目が合ったんだ。
彼女と目が合ったんだ。
俺はコックピットに。
彼女は甲板にいた。
海原を駆け抜ける翼が、空母甲板、彼女の頭上をすり抜ける瞬間。
超音速の気流の中では、それは一瞬のはず。
でも、俺にはわかった。
彼女には俺が見えている──。
俺も、彼女が見えた。
瞬時に通り過ぎていく、風の中。
空に翼をひろげて飛んでいる俺は、いつも何も見えなかったのに、その時だけは彼女が見えたんだ。
きっと、その時から始まっていた。
・・・◇・◇・◇・・・
慣れた甘い匂い。彼女が熱い吐息混じりに何か呟いた。
いつものように、優しい肌を抱きしめているつもりだった。
だが、胸の下にいる彼女が『いつもと違う』などという文句を言ってくる。
彼は『いつもどおりだ』と答えた。
本当に、そのつもりだからだ。
『いつものように』、彼女の肌の上を滑っていく道筋の順序だって同じ。
肌から全てを取り去って、互いに素肌になったら静かに肌と肌を寄り添わせ、そして挨拶の口づけだけは忘れずに。通り道の白い胸にも許しを乞うように指先を滑られせ頂を軽く愛してから、降りていく。既に許し合う仲であるから遠慮なく、彼女の膝の間を左右に割ってそこに入り込む。そして迷わずに向かうのは、その足と足の間にある秘境だ。といっても知り尽くしている彼にとっては、道案内も要らない秘境だった。だからゆっくりと行く。寄り道をする場所もちゃんと判っている。彼女が『そこだ』と教えてくれた場所は忘れた事はない。柔らかな腿のそこで暫し唇を遊ばせると、彼女は春色に彩った唇を力無く開いて彼の名を呼んでくれる。
「えい、た……。英太」
彼女の細い指先が母親のように首筋を撫で、そして黒髪をゆっくりと掴んで撫でてくる。そうされて英太はほっと心が安らいだ気になれる。だからもっと、彼女にお返しの愛撫を──。
じっくりと時間をかけてあげるのも、英太の愛情のうちのひとつだった。やがて腕の中にいる彼女はもがいて、よがって……。その度に彼女の茶色い髪が乱れ、その度に彼女の髪から花の匂いが立ち込める。
良く知っているその場所を丹念に愛撫しているのだって『いつもどおり』のはずだ。
今、愛している彼女が『うんうん』と喘いでいるのも、『いつもどおり』に英太が愛しているからだ。だから『なにも違わない』。
それを解らせるが如く、『いつもどおり』に、彼女が待ち構えているだろう手立てで攻めてみて、そして彼女が好む一点を攻め抜いて。
「やっぱり、違うじゃない」
まだ言うかと彼もムキになる。そこの仕事は次は指先に任せて、今度は薄桃の花が咲いている白い果実へと果敢に向かった。
いつもは固い操縦桿を握りしめているその手は、今はそっと力を抜いて時には強く握りしめながら、女性の柔らかな乳房を包み込む。いつもそうなのだが、あんまりにも手に余りこぼれていくので、もどかしい思いでそれをそっと谷間に寄せて固く整えてからその頂きを慣れた口で夢中になって愛してみる。彼女の息遣いがひときわ荒くなり、男の黒髪は掻きむしられる。
春の昼下がり。なにもかもが霞んでしまいそうなけだるい光の中に映し出された恍惚とした彼女の表情。
それも『いつもどおり』。英太が彼女を愛した時の顔だ。だから『なにも違わない』
しかし今、英太の目の前、本当に見えるのは……。
慣れた愛しい身体は心地良い。
英太も恍惚とした春の光の中に吸い込まれていく──。
そうしたらもう彼女の甘い肌を堪能するだけではいられなくなり、堪えられなくなった男の身体も優しく包み込みこんでくれるばかりの日溜まりの中へと吸い込まれていった。
その瞬間、恋しくて恋しくて堪らない彼女の顔が、光の中に現れる。
英太の心に常にその姿でいる。
激しい上空の気流に細く長く流されていく白い雲と青い空を背景に、彼女は悠然と灰色の甲板に立っている。
茶色の眼はいつも冷たく、でも、どこかを真っ直ぐに見据えてその視線をそこから外した事はない。
英太はその真っ直ぐな視線の間に割り込んだ事がある。そして、彼女と目が合った。向こうを見ていたはずの彼女が、割り込んできた英太を見たのだ。
あの眼、あの顔、そして僅かに微笑むだけの冷めた口元。
真っ白い軍服、真っ白い飛行服、濃紺の指揮官服──。
女との官能的な繋がりを得る瞬間、英太はいつもそんな彼女を思い浮かべる。
裸じゃない。そんな空の中にいる彼女を──だ。
その瞬間、英太の心は一気に熱くなり燃え上がる。全てが焦がれる至上の時。そして切ないひととき。
だからその心も男の身体も締め付けてしまう想いを振り払うが如く、さらに息切れていく儚い彼女の声を耳元に、英太は彼女の身体の中へと突き進んだ。
「や、やっぱり違うっ。え、えいた、英太、どうしたの。あ、でも……でも……」
『違う』と繰り返しながらも、最後にはなにもかもを観念したような彼女の可愛いらしい呻き声──。
その声を聞きながら、今の英太は『空の人』の肌を力一杯、愛している。
甘い匂いがする肌も、ふんわりとしている乳房も、そして英太を強く吸い込みながらも柔らかに締め付ける感触も。全て、青い人の……。
「英太。呼んで、呼んで。名前、呼んで・・いいわ……よ」
