「まったく。ギリギリに来るだなんて、お前らしいな。早く座れよ」
いつもの如く、彼はどんな時も『妙に優しい笑顔』で悠々としている。
彼に言われるまま、英太は不本意に思いながら隣の席に落ち着いた。
「今週の帰省も、叔母さんの所へ?」
「はい。そうです」
既に叔母の事情を知っている『御園隼人大佐』。
彼は英太が見舞いの帰りだとを知り、小さく溜息をついた。
「そうか。大変だな」
「行かないと気がかりだし……」
「だよな。千葉だったよな。ホスピスがあるのは」
英太はこっくりと頷く。
また隣の大佐は、英太のしぼみそうな心に同調するかのように表情を曇らせた。事情を知っているとはいえ、叔母の事など少しも知らない彼に、そんな顔をされても困る。
「でも。元気でしたから。元気に話してくれましたから」
だから英太は『叔母に会えて楽しかった』と伝えた。すると隣にいる大佐は、いつもの柔和な笑顔に戻る。
「そうか。それは良かった。つつがなく日々を過ごす事ができると良いと祈っているよ」
ありきたりな言葉に聞こえるが、彼が笑顔で言うとそうは聞こえないから不思議だと、英太はいつも思う。
この人の笑顔はそんな不思議なものがある……。
暫くして、機体が動き出す。離陸する滑走路へと位置に着く機体。その機体が横須賀基地の港を横目に助走を始める。瞬く間に空へと機首を上げ、座っている英太の身体も後ろへを傾く。
その間、隣の御園大佐は窓からじいっと空を見ていた。
いつもその横顔を見て思う。いつもその彼の黒い眼を見て思う。その顔でその眼で、いつでも『あの彼女』を見ているのだと。そしてその視線の中には必ず『空の彼女』がいるのだと。そして『彼女』もそこにずっといて、そこから動かないしそこから消えようとはしないのだ。いつだってこの黒い眼の男性の中にいる……。そして隣の男性もそこから彼女を離さない。その眼差しで離さない。だから彼女もそこにいる。
今もきっと。窓辺に見える青空の中に、くっきり鮮やかに『彼女』が見えているはず。彼だけの女性が。
そう思うと、胸が締め付けられる。
どうしようもないことだ。
この隣にいる男性は、英太が恋焦がれている女性の『夫』だ。
二人の夫妻愛は有名だった。『あの二人はどんなに離れても繋がっている。離れているほど引き合う、決して切れない糸で結ばれている』といつだって噂されている。
彼女が死にそうになった時、傍にいた男。彼女が消えそうになった時、傍についていた男。どんな時でも彼女の傍にいる事ができる男。だから彼女が遠く離れている時でも、彼女の中には確実に彼が夫がいる。どこか遠くへ出ていっても、彼女は必ず彼の元に帰ってくるのだと──。誘惑など皆無。そんな者が現れたのなら、よほどの大馬鹿者か、奇跡が起きれば『澤村』を超える強者だ。それでもと思うやつは玉砕覚悟で散ってみればいい──。周りの中年隊員達が特に男達がそう言うほどに、決して誰も真似ができないことを『澤村隼人』という男は成し遂げた──。男性女性に限らず、御園夫妻と同世代である隊員は皆口々にそう言うのだ。
でも、英太や若い同世代の隊員達にとっては、その噂については『強い妻が、負けている夫を従えているだけ。決して切れない糸で結ばれているだなんて大袈裟な喩え』と言ったところなのだ。
少し前までの英太もそう思っていた。『なにが決して切れない糸で結ばれているだ。あの冷たい女にそんなことあるものか』と。だが、今の英太には解る。
英太は知っている。この隣の男性が、どれだけ彼女の為に己の全てをかけて結婚したかを……。知ってしまったのだ。
上空で機体が水平に落ち着くと、隣の大佐は黙々と文庫本を読みふける。
何を読んでいるのか。覗いてみたが、よく分からなかった。活字がぎっしり詰まっているだけで、英太は顔を背けたくなる。本は好きじゃない。
だが御園大佐は始終無言で読んでいる。ページが進むのも早い、しかも息継ぎなし。隣にいるだけでその集中力の熱気にやられてしまいそうで、英太は通路側に顔を向ける。向きたくないのに向かされているような、それほどの迫力を隣の静かな男性の読書姿から感じずにいられなかった。
