-- プロローグ/恋するパイロット --

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4.妻、夜の匂い

 

 白い自宅に戻ると、当然の如く真っ暗だった。
 隼人は一人、玄関の明かりをつける。

 週末に本島へ出向く事は近頃は頻繁だった。
 もう何年も前から手がけている新機種の話し合い。普段は離島で勤務している為、動きにくい。なのでこうして週末に本島の各々のセクションを訪ね歩くのだ。
 こんなことが出来るようになったのも、子供達が大きくなったからなのだろう。
 まだ十歳になったかならないかの年頃でも、物心付いた時から両親が軍で働く姿を見てきたせいか、もうすっかり慣れっこといったふうだった。

 しかも可愛い娘は……。彼女の方が両親を置いていくように、あっさりとこの家を出ていった。
 彼女がなにも望んでいなければ、まだまだ学校に通う事だけが唯一の世界である年頃。なのに、娘自身が母から譲り受けたヴァイオリンを片手に飛び出していった。

 まだ五歳だったか。あの時は妻の葉月と共に茫然とさせられた。
 そして隼人は思った。『なるほど。御園の娘とはこういうことなのか』と、すとんと納得してしまったのだ。
 なによりも『まだ杏奈とは一緒にいたい』と渋る妻とは反対の決断を下した隼人。音楽の世界がどのようなものかを従兄の右京から聞かされていたので『この子が望むなら、その才能があるなら、今しかない』と判断したのだ。
 妻は母親として最後まで抵抗し泣いていたが、隼人は娘を右京の元に送り出した。週末は必ず帰ってくる事。それを条件に。隼人だって本当は断腸の思い。まだまだ愛らしい娘と毎日を一緒に過ごしたかった。『ただいま』と帰ってきたら可愛らしい笑顔で『パパ』と飛びついてくる娘を抱きしめる毎日を過ごしたかった。

 でも娘が望んだのだ。
 三歳の頃から既に音感に対する才気を見せ始め、両親である隼人と葉月以外の大人達を驚かせてきた。一番、喜んだのは右京だった。

『見ろ! 俺の血を引く従妹の娘だ!』

 まるで自分の娘のような気分でいるようだった。
 それがあって、杏奈がその気を見せ、隼人が不安ながらも外に出す決意を固めると、鎌倉の右京があれよあれよと言う間に準備を始めてしまい、娘の音楽への道に関しては今では右京が後見人。そして父親代わりになってついにはフランス留学へと連れて行ってしまったのだ。

 隼人はハラハラしながらも、ただ黙って見守る方針。娘が『前へ行きたい』という気持ちを持っている限りは──。
 それに反し、葉月は『いつでも帰ってきなさい。今すぐでも一向に構わない』と……これが母親なのか、葉月という母親の気持ちなのか。とにかく、頼り甲斐のある従兄が後見人としてついていればこそ、安心しているものの、『女はなにが起きてもおかしくない』という、自らが味わってきた女の苦労を思って、外で娘が飛び回っているほど、死ぬほど心配してしまうようだった。隼人はその度に妻をなだめ、慰め、不安をほぐし……。そして彼女には仕事に没頭してもらう。そんな近頃。息子も歳の割にはしっかり者で、逆に母親の葉月の方が『母さん、しっかりしろ』とやられている。両親は不在、妹は既に巣立ってしまったにも等しい状態で、海人はいつも一人留守番。だが、ここで良かったと思えるのは、隣人が信頼できる同僚、同志である海野家だということ。両家は互いの家が建ってからずっと二世帯で協力し合って暮らしてきた。
 今日も海人は隣の海野家で、達也の息子である晃と一緒に過ごしているだろう。すっかり兄弟同然の二人。海人の両親が忙しいなら、海野家が。晃の母親である泉美が入退院を繰り返したり、達也の母、八重子が思うように動けなかったり、達也が忙しいなら御園が。それでも駄目なら、丘のマンションから義兄の純一が手伝いに出てくれる。なので子供達とは、空いている時間にしっかりとコミュニケーションをとっておき、必ず誰かが子供達だけにしないように側につく。そうして大人達は以前同様に自分達が見定めたところへと向かっていく。

