-- W×B【婿殿ライフ】 -- 

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16.プルメリアの渚で

 ジュールが教えてくれた義兄の孤独な情景。
 なのに、その情景を思い浮かべた葉月の脳裏には、義兄のあの部屋で葉月も笑って隣に座っているのが、自然と浮かんでしまったのだ。

(……お兄ちゃま!)

 葉月は彼がたべかけたチョコレートの箱を抱きしめた。

『お兄ちゃま、早く観てよ。私も観たいんだから!』
『だったら、お前、持って帰って先に観ても良いぞ』
『いや! お兄ちゃまが観てから貸してよ!』

 溜まっていたDVDを整理した日。
 純一は何故だ? と、葉月に首を傾げていた。
 だけど、葉月は拗ねた振りをして何故かは言わなかった。

 義兄より先に観ないのは、葉月が先に観てしまったら純一はそれで満足してしまうからだ。
 葉月が観たなら、俺はいつ観ても良い。酷ければ、もう観なくても良いかも。それで終わってしまうからだ。
 葉月が観られるようにするには、純一も観なくてはいけない。純一も観て、葉月も観て、それでその後、共通の話題が出来る。
 だからお兄ちゃまを置き去りにしない葉月の抵抗。

 だけれど、義兄はちっとも観終わってくれない。
 葉月もいつの話になるのだろうと、半ば諦めていたら……。
 『いつかお前ととっておきのシャンパンと、お前が大好きなチョコレートをお供にして、この映画を一緒に観ようじゃないか』──つまり、そういう想いを秘めて、いつまでも取っておいたのだと……。その想いを箱を抱きしめて、葉月はやっと知る。
 涙が溢れて止まらなくなる。
 この部屋で正解だった。
 こんな話を知って、こんなに熱く泣いてしまう姿など、決して誰にも見せてはいけない。事情を良く知ってくれている達也にもテッドにも。隼人にも、そして白い家で待っている子供達にお隣の泉美にだって……。
 ここだから、葉月は存分に涙を流して、チョコレートの箱を思い切り抱きしめた。

「ジュール、有難う……」

 彼に笑顔はなく、苦い表情で『いいえ』と、そっと首を振ってくれた。

「わたくし、貴女達義兄妹の間を見守ることはさせて頂きたいと思ってはおりますが、その間に入ってはいけないといつも思っています。……つまり、このように、貴女のお兄様がこんなふうになっているとかをお知らせすることとかです……。ですが今回は……。私は黒猫ボスの部下にはなりきれませんでした。長年、あの人と共にやってきた『ジュール』という男として、今回はどうしても、そのチョコレートを貴女に渡したくなりまして……」

 己の信条を破って、兄貴分の有様を伝えることをしてしまったと言うことらしい。

「伝えることで、貴女の心も揺さぶってしまうのではないかと考えました。でも……黙っていられませんでした。今日の私は、貴女のことなど考えていません。ただ兄貴が居たたまれなくなって、そのままの気持ちを代わりに持って突っ込んできた馬鹿な弟分です」

 そして彼が『お嬢様、お許し下さい』と頭を下げていた。
 葉月にとって、確かに心は揺さぶられてしまった。
 でも……と、葉月はジュールに向かう。

「いいえ。気に病まないでジュール。私、知らないより、ずっと良かったと思っている」
「そうですか」
「安心して。このチョコレート……貴方が食べてしまったことにしておくから」

 だからとてジュールはほっとした顔などしない。
 むしろ、今度は葉月の為に哀しい眼差しを見せてくれていた。

「ジュール……。私の独り言、聞いてくれる?」

 葉月は届けてもらったチョコレートの箱を抱きしめ、ジュールを見つめた。

「はい。なんなりと」

 そして彼はとても神妙な顔で、なにもかも分かっている目で葉月を真っ直ぐに見つめてくれている。
 いつもそう。家族になったこのお兄さんは、いつだって葉月の心を透明にして見守ってくれている。
 だから、彼の前で虚勢はいらない。そう思った途端に、涙がぼろぼろとこぼれ始めた。