二人並ぶシートはそんな雰囲気だから、英太は汗をかいてしまった。
ライトグレーのジャケットを脱いで、黒いネクタイも緩め、ワイシャツのボタンをひとつふたつ開けた。
そこでやっと隣の男性が、はたと英太を見た。
「暑いか? おかしいな。俺はそう感じないけれどなあ」
そりゃあ。そちらはマイペースなのだからそうでしょうねと言いたいところだが、英太は言わない。
なのに彼は、ワイシャツのボタンを緩めた英太を不思議そうに見ている。
「な、なんすか。通路側だから暑いんですよ」
いつまでも英太をじいっと見ている。
彼のその真っ直ぐな眼が怖い。彼は英太には見えないもの、気が付かないものを良く見抜く。そんな時、英太は一溜まりもない状態に追い込まれるのだ。その前触れ! ただでさえ、息が詰まりそうな集中力を見せつけられて汗をかいているというのに、隣の『おっさん』が、さらに汗をかくような『意地悪』を言った。
「なに。叔母さんのお見舞いには女性連れ?」
英太はドキリと胸を押さえたくなる。
何故? 幼馴染みとは言え、女性の華子と一緒だった事を見抜かれたのか??
香水か! そうだ。華子は甘い香水をいつもつけている。それがシャツに移っていたかと英太は自分が着ているワイシャツの匂いを嗅ぎたくなったが堪える。だが、『原因』はそれではないことを彼が機内の中で声が響かないよう小声で知らせてくれる。
「首に歯形が付いている。可愛い形だけれど、激しい女の子だったんだな」
思わず──。今度の英太は、思わず! 首元を手で隠してしまった。
覚えがある。華子が『英太、最低』と言ったあの時だ。英太が果ててすっかり腑抜けになってしまった隙に『がぶり』と噛みつかれたのを覚えている。しかもその後も『がぶがぶ』と数回、華子は楽しそうにかじりついていた。
キスマークならともかく。歯形なんてものが彼の目で見えているのなら、それはからかいでもなんでもなくきちんと見えているのだと分かり、首元を隠した英太の顔はかあっと熱く火照ってしまった。当然、身体の温度も急上昇。そんな英太を御園大佐は静かな表情で見ているが、目は笑っている。なにか勝ち誇ったようにも見えてしまう英太。
そんな大佐の顔を見ると、英太はいつも腹立たしくなる。
(くっそうー。このおっさんは、いつもこうだ)
出会った時からそうだ。
この『おっさん』は、いつだって英太の上に立って優位な立場で、英太を見下ろしている。しらっと言いのけて、笑っていない涼しい顔がまた腹立たしい。そして彼が密かに英太が焦る姿を楽しんでいるのも分かる。今もまさにそれ。
その上、御園大佐は英太に追い打ちをかけてきた。しかも今度は『とどめ』だ!
「お前、うちの奥さんにベタ惚れのくせに。休みはそうして女の子と遊ぶんだな」
『うちの奥さんにベタ惚れ』──。
英太はこの一言で、汗が全身ばあっと噴き出した。
「うちの奥さんへの気持ち、その程度だったのか?」
さらなる追い打ち。しかも完全に英太の本心を煽っている。「だ、誰が。あのオバさんを好きだって言うんだよっ。違うっていつも言っているだろ!」
「声、大きいぞ」
実際に小さな声で言い返していたはずなのに、そう言われてしまえば急速にひやっと汗が引き、英太は辺りを見渡した。そこを待ち構えていたのか、出来た隙に御園大佐がすかさず発言権をねじ込んできた。
「ムキになるほど怪しい。その歯形、うちの奥さんに見られたらお前、なんて言える? 『恋人が〜』と言えるのか。葉月さんには気がありませんと言っているようなものじゃないか。お前、そう思われてもいいのか? なんなら俺が噛んだって言ってやろうか?」
また澄ました顔で、そんなことを言う。それってどんな言い訳!? 旦那さんに噛まれただなんて変な意味で怪しく見られたりして!? そうじゃない。なんで俺が歯形を見られて葉月さんに言い訳しなくちゃいけなんだよ!?
