コンパクトを強く閉じた音が響いた。
「本気なの?」
「……お前、この一年の俺を見ていて、どう思ったんだよ」
密かに思い悩む幼馴染みの男が、恋をしていると気が付いていた彼女。この一年、それに気が付くほどに英太の恋焦がれる姿を見てきて、如何に本気かを知っているはず。
華子は『御園准将』が上司である事は知っているが、『御園准将』が『葉月』ということはこの日初めて知ったのだ。だから──英太が恋してしまった相手が『人妻』という事実も、直ぐさま知り驚いたのだろう。
相手が英太を小笠原へと引き抜いた女上司と分かった華子は、途端に呆れたとばかりにコンパクトをぽいと投げ捨てた。
「まあ、夜の世界にいても、よく見かけるけどさあ……」
華子はクラブでホステスをしている。
「それって、相当苦しい想いしかしないよ。報われない恋で終わるのがほとんど。どっちも良い想いなんて残らないよ。やめた方がいい」
もう呆れてもいないし、怒ってもいない華子の目。
だがその目は、どこか哀れむような目だった。
今、俺は人妻に恋している──。そんな事実。
幼馴染みの目を見て、英太は俯くことしかできなかった。
「でも、英太だってそんなこと分かっているよね。どうしようもなくなっちゃったのでしょう。だから、好きにしなよ。それしか言えない、私も」
先ほどまで、小悪魔のように次なる作戦に移行しようと楽しそうにしていた華子が、もうそこはふざけずに真顔になっている。
「身体ならいつだって相手になるよ。英太ならいつでもOK。だから遠慮なく私の身体で『ハヅキサン』を抱いたらいいじゃない」
いつもドライな華子は、潔癖と言われる感性とは無縁に近かった。
そうならざる得ない気の毒な育ち方をしたからだ。その分、彼女は世の中の黒い部分を良く知っている。
綺麗なままで生きられるはずがないという持論がある。
そんな幼馴染みの華子とは、もう十代からの付き合い。
いや、『付き合い』だなんて簡単な言葉では自分は納得できないと、英太は思う。
華子は『家族みたいなもの』で『妹みないなもの』で、そしていつまでも可愛い……。しかしここで『恋人』と言えたなら、もっと違う世界が二人を待っていただろうと英太はいつも思う。華子は英太の初めての女で、そして華子にとっても英太は初めての男だった。それでも、やはりそこも『恋人みたいな』で終わってしまう。
二人はずっと前から休暇で会えば惰性で情事を交わす。しかしそんな関係性も『恋人ではないけれど』お互いに承知済。昨今『セフレ』という言葉も良く耳にするが、それらとも英太と華子は分類されないと共に思っている。『家族みたいなもの』で『妹みたいなもの』という気持ちがそうさせているのだと思っていた。
今までずうっと、十代の頃から互いに支え合って生きてきた大事な幼馴染みだ。
そんな華子に英太は問いかける。
「華、俺が結婚を申し込んだら……お前、俺の嫁さんになってくれるか?」
再度、パフで頬を叩いていた彼女の手が止まる。
「なに、急に。英太らしくないね」
「本気で聞いている。答えろよ」
「本気? 嘘言わないでよ。それに、葉月さんはどうするの。そんな叶わない想いを誤魔化すかのような結婚なんて嫌よ」
「お前とは葉月さんよりもずっと付き合いが長い。そんなのすぐになくなる」
本気ではないのに、英太は妙にむきになって華子に詰め寄っていた。
するとついに華子が癇癪を起こしたように英太に向かって吠えた。
「だから、そういうのが英太らしくないって言っているの! それにいつも言っているでしょ、私は結婚なんかしないの!」
「他の男と俺は違うだろう? それともお前、俺と他の男は同じだと言うのか?」
食い下がる英太に、華子が業を煮やした顔になる。
感情的に燃え上がるばかりの英太。それに対する華子も感情的に爆発したというのに、急にすうっと水が引くような静かな目つきになった。
「早く小笠原に帰って、ミセス准将の顔を見て来なよ。今、ここに葉月さんがいなくて、英太が飢えているのはよーく分かったから。下手くそなプロポーズをしたことは忘れてあげる」
淡々と言い切った華子の言葉に、英太はもの凄く、胸を突かれてしまった。