「どうぞ、お嬢様。お義兄様にも、他の誰にも言いません。ここを出たら、私の中からも消してしまいましょう」

 葉月は『そうね』と笑って……。
 そしてまた瞳をつむり、涙をこぼす。
 その箱を力一杯に抱きしめて、目の前にいる透明なお兄さんにその想いを投げつけた。

「……今すぐ会って、お兄ちゃま有難うって言いたい!」

 目の前で、ジュールが無言で頷く相づちを。

「愛している。純兄様を……」

 ジュールの動かぬ瞳がそれを受け止めただけの……。

「お嬢様の気持ちも、確かに見届けました。では……私はこれで」

 ジュールもこれ以上はいられないのか、それとも割り切った部下に戻ったのか、さっと背を向けて出ていこうとしていた。

「ジュール!」

 葉月はその背を慌てて呼び止める。
 彼がそっと肩越しに目線だけ、振り返ってくれた。

「やっぱり。私から兄様の所に、会いに行くわ……今夜」

 彼は頷きもせずに、無言で出ていった。

 それをやってはいけないとも、やるべきとも言わずに──。

 葉月はたった一人残された無人の事務室で、ずうっとその箱を抱きしめていた。

「レイ……」

 なにもかもを知ってしまったリッキーが、心配そうに迎えに来ても、葉月はそこに立ちつくしていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 流石に呑みすぎたかもなあと、純一はソファーに横になる。
 開けている窓、雑木林の窓から初夏の夕風が、心地良く通り過ぎていく……。

 もう、そろそろいいか。
 そう思えてきた。やりたいことも堪能し、考えたいこと存分に噛みしめた。おそらく……だが。
 まだ、胸の何処かにひっかかりがあるのは否めないが、こればかりはどうしようもあるまい?
 こればかりは……。一生続くことなのだから。

 読書三昧になってくると、余計に物事を考えてしまいどうにもならなくなる。酒も飲み尽くした……。
 でも、まだこの部屋を出て、社会の風の中に立つ気力が戻ってこないのだ。

 そうしてまた、ただ無になって夕風に全てを任してみる。
 やがて、ちょっとした眠気が襲ってくる。
 このまま眠れば、次に目が覚めるのは夜中だろうか。そうしたら、ジュールが作り置きしてくれている夕食を食べて、また酒を呑んで……。
 でも、もう読書は疲れると純一は思う。DVDなら流れていく画像をただ眺めていれば済むこともあるが、読書だけは己の身体を使って文字を消化していかないことにはなにも浮かんでこない。読まないなら、することはない。酒も、もういい……。

 すると頭の中に、ちょっとした風景が浮かんできた。
 小笠原で通い始めた場所のいくつかが。そこにいる人間の顔が……。

 何故なのだろう?
 いつも義妹しか見えていないかと自分でも思うのに。
 今回のように、上手く距離を取って楽しく過ごしていたはずの義妹が近くなりすぎて、もうそれだけに囚われることしか俺にはないのかと思っていたのに……。
 ここに来て、義妹とはまったく関係のない人間の顔が浮かんできて、妙に懐かしく、会いたくなる、足を運びたくなるだなんて……。

 その訳が、純一にはまだ分からなかった……。分かる前に、本当にうとうととしてしまっていた。ドアのノックにも気が付かずに……。

『ボス、ボス。起きていますか?』
 寝ている。そっとしておいてくれ。
『ボス、お話があるのですよ』
 なんだ、手短に言え。

 言葉にはならず、そのまま目覚めたくない意識の中でただ純一は唸っていただけのよう……。
 そのうちに弟分のジュールの声が大きくなり、彼がドアを激しく叩いた。

『ボス! 私、今夜は本島に用事が出来たので、出かけますからね』
 なんだって?
『夕飯もありませんから、ご自分でなんとかしてくださいよ! 明日の夕方には帰ってきますから』
 そのまま、姉貴の所へ行けよ……。

 純一の下から一切離れようとしなかった律儀な弟分が、何故か一夜だけ出かけるという知らせに驚いて飛び起きたくなったが……。次の『明日には帰ってくる』という知らせを聞いて、純一の全ての意識がすとんと落ちた。なんだ帰ってくるなら、別にそのまま見送っても良いかと。

『では、行ってきますね』

 そのまま弟分の気配が遠のく。
 そして純一はそのまま眠りに落ちていったようだった。

 