そう言いたいのに、いちいち英太がびっくりするようなつっこみをしてくるオジサンの手強さに、最後にはいつも絶句させられる。
どこまで本気で言ってくれていて、どこまでが英太をからかう為のお遊びなのか分からない。しかも余裕の顔。いつだって半々まぜこぜにして英太を翻弄する『おっさん』。その『おっさん』に懸命に否定はするものの、実際にはもうなにもかもばれている状態だった。
「若いな。そんなところに跡を残すなよ」
英太は項垂れる。そしてちょっと思う。──ああ、そうか。おっさんは、こんなところには残さないし、奥さんの首元にも残さないようにしているんだと──。
彼と向き合っていると、直ぐにこんな想像だってしてしまう。
そこで英太はいつも泣きたくなる──。
いつだって彼の向こうに彼女が見えてしまう。そして彼は彼女の前からどいてくれることはない。彼もまた、英太から逃げることなく真っ正面から見据えている。
実はこの『おっさん』が一番怖い。おっさんのその眼も英太を離さない。妻とはまた違う眼。
彼はその眼で英太をよく見ている。葉月への気持ちをほのめかした事もないし、口を滑らせたこと事もないし、様子を見せた覚えもない。なのに英太の本心、このおじさんはいつだって鷲づかみ。
しかも、ただのおじさんならいいのに、恋に恋焦がれている女性の『夫』。その『夫』に最大の弱点を握られ、英太はいつも旦那さんに弄ばれているのだ。
これって奥さんに好意を寄せている事を知った旦那側の『復讐』!? 大袈裟だが、そう思ってしまいたくなる。
それほどに、この大佐にはいつも『苛められている』のだ。
やがて着陸態勢に入り、御園大佐は英太をいじくるのをやっとやめてくれ、手にしていた文庫本を閉じた。
窓から見える下界は、珊瑚礁の海。
そして英太が毎日飛んでいる青い空。そして今ここでは匂わないはずの、強い潮の匂いが英太の鼻の奥で蘇る。
今、英太が全身全霊を傾けている『居場所』だった。
生き甲斐と言っても良い。この身体を心を空に投げ出す時、英太は最高に輝いている気持ちになれる。
そしてその空を飛んでいる時、彼女は俺を必ず見てくれている。
空を飛んでいる限り、彼女は俺をちゃんと見ている。
ただ飛ぶだけでも英太は燃えていたのに、彼女と出会ってからそれ以上の生き甲斐を英太に与えた。空を飛ぶ事は英太の全てへと変えられていった。
また明日から、この空を飛ぶんだ。
英太も空を見据える。
英太の視線の先にも、彼女がいる。
ただ、彼女はそこに居たり消えたりを繰り返している。
決して、英太には捕まらない。そんな女性……。
機体が降下する。着陸態勢に入った中、隣の席の『旦那』が言った。
「そりゃな。独身のお前がなにしようが勝手だ。だが、いい加減な事はするなよ」
今度の『隼人おじさん』は真顔だった。
だから英太も突き返す。
「いい加減な事じゃない。俺には俺の問題があるんだ」
何も知らないのはそっちだ。
こんな時にそうやって大人の常識を押しつけやがって。英太はむくれた。
華子のこと、何も知らないくせに。
華子と俺の事。俺達と春美叔母のこと。何も知らないくせに。
俺には俺の関係があるのに。俺には俺の生きてきた道がある。
普通に歩いてきた呑気な人間とは違うんだ。
前なら有無を言わさず、真っ当すぎるだけの常識を押しつけた人間には真っ向からこれらの文句を投げつけ、飛びかかっていた。