 しかし。隼人は暗い家に一人で帰って思う。
 やはり明かりがついていない家は、大人の自分でも寂しい。
 そう思うと、息子の海人には申し訳なく思う事もあるのだが……。

『でもさ。准将じゃない母さんなんて信じられないし、工学をやっていない父さんも想像できない。俺は、そんな母さんと父さんで当たり前だと思っていたよ』

 最近だった。留守がちになってきたことを気に病んでいた隼人に、息子の海人が急にそんなことを言ってくれたのだ。
 それを思い返すと、隼人はじんわりと涙を浮かべてしまう。

「うー。なんて良い息子なんだ」

 自分がそうなることはないと思っていたが、やはり割と簡単に親ばかになってしまうことを、隼人は既に自身で認めていた。
 それでも今回も、『お前を一人にして寂しい思いをさせてしまった』と息子を抱きしめてやるつもりだ……。と、いっても。男らしさを垣間見せるようになってきた息子はもうスキンシップを嫌がるのだが。

 リビングの明かりをつけ、隼人は制服の上着をまず脱いだ。そして、黒いネクタイを緩め、シャツのボタンも外し楽になる。
 ……そこで。親しくしている青年が首元に『ちょっと羨ましい印』を持っていた事を思い出し、隼人には無いのに自分のそこに手のひらを当てた。
 本当に、ちょっと羨ましかった。いや、彼が若い女性と戯れている事が、じゃない。つまりは、若さ故の激しい情愛を交わす事が出来る年頃だと言う事だ。
 今の隼人はもう……。あんなことはしない。昔は後先考えずに、彼女の首元に小さな痣を残してしまうような行為をしたこともある。

 その『後先考えない情熱』が、そう……羨ましいのだ。

「くそ。英太のやつ、俺の事『おっさん』とか言いやがって……」

 実際、それは避けられない年齢だった。
 この春、隼人は四十四を迎える。
 結婚十二年目を迎えていた。

 近頃、無性に。
 若さが恋しい。

 そのせいか、この頃は再々マルセイユを思い出す。
 あの風、あの木陰、煙草の匂い、そして日射しの中の栗毛。
 なにも若い女性と過ごせる事が羨ましい訳じゃない。
 もう二度と戻れないあの輝きを今まさに手にしていることが羨ましいだけだ。そしてあの頃を恋しく思い出させてくれるのだ。

 そんなことは、年齢を重ねていけば自然と埋もれていく事だと思っていた。
 なのに、あの青年が無性に思い出させる。
 妻を熱く求めているあの眼が心が。そして必死に抑えて堪えているあのいじらしさが。そして、どうしようもなくて違うところにぶつけて彷徨っている痛さが。
 隼人の青年だった頃を思い起こさせる。
 それは本当に、鮮やかに隼人の心に蘇らせる。

 すべて、あの青年のせいだった。

 そして妻もまた、あの青年に出会ってから同じ思いを抱いている事を隼人は知っていた。

 

 ただ、妻の場合は……。

 

 キッチンの明かりもつけ、隼人は屋台では口にする事が出来なかったアルコールで一息つこうと冷蔵庫に向かった。
 自慢のキッチン台にメモ用紙が置かれているのが目に付き、それを手に取った。

『焼きプリン作った。一人、一個。ただし母さんは二個OK。冷凍庫にはアイスクリーム買って置いてある』

 息子からの伝言。
 隼人は早速、冷蔵庫を開けてみる。
 先日、息子に頼まれて買ってあげた白い陶器のスフレカップに見事なプディングが……。それを缶ビールと共に手にして、隼人は早速、調理台に備えている小さな椅子に腰をかけて味わってみた。