 ……寝付きが良くない。
 やはり呑みすぎたのだろうか。
 眠りは浅い気がした。

 また、ドアからノックの音。
 おかしいな。ジュールは確か出かけるのではなかったのか。
 ……あれは、虚ろだった純一が見ていた夢だったのだろうか。

「純兄様、入るわよ」

 その声に驚いて、純一は起きあがった。
 あんなにだるくて、ひっついていた弟分が急に出かけるといって驚いても起きあがろうとせず、そのまま眠ってしまったのに。
 なのにその声ひとつで純一は起きあがっていた。

「兄様ったら……。どれだけ呑んだの? もういい加減にして」

 もう暗くなったと思っていたのに、外はまだ明るかった。
 それほど眠っていなかったようだ。

 顔をあげると、やはりそこには栗毛の義妹が立っていた。
 しっとりとした暮れなずむ黄金色の部屋に、彼女もしっとりと立っている。
 いつもの栗毛がハチミツ色に輝いていた。

「葉月、お前……」

 どうやって入った? と、聞こうとしたがなんだか上手く言葉がでてこなかった。
 そのうちに微笑んでいる義妹が、まだソファーに座ったままの純一の傍に座った。

「お兄ちゃま、こっち、向いて」

 彼女の指先が、しんなりと純一の顎に触れた。
 いつもひんやりとしている、義妹独特の感触がする指先が……。爪はきちんと切られていて、決して伸ばすことがないのは元パイロットだからか。そして彼女の爪先が女性らしく彩られることは滅多にない。それでも、その指先に純一はいつだって……。

 彼女が大人になってから薫るようになった匂いを、その指先から微かに漂わせながら、ふわりと純一に触れている。
 この指に、幾度も愛でられたし、逆に純一自身が彼女のそれを激しく奪って自分のものにしていた時も……。

 そして純一はハッとさせられる。
 彼女の指先にうっとりとさせられた隙に、『いつもの場所』に彼女の柔らかい唇が触れていたのだ。

「や、やめろ……」

 そう言いながらも、以前がそうだったように、女性になる義妹を拒むことが出来るはずもなく、ただ純一は唇の端に遠慮がちに押されている口づけを受け入れていた。
 そして、これもいつものように……。義妹はそこから絶対に先を求めない。
 以前はこの義兄の妻となるはずだった姉のことを気にしていただろうが、今は……何を思って?
 まだその気持ちがあるなら、もう、ここまで。純一の心は強く強くそう言い聞かせているのに、身体は絶対に動かない。もし、動いてしまうのなら、今度は純一がその先を求めてしまいそうだ。
 この夕暮れの、涼風が入っていくる居心地の良い自室。白いソファー、目の前には大きなベッドだってある。このまま義妹を力ずくでいいなりにさせることなど、いとも簡単にやってのけてしまいそうだ。

 唇の端から熱くなってくる、甘い痺れ。
 純一はやっとの思いで、顎に触れている義妹の指五本を一握りにして顔を背ける。
 そして彼女の唇も、やっと離れてくれた。

「もう、いい」

 それでも握りしめている指先に、今度は純一が口づけていた。
 僅かな愛情表現でも、純一にとってはもう既に、義妹を裸で抱きしめているのも同然の熱さが身体中を駆けめぐっている。

「……兄様……私にはこれが……せい……いっぱ……」

 どうしてか義妹の声が、途切れ途切れに聞こえる。
 まるで電波が届かなくなる寸前の、画像のように。

 なんだか不思議な光景に思った。
 だが、次に見た義妹は、またにこりと愛らしい微笑みを浮かべ、そこに立っていた。

「兄様、いきましょう」

 どこへいくのだ?
 自分を見下ろしている義妹の微笑みはとても満足そうで、そして純一が問う前に彼女は何を思ったのか、軽やかに駆け出してこの部屋を出て行ってしまった。

 純一はちょっとした男心でベッドを眺め、どこかほっとし、どこかがっかりとさせられ……。

「お兄ちゃま、何しているの? 早く、こっち!!」

 義妹の声が強く純一を呼ぶ。
 純一は、ついにこの部屋を出ることになってしまったかと、まだどこか踏ん切りがつかない重い身体と心を引きずるようにして立ち上がる。
 ……だが、義妹が来ただけで、その部屋を出てしまう自分に笑っていた。

