まえて『お嬢、じゃじゃ馬』と呼ぶ者もいる。だがそれは今となってはしょっちゅう口に出来るような言葉ではなくなった。
でも、隼人の胸の高ぶりもおそらく……。
「最後の台風かもしれないな」
隼人はそっと呟き、テッドに今度こそ調査書を返した。
「……というよりかは。彼女は台風の卵を見つけてしまった気がしているんですよ」
「葉月じゃない、その青年が、卵?」
「ええ。……確かに、似ていたかもしれません。あの頃の、人を寄せ付けなかった葉月さんと同じ顔をしていました」
隼人は黙る。そして、テッドが受け取った調査書をもう一度眺めたい気分になった。
テッドのその言葉はおそらくかなり当てはまっていたのだろう。『二十代の頃の妻と同じ顔』。何故、その青年が妻と同じ顔をしていたのか。それは……彼が少年期に遭遇してしまった出来事を知って隼人は納得するしかない。
隼人が再度覗きたかったページを、今度はテッドが開いて眺めていた。
「同じ顔、同じ眼。そして葉月さんが気になる飛行。ということは……」
テッドはその先を言わなかったが、隼人は心の中でその先を呟く。
──『葉月と飛び方が似ている』。だから、葉月は心を揺さぶられた。
「そうか。そいつが来たら厄介のような、そうでもないような」
「爆弾ですねえ。俺は出来れば、今のまま当たり障りない方が、雷神も安泰だと思うんですよ。二月先になりますが、長旅が始まりますしね」
出来れば、ごたごたしないメンバーで『巡回航行任務に出たい』。側近としてはそう思うようだ。
隼人は『それも考慮しておく』とテッドに告げ、この日はここで別れた。
さて、妻は。彼のあの経歴を見てどう思う事か。
それとも。彼女は知らないままになるのだろうか。
そこは夫である隼人だが、側近であるテッドの判断に任せた。
とはいえ。
どうも隼人も気になる。
このまま終わっていいのだろうか?
妻の、久し振りの揺さぶりを無視して良いのだろうか?
葉月の心が動いて、夫である隼人の心も。そして側付きの男であるテッドも。彼女に引きずり込まれるように、あの頃のような熱い想いを感じている。
「……爆弾か」
しかし、隼人はここ数日で集めた資料に書類をかき集めて、仕事の続きを始める。
そう、この青年を引き抜く為の準備を整える為に。その手は止まらなかった。
・・・◇・◇・◇・・・
妻の側近が出ていき、隼人は夕暮れが始まった科長室に一人──。
小さな工学科科長室事務室ではあるが、数年前退官したマクティアン大佐の後を引き継いで、今、隼人はここの長。科長席に座っている。
自分の直ぐ目の前のデスクは一番補佐の、吉田小夜。長年のパートナー。彼女は隼人によく尽くしてくれる。そして今や、彼女が若い頃願っていたとおりの、基地でやり手の女性補佐官だった。そしてお聞きの通り、まだ苗字も変わっていなく、独身だった。
そんな彼女のデスクを眺めつつ、隼人は先ほどまで話し合っていたテッドが休日も『秘書室第一』に精進している事に感心しつつも、反面ふと心配してしまう事が急に浮かんで溜息をついた。
「どうなるのかね。このままでは吉田も、四十路だぞ」
これほどの付き合いになると、隼人としては既に『兄貴』の心積もりだった。
可愛い妹分となった小夜がこれからどうなるかと思うと、溜息しか出てこない。
彼女だって子供が欲しいという顔をする。なのに……今のままでは……。
それにしても。まさかあの可愛い小夜が、本当に可愛いOLさん風だった小夜が……。
結婚もせずに、やり手の補佐官になるとは誰が思っただろうか。