彼女を懸命に愛しているうちに、英太も抵抗なくその名を呼びたくなり、彼女の身体の中を突き進む為に強く引き結んでいた口元が緩みそうになる。
「いいから、呼んで。分かっているから、呼んで……」
もう肌への労りなど皆無になってしまったほど、無我夢中にその行為に耽る英太の首元に、彼女が強く抱きついてくる。
こうして女体の中を泳いでしまうと全てを奪われてしまう気持ちになる。少しは理性を残しておきたい英太は口惜しく思う。ただそれだけに囚われてしまい、今ここで誰かが襲ってきても直ぐには現実に帰れないほどに無防備になっているはずだ。だからこそ、英太の心に『本当の姿、本心』が映し出される。
貴女が好きだ。大好きだ。
その唇で、俺の名を呼んで欲しい。
いつも空の中にいる貴女は、とても冷めた目。
でも俺は、どこまでも遠く見ている貴女のそんな真っ直ぐな目が好きだ。
その間に俺を入れてくれたよな?
向こうを見ている途中に俺を見る事が出来たんだよな?
きっと、そうだ。俺と見ているものが一緒なんだ。同じ軌道に俺達はいるんだよ。
その目で俺を見つめてくれた時、貴女はとても冷たいんだけれど、それが俺を燃えさせるよ。
それを今、貴女が愛している空に俺はぶつけている。
少しでも良いんだ。貴女と同じものを見て、同じものを感じて、そして同じ所へ行きたい。
でも、でも……。俺、本当は、貴女のその海や空の匂いがする指先や栗色の毛先に、肌に……。一度で良いから、触れてみたいと思っていたんだ!
いつも甲板から飛んでいく空に向かうように、俺の翼を思いっきり広げて、その胸の中を飛んでみたい!!
英太のその想いが、身体の芯から方々へと解き放たれる瞬間が近づいてくる。
頭の中は、空の中にいるあの人でいっぱいの状態だ……!
「っく。は…はづ・・・」
「英太、英太。よんで、よんで。いいから、そのままよんで」
広がる青空には、薄く尾を引く白い雲。
そこに存分に思いをぶつけているコックピットでの極限状態。その瞬間いつも、彼女と一体になった気になれる。
今も、今も、コックピットでギリギリに追い詰められた時に似た興奮状態。そんな自分に逆らう事はなく、英太は全てを彼女の肌にぶつけた。
「は──」
はづき、……さん。
「は、はづ……」
葉月さん!
しかし、すんでのことで思いとどまる。
「は、はな。華……。華子」
男の最後の呻き声は、彼女の耳元で小さく呟き力無く果てていく。
彼女の長い髪をしゃくりあげながら、彼女の顔をただ見つめる。
良く知っている女がそこにいた。
「……バカ。英太、最低」
不機嫌になった彼女の顔。それでも彼女からも、最後はいつもと変わらぬ終わりの激しい口づけ。英太の身体に停滞していた熱の塊がすべて出ていくまで、彼女は力尽きた男の口元を強く長く愛してくれる。
彼女『華子』は泣きやんだ子供をなだめる母親のように、ゆっくりと英太の黒髪を撫で回し、英太が元の英太に戻るまでじっくりと待ってくれている。
最後の最後で、思いとどまった。
しかし、もう限界かもしれない。
華子の身体に夢中になりながら、あの女の顔や身体に思いを馳せて、それだけじゃなく、彼女の名前を呼びそうになるだなんて。
しかし、目の前の華子はどこか楽しそうに笑っていた。
・・・◇・◇・◇・・・
ドレッサーで茶色に染めている長い髪をとかしながら、華子はまだ笑っていた。
白いスリップドレス姿で、鏡に映っている自分を見て、ケラケラと。
「なんだよ。なにが可笑しいんだ」
一通り済んだ為、英太も素肌にワイシャツを羽織った。
時間がない。休暇ももう終わりだ。今から横須賀基地へ向かって、夕方最後の定期便に乗らないと小笠原の基地に帰ることが出来ない。
乗り遅れたらお終いだ。また明日から始まる訓練に間に合わなくなる。そんな焦りが、ワイシャツの小さなボタンを留める太い指をぶきっちょな指先にさせている。
「早く着替えろよ。お前も仕事があるんだろ」
こうした一時しのぎのように二人で忍ぶ部屋にも、時間に限りがある。
それなのに、華子は毎度のマイペースでじっくりゆっくり支度しているどころか、そうして鏡の前で笑い転げてばかりいる。
まあ、長年の付き合い。こんな彼女も慣れている。諦めた英太は、きちんとボタンを締め終わったシャツに、黒いネクタイを締めた。
するとやっと、鏡の前で遊んでばかりいる華子が振り返る。スラックスのベルトも締め終わった英太を、彼女はスツールに座ったまま頬杖、意味深な笑みで見ていた。
「ふうん。やっぱり海軍の制服は何度見ても格好良いわね。英太が英太じゃないみたい」
「うるさい。制服なんだから着るしかないだろう」
「それで、合コンに行っておいでよ。絶対にもてるわよ。英太、背が高しい体格良いし、なんたって『パイロット』──」
「制服で合コンなんかいけるか。最近は不謹慎と言われるんだぞ」
「へえ。真面目」
「それに、興味ない」
そこで華子が『そらきた』とばかりに、なにやら勝利を得たような嬉々とした笑顔を輝かせた。
「ハヅキサンを裏切れないんだ」
ハヅキサン──の一言で、英太はドッキリと固まった。
き、聞かれていた? やはり最後まで口にしていた?