 ついに籠もっていた部屋を飛び出し、純一はリビングへと続く廊下の向こうから聞こえる義妹の笑い声を追う。

「なにしているの、お兄ちゃま。早く!」

 リビングに辿り着いて、純一は目を見張った。
 おかしい。夕方だったのに、どうしてかリビングは真昼と言っても良い程の燦々とした太陽の光に包まれている。

「お兄ちゃま、一緒に来てね」

 葉月、お前、何処に行くのだ?
 まただ。問う前に、義妹は煌めく太陽の光が零れるテラスへと駆けていく。

 しかも驚いたことに、葉月はテラスの窓枠に足をかけ、そこにスッと立ち上がったのだ。
 ──危ないだろう!? なんのつもりなんだ!
 純一のその叫びすらも、どうしてか声が出ず、義妹には届かない。
 そのうちに、葉月はすっと長い腕を空へと伸ばし、身体を曲げたかと思うと、それこそプールサイドから飛び込むような姿勢で飛び降りてしまったのだ。

 あっと、純一が固まった時には、もう、義妹の姿はない。
 驚いて駆け寄ったのだが、不思議なことが起きていた。
 葉月が飛び降りた窓から、沢山の水しぶきが飛び散り、純一の黒髪や頬、そして着ている白いシャツを濡らしたのだ。

 それが、何故? と純一はなにがなんだか分からずに、窓辺の外を見ると、そこはどうしたことか丘ではなく、一面の蒼い海が広がっていた……。

「お兄ちゃま、ここよ! はやく──!!」

 ダイブした葉月が海面に姿を現している。
 真っ白な太陽の光の下、煌めく珊瑚礁の明るい蒼色の海に包まれている義妹の笑顔。それが遠目でもすごく輝いて見えた。
 そういえば、彼女が着ているのはAラインの水着、水色の水着を着ていた? あの葉月が水着?

「もう、しらないから。私、先に行っちゃうからね」

 呆れ声が小波が立つ海から聞こえてくる。葉月はそのまま、クロールをしながらしなやかに泳いで遠ざかっていく。
 彼女が泳ぎ進むその向こうには、白浜がある……。
 どうやらそこに、純一を誘っているようだった。

 不思議に突っ立っていた純一だったが……。
 やがて、それが不自然な光景とわかりつつも、なんだかすうっと自然に感じていた。

 次の瞬間、純一は先ほど義妹が飛び出していた窓枠に足をかけ、自分もそこに立っていた。
 あまり好きではなかった真っ白い太陽の光の中、そして光を反射するばかりの海が純一の目の前にある。それを一時見渡し、もう迷わずに、純一もその海に飛び込んでいた。

 冷たい水。だけれど明るい海中。
 泳いでも泳いでも、どこまでも遠浅の海。
 太陽の光が、蒼い万華鏡の模様のように水の中をくるくると回っている中、純一も存分に泳いだ。

 あるところで、純一も海面に顔を出してみる。
 葉月の姿はもう、海の中ではなく、白い砂浜にあった。
 まるで中州のような白い小さな渚。そこを葉月が歩いている。
 葉月が立っているその向こうも、蒼い海が広がり、白い雲が浮かぶ青い空が何処までも続いている。
 中州の砂浜、細長い白い道を、水色の水着姿でゆっくりと歩いている。

 純一もその小さな渚にあがる。
 そしてずぶ濡れのまま、義妹の背を追いかけた。

 後ろに手を組んで、軽やかに歩いている義妹。
 顔は見えないが、その歩き方を見せている背だけで、彼女が楽しんでいることが純一には分かる。
 急いで歩けば、いつも直ぐに葉月の背に追いつく。
 だけれど、こんなに先に行かれ追いかけたのは初めてじゃないかと、純一は可笑しく思いながら一人で笑っていた。

 青いだけの、海と空しか見えない夢のような青い世界。
 そこに水色の彼女と二人きり。
 純一はついに義妹の背に追いついた。

「葉月、捕まえたぞ」
「おにいちゃま」

 その白い背中を、存分に抱きしめた。
 濡れそぼつ栗毛に純一は頬を寄せる。潮の匂いもしたが、どこか清々しい義妹の匂いもちゃんとある。

 そして振り向いた葉月の茶色い瞳は、もう……純一を真っ直ぐに見つめて泣いたように濡れている。
 直ぐ目の前にしっとりと潮に濡れた葉月。その義妹と向かい合った。微笑みが消え、葉月はどこか思い詰めたような眼差しで、ただただ純一を見つめている。
 いつもの眼差し。純一を直ぐにその気にさせてしまう眼差し。そしてそれは彼女と愛し合うようになったその昔からずうっと変わらない、純一がずっと独り占めにして見つめ続けてきたもの。