「でも、恋人は最高の男だもんな」
小夜とテッドの愛も、数年越し。そこまで二人が強く結ばれているのに。彼等が恋仲になってから、隼人は妻の葉月と一緒にずうっとその愛の軌跡を見守ってきた。彼等の愛し合っている様はちっとも変わらなく、むしろ年々、それこそ既に夫妻のような姿に。なのに結婚には至らない。
それについての理由をわざわざ聞いた事もない。……自分達が結婚するまでだって、あの二人は根ほり葉ほり聞かずに、ひたすら案じてくれながらも黙って見守ってくれていたのだ。今は御園夫妻がそれをしているのだ。
彼は今や准将付きの主席側近、秘書室長。彼が忙しいだけじゃない。彼女も工学科大佐の一番補佐。彼女も忙しい。そして二人は互いにその仕事を全うさせる事で満足し合っているようだった。
この十数年であの二人の間で何が変わったかと言えば、『同居を始めた』ぐらいだった。
だけれど、同居を始めると、二人は今まで以上に幸せそうで……。
「そういうカップルもいるかもしれないな」
俺は『結婚しよう、結婚しよう』と割と焦っていたのかもしれないと、今になって隼人は若い頃必死だった自分を振り返って思うのだった。
さて、妹分の心配はさておいて 一人きりの事務室にやってきたのも訳がある。まとまらない考えを今日こそまとめる為に一人きりになりたくてここにやってきた。
妻が初めて心より欲している『青年パイロット』。
この青年の引き抜きについていろいろと頭を巡らせていた。
妻には任せろと言ったが、やはり横須賀の条件をただ鵜呑みにすることは、こちらの弱みを見せて終わらせることになる。
長沼とは良い関係であるのだが、やはり互いの守るべき物を守る役目になると敵対する事になる。決して気が許す事が出来ない好敵手なのだ。
「さて。あちらに譲歩してもらう、あちらが納得してくれる条件を考えなくては……」
日曜の夕暮れ。明日は月曜、また仕事が始まる。
だからこそ、この時間はもう誰もいない。最後の休日の時間を過ごす為に、隊員達は帰路につく時間。敢えてやってきた隼人はひたすら考える。
やはり、雷神のパイロットだけは手放したくないと考えていた。
それに見合う、長沼が納得する条件とは……。
・・・◇・◇・◇・・・
『今夜は帰ることができないから。あなた達二人で留守番していてね』
──朝には帰るわ。
まだ帰宅していない叔母を華子と待っているとそんな電話があった。
会社にそのままいて残業に突入ならよくある連絡だが、今回はそうではなかった。一度、帰宅してから出かけたというのだから、連絡を受けた英太としてもその知らせには納得できない──。『身体は大丈夫なのかよ!』と心配する英太に、叔母はいつもの凛とした声で『大事な用がある。これを済ませたら大人しく家にいる』と言ったのだ。だから英太はそのまま叔母を行かせた。
しかし英太は叔母が帰宅しないマンションで、華子と悶々と一晩過ごした。いったい、なんの外出なのだろう? 一晩、帰る事ができないだなんて。今までにない叔母の行動だった。
『ね、春ちゃん。おかしいでしょ? 二週間前から、なんか落ち着かないの。夜の外出が増えて……』。華子の報告に、英太は嫌な予感しか過ぎらず、いつまでも叔母の帰りを待っていた。待っている間、特に華子が落ち着かず、なんどもベランダに寄っては階下を眺めていた。そして英太も華子の背中を抱きしめて、安心させて、そして自分も春霞の夜空を眺めた。
春。叔母の名前のように今は春。朧月夜の空の下、叔母はどこで何をしているのだろう?