でも、今はそれはしない。……何故なら、隣の男がどれだけのものを乗り越えてきたかを知っているからだ。
彼に言われても未だに腹は立つけれど、もう飛びかかる事はしない。今の英太はそこで踏みとどまって考える事ができようになった。
「安心してくれよ。女を傷つけるような適当なことだけはしていない」
「そうか」
落ち着いた大人の横顔。二児の父親の顔だった。つまりはそんな心配を英太にも寄せてくれているのか……。奥さんが好きなのに、若い女とも情事を交わす。それを知った御園大佐が僅かに眉間に皺を寄せている。複雑そうな表情に見えるのは気のせいなのだろうか……。
彼はもう何も言わなかった。
・・・◇・◇・◇・・・
小笠原基地の滑走路に無事着陸した機体から、御園大佐と共に滑走路へと降りる。
警備口でIDチェックを済ませゲートを抜けた。
「じゃあ、お疲れ」
いつもの笑顔で、アタッシュケースを片手に御園大佐が手を振ってくれる。
英太も『お疲れ様』と会釈をして背を向けた。
彼はきっと自宅へ。英太は基地内の宿舎へ。それぞれの帰る場所へと向かう。
英太はふと御園大佐の背へと振り返ってしまう。──週末の出張から帰った夫。家では妻が帰りを待ち構えているのだろうか。日曜の夜、やはり夫妻仲睦まじい夜を過ごすのだろう。そして夜が更けたら……。そんな想いで恋する人の夫の背を眺める。
そんな御園大佐の背を眺めていると、彼の携帯電話が急に鳴った。すかさず電話に出る御園大佐。
「あ、葉月。うん、ただいま。窓から見ていた? ああ、じゃあ准将室にいるのか」
その会話が聞こえ、英太の歩く足は止まった。
「そうなんだ。分かった。適当にしておくよ。……いいや、気にするなよ。構わない」
御園大佐の顔が優しく緩む。
仕事から帰ってきて、妻からの声。きっと嬉しいのだろう?
基地では、訓練の甲板でも、絶対にあんな顔はしない男性。だけれど英太は知っている。
彼とは、つまり、割と親しくしてもらっているからだ。真っ正面から向き合ってくれる御園大佐と関わっているうちに、彼の『夫としての顔』も『男としての顔』も『大佐の顔』も『父親の顔』も、全部見せてもらってきた。
だから、なおさらに『弱い』と言っても良かった……。
ああ、それにしても。電話の向こう。声だけでも聞こえないだろうか。
それだけで、英太はドキドキと胸が高鳴ってしまう。
あの声を聞きたい。甲板では低い声で男達を威嚇しているが、互いに一人きり、一対一で向き合った時、彼女は時にはとてつもなく柔らかい声を聞かせてくれる。英太にだけ、特別な? いや英太にとって特別なだけなのだと分かっているのだが。
でも、その声すらもそこにいる御園大佐のものなのだ。
彼が電話を切った。
あるはずもない事。声が少しでも聞こえないかなんて、妙なチャンスを望んでいる自分に馬鹿馬鹿しさを感じてしまった。だからそこに見切りをつけて歩き出したのだが、今度は英太の背を呼ぶ声が聞こえた。
「おい、英太」
振り返ると電話を切った御園大佐が呼んでいる。
目が合うと、彼がにっこりと笑った。
「ラーメン、食いに行かないか。おごるぞー」
英太は目を丸くする。
「は、葉月さんは?」
「いつものことだよ。准将室で仕事、仕事。夕飯はなしってことだよ」
なんか。申し訳ないけれど、ちょっとほっとしたり?