「純、兄様……」

 そのしっとりとしている水辺の姿で、やさしく義妹に抱きつかれていた。
 純一もぐっしょりに濡れているが、それでも義妹の濡れた身体に腕に指先が触れると、最初はとてもひんやりとする。
 だが、やがて暖かく馴染んでくる。義妹の身体とはいつもそんなふうに触れあい、抱き合い、愛し合ってきた。

「葉月」

 どうしてこのような不思議な世界にいるのかも……。
 どうして二人きりでいるのかも……。
 どうして義妹が昔のように求めてくれるのかも……。

 あらゆる疑問が片隅で疼いているのだが、もう、純一はあまり深くは考えていなかった。

 そのまま、濡れた瞳で見つめている義妹の頬を包んで純一は目を閉じた。
 彼女の唇からも、甘い吐息が既に漏れたのが聞こえた。
 それを彼女の身体の中に戻すように、純一はベビーピンクの唇を塞いだ。

 純一に抱きついている葉月の腕の力がより一層強くなり、ぎゅうっと純一に掴まってくる。
 うっすらと目を開けて義妹の顔を確かめると、もう泣きそうな顔になっている。
 頬を染めて、唇からさらなる甘い声を漏らして、そして白い肌が純一にぴったりと密着していた。

 ……二人きり。
 南国の遠い世界の中で。

 純一は青い空の下、誰もいない二人だけの海の世界の中、もう躊躇わずに葉月が着ている水着を肩から脱がせる。
 丸い肩を滑らせ、彼女の長い腕を抜こうと急いでいる内に、彼女の愛らしい乳房がぷるんと震えながら姿を現した。
 ……その時、純一はふと思う。左肩の……いつもの……傷が……『ない』?
 しかし、素肌になった葉月にさらに抱きつかれ、そんなこともどうでも良くなる。

 綺麗な身体だった。
 相変わらず、純一にとっては……。
 何度も愛してきた肌、乳房、唇、瞳。
 そのひとつひとつに純一はゆっくりと口づけながら、葉月が着ていた水色の水着を白い足から抜いた。
 いつのまにか葉月にも白いシャツを脱がされ、そして黒いスラックスのボタンとホックも外され、最後は純一自身で脱ぎ捨てる。

 白い砂浜の波打ち際。
 波が触れるか触れないかという砂の上に二人で寝転がった。
 当然、身体は砂まみれになる。
 それでも、二人の腕は固く絡まり、ほどかれることはなく、お互いの身体を繋ぎ止めるように互いに放すまいと抱きしめている。

 純一の唇も、激しく止まらなかった。
 義妹の身体の隅々まで口づける。その度に、彼女は甘い声を聞かせてくれた。
 潮が染みこんでいる砂の上はひんやりとしていてる。二人は燃える交わりの中、それを心地良く感じているのか、そこから決して動かなかった。

 でも……どれだけの時間が経ったのか。
 長く経ったのか、短い間だったのか、それも分からない内に、抱き合っている二人に満ちてきた潮が被り始めた。
 それでも、二人は愛し合うことをやめなかった。
 空が青いままだって、空が暮れたって、潮が引いても満ちても、きっとこの心地良い場所で思うままに抱きしめ合って愛し合うことを止めないだろう……。純一はそんなことを確信していた。
 だから、そのまま暮れた空の中、二人は満ちた潮の中に抱き合ったまま一緒に身を委ねる。
 やがてその潮にすっぽりと包まれ、愛し合う二人はふわりと海の中へと浮かび始める。
 沖に流されても、海中に沈んでしまっても、二人は重なり合ったまま離れることはない。抱き合ったまま純一は義妹の白い身体をいつまでも愛撫し、義妹はいつまでも義兄をやさしく包み込むように抱きしめ、その指先で肌を愛でてくれ、二人は滅多にない口づけを何度も交わしていた。