マンションから見える桜の木。既に花は散っていたが、月明かりにぼんやりと浮かぶ葉桜がざわざわと音を立てているような葉の揺れを英太はただ眺め、叔母の帰りを待った。
やがて華子が先に力尽き眠り、英太も朝方やっと……。気が付くと朝で、英太の為に置かれているだけのベッドには、いつのまにか華子も潜り込んで眠っていた。
「華、起きろ」
「うーん……。はるちゃん……」
昔の、少女の頃とちっとも変わらない寝顔に、英太は思わず微笑んでしまった。
こうして寄り添って眠る事はよくある事だった。裸になってただひらすた肌の感触を感じて温め合うこともあれば、一晩中力尽きるまで激しく抱き合う事もある。そしてこの晩のようにただ寄り添って眠る事も……。この華子とは幼馴染み以上の関係で、どこか兄妹のようで、でも、やはり幼馴染みで。
そんな華子は本当に春美の事を、実の甥である英太以上に姉のように思って慕っている。彼女が一番尊敬している大人だった。
『ただいま』
そんな声が聞こえてきて、英太はハッとしたのだが、それ以上にもぞもぞと眠っていた華子がばちっと目を覚まして毛布をはね除けた。
「はるちゃん!!」
甘えるように寄り添っていた英太などそっちのけで、華子は部屋を出ていった。
英太はちょっとふてくされながら自分も部屋を出る。
「はるちゃん、何処に行っていたの? 身体、大丈夫なの!?」
リビングの扉が開くと、華子は一目散にそこに現れたスーツ姿の女性に抱きついた。
「なあに。昨夜、連絡したでしょう」
そして春美も、飛び込んできた華子をやんわりと抱き留める。
それだけであの強気な華子が、子供のような泣き顔に崩れる。
「だって。身体、しんどいんでしょ。お医者さんだって安静にって……」
「……ごめんなさいね」
肩でくるんとカールするセミロングの黒髪。叔母の横顔がふと憂うのを英太は垣間見る。そんな叔母がはっとして、華子を抱きしめたまま英太を見た。
「春、ただいま」
「おかえりなさい。英太」
やっと叔母がそこで英太に微笑んでくれた。
それをみて華子も、取り敢えずホッとしたようだった。
「せっかく英太が帰ってくると言うのに、一晩も留守にしてごめんなさいね。華ちゃんとご馳走の準備していたのに……」
「それはいいんだけれどさ。春にだって、春だけの用事があるだろうし……」
なんて。大人になった英太は、ずうっと大人であった叔母に大人ぶってみるのだ。
「ふふ。随分なご理解ね。有難う」
でも、叔母には『小さな英君の生意気』と見抜かれてしまう。
すると春美は、『ほう』と疲れた溜息を長くこぼしながら、ダイニングテーブルの椅子に座り込んだ。
座った途端、春美はぐったりと項垂れ、額の黒髪をかき上げる。そうして暫く黙ってしまった。
英太は華子と顔を見合わせる……。疲れ切っている叔母の顔は、病気からくる苦痛ではなく、どこか哀しそうな顔だった。英太も華子も『しんどいのは身体じゃない』と察し、叔母に『どうして出かけていたのか』と問えずにいた。
しかし珍しく、叔母から話してくれた。
「そうね。黙っていても貴方達を心配させるだけね。もう貴方達も大人だしね……」
いつも二人は『子供扱い』だった。
叔母はいつだって笑顔を心がけてくれ、決して子供の二人の前では弱音など吐かなかった。
その叔母が言った。
「……昨夜ね。お付き合いしていた男性とお別れしてきたの」
ええ!?
英太と華子は飛び退きそうになるほど驚きの顔を揃えた。
春美に、男!
そんな事、今まであった??
二人はヒソヒソと囁き合う。
未成年の二人の面倒を見る為にこつこつと働いてきてくれた叔母に、男の影を感じた事など一度もなかったのだが……。
あったかもよ! 私達が知らないだけで。
じゃあ、俺達に分からないように付き合って!?
二人の間で、今まで叔母が『残業よ』と連絡してきた時のことがふっと浮かんだりした。
「と言ってもね。つい最近なの。同じ会社のね、去年大阪からこっちに戻ってきた人で。同僚だったのだけれど、最近、特に親しくなって……。彼からね、申し込まれていたのね」
「お付き合いを? プロポーズを!?」
絶句している英太の代わりに、華子が問いつめたのだが。
「お付き合いよ。でも……こういう身体になったから……お断りしたの」
その為に一晩?
いや、本当は結構親密な仲になっていて、別れ話が長引いて?