「う、美味い。また腕を上げたな?」

 父親の趣味……、いや、今となっては『家庭での仕事』を幼い頃から目にしてきた息子も、ある頃から『僕もやる』と手伝ってくれるようになった。
 ただし、まだ食事を作るほどには至らず、今は練習気分で彼はデザートメニューに凝る事で楽しんでいる。特に、母親が甘い物が大好物だから、彼女が帰ってきて『すごい、美味しい!』と言わせるのがこれまた彼の楽しみなのだ。勿論、妹の杏奈にもはりきってご馳走する。ただしこちらは兄妹故か評価は辛口で、海人にとっては一番の批評家といったところらしい。しかも、妹は外の世界に出ているので、舌も肥えていれば目も肥えている。さらには芸術家肌の右京伯父さんが師匠とあって、杏奈のセンスは一目置かれている。御園家の小さなパティシエ君は、次の妹の帰省に『美味しい』と一言いわせる為に、精進中なのだ。

 それを思うと、隼人は笑ってしまう。
 ムキになって凝りに凝る息子。そして、チビ姫のくせに一丁前の顔で、でも的確な批評をする娘。そして……。その先を思い返しながら、隼人はもう一度息子のメモを読み返してさらに笑う。

「母さんは二個OKって……。葉月のやつ、本当に直ぐに二個、食ってしまうぞ」

 もう笑いが止まらない。
 先日、息子が作ってくれたデザートのおかわりをせがんで、葉月が息子に叱られたことを思い出したのだ。

『ないもんはないって言っているだろ! 人数分しか作っていないんだから』
『だって、海人のすんごく美味しかったんだもの。もう一個!』
『父さん。この子供っぽい奥さん、なんとかしてよ』

 それはどうにもならないな。と、この時も隼人は大笑いをしたのだ。
 そうしたら、今回の息子は『二個OK』なんて対策をしっかり立てたらしい。もう可笑しくて仕様がない。

 息子の手作りプリンを酒のお供に、ビールも味わっている時だった。
 玄関がかちゃりと開いた音。隼人は飲み食いの手を止めて立ち上がった。
 やがて、こちらに向かってくる足音が……。

「遅くなってごめんなさい。貴方」

 制服姿の妻、葉月がキッチンを覗いた。

「おかえり。お疲れさま」

 隼人の出迎えの言葉に、葉月がにこりと微笑む。
 判る。もうこの家に帰ってきた奥さんの顔になっていると……。きっと、つい先ほどまでは、隼人も良く知っている『冷たい御園葉月の顔』、ミセス准将の姿だったに違いない。

「貴方が出張から帰ってくるし、今夜は日曜だから私が夕食をと思っていたのよ」
「だから、構わないと言っただろう。そこ、気に病まれると、俺が気に病む」

 本当にそう思っている。ここで食事も用意しない妻だと、どうしてこの隼人が責める事ができようか?
 彼女を女性初の将軍として先頭に立って押し上げたのは、この夫のである隼人だ。彼女に空部隊の大隊長になってもらうよう数年かけて準備に駆け回ったのもこの隼人だった。

「有難う、貴方。私がいつまでも空の中で生きていられるのは、貴方のお陰よ」
「当然の所だ。俺だって空で生きている。……俺が言いたい事、解ってくれているよな」
「ええ。勿論」

 妻の笑顔が輝く。そして、隼人もここで充実感を感じる。
 俺達夫妻に『空』は不可欠だ。出会った時から決まっている事ではないか。
 だからもう、なにも言うな。夕飯一回分ぐらい……。俺達の生き方にはなんの支障にもならないことじゃないか。
 くどく言葉にしなくても、妻にもそれは通じている手応えは今も変わらない。

 隼人の生き甲斐は、フランスで見初めた『上官』が活躍する事。今でもその気持ちは色褪せることなく変わっていない。
 自分にないものを持っている彼女のその力を引き出す事。その代わりに、彼女の手では届かない事、彼女では出来ない事は俺がやる。出会った時からそういう『暗黙の契約』で二人の仕事は成り立ってきたのだ。妻は前へ、隼人は後ろでしっかりサポートする。『負けている夫』などと言う奴は言わせておけばいい。お前等に、俺の奥さんほどの光があるのか。俺ほどのサポートが出来るのか。格好ばかり気にしている男は、気にしているだけで時間が過ぎていくだけなのだ。勝った負けたと訳の分からない線を引いてそこで一喜一憂しているうちに、一線を持っていない柔軟な者が先に通り過ぎていく。俺にはその一線は見えていない。だから自由に歩ける。だから、夫妻でここまで登りつめた。まだまだ、これから。俺達は満足していない。