 また、万華鏡のような光がくるりと回る海の中。そこで二人はイルカが寄り添って泳ぐようにどこまでも流れていった。

 それでもやがて、終わりというものがやってくるのだろうか……。
 いつしか二人は夕暮れた渚に打ち上げられていた。
 波打ち際で、まるで人魚のように座って夕焼けを見つめている義妹の白い背が目の前にある。
 どこから流れてきたのか、彼女のつま先が触れている水辺には、沢山のプルメリアの花がうち寄せられている。
 それをひとつ手に取った葉月が、すうっとそれを耳元にかんざしのようにさした……。
 そんなもの悲しそうな後ろ姿。

 ──もう、終わりね。

 純一には義妹の背が、そう言っているよう見えてしまった。
 勿論、純一も胸が詰まり……。その義妹を直ぐに抱き寄せようと傍に寄る。そして、その背に抱きついて言う。

「俺は……どこにも……い……か……ない……」

 まただ。声が上手く出ない。
 それでも純一は葉月の背を力一杯抱きしめ、彼女を安心させようとした。

 いつもそう、言葉が少ないから、よけいに不安にさせているのだと。
 いつも言えなくても、たまにでも。そうだ、今がそれなんだ。それを伝えなくては……! 純一はそんな想い一つで葉月を力一杯に抱きしめ……。

 

「……!」

 

 目の前でぱちんと手を打ったような音、そんな衝撃があった。
 純一がはっと目を見開くと、そこは……暗がりの自分の部屋。

 いつもの雑木林の奥から聞こえてくる蛙の声。
 夜鳥のやわらかい鳴き声……。
 風の音、梢の音、そして遠いさざ波の音。
 いつも自分を取り囲んでいる日常の音が、純一を包み込んでいた。

 ……やっと気が付いた。
 また楽園の夢を見ていたのだと。

 溜息をついて、今度こそ純一はソファーから起きあがった。
 額に手をついて、純一は笑いながらうなだれた。
 可笑しいも、哀しいも、切ないも、恋しいも、悦びも……なにもかも通り越していた。

「もう、いいか」

 行き着くところまで突き抜けた気がし、今度の純一は清々しいままにソファーを立ち上がった。
 そして今度は自分自身で部屋を出る。

「ジュール、いるのか!?」

 リビングに向かいながら叫んだ。
 なにもかも都合の良い夢だったのだ。
 やっぱり弟分が葉月を誘い込む為に留守にするなんて有り得ないと笑いながら、純一はリビングに入った。

 灯りがついているところを見ると、やはりジュールはいると思った。

「おい、ジュール」

 時計を見ると二十一時を回っていた。
 それなら一息ついて、泊めているゲストルームで休んでいるのかと思った。
 まあ、とりあえず。きっと何かが作ってあるだろうから、腹ごしらえ……とキッチンへと向かう。

 シンクの調理台の上に、何かが用意されていた。
 そしてコンロの上には鍋もある。
 何かが用意されていて、気分がすっきりしている純一は上機嫌で近寄った。

 しかし、どうも……。その出来上がっている物の雰囲気が、いつもと違う気がした。
 弟分がこしらえた雰囲気ではない。そう、思った。
 そして純一は見つけた。和え物の小鉢や、鍋の物をよそう為の小皿まで丁寧に準備されているその横に、一枚の花柄の便せんがあった。
 それを手にとって、純一は驚く。

『ジュールが留守にすると聞いたので、今晩はお夕食を作らせてもらえるよう彼に入れてもらいました。飲みすぎ、気をつけてください。胃に優しいものを作ったから、もう、呑まないでね。土曜日、待っています。また、連絡します』

 葉月の字だった。
 では、やはり……? ジュールが出かけると言っていたのは、『本当』? そして葉月が純一の部屋にやってきたのも、『夢じゃない』?

 便せんの最後には、小さく一行、追伸もあった。

『PS. 鏡を見てください』

 ……まさか!

 閃いた純一は、唇の端をそっと指で拭ってみた。
 その指先を見ると、案の定……! 指先が真っ赤に染まった。
 紅い口紅──?