どちらにしても、春美にとっては女性としての幸せが目の前にあったのだが、それを手放したということだ。
だが、それを聞いた英太の中で、急激に怒りが湧いてきた。
「その男。『たったそれだけ』で逃げ出したのかよ!!」
叔母に怒鳴っても仕様がないのに、英太はテーブルに手をついて叔母に詰め寄った。
「──たった、それだけ? 英太、これからどんなことが起きるのか分からないのよ」
「でも、春の事を本当に好きなら、絶対に離さないはずだ! そんなの……春を好きなうちに入らねーよ!!!」
と、英太が言うのを待っていたかのように、叔母の目が真っ直ぐに英太の瞳を捕らえた。温厚な叔母が本気になった時の眼に、流石の英太もぐっと引かざるを得ず。
「そうよ。英太。その通りなのよ。『好きなうちに入らない』から、お別れしてきたの。何年も付き合っていた者同士ならばまだしも、まだこれからという時に『私の看病をして』だなんて、貴方なら言えるの?」
まったくその通りで……。英太はなにも言い返せずに項垂れた。
「貴方達に言っておくわね。もし、男の人からの連絡があったら全て断ってね。叔母はいないと言ってね」
そんな……。
英太は華子と一緒に愕然とした。
しかし叔母が言っている事はごもっともなことで二人はそれ以上は何も言えなくなる。
「疲れたわ。ごめんなさいね。お昼まで休ませて」
春美はそういうと、今度こそ身体の不調を訴えるかのような青ざめた顔で自室に入ってしまった。
「……まだチャンスはあるかな」
春美が消えたドアを見て、華子がそんなことを呟いた。
華子の目が、燃えているように見えた英太はハッとする。彼女がなによりも尊敬している大人、その彼女をあんなに哀しい目にあわせた男は許さないとでも言いたそうな眼であることに英太は気が付いたのだ。
「やめとけ。一晩中話し合ったということは、別れる決意を固めている春美を男が引き留めていたってことだろ。当人同士の問題だ。部外者の俺達が首を突っ込んでへんにこじれさせるのは、これから闘病生活を始める春には精神的にダメージだ」
そういうと、華子の眼の力がふっと緩んだ。
「……それも、そうだね」
華子自身もとりあえず、納得したようだ。
「まだ強く惹かれ合っているなら、春からでも、男からでも、また連絡するだろう」
「じゃあ。その男性から連絡があったら取り次いだ方が良い?」
「とりあえず、春が言うとおりに『いない』と言って、春には連絡があった事だけ伝えておけよ」
華子が分かったと頷いた。
(参ったな。俺の話をするどころじゃなくなったな……)
英太はそう思った。
『俺、小笠原の新しいフライトに転属したいんだ。いいかな……』
その相談に来たはずなのに。とてもじゃないが、今の叔母に相談できる状態ではないと思った。いや、話せば叔母は親身になって聞いてくれると思う、『無理をして、笑顔で』。その無理をして欲しくないから、英太は言えなくなってしまったのだ。
「華、ちょっと外に行かないか」
「で、でも……」
帰ってきたばかりの叔母を一人にすることが華子は心配のようで、叔母が消えていった彼女の部屋のドアを何度も振り返る。
「すぐそこの、カフェでほんの三十分でいいんだ」
「ここじゃ駄目なの」
「駄目だ。でもお前にだけは言っておきたいから……」
そういうと華子は『わかった』と承諾し、素早く身支度を済ませ、英太と一緒に外に出てくれた。
叔母が男性と付き合うだなんて話は、初めて耳にした。
今まで密かに付き合っている男性がいたとしても、結婚に至らなかったということは、上手くいかずに終わっていたと言う事なのだろう。
しかし、英太が思い返すに、叔母に男の影を感じた事は一度もない。
英太は成人式を迎えた時、叔母に言った。『春だって、もう結婚してもいいと思うんだ。俺の事を気にしないでくれ』と──。
でも叔母は今まで通りに淡々と勤めに通う日々をこなしていた。
せっかくの新しい春。彼女の、女性としての春。すぐそこにやってきていたと言うのに……。どうして? 病魔に邪魔される事に? 彼女ほど頑張って、子供の英太や華子に尽くしてきてくれた母性溢れる女性はいないと思う! なのに。
『美しい春』と名付けられた人なのに。どうして若叔母の彼女がこれだけ苦労しなくてはいけないのだろう?
それとも、名前として春を司ってしまったから、もう春は必要ないと空に思われてしまったのか……。
全ては自分を施設にやらずに、引き取ってくれたからなのだろうか? そうなのだろうか?