華子はそれきり背を向けてしまい、手早い化粧に没頭する為か黙り込んでしまった。
華子が言ったとおり、だった……。
平日、彼女を見ない日など皆無だった。なにせ毎日、同じ甲板で訓練をしているのだから。それだけじゃない。彼女と共に長い航海に出る事もある。
それだけ身近な存在で、なのに手に届かない遠い人。
だから、英太はいつだって飢えている。彼女が視界に何度も入ってくる平日ならまだしも、こうした休暇では基地でも同じ島内でも見る事はほどんどない。それだけで英太は苦しくて堪らない。いつも月曜日を心待ちにしている。休暇は落ち着かない。
そんな状況で、幼馴染みの華子の肌を貪って、家族同然の華子に側にいてくれないかとうそぶいてみる。
しかしそんな英太の暴走など、彼女はお見通しだし慣れているから、的確にかわしてしまう。
さらに、華子はもっと英太を黙らせる一言を呟いた。
「今の英太に結婚なんていらないでしょ。今、コックピットが一番大事なくせに。なによりも。だから、早く『雷神』に戻りなよ」
なにも言い返せなかった英太は、メイクを続ける華子の背を眺めているだけになってしまった。
・・・◇・◇・◇・・・
男は軍服で、女は華やかな春の装いで。
身なりを整えた二人は、日が傾き始めた外に出る。
「次はいつ、こっちにくるの?」
歩きながら、華子が皮カバーの手帳を取り出す。
「来週は駄目だ。再来週の土日だな」
「分かった。来週は、私が『はるちゃん』の所に行くから安心してね」
彼女の手帳には真っ白な欄はない。小さな黒い文字がぎっしりと詰められ、ひしめき合っている。
その中、来週の土曜日に『英太、帰らない』と記し、次の土曜日に『英太、帰省』と記された。
「悪いな。頼めるの、お前しかいなくて……」
「言わないでよ。そんな他人行儀なこと。それに英太が駄目だって言っても、私、『はるちゃん』の所に行くよ!」
『お前のその気持ち、重々分かっている』と、英太は小さく返す。
「はるちゃんは、私達の『母親』同然なんだから、当たり前じゃない! 今度、そんな他人行儀なことを言ったら、もう英太とは二度と寝ないからね」
また英太はなにも言い返せなくなる。
そして、そんな健気な可愛い妹分を、人目も憚らずに抱きしめたい衝動に駆られる。
まあ、『寝ない』とはね除けられるのも、困るのは本心だったりするのだが……。
「それにはるちゃん。英太が小笠原に行ってから、本当に安心しているもの。結婚もしないで女手ひとつで育ててきた甥が、小笠原のパイロットだよ。中学でも高校でも、喧嘩はしょっちゅう停学寸前ばかりだった英太が、パイロット。今までどこでなにをすれば自分らしくなれるのかって暴れていた英太が、とても活き活きしているって、とっても幸せそうな顔するんだよ」
それも分かっていると、英太は頷くだけ。
空を飛ぶという日々を得てからは、ある程度は生活に落ち着きが出た方だと思う。それまでは……。
「しかも、世間ではあまり知られていない事だけれど。そっちの軍隊世界ではその名も轟く『フライト雷神』。そこに配属されて、そのチームのパイロットになるって凄い事なんでしょ。はるちゃん、それを知って凄く喜んでいたもん。私も嬉しかったもん。だから……会う回数は減ってしまうけれど『私達』、英太を離島に見送ったんだもん」
「でも。そのせいで、お前に負担が。だってお前の稼ぎ、『春』の入院代に治療代に注ぎ込んでくれて……」
「あ。言ったわね。再来週はホテルはなしね!」
思わず『しまった』と英太は口を塞いでしまった。華子が指さしながら笑う。『そんなにエッチがしたいのか』と。英太も顔が赤くなる。
しかしそうして元気に切り返していた華子の顔が花がしぼむような泣き顔に崩れた。
「だから。私が、そうしたいんだってば……」
どんなときも溌剌としている華子の声が、泣いて震え始めた。大きな瞳からはついに、涙がぽろりとこぼれる。
英太は焦る。彼女が泣き出すと昔からこんなふうに困り果ててしまう。そして彼女に共鳴するように泣きたい気持ちになってくる。
「そうしなくちゃ。やってられないよ。『はるちゃん』……もう、いつ、いつ、いなくなるか……」