 慌てて洗面台まで行き、鏡を見に行く。
 予想は当たっていたが、その顔を見て純一は益々驚いた。
 義妹がいつも遠慮がちに口づけてくれていたその位置に、真っ赤な口紅のキスマークが残っていたからだ。

「あ、あいつ……!」

 なんだか無性に……『やられた』気持ちになる。
 では、本当に『あそこまでは』夢ではなかったのかと、純一は気が付いた。

『でも、兄様。私にはこれが、精一杯』

 あそこまでは『現実』で、それ以降は『夢』だったのだと。
 暫し、純一はそのキスマークに触れたまま、自分の顔を眺め茫然としていた。
 しかし……。やがてこれまた可笑しくなって、大笑いをしながら純一はリビングに戻る。

 そしてそのキスマークを残したまま、純一はやっと電源を落としていた携帯電話を手に取った。
 電源を入れたのは、ファミリー用。そこからあるところに真っ先に連絡をしてみた。

『おう、なんだ。久しぶりだな。最近、お前がいない〜みたいなことをロイが言っていたぞ』
「ああ。オフィスを閉めて、だらだら休んでいただけだ」
『いいなあ、フリーの社長さんは。俺は明日も花屋でアルバイト、それに園芸学校だぜ』

 連絡をしたのは鎌倉の右京だった。

『蘭子から聞いたぜ。あんまり力になれなくて……』
「何言っているんだ。必要となれば存分に頼るから、これからも頼むぞ。そうそう……早速だが、お前じゃなくちゃ頼めないことがあって」

 そういうと、電話の向こうの右京はすっかりその気に……。『何でも言ってくれ』といった快い返事をしてくれる。

「……欲しい花がある」

 その花の名を言うと、右京はやや驚き『相変わらず無茶を言う』とぼやきはしたが、引き受けてくれた。

 電話を切った後、純一はまたキッチンに戻って、義妹がこしらえてくれた夕食を食べる準備をする。
 鍋を開けると、鶏肉の美味い匂いが漂う『中華粥』だった。
 それを取り皿によそい、純一は一人きりで味わう。

「うん。美味い」

 純一の心はじんわりと潤い、そしてずうっと義妹に抱きしめられているかのように、ひっそりと微笑むことが出来ていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 遅い夕食を軽く済ませた後。
 純一は身なりを整え、出かける準備をする。
 遅い時間だったがタクシーを呼び寄せ、数日ぶりにやっと外に出た。

 小笠原は今夜も満天の星。
 まだ夜の風は涼やかで、心地良い。
 ここは純一が選んだ楽園だ。
 それを眺めながら、タクシーは純一が頼んだ場所へと走っていく。

 行き着いたのは『漁港』──。

 

「よう、将さん。ご無沙汰」
「おう! 純さんじゃないか」

 

 漁港の片隅で相変わらずそこにいる屋台──『なぎ』。
 純一はここに来たのだった。

「冷や、一杯」
「あいよ」

 今日は空いているようだが、この屋台の外に作られているテーブル席には、年輩の漁師が数名、いつものように酒を楽しんでいた。

「おう! 社長じゃないか。暫く、見なかったな」

 それでも顔なじみばかり。
 純一も笑顔をみせ、手を振った。

「そうなんですよ。仕事を休んで、休暇を取っていたのですよ」
「そうかい! この前の釣り、大漁だったんだぜ」
「また、誘ってください」

 そういうと、漁師達はまた賑やかになり、『また行こうな』と言ってくれる。
 だが……。手元にコップ酒が出てきたが、それを出してくれた主人の顔は割と真顔だった。

「なんかあったの」
「どうしてだよ、将さん」
「そんな感じがしていたもんで」

 なかなかの人だと、純一はやや気構えてしまった。
 しかし、その酒をすすりながら、純一は言ってしまっていた。

「……義妹とちょっと」
「そうなんだ」

 そして将は、煙草をくわえ火を点けると黙り込んでしまった。

「でも、純さん。もう大丈夫そうだな」
「お陰様で。これに関してはもう、慣れっこというかな」
「わかる、わかる。でも、その度に同じ事を繰り返して、同じ回り道してしまうんだよな〜」
「わかる、わかる。あれ、なんで同じ事を繰り返してしまうんだろうなあ〜」

 もう辛いから……。愛しい女の傍にはいられない。
 でも、彼女がいないことなど、なんの意味があるのだろう。
 遠くに置いてみても、結局、傍に引き寄せている自分達の繰り返しを、純一は『なぎ』の主人と笑い合っていた。

 満天の星の下、男達は笑い合う。
 純一は……。ここは、やはり俺が選んだ場所だと思った。

 

 

 

Update/2007.7.27

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