英太は苛む。そして、力無い自分を口惜しく思う。
ただパイロットと言うだけで、叔母に恩返しは出来るのだろうか……。
・・・◇・◇・◇・・・
「俺、『雷神』っていうフライトチームに誘われたんだ」
「ふうん。そうなんだ」
ティーカップを片手に紅茶をすすっている華子は、春美の元にすぐに戻りたいようで英太の話には酷く無関心な反応だった。
英太はマンション側にあるカフェで、『小笠原のフライトに誘われた』という話を華子に報告をした。
それがパイロットの間では最高のフライトチームである『雷神』への大抜擢だということも。すると華子はそれを聞いてやっと驚いた顔になった。
「それって、『トップチーム』ってこと!? ナンバーワンのチームってこと!?」
「トップというか俺達は『エースチーム』って呼んでいるんだ。一番はシアトルになるんだけれどな。そのチームを仕切っているシアトル湾岸部隊の空部隊長の愛弟子っていう若い将軍が小笠原にいて、そこにのれんわけで『第二チーム』があるんだ。まあ、言ってみれば、今の日本でひとつしかない『チーム』ってことだな」
「す、すごいじゃない……! 英太が意地悪ばかりされていたのも、やっぱり『才能を妬んでいた』からだったんだよ! 上はちゃんと見ていたじゃない!!」
『上はちゃんと見てくれている』、『真面目にやっていればいつか報われる』──そんな綺麗事のような言葉を一番信じていないはずの華子が、そんな言葉を口走ったので、英太はちょっと驚いた。
だが、華子はとても興奮していた。嬉しそうに……。そして、彼女は迷わずに言ってくれた。
「行くべきだよ、英太! そんなチャンス、パイロットの間でも滅多にないんでしょ! なにを迷っているの!!」
「いや、春美がさあ……。あんな身体なのに俺だけ離島には……ちょっとなあ」
そしてその離島に行かないと言う決断をしたならば、横須賀基地も出ていく……つまりパイロットを辞めるんだと英太は言おうとして……。やはり、どうしてか言えなかった。
だが華子は『きっと春ちゃんも後押しをする』と、言い切ってくれた。
いや、英太も分かっている。
話せば、春美も華子も『英太はパイロットが一番。せっかくなれたのだからこのまま頑張れ』と何においても後押しをしてくれると……。なのに、分かっていて、英太はその言葉を聞きに来てしまったのだろうか。今でも、どこか心から素直に小笠原に突っ走れないこの迷いはなんなのか。
「でも。春美に何かあったら、俺は直ぐには帰ってこられない離島に行ってしまうんだぞ」
それでも、いいのか。と、英太は言ってみるのだが。目の前で紅茶を味わっていた華子が、ソーサーにかちんとティーカップを強く置いた。彼女のその顔は怒っていた。
「それってなあに。華子は他人だから、春の事は任せられないってこと!?」
「いや、そうじゃなくて。お前と二人で春美を支えるどころか、お前一人の負担になるって言っているんだ」
「英太がいなくても、きっと一人やっているわよ!! それぐらい私が春ちゃんの事を本当のお姉さんだと思っているのを知っていて言っているの!?」
華子の声が店内に響き渡った。
周りの客が二人の席へと視線を向けるので、英太は『まあまあ』と憤る華子をなんとかなだめた。
「お前のその気持ちは良く分かっている。それを分かって言っているんだよ」
「行きなさいよ! 小笠原に!! ここで引き下がってみなさいよ。春ちゃんが『私のせいで、英太のパイロットとして最高の道を閉ざした』とどれだけ気に病むと思っているの!?」
華子のその一言に、英太はハッとさせられる。
「それって春ちゃんを悲しませることじゃないの? 私もだよ。私はパイロットの英太でいて欲しいもん! なんでそんなすごい話を直ぐに言わないのよ!?」
華子は怒っていたが、徐々にその表情が嬉しそうに輝いてきた。
「やっぱり! 英太ってパイロットが天職だったんだね。その将軍様、見る目あるじゃん!!」
女なんだけれどなと、英太は心で呟くだけにしておいた。
「そうとなったら、早く帰ろう! 春ちゃんも絶対に喜ぶって。昨夜のご馳走、今から食べよう。ね!」
自分の事のように喜んでくれる華子に、英太は強引に手を引っ張られ店の外に連れ出された。
参ったな。まだどこか迷っているのだけれど。
しかし、きっと……叔母が喜んでくれる顔を見てしまったら、英太の心は完全にコックピットに戻ってしまう気がした。
叔母ことだ、きっと『私は大丈夫。行きなさい』と言ってくれるだろう。
やはり、自分はこの二人の家族の為に、もう一度、自分が出来る事で頑張らなくてはいけないと、英太は思った。
華子が言ったとおりに、『エースチームに大抜擢された』と報告すると叔母の春美も先ほどの哀しみもどこへやら。非常に喜んでくれた。