逞しい彼女の涙には、昔から弱い英太。
道を歩きながら、そっと彼女の肩を抱き寄せてしまう。
「末期癌だなんて……。ひどいよ。これからいっぱい稼いで、私を助けてくれたはるちゃんに幸せになって欲しかったのに」
「俺もだ、華子」
「ひどいよ。あんなに素敵なお姉さんが、なんであんなに苦しまなくちゃいけないの」
「そうだな」
叔母の『春美』は、末期癌と診断され、昨年から終末ホスピスに入院している。
がさつで社会に疎い英太に代わって、この華子が一生懸命に専門医療機関を探して奔走し、入院させてくれたのだ。
叔母の春美は、まだ若い。三十五歳だ。英太にとって若い叔母ではあるが、たった一人の肉親と言っても良かった。
英太の両親は、既にいない。
その訳を、英太は思い出したくない。
母の妹だった春美が、当時、まだ成人したばかりなのに、英太を引き取って保護者になってくれたのだ。
その後の英太は、彼女の支えで育ってきた。今では、彼女は姉でもあり母でもあると英太は思っている。
ある時、叔母と移り住んだアパートの隣人が、この『小川華子』だった。華子は英太のひとつ年下。同じ中学に通う後輩になった。だが、彼女も不遇の日常を送っており、ある時、彼女に最悪の出来事が起きどうにもならなくなった時に、これまた叔母の春子が引き取ってくれたのだ。
「はるちゃんは……。私の恩人だよ。はるちゃんの為なら、なんでもする」
華子の涙が瞬時に止まった。
彼女はもう、前を見据えていた。
「だから、もう。他人行儀な事は二度と言わないで。私がやりたくてしているの。後悔を、したくないから……」
なのにまた泣き崩れてしまう華子。
叔母春美の短い行く先を思うと、どんなに逞しい華子でも不安定になってしまう。英太はそんな彼女らしくなくなってしまう彼女を何度も見てきた。
しかし、叔母の病状はもう良くなる事はない。
英太と華子に残されているのは、そんな恩人である叔母を如何に残っている日々を穏やかに過ごさせ、あの世に旅立たせてやるか……だ。
もう、年単位のものではないと、医者にも告知されている。
叔母の春美にも告知している。
彼女は、数ヶ月でいなくなってしまう。
でもそれがいつか分からない。
今、若い二人は一日一日を繋げていく重さを噛みしめ合って戦っていた。
英太と華子と、叔母の春美。
三人で暮らしてきた日々は短かったし、慎ましやかな生活だったが、とても穏やかで温かな日々だった。
三人は、それを『家庭』と信じて疑わない。特に、華子が。
だから、英太は安心をして華子に任せている。
なるべく本島へ帰省するように心がけながらも、英太もやっと掴んだ『俺が望んだ場所』へと帰る。
小笠原総合基地へと──。
・・・◇・◇・◇・・・
「しまった。ギリギリだ」
横須賀基地の定期便待合室へ辿り着くと、チェックイン制限時間締め切り目の前。
滑走路には既に定期便が待機中。タラップをあがっていく制服軍人達の姿が見えた。
窓口でチェックインを済ませ、急いで同じ機体に乗る軍人達の背を追う。タラップに辿り着いた時はもう誰もいなく、英太が本当に最後の一人だった。
機内の通路を歩く。既に誰もが席に落ち着いていた。一人歩いているのは英太だけ。おそらく英太が座り終われば、乗務員が手早く客室チェックをして直ぐに離陸態勢になるだろう。
チケットのシート番号を確認し、やっとその席を見つけた。翼の直ぐ後ろ──。英太の席は通路側。窓側には既に制服姿の男性が座っていた。
その男性と目が合い、英太は固まった。
「英太じゃないか」
窓際の席に座っている男性が微笑んでいる顔。棚にボストンバッグを収納していた英太は、隣の席にいる男性が誰か判り、そのままの姿で固まってしまった。
眼鏡をかけている中年男性。膝の上には既に文庫本が開かれていて、そして彼の制服の肩章は『大佐』。
「み、御園大佐。お、お、お疲れさまです」
隣の席は『御園隼人工学科大佐』がいた。
『うげ。このおっさんが旅の最後のお供かよ』と、げんなりしてしまった。
よりによって──恋する彼女を空想で抱きしめたその後に、『恋する女性の夫』に会うとは。
Update/2008.4.2