 二人だけのやり方で、まだまだ疾走している最中だ。

 

「見ろ、海人がお前にプリンを作ってくれていたぞ」
「まあ……! あの子のプリン、本当に美味しいのよ」
「将さんのところでラーメン食ってきたんだけれどね。俺も先ほど帰ってきて、海人のプリンでデザートしていたんだ」

 隼人は早速、息子が残したメモを葉月に見せた。
 それを覗いた妻も、吹き出した。

「なによ。お母さんは二個OKって」
「お前がこの前、駄々をこねたからだろう。子供っぽくさあ」
「なんか。しっかり者のお兄さんなのよね。私が甘えたくなっちゃうタイプ」

 葉月も先日のことを思い出したのか、くすくすといつまでも笑っている。

「やっぱり。貴方の息子だわ。……栗毛で右京兄様が少年だった頃に益々似てきて御園寄りの容姿だけれど、性格は貴方にそっくり。きっちりとしていて、理論的に片づけないと気が済まなくて、とことん最後まで突き詰めて自分が求めている答にぶち当たるまでは突き進むの。そして、お世話が上手だわ」

 と、妻が言うように、確かに周りの知り合いも『中身はパパにそっくりだ』と言ってくれる。……と思うと、隼人もなにやら誇らしいような、妙に気恥ずかしいような、または自分のように変なこだわりを持って変なところへ突き進まないか心配だったりする。
 でも息子とは二人きりで過ごした時間が結構長い。母親をお偉いさんへと押し上げた父親としては、母親の手がどうしても届かないところは父親の隼人がカバーしてきた。留守がちなのは母親の方。さらに妹は幼くとも既に巣立ちをしてしまい、この家の留守を守るのは男二人。そのうちに、息子もある程度の家事をする事は当たり前になってしまったのだ。お揃いのエプロンを買ってあげた時の嬉しそうな顔も忘れない。そんなふうに、息子とはかなり密着した時間を過ごしてきたから、彼にあれこれ細かく教え込んだのもこの隼人。存分に父親の影響を受けて育ってきたのだ。似てきたと言われても道理かもしれない。
 その逆に、女二人は……いや、杏奈は右京に預けているからきちんと躾られているようなのだが、母親の葉月は相変わらずだった。整理は皆無だし、本当に感覚だけで生きている。なのに最後には上手くまとまっているという、父子には無い感覚がこれまた息子にとっても理解しがたい部分でありながら、既に『これが俺の母親なんだ』と諦めに近いものを持っているようだった。

 隼人も隼人で『しっかりとした母親らしい事、ちゃんとやれよ』と言いたくなる事もままあるが、だいたいは『これがパパが選んだ女性です。諦めてくれ』という慰めに変わってしまう……のだが。

 隼人は息子のメモを見て、さらに微笑む。

「こいつはきっと、そのうちにお前をサポートする強者になるよ」
「そうねえ、そうなってくれたら嬉しいけれど……。軍人になることは、複雑ね。好きな道を行ってくれたらいいの。そうね、親孝行ならパパにして欲しいわ。私は……ただ、好きにやらせてもらっているだけ。子供達に寂しい思いもさせてきたもの」
「それを言うなら、俺も共犯だ」

 ママは、沢山の部下を守る大佐嬢、そしてミセス准将。ママはやらなくてはいけない人。ママを待っている人が沢山いるんだ。
 隼人が率先して、子供達に母親の役割を説いてきたのだ。
 勿論、時には駄々をこね、母親の留守を恋しがることも兄妹にはあった。だが、そこは隼人が抱きしめて乗り越えてきた。そして葉月も、帰ってきたなら子供達のママに存分に戻って……。