「まあ! 英太があの小笠原に? そこで一番のチームのパイロットに選ばれたの?」
「まだ返事をしていないけれどな」
「だったら、明日。すぐにお返事しなさい」
治療が始まると言ってもまだ通院の段階。手術の時には英太もちゃんと頼るからと、叔母は英太が安心するように諭してくれる。
叔母はまだ落ち込んだ顔を見せるけれど、華子と一緒にいつもの暖かい笑顔を浮かべ、テキパキとご馳走の準備をしてくれる。
叔母の春美と華子がエプロンをつけ合ってキッチンに並ぶ姿。そしてふんわりと漂ってくる料理の匂い。英太はそれに包まれて、決意する。
明日、返事を待っている長沼に言おう。
『俺、小笠原に行きます』──と。
パイロットでいることで、この二人の女性を守っていけるように、『もう一度』新しい基地で踏ん張ろう。
新しい日々を、英太は決意していた。
・・・◇・◇・◇・・・
月曜日──。また基地にいつもの活気が戻った。
「あれ、吉田はまだなのか」
出勤をし始業前、科長席に座った隼人の目の前にいるはずの『一番補佐』がいなかった。
周りの青年達に、なにか連絡を受けていないかという目線を送ったのだが、誰も知らないようで彼等も顔を見合わせていた。
こんなことは初めてだった。……と、言っても若い頃の彼女もミスはしょっちゅうだったし、どこか抜けているところもあった。だが小夜のすごいところは失敗したことは必ず糧にして成果へと繋げていくところ。だから隼人は彼女のその『ガッツ』を評価して自分の手元で育ててきたのだ。
そんな小夜は今ではこの科長室の一番補佐官で、隼人の秘書と言っても良かった。だから今ここにいる青年達は、皆、小夜の部下でもあった。失敗も稀になってきた小夜は立派なキャリアウーマンに成長し、彼等からは『吉田女史』と呼ばれていた。逆にその隼人譲りのシビアな指導に彼等は影で『ハイミスのお局様』と呼んでいる。小夜も密かに知っているがへっちゃらのようだった。
そこまで若い男達にも恐れられるようになった小夜が、連絡なしで出勤していないことが、今では『有り得ない』のだ。
悶々と彼女の出勤を待っている隼人だったのだが、ついに始業を知らせるラッパが基地中に鳴り響いてしまった。
「遅くなりました。おはようございます」
そのラッパ放送と同時に工学科科長室のドアが開き、そこから小夜がいつもの凛とした制服姿で現れた。
「遅かったな……! 心配したじゃないか」
遅刻に等しい補佐官の出勤。本当なら怒るところだが、隼人は心配する顔で出迎えてしまっていた。
それだけ、小夜がいないと今の工学科科長室は立ちゆかないのだ。それは青年達も同じようで、小夜がいないと自分達の手に余る仕事が降りかかってくるのでホッとしたようだった。
「申し訳ありません。私とした事が……とんだ失態を」
だが、小夜の顔色が冴えない事に隼人は気が付いた。
まだドアの前で申し訳なさそうに立っているだけの小夜のもとへと隼人は歩み寄り、まだ気分が悪そうな小夜の肩を抱いた。
「ど、どうした。具合が悪いなら、早めに連絡をしてくれたなら、無理に出勤をしなくても良いと許可するのに」
「いえ……。ええ、その、急に気分が悪くなったのは本当なのですけれど。そこの廊下で少し……休んでいたものですから」
「なんだ。もう、今日はいいぞ」
しかし、今や責任感は人一倍強いお局様になった小夜は頑なに首を振った。
「あの、御園科長。お話が……」
「あ、ああ。なんだ」
小夜がいつものように自分のデスクにバッグを置くと、そのまま科長席の前へと姿勢を正し立った。
その立ち姿は、毎朝、隼人にスケジュールを報告してくれる秘書の姿そのもので、やはり肝心な時はきっちりとした顔に姿勢が保てる小夜に隼人はホッとしたほど。だから、隼人もいつもどおりに科長席に座って、補佐である『吉田大尉』を見上げた。
「なんだい、話とは」
「プライベートなことで大変申し訳ないのですが」
「うん。……どこか、調子悪いのか?」
昨日、彼女の恋人であるテッドがこの科長室を訪ねてきた時には『暢気に昼寝をしていた』と幸せそうな顔で教えてくれたのに。もしや、それこそ体調が悪くて横になっていたのかと隼人は徐々に不安になってくる。
今、彼女が抜けてしまったら、この科長室では大きな損失だった。彼女の穴を埋められる者など今のところいない……。
「あの、これからご迷惑をかけてしまうので、科長には報告しておきますね」
「……ご迷惑って……」
やっぱりどこか悪いのかと隼人は青ざめた。
そして小夜も、また気分悪そうに握りしめていたハンカチを口元に押し当て黙ってしまう。
「よ、吉田。お前、医療センターでちゃんと検査してもらったのか!?」
「は、はい。しました。土曜の午前中に開いていましたから、診察してもらって」
そ、それで!? まだ若いお前に何が起きたと言うんだ!