「行くのかよ。行かないのかよ。送迎付だぞ、大佐様の車で」
「行く」
英太は即答し、隼人のもとへ駆け寄った。
「なにが大佐様の車だよ。隼人さんの車、ファミリーカーじゃん」
「当たり前だろ。あ、お前。奥さんの赤い車に乗りたいんだろ」
「そんなこと、いつ言ったんだよ? 本当に、そういうのやめてくんない?」
機内では周りは殆どが軍人。しかも隼人が知らなくても、誰もが『御園大佐』を知っているから。だから互いに軍人の顔で接していた。
だが、今からは互いに『日曜の夜』へと解禁だ。
駐車場に共に向かうのも、慣れていた。
これが初めてではない。むしろ……頻繁かもしれなかった。
そして会話も話題も、困る事はない。
「葉月さん。相変わらずだな」
「まあな。俺はいいんだけれどねー」
妻の方がお偉いさん。しかもお嬢様。彼は婿養子。妻に負けていると後ろ指をさされるようなことを言われている事を英太も聞いた事がある。
でも英太はそうは思わない。確かに恋する女性の間にしっかりと立って、英太の心を阻んでいる『勝てるはずのない大人の男性』で『彼女の夫』ではあるのだが……。でも英太は彼を立派な男性だと思っている。
「カイも寂しがっているんじゃないのかな」
「直ぐ帰る。海野の家で晃と一緒にいるらしい」
何故か、彼の、いや彼女の子供の事も良く知っていた。しかも隣に住まう『海野陸部隊長』の息子とまで顔見知り。
「お嬢ちゃんは元気なのかよ」
ひとつだけ。この小笠原に来て叶っていない事がある。
彼の娘を見た事がないのだ。
「フランスで元気にやっているよ」
「小さいのに良く見送ったよな。流石、隼人さんというか……」
彼は既に娘を手放していた。
娘自身が『チェロを弾きたい』と、物心付いた頃から言い出したらしく、音楽の道に進ませる為に葉月の従兄に預けたのだとか。本島でのレッスン通いを経て、母親の従兄夫妻のバックアップで、まだ十歳にもならないのに海外へと拠点を変えたらしい。
それは娘が望んだ事だからと隼人はいつも言うが、それでも少し寂しそうな顔をする。
「一度も会った事がないんだもんなー。杏奈ちゃん」
「そのうちに会えるだろう」
「海人と晃と一緒に、杏奈ちゃんも釣りとか行ったりするのかな」
「するする。ここにいた頃は、兄貴二人の後をずうっとひっついて何処でも行って何でも真似したがっていたんだ」
短かった娘との生活を思い出す隼人の顔が輝き出す。
それを見ると、英太は和んでしまう。
恋をしている人の夫なのだけれど。
恋をしている人の家族と、恋とは別の次元で妙に親しくなってしまったのだ。
もしかすると──。この小笠原で誰と一番親しいかと言われたら、ぱっと思いつくのは『隼人さん』かもしれなかった。
隼人が通勤に使っている白いスポーツワゴン車に乗り込む。
この車にも何度も乗った。この『隼人さん』とは、なんと言おうか、『男付き合い』なのだ。暇があると彼が『釣りに行こう』とか『飯食いに行こう』と誘ってくれる。だからと言ってわざわざ携帯に電話してくるというような親密さでもない。というか、互いの携帯の番号は知らない。顔を見た時に、その余裕があった時に、互いの時間があった時。隼人がふと誘い、英太がそれに付いていくという形。なのにそれが見事に上手く重なるのだ。
そうしているうちにこんなに親しくなってしまい、彼の息子とも海野の長男ともすっかり顔なじみになってしまった。
だけれど──。この人の家を訪ねた事はない。
当然か。隼人は英太の本心、恋心を知っているし、英太も余程の勇気がなければ、恋している人が愛を紡いでいる家など見る気が起きない。好奇心があっても、目の当たりにする決意はまだできていない。
それに畏れ多くも、ボス准将の、将軍様の自宅だ。彼女のブレーンでなくては出入りは出来ないだろう。
英太のような小僧や若い世代の隊員には決して踏み入れる事のない、さらには滅多に招待はされない彼女と彼の自宅、プライベートハウスだ。
だから隼人とは本当に『個人的な付き合い』なのだ。