しまった。またこの幼馴染みの手練手管にはめられた!
毎度の敗北感が英太の中で瞬時に広がっていった。
華子のロックオンにかかれば、大抵の男は撃ち落とされる。彼女は狙ったものは男に限らず、なんでも落とす。だが、この幼馴染みの男だけは、そう簡単にはひっかからない……と言いたいが、落とされないことのほうがたまにあるだけで、英太でもこうして散々に突き落とされることも、しょっちゅうだった。
「それじゃあ。合コンなんて行っても、つまんないわよねー」
「当たり前だろ。いつ俺が行きたいだなんて言ったんだよ」
「前は結構、行っていたじゃん」
「それ、俺が軍隊に入隊した頃だろ」
「ふーん、大人になったんだ。『ハヅキサン』の為なのかなあー」
いちいちその女の名を言うなと、英太は華子を睨んだ。
この幼馴染みにも、まだ知られたくなかった。
でも彼女はもうずうっと前から、英太が誰かに恋焦がれている事を知っていた。
だから、会えば『どんな人?』という探りを入れてくる。今までなら、英太の口は最後には軽くなってしまい、幼馴染みの華子には結局は報告をしてしまう。
だが、今回は違った。英太の口があまりにも堅い為、華子はかなり焦れていた。あの手この手で英太が今誰に夢中になってしまったのかと暴こうとする。
今回の恋は、絶対に口が裂けても白状したくなかった英太。
空のあの人に恋をしていると気が付いて、一年か。華子に気が付かれないよう良く耐えた方だと思う。
なのにこの日、ついに、幼馴染みの華子にはばれてしまったようだ。
しかしその『はづきさん』が誰であるかは、華子はまだ判らないだろう。
『はづきさん』が、実は英太の女ボスだとは夢にも思わないだろう。
しかしここで諦めるような華子ではない。
「やっと名前が判ったわ。そうなれば、どんなに英太が口を閉ざしても、こっちのもんよ」
だろうなと、英太も降参をしたくなってきた。
なにもかもを忘れてしまいたくなる男の行為の真っ最中、夢中になっているという弱点をついて、あんなに『名前を呼んで』としつこいぐらいに誘ってきたのも、これが目的だったのだろう。それが判っていて、かろうじて阻止したと思ったが、上手な彼女に結局思うままにされてしまったようだ。
ご機嫌な彼女は、やっとポーチの中からコンパクトをとりだし、鼻歌交じりに化粧を始める。
華奢な体つき、ゆるく波打つ長い髪。そして愛らしい顔。
彼女は昔から男好きのする顔を持つ女だと後ろ指さされながらも、それを武器にして逞しく生きていた。だからこそ彼女は何事にもシビアで徹底している。
今、鼻歌でご機嫌な様子だが、実はその頭の中、既に次の作戦へ移行する段取りに思い巡らせているに違いない。──『次ははづきさんが誰であるか』という正体暴きの作戦を、だ。
きっと華子の事、英太の周りの誰彼構わずに探りをいれまくって、英太の側にいる『はづきさん』を探し当てる事だろう。
時間の問題だ。だから英太は降参を決意した。
部屋の外観を整える為に取り敢えず置かれているような小さなソファー。
その背にかけてあるジャケットを手に取りながら、英太は言う。
「俺のボスだよ」
華子の鼻歌が止まった。
鏡に映っている彼女の目と合った。
彼女にしては珍しく、とても驚いている目。
その視線を逸らしてしまった英太は、大尉の肩章がついているグレーのジャケットを羽織った。
「ミセス准将、『葉月』さん」
恋する人の名は、御園葉月。
小笠原空部隊准将。元パイロット。
英太が所属する『フライト雷神2』の総監。
それが今、英太が恋焦がれている空の女性。
しかし、彼女は結婚をして夫も子供もいる。
──なによりも、十三歳も年上の女性だった。
だからだろう。華子の息遣いが止まった。
Update/2008.4.1