「いただきまーす」

 早速、息子が『おかえりの労い』として作っておいてくれたプリンを葉月が頬張る。

「おいしーい! 昔、しんちゃんが良く買ってきてくれたプリンの味に似ているー。だから、もう一個欲しかったのよー」
「真一が良く買ってきたあれは、まだ売っているからな。海人もあのメーカーのプリンの味を再現したみたいだぞ。あいつ、味覚敏感だな」
「パティシエになったりして! そうしたら、私達デザートに困らないわ」
「それはそれは。ママにとってはパイロットになってくれるより、都合が良さそうだな」

 いつものように隼人は半ば呆れ加減に笑ったのだが、葉月は急にしんみりとした顔になり『その方が良い』と小さく笑った。隼人も、ふと同じ気持ちになる。

「そりゃね。パイロットになってくれたら……。そう思う事もあるわ。でもね、きつい事分かっているから」
「だよな。俺も……。いつか、お前が墜落寸前になったあの時の気持ちを考えると……。パイロットである以上、あのような危険とは背中合わせだからな。俺達も覚悟をしなくてはいけない」
「パパのようなメンテナンサーになればいいわ。あの子、貴方の工学書を眺めるの好きだし」

 さあ、将来。我が子二人はどうなるのだろうなと、隼人も小さな溜息をこぼした。
 きっとどんな職業に就いても、心配になるのだろう。親の覚悟はそこにあるのかもしれないと隼人は思う……。なんて、一人でしんみりとしていると、目の前に空っぽになったスフレカップが二つ。

「あー。美味しかった!」
「お前、もう、二個食ったのかよ!?」

 唖然とした。ほんのちょっと考えている間に。息子が手間をかけて作ったものを、丹念に味わうことなくあっと言う間にお前は食ったのかと。

「二つも続けて食べられて幸せー」

 葉月は調理台のテーブルに突っ伏して、うっとりとした顔。
 まったくもって。息子が言うとおりだ。『この子供っぽい奥さん』は。

 でも、相変わらずだなあと、隼人も最後は微笑んでしまうのだった。

 ウサギは変わらない。
 妻になっても、二児のママになっても、そして──ミセス准将と呼ばれるようになっても。
 隼人の前では、ウサギはウサギのままだった。

 息子の手作りプリンが余程嬉しかったのか、葉月は食べて空になったしまったスフレカップだが、それをいつまでも愛おしそうに眺めている。
 息子の労いの甘い味を、余韻で噛みしめているようだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 互いに夕食を済ませての帰宅。
 帰るなり、息子の甘い労いが待っていて二人で微笑み合いながら食したデザート。
 隼人自慢の調理台には、空になったカップが三つ。──『俺が片づけておくから、先に部屋に行って良いぞ』と妻を先に部屋へと向かわせた。それは『先に風呂に入ってくれ』という意味も込められている。だから妻もその先をふと思い浮かべたはずだ。だから夫の勧めのまま、『有難う』とキッチンを出ていった。

 遅く帰ってきた奥さんを思って、最後の片付けまでやれる旦那。──を、心底やっているとか、気取っていると思ったら大間違いだ。

 隼人には隼人の思惑があったりする。

 空になったカップを調理台からシンクへと洗う為に移す。
 その間に、妻が二階の寝室へと階段を上がっていく音が聞こえた。隼人はそれをきちんとこの耳で聞き分け──。二階の廊下を歩く足音、そして、寝室の前に辿り着きドアを開けた音。閉まった音。
 隼人の手元は取り敢えず、蛇口を開けて水を流しているのだが、実際には汚れた食器など洗わずに水につけているだけ……。その間、ドアが閉まった音を聞いて、隼人の頭の中ではある情景が思い浮かんだ。
 数年前、詰め襟の旧制服から、テーラージャケットとネクタイの制服に変わった。今頃妻は、その新しくなった制服の上着を脱いで、ネクタイを緩め、そしてタイトスカートのホックを外す……。そこで隼人は蛇口を閉め、妻の後を追った。