その延長に、個人的に付き合っている先輩が子供を連れてくるだけのこと。
そこに『葉月さん』は関わっていない。
恋敵のはずの旦那とは、こんなに親しくて。なのに恋焦がれている妻の方とはまったくもって仕事以外では縁がない。
同じ家族と付き合っていても、葉月という女性はずうっと遠くにいる。
近くに感じられるのは、空母甲板と空を飛んでいる時だ。
『英太。もっと高く飛んで』
ヘルメットの無線から聞こえる低くて甘い声。
それを耳にして英太はスロットルを握りしめる。
そしてその声を胸に上空を切り裂く──。
『貴方は私の代わりに飛ぶのよ。分かるわね、私が言いたい事──』
どこか強制的で、押しつけがましく高飛車に見えた。でも彼女の言うとおり空を飛んだ時、どうしてか彼女の言葉と気持ちと英太の翼が赴く方向が一致する感覚がしばしば起こる。
その時の英太の高揚感は言葉では例えようがないほどに、燃える、輝く、そして最高の充実感。
明日になれば、また彼女の声が英太を呼ぶ。
『英太、英太、英太──』
いつもこだましていた。
その為に、英太は飛んでいる。
彼女の為。以上に、己の為に。
隼人の車は基地を出て直ぐの峠道を抜けて、向こう側の漁村へとたどり着く。
ラーメンと言えば、あそこしかないだろう。
今日も漁港の片隅で、ぽつんと明かりを灯している屋台が見える。隼人はそこで車を停めた。
赤い提灯に『なぎ』の筆文字。
春先の夜風に揺れている。
カウンターには、タオルはちまきにジャージ姿の大将。車から二人揃って降りると、大将が『よう』といつもの威勢の良い声で挨拶をしてくれた。
「まーた二人で来たな!」
「そーなんだよ。横須賀からの便で席が隣だったんだ。どこまでこの『わんこ君』は俺にひっついてくることやら」
いつからか隼人には『わんこ君』と言われている。
「誰が『わんこ君』だよっ。その言い方もやめてくれって言っているだろ、『おっさん』。席が隣だったのも偶然じゃないか!」
「おーよしよし。今日も『英太わんこ君』は、隼人パパにくっついて『餌』をもらいにきたのか。いいぞ。おじさんが、うーんと美味いラーメンをつくってやるからな」
「大将まで、いい加減にしてくれよな」
隼人がよくご馳走してくれるのは嬉しい事なのだが、行く先々で『わんこ扱い』をされてしまう。この屋台に来る時が一番、質が悪い。なにせこの『おっさん達』がほんっとうに質が悪いのだ。
『おっさん達』は隼人と大将だけじゃない。時々、隼人の義兄である黒いスーツのオジサンもやってきて、その彼が結構しつこい。『お前、俺の義妹に変な事をしたら許さないぞ』と隼人さんよりもムキになる。今夜は来ていないようでホッとした。
ラーメンが出てきて、二人で割り箸を手にすると、隼人は英太の心を見透かしたように言った。
「うちの義兄さんが来ていなくて良かったな。お前、その歯形を見つけられたら、『いい加減なことが平気で出来る男に義妹を好いて欲しくない。二度と俺には顔を見せるな』と説教される。しかも、しつこくな」
うー、俺も思ったよ。と、英太は胸をなで下ろす。
それにしても。この『おっさん達』、ひどく矛盾している。
どっちも『葉月さん』をとてつもなく愛しているようなのに、夫と義兄の仲はそれを挟んで最強の絆を持っているらしいし、英太もそう感じている。
その上、この若僧が『奥さんが好き。義妹さんが好き』と公言していなくても既に見抜かれていて、その上で『別にいいんじゃない。好きなのは仕方がないだろう』と平然として受け入れてくれているのだ。その分、それを牽制するような大人の意地悪も頻繁だった。そこはまあ仕方があるまい。これはこの大人の男達が『同じ女性を想う男』として対等に見てくれているからこその態度なのだと、英太も理解しているつもりだった。
この二年で、ここまでの関係になっていた。
それにしても、不思議で変なおじさん達だった。
もっと邪険にされるはずなのに。
それともこれが大人の男? まさか──と、英太は思うのだが?
Update/2008.4.3