デスクに手をついて、隼人は今にも立ち上がって叫びそうになったのだが……!
「あの、彼との子供が……」
「なに!?」
隼人の頭が真っ白になり、何もかもが停止した。
小夜の背後にいる青年達もぎょっとした顔を揃えて、隼人の科長席へと視線を集めた。
「それで、私達。ずっと前から『子供が出来たら結婚する』と決めていたので、その……近々、結婚式も……することになって」
「そ、それ……ほ、ほんとうなのか……っ!?」
ハンカチで口元を押さえている小夜が、頬をほんのりと染めてこっくりと頷いた。
もう、その顔ったら……。昔の可愛いOLお嬢さんだった小夜とはまったく異なる、三十半ばのキャリアウーマンが見せる色っぽい可愛さというのだろうか。隼人は思わず、しっとりと恥ずかしがっている小夜の顔に見とれてしまったほど。
「吉田さん、それ、まじっすか!」
「うっわ! ラングラー中佐もパパになるんすね! それってビッグニュース!!」
「俺達も結婚式、誘ってくださいよ!!」
科長室の青年達がわあっと騒いだので、小夜が益々赤くなってしまった。
時には小夜に怒鳴られている青年達。『流石、鬼中佐の女』と口悪言う事もある彼等だが、本当は小夜に大事に育ててもらっているという意識があったのだなと、隼人は彼女を慕っている様を見せてくれる青年達を見て、自分もやっと微笑んでいた。
「吉田。やったな! おめでとう!!」
隼人は小夜の肩を叩いて、祝福した。
そして小夜の顔がやっと、昔からの変わらぬ可愛い女の子の顔を見せてくれる。だが彼女の瞳が涙で潤んでいた。
「有難うございます。隼人さん。私……『サワムラ大佐』に報告して喜んでもらえる事、夢だったので」
「ああ、もう……。なんか妹が嫁に行く気分だよ」
なんだか冗談抜きで隼人までじんわりと涙が……。
「そうだ。そうとなったら、俺達で『おめでとうパーティー』をしてやるからな」
滲み出そうな涙を誤魔化す為に、隼人は受話器へと手を伸ばそうとした。これから妻にも連絡をする為に……。
「俺と葉月の島での結婚式をプロデュースしてくれた吉田なんだ。俺達もお返しをする日を楽しみに待っていたんだから、嫌だとは言わせないぞ」
「そうですか。……では、お言葉に甘えて、楽しみにしています」
小夜の幸せそうな笑顔がやっと輝く。
なるほど。昨日小夜のことを聞いた時に、テッドがどことなく幸せそうな顔を見せてくれたのはそう言う事だったかと隼人は振り返る。
さて、そうと決まれば、今から妻やら友人同僚達に知らせて、準備をしようじゃないかと、隼人が内線の受話器に触れた途端だった。科長席の内線電話が隼人が同じように使おうとしているのを分かっていたかのように鳴ったのだ。
そして隼人はにんまりと笑う。かかってきた相手が誰だか分かったからだ。
受話器を取って耳に当てると、思っていた通りの声が聞こえてきた。
『貴方! 聞いた!?』
准将室にいる妻からだった。
きっと向こうでも、小夜の夫になるテッドが報告したのだろう。
「聞いた、聞いた! 今度の日曜日は、お祝いだぞ!」
『それ、私も同じこと考えていたの! 絶対にお祝いよね!』
「当然だ。俺がメンバーに連絡するから、お前にもあとで報告する」
葉月も嬉しそうだった。
その声は、決して、ミセス准将ではない、古い知人だけが知っている『お嬢』の声だった。
どうやら、案じていた妹分にしっかりと春が来たようで、隼人は春の雲が漂う空に微笑んでいた。
Update/2008.5.10