 二階の寝室のドアを隼人は開ける。

「……どうしたの?」

 ドアを開けると、隼人がカウントを取っていた通りの姿で葉月がベッドの側にいた。
 上着がベッドの上に放られ、そして、ネクタイは緩められて、スカートはホックを外して床に落とされたばかりの形になっていた。
 片付けを引き受けたはずの夫が寝室に、しかも着替えている時にやってきたので葉月は少し当惑した顔をしている。夫妻になっても、その着替えに少しだけ男を拒む様子をまだ見せる妻。

「どうもしない」

 と言いながらも、隼人はそのまま葉月の側に歩み寄る。
 でも……。きっとそんな顔をしていたのだろう? 葉月はいつになく構えた顔のまま固まっていた。
 そんな彼女を、妻を、真っ正面から隼人は強く抱き寄せた。抱きついたと言った方が良いかもしれない。

「あ、貴方……?」

 訝る妻をそのまま抱きしめ、隼人は唇を奪う。
 妻の驚きの呻き声。それすらも吸い上げるかのような勢いで、葉月の唇に強く吸い付いた。

「あ、……う。はやと・・・さ」

 まだ戸惑っている妻の栗毛を手の中いっぱいに握りしめ、自分の唇の角度に合わせるようにやや強引に顔の向きを変えさせ従えた。

 このまま、俺の言う事を聞いてくれ。
 このまま、暫く、俺だけのものに。他の何もかもは忘れてくれ。

 いつだってそう念じる。
 やがて妻の戸惑いも消えて、そのまま彼女も隼人の中へと溶けていく。

 自分の中に戻ってきた妻の唇を従えた隼人は、その間は目をつむりながら嗅覚を研ぎ澄ませる。

 自分の腕の中に戻ってきた妻の匂いを確かめるのだ。

 彼女の、独特の肌の匂い、髪の匂い。そしてそこに微かに残っているラストノートを。若干……側近であるテッドが愛用しているムスクの香りも嗅ぎ取れた。これはもう慣れている匂い。
 今日は煙草の匂いも残っている。義兄に会ったのかも知れないし、違う男が吸ったものかもしれない。
 そして、基地中の男達が作り上げている、あの職場独特の匂いが染みついているシャツの匂い。

 隼人はそれを全て感じ取り、そしてそれらを全て、妻ごと腕の中に取り入れ、自分の五感に届けさせる。

 そしてここでやっと満足する。

 お前がどんなところを歩いてここに帰ってきたか。それを感じ取って、そしてやはり俺の腕に帰ってきたのだと。
 近頃の隼人はそんな習性で妻の帰りを確かめている。満足をしている。だから風呂に入られると匂いが消されるから困るのだ。

 沢山の男達の中へ妻を送り出す男は、妻が染みつかせて帰ってきた匂いすらも抱きしめて『おかえり』と心で囁く。

「そこ、手をついて」

 この夜、隼人は側の壁に葉月を押しつけて、後ろから抱きしめる。
 彼女のネクタイを背中から伸ばした手で隼人が解いてあげる。シャツのボタンを荒っぽくはずしたせいか、葉月が少しだけ抵抗した。

「いや。どうしたの? いつもの貴方じゃない」

 だが、隼人は有無も言わせずにそのまま葉月の両手を壁に付かせ従わせる。
 彼女の下着をたくしあげ、そして、そのまま妻との繋がりを求め、いつになく早急な手順で愛し抜いていた。

 

 知っているか? 葉月。
 お前は今日、ある青年に熱烈に愛されて抱かれていたんだ。

 俺には解る。解るんだ。あの青年の恋心が──。

 

 それが実際の出来事ではなくても。
 隼人にとってはそれに等しいものに思えていた。

 そして何故か、それを許せないと拒否できない……どこか容認している自分がいた。
 あの青年は、思い出させるのだ。隼人の青春を。

 

 

 

Update/2008.4.5
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